ブルートレイン出雲・食堂車も連結した24系寝台特急
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- เผยแพร่เมื่อ 4 ต.ค. 2024
- 日本の鉄道150周年記念プレミアム(?)作品月間
24系ブルートレイン出雲は、東京-出雲市・浜田間を結ぶ寝台特急でした。2往復あったのですが、私が撮影したころは既に1往復が285系サンライズ出雲に置き換えられていました。東海在住にとって撮影困難な列車でしたが、非営業ながら食堂車も連結された姿は実に魅力的でした。出雲市駅での始発シーン、東京駅での機関車交換も収録しています。
最後に、伯備線経由でDD51重連が牽引する姿もお楽しみに。
#ブルートレイン
#寝台特急
#出雲
大変貴重な映像でした。保存版ですね。
24系25型の客車にはやはりクロスパンタの「EF65 1000番台」がベストマッチですね。この組み合わせ以上に美しい編成は無いと考えています。いや〜、とても良い動画でした。ありがとうございました。
ディーゼル機関車がブルートレインを牽引しているとものすごい威厳を感じてしまう。
貴重な動画ありがとうございます!懐かしいです!
ブルトレでの旅行も本当に良かった。
高校の修学旅行は、臨時列車のブルトレで北海道まで行ったのも本当に楽しかった。
え?
青函トンネル?
そういえば・・・自分の舎弟(現在・JR東日本フーズ(コック当時:日本食堂)勤務)が、出雲の食堂車で業務(コック)していたナ。
今度会ったら、この動画を見せてあげよう。
大好きな列車でした。走行音も美しいです。
ブルートレイン事態が懐かしく貴重な映像です。
出雲のうち上り2号と下り3号に食堂車はありませんでした。理由は東京〜名古屋間を紀伊と併結していたから。この2•3号が瀬戸と併結になりサンライズに名称変更され伯備線経由となりました。
厳密には前身であるいなば時代から九州方面特急と共通運用だった時期には連結はされていました。
全区間営業休止でしたが。
出発時刻が遅く有効な営業時間が短く人件費を考慮しての結果でしょう。
後に運用が品川から出雲に移管され九州特急との共通運用が解かれた際に編成から外されました。
この時期でもすでに人がいない、ホームにも車内にもいない。
この時点で来る将来を暗示していたんだな。
おじさんは歳のせいで500番台が一番好きだけど、PFも側面のラインが客車と合っていてカッコいいと思います
やっぱEF66は貨物機だよなあとかいうと叩かれるかな
おそらく同年代に近い方かと思いますが
同意しますよ😃
概ねそうですね。
個人的にはPFもどちらかと言えば貨物機のイメージ。
65Pか60P専用機とゴハチが東海道客レでの花形というイメージが強いです。
最後のDD51の重連運転格好いい!
私は廃止前に上りの北斗星に乗りましたが、札幌・函館?間はDD51の重連運転でした、札幌駅に入線した時は興奮しました。😊
ものすごく懐かしいです。24系の車両で、いいですね。最高。機関車も電気機関の青色デ一ゼル機関車の赤が好きです。他の寝台特急も有りますけどやっぱり自分としては出雲です。さすがです。
動画の出始めでは、山陰線内は既にDD 51が重連で牽引していないケースなんですね。これは初めて見ました。
特殊な事情が無い限り本来は単機運用なんですヨ
ブルートレイ😱凄い‼️
チャンネル登録させていただきます✨😌✨
近年まで出雲(山陰経由のブルトレの方)に連結されていた食堂車は晩年の頃、フリースペースとしてロビーカーと同じ扱いをされていましたね。
貴重な動画ですね。きい
紀伊を名古屋までつないでましたね。
寝台特急出雲号は僕にとっては永遠の「ザ・山陰特急」です。
貴重な動画ありがとうございました。出雲線が残っていれば面白かったんですが。
初めて乗った寝台特急が「出雲1号」でした。
名古屋から出雲市まで、4号車のB寝台下段でした。5号車の食堂車はすでに営業していませんでした。
当初A寝台個室にしようかと思ってましたが、初めての寝台列車、B寝台でもいいか、と思いましたが
夜中に同じ4号車の他の乗客の話し声に目が覚めてしまい、イライラしました。
その迷惑客にガン見しましたら、そそくさとベッドに戻りました。
周りに他人がいる事を考えてもらいたいよね。自分達に心当たりがあったんでしょうね。
せっかくの「出雲1号」の思い出が…。
でも出雲市駅でDD51牽引の「出雲1号」の記念撮影。その後は出雲大社へ。
良い思い出でした。
またブルトレが復活する時代が来ると良いですね。
Very brilliant and enjoyable ⚘
寝台客車の出雲は京都駅からDD51型ディーゼル機関車にバトンタッチをして山陰本線を走ってましたね、食堂車が無くなったときは寂しさを感じましたね、現在はサンライズ出雲になって山陰本線から東海道線山陽本線にルートに変更されて運用されてますよ。
そんな事
くどくど言わんでもわかるわ
確か寝台特急出雲の食堂車は全区間で営業をしていなかった、と聞いたことがありますね。車両はさくらやはやぶさ、あさかぜとの共用だったため出雲の運用の時だけ食堂車を切り離し抜いて編成するわけにもいかずに営業休止車両として連結していたとか。
編成を共通運用していた九州寝台特急で食堂車が整理された影響で1991年に営業休止になりました。
以降は区間限定で弁当販売を主とした売店として機能し、
末期は博多あさかぜ用に整備された豪華な食堂車を使用していたので普段はサロンカー状態でした。
航空網が充実するまでは座席確保が難しいほど盛況であり、
上り列車では食堂車も空席待ちになる事がしばしばでした。
一方で下り列車は出発時刻が東京発寝台特急としては遅く客単価が高い夕食での営業時間が短くなり収支面では不利でした。
出雲の利用状況が悪化した理由の一端は民営化以降サービスが低下し続けた事は否定出来ません。
食堂車が有るものと思い乗車したら何も無いのでクレームを付けている乗客には幾度となく遭遇しました。
確かにそうでしたが、晩年、JRになってからは所属が浜田編成とその時点での「あさかぜ」博多編成が共有化されて、金帯のグレードアップ、そして同じタイミングで「あさかぜ」連結のオシのみ食堂車でも北斗星のように内装もグレードアップされたものが連結されるようになりましたので、外装の金帯3本してもらいながらも出雲のオシだけはそのままの運用になったいましたね。
ほぼ同じタイミングで「みずほ」の食堂車も休止されたと記憶しています。
長距離列車の食堂車は「華」ですので、連結されていても休止であればなんだか寂しい感じはしていました。当時は名古屋駅でよく出雲をみていました。(バイト帰りの時間によく出雲に遭遇していました)
映像に有りませんが、晩年は電源荷物車にヘンテコ車体・お顔なマニ24が連結(車両が尾久車両センター所属化の影響で)された事が有りましたよね?
ありましたありました。耐寒改造されたカニ24-500が使われることもありましたね。主に511番。
昭和50年代末期、鉄道雑誌のジャーナルかファンの特集で下り列車乗車のレポートを見た記憶があります。印象に残る内容が2点あり、そのうちの1点をまず…。A寝台個室に若い母親と幼い女の子の親子。旅の思い出が女の子にいかに映ったのか…。ただ一人用で窮屈でなかったのか…。あと、上京している子供さんを訪ねた帰りにB寝台に乗車したおばあさん。飛行機も新幹線も苦になるので利用したとか…。70センチ幅には座れず、シート(寝台)に正座していました。親御さん子供さんたち、今の寝台列車の現実をどう思われるだろうか…。
ブルトレは、やっぱり、EF65PFですね。
最後の伯備線は迂回運転でしょうか?
京都遠征し山陰本線で餘部で宿泊して、早朝の餘部橋梁を渡るのを撮影しました。
関東への単身赴任の往復は、いつもブルトレでした。
金帯編成のオシ24は、ゴージャスな内装でした。
東京行き 出雲4号 浜田行き 出雲1号
何しろ寝台券が取りにくかったイメージです。
食堂車といっても末期は連結だけされていて営業されてませんでしたけどね
金帯の25形を見るとあさかぜ1・4号を思い出す山陽本線民です懐かしいですね d(˙꒳˙* )
幼稚園児の頃時刻表見て
「おお!京都通過してるのにどうやって機関車を付け替えてるんだ?」とのたまった思い出
もう東海道と山陰線直通ってしないんだろうなあ
一応線路繋がってるけど
“時間がかかる、設備はネカフェ以下、料金だけは一人前以上”の客車寝台特急は、滅ぶべくして滅んだのでしょう。上りの北斗星に乗ったことがあります。散々な移動でした。ソロのB寝台と「同じ料金」の開放上段は使い勝手が悪すぎ。自販機が故障で飲み物が買えなかった(札幌駅でのアナウンスもなし)。車内販売駅弁は、注文制のうなぎ弁当一種類(札幌駅でのアナウンスもなし)。出張の帰り(無理して北斗星乗車の許可が出た)のスーツだったので、JR北の車掌に3回も呼び止められた。先頭車両の連結面の寝台で、夜中の連結器の騒音がひどかった。とにかく最低で、大宮で乗り換えて新宿に向かいました。
さよなら列車?希望にて審査を?黒字列車創作は四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車両連結を製造に専門型?似た機関車型。
愛知嫌い男より。松江の田舎に行く列車。
中途半端なパンして下手な撮り方の見本だな。
さぞかしあなたはうまいんだろうな