ベートーヴェン【生涯と名曲】【クラシック】レオノーレ前編~ベートーヴェン唯一オペラ 作曲背景とあらすじ
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- เผยแพร่เมื่อ 22 พ.ค. 2024
- #クラシック音楽 #作曲家解説 #名曲 #クラシック
#ベートーヴェン #レオノーレ
後編はこちら
• ベートーヴェン【生涯と名曲】【クラシック】レ...
0:50:00 〇オペラ委嘱
3:28:00 〇レオノーレの台本
6:30:00 〇救出オペラ
9:08:00 〇レオノーレあらすじ
この動画はクラシック音楽の入り口として、エンターテイメントとして作成しています。
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■参考文献
ベートーヴェン上 著:メイナード・ソロモン 訳:徳丸吉彦、勝村仁子 岩波書店
ベートーヴェンの手紙(上) 編訳:小松雄一郎 岩波書店
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■クレジットなど
エロイカ変奏曲 演奏者ページ Ivan Ilić (Piano)
公開者情報 Paris: Ivan Ilić
著作権 Creative Commons Attribution 3.0
備考 Pianist Ivan Ilić recorded by Judith Carpentier-Dupont in Paris, July 2005
ベートーヴェンんのオペラ《フィデリオ》は《レオノーレ》として何度も改訂されています。
少なくとも現在知られている《フィデリオ》では、ロッコがフィデリオに、フロレスタンに対してパンと水を与えるよう命令したという事実はありません。
むしろフィデリオがせめて水(残り物のワインだったかも?)を与えたいというのに対し、ロッコは散々渋った後許可。
フィデリオが、ポケットに三日間持ち歩いていたというパンを与えてもよいかと尋ねると、「それはやりすぎだ」と反対する始末。
最後にはこれも「それならかってにしろ」的にしぶしぶ許可しています。
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《レオノーレ》が《フィデリオ》に改訂されていく過程について、前ベートーヴェン研究所所長で《フィデリオ》校訂者であるリューニング女史を交えてシンポジウムが開催されたことがあったのですが、この場面については特に何も指摘されていなかったような……。
尤も、台本もゾンライトナーからトライチュケに変更されていますし、細かい変更はもしかしたらあるのかもしれませんね。
ベートーヴェン全集をつぶさに調べれば出てくるはずですが。
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ベートーヴェンがオペラでは成功しなかった、とは必ずしも言えないと私は思います。
《フィデリオ》のウィーン初演は大成功でしたし、何よりその後、欧州各国の主要劇場にこのオペラは売り込まれて上演されているのです。
私の住む州の州都の劇場にも、ベートーヴェンとトライチュケのサイン入りで、当時各劇場に送られた筆写スコアが所蔵されていて、図書館の自筆稿・写本部門の目玉になっています。
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私は、シューベルトの初期の自筆譜から直接、紙の透かしを収集するだけのウィーン滞在費用が捻出できず、かといって私の論文の眼目である、製紙工場ごとの紙漉き簀、紙の透かしの継承過程の全容を復元しなければ話にならないので、ついにキースリング製紙工場の初期の紙の透かしは、この州都の州立図書館の《フィデリオ》筆写譜から採集しました。
貴重本ですし、村からバスと列車を乗り継いで州都に通うのも大変だったのですが、ウィーンに部屋を借りて滞在するよりは費用が掛からずに済むので、もう仕方がないな、と。
だからこの筆写稿のことはよく知っています。
正真正銘、ベートーヴェン初期、中期の自筆譜と同じ五線紙を用いられて書かれており、ベートーヴェンとトライチュケのサイン入り限定版です。
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つまりそれだけ、ベートーヴェンは自信をもってこのオペラを全欧州に売り込んでいたし、また売れたということです。
多分、当時なりに著作権とか、演奏権のような考え方があって、ベートーヴェンとトライチュケのサイン入りの筆写譜を彼らから購入しなければ、上演はできなかったのではないでしょうか。
当時のオペラは、大量に新作が作曲されて消費される方が普通でしたから、こんな風に欧州中のオペラ座に売り込まれて上演された曲は、大成功と言わざるを得ません。
ベートーヴェンがオペラはこの曲一曲しか書かなかったのは、彼なりの人間の理想像を描きたいという拘りがあったからではないかと私は思います。
つまりは、ベートーヴェンを惹きつけて、作曲したいと思わせるような台本に、彼は生涯、もう出会うことがなかったということ。
フィデリオは第3作で大成功を見たようです。その話は後編に取ってあります。
脚本は第一作がゾンライトナー、第二作はブロイニングが編集、第三作がトライチェケが関わったものですね。
フロレスタンに食糧と水をやる場面については私の曲解でした。ご指摘いただきありがとうございます。
詳細なお話、ありがとうございます。
@@クラシック音楽奇譚
トライチュケは、シューベルトがケルンテン門脇宮廷オペラ劇場から委嘱された《双子の兄弟》の上演が一年延期された挙句に決定したさい、検閲局長として許可のサインを与えています。
ゾンライトナーは当時どういう立場だったんだったかな?
一度調べたのですが、忘れました。
いずれにしろ、《フィデリオ》も、宮廷オペラ劇場からの委嘱ではないとはいえ、台本作者が変更された経緯にも、当時のウィーンのオペラ劇場がかかわっていそうですね。
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資料研究の際に気づいた興味深いことはたくさんあり、調べきれないものがたまっています。
ある程度の年齢になったら、そういうやりきれなかったものを弟子たちに卒論などのテーマとして与えて継承させていくべきなのだろうな、と思っていたのですが、どうやら私にはその機会が与えられずに終わりそうで……。
それ以前に、紙の透かしとラストラールによる年代判定研究関係の研究者が、日本の小林義武氏を含め、タイソン、ダーデルゼン、アルフレート・デュル、ヴァルター・デュル、ヒルマーら、前世紀末から今世紀にかけて軒並みなくなってしまったので。何とかして私の研究成果をドイツ・オーストリア人に継承しておく方が先かな、と。
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できれば集めた資料を日本に持ち帰って、前述のようなやり残した研究テーマを日本の後身たちに継承したいです。
ケルビーニの《二日間》や《ファニスカ》も、シューベルトが見た記録のあるオペラの一環で、ずいぶん調べたのですよ。
《フィデリオ》の自筆譜もシューベルトは調べて、改訂の経緯に驚嘆し、「改定する前も、その跡と同じくらいよいように僕には思える」と言っています。