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ドアが開きっぱなしだから、飛び乗るのも飛び降りるのも自分次第。1990年代以降に自己責任の必要性がグローバリズムと共に叫ばれるようになったような気がしますが、日本は昔の方がよっぽど自己責任社会だったような気がする。
xinnti7979 現在は自己責任というより型にはめる、一糸乱れず並んで、混み合っても譲り合ってすわり、車内では物も食べずひたすら静かに過ごす、誰が楽しいのでしょうかね。
考えるべき素晴らしいコメントですね。私が思うには昭和後期、社会責任の共通度は今より高く、その上での厳しい自己責任があった。総合的には行動の危険性、迷惑性などの無自覚が少ないと言う事になる。現代では社会責任を意識しない自己責任論が蔓延る。しかもその根拠が希薄な社会性意識と経験から来ている事も多くその時は冷たく、幼い論拠の時がある。結論自己責任については今昔殆ど変わりませんが、危険意識と、罪悪感の薄れ、社会性の低下は確実。
Langray Bash こちらも素晴らしい洞察ですね
sg kuri 僕は管理されるのが苦手なので、昔の方が暮らし良いです
昔は自己管理能力を前提とした自己責任論だけど今は過保護に育てられた上でちょっと興味から皆と違う事をして痛い目にあうと自己責任と叩かれる。
高校通学に使ってたのがこれでした。列車が動き出してても、駅員が「急いで乗れ!」と急かす時代でしたね。
tac12469 懐かしの時代です。今だからいえますが、列車が動き出してから荷物をホームに忘れたのが見え、飛び降りて荷物を持って、もう一度乗ったこともあります
♪~動き始めた汽車に~~一人飛び乗~って~♪これができた時代だ。ちあきなおみ“喝采”より(笑)
走り出しも、止まりかけも今より遅かったですからね。
SLの加速は自転車よりも遅かったから発射して10秒くらいは飛び乗れたね
なかなかワイルドな時代ですね。この客車の手動扉というのは乗客側で閉めてもいいものなのでしょうか?気になります。
昭和の時代は列車にも心にもゆとりがあったように感じた。動画で4~7両運転でそんなに混んでるように見えない列車。でも今よりはずっと駅に人がいた。暖かさが感じられた。
昭和30年代はともかく40年代後半になると盆暮以外は空いていたようですね。僕が一人で旅に出るようになった50年代後半以降はまだ列車の編成が長く空いていました
この頃は危険と隣り合わせと言う人もいるけど、それは違う。何が危険なのかちゃんと理解をしているからこういうのが成り立つ。だから見てみなさい、開いてるドアやデッキにいる人達は興味本位や知っててやってる人でしょ
小学低学年の頃の自分がその興味本位でやってしまった馬鹿な事を思い出した満員でも無い時はデッキに立つもんじゃないと学びましたよ、ええはい
@@もひとりさん早めに分かって何よりw
今はホームにドアが付いていないから事故が起きるとか言っている、甘ったれるのもいい加減にしろ、自らの安全は自らが作るもの。
鉄道がキャッチーになって舐められる存在になっているのが嘆かわしいです
今では信じられない当時の当たり前。素晴らしい動画をありがとうございます :-)
bluemomo65 ありがとうございます😊。実際のところ当時でも都会の人が海水浴などで来た時は驚いてましたー
上手く表現できませんが自分たちが子供だったあの時代のすごさ野性味を感じます。素敵ですね。昭和の時代はもっと色んな匂いに富んでいたように思います。この貴重な映像を通し、その懐かしい匂いにしばらくの間浸っていたい。そう思います。
調査別室 僕はギリギリ動画撮影できましたが、他にも色々旧客のビデオをアップされている方がいますので、それらの動画を結集して、バーチャルリアルティーの技術で加工したら、本当にそこにいる気になれるかもしれません
旅一郎 様、実現すればこれほど素敵なことはありません。
子供の頃にDD51+旧型客車によく乗車しました。武田尾旧線は、のんびりと渓谷を走行していたのを思い出します。貴重な映像を有難うございます。
ネコスケ 僕は山陰本線が近いので、保津峡が多かったですが、武田尾も旧客末期に行きましたよー。ビデオカメラを買ったのは、もう大阪、京都から消えた後なので12系が旧線を行くものしかありません。そのテープも今探している最中です。
私も、長野へ行き帰りに客車の列車に乗るのが楽しみでしたね。車掌さんと話をした事があるんですが、たまに落ちる人が居る、乗務していた列車で落下事故が有ると後が大変と言っていました。 でも、客車が好きだから乗務は嫌ではないよねとも言ってました。ある意味、いい時代でした。
信越本線だと、57年頃までですね。時刻表で眺めるだけの頃乗りたかったけど、ついに間に合いませんでした
@@user-tabiichiro さまあの当時の旧客車の雰囲気を味わう事はもう出来ないのは悲しいですね。 仕方なしですが。
これぐらい緩かった時代が一番日本が輝いていた
国に余裕があったようにも思います。
@@user-tabiichiro 様 後に“効率化”の御旗の元に、“余裕=無駄”として徹底的に削ぎ落としまくった結果が昨今の日本と言えるかも。まぁ、悪いことばかりじゃないとは思いますが・・・・・・。
@@三枝日記 今ほとんどの企業で余裕がなくなってますね。自分でも家計切り詰めをしてますが、みんながみんなそれをすると結局回り回って自分の首をしめる。合成の誤謬ですね。
本当に同感です、人々も坊やからお年寄りまで皆んな輝いてました、ありがとうございました。良いお言葉です。
元凶はセキュリティ過剰社会だと思っています。
今は世の中が過保護すぎて、昔なら誰でも知っていた危険への対処方法を知らない人が多すぎます。危ない危ないって言いますが、気をつければ良いのです
ピンクカブ 過保護になりすぎて、危険察知能力が著しく低下していますね
旅一郎 確かに50センチくらいの高さから落ちて痛い思いをしないと、50メートルの高さから落ちたら死ぬという事が理解できない可能性がある。
今、こういう時代を生きて知ってる我々世代は、幼い頃から、徐々に、何が危険か?という危機意識を自然に養ってきたので、今現在でも、色んなモノに対する、危機回避能力が備わってるのかも知れませんね。特にネットに対しても、人一倍、慎重に。
同感です
過保護に加えて、昨今は過干渉かつ大げさで強引にさえ思えてしてしまいます。
ちあきなおみさんの名曲「喝采」の歌詞に「動き始めた汽車にひとり飛び乗った」とありました…汽車も死語になり、そんな客車もなくなりましたね…
あの歌の意味が分からないという人が増えていますよね。「ダイヤル回す」もそうでしょうね。
北海道では普通に汽車と言う
「上野発の夜行列車~」しかり、「花嫁は~、夜汽車に乗って~嫁いでいくの~」のもなくなりましたね。
徳島は未だに電車は一本も走っておらず全部機動車ですね
@@tsuka5116 汽車の窓からハンケチ振れば~かわいい乙女が花束投げる~・・・これも今やったら「急停車します・・・」で報道ですね。
昔あった鈍行列車やな赤い凸型のディーゼル機関車に引かれて、札幌から函館まで10時間以上掛かった記憶が……トイレから線路が見えて、垂れ流しなんだよね
CYD GOODMorning 普通列車の所要時間は今とあまり変わらないと思います。
時刻表を見たところ最速が函館山線周りで函館8時18分発で札幌17時2分着 所要時間8時間44分みたいですね
とある人 現在がですか?当時の夜行41列車は函館の23:45ー札幌6:55?だったかな。
@@user-tabiichiro 2019年4月改正時点です。途中長万部、倶知安、小樽で乗り換えが必要になりますが
とある人 昭和60年の時刻表で確認しました。夜行の倶知安周り41列車は23:58発6:45着(6時間47分)昼間の128列車が、札幌10:18発函館19:49着(9時間31分)42列車が、札幌13:39発函館21:42着(8時間3分)今も昔も変わらないですね。
まず、車両に側灯がないですね。笑。窓や扉から入る自然の風、そしてヒグラシや虫たちの鳴き声‥‥。風情があっていいですね。
onsen tsumuzi 高崎の側灯は気になりますね
去年台湾行った時に乗った列車がこんな感じでした。珍しい光景で最後尾の後ろの開いた扉からずっと外眺めてました。台東の方です。
サーモン太郎 それはこれではないですか?th-cam.com/video/ZyXh5TjKYTA/w-d-xo.html台湾でも最後の一本となった旧型客車(日本製)です。
旅一郎 同じ型かはわかりませんがそんな感じでした。
現地の種別で言うと「区車」ですね(区間車という意味)。今は日本製の電車に変わってきてるんじゃないかなぁ?
普快車ですね😊私も初めて乗ったとき感動して、何度かわざわざ乗りに行きました。コロナ禍の間にその区間も電化が完了してあの電車無くなってしまいました。もう一度くらい乗りたかったです(現地の方には待望の電化だと思います)観光列車として今も走ってると聞きましたがどうやら似て異なるものとなってるみたいです😢
@toshippercy8655 実は先日台湾に行って観光列車化した藍皮解憂号にも乗ってきました。全く別物ですね。
車掌が『窓から顔や手を出さないでください』という放送してたよね。今は携帯電話に置き換わったけど。
Alena Hemkova それを聞くようになったのは割と最近の気がします。昔は気にかけなかった
そして今やホームドア
窓から携帯電話を出さないで下さい。
ドア開けっ放しの出入口に立って鉄橋を渡っている時に眼下の川の流れを眺めるのが醍醐味だったw
去りゆくレールを後ろから眺めるのが好きでした。冬は暖房の湯気がチロチロ流れるのもまたをかし
トラス橋渡る時の、鉄骨の規則的な風切り音も良かった
夜行の客車妙高号が碓氷峠を降りる時にデッキから下を見ると恐ろしい光景が広がっていた。
@N--jv3go 旧客デッキから特に夜の外を見ると死を感じる時がありますね。山陰本線の太田市〜江津の海沿い崖区間をボロボロの10系のデッキから見ている時そう思いました。
4:43〜の映像の虫の声と客車の音が気持ちいいですねー平成生まれのぼくには映画の世界の様です
当時もそんなに昔の生活していたわけじゃないですよ、昭和61年といえば、街にはマクドにケンタッキー、携帯は高いけど一応あった。普通の家には車、エアコン、テレビは一人一台になりつつあった頃です
旅一郎 すみません、本当にこういう列車ばかりの世界を想像してました。でも客車列車が現役だったなんて素敵な時代です!
ルニ男 ちょっと前まで「客車列車」が普通に存在したのですが、日本はやりすぎましたね
2:18 餘部撤去の真下の食堂があったw ここの定食の付け合わせの山ウドが思いっきりうまかったの覚えてる。
懐かしいです。ホームに植木や花壇があったり。特急や急行待ちの静寂と蝉の声。扇風機の真ん中にJNRの文字。夏は窓も扉も全開で気持ちよかったです。
いすくら 国鉄時代はホームに花壇がある駅が多かったですね。最近は余裕がないのか、めっきり減りました。
あと池を作って金魚飼ってたりとか。ホームの掃除も駅員さんがやってました。
Bruce Bruce 駅を見せるという思いがあったのかもしれませんね。無人となった今、花壇も撤去されたところが多いです。
今はJRも役所も効率化で非正規職員だらけですね。国鉄時代に比べ、効率が良くなって職員の愛想も良くなりましたが、それによって失われた何かがありますね。仕事をやってもやらなくても同じ、というのが「親方日の丸」の悪い所でしたが、待遇を保証しつつ良い仕事のできる仕組みというものは無いのでしょうか。
鉄道に何を求めるかによって、賛否は分かれると思います。僕は国鉄の価値は、「日本全体の統一したネットワークの提供」と考えていたので、今のズタズタのネットワークは昔よりサービスダウンしたと考えますが、国鉄に、「ソフトな笑顔の対応」を求めていた人にとっては、今はサービスアップしたと思えるのではないでしょうか。
ボックス席の固いシートの夜行列車であっても、普通に乗ってたそんな時代でしたね。昼間は途中の駅で、窓越しに駅弁とお茶を買うのが楽しみでした。冷凍みかんもよく食べたなあ。
多客期は満席で辛いですが、通常はボックス占有ができたので思うほどしんどくはなかったですね。気候変動のせいかもしれませんが、走り出すと風が心地よく感じました
地方っていうのもあったけど、ドアが開いてても落ちる人なんていなかったし、柵が無くても撥ねられる人なんていなかった当時はそんな時代でしたね
去勢されると弱くなるという事でしょうか
生まれた時からvvvfインバータの列車が走っていた僕からしたら想像も出来ないですね…
NK1000まあく 生まれた時にはなかったですが、この動画を撮った時代、近鉄や阪急にはVVVFはありましたよ。
そうなんですか!さすがですね近鉄阪急…この時期というと南海ではサザンが出た直後とかですかね。僕の父が小学生の頃です。
NK1000まあく この時代でも旧客は当たり前ではなかったのです。もはや絶滅危惧種、でも情報もあまりなく、知られず去って行きました
これが追加料金が必要とはいえ現役である大井川鐵道の凄さがわかります。
今となっては、追加料金払ってでも乗りたいですね
今でも窓が開く電車は多いですが、キッチリ冷房が掛かるので開ける事も無くなりましたが、日中 停電による立ち往生なんかになると窓が開かない車内は灼熱地獄になります。車内からは出ないけど換気の為に非常コック使ってドアが開けられ運行再開に手間取る事案が増えそうです。あと、最近の新幹線は非常コックを使っても速度がある程度落ちるまではドアは開かない様にしてあるらしいですね。
昭和40年代上野~赤羽間で時々客車列車で通学しました。ドアは開けっ放し先頭車の場合貫通路からEF57のデッキへ移りホームに降りたことがありました。今考えたら危険ですが
ハヤトスズキ 昔は命が安かったというのもあるんですかね。鉄道に限らず、道路も歩道はほとんど無く、トラックが突っ込んできましたし
本当に素晴らしい動画集をありがとうございました。上京する昭和58年迄高校通学でこの編成列車に楽しく行き来してました。動画の坊や、学生、正にリアルな私が有る感じで懐かしさいっぱいでしたね。通学でも旅行気分でしたし開放ドアデッキにわざと乗りスリルを味わい連結部を観たり、楽しかったですね。人々乗客も皆んな嬉々としてホームで待ち乗り込み、本当に移動時間を楽しんでました。動画の学生も飛び乗りや降車とかもわざとやってました、でもきっと安全範囲で、車掌さんもお互い信頼してましたので、咎めることはなかった、あ~いい時代戻りたいですね。今ならドアが空いてて緊急呈し案件が有りーと全国ニュースですね。
ありがとうございます。当時を思い出していただき嬉しく思います。動画の持つリアルさですね。なんとか残したいと思い、休み毎に撮影してきました。
高校の下校通学時に最後尾の客車デッキから線路を見るのが好きでした。
通学で使っていたのは羨ましいです
昭和時代は平和だなぁ
ケン ケン 昔が懐かしいから美化されてるのかとも思いますが、何度見直しても昔の方が良かった。この時代にiPhoneが使えたら最強だ。
日本中空襲受けて原爆2発も落とされたけど。
こういう時代が羨ましいです。東南アジア等に旅行して飛び乗り、飛び降りしてみたいです笑笑貴重な映像ありがとうございました。
是非試して下さい。着地したらすぐ進行方向に早足で歩かないとこけます
流石に戦時中みたいに屋根に乗ってるのはいなかったなw
3:40 編成内に福知山局のスハフ12-701“いこい”が繋がってますね。古めかしい旧型客車の隣が12系というアンバランス感がなんともいいですね
ナカモトヨシキ この列車は米子12:01発福知山行き528列車です。よくこの列車に憩いが連結されてました
スハフ12 701が普通列車に併結されていたというのは、小口団体に使用されていたんでしょうかね?
この時代、福知山駅にツアー列車の広告を見たような記憶があります。
素晴らしい映像集でした、ありがとうございます☺️危険なのは客車ではなく、今の人間なんだと思いましたねぇ😔
ありがとうございます。含蓄のある言葉ですね!
@tkcokmt 便利になりすぎるといざという時何もできなくなりますね。鉄道業界では自動運転が進ても非常時のために通票閉塞の訓練をしています。最後は人力でなんとかできるようにしているようですね
大袈裟ですが責任は人任せじゃ、日本人は世界から一人前として扱ってくれないと思います。
@tkcokmt 本来なら「バカが触ってはいけない代物」ってのがあったはずなんだけど、今は万事が「バカが何をしても大事に至らない」ように物を作らなければならなくなったので、却って使い勝手が最悪で落とし穴だらけで、しかも窮屈な状況になってしまった。
6:06 開放デッキで風に当たる贅沢 忘れています 閉め切ったドア越しに流れる風景を見る旅すら遠い過去に行きましたね
そうですね。窓開けることさえ非常識と言われる今、鉄道旅の楽しみの原点を伝えて行きたいです。
列車が完全に止まる前に飛び降りていた大人がカッコよく見えて、真似して飛び降りてみたら見事にコケましたねw40年前の苦い思い出😓
太郎にゃん 結構コツがいりましたね。カッコよく降りる練習りしたものです
東南アジアに行けばそう言う体験がまた出来そうですね
わー、それ子供の頃小生もやりました。見事にコケました。磐越西線、津川駅でのおもひで。
昔は常磐線の普通列車にも客車での運行があって、よく手動のドアを開けたまま日暮里から乗車してたのを思い出します。当時の普通列車は三河島や南千住を通過してましたね
Rorekkusu 1005 常磐線は首都圏最後まで、残ってましたね。昭和57年の日常のなかに上野発仙台行き旧客があったことが驚きです
朝と昼に2本ありました。昼のはよく乗りました。茶色の混じる東北線に比べると綺麗なブルーのスハ43系主体で面白みは欠けましたが、急行に乗ってる気分でしたね。
競輪帰りのヨッパライが取手駅から乗車して年に数回転げ落ちてたなぁ~~
東海道線(琵琶湖線)にも大阪行き北陸方面から来る鈍行がありました。京都大阪間はノンストップでした
岡崎正雄 富山発大阪行きと大阪発新潟行きですかね。時刻表でしか見た事ありません。残念!米原止まりとなってからは何度が乗りました。
昭和38年、北陸本線の支線、高岡S.T~福野S.T 間。 爽やかに入って来る解放ドアー口から散居村を眺めて、ガタンゴトン ~ ガタンゴトンと田畑と共に視える景色は何故か頭のなかが真っ白になった様で、全てが優雅でしたね。 滔々と流れる乗車の中で、 何時まで乞う在って欲しいと願う当時の自分でした !!! 石動 (小矢部) ST仕立て(関西往復)帰りは、S L(貸切)の全パッセージに長御座を敷いてもらい、快調な修学旅行を味わったものです !!
M-16 福野支線?は存じあげませんが昔はどこでも列車で行けましたね。蒸気時代は知りませんが北陸の旧客も米原ー富山で乗りました
もう最近ではドアどころか窓すら開けられない列車が多くなりました。世知辛い世の中ですねぇ.....
ほんまにそう思います。ドアどころか窓まで。そのうち椅子から一歩も動くなって言われるかも
@@user-tabiichiroシートベルトが付けられる日もそう遠くないかも知れませんね
@@ohashi7271 うまい!
@@ohashi7271 そうなったら寿司詰めにならず、着席必至になりますね(湘南ライナーを横目に…)
貴重な映像をありがとうございます。北海道は43列車、大好きな列車でした。最後尾は鎖1本。高校の夏休みクラスでキャンプを企てたときも近々に無くなるのは解っていたので敢えて客車選びましたよ。
おー、41のプロですね。最後まで残った旧客夜行なので混んでいても頑張っで乗ってました
うゎーーーーー 懐かしい!!!!!!!!初めて乗った列車がこんなのだった客車 窓全開 灰皿満タン。。。一番後ろの車両通路から線路丸見えだし約40年ほど前の記憶の中の思い出が映像として見れたことに感謝!!!
sori mini 感動していただきこちらも嬉しいです。音あり動画は当時を思い出すには充分な効果がありますね
現代を否定とかでなくって、50歳以上は特に、無茶苦茶懐かしい、ノスタルジー溢れる映像なんですよね😊私も朧気な記憶で「ドア手動だった気がするけど…」と思っていたのが本当だったんだぁ!と見ていて嬉しくなりました。
昔は良かったのかという検証で、たいていは思い出は美しくなるということで論破されますが、旅情面では昔の方が良かったです
大井川鐵道井川線は今でも全列車ドアエンジンなしの手動ドアです。本線の旧型客車共々さすがに走行中開放はできませんけどね。ところで1:16、ドアの窓ガラスが固定しているHゴムごと無くなってる・・・。
置き猫 大井川の長距離列車体験だけでもドア解放してくれればリアルなんですが。
山陰本線、餘部での映像。蝉の声が郷愁をかきたてます。どれも素敵な映像ですね。
ありがとうございます。僕が一番好きだった車両です。その魅力が伝わると嬉しいです。
子供の頃、親と一緒に三田へ行く時、当時は宝塚までしか電化されてなくて、このような旧型客車の普通列車に大阪駅から乗ったのを懐かしく拝見しました。(^-^)
三田までは今なら電車でサクッといけますが、当時は阪急で行ける宝塚まででも「汽車旅」の気分を楽しめましたね。塚口に住む友人が汽車気分を楽しみたいからわざわざ国鉄に乗っていたと言ってました
子供の頃良く乗りましたので懐かしい、大好きでした良い動画をありがとうございます😊
この時代を生きたということはとても貴重な時間だと思います
まさに「正調派鉄道」。子供の頃、手を振った列車は全部客車列車でした。編成も長くて座席が確保できるかどうか心配をしたことなんてほぼありませんでしたね。今の若い人たちは「スリル」を求めて遊園地に行くんでしょうが、遊園地はそれ自体が目的なんで「いかにも作りました感」がすごい。鉄道は「スリルと実益が一緒になっていました」って変な意見ですが。それはさておき、今みたいにイケイケのデザイナーを採用して作らせた車両よりも、この時代の方が格好良く思えるのは気のせいでしょうか。思えば「汽笛の音に旅情を感じる」とか「夜行列車にはロマンがある」といった意見を目にすることも珍しくありませんが、「旅情を感じるから汽笛をつけよう」とか「ロマンを感じるから夜行列車を走らせよう」とかではなくて、汽笛も夜行列車も必要があるから存在したんですよね。デザイナーがデザインしたものは見せかけの格好良さ(格好良さと呼べるのかどうか)だと思うのですが。今みたいに言葉も器用さもなかったけれど、黙々と列車が走り続けていたあの時代が懐かしいです。
asakaze@mamopi- 全く同感です。「旅情を感じるから汽笛を付けよう」じゃないんです。説得力のある説明ありがとうございます😊。ブログでも使わせて頂きます
豪華さで売るクルーズトレインが好きな人もいますが、この時代を知る者には、これならいかがですかと、ワザと演出された楽しみでしかなく、あるがままで旅を味わえるわけではないですね。
はい。その通りです。旅情の押し売りに辟易としてしまいます
窓は開いて当たり前、ドアが開いてても当たり前の時代。今の時代の窓が開かない又は少ししか開かないの列車は当時田舎者だった自分には新鮮に感じたものです。しかし今は、それらがうんざりするほど増えた今、窓やドアが開く車両が懐かしく感じます。冷房車よりも窓を開けて外の空気に当たる方が余程涼しく、楽しかったですよね。
ドアはともかく、窓くらいは開けて旅をしたいものですその土地の風をリアルに感じ、虫の音や、波の音を聞いてこそ、そこにいる価値がありますね。固定窓から景色を見るだけならyoutubeでもほぼ同じことができますね。
大好き!最高!この時代に戻りたい!!
そうですね。ありがとうございます
福知山線、山陰線の旧客よく乗りました。武庫川沿いはホントに景色良かったですね。懐かしい動画ありがとうございます。
ありがとうございます。これが大阪駅から出るというのがまた楽しかったですね
@@user-tabiichiro 返信ありがとうございます。大阪駅の旧一番線に旧客があり、サボに出雲市や米子があるのは中々なものでしたね。5から8番線は通勤電車がひっきりなしだったので。ちなみに幼少期は立花駅付近に住んでおり、大阪に家族で出掛けた帰りは、尼崎まで福知山線に乗りたいとせがんで乗ってました。塚本を列車線で通過するのが痛快。その後、乗り鉄になり、尼崎港線は何度も乗りました。
@@服部浩行 旅仲間も尼崎まで客レに乗っていたと言ってました。国電区間ても客レに乗れるのは羨ましいですね。京都駅から上りは草津線の旧客があるのに、下りは103系しかなくつまらないと思っていました
@@user-tabiichiro 京都から草津線の客車列車乗りましたが、残念ながら50系でした。それでも貴重なんですが。
@@服部浩行 そうですね。草津線の旧客はビデオに間に合いませんでしたが、50系は残っています
不思議と落ちる人っていなかったよな。今ではドアが数センチ開いてただけでインシデント
huntercance neo 危険はわかっていたので、無理はしなかったのでしょうね。逆に今の、知らない人が乗ると落ちそう。
箏曲家宮城道雄を始め落ちた人は当時もいました。ただ、其処は危険で油断してると落ちるってのは共通認識でしたから然程騒がれなかっただけです(今のようなネット環境も無かったので問題視する声もあまり届かなかった)。勿論鉄道当局もほったらかしにしていた訳ではありませんが古い客車を手直しするより電車気動車でおきかえた方が早いってことで客車への対応が後回しになったのは否めないでしょうね。
SleeperExpressJNR 危険、安全論でいえば危険なのは間違いないのですが、面白いかどうかというと開いてる方が楽しいです。同じ先進国でもヨーロッパは手動のまま放置もありますので、自己責任の原則が徹底しているのでしょう
huntercance neo 交流区間の仙台は新幹線開通まで、電車投入が遅れて、高校生を中心に、毎年2~3人が死んでいました。
グーグル調子 なぜそんなに?山陰本線では聞いた事がありませんでした
昭和50年代前半まで東北線上野発の旧型客車列車が3本残ってました。郡山行き、一ノ関行き、福島行きの3本です。当時はまだ小学生の頃ですが国鉄宇都宮駅のそばに住んでて自宅からよく見てました。一ノ関行きは時刻が13時30分頃だったのでよく黒磯まで乗り鉄してました。当時はEF58が牽引してましたが稀にEF57に当たった日もありました。
東北本線の旧客鈍行(直流区間)は昭和30年代と変わらない雰囲気で羨ましかったです。東海道は僕が意識したした頃にには急行「きたぐに」の寝台のみが旧客であとは山陰や福知山線にいかないと見れないため、馴染みが薄かったです。
今の若い人には信じて貰えないかも知れないけれど、当時は当たり前だった光景。最後尾吹きっ晒しのデッキも鎖が1本あるだけで安心感がまるで違ったあの頃…オハフ・スハフの後位側(車掌室のある側)には鎖や扉はあっても前位側(トイレのある側)は何もないのがDefault(そちらにも扉が付いたのはナハフ10・ナハフ11・スハフ43そしてオハネフ12・オハネフ13位なもの)。でもこの頃はLocal列車にも元急行用のスハ43・スハフ42・スハ45・スハフ44・オハ46・オハフ45・オハ47・オハフ46そしてオハ36・スハ40などの青塗り近代化改造車も回って来ていてキハ20等よりは格が上の車内でのんびり過ごせたものでした(特にTR-47台車を履いた客車は最高!)。また、複線電化で軌道条件も良い北陸本線などでは電機牽引で95㎞/hで快走する場面もあり往年の急行列車時代を彷彿とさせてくれたものでした。車齢の若いナハ10・ナハ11・ナハフ10・ナハフ11は然しその軽量構造が祟り腐食に負けて意外と早く引退して行きました(意外と揺れたのにはびっくり!)。50系時代でも最後尾のドア開けっ放し!ってのは意外でしたが冷房のない当時、夏場の方便だったのかも知れません。叶うことならまたこんな列車で旅をしてみたいものです。
当時を偲んで描いたものがこちら。www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=51599969
SleeperExpressJNR TR47は国鉄が開発した中で最高の乗り心地ですね。電化後同じ路線を113系で走ると飛び跳ねるようで、同じ区間を走っているとは思えませんでした。今の基準で言われると、「危ない」「ありえない」と非難されそうですが、これこそ旅だったし、楽しかったという点は否定できません。
SleeperExpressJNR 茶色と青の混成がリアルですね。車内で立っている人がいますね。仙台あたりを想定ですかね
場所は架空ですが、所属表記は広セキ、即ち広鉄局管内、概ね山口県内の電化区間を想定しています。当時山陰本線や岩徳線にはまだ客車鈍行がありましたがいずれも非電化でカマも前者はDD51、後者はDE10でした。数少ない電化区間の山陽本線・宇部線・小野田線、宇部線・小野田線は元々客レの設定はなく貨物列車はあっても電機の入線はありません。山陽本線もこのあたりは定期の客車鈍行は43-10で消えましたが、ブルトレや夜行客車急行はその後も残り50-3までは在来一般型客車の夜行急行も雁行していました。その後はしかしブルトレや12系・14系座席車ばかりとなり荷レを除くと稀にスロ81系お座敷列車の団臨がある程度でした。今はそれらも壊滅しましたが有り難いことに冬場を除いて土日祝日主体に1日1往復不定期ながら近隣の山口線に客レが走ります(SLやまぐち号)。[鉄]もの、ガチの客車好きが見ても十分許容範囲の真新しい[旧型]客車、蒸機に良く似合ってています(^^);
SleeperExpressJNR 広鉄は割と遅くまで客車の臨時がありましたね。やまぐち号の客車を使ったふくふく号(広島ー下関)に乗った事があります
1980年代って当時は何もかもが新しく感じたけど今こうして見ると1960年代と雰囲気が大して変わらなかったんだな。時代が劇的に大きく変化したのはアナログからデジタルに移行しネットが登場した90年代以降かもしれない。
確かにネットでの世の中は大きく変わりましたね。職場もPCは部門に一台から一人一台になりました。逆に言えばスマホ、ネットがあれば旧型客車が走っていてもさほど困らない世の中ではないでしょうか
子供の頃、停車直前でまだ動いているのに面白半分でホームに飛び降りていたのを思い出しました(笑)
2017 THE BATMAN みんな色々な思い出がありますね
小学生の時にやったら、当時の担任が後ろの車両にいて( ^ω^)・・・もちろん怒られましたよ。その後も何回かやりましたけどね(笑)
Sugawara Takahiro 遠足で保津峡に行くのに京都から乗りましたが、先生はハラハラだっただろうな。と今更ながらおもいます。
それをやって、ホームに降りたら足がガクッとなって、慣性の法則ってのを子どもながらに思い知らされました。そして、国鉄初の女性駅長さんにきっちり叱られました(>_
身を持って『慣性の法則』を実感。
今晩は。懐かしい映像、ありがとうございます。私の故郷、佐賀県唐津市を走る唐津線にも、朝方だけ1往復客車列車が残っていました。勿論、長崎本線も客車列車が全盛でしたから、とても懐かしいですね。よく、学生を中心に転落事故が相次いでいました。その対策を施した50系がほぼ全滅して、それだけ時間が過ぎた事を思わせる映像だと思います。
田中政一 唐津線の客車って全く意識していませんでした。とはいえ、かつてはどこのローカル線も通勤時間は客車運用がありましたね。早々と50系になったところは後回しにしていましたので、乗り逃した所も数多くあります。
ご返信、ありがとうございます。因みに、唐津線の客車列車は、スハフ42と、後はオハ35やオハ33だったと思います。牽引機はDE10(西)でした。昭和57年11月のダイヤ改正で廃止になり気動車化してしまいました。唐津線と山本で接続していた筑肥線(当時博多→伊万里)にも、夕方に客車列車が走っていました。博多→東唐津迄でしたが、客車は竹下客車区だったと思います。この列車も、唐津線の客車列車と同じく廃止され、更には翌年3月のダイヤ改正で電化され、福岡市内との交通が便利にはなりました。僕は、昔特急「つばめ」に連結されていた、オハニ35に乗った事もあります。後は、筑豊本線の客車列車で、原田→若松、飯塚→若松、直方→若松と、よく乗りました。後は、夕方に門司港→直方間に乗った事もあります。筑豊本線の客車列車は、50系でしたが、3扉車、冷暖房車両等個性豊かでした。民営化直後は、車掌も話の解る人が多くて、よく途中駅のドアスイッチ開閉をやらせて貰ったものです。車掌は、門司車掌区、機関車はJR貨物門司機関区のDD51だったと思います。車掌と前方を監視しながらのドアスイッチ操作は、面白いより、怖かったイメージがあります。僕がドアスイッチで閉扉すると、車掌が「こちら1826列車車掌、機関士さんどうぞ」「こちら1826列車機関士です、どうぞ」「上り、1826列車発車‼️」ガクン、と軽い衝動の後、次の駅を目指します。手汗をハンカチで拭いてから、車掌との話やこれから乗る路線の話等、話題は尽きませんでした。平成4年頃迄は、若松駅の手前に石炭を艀に積み込む、「東洋一の石炭桟橋」が残骸を晒していました。国鉄時代、石炭桟橋を担当する若松機関区の壁には、「砂は命なり」と書かれてあったそうです。九州も、北海道と同じように沢山のローカル線が消えて行きました。故郷、唐津市内にも、旧筑肥線の鏡、久里(くり)両駅の跡があります。今から30年以上前の、青春時代の想い出です。
田中政一 筑肥線にも客車があったんですか!全くノーチェックでした。地下鉄になる前の筑肥線は魅力的だった事でしょう。昔は、ドアの開閉や車内放送などよくさせて貰いましたね。今より現場の裁量が大きく、安全が担保できるならOKという事だったんでしょう。今はどこも本社一括指導、現場に判断させないようにしている感じがします。日本総マクドナルド 化ですね。
常磐(快速)線にも旧客普通列車がありましたね。上野を出ると日暮里・松戸・我孫子・取手に停車、以降は各駅停車でした。現在は常磐快速線にも特別快速がありますが、旧客普通列車の停車駅に北千住を追加、柏と我孫子を入れ換えたような感じです。ちなみに1996年10月に運転された旧客臨時快速「レトロトレインときわ」は上野・北千住(上り通過)・松戸・柏・取手・土浦・水戸に停車でした。
chiyodaline06 常磐線旧客は結構遅くまで残っていたので乗りたいと思ってました。上野発仙台行きというのは、距離も魅力的ですが、都会から地方都市までを優等列車無しで行けるという点で、まだ普通列車でも移動ができた時代であった名残を感じました。
客車列車に限らず、常磐線の電車(401・403系415系)も取手までは各駅で取手からは我孫子、松戸、日暮里、上野でした。
よけ まさに常磐線「列車」と「電車」の違いですね
@@よけ-r9s 1980年10月ダイヤ改正で客車以外の普通電車が柏に全停車、1985年3月ダイヤ改正では北千住に全停車(普通客車列車は既に廃止)、1988年3月ダイヤ改正では天王台に全停車、南千住・三河島に日中のみ停車、2004年3月ダイヤ改正で南千住・三河島全停車と停車駅が増加して快速電車と揃いましたね。
子供の頃、昭和40年代でしたが駅のすぐそばに住んで居たため、夜行列車を毎晩眺めることが出来ました。行先プレートには、大阪発金沢、富山、新潟行などあったと思います。朝夕のラッシュ時は、デッキの所まで人で鈴なりになってました。駅のそばに石炭倉庫も有り、登って真っ黒になって遊んだ覚えがあります。あの懐かしい時代に帰りたいです。何もなかった昭和時代が皆、仕合わせでしたね。令和になりどのような日本になるのか楽しみです。
和田昭彦 あの頃は何も無かったですが、なんでも遊びに変える事が出来たように思います。列車の開きっぱなしのドアも、どんな凝った遊園地のアトラクションより面白いですし
懐かしい映像ありがとうございます。高校時代毎日DD51の後ろでドアあけて通学してました。18切符で夜行山陰に乗車した時は凄い人で、デッキで新聞紙しいて寝ました。ほんと懐かしい♪今も久しぶりに経験したいけど時代が変わりましたね(>_
いい時代でしたね。京都から保津峡までの乗車でも「旅」してる感があって楽しかったです。
いやこれは懐かしい。東北の大学に入学後、関東の実家への帰省と大学に戻る際に繰返し乗りました。春から秋にかけて、季節が良い時に開け放したドアから眺めた景色は、座席の窓から見る景色とは、また違って見えたものです。
急行が旧客の頃ですね。羨ましいです。旧客急行は乗れず終いでした。かろうじて、「山陰」号、41列車で夜行旧客を体験できただけでした
昔、紀勢線の旧型客車も扉開きっぱなしでしたね。夏場ならいいけど冬は寒いやろな。
46shamsham この時代では、実際には満員で車内には入れないというほどではなかったので、冬は車内にいましたよ。それでも好きなひとはやはりデッキに立っていましたが。
旧客の似合う機関車DD51形 DD54形 DE10形 DF50形EF81形 ED75形 ED76形でしょう。そういえば首都圏でも1980年代初めまでは、常磐線や上野から宇都宮あたりまでの区間ではEF80形やEF81形牽引の旧客列車があったそうですね。私は九州で少年時代を過ごしましたので、ED76形ですね。
Messerschmitt Bf-109 僕は関西なので、山陰本線のDD51が一番しっくりきます。赤い電気は旧客に似合いますね。
旅一郎 様どぉもです! 九州(門司港-大分・熊本・長崎及び佐世保間)ですとED72形やED73形、ED75形300番台(60Hz仕様)、ED76形0番台及び1000番台の他に北陸地区から転属してきたEF70形やED74形もありました。ED76形を除いてほどんとが貨物列車の牽引に充てられていましたが、ED72形及びED73形、ED75形300番台はブルートレインを牽引していましたよ!きわめて稀少ながら、関門(下関-門司)間をEF81形300番台こと“銀釜”が旧客列車を牽引する場合もありましたよ!1980年代には、EF30形が退き、EF81形400番台が博多や大分まで進出しました。九州でも非電化区間はDD51形やDF50形が充てられましたが、現在は取り回しのよいDE10形やDD16形が貨物ターミナル等の入れ換えで活躍しています。なおEF81形が鹿児島本線では川内(せんだい)、日豊本線では南延岡まで進出したため、ED76形の姿をみることが少なくなりました。
Messerschmitt Bf-109 ED72.73は懐かしいですね。昭和53年に小倉駅で撮影してあさかぜの牽引がED72でした。
懐かしいですねぇ窓全開で乗る夏場の旧客ボックスシートでは毎度に冷凍みかんがお供でした定期運用の旧客列車に最後乗ったのは1982年の夏の磐越西線でしたED77牽引の普通列車を郡山から会津若松まで、当然最後尾に乗り込んで中山宿スイッチバックの推進運転前面展望を楽しみました
磐越西線は61系や32系が残っていたので魅力的ですね。僕は間に合わずでした。雑誌で見ると一回り時代が古く感じました
私が子供の頃(昭和40年代)は路線バスも停車する前にドア開けて、ドア閉める前に発車してましたね
路線バスは未だにやってます
3:38 田舎に子供がいるのって良いですね昔は子供がたくさんいて当たり前の光景だったかもしれませんが、今ではあまり目にしませんから。
そうですね。子供のころに鉄道で移動した思い出があると、いずれ鉄道に戻ってくると思うのですか、初めからマイカーだとそもそも選択肢には入りませんね
80年代になってもそんな危険な列車が走ってたなんて驚きです。
haya tono 83年までは急行列車にも使われてました
今から見れば危険かも知れないが、この当時は、「こんなもん」「これが当たり前」って感覚で、フツーに己自身が気を付けて乗っていたよ(笑)
旧型客車最晩年の山陰本線を走る勇姿ですね。乗りに良く行ったので懐かしい時を思い出しました。あの頃の長距離普通はうたた寝を何回も繰り返しても走り続けていたような覚えがあります。
ありがとうございます。人生で一番真剣に鉄活動してした頃です。その後の人生や判断基準全てに影響しています
私の憧れの物が映っていました。何とは申せませんが感謝いたします。
Langray Bash 何が写っていたのか気になりますが、たのしんでいただけて幸いです
💩
70年代には中央線もこうでした。垂れ流し式便所で用を足しながら走って、金山で降りて中日球場に詰め掛けました(笑)最後の開放的客車は清水港線だったと思います。
いい時代に乗られておりますね。ぼくが初めて中央本線に乗った時、普通列車は急行型165系になっていました。清水港線も近くまで通っているのに日に1本と言うのが乗るには難しかったですね
携帯やスマホは無かったけど良い時代でした。人々のコミュニケーションはこの時代の方が良いと思う。友達の家に電話する時は1コールですね♪
やりました寝。あと、回線は一つですが無理やり分岐させて延長コードで部屋まで引いてました
鉄道を好きになったきっかけのED76-0牽く旧型客車スハ43系。客車内は鉄、タバコの匂いでした。乗り心地最高でした、鉄粉撒き散らしながら駅のホームに滑る様に停車してた。いい車両でした!
76+40系客車って最高ですね!
昔の学生は、開いてるドアから小ベンしたとか・・・。振り落とされたら、フリちんって言うんですかね?昔乗った八甲田や山陰なんかは、手動ドアだったのを覚えてます。山陰なんかは、トイレが垂れ流しでレールが便器越に見えましたね。沿線はたまらん!
大納言 各車両にトイレがあるのにドアから小便して落ちたとなると、先の窓枠に座ってトンネルにぶつかった漁師と同じではないですかね。
そうなんです、窓を開けて駅弁を食うと、天然の味の素が掛かります。
ohoyamato 鉄粉くらいなら鉄分とれていいかもしれませんね
オススメ動画に出てきたので…記憶が曖昧ですが自分が中学?くらいまでは地元でもEF58や81に牽引されて走ってました。窓を開けて行った土地の空気を肌に感じながら心地よいジョイント音を子守唄に寝る、これぞ旅って感じでした。現在はローカル線でも窓が開かない近代的な車両ばかりで旅をしても何処か不満足に感じてなりません。
ありがとうございます。EF58と81となると信越本線と、北陸本線のあたりでしょうか。北陸本線の末期の旧客に乗りましたが、いつも乗るDD51に比べ早いので怖かったです。
旧客のデッキで手摺に捕まって外を見るのが大好きでした今じゃあり得ませんけど 笑
日本海沿いの客車列車に中学生の友達四人で乗りました、いまから40年前です。デッキのドアは開けっ放しで、暗闇のなか大きなカーブに差し掛かり前を走る赤い電気機関車とそれにつながる数量の客車、私の乗ってる最後尾の客車までの窓の灯りの長い列、転落防止の鎖とデッキの手すりから思い切り身を乗り出して見た景色が思い出されます、軽やかなジョイント音、吹き付ける風、仲間は硬いボックスシートで寝てました。懐かしい列車の思い出です。銀河鉄道にあこがれてましたね。素敵な映像ありがとうございました。
プラモデル走る機関車 日本海側の電気機関車牽引という事は北陸本線か羽越本線ですね。直角の硬いボックスシートも編成が長かったので、ガラガラで脚を伸ばせたので楽ではなかったですか?
おっしゃる通りガラガラでしたよ、上越線の沼田から長岡まで行ってたしかそこから客車列車に乗りました。ボックスシートで靴を履いたまま足を投げ出してたら車掌さんに怒られました。駅の裏側がすぐに海の小さな無人駅で降りたんですが駅の名前を忘れてしまいました。
プラモデル走る機関車 降りたのは青梅川か親不知ですかね。
ありがとうございます!青梅川駅に間違いないです!ググってみたら懐かしい風景が出てきました。海岸が目の前で山から流れてきた川が線路の下を通っていて、ポツポツ家があって、私たちは駅から海岸に降りて川と海が交わる所に座っていたら、同い年くらいの子どもが三、四人いて、話もしなかったけど互いに牽制しあったのを覚えています。ずっと気になってた事をおかげさまで四十年ぶりに知ることができました!いつかまた訪れたいです。ありがとうございました。
多分駅の雰囲気もそんなに変わってないと思いますよ。
これはこれで乗ってみたいけど、今やったらSNSでごちゃごちゃ過保護の親とかがうるさいんやろうなあ
Atsuki T 結局そう言う理由で、遊びは決められた遊園地で、と言うことになるんでしょうね。
旅一郎 こういう昭和の雰囲気は遊園地なんかより可愛らしいですね。
Atsuki T 人間味はありましたね。
キハ40 さま三等で昭和の気分満喫ならば、タイに行けばやり放題。長距離の非冷房二等寝台はオススメ。手動ドアの寝台は趣アリ。ちょい高いエアコン車は夜寒すぎる
@@ach112 遊園地「なんか」って言わないでくれる?
昭和50年頃上野からの東北本線普通列車がこのスタイルでした、宇都宮あたりまででも結構な旅気分が味わえました。
上野発一関ゆき123列車でしょうか。まだまだ長距離移動に鈍行も使えた時代が懐かしいですね。
@@user-tabiichiro 6時頃上のホームから高崎線経由高崎→長野行き、下のホームから常磐線に仙台行きなど5本くらいあったと思います、早朝に上野発水戸回り水郡線経由郡山行きとかが出てました。
非冷房でも、夏は窓もデッキ扉も全開にしておけば、案外涼しかったのではないでしょうか。
hisyokun 止まってる時は扇風機だけで熱風をかき回しますが、走り出すと涼しくなります
昭和の時代の名古屋地下鉄東山線の黄色の非冷房車は夏、窓の上半分が全開に開けてあったが、ずっとトンネルの中で生ぬるい風しか入ってこんかったな。おまけに音が反射してうるさいし。蒸し暑かった記憶がある。
憧れます…客車列車の穏やかな雰囲気…今は客車が少なすぎます…色々大丈夫かな…
客車列車は汽車旅の原点ですからね。大雑把に言って客車の方が編成が長く空いていたのも、いいイメージでしたね
ドアを開けてデッキに立つのは心地よかった。当時あれが危ないとか思った事なんて全くなかった。ホントに危ないと思ったのは、窓からとなりの窓へ移動するとかいう遊び。50系客車の登場は、赤い悪魔の襲来だと思った
Nimo5 デッキからデッキへという奴いませんでしたか?危ないという概念も今と昔は違いますし、過去の事象を今の基準で裁くことはフェアじゃないと思います、数年後、ホームドアが無いことが、「信じられないほど危険だった」と言われる事でしょう
Nimo5 窓から窓なら、今でもできますね。
最近の窓は全開放できなくなってるので寂しいのですが、短編成化でだいたい混雑してるので窓を開けるって行為そのものが厳しいですよね。
Nimo5 そうですね。今はドアどころか、窓を開けるのも躊躇します。窓を開けたらその土地の空気を感じられるのに。
仰るとおりです。列車の速度がゆったりしていたこともあり、鼻をくすぐるキンモクセイの香り、稲刈り直後の田圃のわきを通過する際の青臭いような藁の香り、夕方の草焼きや田圃に施される消毒薬の匂い、朝霧の粒が顔に当たるしっとりとした清々しさ等々。その土地の空気の中を通り抜ける感覚がありました。最近、旅をする方々にあっても、列車内でスマートフォンを凝視したままヘッドフォンで耳を塞ぎ、ただ盲目的に移動するだけ。他人の価値観に介入すべきではないことは承知の上ではありますが、難のための鉄道旅行なのか?と疑問に思ってしまう自分がいます。
懐かしい!! 最後尾で線路が流れていくのをよく見てました。飛び乗り、飛び降りなんて常識でしたね。一度、飛び降りたときにホームで転んだら、駅員さんに「もっと早く足を動かさんからや!」って、叱られました。ww
昔は常識でしたし、飛び降りるときのショックは意外に大きいので進行方向に走らないと転けますね
古き良き旧型客車の醍醐味一度味わいたかった
森田大介 今のイベントではどうしても雰囲気が違うので、台湾などの似た車両で体験するのをお勧めします
懐かし~私は福知山線DD51-700番台、スハフ42茶色やマニの時代に、当時の新聞に尼崎付近鉄橋から落ちた乗客いましたよ!その後その人どうなったのか?音が割れたようなオルゴール、鉄道唱歌、アルプスの牧場からハイケンスのセレナーデに代わっていきました。貴重な映像ありがとうございました。
落ちたら大怪我でしょうね。駅に止まる寸前でも結構なショックがありますね。
昭和30年代の上野発の各方面の列車もこうだった。のんびりしていてそれは懐かしい♪
amp3cx10000a7jp 僕はかろうじて昭和40年代後半の記憶がある程度なので、末期の旧型客車に乗りながら、当時を想像していました。本当の鉄道最盛期を体験された方は羨ましくて仕方ありません
子どもの頃の大宮駅、時々客車列車が入ってくると「飛び乗り、飛び降りはおやめください」のアナウンスがありましたねぇ。で、それを無視して飛び乗りする人が何人もいました。
そうですね。時効だから言いますが、僕も発車した列車からホームに置き忘れた荷物を発見し、飛び降りてまたのるという事をしたことがあります。
凄いな、幼少時に、ドア全開のSL列車に乗って、爆走中の外をこわごわ覗いていた記憶があったのですが、やはり真実でした・・まさか映像として残っているとは。しかし、余部鉄橋ですら全開ですか‥自分が(昼間に)乗った車両は気動車だったのか、ドアを気にした記憶がありません。凄い時代でしたね。
国鉄末期は日本社会も今と変わらないほど成熟していたのに、地方に行けば昭和30年代のノリの列車がありましたね
当時は当たり前でした。夏は気持ちよく冬は大変でした。自分は通学時原ノ町発青森行き223列車によく乗りましたが、水戸鉄は仙台の通勤事情よくわからなかったのでしょう。ドアを開けていないと乗れない状況でした。ドアのガラスも割れるし大変でした。ひどいときは木製のドアステップに立ち左手に学生鞄右手で必死にドア手すりにしがみつき乗りました。長町を出てトップスピード(おそらく80Km/hぐらい?)にさしかかる広瀬川は恐怖でした。今では考えられないですよね。
583仙台 仙台地区の混雑はひどかったようですね。原ノ町発青森行きは仙台まで11両でしたか
昭和58年の正月、当時中学1年のお年玉で初めて鉄道模型を買ったとき、花形車輛ではなくDD51とスハ43とかスハフ42でこういう編成を再現してました。当時大阪駅からも福知山線経由で鈍行の鳥取行などが出ていて、こういう編成でした。中間車にスハフ42が連結されていて、車掌室が施錠されていなかったので、中に入って車掌室からの車窓を楽しんだものですwww
DD51と旧客ですか。通ですね。大阪発鳥取行きは好きでした。距離は短いものの、真昼間の大阪駅(アバンティ大阪もできていたので華やいだ雰囲気の駅になっていた)のひっそりと旧客が止まっているのですが、「米子」より、メジャーな「鳥取行き」のサボのほうがインパクトがありました。
父の産まれが鳥取でした。山陰本線は電化も遅く機関車で行ったこともありトンネルが近づくと大急ぎで窓を閉めたものです。国鉄勤務だった父は楽しそうでした。懐かしい響きです。米子の空襲のとき機関車全速力でトンネルに入って助かったといってました。速さよりこういう旅がまたしたいものです
蒸気の頃は知りませんが、普通列車を含めて長距離輸送を中心にしていた国鉄がたまらなく好きでした。鳥取は叔父が児童をスキー合宿に連れて行く旅行をしていたのでそれに便乗して何回か行っており、子供心によく知ってるところでした。その鳥取で最後に旧客に乗れた事がよかったと思います
連結の所が今と違い落ちそうでこわかったです。油の臭いがする床固いシート、感傷に浸ってしまいました。機関車を運転していた父の事。とても懐かしかったです。ありがとうございました
確か、昭和40年代は車内で大人がタバコをバンバン吸っていた記憶が有ります。この頃(昭和61年)はどうだったんだろう?
BLUE WAVE 43 禁煙が進むのはもう少し先(5年後くらいです)
旧餘部鉄橋、懐かしいですねえ❗コンクリート橋になる少し前に写真を撮りに行きました❗僕が小学生の頃、フン尿を線路に垂れ流していた、
現代っ子のものです。はえぇ…高崎地区の115系に乗った際ドアを手で開けるというので驚愕したのを覚えてますが、さらに昔はこんな時代が…旅情に溢れてて羨ましい限りです
真琴霊路 走行中でドアを開けられる(運転保安設備系統と連動していない)という意味では、津軽鉄道のストーブ列車はいまでも、走行中ドア開放は可能です。やっていいかというのは別問題ですが。
扉が開けっ放しだったので、デッキから足を外に出して遊んでいたら、おじさんに怒られた事を思い出しました。後、一部の列車のトイレの入り口に「停車中にトイレを使用しないで下さい」、「〇〇~△△区間はトイレを使用しないで下さい」って書いてあったような事を思い出しました。
t s そうやって怒ってくれる人がいたという事ですね。都市部では旧客に限らず、中距離電車でもトイレ使用禁止にしている事が多かったですね。
昔の車両のトイレは、今の車両の汚物処理装置付のタンク式と違って、特にこの旧型客車は、排泄物が皆、垂れ流し式だったから…です。
そうですね。国交省によりタンクが義務付けられたのはいいですが、それを機にトイレ撤去が進んだという負の効果もありましたね
@@user-tabiichiro ガキがそんなことしてたら容赦なく拳骨食らいましたね、それでも文句言う人なんかいませんでしたね、故石原慎太郎氏が訴えていた他人の子を叱ろうと言う時代でした。
@@user-tabiichiro 国土交通省はボンクラばかりでやる事が中途半端、一度現場に出て現状を把握すればいいんです。
そういや子供の頃福知山線(まだ旧線)では、武庫川沿いで扉をあけてみんなで手を振ってた。振ったらハイカーなどが手をふりかえしてた。デッキがあるので、冬以外は扉が空いているのがデフォだった。
hana hana そうですね。大阪から近いのに風光明美で汽車旅が楽しめた貴重な路線でした。僕は保津峡の方が多かったですが、いずれもドアを開け放し、そこの風が直接感じられて旅してる感がありましたね
撮影場所も、今なら列車が止まるレベルの距離で撮ってるものもありますね笑なんとなく昭和を感じます
スギキャット そうですね。昔は線路と線路の間で撮っていてもOKでしたし。今の常識で裁くのは、「遡及処罰」にあたるので、セーフと認識しています
懐かしい動画アップありがとうございます。子供の頃余市から札幌までスハフ客車に乗った事を思い出しました😁ほかの乗客もデッキでタバコ吸ったりと今ならNGですがなんとなくのどかでしたね😀余部鉄橋はこの客車で通過するのはスリル満点ですね😁
ありがとうございます。僕の汽車旅好きになる原点です。乗ってよし、聴いてよし、撮ってよし全てが素晴らしかったです
列車が停止する前に飛び降りるときは、進行方向へ走る感じで踏み出すんやで。
kamepo そうでしたね。思っている以上に着地時は後ろに引っ張られますね
貨物の操車やってたけどこのことは鉄則だよ。
プロの方(突放)ですね!まあ素人の戯言と思って笑ってください。
一般人の方は原則やらないでください😁
もちろんです。と言ってもするすべもありませんね
旧型客車は本当乗り心地良かった。車内の鉄臭いのも良かった。1番好き。
森口林 これこそ汽車旅!という感じがしてましたね
Nice video!
Boris Lu THANK U for your tisit!
懐かしい・・高校時代に東北地方で10系(だったかな?)客車に乗って旅しました。翌年、四国に行ったときは50系客車で、自動ドアで「近代化したなぁ」と思ったものでした。
旧客と50系では製造年以上の違いがありますね。手動ドアが絶対的な魅力だったと思います
私も後部デッキから走り去くレールを見るのが楽しみでした。あのような解放感は二度と味わえないかもしれないので、とても貴重な体験でした。
なんともいえないのですが、あのデッキからみる去りゆくレールを見ながら「人生」を考えていた中高生でした
うちも昭和58年頃の磐越西線で経験があります。DD51のディスクから火花が出ていた事を覚えております。後に50系客車が出たおかげでドア開放は無くなりました。
火花ですか。その体験はないです
懐かしいですね。子どものころの中央線(名古屋近郊中央西線)もこんなでした。
satoshi niwa 紀勢本線名古屋口は遅くまで残ってましたが、中央本線で名古屋まで顔を出すのは相当昔ですね!
中央線複線電化が確か昭和41年だったのでそれ以前は基本的にSLけん引の列車でした。まれにディーゼルカー。DLけん引は見たことない気がします。電化してからはELけん引の列車が昭和50年くらいまで残ってました。動画と同様ドアを開け放した客車を高校通学に使ってました。
satoshi niwa それは本当にいい時代じゃないですか!蒸気牽引の客車通勤に勝るものはありませんね!
子供の頃の電化前の川越線も手動だった
流山市西松ヶ丘 多分それは「半自動」だと思います。走行中でも開いているのが、本当の「手動」ですよー。
ドアが開きっぱなしだから、飛び乗るのも飛び降りるのも自分次第。1990年代以降に自己責任の必要性がグローバリズムと共に叫ばれるようになったような気がしますが、日本は昔の方がよっぽど自己責任社会だったような気がする。
xinnti7979 現在は自己責任というより型にはめる、一糸乱れず並んで、混み合っても譲り合ってすわり、車内では物も食べずひたすら静かに過ごす、
誰が楽しいのでしょうかね。
考えるべき素晴らしいコメントですね。
私が思うには
昭和後期、社会責任の共通度は今より高く、その上での厳しい自己責任があった。総合的には行動の危険性、迷惑性などの無自覚が少ないと言う事になる。
現代では社会責任を意識しない自己責任論が蔓延る。
しかもその根拠が希薄な社会性意識と経験から来ている事も多くその時は冷たく、幼い論拠の時がある。
結論
自己責任については今昔殆ど変わりませんが、危険意識と、罪悪感の薄れ、社会性の低下は確実。
Langray Bash こちらも素晴らしい洞察ですね
sg kuri 僕は管理されるのが苦手なので、昔の方が暮らし良いです
昔は自己管理能力を前提とした自己責任論だけど今は過保護に育てられた上でちょっと興味から皆と違う事をして痛い目にあうと自己責任と叩かれる。
高校通学に使ってたのがこれでした。列車が動き出してても、駅員が「急いで乗れ!」と急かす時代でしたね。
tac12469
懐かしの時代です。
今だからいえますが、列車が動き出してから荷物をホームに忘れたのが見え、飛び降りて荷物を持って、もう一度乗ったこともあります
♪~動き始めた汽車に~~一人飛び乗~って~♪
これができた時代だ。
ちあきなおみ“喝采”より(笑)
走り出しも、止まりかけも今より遅かったですからね。
SLの加速は自転車よりも遅かったから発射して10秒くらいは飛び乗れたね
なかなかワイルドな時代ですね。
この客車の手動扉というのは乗客側で閉めてもいいものなのでしょうか?
気になります。
昭和の時代は列車にも心にもゆとりがあったように感じた。動画で4~7両運転でそんなに混んでるように見えない列車。でも今よりはずっと駅に人がいた。暖かさが感じられた。
昭和30年代はともかく40年代後半になると盆暮以外は空いていたようですね。
僕が一人で旅に出るようになった50年代後半以降はまだ列車の編成が長く空いていました
この頃は危険と隣り合わせと
言う人もいるけど、それは違う。
何が危険なのかちゃんと理解を
しているからこういうのが
成り立つ。だから見てみなさい、
開いてるドアやデッキにいる人達は
興味本位や知っててやってる人でしょ
小学低学年の頃の自分がその興味本位でやってしまった馬鹿な事を思い出した
満員でも無い時はデッキに立つもんじゃないと学びましたよ、ええはい
@@もひとりさん
早めに分かって何よりw
今はホームにドアが付いていないから事故が起きるとか言っている、甘ったれるのもいい加減にしろ、自らの安全は自らが作るもの。
鉄道がキャッチーになって舐められる存在になっているのが嘆かわしいです
今では信じられない当時の当たり前。
素晴らしい動画をありがとうございます :-)
bluemomo65 ありがとうございます😊。
実際のところ当時でも都会の人が海水浴などで来た時は驚いてましたー
上手く表現できませんが自分たちが子供だったあの時代のすごさ野性味を感じます。素敵ですね。昭和の時代はもっと色んな匂いに富んでいたように思います。この貴重な映像を通し、その懐かしい匂いにしばらくの間浸っていたい。そう思います。
調査別室 僕はギリギリ動画撮影できましたが、他にも色々旧客のビデオをアップされている方がいますので、それらの動画を結集して、バーチャルリアルティーの技術で加工したら、本当にそこにいる気になれるかもしれません
旅一郎 様、実現すればこれほど素敵なことはありません。
子供の頃にDD51+旧型客車によく乗車しました。武田尾旧線は、のんびりと渓谷を走行していたのを思い出します。貴重な映像を有難うございます。
ネコスケ
僕は山陰本線が近いので、保津峡が多かったですが、武田尾も旧客末期に行きましたよー
。
ビデオカメラを買ったのは、もう大阪、京都から消えた後なので12系が旧線を行くものしかありません。
そのテープも今探している最中です。
私も、長野へ行き帰りに客車の列車に乗るのが楽しみでしたね。
車掌さんと話をした事があるんですが、たまに落ちる人が居る、乗務していた列車で落下事故が有ると後が大変と言っていました。 でも、客車が好きだから乗務は嫌ではないよねとも言ってました。
ある意味、いい時代でした。
信越本線だと、57年頃までですね。
時刻表で眺めるだけの頃
乗りたかったけど、ついに間に合いませんでした
@@user-tabiichiro さま
あの当時の旧客車の雰囲気を味わう事はもう出来ないのは悲しいですね。 仕方なしですが。
これぐらい緩かった時代が一番日本が輝いていた
国に余裕があったようにも思います。
@@user-tabiichiro 様 後に“効率化”の御旗の元に、“余裕=無駄”として徹底的に削ぎ落としまくった結果が昨今の日本と言えるかも。まぁ、悪いことばかりじゃないとは思いますが・・・・・・。
@@三枝日記 今ほとんどの企業で余裕がなくなってますね。
自分でも家計切り詰めをしてますが、みんながみんなそれをすると結局回り回って自分の首をしめる。合成の誤謬ですね。
本当に同感です、人々も坊やからお年寄りまで皆んな輝いてました、ありがとうございました。良いお言葉です。
元凶はセキュリティ過剰社会だと思っています。
今は世の中が過保護すぎて、昔なら誰でも知っていた危険への対処方法を知らない人が多すぎます。
危ない危ないって言いますが、気をつければ良いのです
ピンクカブ 過保護になりすぎて、危険察知能力が著しく低下していますね
旅一郎 確かに50センチくらいの高さから落ちて痛い思いをしないと、50メートルの高さから落ちたら死ぬという事が理解できない可能性がある。
今、こういう時代を生きて知ってる我々世代は、幼い頃から、徐々に、何が危険か?という危機意識を自然に養ってきたので、今現在でも、色んなモノに対する、危機回避能力が備わってるのかも知れませんね。
特にネットに対しても、人一倍、慎重に。
同感です
過保護に加えて、昨今は過干渉かつ大げさで強引にさえ思えてしてしまいます。
ちあきなおみさんの名曲「喝采」の歌詞に
「動き始めた汽車にひとり飛び乗った」とありました…
汽車も死語になり、そんな客車もなくなりましたね…
あの歌の意味が分からないという人が増えていますよね。「ダイヤル回す」もそうでしょうね。
北海道では普通に汽車と言う
「上野発の夜行列車~」しかり、「花嫁は~、夜汽車に乗って~嫁いでいくの~」のもなくなりましたね。
徳島は未だに電車は一本も走っておらず全部機動車ですね
@@tsuka5116 汽車の窓からハンケチ振れば~かわいい乙女が花束投げる~・・・これも今やったら「急停車します・・・」で報道ですね。
昔あった鈍行列車やな
赤い凸型のディーゼル機関車に引かれて、札幌から函館まで10時間以上掛かった記憶が……
トイレから線路が見えて、垂れ流しなんだよね
CYD GOODMorning 普通列車の所要時間は今とあまり変わらないと思います。
時刻表を見たところ最速が函館山線周りで函館8時18分発で札幌17時2分着 所要時間8時間44分みたいですね
とある人 現在がですか?当時の夜行41列車は函館の23:45ー札幌6:55?だったかな。
@@user-tabiichiro 2019年4月改正時点です。途中長万部、倶知安、小樽で乗り換えが必要になりますが
とある人 昭和60年の時刻表で確認しました。
夜行の倶知安周り41列車は23:58発6:45着(6時間47分)
昼間の128列車が、札幌10:18発函館19:49着(9時間31分)
42列車が、札幌13:39発函館21:42着(8時間3分)
今も昔も変わらないですね。
まず、車両に側灯がないですね。笑。
窓や扉から入る自然の風、そしてヒグラシや虫たちの鳴き声‥‥。
風情があっていいですね。
onsen tsumuzi 高崎の側灯は気になりますね
去年台湾行った時に乗った列車がこんな感じでした。
珍しい光景で最後尾の後ろの開いた扉からずっと外眺めてました。
台東の方です。
サーモン太郎 それはこれではないですか?
th-cam.com/video/ZyXh5TjKYTA/w-d-xo.html
台湾でも最後の一本となった旧型客車(日本製)です。
旅一郎 同じ型かはわかりませんがそんな感じでした。
現地の種別で言うと「区車」ですね(区間車という意味)。今は日本製の電車に変わってきてるんじゃ
ないかなぁ?
普快車ですね😊
私も初めて乗ったとき感動して、何度かわざわざ乗りに行きました。
コロナ禍の間にその区間も電化が完了してあの電車無くなってしまいました。もう一度くらい乗りたかったです(現地の方には待望の電化だと思います)
観光列車として今も走ってると聞きましたがどうやら似て異なるものとなってるみたいです😢
@toshippercy8655 実は先日台湾に行って観光列車化した藍皮解憂号にも乗ってきました。全く別物ですね。
車掌が『窓から顔や手を出さないでください』という放送してたよね。
今は携帯電話に置き換わったけど。
Alena Hemkova それを聞くようになったのは割と最近の気がします。
昔は気にかけなかった
そして今やホームドア
窓から携帯電話を出さないで下さい。
ドア開けっ放しの出入口に立って鉄橋を渡っている時に眼下の川の流れを眺めるのが醍醐味だったw
去りゆくレールを後ろから眺めるのが好きでした。
冬は暖房の湯気がチロチロ流れるのもまたをかし
トラス橋渡る時の、鉄骨の規則的な風切り音も良かった
夜行の客車妙高号が碓氷峠を降りる時にデッキから下を見ると恐ろしい光景が広がっていた。
@N--jv3go 旧客デッキから特に夜の外を見ると死を感じる時がありますね。
山陰本線の太田市〜江津の海沿い崖区間をボロボロの10系のデッキから見ている時そう思いました。
4:43〜の映像の虫の声と客車の音が気持ちいいですねー
平成生まれのぼくには映画の世界の様です
当時もそんなに昔の生活していたわけじゃないですよ、昭和61年といえば、街にはマクドにケンタッキー、携帯は高いけど一応あった。普通の家には車、エアコン、テレビは一人一台になりつつあった頃です
旅一郎 すみません、本当にこういう列車ばかりの世界を想像してました。
でも客車列車が現役だったなんて素敵な時代です!
ルニ男 ちょっと前まで「客車列車」が普通に存在したのですが、日本はやりすぎましたね
2:18 餘部撤去の真下の食堂があったw ここの定食の付け合わせの山ウドが思いっきりうまかったの覚えてる。
懐かしいです。
ホームに植木や花壇があったり。
特急や急行待ちの静寂と蝉の声。
扇風機の真ん中にJNRの文字。
夏は窓も扉も全開で気持ちよかったです。
いすくら
国鉄時代はホームに花壇がある駅が多かったですね。
最近は余裕がないのか、めっきり減りました。
あと池を作って金魚飼ってたりとか。
ホームの掃除も駅員さんがやってました。
Bruce Bruce 駅を見せるという思いがあったのかもしれませんね。
無人となった今、花壇も撤去されたところが多いです。
今はJRも役所も効率化で非正規職員だらけですね。
国鉄時代に比べ、効率が良くなって職員の愛想も良くなりましたが、それによって失われた何かがありますね。
仕事をやってもやらなくても同じ、というのが「親方日の丸」の悪い所でしたが、待遇を保証しつつ良い仕事のできる仕組みというものは無いのでしょうか。
鉄道に何を求めるかによって、賛否は分かれると思います。僕は国鉄の価値は、「日本全体の統一したネットワークの提供」と考えていたので、今のズタズタのネットワークは昔よりサービスダウンしたと考えますが、国鉄に、「ソフトな笑顔の対応」を求めていた人にとっては、今はサービスアップしたと思えるのではないでしょうか。
ボックス席の固いシートの夜行列車であっても、普通に乗ってたそんな時代でしたね。
昼間は途中の駅で、窓越しに駅弁とお茶を買うのが楽しみでした。冷凍みかんもよく食べたなあ。
多客期は満席で辛いですが、通常はボックス占有ができたので思うほどしんどくはなかったですね。
気候変動のせいかもしれませんが、走り出すと風が心地よく感じました
地方っていうのもあったけど、ドアが開いてても落ちる人なんていなかったし、柵が無くても撥ねられる人なんていなかった
当時はそんな時代でしたね
去勢されると弱くなるという事でしょうか
生まれた時からvvvfインバータの列車が走っていた僕からしたら想像も出来ないですね…
NK1000まあく
生まれた時にはなかったですが、この動画を撮った時代、近鉄や阪急にはVVVFはありましたよ。
そうなんですか!さすがですね近鉄阪急…この時期というと南海ではサザンが出た直後とかですかね。僕の父が小学生の頃です。
NK1000まあく この時代でも旧客は当たり前ではなかったのです。
もはや絶滅危惧種、でも情報もあまりなく、知られず去って行きました
これが追加料金が必要とはいえ現役である大井川鐵道の凄さがわかります。
今となっては、追加料金払ってでも乗りたいですね
今でも窓が開く電車は多いですが、
キッチリ冷房が掛かるので開ける事も無くなりましたが、
日中 停電による立ち往生なんかになると
窓が開かない車内は灼熱地獄になります。
車内からは出ないけど換気の為に
非常コック使ってドアが開けられ
運行再開に手間取る事案が増えそうです。
あと、最近の新幹線は非常コックを使っても
速度がある程度落ちるまでは
ドアは開かない様にしてあるらしいですね。
昭和40年代上野~赤羽間で時々客車列車で通学しました。ドアは開けっ放し先頭車の場合貫通路からEF57のデッキへ移りホームに降りたことがありました。今考えたら危険ですが
ハヤトスズキ
昔は命が安かったというのもあるんですかね。
鉄道に限らず、道路も歩道はほとんど無く、トラックが突っ込んできましたし
本当に素晴らしい動画集をありがとうございました。上京する昭和58年迄高校通学でこの編成列車に楽しく行き来してました。動画の坊や、学生、正にリアルな私が有る感じで懐かしさいっぱいでしたね。通学でも旅行気分でしたし開放ドアデッキにわざと乗りスリルを味わい連結部を観たり、楽しかったですね。人々乗客も皆んな嬉々としてホームで待ち乗り込み、本当に移動時間を楽しんでました。動画の学生も飛び乗りや降車とかもわざとやってました、でもきっと安全範囲で、車掌さんもお互い信頼してましたので、咎めることはなかった、あ~いい時代戻りたいですね。今ならドアが空いてて緊急呈し案件が有りーと全国ニュースですね。
ありがとうございます。
当時を思い出していただき嬉しく思います。
動画の持つリアルさですね。
なんとか残したいと思い、休み毎に撮影してきました。
高校の下校通学時に最後尾の客車デッキから線路を見るのが好きでした。
通学で使っていたのは羨ましいです
昭和時代は平和だなぁ
ケン ケン
昔が懐かしいから美化されてるのかとも思いますが、何度見直しても昔の方が良かった。
この時代にiPhoneが使えたら最強だ。
日本中空襲受けて原爆2発も落とされたけど。
こういう時代が羨ましいです。
東南アジア等に旅行して飛び乗り、飛び降りしてみたいです笑笑
貴重な映像ありがとうございました。
是非試して下さい。
着地したらすぐ進行方向に早足で歩かないとこけます
流石に戦時中みたいに屋根に乗ってるのはいなかったなw
3:40 編成内に福知山局のスハフ12-701“いこい”が繋がってますね。古めかしい旧型客車の隣が12系というアンバランス感がなんともいいですね
ナカモトヨシキ この列車は米子12:01発福知山行き528列車です。よくこの列車に憩いが連結されてました
スハフ12 701が普通列車に併結されていたというのは、小口団体に使用されていたんでしょうかね?
この時代、福知山駅にツアー列車の広告を見たような記憶があります。
素晴らしい映像集でした、ありがとうございます☺️危険なのは客車ではなく、今の人間なんだと思いましたねぇ😔
ありがとうございます。
含蓄のある言葉ですね!
@tkcokmt 便利になりすぎるといざという時何もできなくなりますね。
鉄道業界では自動運転が進ても非常時のために通票閉塞の訓練をしています。最後は人力でなんとかできるようにしているようですね
大袈裟ですが責任は人任せじゃ、日本人は世界から一人前として扱ってくれないと思います。
@tkcokmt
本来なら「バカが触ってはいけない代物」ってのがあったはずなんだけど、今は万事が「バカが何をしても大事に至らない」ように物を作らなければならなくなったので、却って使い勝手が最悪で落とし穴だらけで、しかも窮屈な状況になってしまった。
6:06 開放デッキで風に当たる贅沢 忘れています 閉め切ったドア越しに流れる風景を見る旅すら遠い過去に行きましたね
そうですね。窓開けることさえ非常識と言われる今、鉄道旅の楽しみの原点を伝えて行きたいです。
列車が完全に止まる前に飛び降りていた大人がカッコよく見えて、真似して飛び降りてみたら見事にコケましたねw
40年前の苦い思い出😓
太郎にゃん 結構コツがいりましたね。
カッコよく降りる練習りしたものです
東南アジアに行けばそう言う体験がまた出来そうですね
わー、それ子供の頃小生もやりました。
見事にコケました。
磐越西線、津川駅でのおもひで。
昔は常磐線の普通列車にも客車での運行があって、よく手動のドアを開けたまま日暮里から乗車してたのを思い出します。当時の普通列車は三河島や南千住を通過してましたね
Rorekkusu 1005 常磐線は首都圏最後まで、残ってましたね。
昭和57年の日常のなかに上野発仙台行き旧客があったことが驚きです
朝と昼に2本ありました。昼のはよく乗りました。茶色の混じる東北線に比べると綺麗なブルーのスハ43系主体で面白みは欠けましたが、急行に乗ってる気分でしたね。
競輪帰りのヨッパライが取手駅から乗車して年に数回転げ落ちてたなぁ~~
東海道線(琵琶湖線)にも大阪行き北陸方面から来る鈍行がありました。京都大阪間はノンストップでした
岡崎正雄
富山発大阪行きと大阪発新潟行きですかね。
時刻表でしか見た事ありません。残念!米原止まりとなってからは何度が乗りました。
昭和38年、北陸本線の支線、高岡S.T~福野S.T 間。 爽やかに入って来る解放ドアー口から散居村を眺めて、ガタンゴトン ~ ガタンゴトンと田畑と共に視える景色は何故か頭のなかが真っ白になった様で、全てが優雅でしたね。 滔々と流れる乗車の中で、 何時まで乞う在って欲しいと願う当時の自分でした !!! 石動 (小矢部) ST仕立て(関西往復)帰りは、S L(貸切)の全パッセージに長御座を敷いてもらい、快調な修学旅行を味わったものです !!
M-16 福野支線?は存じあげませんが昔はどこでも列車で行けましたね。
蒸気時代は知りませんが北陸の旧客も米原ー富山で乗りました
もう最近ではドアどころか窓すら開けられない列車が多くなりました。
世知辛い世の中ですねぇ.....
ほんまにそう思います。
ドアどころか窓まで。
そのうち椅子から一歩も動くなって言われるかも
@@user-tabiichiro
シートベルトが付けられる日もそう遠くないかも知れませんね
@@ohashi7271 うまい!
@@ohashi7271
そうなったら寿司詰めにならず、着席必至
になりますね(湘南ライナーを横目に…)
貴重な映像をありがとうございます。北海道は43列車、大好きな列車でした。最後尾は鎖1本。高校の夏休みクラスでキャンプを企てたときも近々に無くなるのは解っていたので敢えて客車選びましたよ。
おー、41のプロですね。
最後まで残った旧客夜行なので混んでいても頑張っで乗ってました
うゎーーーーー 懐かしい!!!!!!!!
初めて乗った列車がこんなのだった
客車 窓全開 灰皿満タン。。。
一番後ろの車両通路から線路丸見えだし
約40年ほど前の記憶の中の思い出が映像として見れたことに
感謝!!!
sori mini 感動していただきこちらも嬉しいです。
音あり動画は当時を思い出すには充分な効果がありますね
現代を否定とかでなくって、50歳以上は特に、無茶苦茶懐かしい、ノスタルジー溢れる映像なんですよね😊
私も朧気な記憶で「ドア手動だった気がするけど…」と思っていたのが本当だったんだぁ!と見ていて嬉しくなりました。
昔は良かったのかという検証で、たいていは思い出は美しくなるということで論破されますが、旅情面では昔の方が良かったです
大井川鐵道井川線は今でも全列車ドアエンジンなしの手動ドアです。本線の旧型客車共々さすがに走行中開放はできませんけどね。
ところで1:16、ドアの窓ガラスが固定しているHゴムごと無くなってる・・・。
置き猫 大井川の長距離列車体験だけでもドア解放してくれればリアルなんですが。
山陰本線、餘部での映像。蝉の声が郷愁をかきたてます。どれも素敵な映像ですね。
ありがとうございます。
僕が一番好きだった車両です。
その魅力が伝わると嬉しいです。
子供の頃、
親と一緒に三田へ行く時、当時は宝塚までしか電化されてなくて、このような旧型客車の普通列車に大阪駅から乗ったのを懐かしく拝見しました。(^-^)
三田までは今なら電車でサクッといけますが、当時は阪急で行ける宝塚まででも「汽車旅」の気分を楽しめましたね。
塚口に住む友人が汽車気分を楽しみたいからわざわざ国鉄に乗っていたと言ってました
子供の頃良く乗りましたので懐かしい、大好きでした
良い動画をありがとうございます😊
この時代を生きたということはとても貴重な時間だと思います
まさに「正調派鉄道」。
子供の頃、手を振った列車は全部客車列車でした。編成も長くて座席が確保できるかどうか心配をしたことなんてほぼありませんでしたね。
今の若い人たちは「スリル」を求めて遊園地に行くんでしょうが、遊園地はそれ自体が目的なんで「いかにも作りました感」がすごい。
鉄道は「スリルと実益が一緒になっていました」って変な意見ですが。
それはさておき、今みたいにイケイケのデザイナーを採用して作らせた車両よりも、この時代の方が格好良く思えるのは気のせいでしょうか。
思えば「汽笛の音に旅情を感じる」とか「夜行列車にはロマンがある」といった意見を目にすることも珍しくありませんが、「旅情を感じるから汽笛をつけよう」とか「ロマンを感じるから夜行列車を走らせよう」とかではなくて、汽笛も夜行列車も必要があるから存在したんですよね。
デザイナーがデザインしたものは見せかけの格好良さ(格好良さと呼べるのかどうか)だと思うのですが。
今みたいに言葉も器用さもなかったけれど、黙々と列車が走り続けていたあの時代が懐かしいです。
asakaze@mamopi-
全く同感です。
「旅情を感じるから汽笛を付けよう」じゃないんです。
説得力のある説明ありがとうございます😊。
ブログでも使わせて頂きます
豪華さで売るクルーズトレインが好きな人もいますが、この時代を知る者には、これならいかがですかと、ワザと演出された楽しみでしかなく、あるがままで旅を味わえるわけではないですね。
はい。その通りです。旅情の押し売りに辟易としてしまいます
窓は開いて当たり前、ドアが開いてても当たり前の時代。今の時代の窓が開かない又は少ししか開かないの列車は当時田舎者だった自分には新鮮に感じたものです。しかし今は、それらがうんざりするほど増えた今、窓やドアが開く車両が懐かしく感じます。冷房車よりも窓を開けて外の空気に当たる方が余程涼しく、楽しかったですよね。
ドアはともかく、窓くらいは開けて旅をしたいものです
その土地の風をリアルに感じ、虫の音や、波の音を聞いてこそ、そこにいる価値がありますね。
固定窓から景色を見るだけならyoutubeでもほぼ同じことができますね。
大好き!最高!この時代に戻りたい!!
そうですね。
ありがとうございます
福知山線、山陰線の旧客よく乗りました。
武庫川沿いはホントに景色良かったですね。
懐かしい動画ありがとうございます。
ありがとうございます。これが大阪駅から出るというのがまた楽しかったですね
@@user-tabiichiro
返信ありがとうございます。
大阪駅の旧一番線に旧客があり、サボに出雲市や米子があるのは中々なものでしたね。
5から8番線は通勤電車がひっきりなしだったので。
ちなみに幼少期は立花駅付近に住んでおり、大阪に家族で出掛けた帰りは、尼崎まで福知山線に乗りたいとせがんで乗ってました。塚本を列車線で通過するのが痛快。
その後、乗り鉄になり、尼崎港線は何度も乗りました。
@@服部浩行 旅仲間も尼崎まで客レに乗っていたと言ってました。国電区間ても客レに乗れるのは羨ましいですね。
京都駅から上りは草津線の旧客があるのに、下りは103系しかなくつまらないと思っていました
@@user-tabiichiro
京都から草津線の客車列車乗りましたが、
残念ながら50系でした。
それでも貴重なんですが。
@@服部浩行 そうですね。
草津線の旧客はビデオに間に合いませんでしたが、50系は残っています
不思議と落ちる人っていなかったよな
。今ではドアが数センチ開いてただけでインシデント
huntercance neo 危険はわかっていたので、無理はしなかったのでしょうね。
逆に今の、知らない人が乗ると落ちそう。
箏曲家宮城道雄を始め落ちた人は当時もいました。ただ、其処は危険で油断してると落ちるってのは共通認識でしたから然程騒がれなかっただけです(今のようなネット環境も無かったので問題視する声もあまり届かなかった)。勿論鉄道当局もほったらかしにしていた訳ではありませんが古い客車を手直しするより電車気動車でおきかえた方が早いってことで客車への対応が後回しになったのは否めないでしょうね。
SleeperExpressJNR 危険、安全論でいえば危険なのは間違いないのですが、面白いかどうかというと開いてる方が楽しいです。
同じ先進国でもヨーロッパは手動のまま放置もありますので、自己責任の原則が徹底しているのでしょう
huntercance neo
交流区間の仙台は新幹線開通まで、電車投入が遅れて、高校生を中心に、毎年2~3人が死んでいました。
グーグル調子
なぜそんなに?
山陰本線では聞いた事がありませんでした
昭和50年代前半まで東北線上野発の旧型客車列車が3本残ってました。
郡山行き、一ノ関行き、福島行きの3本です。当時はまだ小学生の頃ですが国鉄宇都宮駅のそばに住んでて自宅からよく見てました。
一ノ関行きは時刻が13時30分頃だったのでよく黒磯まで乗り鉄してました。
当時はEF58が牽引してましたが
稀にEF57に当たった日もありました。
東北本線の旧客鈍行(直流区間)は昭和30年代と変わらない雰囲気で羨ましかったです。
東海道は僕が意識したした頃にには急行「きたぐに」の寝台のみが旧客であとは山陰や福知山線にいかないと見れないため、馴染みが薄かったです。
今の若い人には信じて貰えないかも知れないけれど、当時は当たり前だった光景。最後尾吹きっ晒しのデッキも鎖が1本あるだけで安心感がまるで違ったあの頃…オハフ・スハフの後位側(車掌室のある側)には鎖や扉はあっても前位側(トイレのある側)は何もないのがDefault(そちらにも扉が付いたのはナハフ10・ナハフ11・スハフ43そしてオハネフ12・オハネフ13位なもの)。でもこの頃はLocal列車にも元急行用のスハ43・スハフ42・スハ45・スハフ44・オハ46・オハフ45・オハ47・オハフ46そしてオハ36・スハ40などの青塗り近代化改造車も回って来ていてキハ20等よりは格が上の車内でのんびり過ごせたものでした(特にTR-47台車を履いた客車は最高!)。また、複線電化で軌道条件も良い北陸本線などでは電機牽引で95㎞/hで快走する場面もあり往年の急行列車時代を彷彿とさせてくれたものでした。車齢の若いナハ10・ナハ11・ナハフ10・ナハフ11は然しその軽量構造が祟り腐食に負けて意外と早く引退して行きました(意外と揺れたのにはびっくり!)。50系時代でも最後尾のドア開けっ放し!ってのは意外でしたが冷房のない当時、夏場の方便だったのかも知れません。叶うことならまたこんな列車で旅をしてみたいものです。
当時を偲んで描いたものがこちら。www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=51599969
SleeperExpressJNR TR47は国鉄が開発した中で最高の乗り心地ですね。
電化後同じ路線を113系で走ると飛び跳ねるようで、同じ区間を走っているとは思えませんでした。
今の基準で言われると、「危ない」「ありえない」と非難されそうですが、これこそ旅だったし、楽しかったという点は否定できません。
SleeperExpressJNR 茶色と青の混成がリアルですね。
車内で立っている人がいますね。仙台あたりを想定ですかね
場所は架空ですが、所属表記は広セキ、即ち広鉄局管内、概ね山口県内の電化区間を想定しています。当時山陰本線や岩徳線にはまだ客車鈍行がありましたがいずれも非電化でカマも前者はDD51、後者はDE10でした。数少ない電化区間の山陽本線・宇部線・小野田線、宇部線・小野田線は元々客レの設定はなく貨物列車はあっても電機の入線はありません。山陽本線もこのあたりは定期の客車鈍行は43-10で消えましたが、ブルトレや夜行客車急行はその後も残り50-3までは在来一般型客車の夜行急行も雁行していました。その後はしかしブルトレや12系・14系座席車ばかりとなり荷レを除くと稀にスロ81系お座敷列車の団臨がある程度でした。今はそれらも壊滅しましたが有り難いことに冬場を除いて土日祝日主体に1日1往復不定期ながら近隣の山口線に客レが走ります(SLやまぐち号)。[鉄]もの、ガチの客車好きが見ても十分許容範囲の真新しい[旧型]客車、蒸機に良く似合ってています(^^);
SleeperExpressJNR 広鉄は割と遅くまで客車の臨時がありましたね。やまぐち号の客車を使ったふくふく号(広島ー下関)に乗った事があります
1980年代って当時は何もかもが新しく感じたけど今こうして見ると1960年代と雰囲気が大して変わらなかったんだな。
時代が劇的に大きく変化したのはアナログからデジタルに移行しネットが登場した90年代以降かもしれない。
確かにネットでの世の中は大きく変わりましたね。
職場もPCは部門に一台から一人一台になりました。
逆に言えばスマホ、ネットがあれば旧型客車が走っていてもさほど困らない世の中ではないでしょうか
子供の頃、停車直前でまだ動いているのに面白半分でホームに飛び降りていたのを思い出しました(笑)
2017 THE BATMAN みんな色々な思い出がありますね
小学生の時にやったら、当時の担任が後ろの車両にいて( ^ω^)・・・
もちろん怒られましたよ。その後も何回かやりましたけどね(笑)
Sugawara Takahiro 遠足で保津峡に行くのに京都から乗りましたが、先生はハラハラだっただろうな。と今更ながらおもいます。
それをやって、ホームに降りたら足がガクッとなって、慣性の法則ってのを子どもながらに思い知らされました。そして、国鉄初の女性駅長さんにきっちり叱られました(>_
身を持って『慣性の法則』を実感。
今晩は。
懐かしい映像、ありがとうございます。
私の故郷、佐賀県唐津市を走る唐津線にも、朝方だけ1往復客車列車が残っていました。
勿論、長崎本線も客車列車が全盛でしたから、とても懐かしいですね。
よく、学生を中心に転落事故が相次いでいました。
その対策を施した50系がほぼ全滅して、それだけ時間が過ぎた事を思わせる映像だと思います。
田中政一 唐津線の客車って全く意識していませんでした。
とはいえ、かつてはどこのローカル線も通勤時間は客車運用がありましたね。
早々と50系になったところは後回しにしていましたので、乗り逃した所も数多くあります。
ご返信、ありがとうございます。
因みに、唐津線の客車列車は、スハフ42と、後はオハ35やオハ33だったと思います。
牽引機はDE10(西)でした。
昭和57年11月のダイヤ改正で廃止になり気動車化してしまいました。
唐津線と山本で接続していた筑肥線(当時博多→伊万里)にも、夕方に客車列車が走っていました。
博多→東唐津迄でしたが、客車は竹下客車区だったと思います。
この列車も、唐津線の客車列車と同じく廃止され、更には翌年3月のダイヤ改正で電化され、福岡市内との交通が便利にはなりました。
僕は、昔特急「つばめ」に連結されていた、オハニ35に乗った事もあります。
後は、筑豊本線の客車列車で、原田→若松、飯塚→若松、直方→若松と、よく乗りました。
後は、夕方に門司港→直方間に乗った事もあります。
筑豊本線の客車列車は、50系でしたが、3扉車、冷暖房車両等個性豊かでした。
民営化直後は、車掌も話の解る人が多くて、よく途中駅のドアスイッチ開閉をやらせて貰ったものです。
車掌は、門司車掌区、機関車はJR貨物門司機関区のDD51だったと思います。
車掌と前方を監視しながらのドアスイッチ操作は、面白いより、怖かったイメージがあります。
僕がドアスイッチで閉扉すると、車掌が「こちら1826列車車掌、機関士さんどうぞ」
「こちら1826列車機関士です、どうぞ」
「上り、1826列車発車‼️」
ガクン、と軽い衝動の後、次の駅を目指します。
手汗をハンカチで拭いてから、車掌との話やこれから乗る路線の話等、話題は尽きませんでした。
平成4年頃迄は、若松駅の手前に石炭を艀に積み込む、「東洋一の石炭桟橋」が残骸を晒していました。
国鉄時代、石炭桟橋を担当する若松機関区の壁には、「砂は命なり」と書かれてあったそうです。
九州も、北海道と同じように沢山のローカル線が消えて行きました。
故郷、唐津市内にも、旧筑肥線の鏡、久里(くり)両駅の跡があります。
今から30年以上前の、青春時代の想い出です。
田中政一 筑肥線にも客車があったんですか!全くノーチェックでした。
地下鉄になる前の筑肥線は魅力的だった事でしょう。
昔は、ドアの開閉や車内放送などよくさせて貰いましたね。
今より現場の裁量が大きく、安全が担保できるならOKという事だったんでしょう。
今はどこも本社一括指導、現場に判断させないようにしている感じがします。
日本総マクドナルド 化ですね。
常磐(快速)線にも旧客普通列車がありましたね。
上野を出ると日暮里・松戸・我孫子・取手に停車、以降は各駅停車でした。
現在は常磐快速線にも特別快速がありますが、旧客普通列車の停車駅に北千住を追加、柏と我孫子を入れ換えたような感じです。
ちなみに1996年10月に運転された旧客臨時快速「レトロトレインときわ」は上野・北千住(上り通過)・松戸・柏・取手・土浦・水戸に停車でした。
chiyodaline06 常磐線旧客は結構遅くまで残っていたので乗りたいと思ってました。
上野発仙台行きというのは、距離も魅力的ですが、都会から地方都市までを優等列車無しで行けるという点で、まだ普通列車でも移動ができた時代であった名残を感じました。
客車列車に限らず、常磐線の電車(401・403系415系)も取手までは各駅で取手からは我孫子、松戸、日暮里、上野でした。
よけ まさに常磐線「列車」と「電車」の違いですね
@@よけ-r9s 1980年10月ダイヤ改正で客車以外の普通電車が柏に全停車、1985年3月ダイヤ改正では北千住に全停車(普通客車列車は既に廃止)、1988年3月ダイヤ改正では天王台に全停車、南千住・三河島に日中のみ停車、2004年3月ダイヤ改正で南千住・三河島全停車と停車駅が増加して快速電車と揃いましたね。
子供の頃、昭和40年代でしたが駅のすぐそばに住んで居たため、夜行列車を毎晩眺めることが出来ました。行先プレートには、大阪発金沢、富山、新潟行などあったと思います。朝夕のラッシュ時は、デッキの所まで人で鈴なりになってました。駅のそばに石炭倉庫も有り、登って真っ黒になって遊んだ覚えがあります。あの懐かしい時代に帰りたいです。何もなかった昭和時代が皆、仕合わせでしたね。令和になりどのような日本になるのか楽しみです。
和田昭彦 あの頃は何も無かったですが、なんでも遊びに変える事が出来たように思います。
列車の開きっぱなしのドアも、どんな凝った遊園地のアトラクションより面白いですし
懐かしい映像ありがとうございます。
高校時代毎日DD51の後ろでドアあけて通学してました。
18切符で夜行山陰に乗車した時は凄い人で、デッキで新聞紙しいて寝ました。
ほんと懐かしい♪
今も久しぶりに経験したいけど時代が変わりましたね(>_
いい時代でしたね。
京都から保津峡までの乗車でも「旅」してる感があって楽しかったです。
いやこれは懐かしい。東北の大学に入学後、関東の実家への帰省と大学に戻る際に繰返し乗りました。春から秋にかけて、季節が良い時に開け放したドアから眺めた景色は、座席の窓から見る景色とは、また違って見えたものです。
急行が旧客の頃ですね。
羨ましいです。
旧客急行は乗れず終いでした。
かろうじて、「山陰」号、41列車で夜行旧客を体験できただけでした
昔、紀勢線の旧型客車も扉開きっぱなしでしたね。夏場ならいいけど冬は寒いやろな。
46shamsham
この時代では、実際には満員で車内には入れないというほどではなかったので、冬は車内にいましたよ。
それでも好きなひとはやはりデッキに立っていましたが。
旧客の似合う機関車
DD51形 DD54形 DE10形 DF50形
EF81形 ED75形 ED76形
でしょう。
そういえば首都圏でも1980年代初めまでは、常磐線や上野から宇都宮あたりまでの区間ではEF80形やEF81形牽引の旧客列車があったそうですね。
私は九州で少年時代を過ごしましたので、ED76形ですね。
Messerschmitt Bf-109
僕は関西なので、山陰本線のDD51が一番しっくりきます。
赤い電気は旧客に似合いますね。
旅一郎 様
どぉもです! 九州(門司港-大分・熊本・長崎及び佐世保間)ですとED72形やED73形、ED75形300番台(60Hz仕様)、ED76形0番台及び1000番台の他に北陸地区から転属してきたEF70形やED74形もありました。
ED76形を除いてほどんとが貨物列車の牽引に充てられていましたが、ED72形及びED73形、ED75形300番台はブルートレインを牽引していましたよ!
きわめて稀少ながら、関門(下関-門司)間をEF81形300番台こと“銀釜”が旧客列車を牽引する場合もありましたよ!
1980年代には、EF30形が退き、EF81形400番台が博多や大分まで進出しました。
九州でも非電化区間はDD51形やDF50形が充てられましたが、現在は取り回しのよいDE10形やDD16形が貨物ターミナル等の入れ換えで活躍しています。
なおEF81形が鹿児島本線では川内(せんだい)、日豊本線では南延岡まで進出したため、ED76形の姿をみることが少なくなりました。
Messerschmitt Bf-109
ED72.73は懐かしいですね。
昭和53年に小倉駅で撮影してあさかぜの牽引がED72でした。
懐かしいですねぇ
窓全開で乗る夏場の旧客ボックスシートでは毎度に冷凍みかんがお供でした
定期運用の旧客列車に最後乗ったのは1982年の夏の磐越西線でした
ED77牽引の普通列車を郡山から会津若松まで、当然最後尾に乗り込んで中山宿スイッチバックの推進運転前面展望を楽しみました
磐越西線は61系や32系が残っていたので魅力的ですね。僕は間に合わずでした。雑誌で見ると一回り時代が古く感じました
私が子供の頃(昭和40年代)は路線バスも停車する前にドア開けて、ドア閉める前に発車してましたね
路線バスは未だにやってます
3:38
田舎に子供がいるのって良いですね
昔は子供がたくさんいて当たり前の光景だったかもしれませんが、今ではあまり目にしませんから。
そうですね。子供のころに鉄道で移動した思い出があると、いずれ鉄道に戻ってくると思うのですか、初めからマイカーだとそもそも選択肢には入りませんね
80年代になってもそんな危険な列車が走ってたなんて驚きです。
haya tono 83年までは急行列車にも使われてました
今から見れば危険かも知れないが、この当時は、「こんなもん」「これが当たり前」って感覚で、フツーに己自身が気を付けて乗っていたよ(笑)
旧型客車最晩年の山陰本線を走る勇姿ですね。乗りに良く行ったので懐かしい時を思い出しました。あの頃の長距離普通はうたた寝を何回も繰り返しても走り続けていたような覚えがあります。
ありがとうございます。
人生で一番真剣に鉄活動してした頃です。
その後の人生や判断基準全てに影響しています
私の憧れの物が映っていました。
何とは申せませんが感謝いたします。
Langray Bash 何が写っていたのか気になりますが、たのしんでいただけて幸いです
💩
70年代には中央線もこうでした。
垂れ流し式便所で用を足しながら走って、金山で降りて中日球場に詰め掛けました(笑)
最後の開放的客車は清水港線だったと思います。
いい時代に乗られておりますね。
ぼくが初めて中央本線に乗った時、普通列車は急行型165系になっていました。清水港線も近くまで通っているのに日に1本と言うのが乗るには難しかったですね
携帯やスマホは無かったけど良い時代でした。人々のコミュニケーションはこの時代の方が良いと思う。友達の家に電話する時は1コールですね♪
やりました寝。
あと、回線は一つですが無理やり分岐させて延長コードで部屋まで引いてました
鉄道を好きになったきっかけのED76-0牽く旧型客車スハ43系。
客車内は鉄、タバコの匂いでした。乗り心地最高でした、鉄粉撒き散らしながら駅のホームに滑る様に停車してた。いい車両でした!
76+40系客車って最高ですね!
昔の学生は、開いてるドアから小ベンしたとか・・・。振り落とされたら、フリちんって言うんですかね?昔乗った八甲田や山陰なんかは、手動ドアだったのを覚えてます。山陰なんかは、トイレが垂れ流しでレールが便器越に見えましたね。沿線はたまらん!
大納言 各車両にトイレがあるのにドアから小便して落ちたとなると、先の窓枠に座ってトンネルにぶつかった漁師と同じではないですかね。
そうなんです、窓を開けて駅弁を食うと、天然の味の素が掛かります。
ohoyamato 鉄粉くらいなら鉄分とれていいかもしれませんね
オススメ動画に出てきたので…
記憶が曖昧ですが自分が中学?くらいまでは地元でもEF58や81に牽引されて走ってました。
窓を開けて行った土地の空気を肌に感じながら心地よいジョイント音を子守唄に寝る、これぞ旅って感じでした。
現在はローカル線でも窓が開かない近代的な車両ばかりで旅をしても何処か不満足に感じてなりません。
ありがとうございます。
EF58と81となると信越本線と、北陸本線のあたりでしょうか。北陸本線の末期の旧客に乗りましたが、いつも乗るDD51に比べ早いので怖かったです。
旧客のデッキで手摺に捕まって外を見るのが大好きでした
今じゃあり得ませんけど 笑
日本海沿いの客車列車に中学生の友達四人で乗りました、いまから40年前です。デッキのドアは開けっ放しで、暗闇のなか大きなカーブに差し掛かり前を走る赤い電気機関車とそれにつながる数量の客車、私の乗ってる最後尾の客車までの窓の灯りの長い列、転落防止の鎖とデッキの手すりから思い切り身を乗り出して見た景色が思い出されます、軽やかなジョイント音、吹き付ける風、仲間は硬いボックスシートで寝てました。懐かしい列車の思い出です。銀河鉄道にあこがれてましたね。素敵な映像ありがとうございました。
プラモデル走る機関車 日本海側の電気機関車牽引という事は北陸本線か羽越本線ですね。
直角の硬いボックスシートも編成が長かったので、ガラガラで脚を伸ばせたので楽ではなかったですか?
おっしゃる通りガラガラでしたよ、上越線の沼田から長岡まで行ってたしかそこから客車列車に乗りました。ボックスシートで靴を履いたまま足を投げ出してたら車掌さんに怒られました。駅の裏側がすぐに海の小さな無人駅で降りたんですが駅の名前を忘れてしまいました。
プラモデル走る機関車 降りたのは青梅川か親不知ですかね。
ありがとうございます!青梅川駅に間違いないです!
ググってみたら懐かしい風景が出てきました。海岸が目の前で山から流れてきた川が線路の下を通っていて、ポツポツ家があって、私たちは駅から海岸に降りて川と海が交わる所に座っていたら、同い年くらいの子どもが三、四人いて、話もしなかったけど互いに牽制しあったのを覚えています。
ずっと気になってた事をおかげさまで四十年ぶりに知ることができました!いつかまた訪れたいです。ありがとうございました。
多分駅の雰囲気もそんなに変わってないと思いますよ。
これはこれで乗ってみたいけど、今やったらSNSでごちゃごちゃ過保護の親とかがうるさいんやろうなあ
Atsuki T 結局そう言う理由で、遊びは決められた遊園地で、と言うことになるんでしょうね。
旅一郎 こういう昭和の雰囲気は遊園地なんかより可愛らしいですね。
Atsuki T 人間味はありましたね。
キハ40 さま
三等で昭和の気分満喫ならば、タイに行けばやり放題。長距離の非冷房二等寝台はオススメ。手動ドアの寝台は趣アリ。ちょい高いエアコン車は夜寒すぎる
@@ach112
遊園地「なんか」って言わないでくれる?
昭和50年頃上野からの東北本線普通列車がこのスタイルでした、宇都宮あたりまででも結構な旅気分が味わえました。
上野発一関ゆき123列車でしょうか。
まだまだ長距離移動に鈍行も使えた時代が懐かしいですね。
@@user-tabiichiro 6時頃上のホームから高崎線経由高崎→長野行き、下のホームから常磐線に仙台行きなど5本くらいあったと思います、早朝に上野発水戸回り水郡線経由郡山行きとかが出てました。
非冷房でも、夏は窓もデッキ扉も全開にしておけば、案外涼しかったのではないでしょうか。
hisyokun 止まってる時は扇風機だけで熱風をかき回しますが、走り出すと涼しくなります
昭和の時代の名古屋地下鉄東山線の黄色の非冷房車は夏、窓の上半分が全開に開けてあったが、ずっとトンネルの中で生ぬるい風しか入ってこんかったな。おまけに音が反射してうるさいし。蒸し暑かった記憶がある。
憧れます…
客車列車の穏やかな雰囲気…
今は客車が少なすぎます…
色々大丈夫かな…
客車列車は汽車旅の原点ですからね。
大雑把に言って客車の方が編成が長く空いていたのも、いいイメージでしたね
ドアを開けてデッキに立つのは心地よかった。当時あれが危ないとか思った事なんて全くなかった。
ホントに危ないと思ったのは、窓からとなりの窓へ移動するとかいう遊び。
50系客車の登場は、赤い悪魔の襲来だと思った
Nimo5
デッキからデッキへという奴いませんでしたか?
危ないという概念も今と昔は違いますし、過去の事象を今の基準で裁くことはフェアじゃないと思います、
数年後、ホームドアが無いことが、「信じられないほど危険だった」と言われる事でしょう
Nimo5 窓から窓なら、今でもできますね。
最近の窓は全開放できなくなってるので寂しいのですが、短編成化でだいたい混雑してるので窓を開けるって行為そのものが厳しいですよね。
Nimo5
そうですね。今はドアどころか、窓を開けるのも躊躇します。
窓を開けたらその土地の空気を感じられるのに。
仰るとおりです。
列車の速度がゆったりしていたこともあり、鼻をくすぐるキンモクセイの香り、稲刈り直後の田圃のわきを通過する際の青臭いような藁の香り、夕方の草焼きや田圃に施される消毒薬の匂い、朝霧の粒が顔に当たるしっとりとした清々しさ等々。その土地の空気の中を通り抜ける感覚がありました。
最近、旅をする方々にあっても、列車内でスマートフォンを凝視したままヘッドフォンで耳を塞ぎ、ただ盲目的に移動するだけ。
他人の価値観に介入すべきではないことは承知の上ではありますが、難のための鉄道旅行なのか?と疑問に思ってしまう自分がいます。
懐かしい!! 最後尾で線路が流れていくのをよく見てました。
飛び乗り、飛び降りなんて常識でしたね。一度、飛び降りたときにホームで転んだら、駅員さんに「もっと早く足を動かさんからや!」って、叱られました。ww
昔は常識でしたし、飛び降りるときのショックは意外に大きいので進行方向に走らないと転けますね
古き良き旧型客車の醍醐味一度味わいたかった
森田大介 今のイベントではどうしても雰囲気が違うので、台湾などの似た車両で体験するのをお勧めします
懐かし~私は福知山線DD51-700番台、スハフ42茶色やマニの時代に、当時の新聞に尼崎付近鉄橋から落ちた乗客いましたよ!その後その人どうなったのか?音が割れたようなオルゴール、鉄道唱歌、アルプスの牧場からハイケンスのセレナーデに代わっていきました。貴重な映像ありがとうございました。
落ちたら大怪我でしょうね。
駅に止まる寸前でも結構なショックがありますね。
昭和30年代の上野発の各方面の列車もこうだった。のんびりしていてそれは懐かしい♪
amp3cx10000a7jp 僕はかろうじて昭和40年代後半の記憶がある程度なので、末期の旧型客車に乗りながら、当時を想像していました。本当の鉄道最盛期を体験された方は羨ましくて仕方ありません
子どもの頃の大宮駅、時々客車列車が入ってくると「飛び乗り、飛び降りはおやめください」のアナウンスがありましたねぇ。で、それを無視して飛び乗りする人が何人もいました。
そうですね。時効だから言いますが、僕も発車した列車からホームに置き忘れた荷物を発見し、飛び降りてまたのるという事をしたことがあります。
凄いな、幼少時に、ドア全開のSL列車に乗って、爆走中の外をこわごわ覗いていた記憶があったのですが、やはり真実でした・・まさか映像として残っているとは。
しかし、余部鉄橋ですら全開ですか‥自分が(昼間に)乗った車両は気動車だったのか、
ドアを気にした記憶がありません。凄い時代でしたね。
国鉄末期は日本社会も今と変わらないほど成熟していたのに、地方に行けば昭和30年代のノリの列車がありましたね
当時は当たり前でした。夏は気持ちよく冬は大変でした。自分は通学時原ノ町発青森行き223列車によく乗りましたが、水戸鉄は仙台の通勤事情よくわからなかったのでしょう。ドアを開けていないと乗れない状況でした。ドアのガラスも割れるし大変でした。ひどいときは木製のドアステップに立ち左手に学生鞄右手で必死にドア手すりにしがみつき乗りました。長町を出てトップスピード(おそらく80Km/hぐらい?)にさしかかる広瀬川は恐怖でした。今では考えられないですよね。
583仙台
仙台地区の混雑はひどかったようですね。
原ノ町発青森行きは仙台まで11両でしたか
昭和58年の正月、当時中学1年のお年玉で初めて鉄道模型を買ったとき、花形車輛ではなくDD51とスハ43とかスハフ42でこういう編成を再現してました。
当時大阪駅からも福知山線経由で鈍行の鳥取行などが出ていて、こういう編成でした。中間車にスハフ42が連結されていて、車掌室が施錠されていなかったので、中に入って車掌室からの車窓を楽しんだものですwww
DD51と旧客ですか。通ですね。
大阪発鳥取行きは好きでした。距離は短いものの、真昼間の大阪駅(アバンティ大阪もできていたので華やいだ雰囲気の駅になっていた)のひっそりと旧客が止まっているのですが、「米子」より、メジャーな「鳥取行き」のサボのほうがインパクトがありました。
父の産まれが鳥取でした。山陰本線は電化も遅く機関車で行ったこともありトンネルが近づくと大急ぎで窓を閉めたものです。国鉄勤務だった父は楽しそうでした。懐かしい響きです。米子の空襲のとき機関車全速力でトンネルに入って助かったといってました。速さよりこういう旅がまたしたいものです
蒸気の頃は知りませんが、普通列車を含めて長距離輸送を中心にしていた国鉄がたまらなく好きでした。
鳥取は叔父が児童をスキー合宿に連れて行く旅行をしていたのでそれに便乗して何回か行っており、子供心によく知ってるところでした。
その鳥取で最後に旧客に乗れた事がよかったと思います
連結の所が今と違い落ちそうでこわかったです。油の臭いがする床固いシート、感傷に浸ってしまいました。機関車を運転していた父の事。とても懐かしかったです。ありがとうございました
確か、昭和40年代は車内で大人がタバコをバンバン吸っていた記憶が有ります。この頃(昭和61年)はどうだったんだろう?
BLUE WAVE 43 禁煙が進むのはもう少し先(5年後くらいです)
旧餘部鉄橋、懐かしいですねえ❗コンクリート橋になる少し前に写真を撮りに行きました❗僕が小学生の頃、フン尿を線路に垂れ流していた、
現代っ子のものです。
はえぇ…高崎地区の115系に乗った際ドアを手で開けるというので驚愕したのを覚えてますが、さらに昔はこんな時代が…
旅情に溢れてて羨ましい限りです
真琴霊路 走行中でドアを開けられる(運転保安設備系統と連動していない)という意味では、津軽鉄道のストーブ列車はいまでも、走行中ドア開放は可能です。
やっていいかというのは別問題ですが。
扉が開けっ放しだったので、デッキから足を外に出して遊んでいたら、
おじさんに怒られた事を思い出しました。
後、一部の列車のトイレの入り口に
「停車中にトイレを使用しないで下さい」、
「〇〇~△△区間はトイレを使用しないで下さい」
って書いてあったような事を思い出しました。
t s そうやって怒ってくれる人がいたという事ですね。
都市部では旧客に限らず、中距離電車でもトイレ使用禁止にしている事が多かったですね。
昔の車両のトイレは、今の車両の汚物処理装置付のタンク式と違って、特にこの旧型客車は、排泄物が皆、垂れ流し式だったから…です。
そうですね。国交省によりタンクが義務付けられたのはいいですが、それを機にトイレ撤去が進んだという負の効果もありましたね
@@user-tabiichiro ガキがそんなことしてたら容赦なく拳骨食らいましたね、それでも文句言う人なんかいませんでしたね、故石原慎太郎氏が訴えていた他人の子を叱ろうと言う時代でした。
@@user-tabiichiro 国土交通省はボンクラばかりでやる事が中途半端、一度現場に出て現状を把握すればいいんです。
そういや子供の頃福知山線(まだ旧線)では、武庫川沿いで扉をあけてみんなで手を振ってた。振ったらハイカーなどが手をふりかえしてた。デッキがあるので、冬以外は扉が空いているのがデフォだった。
hana hana そうですね。大阪から近いのに風光明美で汽車旅が楽しめた貴重な路線でした。
僕は保津峡の方が多かったですが、いずれもドアを開け放し、そこの風が直接感じられて旅してる感がありましたね
撮影場所も、今なら列車が止まるレベルの距離で撮ってるものもありますね笑
なんとなく昭和を感じます
スギキャット そうですね。
昔は線路と線路の間で撮っていてもOKでしたし。
今の常識で裁くのは、「遡及処罰」にあたるので、セーフと認識しています
懐かしい動画アップありがとうございます。子供の頃余市から札幌までスハフ客車に乗った事を思い出しました😁ほかの乗客もデッキでタバコ吸ったりと今ならNGですがなんとなくのどかでしたね😀余部鉄橋はこの客車で通過するのはスリル満点ですね😁
ありがとうございます。
僕の汽車旅好きになる原点です。
乗ってよし、聴いてよし、撮ってよし
全てが素晴らしかったです
列車が停止する前に飛び降りるときは、進行方向へ走る感じで踏み出すんやで。
kamepo そうでしたね。
思っている以上に着地時は後ろに引っ張られますね
貨物の操車やってたけど
このことは鉄則だよ。
プロの方(突放)ですね!まあ素人の戯言と思って笑ってください。
一般人の方は
原則やらないでください😁
もちろんです。と言ってもするすべもありませんね
旧型客車は本当乗り心地良かった。車内の鉄臭いのも良かった。1番好き。
森口林 これこそ汽車旅!という感じがしてましたね
Nice video!
Boris Lu THANK U for your tisit!
懐かしい・・
高校時代に東北地方で10系(だったかな?)客車に乗って旅しました。
翌年、四国に行ったときは50系客車で、自動ドアで「近代化したなぁ」と思ったものでした。
旧客と50系では製造年以上の違いがありますね。
手動ドアが絶対的な魅力だったと思います
私も後部デッキから走り去くレールを見るのが楽しみでした。あのような解放感は二度と味わえないかもしれないので、とても貴重な体験でした。
なんともいえないのですが、あのデッキからみる去りゆくレールを見ながら「人生」を考えていた中高生でした
うちも昭和58年頃の磐越西線で経験があります。
DD51のディスクから火花が出ていた事を覚えております。
後に50系客車が出たおかげでドア開放は無くなりました。
火花ですか。その体験はないです
懐かしいですね。子どものころの中央線(名古屋近郊中央西線)もこんなでした。
satoshi niwa 紀勢本線名古屋口は遅くまで残ってましたが、中央本線で名古屋まで顔を出すのは相当昔ですね!
中央線複線電化が確か昭和41年だったのでそれ以前は基本的にSLけん引の列車でした。まれにディーゼルカー。DLけん引は見たことない気がします。電化してからはELけん引の列車が昭和50年くらいまで残ってました。動画と同様ドアを開け放した客車を高校通学に使ってました。
satoshi niwa それは本当にいい時代じゃないですか!
蒸気牽引の客車通勤に勝るものはありませんね!
子供の頃の電化前の川越線も手動だった
流山市西松ヶ丘 多分それは「半自動」だと思います。
走行中でも開いているのが、本当の「手動」ですよー。