ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
いつも興味深い動画をありがとうございます。私が大学生の時に講義を受けた高齢の先生が大文字楼の息子さんでした。もちろん講義でその話が出たわけではなく、たまたま父の蔵書にあった先生の著書で知りました。家業に反抗して勘当になったとか…売られてきた少女が遊女になる前に幼い先生の子守をしていたそうで、後年遊女となった彼女の写真を見て、思わず名前を叫んでしまったと、本にありました。
大文字楼……跡地は今、吉原公園になっています。なんとも切なく悲しく、そして驚きの話ですね。貴重なエピソードありがとうございます
貴重な話をありがとうございます!
@@natsui643 そんな所に生まれたのが純粋な人で家出するとは…。 切ないな。
@@time3276 周辺を興味深く歩いて休憩した公園。ソープ街にある公園なのに女性が静かに読書したり、バドミントンに興じる子どもがいて不思議な空間でした。
体系だってご紹介いただき有難うございます。カラーにすると臨場感すごいですね…。すごいです。思い出しました。ご興味のある方がおられるかもしれませんので、昔聞いた話を、忘れないうちに書かせていただきます。吉原の花魁の話です。(長くなるので、興味のない方はスルーなさってください。すみません。)もう三十年くらい前になりますか、浅草仲見世の御隠居さんからお話を伺ったことがあります。当時もう八十歳を超えておられたので、いま御健在ならゆうに百十歳超え…の世代の方です。その方は、そのまたおばあさんの膝枕で、黒船の話を聞いたそうです。世間は大騒ぎで、見に行く人もいて。そして、その方は子供の頃、花魁を実際に見たそうです。動画に出てくるような格の高い遊女は至れり尽くせりの生活で、立派な姿をしていますが、末端の女郎の生活は厳しいもので、出かけるにも、遣手婆と呼ばれた見張りのおばあさんがつきっきりで、遊女の腰に縄を結わえて、犬のリードみたいに手に持って、紅を買いに行っていたそうです。うつむいて、疲れ切った姿でふらふらと、はだけたヨレヨレの着物で、それでも嬉しそうに紅を選んでいたそうです。「女の私たちは、気の毒でたまらないけど、男の人は、見るところが違うのね」とおっしゃっていました。そして、大きな大きな髷を結っているそうです。これは、お飾りだけでなく、「逃亡防止」のためだそうです。「逃げてもどこにいるかすぐわかるように」大きく結います。(ちょうど動画の8:00~みたいな髷のイメージです。)またこれは京都の島原で伺った話ですが、今はもう、そのサイズの髷を結える木櫛が生産されておらず、結える髪結いさんもいないのですが、髷の幅が片方だけで50㎝以上あったそうです。そして、その御隠居さんは商家の末っ子で、お父さんは吉原のお客さんでした。店が立て込んで忙しい時、それでも気晴らしに遊びに行きたい時は、わざと末っ子(園児くらい)を連れて遊郭に行くそうです。そうすると、ちびっ子を連れて散歩かな?という感じで周囲にカモフラージュになるので、わざとそうするそうです。幼児連れの遊郭なんて、教育上心配になりますが、誰にも会わないそうです。戦災で焼けてしまいましたが、戦前の遊郭や向島はからくり屋敷みたいになっていて、壁がくるんと回ったりして、人に知られずに移動することができます。マスコミ等に追われても、わからない秘密の出口からこっそり出れます。プライバシー完備です。「祇園でのスクープが多いのは、そういう仕組みがないからよ」「あんなドテーンと建てたら、そりゃスクープされるわね」「江戸の粋筋(遊郭)はね、客には、そういう恥はかかせないものよ」。客の連れてきた子供は、体の空いている花魁が遊んでくれます、店もわかってます。お部屋に、良い香りのお香が漂い、子供でもうっとりするような優しいおっとりとした風情のお姉さんが、お手玉やら何やら、遊んでくれるそうです。子供用の遊び道具も揃っているそうです。それだけでなく、色んな世代に対応できる遊びの品が揃っていたそうです。もともと、田舎の子が身売りしてきているので、子供の相手は根が純朴な花魁たちにとっても楽しかったようです。「ちょっと、このお姉さんと遊んでおいで。お父さんは用事があるから」と父はいつの間にか姿を消すそうです。そして、しばらくして、いつの間にか、ぱっと目の前に現れて「さあ、家に帰ろうか。お姉さんに、御礼をいいなさい。」「はい!お姉さん有難う!」またねー、と花魁に挨拶して、(お父さんどこから部屋に入ってきたんだろう…?)と思いながら帰るそうです。まさか、幼児が花魁とわかっているわけはないのですが、花魁のうしろにお琴が立てかけてあったのを、今も覚えている、とおっしゃっていました。そして、お父さんは、亡くなるまで一度も、“あの遊んだ場所が遊郭であのお姉さんは花魁だ”などと娘に打ち明けたりせず、むしろ生前その件には一切触れなかったそうですが、御隠居さんは大人になるにつれて、父にいわれなくとも、もしかして……と、自然に段々と「悟った」そうです。「あれは、遊郭ね。遊郭よ。」くるわ(廓)と呼ぶ地域もありますが。あと、遊里の仕組みとして、身売りしてきた子は、売られてきた段階で、すぐに種別分けされ、画像のような高級花魁にする子は、ハイソな上客の相手が出来るように、一切店には出さず、まずみっちり諸芸百般を仕込むそうです。(下のランクと判断された子は、すぐ店に出されます)どんな方が高級花魁になれるのですか?と訊いてみたのですが、切れ長の目をした足首の締まった子など、明確な選定基準があり、見るからに見分けられるそうです。ただ、高級花魁でも、もし身請けされたとしても、30代くらいに亡くなることが多かったそうです。やはりストレスもあり、若死にの原因については、「まず、日に当たらないからね。ずっと屋内にいるから…」「人間は体の一部をあまり使うようにはなってないのね」とおっしゃってました。ただ、吉原に限らず、戦前、昭和10年すぎにも、飢饉の度に地方から娘さん(~中年も)が売られてきたので、実はそう遠い話ではありません。女性が働くところが、お金を作れるところが、当時他になかったのです。前借を必死で働いて返して、見事故郷の家族の所に帰った、いわば当時なりのキャリア系意識を持ったタイプもおられたようで、今思うほど、悲壮という感じでもなく、「生活のために稼ぐ」と割り切って勤めた女性も多かったということでした。。長々と失礼しました。
貴重なお話ありがとうございました!
@@仏師-m1j 読んでいただいて有難うございました。
あと、高級花魁とその他は始めからコースが違い、全く別の存在で、のちに入れ替わることはありません。養成期間があってこその高級花魁なので、妓楼がかけてる元手が全く違います。あとからはなれないのです。あとで元が取れるから多額の教育費もかけます。だからこそ上客が納得し、高額で店出しできます。(わずかに例外はありましたが、吉原の花魁制度が斜陽になってからでした。)高級花魁の選抜基準について、適性の話ですが、「切れ長の目」「砂に水が沁み込むように」スーッと覚える(何でも)タイプ、というのを何度かおっしゃっていました。砂に水が沁み込む…明治の方なので、なかなか含蓄の深い表現ですが、多分、本能的に抵抗なく何でも物覚えが良く、かつ素直で自然に受け身でいられる、、ような感じの気質をさすようでした。有名花魁になってからは、贔屓の上客に対して「情が深い」というのも大切なポイントになるそうです。。
貴重なお話ですね勉強になりました、ありがとうございます
UP主さんの動画及び丁寧な解説ありがとうございます。昭和33年の売春防止法施行前の議論の時、国会に反対意見をもって押し掛けたのは吉原の花魁の方々と言うことはあまり知られていません。彼女たち曰く「私たちは体張って仕事している。それを泥棒や人殺しと同じ犯罪者にするのは反対」でした。なので売春防止法は管理売春を違法とするようになった。
切ない…
BGMもあいまって、胸が苦しくなるような映像だなあ。
素晴らしい作品をありがとうございます、感動しました。
日本の中で、格式が高いとされたのは吉原遊郭です。今では考えられないですが、売春が合法だった時代のあの頃、遊郭は日本中にどこにでも、たくさんあり、吉原だけは余りにも有名なので、今の若い人では売春宿は吉原しかないと思っている人も多いですよね。吉原も厳しい世界だったと思いますが、性奴隷に匹敵する遊郭が日本中のあちこちにあり、見受けなどとは程遠い扱いを受けた遊女や、震災や戦争の被災者として、供養されることもない遊女、天麩羅どころか食事もままならない扱いを受けて供養されることもなく散っていった吉原以外の事実もいたことを、お忘れなきよう。
仰る通りと存じます。昔、仕事で北海道開拓時代の文献を読んだ際に知ったのは、昭和51年建立の「薄野娼妓並びに水子哀悼碑」。明治時代に開拓労務者の"足止め策"として置かれた遊郭(最盛期には350名以上の遊女がいた模様)、その歴史と壮絶な実態に戦慄した事は忘れられない記憶です。遊女も開拓労務者も、地方から騙されて連れてこられた者が多かったとの事。
貴重な映像をありがとうございます。見返り柳が今も存在していると知り驚きました。
どの時代の男も女を買いますからね。何なら戦に負けたら女は悲惨でしたもんね。それは国籍問わず。ホントにいつの時代も女性は暴力に勝てませんよね。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 💙🗾
悲しい歴史の一コマ。貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした。
遊女にとっては生き地獄。情緒を感じることは仕方ないとはいえ、唯々悲しい歴史。
本当に生き地獄だったと思います。何の罪もないのに親の借金のかたに売られて・・・。いつの時代も弱い者にしわ寄せが来るんですね。本当に悲しい歴史ですね。
親が借金せずに居たら食うに食えず一家で餓死だったろうしどっちにしろ地獄だったろうね。
人身バイバイですねー。今も気持ち悪い利権が残ってますね。高級ソープとか。
@@100pureacidch3 高級ソープとかってヤクザがらみ?
昔の売春街は心底ブルーになるし、男だが風俗は寒気がする。自分には合わない。
1909年の大門が紹介されていますが、この年の9月、はじめて吉原に行った志賀直哉は、格式が高いとされた角海老楼に登楼、峯という娼妓と知り合い、以後峯が1911年2月に廃業するまで一年半、頻繁に峯のもとに通っています。峯をモデルに、男女の駆け引きを描いた「彼と六つ上の女」が書かれるように、志賀は、娼妓峯との経験を通して、性や女性の問題を掘り下げていきますから、角海老楼は志賀文学の進展を促した場所だったかもしれません。
木造建築の意匠を凝らした遊郭、お茶屋の数々も関東大震災、東京大空襲で消滅し、今では見る影も無い。当時の建築の内、かろうじて残ってるのが天ぷら屋と馬肉屋というのも複雑な思い。土手の伊勢屋は数年前に伺いましたがボリュームたっぷりの美味い天丼でした。ただこの界隈は便が悪いんですよね。最寄りの地下鉄駅から結構歩かされます。元遊郭だった所にあるマンションとか、歴史を知ってる人は住み難いでしょうね。。
角海老は明治からすでにあったんですねえ。今もボクシングジムやソープランドを経営してますね。
まだ若い娘が誰彼となく好きに性行為を強要されるなんて、恐ろしいことだわ。売春っていうのは。そうならないように、無理矢理解雇して路頭に迷わないような徹底した法規を守って欲しいわ。仕事がないから路頭に迷いこういう世界に足を入れるということが往々にしてあるよ。
吉原には人の闇がある様な、そんな気がします。今でこそ闇の存在は薄くなりつつありますが、今も尚語り継がれる悲劇の数々。遊女にとっては忘れたい記憶、トラウマになったことでしょう。メンタルヘルスという次元が無かった時代、今に生まれてきたことを幸せに感じます。
胸を張って誇れる文化ではない。かと言ってシャカリキになって隠すモノでもない。『江戸時代から名もなき人々の営みがここに続く』吉原とはそんな場所なのだろうと思います。
心中箱が有名ですよね。江戸時代の遊里はお客さんにまた来てもらう為に、自分の爪や髪を切ってプレゼントしてあげた箱を「心を中に入れた箱」心中箱と呼ばれてました。1700年代になると、深川に非認可の安い芸者の見世ができて(この店のミセも中をみせるの意味で見世といわれていました。仲見世通りはその女性の中をみせる意味で発展したことばです)競争が激化してしまい、女性らも29を過ぎると人気が落ちていって先の道がなくなり、指を切ってプレゼントしたりしていました。それが心中箱の発展型です。当時のゆびきりげんまんウソついたら針千本~という歌は遊里が着服したりすると、大家に拷問されたりしたのでその当時の歌だったのです。怖い歌ですよね。1780年あたりから、洒落本などにも記録されていますが、指ではお客を確保できなくなったので、一緒に気に入った男性と逃げて山で一緒にベルトで締めて、自殺したんです。これがのちの意味が変質していった「心中」になったんですよね。最後の時代はあの太宰治が同じことをやっていますが、日本古来の一緒に死ぬとあの世で結婚できるという古今和歌集などの思想が残存していた証拠です。今は心中は自殺ですが、この言葉は遊里語でした。広島大学の真下三郎先生が女性語の研究を長くされていて記録がたくさん残っています。そうざんす。そうですよ。などのまず間違いない遊里語で、のちの標準語になっていきます。1840年にはさらに安い飯盛り女の茶屋があちこりにできて、お団子食べて中にどうぞという呼び込みで、お相手をしていました。幕府も目をつぶっていたという記録があります。梅毒は「女は梅毒にかかってこそ真の女」という言葉され当時の本に記録されています。私も大学院時代よくこの女性語の研究を一部しましたが、当時の社会も垣間見えてきます。明治になって初めて「いかがわしい」という視線ができて、「人権」という漢字語も出てきて、女性を解放させますが、彼女自身なれなくて自ら戻ってくるほどでした。大家でいじめられたり、殺される女性も多かったと言われています。遊里は高級で高価だったと言われています。このユウリも世界共通の女性の名前で、ユーリア、ユリー、ジュリエッテ、ジュリエット、ユーリア、韓国にもユリが存在します。意味深いですよね。映像が大変印象深いです。
天ぷら屋の隣の馬肉屋ですが、遠方から馬で来た吉原の客がそこで馬を売ったそうです。そしてそのお金で吉原に遊びに行ったとか。
帰りはどうするんだろう
馬が可哀想。
勿論‼️歩き。😄
馬肉屋なんてよくやるわ想像したら馬が泣いてる
馬可哀想ー
写真に色が入るだけで見てる側もグッと引き込まれてしまう。華やかに思える遊郭で春を売る女達の悲しさを思うと胸が痛む。
いわゆるソープランドは新設が禁止されている。改装は許されているらしいけど、いつかは朽ち果て人々の記憶からも消えてゆくだろう。でも苦界で生きた女性がいたことは忘れてはいけないと思う。
100年くらいでこんなに変わるのか
大変に深く考えさせられました。苦難に生きた女性達の御霊が、永遠に安らか成らんことを祈ります。
人身売買や自由の制限など無しに成り立たないので負の側面はもちろん忘れてはいけないけど、吉原にいた人達は皆とは言わずとも誇りを持って生きてた人も多いはずだし文化の発信地の一つでもあったわけだし、すべてを可哀想可哀想で塗りつぶしてしまうことはかえって可哀想だと思う
現在との比較、歴史的解説、いいですね。有難うございます💛昔、おじいさんが昭和初期に花魁道中を見たって言っていたので、いつの時代の人間?!と驚いたものです。戦時中も大門の外に出られない遊女が逃げ遅れ、たくさん焼死したそうです。
荒木経惟さんで最も好きなのが町内の世話役に先導されて吉原を往く子供みこしの写真でお店の前で見ているボイさんとおねえさんがいい感じなの
若いうちは太夫と持て囃されても年には勝てず、鉛焼の顔、遣りて婆あ に為り果て最後は菰に巻かれて浄閑寺の穴に投げ込まれる。法然上人は救いを求めた遊女に「そのまま生きよ、そしてただ一心に阿弥陀如来に救いを求めよ」と諭した。私も信じたい、阿弥陀如来様は 彼女達をあの世で極楽浄土に導いたと信じたい。この様な苦界に生きた女性、女との一夜を求めた男達、神仏はどの様な審判を下されただろうか。
華やかに見えれば見えるほど悲しい歴史ですね。家が貧しいから家畜のように売られて、同世代の女性から蔑まれる…遊女の惨めさや悲しみは男性にはわからないでしょうね。
自分の意思に関係無く、吉原に送られた女性ばかりだったことを想うと悲しくなります。
空襲や震災がなかったら東京はどんな街並みだったんだろう…見てみたいな
みーんな燃やされちゃったね。素焼きの骨壺に収められた大空襲で亡くなった先祖の遺骨が幾つかあります。
昔も今も変わらないだろう。
本当、吉原という場所は悲しい気持ちになる場所です今から100年以上前はここで花魁道中やってたんだ等当時に行った気持ちで見させていただきました
遊女の方々はその後どんな人生を送ったのでしょう。色んなドラマがあったでしょう。今のこの世の中を見たらどう思うでしょうね。
地方ですが幼い頃に身売りされた方で制度が無くなり廃業後に口利きで後妻になった方を知っています。店の主人はそういう仲介もしていたようです。既に鬼籍ですが、生まれた場所さえ知らずに生きて来た方でした。戸籍を辿るお手伝いをさせて頂き、生家の住所が分かった時ボロボロと涙を流されていたのが忘れられません。
昔の話ではない。その原因は政治だということ。
闇の夜は吉原ばかり月夜かな区切るとこ違えれば真逆の意味になる有名な句。宝井其角の言葉遊びの意は多分どちらにも有りそうだ。
吉原炎上を見てから、何故か吉原に興味があり、前に吉原界隈を散策しました。
長崎県の丸山遊郭もいつか取り上げて欲しいです!
そこに何があろうと人の集まる所には歴史と文化が有り、時の流れと共に流行り廃れもある。日本人の歴史文化を尊重し後世に残そうという国民性は、いったいどこから来るんでしょうね?😊😊😊
日本人だけじゃない、人類共通かと思います。
昔の夜鷹が現在のところの立ちんぼか、、、切ないねえ
8:25 作家であり僧侶の家田荘子さんがこちらに定期的に通って御供養してくださっているのだとか。素晴らしいですね🙏
吉原と言えば、やっぱり映画『吉原炎上』すごく好きな映画です。哀しいけど。
お疲れ様です。一昨日(8.12)下谷神社から浅草、泪橋、山谷を街歩き、吉原大門のGS.60数年前にもありました、家族での御酉様の帰りに、まだ営業されて居るのにはただびっくり中には入りませんが、想い出の街のひとつかな?
今では何事もない通りだけどいろんな歴史があるのね。なんだか切なくなる。
タクシー運転手やっていた頃、吉原大門とソープランド周辺を回ったけど、いつも人通りは少なく、失われた街と思ったね。病気が心配の街。いつかは区画整理され、廃墟になるのだろう。
吉原って奥まったところにあって行き慣れた人しか行き辛いですよね
☝👍👍شكرا شكرا
6:49の 稲本楼 の跡って、ホテル稲本 って書いてある場所がそうかな??
映像は表面的には美しいです。しかし 遊郭は当時 そんなにも必要不可欠だったのでしょうか。切なく悲しい。建築物としてはとても美しく現代でも再現して欲しいほど でも再現したとしたらそれはとても切なくて胸が詰まる思いをするのでしょう
ここの直ぐ側に矢吹丈が立っているんだよな。
梶原一騎さんやちばてつやさんも行かれたんでしょうね‼️知らなかった。有難うございます🙏。
一生足を延ばすことは無いだろう吉原の今昔、有難うございます、チラチラとこれも今昔の回れば大門の「見返り柳」らしき姿も写っていますね。江戸時代武士から町人、御大名や有名な藩主まで出入りした吉原ですが肺病で亡くなる遊女が多かった投げ込み寺の現在の様子まで見せて頂きました。余計な事ですが、もしかして今でも吉原の街へ入られると何か妖気の様な物を感じられるのでは?
美女の基準が今とはかなり違うのがわかる。目が細い感じの女性が好まれたんだね。みんな表情が暗い感じがする。
現在でも住居兼店舗もあるのか、ランドセルを背負った小学生がお店に入ったり、早朝に通学路になっていたのは驚いた。ただ、客呼びが普通に「おはよう」と小学生に声かけしていたから治安はむしろ良さそうだった。
語りの分量とか、テンポ感とかちょうどいいです。ブラタモリでもここまで詳しくやってなかったかも。しかし、売られた女性たちの近くに弁財天とは…
いつか吉原と並ぶ遊郭、洲崎も取り上げて欲しいかな
馴染みだった「翔鶴」も、今は無い・・・
😢うわぁめっちゃ切ない~。遊女の方々の人達も実際は苦労なされていたんですよね。
モノクロの方が風情があって好きかな!
深夜営業ができなくなってから急速に寂しくなっていきましたね。ソー◯ランドは新しくビル建設するのが難しいらしく(許可がでないとか)古くなったところは解体していまはほとんどが駐車場になってます。以前は人と送迎の車で賑やかでしたがもう戻ることはないでしょうね。ほんとすごかったです。by地元民
事実かは不明ですが、祖母が吉原遊郭で働いていて、祖父がお客で行っていたと言うことを祖母から聞いたことがありますが、そんな時代に遊女とお客が結婚するのか?と疑問に思っていました。
こんにちは😄祖母様がいらしたから‼️貴女様に繋がたんですね‼️祖父様は💴持ちですね💕。沢山、お話し聞きたかったです。有難うございます🙏😄
お婆様は仲居さんとかかも知れませんよ。遊女以外の方かもしれませんがし、例え遊女だったとしてもお祖父様は人として選びお婆様を大切にされたのですから立派な方です。
昭和31年に売春防止法が公布、翌年に施行されるまで、日本で売春は合法な商売のひとつでした。法律施行前にそこで出会って結婚したケースは当然あったでしょう。🤗
天ぷら屋さんの娘さんと友人です今も変わらず行列です
ここで遊女として生きるしかなかった女性達にとっては、生き地獄だっただろうなと思います。
大人のお風呂屋さんが今有名ですが…遊女の皆さんの怨念ありそう😢
人間に性(性欲)がある以上、こういう場所は正直これからも必要で、形を変えて存続していくことでしょう。人間とは皮肉な生き物とつくづく思う。
売春防止法の実施は昭和33年4月1日ですね。
大門からの道がカーブしているのは大門から中が見えないようにわざと曲げている。
懐かしー
1904年には自転車があったのか
自分がよく行ってた35年くらい前も、「呼び込みがうるさいから、店に迎えに来させた方がいいよ」と言われてましたが、今でもそうなんですね😅現在は田舎に帰っているし、若い頃のような欲も体力も無いので寂しいばかりです😔😢
コロナ禍前にスカイツリーから吉原まで歩いた事があるのですが(目的はもちろん😅)道中の向島界隈は「江戸の匂い」がしましたね。男の本能は時代が変わっても変わることは無い。性〇罪防止の観点からも吉原みたい場所は必要なんですよね。でも客である男の悦びの向こうには遊女達の悲しみがある……。
大門ってドアとかフェンスとかないんだね。見張りがいたんだろうけど、地震でも戦争でも、その見張りが女の子たちを通さなかったってことなの?
ここ以外では売買春禁止が本来の趣旨。一部の者が悲劇性を内心面白がって書いている。
Must be haunted, lots of sad and terrible things happened to those prostitutes..
こち亀の両さんの出身地だな
ふーん、鬼滅の刃のアニメ、アニメとしては最大限の表現していだのてはないてしょうか
いつも興味深い動画をありがとうございます。
私が大学生の時に講義を受けた高齢の先生が大文字楼の息子さんでした。もちろん講義でその話が出たわけではなく、たまたま父の蔵書にあった先生の著書で知りました。家業に反抗して勘当になったとか…
売られてきた少女が遊女になる前に幼い先生の子守をしていたそうで、後年遊女となった彼女の写真を見て、思わず名前を叫んでしまったと、本にありました。
大文字楼……跡地は今、吉原公園になっています。
なんとも切なく悲しく、そして驚きの話ですね。
貴重なエピソードありがとうございます
貴重な話をありがとうございます!
@@natsui643
そんな所に生まれたのが純粋な人で家出するとは…。 切ないな。
@@time3276 周辺を興味深く歩いて休憩した公園。ソープ街にある公園なのに女性が静かに読書したり、バドミントンに興じる子どもがいて不思議な空間でした。
体系だってご紹介いただき有難うございます。カラーにすると臨場感すごいですね…。すごいです。
思い出しました。ご興味のある方がおられるかもしれませんので、昔聞いた話を、忘れないうちに書かせていただきます。吉原の花魁の話です。(長くなるので、興味のない方はスルーなさってください。すみません。)
もう三十年くらい前になりますか、浅草仲見世の御隠居さんからお話を伺ったことがあります。当時もう八十歳を超えておられたので、いま御健在ならゆうに百十歳超え…の世代の方です。その方は、そのまたおばあさんの膝枕で、黒船の話を聞いたそうです。世間は大騒ぎで、見に行く人もいて。そして、その方は子供の頃、花魁を実際に見たそうです。動画に出てくるような格の高い遊女は至れり尽くせりの生活で、立派な姿をしていますが、末端の女郎の生活は厳しいもので、出かけるにも、遣手婆と呼ばれた見張りのおばあさんがつきっきりで、遊女の腰に縄を結わえて、犬のリードみたいに手に持って、紅を買いに行っていたそうです。うつむいて、疲れ切った姿でふらふらと、はだけたヨレヨレの着物で、それでも嬉しそうに紅を選んでいたそうです。「女の私たちは、気の毒でたまらないけど、男の人は、見るところが違うのね」とおっしゃっていました。そして、大きな大きな髷を結っているそうです。これは、お飾りだけでなく、「逃亡防止」のためだそうです。「逃げてもどこにいるかすぐわかるように」大きく結います。(ちょうど動画の8:00~みたいな髷のイメージです。)またこれは京都の島原で伺った話ですが、今はもう、そのサイズの髷を結える木櫛が生産されておらず、結える髪結いさんもいないのですが、髷の幅が片方だけで50㎝以上あったそうです。そして、その御隠居さんは商家の末っ子で、お父さんは吉原のお客さんでした。店が立て込んで忙しい時、それでも気晴らしに遊びに行きたい時は、わざと末っ子(園児くらい)を連れて遊郭に行くそうです。そうすると、ちびっ子を連れて散歩かな?という感じで周囲にカモフラージュになるので、わざとそうするそうです。幼児連れの遊郭なんて、教育上心配になりますが、誰にも会わないそうです。戦災で焼けてしまいましたが、戦前の遊郭や向島はからくり屋敷みたいになっていて、壁がくるんと回ったりして、人に知られずに移動することができます。マスコミ等に追われても、わからない秘密の出口からこっそり出れます。プライバシー完備です。「祇園でのスクープが多いのは、そういう仕組みがないからよ」「あんなドテーンと建てたら、そりゃスクープされるわね」「江戸の粋筋(遊郭)はね、客には、そういう恥はかかせないものよ」。客の連れてきた子供は、体の空いている花魁が遊んでくれます、店もわかってます。お部屋に、良い香りのお香が漂い、子供でもうっとりするような優しいおっとりとした風情のお姉さんが、お手玉やら何やら、遊んでくれるそうです。子供用の遊び道具も揃っているそうです。それだけでなく、色んな世代に対応できる遊びの品が揃っていたそうです。もともと、田舎の子が身売りしてきているので、子供の相手は根が純朴な花魁たちにとっても楽しかったようです。「ちょっと、このお姉さんと遊んでおいで。お父さんは用事があるから」と父はいつの間にか姿を消すそうです。そして、しばらくして、いつの間にか、ぱっと目の前に現れて「さあ、家に帰ろうか。お姉さんに、御礼をいいなさい。」「はい!お姉さん有難う!」またねー、と花魁に挨拶して、(お父さんどこから部屋に入ってきたんだろう…?)と思いながら帰るそうです。まさか、幼児が花魁とわかっているわけはないのですが、花魁のうしろにお琴が立てかけてあったのを、今も覚えている、とおっしゃっていました。そして、お父さんは、亡くなるまで一度も、“あの遊んだ場所が遊郭であのお姉さんは花魁だ”などと娘に打ち明けたりせず、むしろ生前その件には一切触れなかったそうですが、御隠居さんは大人になるにつれて、父にいわれなくとも、もしかして……と、自然に段々と「悟った」そうです。「あれは、遊郭ね。遊郭よ。」くるわ(廓)と呼ぶ地域もありますが。あと、遊里の仕組みとして、身売りしてきた子は、売られてきた段階で、すぐに種別分けされ、画像のような高級花魁にする子は、ハイソな上客の相手が出来るように、一切店には出さず、まずみっちり諸芸百般を仕込むそうです。(下のランクと判断された子は、すぐ店に出されます)どんな方が高級花魁になれるのですか?と訊いてみたのですが、切れ長の目をした足首の締まった子など、明確な選定基準があり、見るからに見分けられるそうです。ただ、高級花魁でも、もし身請けされたとしても、30代くらいに亡くなることが多かったそうです。やはりストレスもあり、若死にの原因については、「まず、日に当たらないからね。ずっと屋内にいるから…」「人間は体の一部をあまり使うようにはなってないのね」とおっしゃってました。ただ、吉原に限らず、戦前、昭和10年すぎにも、飢饉の度に地方から娘さん(~中年も)が売られてきたので、実はそう遠い話ではありません。女性が働くところが、お金を作れるところが、当時他になかったのです。前借を必死で働いて返して、見事故郷の家族の所に帰った、いわば当時なりのキャリア系意識を持ったタイプもおられたようで、今思うほど、悲壮という感じでもなく、「生活のために稼ぐ」と割り切って勤めた女性も多かったということでした。。長々と失礼しました。
貴重なお話ありがとうございました!
@@仏師-m1j 読んでいただいて有難うございました。
あと、高級花魁とその他は始めからコースが違い、全く別の存在で、のちに入れ替わることはありません。養成期間があってこその高級花魁なので、妓楼がかけてる元手が全く違います。あとからはなれないのです。あとで元が取れるから多額の教育費もかけます。だからこそ上客が納得し、高額で店出しできます。(わずかに例外はありましたが、吉原の花魁制度が斜陽になってからでした。)高級花魁の選抜基準について、適性の話ですが、「切れ長の目」「砂に水が沁み込むように」スーッと覚える(何でも)タイプ、というのを何度かおっしゃっていました。砂に水が沁み込む…明治の方なので、なかなか含蓄の深い表現ですが、多分、本能的に抵抗なく何でも物覚えが良く、かつ素直で自然に受け身でいられる、、ような感じの気質をさすようでした。有名花魁になってからは、贔屓の上客に対して「情が深い」というのも大切なポイントになるそうです。。
貴重なお話ですね
勉強になりました、ありがとうございます
UP主さんの動画及び丁寧な解説ありがとうございます。昭和33年の売春防止法施行前の議論の時、国会に反対意見をもって押し掛けたのは吉原の花魁の方々と言うことはあまり知られていません。彼女たち曰く「私たちは体張って仕事している。それを泥棒や人殺しと同じ犯罪者にするのは反対」でした。なので売春防止法は管理売春を違法とするようになった。
切ない…
BGMもあいまって、胸が苦しくなるような映像だなあ。
素晴らしい作品をありがとうございます、感動しました。
日本の中で、格式が高いとされた
のは吉原遊郭です。
今では考えられないですが、売春が合法だった時代のあの頃、遊郭は日本中にどこにでも、たくさんあり、吉原だけは余りにも有名なので、今の若い人では売春宿は
吉原しかないと思っている人も
多いですよね。
吉原も厳しい世界だったと思いますが、性奴隷に匹敵する遊郭が
日本中のあちこちにあり、見受けなどとは程遠い扱いを受けた遊女や、震災や戦争の被災者として、
供養されることもない遊女、
天麩羅どころか食事もままならない扱いを受けて供養されることもなく散っていった吉原以外の事実もいたことを、お忘れなきよう。
仰る通りと存じます。
昔、仕事で北海道開拓時代の文献を読んだ際に知ったのは、昭和51年建立の「薄野娼妓並びに水子哀悼碑」。
明治時代に開拓労務者の"足止め策"として置かれた遊郭(最盛期には350名以上の遊女がいた模様)、その歴史と壮絶な実態に戦慄した事は忘れられない記憶です。
遊女も開拓労務者も、地方から騙されて連れてこられた者が多かったとの事。
貴重な映像をありがとうございます。
見返り柳が今も存在していると知り驚きました。
どの時代の男も女を買いますからね。何なら戦に負けたら女は悲惨でしたもんね。
それは国籍問わず。
ホントにいつの時代も女性は暴力に勝てませんよね。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 💙🗾
悲しい歴史の一コマ。貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした。
遊女にとっては生き地獄。情緒を感じることは仕方ないとはいえ、唯々悲しい歴史。
本当に生き地獄だったと思います。何の罪もないのに親の借金のかたに売られて・・・。いつの時代も弱い者にしわ寄せが来るんですね。本当に悲しい歴史ですね。
親が借金せずに居たら食うに食えず一家で餓死だったろうしどっちにしろ地獄だったろうね。
人身バイバイですねー。
今も気持ち悪い利権が残ってますね。
高級ソープとか。
@@100pureacidch3 高級ソープとかってヤクザがらみ?
昔の売春街は心底ブルーになるし、男だが風俗は寒気がする。
自分には合わない。
1909年の大門が紹介されていますが、この年の9月、はじめて吉原に行った志賀直哉は、格
式が高いとされた角海老楼に登楼、峯という娼妓と知り合い、以後峯が1911年2月に廃業す
るまで一年半、頻繁に峯のもとに通っています。峯をモデルに、男女の駆け引きを描いた
「彼と六つ上の女」が書かれるように、志賀は、娼妓峯との経験を通して、性や女性の問題
を掘り下げていきますから、角海老楼は志賀文学の進展を促した場所だったかもしれません。
木造建築の意匠を凝らした遊郭、お茶屋の数々も関東大震災、東京大空襲で消滅し、今では見る影も無い。
当時の建築の内、かろうじて残ってるのが天ぷら屋と馬肉屋というのも複雑な思い。
土手の伊勢屋は数年前に伺いましたがボリュームたっぷりの美味い天丼でした。
ただこの界隈は便が悪いんですよね。
最寄りの地下鉄駅から結構歩かされます。
元遊郭だった所にあるマンションとか、歴史を知ってる人は住み難いでしょうね。。
角海老は明治からすでにあったんですねえ。今もボクシングジムやソープランドを経営してますね。
まだ若い娘が誰彼となく好きに性行為を強要されるなんて、恐ろしいことだわ。売春っていうのは。そうならないように、無理矢理解雇して路頭に迷わないような徹底した法規を守って欲しいわ。仕事がないから路頭に迷いこういう世界に足を入れるということが往々にしてあるよ。
吉原には人の闇がある様な、そんな気がします。
今でこそ闇の存在は薄くなりつつありますが、
今も尚語り継がれる悲劇の数々。
遊女にとっては忘れたい記憶、トラウマになったことでしょう。
メンタルヘルスという次元が無かった時代、今に生まれてきたことを幸せに感じます。
胸を張って誇れる文化ではない。かと言ってシャカリキになって隠すモノでもない。
『江戸時代から名もなき人々の営みがここに続く』
吉原とはそんな場所なのだろうと思います。
心中箱が有名ですよね。江戸時代の遊里はお客さんにまた来てもらう為に、自分の爪や髪を切ってプレゼントしてあげた箱を「心を中に入れた箱」心中箱と呼ばれてました。
1700年代になると、深川に非認可の安い芸者の見世ができて(この店のミセも中をみせるの意味で見世といわれていました。仲見世通りはその女性の中をみせる意味で発展したことばです)
競争が激化してしまい、女性らも29を過ぎると人気が落ちていって先の道がなくなり、指を切ってプレゼントしたりしていました。それが心中箱の発展型です。当時のゆびきりげんまんウソついたら針千本~という歌は遊里が着服したりすると、大家に拷問されたりしたのでその当時の歌だったのです。怖い歌ですよね。
1780年あたりから、洒落本などにも記録されていますが、指ではお客を確保できなくなったので、一緒に気に入った男性と逃げて山で一緒にベルトで締めて、自殺したんです。
これがのちの意味が変質していった「心中」になったんですよね。最後の時代はあの太宰治が同じことをやっていますが、日本古来の一緒に死ぬとあの世で結婚できるという古今和歌集などの思想が残存していた証拠です。今は心中は自殺ですが、この言葉は遊里語でした。広島大学の真下三郎先生が女性語の研究を長くされていて記録がたくさん残っています。
そうざんす。そうですよ。などのまず間違いない遊里語で、のちの標準語になっていきます。
1840年にはさらに安い飯盛り女の茶屋があちこりにできて、お団子食べて中にどうぞという呼び込みで、お相手をしていました。幕府も目をつぶっていたという記録があります。
梅毒は「女は梅毒にかかってこそ真の女」という言葉され当時の本に記録されています。私も大学院時代よくこの女性語の研究を一部しましたが、当時の社会も垣間見えてきます。
明治になって初めて「いかがわしい」という視線ができて、「人権」という漢字語も出てきて、女性を解放させますが、彼女自身なれなくて自ら戻ってくるほどでした。
大家でいじめられたり、殺される女性も多かったと言われています。遊里は高級で高価だったと言われています。このユウリも世界共通の女性の名前で、ユーリア、ユリー、ジュリエッテ、ジュリエット、ユーリア、韓国にもユリが存在します。意味深いですよね。映像が大変印象深いです。
天ぷら屋の隣の馬肉屋ですが、遠方から馬で来た吉原の客がそこで馬を売ったそうです。そしてそのお金で吉原に遊びに行ったとか。
帰りはどうするんだろう
馬が可哀想。
勿論‼️歩き。😄
馬肉屋なんてよくやるわ
想像したら馬が泣いてる
馬可哀想ー
写真に色が入るだけで見てる側もグッと引き込まれてしまう。
華やかに思える遊郭で春を売る女達の悲しさを思うと胸が痛む。
いわゆるソープランドは新設が禁止されている。改装は許されているらしいけど、いつかは朽ち果て人々の記憶からも消えてゆくだろう。でも苦界で生きた女性がいたことは忘れてはいけないと思う。
100年くらいでこんなに変わるのか
大変に深く考えさせられました。
苦難に生きた女性達の御霊が、永遠に安らか成らんことを祈ります。
人身売買や自由の制限など無しに成り立たないので負の側面はもちろん忘れてはいけないけど、吉原にいた人達は皆とは言わずとも誇りを持って生きてた人も多いはずだし文化の発信地の一つでもあったわけだし、すべてを可哀想可哀想で塗りつぶしてしまうことはかえって可哀想だと思う
現在との比較、歴史的解説、いいですね。有難うございます💛
昔、おじいさんが昭和初期に花魁道中を見たって言っていたので、いつの時代の人間?!と驚いたものです。
戦時中も大門の外に出られない遊女が逃げ遅れ、たくさん焼死したそうです。
荒木経惟さんで最も好きなのが町内の世話役に先導されて吉原を往く子供みこしの写真でお店の前で見ているボイさんとおねえさんがいい感じなの
若いうちは太夫と持て囃されても年には勝てず、鉛焼の顔、遣りて婆あ に為り果て
最後は菰に巻かれて浄閑寺の穴に投げ込まれる。
法然上人は救いを求めた遊女に「そのまま生きよ、そしてただ一心に阿弥陀如来に
救いを求めよ」と諭した。
私も信じたい、阿弥陀如来様は 彼女達をあの世で極楽浄土に導いたと信じたい。
この様な苦界に生きた女性、女との一夜を求めた男達、神仏はどの様な審判を下さ
れただろうか。
華やかに見えれば見えるほど悲しい歴史ですね。家が貧しいから家畜のように売られて、同世代の女性から蔑まれる…遊女の惨めさや悲しみは男性にはわからないでしょうね。
自分の意思に関係無く、吉原に送られた女性ばかりだったことを想うと悲しくなります。
空襲や震災がなかったら東京はどんな街並みだったんだろう…見てみたいな
みーんな燃やされちゃったね。
素焼きの骨壺に収められた大空襲で亡くなった先祖の遺骨が幾つかあります。
昔も今も変わらないだろう。
本当、吉原という場所は悲しい気持ちになる場所です
今から100年以上前はここで花魁道中やってたんだ等
当時に行った気持ちで見させていただきました
遊女の方々はその後どんな人生を送ったのでしょう。
色んなドラマがあったでしょう。
今のこの世の中を見たらどう思うでしょうね。
地方ですが幼い頃に身売りされた方で制度が無くなり廃業後に口利きで後妻になった方を知っています。店の主人はそういう仲介もしていたようです。既に鬼籍ですが、生まれた場所さえ知らずに生きて来た方でした。戸籍を辿るお手伝いをさせて頂き、生家の住所が分かった時ボロボロと涙を流されていたのが忘れられません。
昔の話ではない。その原因は政治だということ。
闇の夜は吉原ばかり月夜かな
区切るとこ違えれば真逆の意味になる有名な句。
宝井其角の言葉遊びの意は多分どちらにも有りそうだ。
吉原炎上を見てから、何故か吉原に興味があり、前に吉原界隈を散策しました。
長崎県の丸山遊郭もいつか取り上げて欲しいです!
そこに何があろうと人の集まる所には歴史と文化が有り、時の流れと共に流行り廃れもある。
日本人の歴史文化を尊重し後世に残そうという国民性は、いったいどこから来るんでしょうね?😊😊😊
日本人だけじゃない、人類共通かと思います。
昔の夜鷹が現在のところの立ちんぼか、、、切ないねえ
8:25 作家であり僧侶の家田荘子さんがこちらに定期的に通って御供養してくださっているのだとか。素晴らしいですね🙏
吉原と言えば、やっぱり映画『吉原炎上』すごく好きな映画です。哀しいけど。
お疲れ様です。一昨日(8.12)下谷神社から浅草、泪橋、山谷を街歩き、吉原大門のGS.60数年前にもありました、家族での御酉様の帰りに、まだ営業されて居るのにはただびっくり中には入りませんが、想い出の街のひとつかな?
今では何事もない通りだけどいろんな歴史があるのね。
なんだか切なくなる。
タクシー運転手やっていた頃、吉原大門とソープランド周辺を回ったけど、いつも人通りは少なく、失われた街と思ったね。
病気が心配の街。
いつかは区画整理され、廃墟になるのだろう。
吉原って奥まったところにあって行き慣れた人しか行き辛いですよね
☝👍👍شكرا شكرا
6:49の 稲本楼 の跡って、
ホテル稲本 って書いてある場所がそうかな??
映像は表面的には美しいです。しかし 遊郭は当時 そんなにも必要不可欠だったのでしょうか。切なく悲しい。建築物としてはとても美しく現代でも再現して欲しいほど でも再現したとしたらそれはとても切なくて胸が詰まる思いをするのでしょう
ここの直ぐ側に矢吹丈が立っているんだよな。
梶原一騎さんやちばてつやさんも行かれたんでしょうね‼️知らなかった。有難うございます🙏。
一生足を延ばすことは無いだろう吉原の今昔、有難うございます、チラチラとこれも今昔の回れば大門の「見返り柳」らしき姿も写っていますね。江戸時代武士から町人、御大名や有名な藩主まで出入りした吉原ですが肺病で亡くなる遊女が多かった投げ込み寺の現在の様子まで見せて頂きました。余計な事ですが、もしかして今でも吉原の街へ入られると何か妖気の様な物を感じられるのでは?
美女の基準が今とはかなり違うのがわかる。
目が細い感じの女性が好まれたんだね。
みんな表情が暗い感じがする。
現在でも住居兼店舗もあるのか、ランドセルを背負った小学生がお店に入ったり、早朝に通学路になっていたのは驚いた。ただ、客呼びが普通に「おはよう」と小学生に声かけしていたから治安はむしろ良さそうだった。
語りの分量とか、テンポ感とかちょうどいいです。ブラタモリでもここまで詳しくやってなかったかも。しかし、売られた女性たちの近くに弁財天とは…
いつか吉原と並ぶ遊郭、洲崎も取り上げて欲しいかな
馴染みだった「翔鶴」も、今は無い・・・
😢うわぁめっちゃ切ない~。遊女の方々の人達も実際は苦労なされていたんですよね。
モノクロの方が風情があって好きかな!
深夜営業ができなくなってから急速に寂しくなっていきましたね。
ソー◯ランドは新しくビル建設するのが難しいらしく(許可がでないとか)
古くなったところは解体していまはほとんどが駐車場になってます。
以前は人と送迎の車で賑やかでしたがもう戻ることはないでしょうね。
ほんとすごかったです。by地元民
事実かは不明ですが、祖母が吉原遊郭で働いていて、祖父がお客で行っていたと言うことを祖母から聞いたことがありますが、そんな時代に遊女とお客が結婚するのか?と疑問に思っていました。
こんにちは😄祖母様がいらしたから‼️貴女様に繋がたんですね‼️祖父様は💴持ちですね💕。沢山、お話し聞きたかったです。有難うございます🙏😄
お婆様は仲居さんとかかも知れませんよ。遊女以外の方かもしれませんがし、例え遊女だったとしてもお祖父様は人として選びお婆様を大切にされたのですから立派な方です。
昭和31年に売春防止法が公布、翌年に施行されるまで、日本で売春は合法な商売のひとつでした。
法律施行前にそこで出会って結婚したケースは当然あったでしょう。🤗
天ぷら屋さんの娘さんと友人です
今も変わらず行列です
ここで遊女として生きるしかなかった女性達にとっては、生き地獄だっただろうなと思います。
大人のお風呂屋さんが今有名ですが…
遊女の皆さんの怨念ありそう😢
人間に性(性欲)がある以上、こういう場所は正直これからも必要で、形を変えて存続していくことでしょう。人間とは皮肉な生き物とつくづく思う。
売春防止法の実施は昭和33年4月1日ですね。
大門からの道がカーブしているのは大門から中が見えないようにわざと曲げている。
懐かしー
1904年には自転車があったのか
自分がよく行ってた35年くらい前も、「呼び込みがうるさいから、店に迎えに来させた方がいいよ」と言われてましたが、今でもそうなんですね😅
現在は田舎に帰っているし、若い頃のような欲も体力も無いので寂しいばかりです😔😢
コロナ禍前にスカイツリーから吉原まで歩いた事があるのですが(目的はもちろん😅)道中の向島界隈は「江戸の匂い」がしましたね。
男の本能は時代が変わっても変わることは無い。
性〇罪防止の観点からも吉原みたい場所は必要なんですよね。
でも客である男の悦びの向こうには遊女達の悲しみがある……。
大門ってドアとかフェンスとかないんだね。
見張りがいたんだろうけど、地震でも戦争でも、その見張りが女の子たちを通さなかったってことなの?
ここ以外では売買春禁止が本来の趣旨。一部の者が悲劇性を内心面白がって書いている。
Must be haunted, lots of sad and terrible things happened to those prostitutes..
こち亀の両さんの出身地だな
ふーん、鬼滅の刃のアニメ、アニメとしては最大限の表現していだのてはないてしょうか