ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
島津家の面白いところは鉄砲狙撃による功を認めている所ですね。キチンと狙撃した者の名前と討ち取った敵将、中には鉄砲の詳細まで記録しているものも有ります。他家のことまで詳しく無いですがかなり珍しいのでは?またこの戦功は雑兵ではなく物頭レベル以上が多いことです。指揮官が敵指揮官を狙撃し指揮系統が混乱したところを突撃させるという構図が読み取れるのでは無いかと
鹿児島生まれ鹿児島育ちの県外在住者です。胸がとても熱くなりました。今のような世の中だからこそ必要なタフネスや滅私奉公のマインドを僕も人生に取り入れたいと思います。素敵な動画ありがとうございました‼︎
滅私奉公ですか凄いですね。主君の為に平気で命を投げ出す家臣団の忠義と勇気、そして命を落とした家臣の家族を厚く遇した主君「島津に暗君無し」ですね。島津の強さがよく解ります。
この動画は今まで見たこのチャンネルで1番よかった気がする!ぜひともこの動画を参考に大河ドラマ作ってほしい!
触れられていませんが、釣り野伏の本当の恐ろしささは、当時の合戦では異質である事です。当時の合戦では、敗北しても雑兵とかがかなり逃げ延びるため、再び軍の編成が容易である事。ところが釣り野伏の場合は雑兵すら徹底的に殲滅されるため、軍を再編成したくても兵力が揃わない。つまり、壊滅的打撃を受けてしまうのです。戦国時代の軍勢は武士の占める割合は1割~2割で、残りの8割~9割は足軽と雑兵(百姓)。幾ら武将や武士達が居ても足軽・雑兵が居なくては、まともな軍編成は出来ません。更には、雑兵を全滅させられてしまうと、当時ただでさえ低い農業生産力が更に低下します。これは税に直結するので、経済力も大打撃を受けます。戦費の調達が困難になるので、必然的に次の行動が制約されてしまい、結果弱体化してしまいます。更に困るのは、寡兵の敵に大敗して殲滅された事実。味方の士気がガタ落ちする上に、兵達が敵軍を怖れます。これが致命的なのです。つまり、釣り野伏とは、そこまで広範囲に致命的な影響を与える恐ろしい戦法なのです。
な、なるほど…。恐ろしい
今は県外で暮らしていますが鹿児島生まれ、鹿児島育ちの男児です。戦略の解説、胸がとても熱くなりました‼︎ありがとうございます‼︎
ハマればとてつもない大打撃を与えますがそもそも土地を完全に理解した上で陽動部隊と野伏側の完全な連携が必要になってきます、後は相手方が上手く乗ってくれないとそもそも発動出来ないですね、デメリットもかなりありますが、それでも強い釣り野伏せをお家芸にしてしまった島津には恐れ入ります
3方向を塞いでしまう事で、敵の将兵が逃げる方向を限定させてしまうのですよね。従って追撃が容易で、当時の他の地方ではあまり概念が無かった「殲滅戦」が出来てしまうのですよね。仰る事に加えて、釣り野伏で大名が打ち取られてしまう事(龍造寺隆信公とか)もありましたね。さすがに大名が打ち取られると、再編自体ができなくなりますからね。島津最強説も頷けます。
大友義鎮って、貴久と同年代かなって思ってたけど、義久と3つくらいしか変わらないと知ったつい最近
叫びながら切り掛かったり、鉄砲を撃つ猿叫もありますね。後は、内緒で琉球侵攻と呂宋交易してたり、それを間者に悟らせなくする為に薩摩弁を更に難解にしたり。
捨てがまりこそ武士の真髄‼️その想い 次の世帯へ引き継いでいきたいですね✨👍
島津は漢。
釣り野伏といえば三国志の劉備軍も得意戦術だったらしいね
とても分かりやすい解説で面白かったです。ありがとうございました😊
最恐伝説は漏れ伝わってますね。地元武将も巻き添え気味で酷い目をを見ましたから、
丁度今、歴史探偵で島津の強さについてやっています。
『捨てがまり』旧海軍の精神と似ているな?陸軍は長州藩、海軍は薩摩藩だったからかな?
09:40 外城の制度で、総動員をかければ4万の兵力を動員可能!!少し数字は、盛っていると思いますがそんな国が、関ヶ原には義久公が上方で困ってる聞いて駆けつけた、たった1500しか参戦せず、それに中央突破なんぞされて薩摩生還されたら、誰も攻めようとはしないよな〜!
関ヶ原後の戦いで薩摩に徳川軍二万で攻めてきましたよ。島津は琉球攻めていないので、当時いた島津軍八万人で熊本県水俣で挟みうちにして撃退していますよ。九州制覇したときの兵士全て抱えこんでいるのが島津です。
島津は強いよね。
恐るべし薩摩藩……。
北条の支城ネットワーク、長宗我部の一領具足を髣髴とさせる。ただ、監視のため関所でのチェックは必要なため楽市楽座は無理だったか。
関ケ原の退却戦、老齢に差し掛かっている義弘公を逃がすために、働き盛り29歳の甥っ子の豊久公を犠牲にしたわけだが、為政者、指揮官、統治者としての総合能力が 高齢の義弘公>(若干の壁)若い豊久公 という残酷なまでの判断あってこそだったんだろうな義弘公は情の深い方だったからこの決断はほんとに辛かっただろうけど、為政者としてはそこは押し殺さなきゃならなかっただろうし大河ドラマで島津にフォーカスあてて1年じっくりやってほしい
関ヶ原はそもそも生き延びたのが50人しかいなかったので、たまたま生き延びたと島津氏の記録には出てますよ。今弁慶と言われていたがたいのでかい護衛役とその部下数人がギリギリ守っている所を豊久公の率いた軍勢の生き残り70人程度が助けに戻り、脱出したので豊久公の率いた敵中突破して脱出しようとしたほうが1400人と率いた数多かったです。高齢だから死ぬ可能性高い軍のしんがり百人ほど率いたら巨体の護衛役優秀だったために徳川の武将たち相手に豊久公より持ちこたえたし声でまだしんがりが生き残っているのがわかり豊久公の兵生き残りが集まったみたいですからね。
結束力を欠いたが故に薩摩統一出来た為に結束力を重視したのですね!
♪~骸(ムクロ)も、染みて猩々緋、御楯と成りし豊久を、見るや敵兵、勝ち勇み群がり寄せる足早し
そういや、やっと黒田が出た位で、九州勢は大河にガン無視でした。軽い戦国冊子も、中央ばっか。
他でも書いたが、意図しない「釣り野伏」で薩摩兵、長州兵、長崎兵、久保田兵らが引っかかって、大損害を被った戦闘がある。薩摩兵には指揮官として大山綱良が参謀についていたのに、このありさま。ちなみに、長州兵の指導者は後に首相になる桂太郎。戦闘は戊辰戦争の一つ、秋田戦争の角間川の戦い。この戦闘で新政府側の死傷者76名、旧幕府側被害者は1名だった。大山綱良がついていても、油断するとこのありさまか?幕府軍側の指導者は鬼玄蕃こと酒井玄蕃。戦後、東京で出会った2人だが、大山は「あの鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年であろうとは…」と言ったとか。
最近じゃ「捨てがまり」は司馬遼太郎の創作説が濃厚みたいですね
自分の母方は島津に滅ぼされた筑後草野氏の末裔です島津もそうだけど織田氏も同じ感じかな
いつも楽しみに見ていますTH-camの広告収入が増えて支出に余裕が出来たなら、身にまとっている甲冑を名将のレプリカにバージョンアップしてください。月替わりで甲冑を付け替えて動画の内容も甲冑シリーズにしてみても面白いと思います。
Gorza farm もうそろそろ本当の鎧兜を着けれますよね⁉️なんちゃってはもう卒業しましょう。
唐入りの時は鬼島津と言われ関ヶ原での退き口は語り草になるなど武勇に名高いのは間違いないが、問題は江戸幕府から琉球の管理を任された際に幕府からの年貢の取り立て分に2〜3割上乗せてその分をチョロまかしてた事だ!この事で琉球王国は貧困に喘いだ、年貢のチョロまかしとか武勇で名高い一族がするものではないと個人的には思うのだが……何より服従を誓いながらのチョロまかしは幕府への背信行為に他ならない。毎年行われたと言われる江戸にむかって兵を上げますか⁉︎いや!今回は見逃そう!的なデモンストレーションもガス抜きだと言うのはわかるけど、コレも個人的にはなんだかな〜ですね…維新の際にも話し合いがまとまりかけていたのにもかかわらず薩摩藩だけは決戦にこだわり江戸を火の海にしたがっていた事を考えると新たな国作りと言いながらその実は、徳川家に対する復讐がしたいだけだった事が奇しくも露呈してしまった感がある。300年近くも恨み続けるというのも剛毅な快男児というイメージからは程遠い❕吉川広家が事前に約したにも拘らず領地を丸ごと没収された毛利家・長州藩ならわかるが、領地を削られる事がなかった薩摩藩は感謝こそすれ恨むなどお門違いと思うのだけどね………
年始の倒幕の挨拶って、長州藩じゃなかったですか?幕末は時代の流れでああなっただけで、島津は徳川に対し恨みはあまり無いような気がします。感覚的には島津にとって徳川は単なる上司。主君は近衛家なので。
そもそも島津は秀吉に降伏後にも秀吉に暗殺者おくり続けて秀吉にこんな所にきた自分が馬鹿だったといわせるぐらいには島津の約束破りは多い。徳川も関ヶ原後に二万人で島津攻めて島津の領地削ろうとしたので隙みせたら潰されるとは思っていそう。当時の島津八万徳川軍熊本県の水俣で挟みうちで壊滅させなければ強制的に領地削っていたでしょ。琉球攻めで島津の兵力三万は減ったが幕府の想像より少なく、薩英戦争でも琉球に一万人配備した上に鹿児島に島津は5万人動員しましたからね。
岡城=豊後竹田城 荒城の月のモデル
殿軍では無くて「殿軍」(しんがりぐん)では?
「殿軍」と書いて、(しんがり)と読み申す。
いさをイザクとは安っぽい
一度しか通用しない戦法って・・何だかなぁ。「捨てがまり」だって平たく言えば部下を犠牲にして大将が逃げ帰ったという話でしょ?どうも島津は過大評価の感が否めない。
確かに、島津は以外と黒星が多いんだよね。でも、その島津より大した功績のない上杉や武田も根拠なく戦国最強とか云われているし、大目にみてやって(^_^;)
関ヶ原の捨てがまりは、島津氏の文書よむと結局しんがり守っていた甥に1400人つけて脱出させて島津義弘が捨てがまりもして100人で犠牲になろうとしたら敵中突破はかった甥の部隊が壊滅したから失敗に終わったですよね。義弘公の護衛の今弁慶とかいわれた巨体の護衛役の人が大声出して暴れまくり生き残り数人の護衛役としんがりの義弘公守っていたら、豊久公部隊の部隊の生き残り70人ぐらいが義弘公まだ生きているの今弁慶の声で知ってしんがりに引き返して合流して脱出していますからね。その中にいた謀将が、武具を戦では鼻薬とかで金が必要になることがあると純金づくりにしてあり、その純金ばらまいて大阪城の番兵買収したりして島津の人質解放させて島津に連れ帰っているが、捨てがまりは島津は失敗の評価ですよね。まあ西軍が勝てば千人で恩をうり、東軍が勝てば薩摩に待機させている島津軍八万人で迎撃する予定で、関ヶ原後に朝鮮攻めで島津には兵力ないと島津軍の数勘違いした薩摩攻めおこなった徳川軍二万は熊本県水俣で八万人に挟みうちにされて壊滅させられていますからね。どっちが勝っても家滅ばないように島津は動きます。
@@騎士団ゾット帝国 上杉謙信や武田信玄が島津より大した実績無い訳無いでしょ笑。周りに強敵(織田、徳川、北条、佐竹ら)が勢揃いの中で領土拡大した2大名。一方は戦国最強騎馬軍団を率いもう一方は軍神と崇められ、共に当時戦国最大勢力を誇った織田、徳川軍を完膚なきまでに叩きのめしてますからね。お互い後10年長く生きれば織田領がそのまま武田領、上杉領に変わってしまうくらいでしたよ。一方島津は当時最大勢力だった豊臣に蹂躙されました。秀吉の時と信長の最盛期ではまた力が違いますけどね。
いちコメ
島津家の面白いところは鉄砲狙撃による功を認めている所ですね。キチンと狙撃した者の名前と討ち取った敵将、中には鉄砲の詳細まで記録しているものも有ります。他家のことまで詳しく無いですがかなり珍しいのでは?またこの戦功は雑兵ではなく物頭レベル以上が多いことです。指揮官が敵指揮官を狙撃し指揮系統が混乱したところを突撃させるという構図が読み取れるのでは無いかと
鹿児島生まれ鹿児島育ちの県外在住者です。
胸がとても熱くなりました。
今のような世の中だからこそ必要なタフネスや滅私奉公のマインドを僕も人生に取り入れたいと思います。
素敵な動画ありがとうございました‼︎
滅私奉公ですか凄いですね。主君の為に平気で命を投げ出す家臣団の忠義と勇気、そして命を落とした家臣の家族を厚く遇した主君「島津に暗君無し」ですね。島津の強さがよく解ります。
この動画は今まで見たこのチャンネルで1番よかった気がする!ぜひともこの動画を参考に大河ドラマ作ってほしい!
触れられていませんが、釣り野伏の本当の恐ろしささは、当時の合戦では異質である事です。
当時の合戦では、敗北しても雑兵とかがかなり逃げ延びるため、再び軍の編成が容易である事。
ところが釣り野伏の場合は雑兵すら徹底的に殲滅されるため、軍を再編成したくても兵力が揃わない。
つまり、壊滅的打撃を受けてしまうのです。戦国時代の軍勢は武士の占める割合は1割~2割で、残りの8割~9割は足軽と雑兵(百姓)。
幾ら武将や武士達が居ても足軽・雑兵が居なくては、まともな軍編成は出来ません。
更には、雑兵を全滅させられてしまうと、当時ただでさえ低い農業生産力が更に低下します。
これは税に直結するので、経済力も大打撃を受けます。戦費の調達が困難になるので、必然的に次の行動が制約されてしまい、結果弱体化してしまいます。
更に困るのは、寡兵の敵に大敗して殲滅された事実。味方の士気がガタ落ちする上に、兵達が敵軍を怖れます。これが致命的なのです。
つまり、釣り野伏とは、そこまで広範囲に致命的な影響を与える恐ろしい戦法なのです。
な、なるほど…。
恐ろしい
今は県外で暮らしていますが鹿児島生まれ、鹿児島育ちの男児です。
戦略の解説、胸がとても熱くなりました‼︎
ありがとうございます‼︎
ハマればとてつもない大打撃を与えますがそもそも土地を完全に理解した上で陽動部隊と野伏側の完全な連携が必要になってきます、後は相手方が上手く乗ってくれないとそもそも発動出来ないですね、デメリットもかなりありますが、それでも強い釣り野伏せをお家芸にしてしまった島津には恐れ入ります
3方向を塞いでしまう事で、敵の将兵が逃げる方向を限定させてしまうのですよね。従って追撃が容易で、当時の他の地方ではあまり概念が無かった「殲滅戦」が出来てしまうのですよね。仰る事に加えて、釣り野伏で大名が打ち取られてしまう事(龍造寺隆信公とか)もありましたね。さすがに大名が打ち取られると、再編自体ができなくなりますからね。島津最強説も頷けます。
大友義鎮って、貴久と同年代かなって思ってたけど、義久と3つくらいしか変わらないと知ったつい最近
叫びながら切り掛かったり、鉄砲を撃つ猿叫もありますね。後は、内緒で琉球侵攻と呂宋交易してたり、それを間者に悟らせなくする為に薩摩弁を更に難解にしたり。
捨てがまりこそ
武士の真髄‼️
その想い 次の世帯へ引き継いでいきたいですね✨👍
島津は漢。
釣り野伏といえば三国志の劉備軍も得意戦術だったらしいね
とても分かりやすい解説で面白かったです。
ありがとうございました😊
最恐伝説は漏れ伝わってますね。地元武将も巻き添え気味で酷い目をを見ましたから、
丁度今、歴史探偵で島津の強さについてやっています。
『捨てがまり』旧海軍の精神と似ているな?
陸軍は長州藩、海軍は薩摩藩だったからかな?
09:40 外城の制度で、総動員をかければ4万の兵力を動員可能!!
少し数字は、盛っていると思いますが
そんな国が、関ヶ原には義久公が上方で困ってる聞いて駆けつけた、たった1500しか参戦せず、それに中央突破なんぞされて薩摩生還されたら、誰も攻めようとはしないよな〜!
関ヶ原後の戦いで薩摩に徳川軍二万で攻めてきましたよ。
島津は琉球攻めていないので、当時いた島津軍八万人で熊本県水俣で挟みうちにして撃退していますよ。
九州制覇したときの兵士全て抱えこんでいるのが島津です。
島津は強いよね。
恐るべし薩摩藩……。
北条の支城ネットワーク、長宗我部の一領具足を髣髴とさせる。ただ、監視のため関所でのチェックは必要なため楽市楽座は無理だったか。
関ケ原の退却戦、老齢に差し掛かっている義弘公を逃がすために、働き盛り29歳の甥っ子の豊久公を犠牲にしたわけだが、為政者、指揮官、統治者としての総合能力が 高齢の義弘公>(若干の壁)若い豊久公 という残酷なまでの判断あってこそだったんだろうな
義弘公は情の深い方だったからこの決断はほんとに辛かっただろうけど、為政者としてはそこは押し殺さなきゃならなかっただろうし
大河ドラマで島津にフォーカスあてて1年じっくりやってほしい
関ヶ原はそもそも生き延びたのが50人しかいなかったので、たまたま生き延びたと島津氏の記録には出てますよ。
今弁慶と言われていたがたいのでかい護衛役とその部下数人がギリギリ守っている所を豊久公の率いた軍勢の生き残り70人程度が助けに戻り、脱出したので豊久公の率いた敵中突破して脱出しようとしたほうが1400人と率いた数多かったです。
高齢だから死ぬ可能性高い軍のしんがり百人ほど率いたら巨体の護衛役優秀だったために徳川の武将たち相手に豊久公より持ちこたえたし声でまだしんがりが生き残っているのがわかり豊久公の兵生き残りが集まったみたいですからね。
結束力を欠いたが故に薩摩統一出来た為に結束力を重視したのですね!
♪~骸(ムクロ)も、染みて猩々緋、御楯と成りし豊久を、
見るや敵兵、勝ち勇み
群がり寄せる足早し
そういや、やっと黒田が出た位で、九州勢は大河にガン無視でした。
軽い戦国冊子も、中央ばっか。
他でも書いたが、意図しない「釣り野伏」で薩摩兵、長州兵、長崎兵、久保田兵らが引っかかって、大損害を被った戦闘がある。薩摩兵には指揮官として大山綱良が参謀についていたのに、このありさま。ちなみに、長州兵の指導者は後に首相になる桂太郎。
戦闘は戊辰戦争の一つ、秋田戦争の角間川の戦い。この戦闘で新政府側の死傷者76名、旧幕府側被害者は1名だった。大山綱良がついていても、油断するとこのありさまか?幕府軍側の指導者は鬼玄蕃こと酒井玄蕃。
戦後、東京で出会った2人だが、大山は「あの鬼玄蕃の勇名をほしいままにした足下が、容貌のかくも温和で婦人にも見まほしい美少年であろうとは…」と言ったとか。
最近じゃ「捨てがまり」は司馬遼太郎の創作説が濃厚みたいですね
自分の母方は島津に滅ぼされた筑後草野氏の末裔です
島津もそうだけど
織田氏も同じ感じかな
いつも楽しみに見ています
TH-camの広告収入が増えて支出に余裕が出来たなら、身にまとっている甲冑を名将のレプリカにバージョンアップしてください。
月替わりで甲冑を付け替えて動画の内容も甲冑シリーズにしてみても面白いと思います。
Gorza farm
もうそろそろ本当の鎧兜を着けれますよね⁉️
なんちゃってはもう卒業しましょう。
唐入りの時は鬼島津と言われ関ヶ原での退き口は語り草になるなど武勇に名高いのは間違いないが、問題は江戸幕府から琉球の管理を任された際に幕府からの年貢の取り立て分に2〜3割上乗せてその分をチョロまかしてた事だ!この事で琉球王国は貧困に喘いだ、年貢のチョロまかしとか武勇で名高い一族がするものではないと個人的には思うのだが……何より服従を誓いながらのチョロまかしは幕府への背信行為に他ならない。
毎年行われたと言われる江戸にむかって兵を上げますか⁉︎いや!今回は見逃そう!的なデモンストレーションもガス抜きだと言うのはわかるけど、コレも個人的にはなんだかな〜ですね…維新の際にも話し合いがまとまりかけていたのにもかかわらず薩摩藩だけは決戦にこだわり江戸を火の海にしたがっていた事を考えると新たな国作りと言いながらその実は、徳川家に対する復讐がしたいだけだった事が奇しくも露呈してしまった感がある。
300年近くも恨み続けるというのも剛毅な快男児というイメージからは程遠い❕吉川広家が事前に約したにも拘らず領地を丸ごと没収された毛利家・長州藩ならわかるが、領地を削られる事がなかった薩摩藩は感謝こそすれ恨むなどお門違いと思うのだけどね………
年始の倒幕の挨拶って、長州藩じゃなかったですか?
幕末は時代の流れでああなっただけで、島津は徳川に対し恨みはあまり無いような気がします。感覚的には島津にとって徳川は単なる上司。主君は近衛家なので。
そもそも島津は秀吉に降伏後にも秀吉に暗殺者おくり続けて秀吉にこんな所にきた自分が馬鹿だったといわせるぐらいには島津の約束破りは多い。
徳川も関ヶ原後に二万人で島津攻めて島津の領地削ろうとしたので隙みせたら潰されるとは思っていそう。
当時の島津八万徳川軍熊本県の水俣で挟みうちで壊滅させなければ強制的に領地削っていたでしょ。
琉球攻めで島津の兵力三万は減ったが幕府の想像より少なく、薩英戦争でも琉球に一万人配備した上に鹿児島に島津は5万人動員しましたからね。
岡城=豊後竹田城 荒城の月のモデル
殿軍では無くて「殿軍」(しんがりぐん)では?
「殿軍」と書いて、(しんがり)と読み申す。
いさをイザクとは安っぽい
一度しか通用しない戦法って・・何だかなぁ。「捨てがまり」だって平たく言えば部下を犠牲にして大将が逃げ帰ったという話でしょ?どうも島津は過大評価の感が否めない。
確かに、島津は以外と黒星が多いんだよね。でも、その島津より大した功績のない上杉や武田も根拠なく戦国最強とか云われているし、大目にみてやって(^_^;)
関ヶ原の捨てがまりは、島津氏の文書よむと結局しんがり守っていた甥に1400人つけて脱出させて島津義弘が捨てがまりもして100人で犠牲になろうとしたら敵中突破はかった甥の部隊が壊滅したから失敗に終わったですよね。
義弘公の護衛の今弁慶とかいわれた巨体の護衛役の人が大声出して暴れまくり生き残り数人の護衛役としんがりの義弘公守っていたら、豊久公部隊の部隊の生き残り70人ぐらいが義弘公まだ生きているの今弁慶の声で知ってしんがりに引き返して合流して脱出していますからね。
その中にいた謀将が、武具を戦では鼻薬とかで金が必要になることがあると純金づくりにしてあり、その純金ばらまいて大阪城の番兵買収したりして島津の人質解放させて島津に連れ帰っているが、捨てがまりは島津は失敗の評価ですよね。
まあ西軍が勝てば千人で恩をうり、東軍が勝てば薩摩に待機させている島津軍八万人で迎撃する予定で、関ヶ原後に朝鮮攻めで島津には兵力ないと島津軍の数勘違いした薩摩攻めおこなった徳川軍二万は熊本県水俣で八万人に挟みうちにされて壊滅させられていますからね。
どっちが勝っても家滅ばないように島津は動きます。
@@騎士団ゾット帝国 上杉謙信や武田信玄が島津より大した実績無い訳無いでしょ笑。
周りに強敵(織田、徳川、北条、佐竹ら)が勢揃いの中で領土拡大した2大名。一方は戦国最強騎馬軍団を率いもう一方は軍神と崇められ、共に当時戦国最大勢力を誇った織田、徳川軍を完膚なきまでに叩きのめしてますからね。お互い後10年長く生きれば織田領がそのまま武田領、上杉領に変わってしまうくらいでしたよ。
一方島津は当時最大勢力だった豊臣に蹂躙されました。秀吉の時と信長の最盛期ではまた力が違いますけどね。
いちコメ