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私は真田丸の中心部にあった高校に通っていました。九度山はよく小さい頃に遊んだ場所で、真田信繁は楠木正成と共に非常に身近な存在です。
高校まで真田山公園近くで過ごしていたので感慨深いです
ありがとうございます。絵図を読み込むの楽しいですね。また、次回が楽しみです。
冬の陣最前線の外飲みイートインコーナー❗こんなに楽しい解説はありません😄❗次回が楽しみです。👍😄
屏風絵ってこうやって見ると、いろいろわかりますね!おもしろいです。真田丸は大河ドラマで知りましたが、ロマンを感じます。大阪城のお堀、生命線ですね。
いろんな面白いエピソードが残っていますね。
ありがとうございます!
自分なりに屏風絵を読み解くのは面白いですよね。歴史はロマンとはよく言ったものです。
真田丸の戦の裏側、そんな事があったんですね…面白いです。
こんなことは学校の授業では絶対に教えない。絵図の読み解きが今まで知らなかったことが、わかって本当に面白い。
面白いエピソードですね
動画中、真田丸北側の川(または運河)を道頓堀川とおっしゃてますが、そこは道頓堀川ではありません。道頓堀川は、もっと西南の東横堀南端と西横堀を結んだ運河です。
ご指摘ありがとうございます。
楽しいです😄大坂冬の陣は1ヶ月以上やって下さい。夏の陣も同じくじわじわと仕寄せでお願いします🙇
シリーズが終わったら、一次資料や日記などでの、実際の家康の様子、どういう事を言ってたのかとか、性格とか好きな事などそういう特集もしてほしいです。
31:21 本町橋誤:ほんちょうばし正:ほんまちばし
いつもわかりやすいご解説をありがとうございます。橋板に関してですが、名将言行録によると、家康公は城の攻略について「城にかけられた橋は、守り手には有利になるが、寄せ手には不利になる」という持論をお持ちだったようです。一見、逆なんじゃないかと思ってしまいますが、よくよく考えると、橋があると寄せ手は橋を渡ろうとするから守り手は、そこを狙い撃てばよく、今度は橋が無いと寄せ手がどこから攻めてくるかわからないので、守り手は居竦まってしまう、という誠に理に叶った論理です。なので、家康公の指示で、橋板は仕寄に合わせて撤去されていったのではないでしょうか。
なるほど😀そんな話もあるんですね。
函館の戦いで土方歳三が五稜郭から打って出たのも、港に停泊している官軍の軍艦から大砲を撃ち込まれたらおしまいと知っていたからですね。
22分辺りの旗ですが生駒の車紋ではないでしょうか? 実際のものよりも簡潔に描かれていますが車を半分にしているデザインは珍しいものですし。 個人的には真田丸は一般に信繁のみの戦功であるように語られますが長曾我部のフォローもあってのものだという事をもっと知ってもらいたいです。大河ドラマでも盛親は何の活躍もせずに逃げているだけの描写で哀しかったです
私が子供の頃は抜け穴に入れましたよ。途中で曲がって行き止まりになってました。
橋板は、穴の補強に使いました❗
私の先祖は、山内家の浪人「大野じょうかん」という名で今は、佐賀県鳥栖市牛原町河内(牛原河内)に移り住んだとされる、四阿屋神社に残っていました。秀吉の九州征伐の時の本陣だったお寺を門徒とし、当時の代官より「大野」と言う名では危ないので「稲富」とし明治になると「大野」の姓に戻しています。近年地元では「大野治長」では、との話もあります。詳しい資料とか情報があれば教えてください。また、大野一族はあまり評判が悪いのでそのへんの詳しく教えてください。
現在はあれ一色なので真田丸のDVD借りて見直そうと思います。
橋の木は 洞窟の崩れを防ぐ 材料に使われたかも?😋🎵
いつも楽しく拝見しておりますどんなTV番組やドラマ、ネット動画よりも、詳しくわかりやすい内容で、素晴らしいです歴史の名場面を史実に基づいて詳しく掘り下げて下さる市橋先生、浜崎さん、スタッフの皆さん、ありがとうございます(^v^)
応援ありがとうございます😀
絵の上手いのにはびっくり。安野光雅並みですね。
最初、徳川方が城に近づけなかったのは、大阪方が長射程の大型銃を開発していたからです。知略とかあまり関係ない、大阪方が火力で優勢だっただけのこと。その後、家康がオランダ・イギリスから大砲を購入したことにより、形勢が逆転した。西洋ではすでに大砲の出現によって城塞が無意味になっていた。堀を埋めたのはもはや役に立たないと実感したからです。
その後の夏の陣でもハナから大阪城の天守閣に大砲ブッ放せば、徳川方は容易く味方の犠牲も殆ど無しで勝ったろうに、何であんな回りくどい戦したのかね?其れと、武田信玄が重用してた「金堀組」って、あの大阪城の真下までトンネル掘るって化け物集団彼らの技術を継いだ子孫たちが、昭和時代の黒部ダム建設の担い手になって欲しかったなァ・・・
冬の陣というか大阪の陣は豊臣方の勝利条件がよーわからんな
市橋さんお疲れ様です!なるほどねぇ、大坂冬の陣ではどちらかと言えば豊臣軍の優勢であったのですねえ、市橋さんの説明で徳川組の兵はかなり失った事ですねえ!次も楽しみにしていますよ!
秘密の地下の穴、ぜひ行きたいですね~ 本丸でなくてもどこかにつながっているのかも。
真田信繁さんは敵をおびき寄せて戦う戦法で前田軍と井伊軍を壊滅的に追い込んだんだよね
家の近くに八劔神社上杉景勝 大阪冬の陣本陣之地 鴫野の戦い石碑が有ります。
22:14 生駒氏ですかね??すごい気になって調べてます だれか教えてください
先生は、この「冬の陣図屏風」は誰が、発注者だと思われますか?和議締結の決め手となった、徳川軍団の大筒〔本丸迄届き、命中した〕が描かれず、一方大阪方の活躍が描かれています。大阪方に好意を持つ、注文者だと思われますが。
コメントありがとうございます。するどいですね。次回の動画で考えを話しています。
いつも解り易い解説を有難うございます。流石は信繁ですね。天才戦術家だと思います。大阪方にその戦術を支える戦略が無かったのがつくづく残念に思います。
真田丸に誘い込まれて大ダメージ食らう松平忠直隊安居天神で真田信繁を討ち取る松平忠直隊有能なのか無能なのかよく分からんよなww
すみません。山内家ではなくて大内家です。
真田幸村の提唱する 宇治川、瀬田川で陣を東軍に川をわたらせず 秀頼様に天王寺に出陣、千成ひょうたんの御馬印をかかげられたら 西国大名ははせさんじたであろうか??
少なくとも信繁が提案したという瀬田での防衛ですが、家康が夏の陣の直前に伊勢の本多と東堂に瀬田の防衛を任せているといった資料を見たことありますよ
硫黄島でもそやけど攻められる側は引きつけて引きつけてからやないとあかんわな
あの板はトンネルの土留め板と思われる。
「先生的見解」!とは、世間の常識に反するどんでん返しがきっとあるだろう、それを言わせようの意味?
大阪夏の陣。こういう作戦はどうですか。 まず徳川方の大和路軍3万4千。これを遊兵化するため国分の隘路に兵を5〜6千置き、道明寺への侵出を阻止する。半日やそこら保ちますか?この徳川大和路軍3万4千の道明寺進出を阻止できなければ、作戦自体、成り立ちませんか?この奈良からの大和路軍。高野街道を南下してくる徳川主力の大阪平野への進出を掩護するための部隊だそうですから。その辺りに詳しい方、宜しく。一方、生駒山系の西側、高野街道を南下してくる徳川方の主力に対しては。真田、毛利隊を道明寺の北付近に配置。この部隊で徳川主力の頭を抑(おさ)え。八尾、若江辺りから横腹を突く。縦隊で行軍してきた徳川主力が真田、毛利軍を前に横に広がるわけですか。行軍時は縦隊。戦闘に際しては横に広がるらしいですので。そこを横、もしくは後方から。相当強く徳川主力先頭に対し、圧力を加えなければ。なりませんか?長宗我部、木村隊の横槍に対し、井伊隊、藤堂隊に容易に側面展開させないためには。圧力を加え、押し返せるくらいには。そうなるとどのくらいの兵が必要か。その辺り詳しい方、よろしくおねがいします。また戦国シュミレーションゲームに詳しい方も、よろしくおねがいします。だいたい大阪方は冬の陣でも夏の陣でも野戦の戦績はあまり良くないようですし。冬の陣でも当初。城外へ出ていますか。紀州方面へ。しかしーーー。あれでは籠城もやむ無し?まさか。烏合の集を訓練するには冬の陣では時間的に。夏の陣ならーーーどうですか。冬、夏ともにどの程度の訓練期間を取れたのか。とにかく。家康本陣を突くにはどの辺りから。星田に留まっていましたか。高野街道を南下してくる徳川主力。10万程ですか。何キロの長さになるのか?2列縦隊なら50キロメートル以上。4列縦隊なら25キロメートル以上ですか?行軍速度が時速4キロとすると(旧軍ではそのくらいらしいです)。この時代はどうですか。当時の高野街道はどのくらいの道幅が。先頭の部隊が出陣してから、家康本陣は何時間後に出発となるのか?道幅と到着時間等からだいたいの兵数はーーーわかりませんか。徳川主力の先頭が道明寺付近に達した時、家康本陣はどこに。詳しい方、おねがいします。徳川主力は長蛇の列。木村隊、長宗我部隊以外にも何本くらい、横槍をいれれば。詳しい方、おねがいします。それとーーー。また別な作戦となりますがーーー。徳川方の分進合撃を利用して大阪方が内線作戦を展開するならどこで?目標は大和路軍3万4千ですか?戦場は道明寺付近ですか?国分の隘路を越えた辺りですか?夜営していたなら夜襲という手も。その時の大阪方の兵の配置はどのようになりますか?しかし、伊達も忠輝も大阪方に内応するとかなんとか。それをーーーどうかんがえるか。それに徳川方も分進するなら12万と3万4千などということにせず。8万8万とでもしてくれれば、大和路軍8万を国分の隘路で拘束し徳川主力8万と大阪方5万でなんとか勝負に。冬の陣の時の徳川軍の進軍路はどうだったのですか?家康は奈良経由で入ったそうですが。その時の大和路軍と、主力の兵数は。ご存知の方、おねがいします。その辺り詳しい方おねがいします。
Em có
真田昌幸が存命し真田丸入城したなら、恐らく徳川側の損害は甚大になったと思う。昌幸に勝る軍略家は徳川側には皆無ではないか。
冬の陣の講和を利用して、逆襲したのかもしれないですね。大阪はしばらく独立を保てたのかもしれますんね。家康が、亡くなり秀忠が更に大阪に陣をしくと綻びが生じたかもしれませんね。
大坂冬の陣は豊臣方の勝利!
大きく見ると強引に力攻めを継続せず、一旦講和して大阪城の内外堀を埋め立て、夏の陣に全滅に追いやる下地を冷静に準備した徳川のしたたかさが上だね。豊臣方は冬の陣で籠城して善戦したとて全く意味がない。援軍なんて来ないのだから、籠城ではなく真田幸村達の忠告に従い、冬の陣でも最初から野戦で家康を狙うべきだった。唯一絶対的に勝ち目の無い中で、奇跡が起こるとしたら、家康を討ち取ること。それでも豊臣方は負ける可能性が高いが、家康が討ちとれたら、もしかしたら、豊臣方になびく勢力が出てきたかもしれない。
@@mmasaru0625 元々豊臣滅亡の原因は淀ですからね。ビビって和睦に応じなければ勝てたのに、あの場合撃たれたら打ち返すくらいしないといけなかったと思う
@@mmasaru0625 上杉景勝は寝返った可能性あるよね
南條って人がテロに成功したと思わせる為にわざと爆発させたのでは?
前田利常の軍1万5千人が鉄砲て討ち死にしたよう。
実際の真田丸は半円形では無いですよ😅突進した理由、全然違います。井伊隊と藤堂隊は戦が始まる前に負傷した為、背後に控え急遽、前田隊が先鋒に選ばれました。その前田隊の配下には本多正信の次男、本多政重と山崎長徳がいました。前田隊は塹壕(あなた方が三光神社内にある秘密の抜け穴といっているのは塹壕の一部)を掘りながらジリジリと進んでいる最中、本多政重、山崎長徳が功を立てようと南から進軍、真田丸の障子堀に落下した本多政重を攻撃する形で真田丸の戦が開戦したのです。本多政重は上に書いた通り本多正信の子で功を立てないと行けないプレッシャーがあったでしょうし、山崎長徳は本能寺の変では明智光秀についており織田信長の家臣、赤座永兼(私の先祖)を倒して功により本来、加賀の地を拝領される筈だった武将…ですので前田家での権威を図る為に本多政重と共に前田隊の命令を無視して動いたのでしょう…急遽、開戦した真田丸の戦いに前田利常は翻弄され、長如庵(長連龍)に守られながら真田丸から逃亡した……これが正解です。それを来年下半期に私のTH-camチャンネルで短編映画として公開しますのでもし、良ければ見てください。
私は真田丸の中心部にあった高校に通っていました。九度山はよく小さい頃に遊んだ場所で、真田信繁は楠木正成と共に非常に身近な存在です。
高校まで真田山公園近くで過ごしていたので感慨深いです
ありがとうございます。絵図を読み込むの楽しいですね。また、次回が楽しみです。
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次回が楽しみです。👍😄
屏風絵ってこうやって見ると、いろいろわかりますね!おもしろいです。
真田丸は大河ドラマで知りましたが、ロマンを感じます。
大阪城のお堀、生命線ですね。
いろんな面白いエピソードが残っていますね。
ありがとうございます!
自分なりに屏風絵を読み解くのは面白いですよね。
歴史はロマンとはよく言ったものです。
真田丸の戦の裏側、そんな事があったんですね…面白いです。
こんなことは学校の授業では絶対に教えない。絵図の読み解きが今まで知らなかったことが、わかって本当に面白い。
面白いエピソードですね
動画中、真田丸北側の川(または運河)を道頓堀川とおっしゃてますが、そこは道頓堀川ではありません。道頓堀川は、もっと西南の東横堀南端と西横堀を結んだ運河です。
ご指摘ありがとうございます。
楽しいです😄大坂冬の陣は1ヶ月以上やって下さい。夏の陣も同じくじわじわと仕寄せでお願いします🙇
シリーズが終わったら、一次資料や日記などでの、実際の家康の様子、どういう事を言ってたのかとか、性格とか好きな事などそういう特集もしてほしいです。
31:21 本町橋
誤:ほんちょうばし
正:ほんまちばし
いつもわかりやすいご解説をありがとうございます。
橋板に関してですが、名将言行録によると、家康公は城の攻略について「城にかけられた橋は、守り手には有利になるが、寄せ手には不利になる」という持論をお持ちだったようです。
一見、逆なんじゃないかと思ってしまいますが、よくよく考えると、橋があると寄せ手は橋を渡ろうとするから守り手は、そこを狙い撃てばよく、今度は橋が無いと寄せ手がどこから攻めてくるかわからないので、守り手は居竦まってしまう、という誠に理に叶った論理です。
なので、家康公の指示で、橋板は仕寄に合わせて撤去されていったのではないでしょうか。
なるほど😀そんな話もあるんですね。
函館の戦いで土方歳三が五稜郭から打って出たのも、
港に停泊している官軍の軍艦から大砲を撃ち込まれたらおしまいと知っていたからですね。
22分辺りの旗ですが生駒の車紋ではないでしょうか? 実際のものよりも簡潔に描かれていますが車を半分にしているデザインは珍しいものですし。 個人的には真田丸は一般に信繁のみの戦功であるように語られますが長曾我部のフォローもあってのものだという事をもっと知ってもらいたいです。大河ドラマでも盛親は何の活躍もせずに逃げているだけの描写で哀しかったです
私が子供の頃は抜け穴に入れましたよ。
途中で曲がって行き止まりになってました。
橋板は、穴の補強に使いました❗
私の先祖は、山内家の浪人「大野じょうかん」という名で今は、佐賀県鳥栖市牛原町河内(牛原河内)に移り住んだとされる、四阿屋神社に残っていました。
秀吉の九州征伐の時の本陣だったお寺を門徒とし、当時の代官より「大野」と言う名では危ないので「稲富」とし明治になると「大野」の姓に戻しています。
近年地元では「大野治長」では、との話もあります。
詳しい資料とか情報があれば教えてください。また、大野一族はあまり評判が悪いのでそのへんの詳しく教えてください。
現在はあれ一色なので真田丸のDVD借りて見直そうと思います。
橋の木は 洞窟の崩れを防ぐ 材料に使われたかも?😋🎵
いつも楽しく拝見しております
どんなTV番組やドラマ、ネット動画よりも、詳しくわかりやすい内容で、素晴らしいです
歴史の名場面を史実に基づいて詳しく掘り下げて下さる市橋先生、浜崎さん、スタッフの皆さん、ありがとうございます(^v^)
応援ありがとうございます😀
絵の上手いのにはびっくり。安野光雅並みですね。
最初、徳川方が城に近づけなかったのは、大阪方が長射程の大型銃を開発していたからです。
知略とかあまり関係ない、大阪方が火力で優勢だっただけのこと。
その後、家康がオランダ・イギリスから大砲を購入したことにより、形勢が逆転した。
西洋ではすでに大砲の出現によって城塞が無意味になっていた。堀を埋めたのはもはや役に立たないと実感したからです。
その後の夏の陣でもハナから大阪城の天守閣に大砲ブッ放せば、徳川方は容易く味方の犠牲も
殆ど無しで勝ったろうに、何であんな回りくどい戦したのかね?
其れと、武田信玄が重用してた「金堀組」って、あの大阪城の真下までトンネル掘るって化け物集団
彼らの技術を継いだ子孫たちが、昭和時代の黒部ダム建設の担い手になって欲しかったなァ・・・
冬の陣というか大阪の陣は豊臣方の勝利条件がよーわからんな
市橋さんお疲れ様です!なるほどねぇ、大坂冬の陣ではどちらかと言えば豊臣軍の優勢であったのですねえ、市橋さんの説明で徳川組の兵はかなり失った事ですねえ!次も楽しみにしていますよ!
秘密の地下の穴、ぜひ行きたいですね~ 本丸でなくてもどこかにつながっているのかも。
真田信繁さんは敵をおびき寄せて戦う戦法で前田軍と井伊軍を壊滅的に追い込んだんだよね
家の近くに八劔神社
上杉景勝 大阪冬の陣本陣之地 鴫野の戦い石碑が有ります。
22:14 生駒氏ですかね??すごい気になって調べてます だれか教えてください
先生は、この「冬の陣図屏風」は誰が、発注者だと思われますか?
和議締結の決め手となった、徳川軍団の大筒〔本丸迄届き、命中した〕が描かれず、一方大阪方の活躍が描かれています。大阪方に好意を持つ、注文者だと思われますが。
コメントありがとうございます。
するどいですね。次回の動画で考えを話しています。
いつも解り易い解説を有難うございます。流石は信繁ですね。天才戦術家だと思います。大阪方にその戦術を支える戦略が無かったのがつくづく残念に思います。
真田丸に誘い込まれて大ダメージ食らう松平忠直隊
安居天神で真田信繁を討ち取る松平忠直隊
有能なのか無能なのかよく分からんよなww
すみません。山内家ではなくて大内家です。
真田幸村の提唱する 宇治川、瀬田川で陣を東軍に川をわたらせず 秀頼様に天王寺に出陣、千成ひょうたんの御馬印をかかげられたら 西国大名ははせさんじたであろうか??
少なくとも信繁が提案したという瀬田での防衛ですが、家康が夏の陣の直前に伊勢の本多と東堂に瀬田の防衛を任せているといった資料を見たことありますよ
硫黄島でもそやけど攻められる側は引きつけて引きつけてからやないとあかんわな
あの板はトンネルの土留め板と思われる。
「先生的見解」!とは、世間の常識に反するどんでん返しがきっとあるだろう、それを言わせようの意味?
大阪夏の陣。
こういう作戦はどうですか。
まず徳川方の大和路軍3万4千。
これを遊兵化するため国分の隘路に兵を5〜6千置き、道明寺への侵出を阻止する。
半日やそこら保ちますか?
この徳川大和路軍3万4千の道明寺進出を阻止できなければ、作戦自体、成り立ちませんか?
この奈良からの大和路軍。
高野街道を南下してくる徳川主力の
大阪平野への進出を掩護するための部隊だそうですから。
その辺りに詳しい方、宜しく。
一方、生駒山系の西側、高野街道を南下してくる徳川方の主力に対しては。
真田、毛利隊を道明寺の北付近に配置。
この部隊で徳川主力の頭を抑(おさ)え。
八尾、若江辺りから横腹を突く。
縦隊で行軍してきた徳川主力が
真田、毛利軍を前に
横に広がるわけですか。
行軍時は縦隊。
戦闘に際しては横に広がるらしいですので。
そこを横、もしくは後方から。
相当強く徳川主力先頭に対し、圧力を加えなければ。
なりませんか?
長宗我部、木村隊の横槍に対し、井伊隊、藤堂隊に容易に側面展開させないためには。
圧力を加え、押し返せるくらいには。
そうなるとどのくらいの兵が必要か。
その辺り詳しい方、よろしくおねがいします。
また戦国シュミレーションゲームに詳しい方も、よろしくおねがいします。
だいたい大阪方は冬の陣でも夏の陣でも野戦の戦績はあまり良くないようですし。
冬の陣でも当初。
城外へ出ていますか。
紀州方面へ。
しかしーーー。
あれでは籠城もやむ無し?
まさか。
烏合の集を訓練するには冬の陣では時間的に。
夏の陣ならーーーどうですか。
冬、夏ともにどの程度の訓練期間を取れたのか。
とにかく。
家康本陣を突くにはどの辺りから。
星田に留まっていましたか。
高野街道を南下してくる徳川主力。
10万程ですか。
何キロの長さになるのか?
2列縦隊なら50キロメートル以上。
4列縦隊なら25キロメートル以上ですか?
行軍速度が時速4キロとすると(旧軍ではそのくらいらしいです)。
この時代はどうですか。
当時の高野街道はどのくらいの道幅が。
先頭の部隊が出陣してから、家康本陣は何時間後に出発となるのか?
道幅と到着時間等からだいたいの兵数はーーーわかりませんか。
徳川主力の先頭が道明寺付近に達した時、家康本陣はどこに。
詳しい方、おねがいします。
徳川主力は長蛇の列。
木村隊、長宗我部隊以外にも
何本くらい、横槍をいれれば。
詳しい方、おねがいします。
それとーーー。
また別な作戦となりますがーーー。
徳川方の分進合撃を利用して
大阪方が内線作戦を展開するならどこで?
目標は大和路軍3万4千ですか?
戦場は道明寺付近ですか?
国分の隘路を越えた辺りですか?
夜営していたなら夜襲という手も。
その時の大阪方の兵の配置はどのようになりますか?
しかし、伊達も忠輝も大阪方に内応するとかなんとか。
それをーーーどうかんがえるか。
それに徳川方も分進するなら12万と3万4千などということにせず。
8万8万とでもしてくれれば、
大和路軍8万を国分の隘路で拘束し
徳川主力8万と大阪方5万でなんとか勝負に。
冬の陣の時の徳川軍の進軍路はどうだったのですか?
家康は奈良経由で入ったそうですが。
その時の大和路軍と、主力の兵数は。
ご存知の方、おねがいします。
その辺り詳しい方おねがいします。
Em có
真田昌幸が存命し真田丸入城したなら、恐らく徳川側の損害は甚大になったと思う。昌幸に勝る軍略家は徳川側には皆無ではないか。
冬の陣の講和を利用して、逆襲したのかもしれないですね。大阪はしばらく独立を保てたのかもしれますんね。家康が、亡くなり秀忠が更に大阪に陣をしくと綻びが生じたかもしれませんね。
大坂冬の陣は豊臣方の勝利!
大きく見ると強引に力攻めを継続せず、一旦講和して大阪城の内外堀を埋め立て、夏の陣に全滅に追いやる下地を冷静に準備した徳川のしたたかさが上だね。
豊臣方は冬の陣で籠城して善戦したとて全く意味がない。
援軍なんて来ないのだから、籠城ではなく真田幸村達の忠告に従い、冬の陣でも最初から野戦で家康を狙うべきだった。
唯一絶対的に勝ち目の無い中で、奇跡が起こるとしたら、家康を討ち取ること。
それでも豊臣方は負ける可能性が高いが、家康が討ちとれたら、もしかしたら、豊臣方になびく勢力が出てきたかもしれない。
@@mmasaru0625 元々豊臣滅亡の原因は淀ですからね。ビビって和睦に応じなければ勝てたのに、あの場合撃たれたら打ち返すくらいしないといけなかったと思う
@@mmasaru0625
上杉景勝は寝返った可能性あるよね
南條って人がテロに成功したと思わせる為にわざと爆発させたのでは?
前田利常の軍1万5千人が鉄砲て討ち死にしたよう。
実際の真田丸は半円形では無いですよ😅
突進した理由、全然違います。
井伊隊と藤堂隊は戦が始まる前に負傷した為、背後に控え急遽、前田隊が先鋒に選ばれました。
その前田隊の配下には本多正信の次男、本多政重と山崎長徳がいました。
前田隊は塹壕(あなた方が三光神社内にある秘密の抜け穴といっているのは塹壕の一部)を掘りながらジリジリと進んでいる最中、本多政重、山崎長徳が功を立てようと南から進軍、真田丸の障子堀に落下した本多政重を攻撃する形で真田丸の戦が開戦したのです。
本多政重は上に書いた通り本多正信の子で功を立てないと行けないプレッシャーがあったでしょうし、山崎長徳は本能寺の変では明智光秀についており織田信長の家臣、赤座永兼(私の先祖)を倒して功により本来、加賀の地を拝領される筈だった武将…ですので前田家での権威を図る為に本多政重と共に前田隊の命令を無視して動いたのでしょう…
急遽、開戦した真田丸の戦いに前田利常は翻弄され、長如庵(長連龍)に守られながら真田丸から逃亡した……
これが正解です。
それを来年下半期に私のTH-camチャンネルで短編映画として公開しますので
もし、良ければ見てください。