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前後編の大作か…お疲れ様です。旅に思いを馳せさせて下さり、いつも本当に感謝しています。
東北本線の停車駅が興味深かった今の新幹線駅ほとんど通過してるやんけって
いつもありがとうございます。当時の方にとっては当たり前だったのかもしれませんが、ここまででも釧路から上野まで二回の夜行列車に乗るというのが長旅のロマンを感じます。このような列車は切符を買うだけでもなかなか苦労されたのでしょう。手書きの乗車券に急行券3枚、さらには寝台券2枚と言うのも旅の重みを感じるものですね。ボーイの方が寝台を解体し、リネンを片付けたあとは向い合わせになって座り、向い合わせになった皆様で語り合ったことで「旅は道連れ世は情け」という言葉がぴったり来る時代だったことと思います。小牛田(こごた)駅での接続列車の欄で駅名は「子牛田」となっておりました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。根室を出発して24時間経過しても、青函連絡船の上ですから、当時の日本は大変広かったのでしょうね。客車特有のよく聞こえるジョイント音をBGMに、偶然乗り合わせた人と会話を楽しむ経験はかけがえのないものですね。おっしゃる通り、「小牛田」ですね。最終チェックでも見逃してしまいました。概要欄に訂正文を記載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
日本縦断すごいですね😲こんな時刻表の旅もいいですね🎵前編で根室➡️上野で2泊3日、後編の東京➡️長崎が楽しみです🎵
14系の「まりも」「宗谷」「大雪」「はまなす」には大変お世話になりました。もちろん「八甲田」「津軽」「臨時銀河」も。
北海道内の旅では廃線になった路線が多数見られますね。次回も楽しみにしてます。
準急「第2ノサツプ」 根室 → 厚床 → 浜中 → 厚岸 → 釧路 急行「まりも」 釧路 → 池田 → 帯広 →新得 → 落合 → 鹿越 → 富良野 → 芦別 → 赤平 → 滝川 → 砂川 → 美唄 → 岩見沢 → 江別 → 札幌 → 小樽 → 余市 →小沢 → 惧知安 → 長万部 → 森 → 函館 (青函連絡船) 青森 急行「北斗」 青森 → 浅虫 →三沢 → 尻内 → 一戸 → 盛岡 → 花巻 → 一ノ関 → 小牛田 → 仙台 → 原ノ町 → 平 → 日立 → 水戸 → 上野 😮
まりもは根室本線・函館本線・砂原支線経由の列車というところにも関心がありますが、新聞輸送や郵便輸送にも活躍したという事実が印象的です。北斗にも郵便車が連結されていますね。動く列車の中での作業は大変だったと想います。それにしても当時の寝台急行列車は宇宙を連想するロマンチックな名前が多いですね。北斗もそうですが、銀河・月光・金星・彗星など、当時の国鉄のネーミングはなかなかでしたね。
動画お疲れ様です。今回は北海道の東の果て根室から長崎までですが。64年9月だから特急も通ったルートだとおおぞらとはつかりしかない分、急行中心になりますね。それでもこの時代は旧客にも食堂車・寝台車・座席車といわゆる完全セット式での運用だから食事に関してはお金さえあれば心配はないという利点はありますが。飛行機網の発達した現代においては考えられないほどゆったりとした時の流れを感じます
いつもご視聴とコメントありがとうございます。おっしゃる通り、特急は少なく急行主体での移動になっていますが、食堂車や寝台車の設備があるため、お金を出せばある程度快適に移動できたのかなと思いました。根室を出発して、24時間たってもまだ本州に到達しておらず、北海道の広さとゆったりした移動であったことがよくわかりました。
今回は爽快な旅になりましたね。北海道って準急にキハ22ありましたね。その為か、アルプスの牧場のオルゴールはありましたね。失念しましたが?胆振か松前に乗った時はキハ22でした。この頃だとどうしても普通急行中心になりますね。でも、寝台車に乗れるだけでも凄いと思います。ちゃんと食堂車がありましたね。東北回りではなく、常磐回りも良かったですね。後半は、東京からなので?乗った事のある列車も出て来るかもって楽しみに待ってます😊いつも編集お疲れ様です
いつもご視聴とコメントありがとうございます。後半は東京駅を出発駅として、長崎を目指します。日中に出発するので、いろいろな優等列車が登場するだろうなと思います。当時は寝台料金も高く、切符も買いにくい列車もありましたから、乗れるだけでも贅沢なことだったのでしょうね。
寝台車は値段は高いものでしたが、3段式の2等寝台でも横になれることからかなりの人気があったものと思います。釧路からは二回の夜行、札幌から東京までほぼ1日をかけて乗車するというのがごく一般的なものであったことが想像できます。とはいえ東京対札幌でこの翌年には早くも国鉄と航空とのシェアが逆転。連絡船を含めて1日を要する鉄道よりもビジネスを中心に年々便利になる航空に移るのはある意味仕方のないことだったのかもしれませんね。
@@TSUYOS185さん丁度、羽田⇔千歳にジェット機(ボーイング727―100)が導入された時期ですからね、只1966年2月に全日空便が東京湾に墜落した影響で航空機利用が激減しましたけどね。
国鉄時代の乗り換えの案内、夜間帯で最終の後は「乗り換えなし」ではなく「明朝、…時…分 xx行きとなります。待合室でお待ち下さい」ってのが基本だった気がします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。そのようにアナウンスしていたのですね。大変貴重な情報ありがとうございます。新しく作成する動画には、連絡なしではなく、翌朝の始発の列車を掲載していこうと思います。
壮大な企画ありがとうございます。1990年頃、北海道ワイドで最終おおぞら、上り白糠でのターンを繰り返し宿代を浮かしておりました。でも1964当時は、白糠は通過していたようですね。
初コメです。いつの日か1964年当時の最長片道切符の旅を再現してほしいです。物凄く大変な作業であることはわかってますがよろしくお願いします🚃
はじめまして。いつもご視聴とコメントありがとうございます。最長片道切符の旅も面白そうですね。調査に時間がかかりそうですが、いつか動画にしてみたいです。リクエストありがとうございます。
59年前、根室発の列車は、急行1本、準急2本、普通が6本。スタートの準急の第2ノサップは全車自由席で、根室駅最終とは驚きでした。上野駅まで2泊3日ですから、旅は厳しいですね。東京からは12:30発の急行西海号33・2033列車で佐世保に向かい、佐世保発11:25の伊万里行624列車で平戸口へ向かうと予想しました。
なんか昔、逆方向で長崎の高島か軍艦島の炭鉱で働いた家族が炭鉱が閉山になって道東の開拓地に移住するために鉄道で向かうって映画があった気がする。あまりに過酷な移動で小さい子が亡くなっちゃったりとか。準急やら急行乗りまくってもこの時間ですもんね。。。
スタインベックの怒りの葡萄に話が似てますね。
山田洋次監督の作品「家族」ですね。TH-camでもこの映画の予告編見れますよ。
この頃だったら急行まりもの函館本線区間と急行北斗の常磐線非電化区間の牽引機はC62だったのではないでしょうか。後編も楽しみにしております...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。常磐線の電車も高頻度で走行する間を、C62が走行する様子を実際に見てみたかったです。牽引機の情報ありがとうございました。
はつかり号が走り始めた頃は上野駅からC62牽引で、取手までの国電のダイヤを縫いながら上手い速度さばきをしていたのでしょう。ただ、この時点では平(今のいわき)まで電化が完成し、ピンク色の電気機関車が牽引していました。
@@tomoyankun TH-camで1963年(昭和38年)制作の記録映画 ある機関助士 「常磐線 急行みちのく」で水戸→上野の同列車をけん引するC62が見れます。
根室本線の落合と鹿越の停車ですが、落合は狩勝峠越えの補機切り離しでしょうか。狩勝峠は旧線の時代ですね。鹿越は列車交換でしょうか。
今では、釧路から、おおぞら 北斗 はやぶさ のぞみ リレーかもめ かもめで、長崎に着きますね。
早く北斗とリレーかもめがなくなり、ほぼ新幹線で走破できるようになるといいすね。
まさかの通し運用かと思いましたw青函トンネル通貫後の平成初期での同区間や、稚内→(日本海縦貫線)→(山陰本線)→(鹿児島or日豊本線)→西鹿児島もみてみたくなりますねぇ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。通し運用があっても驚かない位、当時は長距離運転が多かったですね。日本海側を通って縦断するのも面白そうですね。リクエストありがとうございます。
今より便利な気がします😅
急行まりもは釧路・札幌間が寝台急行で、札幌・函館間は2等自由席(現普通車)が連結されていて小樽と函館間はC62型蒸気機関車で小樽と長万部間はC62型重連で有名になった。札幌と函館間は後にていねになり、最後はニセコ下りは3号上りは1号になって昭和46年9月15日に小樽・長万部間はC62型3重連で有終の美を飾っている。寝台急行北斗ですが、食堂車はオシ16型でビュッフェ付きのサロンカーですね!当時オシ16型は品川客車区と尾久客車区にそれぞれ3両ずつ配置されていました。
山田洋次監督の『家族』では(ほぼ)逆バージョンで行っているんですよね。
青函トンネルの開通があと20年早かったらと考えると残念ですね稚内→上野とか根室→大阪とかあったかも?と考えてしまいますね
乗り継ぎ時間が短く、忙しい行程でしたね。いまの感覚だと、飲食物を仕入れたり、喫煙タイムを確保するのに、もう少し余裕がほしいかな〜などと思いながら見ていました。しかし、優等列車の優等列車らしい停車駅の少なさ。特に北海道と東日本での“急行列車”の位置付けの高さが現れてますね。
【狩太】【尻内】時代を感じますね。【黒沢尻】はもう【北上】に変わっていたのですね。
仮に、根室から上野まで夜行列車など(主に急行)を乗り継いだらどうなるか、という企画ですね。1964年は生まれていなかったので、もっと後の時代で似たようなことをやったことがあります。当時はまだ北海道ワイドが使い放題だった時代で、似たような同志はたくさんいました。その頃はまだ寝台は使っていませんでした。高かったので。
いやあ、根室から丸一日かけて函館、さらに青函連絡船からヤゴで一気に上野。そこからさらに西へ西へ…。準急しもきたは大湊から青森を経て大鰐へ向かったんですかね。
細かくて申し訳ないですが、最後常磐線柏や北千住がないのは、時刻表上未掲載の駅だったのでしょうか。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。国電区間の欄には記載がありますね。完全に失念しておりました。ご指摘ありがとうございます。
大正時代末期には神戸発で青函連絡船を介して根室行きが有りましたね、羽越本線経由でした神戸駅2050→503列車→翌々日0530青森駅函館駅1317→3列車→翌日1549根室駅ほぼ丸3日の行程でしたそれと国鉄時代は根室の昆布を鹿児島まで貨物輸送していました 根室の歴史を調べてみました
後半何が出るんだろう……(今から楽しみ)
良き時代です❤
おお、これはすごいもしかしたら、最北端の稚内駅と最南端の西大山駅の旅程も制作されるご予定ですか?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。最北端から最南端もリクエストが多いため、制作しようと思っております。
お、今回は長旅だね。さぁ、出かけようか。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。日本の広さを実感できる動画になったと思います。
奥羽、羽越、北陸周りの方が短時間で済むかな。
リクエストを送ります昭和55年の特急「あずさ」3号と新幹線「ひかり135号」と特急「ひだ3号」の時刻をリクエストします。
駅名にフリガナがあっても良かろう
前後編の大作か…お疲れ様です。
旅に思いを馳せさせて下さり、いつも本当に感謝しています。
東北本線の停車駅が興味深かった
今の新幹線駅ほとんど通過してるやんけって
いつもありがとうございます。
当時の方にとっては当たり前だったのかもしれませんが、ここまででも釧路から上野まで二回の夜行列車に乗るというのが長旅のロマンを感じます。このような列車は切符を買うだけでもなかなか苦労されたのでしょう。手書きの乗車券に急行券3枚、さらには寝台券2枚と言うのも旅の重みを感じるものですね。
ボーイの方が寝台を解体し、リネンを片付けたあとは向い合わせになって座り、向い合わせになった皆様で語り合ったことで「旅は道連れ世は情け」という言葉がぴったり来る時代だったことと思います。
小牛田(こごた)駅での接続列車の欄で駅名は「子牛田」となっておりました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
根室を出発して24時間経過しても、青函連絡船の上ですから、当時の日本は大変広かったのでしょうね。
客車特有のよく聞こえるジョイント音をBGMに、偶然乗り合わせた人と会話を楽しむ経験はかけがえのないものですね。
おっしゃる通り、「小牛田」ですね。最終チェックでも見逃してしまいました。概要欄に訂正文を記載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
日本縦断すごいですね😲
こんな時刻表の旅もいいですね🎵
前編で根室➡️上野で2泊3日、後編の東京➡️長崎が楽しみです🎵
14系の「まりも」「宗谷」「大雪」「はまなす」には大変お世話になりました。もちろん「八甲田」「津軽」「臨時銀河」も。
北海道内の旅では廃線になった路線が多数見られますね。次回も楽しみにしてます。
準急「第2ノサツプ」 根室 → 厚床 → 浜中 → 厚岸 → 釧路 急行「まりも」 釧路 → 池田 → 帯広 →新得 → 落合 → 鹿越 → 富良野 → 芦別 → 赤平 → 滝川 → 砂川 → 美唄 → 岩見沢 → 江別 → 札幌 → 小樽 → 余市 →小沢 → 惧知安 → 長万部 → 森 → 函館 (青函連絡船) 青森 急行「北斗」 青森 → 浅虫 →三沢 → 尻内 → 一戸 → 盛岡 → 花巻 → 一ノ関 → 小牛田 → 仙台 → 原ノ町 → 平 → 日立 → 水戸 → 上野 😮
まりもは根室本線・函館本線・砂原支線経由の列車というところにも関心がありますが、新聞輸送や郵便輸送にも
活躍したという事実が印象的です。北斗にも郵便車が連結されていますね。動く列車の中での作業は大変だったと
想います。それにしても当時の寝台急行列車は宇宙を連想するロマンチックな名前が多いですね。北斗もそうですが、
銀河・月光・金星・彗星など、当時の国鉄のネーミングはなかなかでしたね。
動画お疲れ様です。
今回は北海道の東の果て根室から長崎までですが。
64年9月だから特急も通ったルートだとおおぞらとはつかりしかない分、急行中心になりますね。
それでもこの時代は旧客にも食堂車・寝台車・座席車といわゆる完全セット式での運用だから食事に関してはお金さえあれば心配はないという利点はありますが。
飛行機網の発達した現代においては考えられないほどゆったりとした時の流れを感じます
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
おっしゃる通り、特急は少なく急行主体での移動になっていますが、
食堂車や寝台車の設備があるため、お金を出せばある程度快適に移動できたのかなと思いました。
根室を出発して、24時間たってもまだ本州に到達しておらず、北海道の広さとゆったりした移動であったことがよくわかりました。
今回は爽快な旅になりましたね。北海道って準急にキハ22ありましたね。その為か、アルプスの牧場のオルゴールはありましたね。失念しましたが?胆振か松前に乗った時はキハ22でした。この頃だとどうしても普通急行中心になりますね。でも、寝台車に乗れるだけでも凄いと思います。ちゃんと食堂車がありましたね。東北回りではなく、常磐回りも良かったですね。後半は、東京からなので?乗った事のある列車も出て来るかもって楽しみに待ってます😊いつも編集お疲れ様です
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
後半は東京駅を出発駅として、長崎を目指します。日中に出発するので、いろいろな優等列車が登場するだろうなと思います。
当時は寝台料金も高く、切符も買いにくい列車もありましたから、乗れるだけでも贅沢なことだったのでしょうね。
寝台車は値段は高いものでしたが、3段式の2等寝台でも横になれることからかなりの人気があったものと思います。
釧路からは二回の夜行、札幌から東京までほぼ1日をかけて乗車するというのがごく一般的なものであったことが想像できます。
とはいえ東京対札幌でこの翌年には早くも国鉄と航空とのシェアが逆転。連絡船を含めて1日を要する鉄道よりもビジネスを中心に年々便利になる航空に移るのはある意味仕方のないことだったのかもしれませんね。
@@TSUYOS185さん
丁度、羽田⇔千歳にジェット機(ボーイング727―100)が導入された時期ですからね、只1966年2月に全日空便が東京湾に墜落した影響で航空機利用が激減しましたけどね。
国鉄時代の乗り換えの案内、夜間帯で最終の後は「乗り換えなし」ではなく「明朝、…時…分 xx行きとなります。待合室でお待ち下さい」ってのが基本だった気がします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
そのようにアナウンスしていたのですね。大変貴重な情報ありがとうございます。
新しく作成する動画には、連絡なしではなく、翌朝の始発の列車を掲載していこうと思います。
壮大な企画ありがとうございます。
1990年頃、北海道ワイドで最終おおぞら、上り白糠でのターンを繰り返し
宿代を浮かしておりました。でも1964当時は、白糠は通過していたようですね。
初コメです。いつの日か1964年当時の最長片道切符の旅を再現してほしいです。
物凄く大変な作業であることはわかってますがよろしくお願いします🚃
はじめまして。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
最長片道切符の旅も面白そうですね。調査に時間がかかりそうですが、いつか動画にしてみたいです。リクエストありがとうございます。
59年前、根室発の列車は、急行1本、準急2本、普通が6本。
スタートの準急の第2ノサップは全車自由席で、根室駅最終とは驚きでした。上野駅まで2泊3日ですから、旅は厳しいですね。
東京からは12:30発の急行西海号33・2033列車で佐世保に向かい、佐世保発11:25の伊万里行624列車で平戸口へ向かうと予想しました。
なんか昔、逆方向で長崎の高島か軍艦島の炭鉱で働いた家族が炭鉱が閉山になって道東の開拓地に移住するために鉄道で向かうって映画があった気がする。あまりに過酷な移動で小さい子が亡くなっちゃったりとか。準急やら急行乗りまくってもこの時間ですもんね。。。
スタインベックの怒りの葡萄に話が似てますね。
山田洋次監督の作品「家族」ですね。TH-camでもこの映画の予告編見れますよ。
この頃だったら急行まりもの函館本線区間と急行北斗の常磐線非電化区間の牽引機はC62だったのではないでしょうか。
後編も楽しみにしております...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
常磐線の電車も高頻度で走行する間を、C62が走行する様子を実際に見てみたかったです。牽引機の情報ありがとうございました。
はつかり号が走り始めた頃は上野駅からC62牽引で、取手までの国電のダイヤを縫いながら上手い速度さばきをしていたのでしょう。
ただ、この時点では平(今のいわき)まで電化が完成し、ピンク色の電気機関車が牽引していました。
@@tomoyankun TH-camで1963年(昭和38年)制作の記録映画 ある機関助士 「常磐線 急行みちのく」で水戸→上野の同列車をけん引するC62が見れます。
根室本線の落合と鹿越の停車ですが、落合は狩勝峠越えの補機切り離しでしょうか。
狩勝峠は旧線の時代ですね。
鹿越は列車交換でしょうか。
今では、釧路から、おおぞら 北斗 はやぶさ のぞみ リレーかもめ かもめで、長崎に着きますね。
早く北斗とリレーかもめがなくなり、ほぼ新幹線で走破できるようになるといいすね。
まさかの通し運用かと思いましたw
青函トンネル通貫後の平成初期での同区間や、稚内→(日本海縦貫線)→(山陰本線)→(鹿児島or日豊本線)→西鹿児島もみてみたくなりますねぇ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
通し運用があっても驚かない位、当時は長距離運転が多かったですね。
日本海側を通って縦断するのも面白そうですね。リクエストありがとうございます。
今より便利な気がします😅
急行まりもは釧路・札幌間が寝台急行で、札幌・函館間は2等自由席(現普通車)が連結されていて小樽と函館間はC62型蒸気機関車で小樽と長万部間はC62型重連で有名になった。札幌と函館間は後にていねになり、最後はニセコ下りは3号上りは1号になって昭和46年9月15日に小樽・長万部間はC62型3重連で有終の美を飾っている。寝台急行北斗ですが、食堂車はオシ16型でビュッフェ付きのサロンカーですね!当時オシ16型は品川客車区と尾久客車区にそれぞれ3両ずつ配置されていました。
山田洋次監督の『家族』では(ほぼ)逆バージョンで行っているんですよね。
青函トンネルの開通があと20年早かったらと考えると残念ですね
稚内→上野とか根室→大阪とかあったかも?と考えてしまいますね
乗り継ぎ時間が短く、忙しい行程でしたね。いまの感覚だと、飲食物を仕入れたり、喫煙タイムを確保するのに、もう少し余裕がほしいかな〜などと思いながら見ていました。しかし、優等列車の優等列車らしい停車駅の少なさ。特に北海道と東日本での“急行列車”の位置付けの高さが現れてますね。
【狩太】【尻内】時代を感じますね。【黒沢尻】はもう【北上】に変わっていたのですね。
仮に、根室から上野まで夜行列車など(主に急行)を乗り継いだらどうなるか、という企画ですね。
1964年は生まれていなかったので、もっと後の時代で似たようなことをやったことがあります。
当時はまだ北海道ワイドが使い放題だった時代で、似たような同志はたくさんいました。
その頃はまだ寝台は使っていませんでした。高かったので。
いやあ、根室から丸一日かけて函館、さらに青函連絡船からヤゴで一気に上野。
そこからさらに西へ西へ…。
準急しもきたは大湊から青森を経て大鰐へ向かったんですかね。
細かくて申し訳ないですが、最後常磐線柏や北千住がないのは、時刻表上未掲載の駅だったのでしょうか。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
国電区間の欄には記載がありますね。完全に失念しておりました。ご指摘ありがとうございます。
大正時代末期には神戸発で青函連絡船を介して
根室行きが有りましたね、羽越本線経由でした
神戸駅2050→503列車→翌々日0530青森駅
函館駅1317→3列車→翌日1549根室駅
ほぼ丸3日の行程でした
それと国鉄時代は根室の昆布を鹿児島まで
貨物輸送していました
根室の歴史を調べてみました
後半何が出るんだろう……(今から楽しみ)
良き時代です❤
おお、これはすごい
もしかしたら、最北端の稚内駅と最南端の西大山駅の旅程も制作されるご予定ですか?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
最北端から最南端もリクエストが多いため、制作しようと思っております。
お、今回は長旅だね。
さぁ、出かけようか。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
日本の広さを実感できる動画になったと思います。
奥羽、羽越、北陸周りの方が短時間で済むかな。
リクエストを送ります
昭和55年の特急「あずさ」3号と新幹線「ひかり135号」と特急「ひだ3号」の時刻をリクエストします。
駅名にフリガナがあっても良かろう