【織田信長の孫の合戦】関ヶ原の戦いの前哨戦「米野の戦い」における三法師こと織田秀信と東軍の大軍との戦い【道と地形図で合戦解説】
ฝัง
- เผยแพร่เมื่อ 30 ก.ค. 2024
- 関ヶ原の戦いにおける前哨戦のひとつである「米野の戦い」は
清須会議で秀吉に担がれたあの「三法師」こと織田秀信の戦いになります。
小山評定で転進した東軍諸将を地図で解説
本能寺の変で運命の変わった「三法師」のその後についても
清洲会議などを地図で分かりやすく解説します。
あまり語られることのない織田家嫡流の最期の出撃を
オリジナルの地図を使って分かりやすく解説しております。
3Dの立体的な視点での部隊の動きの展開や
グーグルマップに詳細に描いたリアルな地図が特徴です。
この動画を見て動画の舞台となった地に旅行に行ってみたいと
思ってくれたら幸いです。そうだ美濃へ行こう!
00:00 プロローグ
00:15 東軍諸将の進撃
08:17 織田秀信の出陣
14:32 米野の戦い
22:43 乱闘橋の戦い
27:23 エンディング
【おすすめの参考文献】
高橋恒美「米野の戦いリテラシー」(2012、岐阜新聞社)
amzn.to/456MEHm
米野の戦いを題材とした恐らく唯一の書籍になります
新品で購入するのはもう難しいと思われますので
古本で買うしかありませんが、古本でも買う価値はあると思います
柴裕之「清須会議 秀吉天下取りへの調略戦」(2018、戎光祥出版)
amzn.to/3Og5mFo
清須会議について最新の研究が反映された書籍
清須会議や賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いについて
理解するには最適の本だと思っています、かなりおすすめ。
笠谷和比古「論争 関ヶ原合戦」(2022、新潮社)
amzn.to/3QeDvrN
いわゆる新説の関ヶ原の戦いを否定する内容と思うかもですが
関ヶ原の戦いの概説本としてかなり優秀な本だと思います
渡邊大門「関ヶ原合戦全史」(2021、草思社)
amzn.to/3YeXhpc
関ヶ原の戦いを題材にするなら目を通さなけれならない書籍
全史と名乗るだけかなり広い範囲で解説しております
当チャンネルの動画作成を応援いただける方は
メンバーシップの加入でご支援よろしくお願いします
/ @yoshifuji-sengoku
<よしふじ歴史ちゃんねるの動画>
「上村合戦」実は武田と織田による東美濃争奪戦
• 【図解】上村合戦・実は武田と織田による東美濃...
「滝山合戦」長篠の戦いの因縁
• 【武田勝頼と徳川家康の合戦】信玄死後の知られ...
「新説・三方ヶ原の戦いの実態(前編)」武田信玄の侵攻経緯と一言坂の戦い
• 【徳川家康と武田信玄の合戦】新説・三方ヶ原の...
「新説・三方ヶ原の戦いの実態(後編)」武田信玄の侵攻経路と本戦解説
• 【武田信玄と徳川家康の合戦】新説・三方ヶ原の...
「馬頭原の戦い」三河一向一揆を殲滅
• 【徳川家康の合戦】三河一向一揆 最大の激戦 ...
「小川安政の戦い」三河一向一揆の実態
• 【徳川家康の合戦】三河一向一揆にトドメを刺し...
「三河平定戦の実態」徳川家康vs今川氏真、三州錯乱
• 【徳川家康と今川氏真の戦い】実はかなりヤバイ...
「清洲同盟の実態」織田信長の濃州発向と徳川家康の古鼠坂の戦い・石ヶ瀬川の戦い
• 【織田信長と徳川家康の戦い】清洲同盟の実態【...
「桶狭間の戦いの実態」織田信長vs今川義元
• 【織田信長の合戦】桶狭間の戦いの実態【道と地...
地図引用元:Google社「Google Earth」、地理院地図等を加工して作成
使用楽曲:「 銀の意志 金の翼 Instrumental Ver. / 空の軌跡FC & SC スーパーアレンジバージョン / Copyright © Nihon Falcom Corporation 」
#関ヶ原の戦い
#米野の戦い
#清須会議
領地が信長の野望みたいに色分けで綺麗だったり名古屋市港区が海だったりと地形にも配慮してあって義藤さん素晴らしい
地図はかなり頑張ってるので褒められると嬉しい
織田勢が実に優秀。生き残り百々、木造らが結構な高禄で召し抱えられたのも納得。
実はがんばっていたんだよー!という訴えを理解いただけて感謝です
この辺りの話は大河ドラマの葵徳川三代でやっていましたが、自分も織田方はあっさり負けて岐阜城に引き退いたくらいにしか思っていませんでした。それで、あの織田家も落ちぶれてしまったものだと思っていたのですが、かなり的確に動いて善戦していたのですね。とてもよく調べられていて興味深い動画でした。
三法師。あっぱれ~。👍
織田秀信はこの敗戦で岐阜城から出てくる直前まで家臣たちの再就職のための紹介状を書いていたそうですね。優しい人だったようです。
名を変えて高野山の麓で子孫も続いているとか。
続編の岐阜城の戦いの動画そこもふれてみました
@@Yoshifuji-Sengoku そうですか!ご返信ありがとうございます。動画見てみます。
岐阜城がたった3日で落ちた為に、三成が
「はえーよ!軍の集結が間に合わねーよ、輝元早く呼べ」とろうばいした為に、島津、小西が呆れ果てた話すき。
輝元は輝元で「あーあ…こりゃ三成終わったか、損切りした方が良いな、停戦の準備しとくか」という… 最初から三成は輝元の野望の生贄という
一貫して自分の利益の為に周りを利用してるという点では祖父譲りのあくどさがある→伊予や豊後に大友・河野ら旧守護を捨て石にしたり本戦そっちのけで阿波攻めで占領等
東軍が早いんじゃなくて三成がおせぇよ!
田辺城なんてガン無視して岐阜城と福束城に兵を入れとけ!
三成の大垣入りがおそらく8月10日、東軍で最も早かったと思われる一柳が8月9日に帰還、8月21日までには伊勢や畿内から援軍を呼ぶ時間はあったかなぁと思います
岐阜城攻略は割りとあっさり片が付いた風に言われてましたが、全然違ってて興味深いですね。
結局のところ負けは負け出し援軍が来なかったことで戦力的にも無意味になってしまったので全体からすると意味が無くなって簡単に済ませちゃっても問題ないという・・・涙
秀吉に担ぎあげられたボンボンみたいな書き方をされる事が多いですが、秀信公及び家臣団の行動がこまめに解説されていて良かったです。
戦後岐阜城攻めに参加した大名家の勧誘を受けた武将がいたのもこの戦いで奮戦したからこそだと思います。
続編の岐阜城の戦いの動画で家臣団のその後にもふれております
東軍5万とか兵数差がエグすぎますね
そんな状況でも的確に防衛線を引いて戦線を崩さずに第二防衛線に後退、更に不利になっても城まで崩壊する事無く撤退できている
この兵数差でここまで戦えているのは十分に信長の孫、信忠の子と言える才覚が秀信にはある証拠ですね
それにしても判断の遅い石田三成・・・
まぁ、主戦場を間違えた西軍全体の責任ですね
岐阜城に集結できて一大決戦してればまた歴史が変わったのかなって思えてきます
この後、夭折してしまったのが悔やまれますよね。
西軍についたこの秀信の他、宇喜多秀家、小早川秀秋ら若き中納言たちは、関ヶ原によって運命が変わったが如く若くして歴史の表舞台から姿を消していったのが印象的です(秀家は流罪先でずいぶん長生きしたけど)
西軍は東軍がこんなに早く転進して来れるとは思ってなかったようですが、ちゃんと反応している岐阜の織田家中は偉いなぁと思ってこんな動画作ってみました
西軍が岐阜に集結したIF動画も面白いかなぁ
秀信の最期も次の動画でやりたいと思います
織田軍による寡兵での緻密な撤退戦がバッチリ再現されていて今回も見応えありました。「西軍の敗戦」と一言で片付けてもよさそうな一つの戦いをこれだけ再構成してくれる人は他にいないですよね。友軍の支援を受けられない中、可能な限り合理的な戦いをした織田軍の将校たちも草葉の陰から「いいね」してくれているのではないでしょうかw
もうほんと織田秀信は倍の敵に対してめっちゃ頑張ったんだー!
無能な三代目じゃないんだー!! の想いで動画作ってた感じです。
ちょっと思い入れあり過ぎてマニアックになり過ぎましたが、
まあ、いつものことかー(爆
@@Yoshifuji-Sengoku おかげさまでマニアックにも大分目が慣れてきたもので、知らない部将がずらっと出てきても落ち着いて見ていられるようになりましたし、家系図今回は控えめだな…とか思えるようになりましたw 新名神ルートが出来てから通らなくなりましたが、たまには関ケ原通って帰省しようかなぁ。
そのうち今回のマニアック代表な中島重直の父ちゃんとか生駒平三郎の父ちゃんとか兼松さんとかが出て来る動画も作りたいです、関ヶ原は新幹線で秒で通過したことしかないなぁw
@@Yoshifuji-Sengoku その辺の武将気になってました! 見たいなぁ、、ショート動画にするとか、マニアック武将への愛をぜひ表明してほしいw
またまた興味深い動画ありがとうございます。
まずは、動画前半の東西両軍の各大名を地図で表示してくれたのが良いですね。
徳川方についた大名の名前は文献で読んで知っていてもそれぞれの領地の大きさや
配置とかはなかなかイメージできませんから。
そして本編、私も織田勢はあっさり負けて兵を失い岐阜城に逃げ帰ったと思ってました。
撃って出ないで兵を温存、最初から籠城してればもっと長く持ったんじゃね?と思ってました。
ここまでの防衛戦をやってたとは知りませんでした。
関ヶ原の勢力図については全国のものが完成していて
そこから東西の色分けも作ってみました
なかなか手間が掛かってますので褒められて嬉しいです
米野の戦いは史料が少なく、端折られて簡単に負けたとされてしまいますが
結構、頑張っていたことを伝えたかったんです
この木曽川渡河の時点で迎撃ラインが大きく後退するので、西軍かなりキツイんですよね。秀信の奮戦に呼応できる十分な兵力が大垣に無かったことを考えると、見てるだけでツラくなります
織田秀信は祖父の信長に似て派手好きな面はあったものの、岐阜の統治も問題なく行っていた。特に宗教面ではキリシタンではあったものの、他のキリシタン大名と違い寺社の保護も積極的にしていた。戦闘面は経験の差で敗れてしまったものの東軍として戦った福島正則らもかなり評価していたとされる。残念だったのは高野山に配流されて、祖父の行いによって迫害に遭い早死にしてしまったことだと思う。早死にしてなければ織田家として再興も許されていたかもしれない。
岐阜城の戦いの動画も見てくれればと思います。
福島正則の高評価なんかも書いてますので
織田秀信の関ヶ原の時の戦の詳細は、詳しく伝えられていないので、ありがたい。
いやー、素晴らしい調査力ですね。感嘆致しました。次の動画も楽しみにしております!!
面白い。いつも細かい説明がすばらしい
ありがとう♪
性格は信長に似て派手好きだが、戦はイマイチみたいに言われてるけど
全然そんな事ないと思う。
場数と経験の差だと思うし、十分に信長の孫と言える気骨と才ある将だと思う。
自領の統治も優秀だったし
信長→信忠→秀信が治める世も見たかったかも。
良き3代目になったと思う。
続編のラストを3代目で締めてみました
とても詳しく面白い待っていました
すごい細かい❤子づくり長政だけ記憶に残った😂
「子づくり」長政の発想は無かったwww
次もまたすごく細かい動画になりそうですが良かったら見てください
地図、解説共に極上
ありがとう♪
この戦いでの東軍のメンバーは池田を除いたら豊太閤が織田家の家臣時代からの主だった戦いに参加した戦いを知り尽くした人たちですね。織田方の木造や百々も戦国期を戦ってきた実戦経験が豊富な武将ですね。現状でできる最良の防御作戦を立ててるのが理解できる。西軍は大津や舞鶴あたりに軍勢をばらまいたつけは大きかった。
もっと味方が多かったら、もっと兵が多かったら・・・
諸将が敵になるか、味方になるか、混沌として、そして、東軍諸将がまとまっていく為の戦いでもあったのですね。
どっちかというと東軍は喧嘩ばかりしてるw
秀信は岐阜領内では信長の政治手腕を参考にして善政を敷いていたようだし、敗北はしたけど戦上手だし、父信忠以上に信長のDNAを色濃く受け継いでいたように思う。
本能寺の変がなく織田政権が軌道に乗っていれば間違いなく治世の名君だったはず。
続編の岐阜城の戦いでラストは名君になったかもで締めてみました
秀信君、顔立ちも爺ちゃんに無茶苦茶似てる!って同時代史料にありますね。
東軍についてたら?もっと長生きしてたら?色々残念なことだらけ。
今回も大変有意義な動画ありがとうございました。
肖像画も3代並べて見ると結構似てるんですよねぇ
本能寺がなかったら良い三代目だったろうになぁと思います
現在の大河では成長した三法師の奮戦を描いて欲しいものです。主さんの語り口は坂口安吾の歴史講談を思わせて心地よいですね。
あんまり台本は褒められないので嬉しい
岐阜四天王(但し一人)www
五人とかいる多いパターンは知ってたけど一人で四天王とは😂
途中の印食、作業しながら聞いてたら「インチキ」!?と空耳してしまった😅
岐阜四天王ただし一人のネタで笑って貰えてよかったw
なぜか実際に一人しか分からないのでマジ「ネタ」ですが。
印食のような難読地名にはめっちゃ苦労してます。
承久の乱のころから食渡(じきのわたし)はあったようなので
伝統ある地名みたいですね。空耳アワーもなつかしす・・・
良かった!!中学の頃に発行された歴史群像シリーズ(当時は別冊ムー)の関が原で、こうした前段が事細かに記述された記事を読んでワクワクして読んだなぁ。こうした展開があったうえでの関ケ原、そこに至るまでの虚々実々の駆け引きがあったこと知り、ますます歴史にはまってしまったんだよな。大河「葵徳川三代」ではこの辺りをかなり細かく描写してくれてあれは最高に面白かった。
この戦いに出た東西の諸将って結構短命だったり悲しい結末だったりするんだよね、、
歴史群像シリーズはよくお世話になってました、最近は保管スペースの関係で買えないので電子書籍で出して欲しいと思うこの頃
三法師の戦術眼が完璧すぎて草
松下のりつなって、多分秀吉の初バイト先ですね。「アイツは覚え早いなんてもんじゃなかったわ、ワシんとこなんかに収まらんとは思ったが、出てく時は生き残れるかなと思ってたわ」とか言ってそう、感慨深い。
人生いろいろですね…硬い家に生まれたはずの三法師、これだけ有能な家臣が団結して戦ってるってことは、それなりの人望はありそうです。
三成についた判断だけわかりませんが…家康と何か有ったんでしょうか、秀吉を継父と思っていた?
最終的に意味不明の大軍による先陣争いに持っていくあたりが、家康の怖さかな。かなり早い段階からこの流れを見込んでそう。
秀吉子飼いの諸将は関ヶ原の戦いが恐らく生きてるうちにやれる最後の戦いって踏んでたんだろうな
目論見外れて主家の豊臣が滅ぼされる大坂の陣が起こるけど予測できなかったろうな
三成に夢中だもん
動画投稿ありがとうございます。内容も楽しませていただきました。
織田勢は東軍の進軍を想定し、きちんと備えていたようですが、十分な援軍が得られなかったというのが全てでしょうね。
攻めてくるのは大垣の三成も想定してたと思いますが、5万の軍勢が押し寄せて来るのはまさに想定外と言えるでしょうね。
ただ東軍も東軍で藤堂高虎や黒田長政始め大坂以西の大名もいたので気分は穏やかではなかったと思います。
そんな唐入りも経験している戦国後期のオールスター相手に絶望的な戦いを組織立って戦い抜いたのも称賛すべきものがあります。
あと差し出がましいですが小山評定はなかったのではと新説が出ているようですね。村山直吉の件も村山本人は家康は動けないと言っただけのようで
動画内での発言は家康を持ち上げる為の後年の創作ではないかと思います。
やはり清州にいた東軍は相当気が立っていた状態で清州に引き籠り続けた鬱憤が爆発したのが徳川無しの岐阜への進撃でしょうね。
家康も家康で指揮権を取り上げられた状態なので動けるに動けない状態だったのでj酷だとはと思いますが。
長文失礼しました。
めちゃくちゃ見応えありました🫶
スーパーサンクスでの応援ありがとうございます!
Akira Kさんにまた褒められるような動画を頑張って作りたいと思います
とりあえず今週中に続きの動画を投稿の予定です
岐阜城は東側からの攻撃に対し、木曽川を天然の堀とする前提で築城されていますから、防衛の為には東軍の木曽川渡河を全力で阻止する必要があります。何故三成は岐阜城に十分な援軍を送らなかったのでしょうね?大垣城の石田、宇喜多、小西、島津の軍は、4部隊合計で3万弱くらいは居た様なのに…。岐阜城陥落後、彼らは大垣城で東軍に包囲されますが、なら初めから川を天然の要害に出来る岐阜城防衛を重視すべきだと思うのですよ…。謎です。
三成が援軍を送る権限があったかは置いておくとして、この時にはまだ西軍が集結しておらず、岐阜城に大規模な援軍を送りたくても送れなかったのが実情じゃないですかね〜。
米野の戦いの時に大垣城にも兵を残しておく必要がありますし、またこの時、西軍最大規模の兵数を要する宇喜多軍が大垣城にいたかどうか分かる資料がないんですよね…
大西先生曰く、当時の資料でみると宇喜多軍は伊勢方面を担当しており、秀家が指揮する本軍1万と明石軍8千に分かれていました。
米野の戦い4日前の8月19日までは明石軍別働隊が伊勢にいるのが書状で残ってますし、秀家が大垣城に確実に入ったと分かる資料は8月27日に石田小西島津宇喜多の4名で禁制を出してるのでその日には確実に入ってます。
もし秀家が米野戦い前から大垣城に入城していたんだとしたら、早くから大老秀家の下で禁制を出してるかもしれないですし、米野、岐阜城攻防戦の際に大垣から石田島津隊が出撃してるのに、それより多くの1万の数を要する宇喜多勢が出撃してないは不自然なんですよね。
例えば秀家が大垣城にいなかった場合、指揮系統的にも(合議制、白峰説)、大垣城にいる兵の数的も少なく(石田小西島津)も岐阜には援軍が送れないですし、
だからか三成も岐阜城には援軍を送れず、大垣城から近い墨俣で石田島津勢を展開させたのかもしれませんね。
大垣に宇喜多本隊が入ってたとしても、西には福島ら1万6千の軍(後に岐阜城攻撃軍に合流)が美濃に侵攻しようとしている以上、秀信を助けるため大垣城の軍を米野まで出そうにも、大垣城にはそれなりに数を残さないといけませんし、
もし岐阜に石田小西宇喜多島津を展開してる状態で、東軍により大垣城が落ちる、もしくは東軍に包囲される事になれば、近江と美濃の間が分断され、補給を絶たれる事態を恐れたのかもしれないですね。
長文失礼しました。
参考文献
大西2019
白峰2017.2019.2021
水野2021
石田三成が総指揮官のように思われていますけど
そんな事無いですよね
自分も昔は石田三成が総指揮官だと思っていましたけど
冠位も石高も皆と変わらないか少ないですし
豊臣秀吉の後継者でも無いし秀吉の威光も後ろ盾も今は無い
戦争指導は宇喜多秀家を中心に合議制であったように思えます
三成に出来る事と言えば「なんとかこっち方面を攻めていただけませんか?」ってお願いするのが精一杯だったはずです
宇喜多秀家を関ヶ原後に捕らえて斬首出来なかった事
毛利輝元に領地を残す結果になった事で
関ヶ原の後捕らえられて斬首された三成が最高指揮官であったって庶民に解釈されて今でもその解釈が続いてるんだと思います
そういう解釈の方が解りやすいから
加えて、岐阜城でしばらく耐えられるはずだから、兵を集めてから後詰するという予定だったのかもしれませんね
西軍の状況もどこかで解説したいなーと思ってます
西軍は大垣に兵を入れるより、岐阜城に主力を入れておいた方が有利でしたね。少ない兵力で岐阜、大垣両方守るより、集中して東軍の木曽川渡河を防いだ方が楽そうですが…。いずれにせよ、東軍が碌にいない伊勢方面に何故大軍を集めたのか、意味がわかりませんね。
信長の孫とあってそこそこ強かったんだな
無能な三代目という評価はやめて欲しいなぁと思って動画作りました
13:43 岐阜城からは濃尾平野を一望できるので、敵の動きや兵力はよくみえていたのでは……天気次第ですが
川の配置が素晴らしい。
河川の旧流路とか旧街道はかなり気合入れてます
細かい地名まで全部わかる場所だからめちゃめちゃ楽しい。
河田の渡しの辺りは一部を除いて時期次第で歩いても渡河できる程度の水深。逆に起の渡しの辺りは年中水深が深いから渡し船が無いと渡れない感じかな。
どっちにせよ清須〜岐阜間はほぼ完全な平地だし岐阜城は大軍の籠城戦には向いてなさそうだから厳しいよな…
西軍は関ヶ原ではなくて、木曽川をはさんで、織田秀信とともにここで戦うべきでしたね。
せっかく西軍につけた織田秀信を見殺しにしてしまったというのが西軍の敗因のひとつですね。
23:11 「岐阜四天王(ただし一人)」というパワーワードw
そこは笑って欲しいところだったので、ネタに反応感謝ですw
一人四天王はネタじゃなくて、本当に一人しか判明してないんですけどね(苦笑
東軍の豊臣恩顧の家臣だけでも強すぎる。
加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、加藤嘉明、細川忠興、浅野幸長、藤堂高虎、田中吉政、山内一豊、京極高知
秀信は この戦いの後高野山に流され25歳で亡くなっています。和田孫大夫信盛は秀信の正室の親で近江の六角氏の流れをくむ人です。
愛知の親戚に武市というのがいるので名前が出てきてビックリ。徳島藩士の親戚だったんですね。徳島の人が岐阜の織田家に使えてるのは謎・・・
蜂須賀も織田の旧臣になりますので織田家臣団で繋がりはあったのでしょう
数で来られると木曽川、境川の防衛も難しいでしょうね。
関ヶ原する前に、防衛線を木曽川に兵力を集結させなかった三成が悪いですね😂
土岐家の3家老で中島政重という人がいたらしいが、同族かな?百々が峰という名前で残ってるよね。(地元)
石田三成の最大の敗因は、秀吉と尾張生駒家=生駒久菴の主従関係の影響力(秀吉が従、藤吉郎とは藤原氏=生駒家の郎党という意味)を、まるごと軽視したこと
秀吉の両親は、尾張中村の父親と、美濃関の母親を、仲人した生駒家による夫婦関係であり、福島正則や加藤清正はその人脈の代表
三成は、秀吉近習では近江の後発組で、尾張美濃の先発組への対抗意識から、生駒家への対応をないがしろにした結果、尾張本家は福島正則ごと家康に付いてしまい、讃岐生駒家や阿波蜂須賀家にも二股をかけられてしまった
織田秀信は、生駒久菴の孫であり、三成が秀信さえ見捨てなければ、福島、加藤、生駒、蜂須賀らも、まだ動向が分からなかったのに、三成は完全に自滅した
信長は家督譲ってるから、確かに信忠の子が次ぐのが当たり前ですね、後見人争いというこっちの方が説得力あるな。
織田秀信ってなんで評価低いんかな? こんな戦い勝てって方がおかしいだろ
織田秀信の評価が上がれば良いなぁと続編の岐阜城の戦いも作ってみた
最初から、家康は味方の裏切りを警戒していたんだな。
三成は味方の裏切りを警戒せず、みすみす信秀を見殺しにしてしまった。
犬山城がまるっと裏切るしねぇ・・・
さすが内戦ばかりしてきた連中だ。きちんと地形と防衛戦の張り方は心得ている。つまるところ、兵数と士気がいつの時代も鍵だった。
結局、「戦いは数だよ兄貴ぃ!」が正解ですねぇw
開始数十秒で地図に圧倒された
どの地図が良かったですかね?参考までに教えて貰えると助かりまする
@@Yoshifuji-Sengoku全国地図の諸将の版図、清洲会議時点も関ヶ原時点のもよかったですし、木曽川の流路、渡河経路の図もずっと見てられそうに思いました。
静止画はパクられる危険性があるというのであまり出せないのですが
メンバー限定なら問題ないかなー、清須会議の版図と東西二分なんかはメンバー限定でUPしてみます
この時期織田秀信家臣木造家2万5千石が関ケ原の後福島正則家で2万石で存続してますが、関ケ原で西軍側についた大名の家臣武将でこのような大禄で存続できた例は他にあるのでしょうか?このような高禄では福島家中からの反発も強くあり得ないと思うので関ケ原時に福島家に対してなにがしらの手柄があり福島家中も納得の戦功があったと思われるのです。
渡辺了(増田長盛>藤堂高虎)という名物男、また、西軍大名から浅野家の家老になった上田重安とか。
この辺やはり、司馬さんの作品からの仕込みですけど。
結構いたと思いますよ。
動画に出てきた百々綱家も土佐山内家で7000石で存続しています。
織田秀信の家中のその後は次の動画で語りたいと思ってます
@@Yoshifuji-Sengoku おお!
そういえばこの時代から一世代前の信長の美濃攻めは、
起ルートは使っていましたが、河田ルートを使っていたイメージがないですね(犬山城を起点に鵜沼へ抜けるか中濃方面に行くかというイメージ)
犬山城が敵の手だから河田ルートになったと考えるのが自然なのかなぁ
元織田家臣が多い戦いだから顔見知りも多いと思われ古株ほどやりにくい戦いだったと思いますよね
天正14年「西暦1586年」に起きた木曽川の大洪水で分断された葉栗郡がこの河田付近なので信長の美濃攻め時代には存在しないルートだったのではないでしょうか。洪水以前にも渡河ルートがあったのかは私は知りませんので詳しい方に教えていただきたいです。
恐らくは1586年の大洪水まで河田も徒歩での渡河は厳しかったと思います
河田で信長の兵が溺れた感じwそのうち美濃平定戦でやりたいなぁ
美濃で合戦するなら、木曽川等の渡河地点で待ち構えるのがセオリー。
承久の乱もそのように展開した。
それを理解していた織田軍がその通り戦っていたのに、三成は理解できなかった。
三成はやはりびっくりするほど戦下手ですね。
戦いは勢いと大将の質ですね。そして1人しかいない四天王
一人だけの四天王ネタは笑って欲しいところなのでネタに反応感謝です
まあ本当にほか3名は不明なんですけど・・・
家康が東軍諸将の戦意を疑ったのは、秀頼云々以上に相手が織田家当主だったのが大きいんじゃないかなとも思う。
ノリノリで岐阜城に攻め込んだイメージが強くて次の動画ではネタにしてましたw
三成が大嫌いな東軍諸将が清州で大垣の三成と相対している時に、「お前らが動かないから、俺も動かないんだよ!」と圧をかけるとは。。。
東軍諸将からすれば、家康を裏切ろうにも、江戸に攻めあがるわけにもいかず。
狸おやじ、怖いです。
三成に頭下げて生涯を彼の風下で屈辱と共に生きていくか、迅速に三成を成敗し武功と躍進に賭けるかの二択って訳だ。
東軍諸将から見ても危険だが勝ち目のある賭けになる訳で、そりゃあマジでやる気になるよねと思わされる。
最後は、猿と豚と河童をつれて、唐天竺へ・・・
何故西軍についたのかな?おじいちゃんの信長は徳川家康の盟友だったし叔父さんの信雄も徳川家康にあれこれお世話になってるのに。
家康が信雄についたからかもしれません、秀信にとっては織田家の家督を争う相手になってしまったので
今回の大河でこの辺り全部すっとばされたのが悲しい
どうする家康には大分肩透かしをくらいましたw
0:35あたり見ると仙石秀久って秀吉に信用されてたんだなって。徳川押さえの最前線だもんな。
旧徳川領がほとんど寝返ってしまったらきついよねぇ
村越さんは蒼徳川三代見てるとこっちまで胃が痛くなるよね。
あのメンツにあの口上を言える自信はないなー
織田秀信の家臣として織田信包と滝川一忠と丹羽長重を従えるべきだったね。
一柳は 「いちやなぎ」ではないのですね。この武将は何処の出だろう。
今日上げた「萱津の戦い」の動画に一柳荘(ひとつやなぎのしょう)の名前をあげています。恐らくはそこが一柳の名字の地になると思われます
織田秀信の兵は4000人もいなかったのではないでしょうか。対して東軍は3万近くいたのにこのように戦うとは、そして後の岐阜城攻城戦での戦いからなかなかの将であると思います。
清洲勢の各隊がそれぞれ味方を出し抜くために意図を偽装したせいで織田方の情報収集が失敗したのかな
司馬遼太郎の「関ヶ原」の「長良川の戦い」ですね。
というか、、、関ヶ原合戦の時、尾張=愛知県は こんなに 川が 多かったのか⁉️⁉️氾濫も 多い訳だ‼️‼️今の 地形図からは 全然 分からない‼️‼️
崩壊させることなく防衛線を下げなら戦うことの難しさときたら。
時代が違えば活躍できた武将だったのかもしれません。
また随分とマイナー合戦を取り上げましたな。 岐阜城はあの時代には籠城に向いてないから野戦に出なければならなかったんだよな。 もう少し兵を集められていれば大きめの野戦ができていたかもしれないけど。
西軍の兵の振り分けがダメダメ過ぎでしたね
美濃にもっと兵がいれば面白い戦いになったかと思います
秀信は中納言かw
印象が悪くならないよう旧織田一族は大事に扱ってたんだろね
どうしても殺さないといけなかったのは信孝だけ
あとはいくらでも懐柔可能
9:23
そもそも、清洲会議があったか疑問視する声ありますし。
当時はまだ長男が家を継ぐとは限りません。
それは徳川家光の代からです。
年齢からして、三法師が家督を継いでるとは思えません。
秀信も東軍に付いていれば一国くらいは与えられたのでは😅?
まあ、尾張や美濃に伊勢や近畿では無いだろうけど^_^
どこに置くか、けっこう難しいですよ。西についてくれて家康助かったんじゃ...
@@user-fb3oq9jq3d
織田家由来の地だと越前はあるけど、あんな要所で豊かな国は勿論無しだろうし。
前田家に丹羽領を中心とした残りの加賀と弟から取り上げた能登を丸々渡す代わりに、越中は手放させて代わりに(越中)丸ごと(岐阜から転封からの)一国与えるか。
京に近い土地と言う事で、丹後➕丹波か但馬の一部を与えるとかでしょうか?
丹後は京極兄弟のどっちかの領土になった筈ですけど、代わりに生駒家讃岐から、伊予や中国地方の何処かに飛ばすして、兄弟いずれかに与えるのもいいですよね。
徳川家、やたら警戒して毒札とかしそう・・・
お江与の方がそれっぽい最期だし。
徳川政権約250年間、信長を常に悪キャラ設定で拡散してたとこ見ると。
@@user-ts1kp3tb5o 家臣たちは独立させ、本人は徳川体制の高家として、駿河台辺りに数寄をこらした屋敷を建てて、有楽とともに文化人生活、とか。
秀信と家康ってあまり接点ないんですよね、家康は信雄とは仲良かった感じですが
秀頼に比べればいいんじゃないか。戦国の覇王信長の嫡流が戦で思う存分戦って滅んだことは
織田秀信:戦って滅亡
豊臣秀頼:戦って滅亡
徳川慶喜:逃げ出して滅亡
織田秀信って本能寺の変がなかったら将軍にはなってただろうにね。
西につくなよ。でもそれがいい。
結果的に西軍で最も好戦的だった・・・だがそれがいい
見直してみても、なんで岐阜城攻めるのか意味分からないですね。
秀頼確保のため東海道を急行して京、大坂に上がるか、三成のいる大垣城を狙うならまだしも、
包囲して放置しても全然問題ない位置の岐阜城を一体何を思って攻めたんでしょう?
次回以降の動画でやりますが、岐阜城攻略前から秀忠の中山道進軍は決まっており美濃攻略が東軍全体の方針としてあったと思われます。秀忠の徳川本隊と家康の東海道進軍が合流する地としての露払いでの岐阜城攻略なんでしょう
@@Yoshifuji-Sengoku なるほど、秀忠遅参の既成概念があったせいで関ケ原には秀忠の徳川本隊がいる予定であったのを失念していました。次回以降の動画を楽しみにしております。
時系列的に秀忠の進軍開始が岐阜城陥落後になってしまうので説明が入れられなかったのですが、岐阜城陥落の連絡が届く前に中山道に向けて発向した感じですかね、次回はその岐阜城陥落になりますがお待たせしてしまったらすいません
東軍諸将は基本的に本国が遠方で兵站に不安があるから取り囲んで次へ…なんてスケールの大きな戦はやりづらい。
一方で放置して背後を突かれるのも嫌だ。ならば迅速に攻め込んで落城させてしまえ!と言う方向に決断したのかも。
三法師は優柔不断で中立決め込んでおけばよかったのに。認めたくないものだな、若さゆえの過ちなどとは
全く西軍は機動力がなかった。
早い段階で岐阜城に毛利秀元&安国寺恵瓊を
福束城に島津義弘を入れて小早川は九州の黒田攻め
吉川は伊予の加藤攻め
田辺城攻めはせず丹後但馬勢は伊勢に進軍これなら勝てた!
秀元はなかなか優秀な武将ですが輝元のやる気の無さでは、最終的には家康には勝てないですね。
毛利・宇喜多が全力でやらないと厳しいですよねぇ
自分で決めた戦いを最後まで従ったんだろうか。西軍東軍はあまり関係なく。
自分とこ攻めて来るので全力でおもてなしした感じでしょうか