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数々の、ご家族あるいは大切な方の死にまつわるコメントありがとうございます。皆さんの思い出深いご経験などあれば、ぜひお寄せいただければと存じます。よろしくお願い申し上げます。
最近、みとりに興味あります。凄くいい動画でした。登録チャンネルしました。感謝m(_ _)m
丁度今、母に五つの兆候が現れています。特に食事をとってもらえないことが、私にとって、大きなストレスになっていました。少しでも良くなればと、必死で(時に怒りながら)食事を与えていましたが、この動画を見て、覚悟が決まりました。穏やかな時間を少しでも長く過ごせるよう、心がけたいと思います。
今年、87歳の母を亡くしました。脳梗塞で半年近く入院しておりましたが、本当に悩みました。それでも、亡くなる前には、OKと指を輪にして、安らかな顔で旅立っていった母は立派な人だと尊敬してます。先生のお話を聞いて、今やっと心の整理がつきました。ありがとうございました。
コロナのため、まだ施設の親と会えないのです。敬老の日も会えないとのこと。とにかくつらい。家族の前では私は平然としてますが、心はとにかく親のもとに飛んでいきたいです。
お気持ち、拝察します。早く、その日が来ることを願います。
看護師ですが、もうもたないと医師に言われ、師長が好きだった酒を飲ませてやろう。と日本酒を飲ませたところ、回復した患者さんを知っている。
命の酒ですね。
そりゃ〜色々個人差があるでしょうに医療の関係の貴方がこんなこと言う必要無いのではありませんか?
医師にもその人にもたらされた奇跡は解明出来ないです。
医師から危篤と言われた男性が、最後におにぎりを食べたいと言ったので家族が食べさせたら、それから1年生きた男性がいました。
@@sakasama11これが絶対的に正しいなんて言ってないでしょう。
まさおさんの話、なんでこんなに泣けるのだろう。立派なお父さんだ。先生、ありがとう。
88歳の母が胆嚢癌だと言われ兄弟3人で絶対に癌の告知はしないと決めました。痛み止めを3回飲んだら普通の生活が出来ました。でも余命1~2ヶ月と言われ薬も効きにくくなったので緩和病棟に私と入院しました。2020年3月です。コロナがさわぎ始めた頃で本当に運良く親子で緩和病棟で過しました。亡くなる2週間前から歩くのが大変になり車椅子で部屋の中のお手洗いなどに連れていったりしてました。それでもしっかりしゃべったり笑ったり普通の生活が出来ました。しかし本人はこの頃からもう癌で命が短い事に感づいていたようで「後10年生きたいわ」とか、「友達皆さんによろしく言っておいて」と言うようになりました。それでも私達兄弟は癌であることは言いませんでした。何故なら、死ぬから子供が優しくしてくれているなんて思われたくなかったのと死と言われると怖くて沈むんじゃないかと思ったからです。1週間前には食欲も落ちてきたので好きな物を食べさせました。2日前には私に「楽しかったなあ」と言ってもう少し話しようよと言われたのですが私も疲れていて眠ってしまいました。前日、とても食欲がありいつもより食べたのです。そして飲み物がほしいと言いました。その夜「苦しい」と言ったので看護婦さんを呼び痛み止めの薬を飲ませました。母は私に「世話になったなあ・・」としっかりと手を握りしめました。弟を病室に呼び、弟が来た事はわかったので帰ってモラらったのですが、その後夜中、私が背中を拭いてあげたら「○○ちゃん、ありがとうな」と手をしっかり握りしめました。そして何か言おうとしましたが、もう何を言いたいのかが舌がまわらなかったので母を横にしたら寝てしまいました。その前に目が瞬きをせず固まっていたのです。寝かせても目は閉じず、私がまぶたを1/3まで降ろしました。せん妄とかぜいぜいとかまったく無縁でスヤスヤ寝ていたので私はてっきり眠っているものだと思ったら朝方、看護婦さんがきて危ないので「家族を呼んで下さい」と言われ弟を呼んで二人が両手を握って声かけをしました。寝ていて意識はないみたいなのに数時間も手は私の手をしっかり握ってきるのです。まるで言葉は出ないけど子供が手を握っていてくれてるのがわかっているかのようでした。意識が無くなってスヤスヤ寝てから7時間、母を呼びかけると7時間目に両目がしっかり開き、はじめは私と弟を探した感じでしたが、その後、私を見て弟を見て1秒後に舌が出て息をひきとりました。私は88歳でも本当に元気で明るい母が亡くなったなんて3年たっても信じられず未だに毎日毎日母の事を考えて苦しくなってしまいます。もっと優しくしてあげればよかったとか、もっと何か出来ることがあったのじゃないかとか後悔の念に絶えません。母の余命を聞いてもこんな元気な母が死ぬなんてと思い考えたくなくてそのことを考えないようにしていたので、未だに自分を責めています。死んでみて本当に母が大好きだったんだ。もう遅いのにそんなことばかり考えています。幸いなのは苦しいと言ったのは2回位ですぐにそれも普通に戻ったので苦しまず亡くなったんじゃないかなあとそれだけはよかったと思っています。母との最後3ヶ月間を一緒に過ごせただけが最後の親孝行だと思ってます。長々とすみません。
先日、母が104歳で亡くなりました。1年前に体重が減り、2週間入院しました。医者からは、要するに老衰で死期が近づいていると言われました。その後体重は回復したけれど、普通の食事は摂らなくなりました。エンシュアリキッドと言う栄養ドリンクとプリンで栄養補給しました。デイサービスでも食べ易い食品に変えてくれました。亡くなる1カ月半前から飲食しなくなりました。水分を取ろうとしない。それで、点滴しました。デイサービスで、何とか食べさせてくれました。大小便が出ているので、水分と栄養は摂れていると思いました。亡くなる2週間前からは、デイサービスにも行けない状態になりました。それからは点滴だけで2週間の命でした。血圧計も反応しない位、血圧も下がりました。指先に付ける酸素濃度計も測定不可になりました。唾液が出ないのか口の中が乾燥するので、何度も口の中を清掃しました。小水が出なくなったら死ぬと言われました。亡くなる数日前から小水が出なくて、大便だけが出てくるようになりました。亡くなる直前には、口から汚い物が出て来ました。痰の吸い取り器で取りました。酸素吸入もしました。口から汚い物が出て来て6時間後ぐらいに息を引き取りました。亡くなってからオムツを見ると、大便は無く最後の小水が出ていました。筋力の衰えは無かった。デイサービスの車に歩いて乗れた。普段から筋力が衰えないように、少しでも歩くように工夫していました。デイサービスに行っているときは、寝たいときに寝て、起きたいときに起きている。24時間の時計に従わない睡眠でした。
今日は私は「大腸癌」を患い短期間の入院しました、此のままでは寝たきりの生活になり退院を要望して退院した、その後は自宅療養中です、其処で死期の時間日時を悟りたいです、一番の問題は家族無し看取る人なしの環境の私です、葬式の段取は生前の時に決めておきたいです。今は体調が良いが良い、悪い、のランダムな調子です。
皆さん、こんにちは。以前、直前の変化の話はしましたが、これは少し前の予兆のお話です。ぜひご覧ください。th-cam.com/video/lnKiQ3xGICM/w-d-xo.html
コメント、いつもありがとうございます。今日もぜひよろしくお願い申し上げます。
先生お疲れ様です🌴🌴💕今日も貴重なご投稿をありがとうございました。昨日は筑西市から敬老金券2000円が届きました95歳で亡くなった義母の事を思い出しています💕私もそんな年にになってしまったんだなぁ!と複雑な気持ちです。残された人生を家族に感謝しつつ、大切に生きたいと思っております🤙🍀😊🌸先生のお話し中の表情が、心に響いて💕時々涙が出て来るご投稿があります😊🍀✨季節の変わり目、ご自愛下さいませ、、🍀🙏🍀感謝❤️
いつもありがとうございます。筑西市、そのような施策を行っているのですね! ふと、すでに旅立った方たちのことを思い出すこともありますね。どうかお身体、お気をつけくださいね。
縁起でもないけど、この動画オススメに上がってきてしまった。痩せる母を見ていて、泣けてきた。
親御さんの変化を見ると色々とは考えることはありますものね。
@@kanwa いっぱい親孝行します!ありがとうございます🍀 オススメに感謝です♥
一年前の動画にようやく今辿り着きました。一年前に拝見してたら母の看取りが全く別のものになったかもしれない、とても貴重なお話、先生の誠実なお人柄で、穏やかな気持ちで伺うことができました。母は一年前はまだ普通食が食べられて、食事を楽しむことができていました。足腰が随分弱っていましたが、トイレは自分で行けました。認知症もなく、まだまだ大丈夫と勝手に思っていました。最期の一年徐々に衰えているのを本人が一番自覚し、覚悟していたのだと思える言葉が、今となってはいくつも思い当たるのですが、当時は縁起でもないと聞き流してしまっていました。でも、延命措置は絶対嫌だ、死ぬのは楽しみなんだよ、と直接私に伝えていたことが、その後入退院の度、選択を迫られる度、私の判断のよりどころとなりました。親しい人でも肉親の最期のことで生々しいところは語りませんし、聞く方も当たり障りなくしか聞きませんが、自分の肉親のこととなって初めてもっともっとちゃんと聞いておけばよかったと思います。本当に先生の動画のような、誰もが迎える最期の時の話をみんなが聞いていれば、人生に対する考え方も深まり、むしろ不安が小さくなり、やさしい気持ちになれるのではないかと思いました。旅立つ人への緩和ケアは残るものの心の緩和ケアにもなるのだと思いました。ありがとうございました。
見るのが少し怖かったですけど、避けては通れない事だと思いますので拝見させて頂きました。ありがとうございます。今後の参考にさせて頂きたいと思います。
苦痛なく過ごせることを大切に介護やってみます☆先生いつも心温まるお話ありがとうございます🍀
先に死があるのに延命は意味が無いのではそれより、苦しくなく、痛くなく眠るようにが理想です
コメントは複数回ご投稿頂いても結構です。よろしくお願い申し上げます。 やはりご自身の死を予期していたかのような言動があった方も複数おられることが伝わって来ました。
まさおさんのお父様は「難しいことは分からない」と仰ったそうですが、一番難しくて大事なところをしっかり把握されていて感服します。「知恵」とは身近な人への思いやりなのだと考えさせられました。とても価値のある動画をいつも有難うございます。
昨日は帰国の準備のため拝見出来ず今日になりました。両親の看取りを終えた私は、あの時を思い出しながら、まさにその通りだったと頷きながら拝見いたしました。先生は医師である前に、人として末期の患者さんとそのご家族に寄り添われていることに、いつも胸が熱くなる思いです。誰もが通る道、その時は先生のようなお心深き医師に巡り合いたいとつくづく思います。先生に看取られた患者さんとそのご家族は、お幸せですね。大切なことを発信して下さり、感謝します。
過分なるお言葉ありがとうございます。 ご帰国が迫っているのですね! どうかお気をつけくださいね。
父親が膵臓がんから肺と肝臓に転移の兆候がみられる時に緩和ケア医の方にあと半年と余命を宣告されましたがまさしくその通りでした。それに驚きもしましたが、やはり沢山の人を看てきたのだと感じました。介護休業を取り、父の介護を弟と交互にしながらでしたが先生の言う通り寝る時間も長くなりモルヒネも使用して少しずつ少しずつ弱っていきました。あの背中の大きな父が弱っていく様は悲しみを覚えましたが自然な事なんですね。せん妄も最初は驚きましたが慣れました。笑最期に自宅で看取りをましたが今でも良かったのかと考えています。
遺体感染管理士、死化粧師、元訪問看護師として在宅の看取りに述べ1万件に関わり、死後の処置や遺体の冷却管理の仕事をしています。昨年に舅を末期の心不全で看取りました。最新の情報が知りたく、看取り看護をしながら終末期ケア専門士の資格も取り、舅が苦しむ事無く穏やかに逝く事が出来ました。こちらの動画で先生が言われている通りの過程がありましたね。医療の現場にも変化があり、やはり最新の情報は大切だと改めて思いました。
最後のまさおさんのお父さんは素晴らしい方でした。判断に困らないように簡単に選択出来るようにしてくれて感動しました。自分も最後はまさおさんのお父さんの様に逝けたらと思いました。
貴重な情報を提供して頂きまして感謝を申し上げます。
コメント誠にありがとうございます。
いつも為になるお話をありがとうございます。数年前の話ですが、私の祖父が、ある日から『(ご飯が)んもーねぇ(美味しくない)』と言い始めて痩せてきても畑の世話をしていたそうで、母と姉が夏バテみたいなものかな?と病院に連れて行ったら『食欲がないくらいで来ないでください!』と強く言われたそうですが、血液検査で肝臓の値が高かったため検査をしたら大腸癌の肝転移ということで入院になりました。母は毎日お見舞いに行っていたそうですが、1日行かなかったらイヤに顎が尖って顔が変わったようになっていて、看護師に病院に泊まりたいと申し出たところ、『こちらで観察してますから大丈夫です』と帰らされたそうです。翌朝、祖父は亡くなりました。入院してから手術はしましたが、延命処置はしませんでした。私はICに入っていないので分からないのですが、母は、合わせたい人にみんな連絡してお見舞いに行ってもらったそうです。私もまだ話せるうちにお見舞いに行けたのは良かったのですが、2ヶ月半と早かったです。祖父が『なんぎい(辛い)』と言ったのは、近所のおばさんに1回だけで、最後まで穏やかだったそうです。亡くなっていく人は、どの辺からもう長くないな...と感じるのかも考えさせられました。
お話、ありがとうございます。いつから感じ取っているのでしょうね。考えさせられますね、
アメリカの大俳優ゲイリークーパーが亡くなる時、泣きじゃくる家族に言いました。「すべては神の思し召しだよ。」私もそう思います😊。ただ亡くなるのではなく、神の慈悲に包まれるのです😊。
神の慈悲、良いですね😊
@@kanwa いいでしょう😊。
😊👍
お疲れ様です。まさに、いま直面しています。動画はとても感慨深いものがあり、ぜひ参考にさせていただきます。
入院していた時に「この一週間で容態が急変するかもしれません」と連絡があったと言う話を父からされたことがあったのですが、入院中確かに、体重減少して、食欲がなくなり、トイレも行けなくなってオムツになった時がありました、何がきっかけで今の状態まで回復できたのか説明は難しいですが、あの時はお医者様から見ても確かにやばい感じだったんだろうなぁと説明を聞いて思いました
良い先生ですね。
一回突然死しかけたことが有りますが、その時は以後しばらく本当に一日中寝てましたねー。最初の頃はせん妄もあって、現実と夢の区別がついておらず、ある意味で幸せな時でした。。人生最大の多幸感の中にいました。後から聞くと、妻や間接的に状況を聞いていた方々は本当に大変だったようですが正直自分一人だけは、人生最大の幸せな気分に浸ってました。。。一つその体験の良かった事は、今後は他の方が亡くなる時も冷静に見ることができそうと思えるようになった事です。
10:13 分かりやすく優しい内容の動画をありがとうございました。まさおさんの事例を聞き涙が出ました。優しい息子さんと優しいドクターですね。私も両親を送り義父母を看取り現在は夫の介護をしています。「人間っていうのはやっぱり生まれて来たところに戻るんだね…」と言ったある男性患者さんのお言葉など本当に穏やかで、先生を信頼なさっていることがよく分かります。また動画を拝見するのを楽しみにしています。
1.寝ている時間が長くなる2.見当識障害3.寝たきりに近くなる4.食欲がなくなる5.体重減少以前働いていた職場で、「病気になると食べたくても食べられなくなるのよ。無理なダイエットで体壊しても意味がないのよ。健康が1番✨」と言われて、ダイエットするのを辞めました✨
ありがとうございます。3は「寝たきりに近くなる」ですね。日常生活動作(ADL)の低下であり。昨日亡くなられたイギリスのエリザベス女王にも(寝たきりまでは全く至っておられませんでしたが)認められていましたね。 確かに、弱ると今度は食事を摂ることが大変で、人間はなかなかうまくいかないものですね。
いつもありがとうございます。私には90になる母が田舎におりますが、コロナ禍なかなか帰ることも出来ず寂しく感じております。今回のお話胸があつくなりました。いくつになっても親には長生きして欲しい。しかし人は死を迎えていく時この世に生を頂いた時にかえって行く。悔いのない親との関わり、自分自身も年齢を重ねる中で同じように置き換え考えさせられました。先生のお仕事の重みと家族の皆様に寄り添い緩和ケァを日々行っていれことに感謝です。
こちらこそいつも、そしてお言葉ありがとうございます。
人は、今の医学でも寿命があるものなので、寿命で老衰で天寿を全うできるのは幸せなことなんですよね。若くても年でも交通事故、災害、病気で亡くなることもあるのですから
生を受けたら必ず迎える死…運命、定め…自分にもいつかは必ずお迎えが来ます。自身の親も90近いのでいつ何時と心してはいますが正直考えると辛くなります。先生のお話は実に為になります。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。何歳になっても親は親、子からすれば大切な存在、それを日常臨床の現場で感じています。
まさおさんのエピソードはとても感銘を受けました。ありがとうございます。
ガンで大きな手術をしてから、死への恐怖が減りました。転移、再発は、今のところ見られませんが、いずれ最後は眠りながら逝ければ、最高の幸せですね。自然の摂理が導いてくれることを期待します。
生死の瀬戸際を経験なさると、心の持ちようも変わるのでしょうね。良い方向にむかうことを願っております。
数年前に義父、義母に延命措置をするかどうするか?と聞いた事があります実は私の父が寝たきりで延命措置で苦しんでた姿を見てたので私と義父、義母の3人の時に思い切って聞いてみました私は父の話をしてから どうする?と聞いたら自然任せ 延命なんてやらなくていいと…義父はガンが見つかり手術をしましたが数ヶ月後 悪性だった為、転移主治医に緩和ケアで最期まで苦しまずにと言ってくれたので義父に今より楽になろうね!と話して緩和ケア病棟に入れてもらいました看護師、主治医は義父に これからの事どうする?と聞いたら全部嫁さんに任せる!と…息子さんじゃないの?と聞き返したら嫁さんと言い切ったそうですとにかく苦しまず楽に眠るようにと最初から お願いしていたので最期は深く深呼吸して眠るように最期を迎えました苦しまずに逝けたのが一番の救いかな?と思ってます
お嫁さんに任せる、というのは信頼の証ですね。任せて安心だったのではないでしょうか。
主治医が義父にどこで こんな嫁さん拾ってきたの?お爺さんの事 一番理解してるのやっぱり息子じゃなく嫁さんだね〜!と言ったら嬉しそうな顔をしてたそうです緩和ケア病棟に入って一番いい顔をしてたと…私さえ病気じゃなかったら最期まで自分で面倒を見るつもりでしたが でも理解のある素敵な人達に囲まれて最期、会話は出来ませんでしたが ちゃんと私が来るまで待っててくれましたそれが義父から私への御褒美だったのかな?と…安心しきった顔でした
まさおさんのお話素敵です
わかりやすいご説明ありがとうございます。人は産まれよく眠る。死ぬ前もよく眠るようになる。痩せる。無理には、延命治療しないで、自然に生に死に、寄り添うのがいいですね🎵☺️
深夜、動画の後半、考えさせられます😞。親が80才越えて、死ぬ時が近づいてても、50代の息子さんは心のどこかで、まだまだ生きてくれるのではと、思っていたんじゃないですか😢。たとえ親が90才であろうが100才であろうが、死んでほしくない、長生きしてほしいと思うものなのでは😞。親思いの子供の場合はね😊。出世より親の介護の方が大切😊。そんな人たち少ないでしょうけど😢。若い私ですが、二人に感情移入して泣きました😭。
子からすれば親は元気で長生きであるのが普通としばしば感じていることもありますものね。
母が緩和ケアにお世話になる数か月前、「人生って早かったなあ、その時は苦労だとばかり思っていたがこんなに早いとは思わなかった」とお茶すすりながらつぶやきました。95歳まで生きたいと願ってましたが末期癌で90歳でなくなりました。義父は交通事故で亡くなりましたが、亡くなる3ケ月前に、ポツリと「この花見は最後かもしれない」と花見の仲間に話したそうです。その情景を聞いた時から家族知人から「最後の言葉」らしき物を聞いたならばそれを否定しています。これが最後⇒次回もさそうから、来年も、とか。言葉は不思議とおもいました。登録させていただきました。
考えさせられるエピソード、ありがとうございました。90代でも早かったと仰る方は少なくなく、人生はあっという間のものだとそこからも感じます。
先生の患者さんへの思い、患者さんと患者さんの御家族との思いが、ひしひしと伝わり、考えさせられるお話ですね!😰生きている全ての人達が、体験する「死」の扉。考えると、複雑な思いで胸が一杯になりました。先生、体験談を含め色々為になるお話、有難う御座いました!😊✋✨
お言葉ありがとうございます。誰もが通る道ですが、願わくば悔いが逝く側・見送る側いずれにも少ないことを心から次第です。
もう6年ほど前のことです。主人の母(82歳)は乳がんが骨転移し、医療用麻薬のオキノーム、オキシコンチンを使用して痛みを軽減しながら自宅で介護をしていました。ある日具合が悪くなり救急車で運ばれ入院、退院後はがん終末期や神経難病の方々のためのホスピス住宅へ入居しました。3ヶ月後、看護師さん介護士さんを交えた場で、先生から「あと1ヶ月持つかどうか、ご本人次第です」との説明がありました。固形物が食べられなくなったと聞き、私が作ったかぼちゃのポタージュをびんに入れ、義母のもとへ持っていきました。もうしゃべることはできなくなっていましたが、「お母さん、かぼちゃのスープ飲みますか?」と聞くと、うん、とうなずいたのでからだを起こしてあげました。ふくよかだったからだは骨ばって小さくなっていました。ポタージュをびんから小皿に取り小さなスプーンで少しずつ義母の口もとに運びました。おいしそうな表情で味わってくれました。3~4口味わったので、「もういい?」と聞くと、口を開けてもっとほしい、という意思表示をしたので満足するまで口に運びました。同時にじゃがいものポタージュもびんに入れて介護士さんに託しました。その後は傾眠傾向が続き、せん妄はなかったように思います。延命措置は取らない、との本人の希望でした。先生の説明から2週間後、本当に眠るように息を引き取りました。後日、荷物の整理に行った時にポタージュを託した介護士さんから、「あの翌日はじゃがいものポタージュも楽しんでいらっしゃいましたよ」と言われ、なんとも言えない気持ちになりました。大津先生のお話、心に響きました。ありがとうございます。長文失礼しました。
詳細にありがとうございます。ポタージュ、きっと良かったのでしょうね。
@@kanwa さま先生ありがとうございます。その時の義母に私がしてあげられることはこれくらいのことしかありませんでした。その2年前に他界した義父の最晩年も私のかぼちゃのポタージュをたくさん口にしてくれました。
ポタージュすごいですね。食べられる楽しみが最後まであることは良いことですね。
半分の話、昨年看取った高齢の父の事を思い出しました。私は父が痛いおもいをしない選択をしてきました。少しでも長く生きてほしいけど、それによって父が苦しむのは可哀想に思い。。生きるのも大変だけど、死もまた大変な作業だとも感じました。最期を看取った2週間はかけがえのない日々で私の人生の支えになってます。
たくさん悩んで考えられたことが文から伝わってきました。真剣に悩むこともまた、それからを生きる人達に力を与えてくれるものだと、この死にまつわる事柄においては感じますね。
私は10代後半ぐらいから1人になると死についてよく考えるようになりました。カレンダーをみながら後これを何十回めくれば私は…とか悪いことを考えてしまいます。死が怖いです。病院勤務でしたが死にゆく人の姿を見る度にいつかは私もと自分自身に重ねてしまって辛かったです。小学生の頃に母を亡くしました。滅多にスナック菓子など食べない母が急に食べるようになっていました
さらに付け加えたい。新聞やテレビ、特に天気予報を見るかどうか。これらを気にする、見るということは、からだが外向きに動いていること。つまり生きるために外界の情報を取り入れて動いている。からだが外向きに動いているということ。新聞、テレビ、特に天気予報を見ているよ、という人は、死期が近くはない。ときに天気予報を見なくなった、天気を気にしなくなった、新聞を読まなくなった、ネット検索をしなくなった、というのは危険です。
私は義父を突然死、実父を老衰で亡くしました。義父は仕事しか考えられない人で、リタイア後生きる意欲が無くなったように寝てばかりの日々でした。特に持病は無かったのですが、ある日入浴中に亡くなりました。実父は仕事も趣味も一生懸命でした。特に持病は無く96歳で眠るように亡くなりました。自分の死に方は選べませんが、死に方は生き方と同じと思います。その時が来るまで「よく生きました」と言えるように努力したいです。
仕事が終わると途端に生きる力を失ってしまう方もおられますものね。難しいものです。 お父様、素晴らしいですね。容易ではないですが、そうありたいものです。
父は自然に任せるように亡くしました。看取り介護の状態で1週間生き、私は亡くなる前日ガラス越しに面会、お別れが言えました。理想的なお手本のような亡くなり方、「アッパレ❗」と言う
(続き)目標を示してくれました。
今回の動画も、先日の死の直前の態様の動画もとても参考になりました。私の自宅に住込みで家事をしてくれている「メイドさん」のお父さんが3月初め頃から体調が悪くなり、先生の仰っているような様子になりました。私はメイドさんにしてあげられるのは、「お父さんに寄り添っていなさい・家族が出来るだけ顔を見せたり話し掛けたりしてあげなさい」とのアドバイスだけでした。お父さんの状態を聞くとメイドさんには、「残念だけどお父さんは元気になるのは望み薄だよ、主治医にも確認しなさい」と伝え、主治医からの結果は死期が近いし復活は難しいとの回答であった様です。それから2ヶ月後にお父さんは死去されましたが、私のメイドさんや多くの家族に看取られての最後でした「メイドさんは有給のままで約2ヶ月休職状態」。やはり、自分や家族の健康状態・死期が近い等を自覚するためには、先生の発信されているような情報は貴重だと感じました。
詳細にありがとうございます。それは良いことでした。的確なご助言だったのではないかと拝察します。予期せぬ死で、一緒の時間が持てないことが後悔につながりますものね。
みんな向き合うのが怖い死ですが、先生のお話は誰もが聞いておいたほうがいいお話です。大切なお話を共有していただいてありがとうございました。
肺炎で食べさせていけないと、看護師に言われたけど、最後に本人が、食べたいと、言ったみかんの缶詰、最後くらい食べさせてあげたかったその後何も食べれなくなって死んでしまった、内緒で食べさせれば良かった、後悔してしまいます
終末期に大変悩む事柄の一つですね。難しいですね。
うちの主人は癌で亡くなりましたが、なくなる前の兆候はあまり当てはまりませんでした。全然寝なくて睡眠薬も効かなかったです。いつも部屋中ウロウロしてました。腹水が溜まり食欲はなくなりましたが、亡くなる一日前にはミニのカップラーメンをお出しまで飲んで完食していました。痛み止めの医療用麻薬も服用してましたがそのせいで、せん妄が出たのだと思っていました。人はなぜ生きてるんやろ?とか46年生きてきた意味って何?とか言ってました。亡くなる前は寝たきりになるものだと思っていましたが主人は最後意識が無くなる前まで自分の足で歩きトイレで意識が無くなりましたどうして良いかわからず病院に救急車で行った次の日に私が居るときに息を引き取りました。腹水で吐いてた事とせん妄状態で訳の分からない事をずっとしゃべってました。人が亡くなるパターンは色々あると思いますが、うちの主人のような人もいる!と言うのも参考にしていただけたらと思いました。
詳細にありがとうございます。せん妄が強かったのですね。直前期は他の動画でも以前解説しましたが、やはりせん妄が目立つ場合もありますよね。th-cam.com/video/lnKiQ3xGICM/w-d-xo.html
先生ありがとうございます。一日だけでしたが自宅に帰り一緒にお風呂に入り夫婦二人過ごす事が出来ました。自分の親の事もあるので先生の動画は勉強になります。これからも大変だと思いますが頑張って下さい。
大津先生の所に母を連れていきたいと思いました。高次機能障害や認知症でもこういった最期となるのでしょうか?叫びまくり苦しみまくるのでしょうか?
もっと先生と早く出会ってたら、10月亡くなった母に手を差し伸べられることが沢山あった筈だと後悔ばかりです。
年寄の人が胃ろうで食事しなければならなくなっても 長生きできますか?病院で胃ろうの人達よく会いました。
ケースバイケースですね。食事が何らかの理由で食べられない場合は、比較的回復しますが、全身状態が悪くて食事が進まない場合は、そうとも言えません。医師の判断が大切になります。
誰もが通る道ですよね・・・😢大切な人が苦しむ姿を見るのは、辛いです。そして、自分が苦しむのもイヤです。前もって、オープンに話し合って、一番良い選択が、出来たら良いな! と、思います✨確率的に、半分以上か、半分以下かのエピソードには、とても共感させられました😊人生の選択では、色んな場面で難しい答えを選ばなければいけないですね💦今日も、有難うございます😊
本当に誰も通る道、ですよね。
「半分だけ」という程度が、人として実に控えめで分相応で、正直で、せつないと思いますね。まさおさんのお父上はすごい方でしたね。
独り暮らしだった父が歩いて病院まで行くのが辛いと連絡があり大きな病院で検査をしたら肺線癌ステージ4骨転移+結核になっていることが分かり入院し3か月後の6月に亡くなりました。コロナの中、誰にも会えず面会も週に一度私だけ…。刺激がないから段々とせん妄が強くなり1日に何十回も電話が鳴る日もありました。面会に行く度に痩せて行く父を見て気丈に振る舞うのが辛かったです。亡くなる数日前の面会時に父がお袋と親父の様子を見に行ってくれないか?と言われ、すでに亡くなっているのになぁと思いながらも見に行って来るねと会話をしたのが最後でした。人に頼る事が嫌いな父が最後に私に頼ってくれて短かったですが今まで以上の親子のコミュニケーションが取れた気がします。
お看取り、お疲れ様でした。お二人の情景が目に浮かびました。
見当識障害まである 親がコロナ入院中で 更に寝た切りなってしまうか心配してます。救急逼迫してるのに 緩和策や経済重視のメディアや政治に怒りを覚えます。
結局は経済等にも跳ね返ってきてしまうのに、ですよね。
人間も本当に動物ですね。父の時はホスピスに入院した日の夜中々眠れなく、明け方に看護師さんに眠れないと訴えて軽い睡眠薬を頂きそれを飲んで寝ました。で、そのまま旅立ちました。生前しぬのが怖いと話してたので寝ながら旅立ったのは父にとっては1番だったと思います。私がコロナでマジヤバいかもとおもった時もハイカロリーな物を食べながら寝てました。口の中に物が入ってたのにと。
寝ながら、というのは一つの理想なのかもしれませんね。 睡眠と食事は大切ですね。
私の母はガンで、最後の方に鎮静剤を使い、それから意識が戻らず、寝てるように数日過ごし、そのまま亡くなりました。あなたのように、睡眠薬を使って寝たまま亡くなったから幸せだったっていつか思えるようになりたいです。今は、あの時なぜ鎮静剤を使うのを止めてあげられなかったのか、自分を責めてしまいます。
とても分かりやすい説明だと思いました。元気な時に意思表示をされても、症状が進むにつれて意志は揺らぎます。また、ご家族は最期の兆候が見られたとしても、受け入れてくれません。食事も水分もほとんど摂れず、血管が細くて点滴もできない。「長くないな」と看取りに携わる方としては思うのですが「親父は、前みたいに良くなると思います」と言われると言葉が出てきませんでした。亡くなった後司法解剖にまわされたり警察の事情聴取に合わないよう家にくる人みんなに救急車ではなく訪問看護から訪問のお医者さんへ連絡するように伝えても激昂されるご家族もいて、伝える事は難しいデリケートな問題だと思います。
現場にいるものは「人の気持ちは変わるもの。それが当然であること」それを痛感しますよね。お疲れ様です。このような場において「伝える」ということは本当にデリケートな問題です。
私は3人医師の息子があります、。私 自身83才ですので、もしも最忌が迫った時は、必ずこの身を息子達に委ねようと思っています
この夏帰省しましたが, その折両親がどれだけ老けるのかを会ふ前にある程度想像してたのですがいい意味で予想が外れたもんですので, 二人のエンディングについて話を切り出すこともなく東京に戻ってきました. 遠くにゐると予兆なぞ目にすることもできないので二人が息災であることをただ祈るばかりです. この状況下ではありますが, 両親の顔を見ることができて本当によかったと心から思ひます.
良かったです。息災を願うことも、子にとってはできる大切なことではありますが、実際に顔を合わせることは何よりのものと存じます。
この手の話題を視聴すると先生がなぜ緩和ケアを選んだかが何となくわかる気がしますね。ギアが一段上がります。
お言葉ありがとうございます。クラッチを踏んで、また上のギアが入りました😁
大病をした80過ぎの母が実家で療養中ですが、大変参考になりました。ありがとうございます。
お母様、大病をされたのですね。やはり80代以降になると、なかなか様々な病気等を患われる機会も増えますものね。
先生いつもありがとうございます。私には80代の父がいて、会う度に食が細くなり、痩せてきてもいるため、そろそろ考えなければならない時期だと考えています。ところがこの夏はリハビリの効果なのか、食べる量がかなり増えており、歩くのは辛くても日々の筋トレは頑張っていて、何とかもうひと頑張り出来るかもしれないと期待もさせてくれます。なかなか難しい判断になりますが、残り時間が何十年もあるわけではないので、これからどんな言葉を交わせば良いのか、考えつつ親子の交流を楽しめれば良いなと思います。
それは良かったですね! ともにできる時間が多いことを願っております。
50%の可能性があるかどうかで覚悟を決め、任せるという肝の据わったお父様の生き様、まさおさんとの強い信頼関係、心に響きました。生ききるとはこういうことなのかなと思います。
信頼関係が、良い決断と最期の秘訣だったように感じました。
まさおさんの話は泣けた😢
私にとっても印象的な事例でした。
肺がん治療中でタグリッソ1年経ちました。突然具合が悪くなるのですね。今は、ピンピンしていますが最近とても眠くなります。体力がどんどん落ちて行っている気がします。
88歳になる父 気丈で心配性 高血圧でペースメーカーも入っています。痛風の気もあり、やせ型です。先日前立腺がんがみつかり、今後の治療法を模索しているところです。血圧が80前後になることが多くなり、食欲がなくなることもしばしば、波があるんですね考えちゃいけないでしょうけれど、死期がせまってきているのではないかと誰にも言えず一人考えています。体重も減少する一方です。今は食事も好きなものを用意し、食べろ食べろと言わないようにしています。本人は、大丈夫だの一点張りです。最後まできっと意地を張って生きたいのだと思い、その気持ちに沿いたいと思います。この動画は、とても参考になりました。何年も前には親の死なんぞ受け入れられないと思っていましたが、今は、誰もが経験する死を受け止めることができるのかもしれないというところまでに気持ちをもっていくことができたような気がします。ありがとうございます。しっかりと受け止めたいと思います。
シェイクスピアの「リア王」、亡くなる前のお年寄りの前兆、上手く描いてる感じがします。シェイクスピアは、亡くなる人たちをかなり見て、観察してたのかも😨!
大作家の観察力は尋常ではないですからね。
私も同じです。亡くなってからこんなに好きだったんだって思いました。それまでは喧嘩してたので好きだなんて気づいていませんでした。毎日考えてます。亡くなった時も2週間前からずっと一緒にいられたのに毎日後悔してますなく😢昨年11月に亡くなり7ヶ月目ですどうすると良いでしょう…
この予兆を知る事は大切…父は末期の肺癌と言われて、2ヶ月で亡くなりました。自宅で前日まで普通に暮らしていていたので予兆が全くなかったので、後悔だけしか残ってません。
お父様そうだったのですね。なかなか難しいものですよね。予兆がないことも、それはそれでつらい場合がありますものね。
こんにちは 突然の質問ですいません 88歳の認知症の母ですが、特養の待機中でロングステイを利用していました。 入所して3ヶ月目にベットから落ちて入院しました脳内に出血していましたけどどうにか退院出来るようになり、次の施設に移る準備が出来た矢先施設でのコロナのクラスター 20日後に受入ができるまでになって病院との連絡を取ったところ、今度は病院でクラスター 挙句の果て母本人もコロナに! 面会も出来ず 食欲が1割2割と後点滴をしているようです ようやく明日施設に入所しますが、 この場合死期は近付いているのでしょうか?
施設に出入りしている医師によく尋ねてみるのが大切ですね。実際に診療する医師の見立てが極めて重要です。
(老衰)「緩やかに逝く....。」末っ子にて、3年続けて姉、兄を見送りました。姉も、兄も「死に顔」の(きれいだったことを....。) 私は「延命治療」はしません❗(今)おまけの人生を生かされております。「穏やかに生きる」って難しいことです。(楽しみ探しの日々でございます。)参考になりました....👏
3年続けて、とは大変だったことと拝察します。穏やかに生きる、しばしば困難ですが、大切なことですよね。
先生!今晩は何時も動画、拝見してます、内の旦那様も去年、肺の手術をして左肺下半分取りました、滑膜肉腫と言う希少癌でした、9センチの血の固まりでした、掛かり付けの先生は病名も分からず大学病院に出して初めて病名が分かりました、抗がん剤もしてたのですが、今年4月に取り切れて無い腫瘍がふえて大きく成ってた所から出血して家で血をはいて救急車で大学病院に一ヶ月入院、もう駄目と言われてましたが輸血して血が止まり緩和病棟に一ヶ月、毎日食べ物を届けてました、病院食が食べられず、歩けなく成りリハビリして歩ける様に成り、家に帰りたいと3ヶ月、在宅医療で介護してました、家に帰った当時は食欲もあり何、食べたいからと言ってたのですが亡くなる一週間位に俺はもう駄目だ、疲れたと言いました、亡くなる一週間前から寝てばかりで私がベットの足元に座って朝方まで見守ってました、わたしの顔を見て笑うんですね!又、安心して寝てましたその頃は声も出なく話しも出来なくなってましたが最初の頃は夢を見てるのか、つじつ まがあ わない様なこと言い出しましたが、せん妄と言うそうです、亡くなる前の日は喉がゴロゴロして苦しいのかベットのサクに捕まり横に成ってました、背中を擦ってやると又、仰向けに成ったり一晩中、亡くなる日はゴロゴロが消えて息づかいがたまに止まる様なそれから最後の息使いですと電話をしたら看護師さんに最後の息と言われハハハハと忙しくなり首が腫れて耳の脇の血管が腫れて硬くなり、紫のシミみたいなのが出て手は腫れてパンパンで爪が紫になり亡くなった時は静かな今にも止まりそうな息に変わりましたが、綺麗に元に戻って綺麗な顔でした、先生、看護師が少したってから来ましたが、先月三十日、私が看取りました私、一人で診てました、看どる時も私一人でした、先生が言う通りでした、最後の一ヶ月と言うものご飯も食べられなく水も飲めなく飲み込みが出来なくなり薬オキノーム腫瘍の薬も飲めなくなり、モルヒネの痛み止めの点滴だけでした本当に可哀想でした、最後まで診てやれて旦那様も感謝してたと思います、
コメントありがとうございます! 肺の手術の後、どうなされましたか?
詳細にありがとうございます。しっかりお看取りをされたことが伝わって来ました。
ありがとうございます。マサオさんとお父さんの話が大変心に刺さりました。
ありがとうございます。
私は1年半前にガンの手術後せん妄みたいになり5日で家に帰りましたが、体重は30kgも落ちていました。筋肉と体力を付ける為に日光浴をしながら毎日歩き筋トレもして、栄養の為に卵を毎日3個も食べていました。その後食欲も出て体重も増えてきました。あの時抗がん剤もせずに自宅に帰されたのは死期が近かったからですかね。
確かに!そうですね。勉強になります。私の人生も、あと 少しですね。 あと 10年も、有れば 良いけれど? 絶対無いのは、20年ですね!私は、10代からやり直したいのに😢
10代からもう一度! それはすごいですね。
@@kanwa 様へ。返信 有り難うございます。私は、睡眠時間が短くなりました。夜は、1時や2時 に、寝ます!朝は、6時過ぎ 7時前に、起きます。昼間は、仕事で、 たまには、趣味の畑の仕事してます。それでも、肥満気味です。
緩和ケアの動画拝見さしてもらって 母の最後姿観とれました😃本当にありがとうございます😃最後の母の苦しむ姿モルヒネ増量で緩和できました😃本当にありがとう😃
そうでしたか! そのような時間が持てたこと、良かったと存じます。ご報告ありがとうございました。
@@kanwa ありがとうございます😃2年近く前になるのですが 先生の亡くなる前の1週間の動画見て 看護婦さんにモルヒネ増やしてと😃死ぬ間際の 看とりの安心感 死に行く人の安堵の顔に 動画に知り合えて良かったです😃ありがとうございます😃
大変、為になるお話をありがとうございます🙏私も父と母を看取り、家族の正解のない決断に苦悩した経験があります。元気なうちに、近親者に、自分の生きる基準を伝える重要性を実感しています。しかし、死生観を話す場が少なく、自分の意志決定も曖昧で未熟だと感じています。
ありがとうございます。「正解のない決断」そのお言葉に集約されていますよね。いつか誰もが迎える問題ですが、必ずしもよく話し合えているとは限らず、未来への課題の一つと感じています。当たり前のように話せる場がますます増えることを願います。
@@kanwa 丁寧にコメント頂き、ありがとうございます。現在、私は卵巣癌が進行し、自分の命と向き合う時が近づいていると感じているのですが、がんカフェでは死生観の話は難しく、人生会議はリアル過ぎます。その中間を埋めるガン患者のためのデスカフェがあるとよいと思っています。治療の終わりがくる前に、緩やかに自然に、生きることと死ぬことを語り、無理なく自分の基準や覚悟を見いだせたら...と想像します。未来への課題ですね。
そうなのですね。こ存じかも知れませんが、そのような機能の一つを担っているのが私が行っているような緩和ケア外来です。おかかりの病院等で存在するようならば、相談してみても良いとは存じます。
大変 いいお話をありがとうございました
亡くなる半年位前の母の言葉。電話越しにどうしようと言う感じで「とうとうお母さん歩けなくなっちゃった」だった。本人もこれはいつもと違う変化だと感じていたと思う。
ありがとうございます。印象的な言葉ですね。当惑されているご様子が感じ取られます。
これほど緩和ケアに熟知していると自分がその立場になるとその後どうなるか、どういう経過で死ぬか分かっているので恐怖におびえるんじゃないですか?
病院に運ばれ、余命1ヶ月と言われた100のばあちゃんは家に独りは危ないので、そのまま、病院で3ヶ月毎に更新しながら、今は病院に居るが、元気に101歳を迎えておりまし、よく喋ります。ぬので、医者の言う余命も当てにならんな……と、感じましたw
病院にいるからこそ101になられたと思います😊😊😊👍
今は未だ周りに心配は有りませんが、このタイミングでじっくりお話が聞けて良かったと思います。以前腫瘍検査が必要になった時、身の回りの整理や、周りの人へ伝えておくべきことが沢山あるのだなと感じましたが、改めて、健康なうちに事前の話し合いが大切なのだと分かりました。
あ… 自分の状態… まずいかも。ほぼ寝たきり、長く歩けない、過睡眠、時間の感覚が狂う。このままだと良くないですねこれは。うん。ありがとうございます!
自分は間質性肺炎と診断されてから禁煙して逆に体重が一気に増えました。血糖値が上がって逆に減量してるところなんですが、体重が落ちません。こういう場合に体重が減ったらやばいんでしょうか?あと自分の母親は在宅酸素で、父親が亡くなってから2年で一気に痩せました💧
大変参考になります。実は 母が大腸癌で余命1カ月、2カ月と医師から宣告されました。ですが本人は状況を理解できません(2年前に脳卒中を機に失語症、認知症を併発の為)私は海外に単身で居る為、3日後 最期を看取る為、帰国します。既に幾つか容態が当てはまっていると推察する為、もう一カ月もないと感じました。
実家の父が亡くなるひと月ほど前が、まさにこの症状でした。特に病気を患っていたわけではないのですが、90歳近い事もあり、素人目にももう、長くはないのではないかと思い、コロナ禍ではありましたが、何度も父に会いに行きました。最期は、夕飯を喉に詰まらせ、その場で急に亡くなったのですが、確実に死期は迫っていたのだと、改めて思います。
お父様、そうだったのですね。老衰の場合でも何らか変化を認める場合は少なくないですね。
はじめまして。エバシェルド筋注セットについての動画をお願い出来たらとても嬉しいです。
エバシェルド。話題ですね。
最近マジで眠くて起きてられないけど、おかんが必死に起こそうとしてくる。申し訳ない気持ち。
父母共に急死に近い死だったので、所謂「看取る」事が出来ませんでした。身内の「看取る事」ができた方の話では、母親の姉 叔母が家人の方に勘違いして自分の母親を呼んだり、父親兄 叔父が、また家人の方に「もう春だから、(自分、父親)の名前呼んで、田植えの準備せんとあかん」とか考えたら、もっと深い意味がありますね。言えない🙊けどね。
田植えの準備。印象的な言葉ですね。
@@kanwa 正真正銘の百姓なので、田んぼ管理とか山の管理🎶待ちぼうけ!待ちぼうけ!🎶も目撃したそうです。
待ちぼうけ?ですか?
@@kanwa 関心がおわりなら、|:))⊂(・◇・*)ググッ…まぁ有り得ない事での(童謡歌)ですね💕
お父さんのおっしゃる事、遺された者にとっては心が軽くなりますね。先生はご自分で選べるならどんな亡くなり方が良いですか?
最期は己の希望通りになかなかならないこと前提で、やはり天寿を迎えた後の就寝中の死が、一番当人にとってはつらくないのかとは存じますね。
そのお父さん、利口な人だね。それに、しっかりと子供思いだったね!子供が痕から悩んだり後悔しない様に、そうした内容を伝えたんだものね。
死期がそろそろという方のフェントステープは最後の日迄貼るものですか?
意識レベルが低下した場合は、中止も検討します。ケースバイケースで高度な医学的な判断が必要ですね。
2のケース😓春頃室内歩行で壁に伝い歩き.6月越せるかな❓年初は、食事を汗かき肩で息して😓でも食べなくてはと、林檎酢 亜麻仁油 梅干し 海苔をかけて食べていたら、美味しいと思って食べています。階段は、手すりにすがりながら👀でしたが、軽い買い物袋持って上がれます👀何でや〜アブレーション後不正脈は無し🥺延命治療は、しないと病院にお願いしています。11年間年に3〜4回入退院繰り返してますので76😓アップルウォッチ⌚️の心電図救急要請の、目安にしてます‼️これは、訪問看護師さんもこれでギリギリ助かってると言っておられます👍
5年前に母を白血病で亡くしました。急死でした。69歳、362日。70歳に3日たりませんでした。血が止まらない、から2週間で亡くなりました。病院にいこうとせず、手遅れで亡くなりました。一方で父は、大動脈解離から九死に一生を得ました。30分遅れたら死んでいた、といわれました。
本当に紙一重ですよね。白血病は厳しい病気ですね。ご両親のお話、ありがとうございます。
昨日夜中の1時頃32年話しも会う事もしてない昔付き合ってた人に電話しようと胸さわぎがした 夜中なので突然迷惑だと電話はしなかった 朝まで電話しなあかんと頭から離れなかった 朝6時頃その人の家に行こうと思った しかしこんなに早く迷惑だろうと思い行かず店が開けてる時に行ってお肉を買って32年ぶりにしゃべろうと10時頃行くと なんと弟さんが兄は今朝6時15分頃家で倒れていて救急車で運ばれたけど死にましたとおっしゃり エ~😣って言葉を失いました なので今日5時にお通夜に行き 32年ぶりに顔を見てあのとき夜中に電話してたら話し出来また変わっていたかもしれないと後の祭りです 安らかにゆっくりさせてあげるしかないと後悔の念です あの行かなあかん電話したいと夜中にずっと胸騒ぎがしたのを虫の知らせと言うのでしょうか?今日は私の62歳の誕生日 16歳から10年付き合ってた友達の明日はお葬式 寂しいけどギリギリ顔が見れて良かった 何も出来なかってごめんね!と謝りたかった もう遅いけどただ最後に逢えて良かった 友達は永遠に私が亡くなるまで私の心に住み続けるでしょう🌷
すごいお話しですね。世の中には摩訶不思議なことは様々にありますが、生き死にの現場ではそれを見ることは頻々とあり、偶然ではない何かを感じたりするものですね。
死相(髑髏 頬骨が出て目が窪む)行動変化(躓き。衝突が目立つ)性格転換(優しい→厳しくなど)死臭(線香臭がしたら1週間以内で臨終)
最後の親子の話から、子育ては自分の最期まで責任を持つ所までなんだと思いました多くの人は、子供が成人したら、自立したら親としての役目を終えたと思いがちですね
仰る通りだと思いますね。
ウチの母は1月1日から数えて100日に亡くなりました。本人も知ってたみたいです。
数々の、ご家族あるいは大切な方の死にまつわるコメントありがとうございます。皆さんの思い出深いご経験などあれば、ぜひお寄せいただければと存じます。よろしくお願い申し上げます。
最近、みとりに興味あります。
凄くいい動画でした。
登録チャンネルしました。感謝m(_ _)m
丁度今、母に五つの兆候が現れています。
特に食事をとってもらえないことが、私にとって、大きなストレスになっていました。少しでも良くなればと、必死で(時に怒りながら)食事を与えていましたが、この動画を見て、覚悟が決まりました。
穏やかな時間を少しでも長く過ごせるよう、心がけたいと思います。
今年、87歳の母を亡くしました。
脳梗塞で半年近く入院しておりましたが、本当に悩みました。
それでも、亡くなる前には、OKと指を輪にして、安らかな顔で旅立っていった母は立派な人だと尊敬してます。
先生のお話を聞いて、今やっと心の整理がつきました。
ありがとうございました。
コロナのため、まだ施設の親と会えないのです。敬老の日も会えないとのこと。とにかくつらい。家族の前では私は平然としてますが、心はとにかく親のもとに飛んでいきたいです。
お気持ち、拝察します。早く、その日が来ることを願います。
看護師ですが、もうもたないと医師に言われ、師長が好きだった酒を飲ませてやろう。と日本酒を飲ませたところ、回復した患者さんを知っている。
命の酒ですね。
そりゃ〜色々個人差があるでしょうに
医療の関係の貴方がこんなこと言う必要無いのではありませんか?
医師にもその人にもたらされた奇跡は解明出来ないです。
医師から危篤と言われた男性が、最後におにぎりを食べたいと言ったので家族が食べさせたら、それから1年生きた男性がいました。
@@sakasama11これが絶対的に正しいなんて言ってないでしょう。
まさおさんの話、なんでこんなに泣けるのだろう。立派なお父さんだ。先生、ありがとう。
88歳の母が胆嚢癌だと言われ兄弟3人で絶対に癌の告知はしないと決めました。
痛み止めを3回飲んだら普通の生活が出来ました。でも余命1~2ヶ月と言われ
薬も効きにくくなったので緩和病棟に私と入院しました。2020年3月です。
コロナがさわぎ始めた頃で本当に運良く親子で緩和病棟で過しました。
亡くなる2週間前から歩くのが大変になり車椅子で部屋の中のお手洗いなどに
連れていったりしてました。それでもしっかりしゃべったり笑ったり普通の
生活が出来ました。しかし本人はこの頃からもう癌で命が短い事に感づいて
いたようで「後10年生きたいわ」とか、「友達皆さんによろしく言っておいて」
と言うようになりました。それでも私達兄弟は癌であることは言いませんでした。
何故なら、死ぬから子供が優しくしてくれているなんて思われたくなかったのと
死と言われると怖くて沈むんじゃないかと思ったからです。1週間前には食欲も
落ちてきたので好きな物を食べさせました。2日前には私に「楽しかったなあ」と
言ってもう少し話しようよと言われたのですが私も疲れていて眠ってしまいました。
前日、とても食欲がありいつもより食べたのです。そして飲み物がほしいと言いました。
その夜「苦しい」と言ったので看護婦さんを呼び痛み止めの薬を飲ませました。
母は私に「世話になったなあ・・」としっかりと手を握りしめました。
弟を病室に呼び、弟が来た事はわかったので帰ってモラらったのですが、その後
夜中、私が背中を拭いてあげたら「○○ちゃん、ありがとうな」と手を
しっかり握りしめました。そして何か言おうとしましたが、
もう何を言いたいのかが舌がまわらなかったので母を横にしたら寝てしまいました。
その前に目が瞬きをせず固まっていたのです。寝かせても目は閉じず、私がまぶたを
1/3まで降ろしました。せん妄とかぜいぜいとかまったく無縁でスヤスヤ寝ていたので
私はてっきり眠っているものだと思ったら朝方、看護婦さんがきて危ないので「家族を
呼んで下さい」と言われ弟を呼んで二人が両手を握って声かけをしました。
寝ていて意識はないみたいなのに数時間も手は私の手をしっかり握ってきるのです。
まるで言葉は出ないけど子供が手を握っていてくれてるのがわかっているかのようでした。
意識が無くなってスヤスヤ寝てから7時間、母を呼びかけると7時間目に両目がしっかり
開き、はじめは私と弟を探した感じでしたが、その後、私を見て弟を見て1秒後に
舌が出て息をひきとりました。私は88歳でも本当に元気で明るい母が亡くなったなんて
3年たっても信じられず未だに毎日毎日母の事を考えて苦しくなってしまいます。
もっと優しくしてあげればよかったとか、もっと何か出来ることがあったのじゃないかとか後悔の念に絶えません。母の余命を聞いてもこんな元気な母が死ぬなんてと思い
考えたくなくてそのことを考えないようにしていたので、未だに自分を責めています。
死んでみて本当に母が大好きだったんだ。もう遅いのにそんなことばかり考えています。
幸いなのは苦しいと言ったのは2回位ですぐにそれも普通に戻ったので苦しまず亡くなった
んじゃないかなあとそれだけはよかったと思っています。母との最後3ヶ月間を
一緒に過ごせただけが最後の親孝行だと思ってます。長々とすみません。
先日、母が104歳で亡くなりました。1年前に体重が減り、2週間入院しました。
医者からは、要するに老衰で死期が近づいていると言われました。
その後体重は回復したけれど、普通の食事は摂らなくなりました。
エンシュアリキッドと言う栄養ドリンクとプリンで栄養補給しました。
デイサービスでも食べ易い食品に変えてくれました。
亡くなる1カ月半前から飲食しなくなりました。
水分を取ろうとしない。それで、点滴しました。
デイサービスで、何とか食べさせてくれました。
大小便が出ているので、水分と栄養は摂れていると思いました。
亡くなる2週間前からは、デイサービスにも行けない状態になりました。
それからは点滴だけで2週間の命でした。
血圧計も反応しない位、血圧も下がりました。
指先に付ける酸素濃度計も測定不可になりました。
唾液が出ないのか口の中が乾燥するので、何度も口の中を清掃しました。
小水が出なくなったら死ぬと言われました。
亡くなる数日前から小水が出なくて、大便だけが出てくるようになりました。
亡くなる直前には、口から汚い物が出て来ました。
痰の吸い取り器で取りました。
酸素吸入もしました。
口から汚い物が出て来て6時間後ぐらいに息を引き取りました。
亡くなってからオムツを見ると、大便は無く最後の小水が出ていました。
筋力の衰えは無かった。デイサービスの車に歩いて乗れた。普段から筋力が衰えないように、少しでも歩くように工夫していました。
デイサービスに行っているときは、寝たいときに寝て、起きたいときに起きている。
24時間の時計に従わない睡眠でした。
今日は私は「大腸癌」を患い短期間の入院しました、此のままでは
寝たきりの生活になり退院を要望して退院した、その後は自宅療養中
です、其処で死期の時間日時を悟りたいです、一番の問題は家族無し
看取る人なしの環境の私です、葬式の段取は生前の時に決めておきたい
です。今は体調が良いが良い、悪い、のランダムな調子です。
皆さん、こんにちは。以前、直前の変化の話はしましたが、これは少し前の予兆のお話です。ぜひご覧ください。
th-cam.com/video/lnKiQ3xGICM/w-d-xo.html
コメント、いつもありがとうございます。今日もぜひよろしくお願い申し上げます。
先生お疲れ様です🌴🌴💕今日も貴重なご投稿をありがとうございました。昨日は筑西市から敬老金券2000円が届きました95歳で亡くなった義母の事を思い出しています💕私もそんな年にになってしまったんだなぁ!と複雑な気持ちです。残された人生を家族に感謝しつつ、大切に生きたいと思っております🤙🍀😊🌸
先生のお話し中の表情が、心に響いて💕時々涙が出て来るご投稿があります😊🍀✨
季節の変わり目、ご自愛下さいませ、、🍀🙏🍀感謝❤️
いつもありがとうございます。筑西市、そのような施策を行っているのですね! ふと、すでに旅立った方たちのことを思い出すこともありますね。どうかお身体、お気をつけくださいね。
縁起でもないけど、この動画オススメに上がってきてしまった。痩せる母を見ていて、泣けてきた。
親御さんの変化を見ると色々とは考えることはありますものね。
@@kanwa いっぱい親孝行します!ありがとうございます🍀 オススメに感謝です♥
一年前の動画にようやく今辿り着きました。一年前に拝見してたら母の看取りが全く別のものになったかもしれない、とても貴重なお話、先生の誠実なお人柄で、穏やかな気持ちで伺うことができました。母は一年前はまだ普通食が食べられて、食事を楽しむことができていました。足腰が随分弱っていましたが、トイレは自分で行けました。認知症もなく、まだまだ大丈夫と勝手に思っていました。最期の一年徐々に衰えているのを本人が一番自覚し、覚悟していたのだと思える言葉が、今となってはいくつも思い当たるのですが、当時は縁起でもないと聞き流してしまっていました。でも、延命措置は絶対嫌だ、死ぬのは楽しみなんだよ、と直接私に伝えていたことが、その後入退院の度、選択を迫られる度、私の判断のよりどころとなりました。親しい人でも肉親の最期のことで生々しいところは語りませんし、聞く方も当たり障りなくしか聞きませんが、自分の肉親のこととなって初めてもっともっとちゃんと聞いておけばよかったと思います。本当に先生の動画のような、誰もが迎える最期の時の話をみんなが聞いていれば、人生に対する考え方も深まり、むしろ不安が小さくなり、やさしい気持ちになれるのではないかと思いました。旅立つ人への緩和ケアは残るものの心の緩和ケアにもなるのだと思いました。ありがとうございました。
見るのが少し怖かったですけど、避けては通れない事だと思いますので拝見させて頂きました。
ありがとうございます。今後の参考にさせて頂きたいと思います。
苦痛なく過ごせることを大切に
介護やってみます☆先生いつも心温まるお話ありがとうございます🍀
先に死があるのに延命は意味が無いのではそれより、苦しくなく、痛くなく眠るようにが理想です
コメントは複数回ご投稿頂いても結構です。よろしくお願い申し上げます。 やはりご自身の死を予期していたかのような言動があった方も複数おられることが伝わって来ました。
まさおさんのお父様は「難しいことは分からない」と仰ったそうですが、一番難しくて大事なところをしっかり把握されていて感服します。
「知恵」とは身近な人への思いやりなのだと考えさせられました。
とても価値のある動画をいつも有難うございます。
昨日は帰国の準備のため拝見出来ず今日になりました。
両親の看取りを終えた私は、あの時を思い出しながら、まさにその通りだったと頷きながら拝見いたしました。
先生は医師である前に、人として末期の患者さんとそのご家族に寄り添われていることに、いつも胸が熱くなる思いです。
誰もが通る道、その時は先生のようなお心深き医師に巡り合いたいとつくづく思います。
先生に看取られた患者さんとそのご家族は、お幸せですね。
大切なことを発信して下さり、感謝します。
過分なるお言葉ありがとうございます。 ご帰国が迫っているのですね! どうかお気をつけくださいね。
父親が膵臓がんから
肺と肝臓に転移の兆候がみられる時に
緩和ケア医の方にあと半年と余命を宣告されましたが
まさしくその通りでした。
それに驚きもしましたが、
やはり沢山の人を看てきたのだと感じました。
介護休業を取り、父の介護を弟と交互にしながらでしたが
先生の言う通り寝る時間も長くなり
モルヒネも使用して少しずつ少しずつ弱っていきました。
あの背中の大きな父が弱っていく様は悲しみを覚えましたが自然な事なんですね。
せん妄も最初は驚きましたが慣れました。笑
最期に自宅で看取りをましたが今でも良かったのかと考えています。
遺体感染管理士、死化粧師、元訪問看護師として在宅の看取りに述べ1万件に関わり、死後の処置や遺体の冷却管理の仕事をしています。
昨年に舅を末期の心不全で看取りました。
最新の情報が知りたく、看取り看護をしながら終末期ケア専門士の資格も取り、舅が苦しむ事無く穏やかに逝く事が出来ました。
こちらの動画で先生が言われている通りの過程がありましたね。
医療の現場にも変化があり、やはり最新の情報は大切だと改めて思いました。
最後のまさおさんのお父さんは素晴らしい方でした。
判断に困らないように簡単に選択出来るようにしてくれて感動しました。
自分も最後はまさおさんのお父さんの様に逝けたらと思いました。
貴重な情報を提供して頂きまして感謝を申し上げます。
コメント誠にありがとうございます。
いつも為になるお話をありがとうございます。
数年前の話ですが、私の祖父が、ある日から『(ご飯が)んもーねぇ(美味しくない)』と言い始めて痩せてきても畑の世話をしていたそうで、母と姉が夏バテみたいなものかな?と病院に連れて行ったら『食欲がないくらいで来ないでください!』と強く言われたそうですが、血液検査で肝臓の値が高かったため検査をしたら大腸癌の肝転移ということで入院になりました。
母は毎日お見舞いに行っていたそうですが、1日行かなかったらイヤに顎が尖って顔が変わったようになっていて、看護師に病院に泊まりたいと申し出たところ、『こちらで観察してますから大丈夫です』と帰らされたそうです。翌朝、祖父は亡くなりました。
入院してから手術はしましたが、延命処置はしませんでした。
私はICに入っていないので分からないのですが、母は、合わせたい人にみんな連絡してお見舞いに行ってもらったそうです。私もまだ話せるうちにお見舞いに行けたのは良かったのですが、2ヶ月半と早かったです。
祖父が『なんぎい(辛い)』と言ったのは、近所のおばさんに1回だけで、最後まで穏やかだったそうです。
亡くなっていく人は、どの辺からもう長くないな...と感じるのかも考えさせられました。
お話、ありがとうございます。いつから感じ取っているのでしょうね。考えさせられますね、
アメリカの大俳優ゲイリークーパーが亡くなる時、泣きじゃくる家族に言いました。
「すべては神の思し召しだよ。」
私もそう思います😊。ただ亡くなるのではなく、神の慈悲に包まれるのです😊。
神の慈悲、良いですね😊
@@kanwa いいでしょう😊。
😊👍
お疲れ様です。まさに、いま直面しています。動画はとても感慨深いものがあり、ぜひ参考にさせていただきます。
入院していた時に「この一週間で容態が急変するかもしれません」と連絡があったと言う話を父からされたことがあったのですが、入院中確かに、体重減少して、食欲がなくなり、トイレも行けなくなってオムツになった時がありました、何がきっかけで今の状態まで回復できたのか説明は難しいですが、あの時はお医者様から見ても確かにやばい感じだったんだろうなぁと説明を聞いて思いました
良い先生ですね。
一回突然死しかけたことが有りますが、その時は以後しばらく本当に一日中寝てましたねー。最初の頃はせん妄もあって、現実と夢の区別がついておらず、ある意味で幸せな時でした。。人生最大の多幸感の中にいました。後から聞くと、妻や間接的に状況を聞いていた方々は本当に大変だったようですが正直自分一人だけは、人生最大の幸せな気分に浸ってました。。。一つその体験の良かった事は、今後は他の方が亡くなる時も冷静に見ることができそうと思えるようになった事です。
10:13 分かりやすく優しい内容の動画をありがとうございました。まさおさんの事例を聞き涙が出ました。優しい息子さんと優しいドクターですね。私も両親を送り義父母を看取り現在は夫の介護をしています。「人間っていうのはやっぱり生まれて来たところに戻るんだね…」と言ったある男性患者さんのお言葉など本当に穏やかで、先生を信頼なさっていることがよく分かります。
また動画を拝見するのを楽しみにしています。
1.寝ている時間が長くなる
2.見当識障害
3.寝たきりに近くなる
4.食欲がなくなる
5.体重減少
以前働いていた職場で、「病気になると食べたくても食べられなくなるのよ。
無理なダイエットで体壊しても意味がないのよ。健康が1番✨」
と言われて、ダイエットするのを辞めました✨
ありがとうございます。3は「寝たきりに近くなる」ですね。日常生活動作(ADL)の低下であり。昨日亡くなられたイギリスのエリザベス女王にも(寝たきりまでは全く至っておられませんでしたが)認められていましたね。 確かに、弱ると今度は食事を摂ることが大変で、人間はなかなかうまくいかないものですね。
いつもありがとうございます。
私には90になる母が田舎におりますが、コロナ禍なかなか帰ることも出来ず寂しく感じております。今回のお話胸があつくなりました。いくつになっても親には長生きして欲しい。しかし人は死を迎えていく時この世に生を頂いた時にかえって行く。悔いのない親との関わり、自分自身も年齢を重ねる中で同じように置き換え考えさせられました。先生のお仕事の重みと家族の皆様に寄り添い緩和ケァを日々行っていれことに感謝です。
こちらこそいつも、そしてお言葉ありがとうございます。
人は、今の医学でも寿命があるものなので、寿命で老衰で天寿を全うできるのは幸せなことなんですよね。若くても年でも交通事故、災害、病気で亡くなることもあるのですから
生を受けたら必ず迎える死…運命、定め…自分にもいつかは必ずお迎えが来ます。自身の親も90近いのでいつ何時と心してはいますが正直考えると辛くなります。先生のお話は実に為になります。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。何歳になっても親は親、子からすれば大切な存在、それを日常臨床の現場で感じています。
まさおさんのエピソードはとても感銘を受けました。ありがとうございます。
ガンで大きな手術をしてから、死への恐怖が減りました。転移、再発は、今のところ見られませんが、いずれ最後は眠りながら逝ければ、最高の幸せですね。自然の摂理が導いてくれることを期待します。
生死の瀬戸際を経験なさると、心の持ちようも変わるのでしょうね。良い方向にむかうことを願っております。
数年前に義父、義母に延命措置をするかどうするか?と聞いた事があります
実は私の父が寝たきりで延命措置で苦しんでた姿を見てたので私と義父、義母の3人の時に思い切って聞いてみました
私は父の話をしてから どうする?と聞いたら自然任せ 延命なんてやらなくていいと…
義父はガンが見つかり手術をしましたが数ヶ月後 悪性だった為、転移
主治医に緩和ケアで最期まで苦しまずにと言ってくれたので義父に今より楽になろうね!と話して緩和ケア病棟に入れてもらいました
看護師、主治医は義父に これからの事どうする?と聞いたら全部嫁さんに任せる!と…
息子さんじゃないの?と聞き返したら嫁さんと言い切ったそうです
とにかく苦しまず楽に眠るようにと最初から お願いしていたので最期は深く深呼吸して眠るように最期を迎えました
苦しまずに逝けたのが一番の救いかな?と思ってます
お嫁さんに任せる、というのは信頼の証ですね。任せて安心だったのではないでしょうか。
主治医が義父に
どこで こんな嫁さん拾ってきたの?
お爺さんの事 一番理解してるのやっぱり息子じゃなく嫁さんだね〜!と
言ったら嬉しそうな顔をしてたそうです
緩和ケア病棟に入って一番いい顔をしてたと…
私さえ病気じゃなかったら最期まで自分で面倒を見るつもりでしたが でも理解のある素敵な人達に囲まれて
最期、会話は出来ませんでしたが ちゃんと私が来るまで待っててくれました
それが義父から私への御褒美だったのかな?と…
安心しきった顔でした
まさおさんのお話素敵です
わかりやすいご説明ありがとうございます。人は産まれよく眠る。死ぬ前もよく眠るようになる。痩せる。無理には、延命治療しないで、自然に生に死に、寄り添うのがいいですね🎵☺️
深夜、動画の後半、考えさせられます😞。親が80才越えて、死ぬ時が近づいてても、50代の息子さんは心のどこかで、まだまだ生きてくれるのではと、思っていたんじゃないですか😢。たとえ親が90才であろうが100才であろうが、死んでほしくない、長生きしてほしいと思うものなのでは😞。親思いの子供の場合はね😊。出世より親の介護の方が大切😊。そんな人たち少ないでしょうけど😢。若い私ですが、二人に感情移入して泣きました😭。
子からすれば親は元気で長生きであるのが普通としばしば感じていることもありますものね。
母が緩和ケアにお世話になる数か月前、「人生って早かったなあ、その時は苦労だとばかり思っていたがこんなに早いとは思わなかった」と
お茶すすりながらつぶやきました。95歳まで生きたいと願ってましたが末期癌で90歳でなくなりました。
義父は交通事故で亡くなりましたが、亡くなる3ケ月前に、ポツリと「この花見は最後かもしれない」と花見の仲間に話したそうです。
その情景を聞いた時から家族知人から「最後の言葉」らしき物を聞いたならばそれを否定しています。
これが最後⇒次回もさそうから、来年も、とか。言葉は不思議とおもいました。登録させていただきました。
考えさせられるエピソード、ありがとうございました。90代でも早かったと仰る方は少なくなく、人生はあっという間のものだとそこからも感じます。
先生の患者さんへの思い、患者さんと患者さんの御家族との思いが、ひしひしと伝わり、考えさせられるお話ですね!😰生きている全ての人達が、体験する「死」の扉。考えると、複雑な思いで胸が一杯になりました。先生、体験談を含め色々為になるお話、有難う御座いました!😊✋✨
お言葉ありがとうございます。誰もが通る道ですが、願わくば悔いが逝く側・見送る側いずれにも少ないことを心から次第です。
もう6年ほど前のことです。主人の母(82歳)は乳がんが骨転移し、医療用麻薬のオキノーム、オキシコンチンを使用して痛みを軽減しながら自宅で介護をしていました。ある日具合が悪くなり救急車で運ばれ入院、退院後はがん終末期や神経難病の方々のためのホスピス住宅へ入居しました。3ヶ月後、看護師さん介護士さんを交えた場で、先生から「あと1ヶ月持つかどうか、ご本人次第です」との説明がありました。
固形物が食べられなくなったと聞き、私が作ったかぼちゃのポタージュをびんに入れ、義母のもとへ持っていきました。もうしゃべることはできなくなっていましたが、「お母さん、かぼちゃのスープ飲みますか?」と聞くと、うん、とうなずいたのでからだを起こしてあげました。ふくよかだったからだは骨ばって小さくなっていました。ポタージュをびんから小皿に取り小さなスプーンで少しずつ義母の口もとに運びました。おいしそうな表情で味わってくれました。3~4口味わったので、「もういい?」と聞くと、口を開けてもっとほしい、という意思表示をしたので満足するまで口に運びました。同時にじゃがいものポタージュもびんに入れて介護士さんに託しました。
その後は傾眠傾向が続き、せん妄はなかったように思います。延命措置は取らない、との本人の希望でした。
先生の説明から2週間後、本当に眠るように息を引き取りました。
後日、荷物の整理に行った時にポタージュを託した介護士さんから、「あの翌日はじゃがいものポタージュも楽しんでいらっしゃいましたよ」と言われ、なんとも言えない気持ちになりました。
大津先生のお話、心に響きました。ありがとうございます。
長文失礼しました。
詳細にありがとうございます。ポタージュ、きっと良かったのでしょうね。
@@kanwa さま
先生ありがとうございます。その時の義母に私がしてあげられることはこれくらいのことしかありませんでした。その2年前に他界した義父の最晩年も私のかぼちゃのポタージュをたくさん口にしてくれました。
ポタージュすごいですね。食べられる楽しみが最後まであることは良いことですね。
半分の話、昨年看取った高齢の父の事を思い出しました。私は父が痛いおもいをしない選択をしてきました。少しでも長く生きてほしいけど、それによって父が苦しむのは可哀想に思い。。生きるのも大変だけど、死もまた大変な作業だとも感じました。最期を看取った2週間はかけがえのない日々で私の人生の支えになってます。
たくさん悩んで考えられたことが文から伝わってきました。真剣に悩むこともまた、それからを生きる人達に力を与えてくれるものだと、この死にまつわる事柄においては感じますね。
私は10代後半ぐらいから1人になると死についてよく考えるようになりました。
カレンダーをみながら後これを何十回めくれば私は…とか悪いことを考えてしまいます。
死が怖いです。
病院勤務でしたが死にゆく人の姿を見る度にいつかは私もと自分自身に重ねてしまって辛かったです。
小学生の頃に母を亡くしました。
滅多にスナック菓子など食べない母が急に食べるようになっていました
さらに付け加えたい。
新聞やテレビ、特に天気予報を見るかどうか。これらを気にする、見るということは、からだが外向きに動いていること。つまり生きるために外界の情報を取り入れて動いている。
からだが外向きに動いているということ。
新聞、テレビ、特に天気予報を見ているよ、という人は、死期が近くはない。ときに天気予報を見なくなった、天気を気にしなくなった、新聞を読まなくなった、ネット検索をしなくなった、というのは危険です。
私は義父を突然死、実父を老衰で亡くしました。
義父は仕事しか考えられない人で、リタイア後生きる意欲が無くなったように寝てばかりの日々でした。
特に持病は無かったのですが、ある日入浴中に亡くなりました。
実父は仕事も趣味も一生懸命でした。特に持病は無く96歳で眠るように亡くなりました。
自分の死に方は選べませんが、死に方は生き方と同じと思います。その時が来るまで「よく生きました」と言えるように努力したいです。
仕事が終わると途端に生きる力を失ってしまう方もおられますものね。難しいものです。 お父様、素晴らしいですね。容易ではないですが、そうありたいものです。
父は自然に任せるように亡くしました。看取り介護の状態で1週間生き、私は亡くなる前日ガラス越しに面会、お別れが言えました。理想的なお手本のような亡くなり方、「アッパレ❗」と言う
(続き)目標を示してくれました。
今回の動画も、先日の死の直前の態様の動画もとても参考になりました。
私の自宅に住込みで家事をしてくれている「メイドさん」のお父さんが3月初め頃から体調が悪くなり、先生の仰っているような様子になりました。
私はメイドさんにしてあげられるのは、「お父さんに寄り添っていなさい・家族が出来るだけ顔を見せたり話し掛けたりしてあげなさい」とのアドバイスだけでした。
お父さんの状態を聞くとメイドさんには、「残念だけどお父さんは元気になるのは望み薄だよ、主治医にも確認しなさい」と伝え、主治医からの結果は死期が近いし復活は難しいとの回答であった様です。
それから2ヶ月後にお父さんは死去されましたが、私のメイドさんや多くの家族に看取られての最後でした「メイドさんは有給のままで約2ヶ月休職状態」。
やはり、自分や家族の健康状態・死期が近い等を自覚するためには、先生の発信されているような情報は貴重だと感じました。
詳細にありがとうございます。それは良いことでした。的確なご助言だったのではないかと拝察します。予期せぬ死で、一緒の時間が持てないことが後悔につながりますものね。
みんな向き合うのが怖い死ですが、先生のお話は誰もが聞いておいたほうがいいお話です。大切なお話を共有していただいてありがとうございました。
肺炎で食べさせていけないと、看護師に言われたけど、最後に本人が、食べたいと、言ったみかんの缶詰、最後くらい食べさせてあげたかった
その後何も食べれなくなって死んでしまった、内緒で食べさせれば良かった、後悔してしまいます
終末期に大変悩む事柄の一つですね。難しいですね。
うちの主人は癌で亡くなりましたが、なくなる前の兆候はあまり当てはまりませんでした。
全然寝なくて睡眠薬も効かなかったです。
いつも部屋中ウロウロしてました。
腹水が溜まり食欲はなくなりましたが、亡くなる一日前にはミニのカップラーメンをお出しまで飲んで完食していました。
痛み止めの医療用麻薬も服用してましたがそのせいで、せん妄が出たのだと思っていました。
人はなぜ生きてるんやろ?とか46年生きてきた意味って何?
とか言ってました。
亡くなる前は寝たきりになるものだと思っていましたが主人は最後意識が無くなる前まで自分の足で歩きトイレで意識が無くなりました
どうして良いかわからず病院に救急車で行った次の日に私が居るときに息を引き取りました。
腹水で吐いてた事とせん妄状態で訳の分からない事をずっとしゃべってました。
人が亡くなるパターンは色々あると思いますが、うちの主人のような人もいる!と言うのも参考にしていただけたらと思いました。
詳細にありがとうございます。せん妄が強かったのですね。直前期は他の動画でも以前解説しましたが、やはりせん妄が目立つ場合もありますよね。
th-cam.com/video/lnKiQ3xGICM/w-d-xo.html
先生ありがとうございます。
一日だけでしたが自宅に帰り一緒にお風呂に入り夫婦二人過ごす事が出来ました。
自分の親の事もあるので先生の動画は勉強になります。
これからも大変だと思いますが頑張って下さい。
大津先生の所に母を連れていきたいと思いました。
高次機能障害や認知症でもこういった最期となるのでしょうか?叫びまくり苦しみまくるのでしょうか?
もっと先生と早く出会ってたら、10月亡くなった母に手を差し伸べられることが沢山あった筈だと後悔ばかりです。
年寄の人が胃ろうで食事しなければならなくなっても 長生きできますか?病院で胃ろうの人達よく会いました。
ケースバイケースですね。食事が何らかの理由で食べられない場合は、比較的回復しますが、全身状態が悪くて食事が進まない場合は、そうとも言えません。医師の判断が大切になります。
誰もが通る道ですよね・・・😢
大切な人が苦しむ姿を見るのは、辛いです。そして、自分が苦しむのもイヤです。前もって、オープンに話し合って、一番良い選択が、出来たら良いな! と、思います✨
確率的に、半分以上か、半分以下かの
エピソードには、とても共感させられました😊
人生の選択では、色んな場面で難しい答えを選ばなければいけないですね
💦
今日も、有難うございます😊
本当に誰も通る道、ですよね。
「半分だけ」という程度が、人として実に控えめで分相応で、正直で、せつないと思いますね。まさおさんのお父上はすごい方でしたね。
独り暮らしだった父が歩いて病院まで行くのが辛いと連絡があり大きな病院で検査をしたら肺線癌ステージ4骨転移+結核になっていることが分かり入院し3か月後の6月に亡くなりました。コロナの中、誰にも会えず面会も週に一度私だけ…。刺激がないから段々とせん妄が強くなり1日に何十回も電話が鳴る日もありました。面会に行く度に痩せて行く父を見て気丈に振る舞うのが辛かったです。亡くなる数日前の面会時に父がお袋と親父の様子を見に行ってくれないか?と言われ、すでに亡くなっているのになぁと思いながらも見に行って来るねと会話をしたのが最後でした。人に頼る事が嫌いな父が最後に私に頼ってくれて短かったですが今まで以上の親子のコミュニケーションが取れた気がします。
お看取り、お疲れ様でした。お二人の情景が目に浮かびました。
見当識障害まである 親がコロナ入院中で 更に寝た切りなってしまうか心配してます。救急逼迫してるのに 緩和策や経済重視のメディアや政治に怒りを覚えます。
結局は経済等にも跳ね返ってきてしまうのに、ですよね。
人間も本当に動物ですね。
父の時はホスピスに入院した日の夜中々眠れなく、明け方に看護師さんに眠れないと訴えて軽い睡眠薬を頂きそれを飲んで寝ました。
で、そのまま旅立ちました。
生前しぬのが怖いと話してたので寝ながら旅立ったのは父にとっては1番だったと思います。
私がコロナでマジヤバいかもとおもった時もハイカロリーな物を食べながら寝てました。
口の中に物が入ってたのにと。
寝ながら、というのは一つの理想なのかもしれませんね。 睡眠と食事は大切ですね。
私の母はガンで、最後の方に鎮静剤を使い、それから意識が戻らず、寝てるように数日過ごし、そのまま亡くなりました。あなたのように、睡眠薬を使って寝たまま亡くなったから幸せだったっていつか思えるようになりたいです。今は、あの時なぜ鎮静剤を使うのを止めてあげられなかったのか、自分を責めてしまいます。
とても分かりやすい説明だと思いました。元気な時に意思表示をされても、症状が進むにつれて意志は揺らぎます。また、ご家族は最期の兆候が見られたとしても、受け入れてくれません。
食事も水分もほとんど摂れず、血管が細くて点滴もできない。「長くないな」と看取りに携わる方としては思うのですが「親父は、前みたいに良くなると思います」と言われると言葉が出てきませんでした。亡くなった後司法解剖にまわされたり警察の事情聴取に合わないよう家にくる人みんなに救急車ではなく訪問看護から訪問のお医者さんへ連絡するように伝えても激昂されるご家族もいて、伝える事は難しいデリケートな問題だと思います。
現場にいるものは「人の気持ちは変わるもの。それが当然であること」それを痛感しますよね。お疲れ様です。このような場において「伝える」ということは本当にデリケートな問題です。
私は3人医師の息子があります、。私 自身83才ですので、もしも最忌が迫った時は、必ずこの身を息子達に委ねようと思っています
この夏帰省しましたが, その折両親がどれだけ老けるのかを会ふ前にある程度想像してたのですがいい意味で予想が外れたもんですので, 二人のエンディングについて話を切り出すこともなく東京に戻ってきました. 遠くにゐると予兆なぞ目にすることもできないので二人が息災であることをただ祈るばかりです. この状況下ではありますが, 両親の顔を見ることができて本当によかったと心から思ひます.
良かったです。息災を願うことも、子にとってはできる大切なことではありますが、実際に顔を合わせることは何よりのものと存じます。
この手の話題を視聴すると先生がなぜ緩和ケアを選んだかが何となくわかる気がしますね。
ギアが一段上がります。
お言葉ありがとうございます。クラッチを踏んで、また上のギアが入りました😁
大病をした80過ぎの母が実家で療養中ですが、大変参考になりました。
ありがとうございます。
お母様、大病をされたのですね。やはり80代以降になると、なかなか様々な病気等を患われる機会も増えますものね。
先生いつもありがとうございます。
私には80代の父がいて、会う度に食が細くなり、痩せてきてもいるため、そろそろ考えなければならない時期だと考えています。ところがこの夏はリハビリの効果なのか、食べる量がかなり増えており、歩くのは辛くても日々の筋トレは頑張っていて、何とかもうひと頑張り出来るかもしれないと期待もさせてくれます。なかなか難しい判断になりますが、残り時間が何十年もあるわけではないので、これからどんな言葉を交わせば良いのか、考えつつ親子の交流を楽しめれば良いなと思います。
それは良かったですね! ともにできる時間が多いことを願っております。
50%の可能性があるかどうかで覚悟を決め、任せるという肝の据わったお父様の生き様、まさおさんとの強い信頼関係、心に響きました。生ききるとはこういうことなのかなと思います。
信頼関係が、良い決断と最期の秘訣だったように感じました。
まさおさんの話は泣けた😢
私にとっても印象的な事例でした。
肺がん治療中でタグリッソ1年経ちました。
突然具合が悪くなるのですね。
今は、ピンピンしていますが最近とても眠くなります。
体力がどんどん落ちて行っている気がします。
88歳になる父 気丈で心配性 高血圧でペースメーカーも入っています。
痛風の気もあり、やせ型です。
先日前立腺がんがみつかり、今後の治療法を模索しているところです。
血圧が80前後になることが多くなり、食欲がなくなることもしばしば、波があるんですね
考えちゃいけないでしょうけれど、死期がせまってきているのではないかと
誰にも言えず一人考えています。体重も減少する一方です。
今は食事も好きなものを用意し、食べろ食べろと言わないようにしています。
本人は、大丈夫だの一点張りです。
最後まできっと意地を張って生きたいのだと思い、その気持ちに沿いたいと思います。
この動画は、とても参考になりました。何年も前には親の死なんぞ受け入れられないと思っていましたが、
今は、誰もが経験する死を受け止めることができるのかもしれないというところまでに
気持ちをもっていくことができたような気がします。
ありがとうございます。しっかりと受け止めたいと思います。
シェイクスピアの「リア王」、亡くなる前のお年寄りの前兆、上手く描いてる感じがします。シェイクスピアは、亡くなる人たちをかなり見て、観察してたのかも😨!
大作家の観察力は尋常ではないですからね。
私も同じです。亡くなってからこんなに好きだったんだって思いました。
それまでは喧嘩してたので好きだなんて気づいていませんでした。毎日考えてます。亡くなった時も2週間前からずっと一緒にいられたのに毎日後悔してますなく😢昨年11月に亡くなり7ヶ月目ですどうすると良いでしょう…
この予兆を知る事は大切…
父は末期の肺癌と言われて、2ヶ月で亡くなりました。自宅で前日まで普通に暮らしていていたので予兆が全くなかったので、後悔だけしか残ってません。
お父様そうだったのですね。なかなか難しいものですよね。予兆がないことも、それはそれでつらい場合がありますものね。
こんにちは 突然の質問ですいません 88歳の認知症の母ですが、特養の待機中でロングステイを利用していました。 入所して3ヶ月目にベットから落ちて入院しました脳内に出血していましたけどどうにか退院出来るようになり、次の施設に移る準備が出来た矢先施設でのコロナのクラスター 20日後に受入ができるまでになって病院との連絡を取ったところ、今度は病院でクラスター 挙句の果て母本人もコロナに! 面会も出来ず 食欲が1割2割と後点滴をしているようです ようやく明日施設に入所しますが、 この場合死期は近付いているのでしょうか?
施設に出入りしている医師によく尋ねてみるのが大切ですね。実際に診療する医師の見立てが極めて重要です。
(老衰)「緩やかに逝く....。」末っ子にて、3年続けて姉、兄を見送りました。姉も、兄も「死に顔」の(きれいだったことを....。) 私は「延命治療」はしません❗(今)おまけの人生を生かされております。「穏やかに生きる」って難しいことです。(楽しみ探しの日々でございます。)参考になりました....👏
3年続けて、とは大変だったことと拝察します。穏やかに生きる、しばしば困難ですが、大切なことですよね。
先生!今晩は何時も動画、拝見してます、内の旦那様も去年、肺の手術をして左肺下半分取りました、滑膜肉腫と言う希少癌でした、9センチの血の固まりでした、掛かり付けの先生は病名も分からず大学病院に出して初めて病名が分かりました、抗がん剤もしてたのですが、今年4月に取り切れて無い腫瘍がふえて大きく成ってた所から出血して家で血をはいて救急車で大学病院に一ヶ月入院、もう駄目と言われてましたが輸血して血が止まり緩和病棟に一ヶ月、毎日食べ物を届けてました、病院食が食べられず、歩けなく成りリハビリして歩ける様に成り、家に帰りたいと3ヶ月、在宅医療で介護してました、家に帰った当時は食欲もあり何、食べたいからと言ってたのですが亡くなる一週間位に俺はもう駄目だ、疲れたと言いました、亡くなる一週間前から寝てばかりで私がベットの足元に座って朝方まで見守ってました、わたしの顔を見て笑うんですね!又、安心して寝てましたその頃は声も出なく話しも出来なくなってましたが最初の頃は夢を見てるのか、つじつ まがあ わない様なこと言い出しましたが、せん妄と言うそうです、亡くなる前の日は喉がゴロゴロして苦しいのかベットのサクに捕まり横に成ってました、背中を擦ってやると又、仰向けに成ったり一晩中、亡くなる日はゴロゴロが消えて息づかいがたまに止まる様なそれから最後の息使いですと電話をしたら看護師さんに最後の息と言われハハハハと忙しくなり首が腫れて耳の脇の血管が腫れて硬くなり、紫のシミみたいなのが出て手は腫れてパンパンで爪が紫になり亡くなった時は静かな今にも止まりそうな息に変わりましたが、綺麗に元に戻って綺麗な顔でした、先生、看護師が少したってから来ましたが、先月三十日、私が看取りました私、一人で診てました、看どる時も私一人でした、先生が言う通りでした、最後の一ヶ月と言うものご飯も食べられなく水も飲めなく飲み込みが出来なくなり薬オキノーム腫瘍の薬も飲めなくなり、モルヒネの痛み止めの点滴だけでした本当に可哀想でした、最後まで診てやれて旦那様も感謝してたと思います、
コメントありがとうございます! 肺の手術の後、どうなされましたか?
詳細にありがとうございます。しっかりお看取りをされたことが伝わって来ました。
ありがとうございます。マサオさんとお父さんの話が大変心に刺さりました。
ありがとうございます。
私は1年半前にガンの手術後せん妄みたいになり5日で家に帰りましたが、体重は30kgも落ちていました。筋肉と体力を付ける為に日光浴をしながら毎日歩き筋トレもして、栄養の為に卵を毎日3個も食べていました。その後食欲も出て体重も増えてきました。あの時抗がん剤もせずに自宅に帰されたのは死期が近かったからですかね。
確かに!そうですね。勉強になります。私の人生も、あと 少しですね。 あと 10年も、有れば 良いけれど? 絶対無いのは、20年ですね!私は、10代からやり直したいのに😢
10代からもう一度! それはすごいですね。
@@kanwa 様へ。返信 有り難うございます。私は、睡眠時間が短くなりました。夜は、1時や2時 に、寝ます!朝は、6時過ぎ 7時前に、起きます。昼間は、仕事で、 たまには、趣味の畑の仕事してます。それでも、肥満気味です。
緩和ケアの動画拝見さしてもらって 母の最後姿観とれました😃本当にありがとうございます😃最後の母の苦しむ姿モルヒネ増量で緩和できました😃本当にありがとう😃
そうでしたか! そのような時間が持てたこと、良かったと存じます。ご報告ありがとうございました。
@@kanwa ありがとうございます😃2年近く前になるのですが 先生の亡くなる前の1週間の動画見て 看護婦さんにモルヒネ増やしてと😃死ぬ間際の 看とりの安心感 死に行く人の安堵の顔に 動画に知り合えて良かったです😃ありがとうございます😃
大変、為になるお話をありがとうございます🙏私も父と母を看取り、家族の正解のない決断に苦悩した経験があります。元気なうちに、近親者に、自分の生きる基準を伝える重要性を実感しています。しかし、死生観を話す場が少なく、自分の意志決定も曖昧で未熟だと感じています。
ありがとうございます。「正解のない決断」そのお言葉に集約されていますよね。いつか誰もが迎える問題ですが、必ずしもよく話し合えているとは限らず、未来への課題の一つと感じています。当たり前のように話せる場がますます増えることを願います。
@@kanwa 丁寧にコメント頂き、ありがとうございます。現在、私は卵巣癌が進行し、自分の命と向き合う時が近づいていると感じているのですが、がんカフェでは死生観の話は難しく、人生会議はリアル過ぎます。その中間を埋めるガン患者のためのデスカフェがあるとよいと思っています。治療の終わりがくる前に、緩やかに自然に、生きることと死ぬことを語り、無理なく自分の基準や覚悟を見いだせたら...と想像します。未来への課題ですね。
そうなのですね。こ存じかも知れませんが、そのような機能の一つを担っているのが私が行っているような緩和ケア外来です。おかかりの病院等で存在するようならば、相談してみても良いとは存じます。
大変 いいお話をありがとうございました
亡くなる半年位前の母の言葉。
電話越しにどうしようと言う感じで
「とうとうお母さん歩けなくなっちゃった」だった。
本人もこれはいつもと違う変化だと感じていたと思う。
ありがとうございます。印象的な言葉ですね。当惑されているご様子が感じ取られます。
これほど緩和ケアに熟知していると自分がその立場になると
その後どうなるか、どういう経過で死ぬか分かっているので
恐怖におびえるんじゃないですか?
病院に運ばれ、余命1ヶ月と言われた100のばあちゃんは
家に独りは危ないので、そのまま、病院で3ヶ月毎に更新しながら、今は病院に居るが、
元気に101歳を迎えておりまし、よく喋ります。
ぬので、医者の言う余命も
当てにならんな……と、感じましたw
病院にいるからこそ101になられたと思います😊😊😊👍
今は未だ周りに心配は有りませんが、このタイミングでじっくりお話が聞けて良かったと思います。
以前腫瘍検査が必要になった時、身の回りの整理や、周りの人へ伝えておくべきことが沢山あるのだなと感じましたが、改めて、健康なうちに事前の話し合いが大切なのだと分かりました。
あ… 自分の状態… まずいかも。
ほぼ寝たきり、長く歩けない、過睡眠、時間の感覚が狂う。
このままだと良くないですねこれは。うん。
ありがとうございます!
自分は間質性肺炎と診断されてから禁煙して逆に体重が一気に増えました。血糖値が上がって逆に減量してるところなんですが、体重が落ちません。こういう場合に体重が減ったらやばいんでしょうか?あと自分の母親は在宅酸素で、父親が亡くなってから2年で一気に痩せました💧
大変参考になります。
実は 母が大腸癌で余命1カ月、2カ月と医師から宣告されました。ですが本人は状況を理解できません(2年前に脳卒中を機に失語症、認知症を併発の為)
私は海外に単身で居る為、3日後 最期を看取る為、帰国します。既に幾つか容態が当てはまっていると推察する為、もう一カ月もないと感じました。
実家の父が亡くなるひと月ほど前が、まさにこの症状でした。
特に病気を患っていたわけではないのですが、90歳近い事もあり、素人目にももう、長くはないのではないかと思い、コロナ禍ではありましたが、何度も父に会いに行きました。
最期は、夕飯を喉に詰まらせ、その場で急に亡くなったのですが、確実に死期は迫っていたのだと、改めて思います。
お父様、そうだったのですね。老衰の場合でも何らか変化を認める場合は少なくないですね。
はじめまして。
エバシェルド筋注セットについての動画をお願い出来たらとても嬉しいです。
エバシェルド。話題ですね。
最近マジで眠くて起きてられないけど、おかんが必死に起こそうとしてくる。申し訳ない気持ち。
父母共に急死に近い死だったので、所謂「看取る」事が出来ませんでした。身内の「看取る事」ができた方の話では、母親の姉 叔母が家人の方に勘違いして自分の母親を呼んだり、父親兄 叔父が、また家人の方に「もう春だから、(自分、父親)の名前呼んで、田植えの準備せんとあかん」とか考えたら、もっと深い意味がありますね。言えない🙊けどね。
田植えの準備。印象的な言葉ですね。
@@kanwa 正真正銘の百姓なので、田んぼ管理とか山の管理🎶待ちぼうけ!待ちぼうけ!🎶も目撃したそうです。
待ちぼうけ?ですか?
@@kanwa 関心がおわりなら、|:))⊂(・◇・*)ググッ…まぁ有り得ない事での(童謡歌)ですね💕
お父さんのおっしゃる事、遺された者にとっては心が軽くなりますね。
先生はご自分で選べるならどんな亡くなり方が良いですか?
最期は己の希望通りになかなかならないこと前提で、やはり天寿を迎えた後の就寝中の死が、一番当人にとってはつらくないのかとは存じますね。
そのお父さん、利口な人だね。それに、しっかりと子供思いだったね!子供が痕から悩んだり後悔しない様に、そうした内容を伝えたんだものね。
死期がそろそろという方のフェントステープは最後の日迄貼るものですか?
意識レベルが低下した場合は、中止も検討します。ケースバイケースで高度な医学的な判断が必要ですね。
2のケース😓春頃室内歩行で壁に伝い歩き.6月越せるかな❓年初は、食事を汗かき肩で息して😓でも食べなくてはと、林檎酢 亜麻仁油 梅干し 海苔をかけて食べていたら、美味しいと思って食べています。階段は、手すりにすがりながら👀でしたが、軽い買い物袋持って上がれます👀何でや〜アブレーション後不正脈は無し🥺延命治療は、しないと病院にお願いしています。11年間年に3〜4回入退院繰り返してますので76😓アップルウォッチ⌚️の心電図救急要請の、目安にしてます‼️これは、訪問看護師さんもこれでギリギリ助かってると言っておられます👍
5年前に母を白血病で亡くしました。
急死でした。69歳、362日。70歳に3日たりませんでした。
血が止まらない、から2週間で亡くなりました。病院にいこうとせず、手遅れで亡くなりました。
一方で父は、大動脈解離から九死に一生を得ました。30分遅れたら死んでいた、といわれました。
本当に紙一重ですよね。白血病は厳しい病気ですね。ご両親のお話、ありがとうございます。
昨日夜中の1時頃32年話しも会う事もしてない昔付き合ってた人に電話しようと胸さわぎがした 夜中なので
突然迷惑だと電話はしなかった 朝まで電話しなあかんと頭から離れなかった 朝6時頃その人の家に行こうと思った しかしこんなに早く迷惑だろうと思い行かず店が開けてる時に行ってお肉を買って32年ぶりにしゃべろうと10時頃行くと なんと弟さんが兄は今朝6時15分頃家で倒れていて救急車で運ばれたけど死にましたとおっしゃり エ~😣って言葉を失いました なので今日5時にお通夜に行き 32年ぶりに顔を見てあのとき夜中に電話してたら話し出来また変わっていたかもしれないと後の祭りです 安らかにゆっくりさせてあげるしかないと後悔の念です あの行かなあかん電話したいと夜中にずっと胸騒ぎがしたのを虫の知らせと言うのでしょうか?今日は私の62歳の誕生日 16歳から10年付き合ってた友達の明日はお葬式 寂しいけどギリギリ顔が見れて良かった 何も出来なかってごめんね!と謝りたかった もう遅いけどただ最後に逢えて良かった 友達は永遠に私が亡くなるまで私の心に住み続けるでしょう🌷
すごいお話しですね。世の中には摩訶不思議なことは様々にありますが、生き死にの現場ではそれを見ることは頻々とあり、偶然ではない何かを感じたりするものですね。
死相(髑髏 頬骨が出て目が窪む)
行動変化(躓き。衝突が目立つ)
性格転換(優しい→厳しくなど)
死臭(線香臭がしたら1週間以内で臨終)
最後の親子の話から、子育ては自分の最期まで責任を持つ所までなんだと思いました
多くの人は、子供が成人したら、自立したら親としての役目を終えたと思いがちですね
仰る通りだと思いますね。
ウチの母は1月1日から数えて100日に亡くなりました。本人も知ってたみたいです。