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国司と郡司がいつの間にか表舞台から消えていった背景がよく分かりました。素晴らしい解説ですね👏👏
この時の守護地頭制度が後に守護大名や国人、更には戦国大名誕生などへと繋がっていくのだから歴史って繋がってるんだな〜って改めて思います。
すばらしいコメント!
分かりやすく楽しく学べる!!
この人の小芝居がおもしろくて、ついみてしまいます(´∀`)<わかりやすいw
守護・地頭と国司・郡司との関係がよくわかりました。
日本史のなぜ(貴族から武士にどのように政権が移ったのか、またそのシステム)が理解できました、ありがとうございました🙇
侍所、政所、問注所涙が出るくらい懐かしい響き(TT)授業ではその言葉しか習わなくて、その意味をしっかり教わった記憶がありません。十○年前、小学生だった頃にこの動画に出会いたかったです。素晴らしい!分かりやすい!歴史の授業が楽しくなる!
今日も面白かったです!2つ質問なんですけど征夷大将軍=武士の棟梁なんでしょうか?もうひとつは、1192以前の組織が幕府なら、平清盛や豊臣秀吉が組織した体制は幕府ではないのでしょうか?
ナガタリアン なるほど、詳しい回答ありがとうございます!やっぱり歴史は面白いですね幕府に関しては研究者によっても意見は分かれてるんですね、、、知らなかったです史料ではなく、Wikipediaレベルの情報で申し訳ないのですが、付け加えて質問してもいいですか?一つ目、平家は天皇や上皇を敵に回していたんですか?藤原家や徳川家と同じ様に外戚として朝廷と結びついていたイメージがあるのですが二つ目、数年前に日本史を勉強しただけなので記憶は曖昧ですが、平清盛も地頭を任命したり、知行国や荘園を持っていませんでしたっけ?経済活動を問題にするのなら日宋貿易や朱印船貿易をしていた足利氏や徳川氏はどうなりますか?三つ目、豊臣政権なら、非常に強い権力が残っていたと指摘されてますが、例えば1185年時点だと奥州藤原氏だって残っていますし、何より朝鮮への出兵ができるほど国内基盤が安定していたと解釈することはできませんか?四つ目、豊臣秀吉の年齢や後継ぎを問題にされていますが、年齢に関しては徳川家康とてあまり変わらないのでは、、、、、
まずこの手の動画の人が間違っていますが。大前提として、日本は天皇に収める「税」と有力者に収める「年貢/みつぎもの」があります。日本国は天皇の命令のみで徴収していいのが「税」です。その徴税の仕事を請け負っていたのが、土豪(いわゆる武士)です。鎌倉幕府というのは、これら徴税官の人事と給与を、朝廷と藤原氏の荘園などに認めさせる。「労働組合」のようなものです。なので大原則として「幕府は税の取り立てを行い、その報酬を年貢として受け取る、権限」としたほうがいいです。」平家政権や豊臣政権は朝廷への納税義務を果たしていないので、幕府ではありません。江戸幕府組織がかなり整理された幕府体制ですが、武士の仕事は「徴税と年貢の徴収する税務署のしごと」です。朝廷から預かった土地から律義に税を集めることをした政権のみ「幕府」として認められています。この他に幕府を幕府たらしめる、制度が「裁判権」です。軍事法廷として律令の範囲外で法令を定めることができます。鎌倉幕府はこの公正さにおいて、御家人から信頼を獲得しました。
@ナガタリアン 2525イナワンの別アカウントのものです。はい、私はこの手の動画を否定も批判もしません。みんな歴史が好きでいろいろ議論して楽しむのがいいと思います。なのでコメント欄に「こういった説もあるよ」「今はこういった説になっているらしい」「地元の伝承では」そんな感じで楽しめばいいと思います。鎌倉幕府に関しては「初めての武家政権」です。他の方のいうとおり平家のように朝廷の要職として権力を握ったのではなく。「土着自治」のような体制に、マニュアルがあって政権樹立したのではなく、手探りで、武士たちが少しずつ権力を朝廷から切り離していった経緯があります。なので「何年鎌倉幕府樹立」とかいう話ってどちらかと言うと重要ではないんですよね。幕府成立の話でなぜ年号が変わるのかという所で、そこを重点的に話すべきなんです。「あれこれ創意工夫があった」と。守護・地頭から、政所・問注所。六波羅探題、公正な裁判など、地方の御家人たちが求める政権へと成長していった。これを説明することで、平家追討から元寇・鎌倉幕府滅亡まで、一つの説明が出来るんです。それどころか江戸時代まで説明が可能です。解りやすく歴史を解説することは大切な事ですが、まずは基礎的な理解が必要ですね。将軍宣下より「守護地頭の任命権の掌握」これが歴史上どれだけセンセーショナルなことだったか、それこそ平安時代の「墾田永年私財法」「荘園」からの繋がりが出てきます。ここが歴史の本当の面白さですから。まずなぜ幕府は「税」ではなく「年貢」なのか。明治維新とはなんだったんか。ここらへんの用語を動画主は厳密に使って欲しかったですね。そのなかでの鎌倉幕府の成立とは、という問題が解決するからです。
112 幕府の機能的面からの解説ありがとうございます!やはり、この手の動画は大衆向けなので、こういった話は受けないので取り上げにくいですよね
ナガタリアン 意欲的な返信ありがとうございます私も小学生の頃日本史研究者に憧れて、いまは違う分野ではありますが、歴史に携わってる身としてなんだか懐かしい気分になりましたこの手の動画では厳密さを保つのは難しく、どうしても小説や俗説の影響を受けすぎじゃないかと思ってしまいますが、歴史ファンとしてはおもしろいですね!私の姿勢が少し場違いで合ったかもしれませんあなたの夢の実現と、これからの活躍を祈っております!頑張ってください!
国司、郡司の身分はその後どうなったんですか?守護や地頭の人に生活の面倒を見てもらう様になったのですか?
何かの本だかで読みましたが、1192年鎌倉幕府成立って、頼朝が征夷大将軍に拘ったか?そうでないか?の話で、そうではなかった(将軍なら何でもOKという書状が見つかる?)のが判明して、朝廷の国司郡司にやがてとって変わる守護地頭の配置の始まりを実効支配の開始=幕府の始まりとみなして、1185年に変わったとかでしたっけ?頼朝が征夷大将軍を求めた説の背景は、奥州藤原氏が鎮守府将軍の役職で事実上朝廷からの独立した政権を奥州で実施していたことから、その上の役職の権威を拡大解釈して、全国支配を朝廷に強引に認めようとしただったか…どちらにしても頼朝時はまだまだ征夷大将軍自体が名実共に武家の棟梁とはなっていないのでしょう。新政権の樹立は段階を踏んで実効支配が継続されて為されるので、後から振り返って初めてターニングポイントが明確になって単純な過去の出来事が歴史に変わるのかなと思います。(あんまり上手く書けなかった。)
律令でも帥の任命と都督府の設置がワンセットで、大将軍と幕府がセットですね。公的指揮権がどこで了承されたかです。事前に地頭の設置が許されたからとなるなら。江戸幕府の設立も関ヶ原の論功行賞の時点で成立といえます。おかしな話です。鎌倉幕府1185成立これも正しくはないですね。
2525イナワン さん詳しい方なんですね。結局いつが幕府成立なんですか?学問の話なので、出来ればどの先生のどの論文かを明示して下さい。1185年って今の教科書で定めてる、もしくはいろんな説がある状態と認識していたんですが、最新では変わっているんでしょうか?
@@softeasy9464 成立という言葉を今は充てていません。厳密にいうと承久の乱1221年までの間で少しづつ構築されている。という過渡期になります。オンオフで成立しないという事ですね。武家が従来の権力、朝廷を規制した時を以って、武家政権の成立とされているようです。六波羅探題の設置年になるかと思います。ここらへんは、鎌倉幕府を扱った学説ならばどれも、似た説になっていますので、どれを読まれても良いと思います。1192-1185は受験模範解答の答例として用意されているもので、成立年ではなく開始年ですね。その論争はあるかと思います。なので確定的に鎌倉幕府成立という言い方は今していませんね。
2525イナワン さん回答ありがとうございます。「成立」という言葉の話で内容が飲み込めました。単純に昔の1192年鎌倉幕府成立は、年号だけ変わった認識をしてしまっていたのですが、「成立」から「開始」といった点も変わっていたのですね。私が受けた古い教育からのアップデート漏れですね。そもそも幕府に中国からの律令の定義と、日本における政権の意味があって、言葉の意味と定義の棲み分けが私の中でまだまだ出来てないんですよね。(この文面も自信が無い)とにかく勉強になりました。ありがとうございます。
よく考えれば実権を奪った相手(朝廷)を壊滅させたわけではないから、過渡期を設けて少しずつ実権を奪っていくというやり方は当然の戦略ですね。この後将軍→執権→得宗→御内人と実権が移っていくのも同じ発想なのかな。
説得力がすごい!笑
いつもアップを楽しみにしています。愈々出てきましたね守護と地頭。「泣く子と地頭には勝てない」の慣用句で有名ですね。歴史資料にはこの地頭の悪徳非道ぶりが頻発しています。税金の高い国に在住していたことがありますが、本当に大変でした(笑)
守護と地頭の台頭がめちゃくちゃ分かりやすかったです!改めてそうだそうだと日本史Bの授業を思い出しました(*´∀`)
主語と述語
その源頼朝の肖像画は今ではほぼ頼朝ではなく別の人物だとされてますよ足利直義説が有力です
それこそ再来年の大河はこのころの話ですしね。
江戸幕府の場合は家康が征夷大将軍になった1603年が始まりとされているけど、これとの違いは何ですか?
今日もありがとうございます 武士道さん_(._.)_幕府とは政治の始まりなんですね。頼朝は素晴らしい👏って言うか坂東武士達の力も有ってのことなのかな?それが 徳川幕府になると士農工商となると貴族の位置は何処にも入らんねぇ😅
もう少し、ゆっくりと話してくれれば素晴らしいと思います。
再生速度を遅くしたら良くないですか
👍👍👍
ガッツ石松でしたっけ?「良い国つくろう、鎌倉幕府」で4192年って答えたのって(笑)
「いい国つくろう鎌倉幕府」て文言、どこか宗教臭いよね…。
十年後に全体歴史事象会議やるんで、取り合えず明治期に確定された歴史教えとけw事実でない歴史を語るの禁止w
国司と郡司がいつの間にか表舞台から消えていった背景がよく分かりました。素晴らしい解説ですね👏👏
この時の守護地頭制度が
後に守護大名や国人、更には戦国大名誕生などへと繋がっていくのだから
歴史って繋がってるんだな〜って改めて思います。
すばらしいコメント!
分かりやすく楽しく学べる!!
この人の小芝居がおもしろくて、ついみてしまいます(´∀`)<わかりやすいw
守護・地頭と国司・郡司との関係がよくわかりました。
日本史のなぜ(貴族から武士にどのように政権が移ったのか、またそのシステム)が理解できました、ありがとうございました🙇
侍所、政所、問注所
涙が出るくらい懐かしい響き(TT)
授業ではその言葉しか習わなくて、その意味をしっかり教わった記憶がありません。
十○年前、小学生だった頃にこの動画に出会いたかったです。素晴らしい!分かりやすい!歴史の授業が楽しくなる!
今日も面白かったです!
2つ質問なんですけど
征夷大将軍=武士の棟梁なんでしょうか?
もうひとつは、1192以前の組織が幕府なら、平清盛や豊臣秀吉が組織した体制は幕府ではないのでしょうか?
ナガタリアン
なるほど、詳しい回答ありがとうございます!やっぱり歴史は面白いですね
幕府に関しては研究者によっても意見は分かれてるんですね、、、知らなかったです
史料ではなく、Wikipediaレベルの情報で申し訳ないのですが、付け加えて質問してもいいですか?
一つ目、平家は天皇や上皇を敵に回していたんですか?藤原家や徳川家と同じ様に外戚として朝廷と結びついていたイメージがあるのですが
二つ目、数年前に日本史を勉強しただけなので記憶は曖昧ですが、平清盛も地頭を任命したり、知行国や荘園を持っていませんでしたっけ?
経済活動を問題にするのなら日宋貿易や朱印船貿易をしていた足利氏や徳川氏はどうなりますか?
三つ目、豊臣政権なら、非常に強い権力が残っていたと指摘されてますが、例えば1185年時点だと奥州藤原氏だって残っていますし、何より朝鮮への出兵ができるほど国内基盤が安定していたと解釈することはできませんか?
四つ目、豊臣秀吉の年齢や後継ぎを問題にされていますが、年齢に関しては徳川家康とてあまり変わらないのでは、、、、、
まずこの手の動画の人が間違っていますが。大前提として、日本は天皇に収める「税」と有力者に収める「年貢/みつぎもの」があります。日本国は天皇の命令のみで徴収していいのが「税」です。その徴税の仕事を請け負っていたのが、土豪(いわゆる武士)です。鎌倉幕府というのは、これら徴税官の人事と給与を、朝廷と藤原氏の荘園などに認めさせる。「労働組合」のようなものです。なので大原則として「幕府は税の取り立てを行い、その報酬を年貢として受け取る、権限」としたほうがいいです。」平家政権や豊臣政権は朝廷への納税義務を果たしていないので、幕府ではありません。江戸幕府組織がかなり整理された幕府体制ですが、武士の仕事は「徴税と年貢の徴収する税務署のしごと」です。朝廷から預かった土地から律義に税を集めることをした政権のみ「幕府」として認められています。この他に幕府を幕府たらしめる、制度が「裁判権」です。軍事法廷として律令の範囲外で法令を定めることができます。鎌倉幕府はこの公正さにおいて、御家人から信頼を獲得しました。
@ナガタリアン
2525イナワン
の別アカウントのものです。はい、私はこの手の動画を否定も批判もしません。みんな歴史が好きでいろいろ議論して楽しむのがいいと思います。なのでコメント欄に「こういった説もあるよ」「今はこういった説になっているらしい」「地元の伝承では」そんな感じで楽しめばいいと思います。鎌倉幕府に関しては「初めての武家政権」です。他の方のいうとおり平家のように朝廷の要職として権力を握ったのではなく。「土着自治」のような体制に、マニュアルがあって政権樹立したのではなく、手探りで、武士たちが少しずつ権力を朝廷から切り離していった経緯があります。なので「何年鎌倉幕府樹立」とかいう話ってどちらかと言うと重要ではないんですよね。幕府成立の話でなぜ年号が変わるのかという所で、そこを重点的に話すべきなんです。「あれこれ創意工夫があった」と。守護・地頭から、政所・問注所。六波羅探題、公正な裁判など、地方の御家人たちが求める政権へと成長していった。これを説明することで、平家追討から元寇・鎌倉幕府滅亡まで、一つの説明が出来るんです。それどころか江戸時代まで説明が可能です。解りやすく歴史を解説することは大切な事ですが、まずは基礎的な理解が必要ですね。将軍宣下より「守護地頭の任命権の掌握」これが歴史上どれだけセンセーショナルなことだったか、それこそ平安時代の「墾田永年私財法」「荘園」からの繋がりが出てきます。ここが歴史の本当の面白さですから。まずなぜ幕府は「税」ではなく「年貢」なのか。明治維新とはなんだったんか。ここらへんの用語を動画主は厳密に使って欲しかったですね。そのなかでの鎌倉幕府の成立とは、という問題が解決するからです。
112
幕府の機能的面からの解説ありがとうございます!やはり、この手の動画は大衆向けなので、こういった話は受けないので取り上げにくいですよね
ナガタリアン
意欲的な返信ありがとうございます
私も小学生の頃日本史研究者に憧れて、いまは違う分野ではありますが、歴史に携わってる身としてなんだか懐かしい気分になりました
この手の動画では厳密さを保つのは難しく、どうしても小説や俗説の影響を受けすぎじゃないかと思ってしまいますが、歴史ファンとしてはおもしろいですね!
私の姿勢が少し場違いで合ったかもしれません
あなたの夢の実現と、これからの活躍を祈っております!頑張ってください!
国司、郡司の身分はその後どうなったんですか?
守護や地頭の人に生活の面倒を見てもらう様になったのですか?
何かの本だかで読みましたが、
1192年鎌倉幕府成立って、頼朝が征夷大将軍に拘ったか?そうでないか?の話で、
そうではなかった(将軍なら何でもOKという書状が見つかる?)のが判明して、
朝廷の国司郡司にやがてとって変わる守護地頭の配置の始まりを実効支配の開始=幕府の始まりとみなして、
1185年に変わったとかでしたっけ?
頼朝が征夷大将軍を求めた説の背景は、
奥州藤原氏が鎮守府将軍の役職で事実上朝廷からの独立した政権を奥州で実施していたことから、その上の役職の権威を拡大解釈して、全国支配を朝廷に強引に認めようとしただったか…
どちらにしても頼朝時はまだまだ征夷大将軍自体が名実共に武家の棟梁とはなっていないのでしょう。
新政権の樹立は段階を踏んで実効支配が継続されて為されるので、後から振り返って初めてターニングポイントが明確になって単純な過去の出来事が歴史に変わるのかなと思います。
(あんまり上手く書けなかった。)
律令でも帥の任命と都督府の設置がワンセットで、大将軍と幕府がセットですね。公的指揮権がどこで了承されたかです。事前に地頭の設置が許されたからとなるなら。江戸幕府の設立も関ヶ原の論功行賞の時点で成立といえます。おかしな話です。鎌倉幕府1185成立これも正しくはないですね。
2525イナワン さん
詳しい方なんですね。
結局いつが幕府成立なんですか?
学問の話なので、出来ればどの先生のどの論文かを明示して下さい。
1185年って今の教科書で定めてる、もしくはいろんな説がある状態と認識していたんですが、
最新では変わっているんでしょうか?
@@softeasy9464 成立という言葉を今は充てていません。厳密にいうと承久の乱1221年までの間で少しづつ構築されている。という過渡期になります。オンオフで成立しないという事ですね。武家が従来の権力、朝廷を規制した時を以って、武家政権の成立とされているようです。六波羅探題の設置年になるかと思います。ここらへんは、鎌倉幕府を扱った学説ならばどれも、似た説になっていますので、どれを読まれても良いと思います。1192-1185は受験模範解答の答例として用意されているもので、成立年ではなく開始年ですね。その論争はあるかと思います。なので確定的に鎌倉幕府成立という言い方は今していませんね。
2525イナワン さん
回答ありがとうございます。
「成立」という言葉の話で内容が飲み込めました。
単純に昔の1192年鎌倉幕府成立は、年号だけ変わった認識をしてしまっていたのですが、
「成立」から「開始」といった点も変わっていたのですね。
私が受けた古い教育からのアップデート漏れですね。
そもそも幕府に中国からの律令の定義と、日本における政権の意味があって、言葉の意味と定義の棲み分けが私の中でまだまだ出来てないんですよね。
(この文面も自信が無い)
とにかく勉強になりました。
ありがとうございます。
よく考えれば実権を奪った相手(朝廷)を壊滅させたわけではないから、過渡期を設けて少しずつ実権を奪っていくというやり方は当然の戦略ですね。この後将軍→執権→得宗→御内人と実権が移っていくのも同じ発想なのかな。
説得力がすごい!笑
いつもアップを楽しみにしています。
愈々出てきましたね守護と地頭。
「泣く子と地頭には勝てない」の慣用句で有名ですね。
歴史資料にはこの地頭の悪徳非道ぶりが頻発しています。
税金の高い国に在住していたことがありますが、本当に大変でした(笑)
守護と地頭の台頭がめちゃくちゃ分かりやすかったです!改めてそうだそうだと日本史Bの授業を思い出しました(*´∀`)
主語と述語
その源頼朝の肖像画は今ではほぼ頼朝ではなく別の人物だとされてますよ
足利直義説が有力です
それこそ再来年の大河はこのころの話ですしね。
江戸幕府の場合は家康が征夷大将軍になった1603年が始まりとされているけど、これとの違いは何ですか?
今日もありがとうございます 武士道さん_(._.)_
幕府とは政治の始まりなんですね。
頼朝は素晴らしい👏
って言うか坂東武士達の力も有ってのことなのかな?
それが 徳川幕府になると士農工商となると貴族の位置は何処にも入らんねぇ😅
もう少し、ゆっくりと話してくれれば素晴らしいと思います。
再生速度を遅くしたら良くないですか
👍👍👍
ガッツ石松でしたっけ?
「良い国つくろう、鎌倉幕府」で4192年って答えたのって(笑)
「いい国つくろう鎌倉幕府」て文言、どこか宗教臭いよね…。
十年後に全体歴史事象会議やるんで、取り合えず明治期に確定された歴史教えとけw
事実でない歴史を語るの禁止w