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戦後、西軍の参加者の多くは所領没収や改易の憂き目にあったにもかかわらず、島津岳本領安堵で済まされた原因も家康自身が伏見での一件における不手際を自覚できていたからだと思う。
連絡不足やグダグダの常習犯なのは家康にしても知ってたでしょうからそれだけでオマケするという話にはならないでしょうけど、そこに家康自身まで関係してしまった負い目はあったのかも知れませんね。
近衛家方面からの働きかけもあったでしょうし
「何言ってんのか分からんけど凄い剣幕だ」くそわらった🤣
コメントありがとうございます!自分でも作っていて笑いました😆😆
200の兵しかいないのに律儀に戦闘して損害を出すところに義弘の真面目さを感じる
コメントありがとうございます!そう言った部分が義弘が他大名からの信頼を勝ち得ていた理由なんでしょうね。
次回「なあ?大将首だろお前?首置いてけ!」お楽しみにwww
義弘軍が家康の命に従い、伏見城に入城しようとするが、城代の鳥居元忠に拒まれる場面は、大河「葵三代」で描かれていましたね。「家康公の命により、助太刀に参った。開門されよ」「聞いており申さず」「我等を疑っているのか」「お答いたしかねる」「敵にまわっても、よかとか!」「お答いたしかねる」ここで元忠は、島津方に威嚇射撃を行い、「早々にお立ち退きあるべし」と、追い払ってしまう。恥をかかされる形になった義弘軍は西軍につくことになる、といった展開でした。
コメントありがとうございます!そんな場面ありましたね。思い出補正かもですけど、あのころの大河は良かったなと思います😄😄
義弘謎の西軍参戦と兵数が極端に少なかった(けど異常に士気が高かった)理由が、なるほどよく分かってスッキリ!
コメントありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです😄😄
今回の義久、亀寿を溺愛していた!以上だったなぁ🤣🤣🤣
コメントありがとうございます!このときの義久は人間らしくてちょっとカワイイです😆😆
動画投稿お疲れ様です!関ヶ原時の島津軍は、謂わば島津義勇軍、薩摩義勇軍みたいな感じなんですね。納得です!
コメントありがとうございます!少数精鋭だったのが「島津退き口」を可能にした要因だったかもですね😄😄
ついに始まるのですね。関ヶ原の戦い編が……。
コメントありがとうございます!次回もご期待ください😄😄
相変わらずグッダグダのお家事情からのショボイ兵力と成りゆき参戦だけど結果的には義弘のために死をも厭わない少数精鋭になってるのか…
コメントありがとうございます!少数精鋭だったのが退き口でプラスに働いた感はありますね。
うpさんへの返信です。TH-camの不具合でコメントに返信出来なかったので、この場で返信を送らせていただきます。やっぱり家康のリップサービスの可能性を考えますよね!!もし家康が三成たち西軍諸将の挙兵を予測していたとして、家康にとって上方の政治拠点である伏見城の防衛の援軍に、そこまで接点のない外様大名に頼むのか?という疑問点がありますよねまた、挙兵を予測していたのなら、敵方の旗頭にされかねない主君秀頼を伏見城などで確保していないのは、自身の政治的立場を危うくする行動なので、やはり家康は自身が不在の時に大きな事変が起きるとは思っていなかったと考えるのが普通ですよね
加藤清正の脅威のため戦力温存かぁ...まさか悪久や義久も加藤だけじゃなくものの数か月で九州の北半分ほぼ全土が敵になって攻めてくる(未遂)とは思わなかったよなぁもし本当に攻められてたらやばかったですね
数万相手にたった200騎で主体性も何も無い
亀寿を守るために、真田のように兄と弟で東軍と西軍に分かれて参陣したのと同じ香りを感じますね。自分だけなら良いと。
コメントありがとうございます!義久は三成を嫌ってはいましたけど、西軍方とのチャンネルを完全に切ろうとしてたわけでもないようですしね。
正直三成からすると、真面目に働いてくれるだけでも義弘を加入させる価値はあったかも。西軍のメンツを見ても家康とまともに戦う気がありそうなのは非常にかぎられてそうですし。
コメントありがとうございます!やる気があるのは宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長くらいでしょうしね…
「薩摩弁まくしたてられて……。(9:18)」って霊夢が言ってたくだり、家康の側近の中に薩摩弁を解せる人がいたら話は変わってたんじゃあ……。そしたら鳥居元忠との間での伏見城の留守居云々の行き違い(11:58)もなく義弘も西軍につくこともないまま関ヶ原終わって東軍寄り大名の一つとしてさらに所領増やせたんじゃないの?あとは伏見城攻防戦で「主公の天下取りのために伏見城には寡兵だけで十分、とはいえ安易に落とさせないように奮戦させていただきます」という鳥居元忠の忠誠心ゆえにすぐには落ちなくて(19:57)、その奮戦ぶりが各地の東軍側武将たちに伝播したせいで西軍はその後も重要どころで足止めを食らいまくって時間空費しまくる(←京極高次の大津城や細川幽斎の田辺城など)という悪循環に陥っちゃうよね……。
家康が加藤清正以外を九州から動かした理由を考えたらまさかのちょっとした誤算が生じただけで、黒田如水という厄介者を仕掛ける罠には何の影響もなかったという結末、これ兵力数立花宗茂軍と逆だったら家康が足止めされることで大坂城の方が大変なことになっていたと思うんだけどw上杉景勝討伐は表向きで、奥州から九州までの危ないのが3匹揃ったら毛利輝元では当然太刀打ちできないし、石田三成も立花宗茂もそれを察してたとしか思えません。島津義弘が気づいていたかどうかは分からないけど、三成が東西分けるような戦に発展させる程の豊臣家内紛ではなかったハズ
島津さん…まったく頼りにみられてない説ある?
😭😭
24:40 ここにもありますが義弘は本当に人望があんですよね。そうでもなければ鹿児島から駆け付けないでしょう。あと中馬さんの話でなかったので次回に期待。
コメントありがとうございます!中馬大蔵の活躍を語るのはもうちょっと先になりそうです😅😅
その西軍自体も三成の主体的意思で結成されたのではなく、宇喜多秀家や毛利輝元、上杉景勝らが主体であったとか、三成が大谷吉継を西軍に加わるように説得したのではなく、宇喜多家のお家騒動を仲介していた吉継が家康に面子を潰されるような振る舞いを受けたから、それに不満を持って三成を西軍に引き込んだとか色々言われてますね。三成本人は家康と仲が良かったらしいですし。
コメントありがとうございます!西軍結成は毛利輝元の主体性を評価する向きも最近出て来ていますね。
15:37 今話題のガラシャさんみたいにならんで良かったなぁ
実際は義弘の独断だったようだ。 それとなんか犬伏の別れを彷彿とされる!
コメントありがとうございます!確かにちょっと真田と被る部分もありますよね。
家康が義弘に伏見城入城をお願いをしたのって、家康からしても上杉征伐中に不測の事態が起きるなんて思っていなかっただろうし、社交辞令のつもりで言った可能性とかないかな?だから鳥居元忠には伝えてなかったじゃないかな?もし鳥居元忠に伝えてあったとしても、家康不在の時に石田三成が決起した状態で、三成ベッタリの義弘が「一緒に守らせてくれ」なんて言ってきても信用できないよな〜
その家康リップサービス説の可能性は自分もちょっと考えました😯😯おっしゃるように家康は三成の決起など予測してなかった説が有力になってますし、伏見城の守備を重視していた感じがしないんですよね。
@@ゆっくり真実の戦国史 やっぱり家康のリップサービスの可能性を疑いますよね。もし家康が三成たちの決起を予測していたとしても、家康の上方での政治拠点である伏見城を外様大名の義弘に任せるか?という疑問がありますね。そもそも敵方の旗頭にされかねない主君秀頼を伏見などでしっかり確保していない時点で、やはり家康は三成たちの決起を予測できていなかったと考えるのが自然かな?
あれって確か、家康が島津義弘が伏見城防衛に加勢してくれる ってことを完全に伝えるのを忘れてたって話だっけ?
@@ゆっくり真実の戦国史 やっぱりリップサービスの可能性を考えますよね。もし家康が三成たち西軍の挙兵を予測していたとしたら、家康にとって上方の政治拠点である伏見城の防衛を、そこまで家康との接点がない外様大名に援軍を任せか?という疑問もありますよね。そもそも敵方の旗頭にされる可能性がある主君秀頼を、伏見城などで確保していないのはあまりにも不手際すぎる気がします。
@@ゆっくり真実の戦国史 やっぱり家康のリップサービスの可能性を考えますよねもし家康が三成たち西軍諸将の挙兵を予測していたとして、家康にとって上方の政治拠点である伏見城の防衛の援軍に、そこまで接点のない外様大名に頼むのか?という疑問点がありますよねまた、挙兵を予測していたのなら、敵方の旗頭にされかねない主君秀頼を伏見城などで確保していないのは、自身の政治的立場を危うくする行動なので、やはり家康は自身が不在の時に大きな事変が起きるとは思っていなかったと考えるのが普通ですよね
俗説かもしれないけど家康は伏見城守備を元忠に任せた際に今生の別れを述べてたというのであれば、義弘に任せていたというのは矛盾があるような…
コメントありがとうございます!そのあたりの事情も含めて義弘が家康から伏見城の留守を任された経緯は謎が多いんですよね。
城将の鳥居元忠からしたら、指揮統制の面から徳川譜代の家臣以外を城に入れたくは無いでしょうね。それに外交的な視点から考えれば、島津義弘が伏見城を枕に討ち死にした場合、徳川が勝った際に島津への大幅な加増は避けられないですし。島津義弘は武人肌の人だったのでしょうね。
亀寿様の存在は島津家の家督継承に重要で忠恒公の後継の光久公も亀寿様の養子という形式を整えた上で島津家当主と認められた経緯があります。それだけ忠恒公の島津家での立場が弱かった事になるのですが。島津家の女性達は亀寿様以外にも新城様や御下様等々強い薩摩おごじょな方々が多いです。
コメントありがとうございます!九州の女性は押しの強いイメージを勝手に持っています😅😅
ついに井伊直政登場 朝鮮の役で大活躍した島津義弘をたたかえると積極的に追撃したなんて言われてるけどその辺もお願いします(結果直政は寿命を縮めるお誘い事になるが)
コメントありがとうございます!井伊直政についても次回でちゃんと触れます😄😄
亀寿が原因ですか。大阪付近にいる200人が東軍として戦闘をしてしまった場合、人質として一番危険なことにはなりやすそーですね。他の東軍は、近くにいなくて戦闘してなくて、断るよりは危険と。
100石あたり三人なら豊久の軍勢は840人になりますが
コメントありがとうございます!あ~その可能性もありますね。
あかん、ワイの義弘像が崩壊や!早く、早く回復を!
😥😥次回で名誉回復できる…でしょうか🙄🙄
成り行きで西軍に着かざるをえなかったと弁明を繰り広げた敗軍大名は長宗我部、島津はじめ数多いですが、状況証拠的には十分に信用に値するんですよね…三成挙兵の時点で西軍は上方の交通をほぼ掌握、関ヶ原という日本有数の軍事要衝(日本アルプスを東西に抜けられる唯一のルート。ここを抑えることは列島の物流・軍事行動の多くを牛耳ることと同じ。壬申の乱、青野ヶ原、関ヶ原etc、この地が天下分け目となった内戦は数多い)していて、関東に拠る家康と連絡を保つことが物理的に不可能だったんですよね。蜂須賀なんかも親父が無理やり西軍につかざるを得なかったですし。上杉征伐に一族が従軍していたなんて幸運がない限り、西国大名には最初から選択の余地が少なかった。
16:32 亀寿と人質交換で西軍の人質になる島津氏第16代当主島津義久の展開は見てみたかったかも…………冗談はさておき、正直亀寿の人質交換の話は幾ら末娘が可愛いからって仮にも島津氏第16代当主の判断にしては浅はか過ぎる下手したら徳川家康から島津家が西軍に完全についたと判断されて、戦後改易もあり得た戦国時代、武家の女は戦略の道具として扱われる時代に置いて義久は人の心があったと、好意的に解釈する事も出来るが当主なら宇喜多直家位、非情でなければ生き残るのは難しい時代だと、分かっているはずなのに……
コメントありがとうございます!そこまで非情に徹しきれないのが義久の限界なのかもですね。
戦後、西軍の参加者の多くは所領没収や改易の憂き目にあったにもかかわらず、島津岳本領安堵で済まされた原因も家康自身が伏見での一件における不手際を自覚できていたからだと思う。
連絡不足やグダグダの常習犯なのは家康にしても知ってたでしょうからそれだけでオマケするという話にはならないでしょうけど、そこに家康自身まで関係してしまった負い目はあったのかも知れませんね。
近衛家方面からの働きかけもあったでしょうし
「何言ってんのか分からんけど凄い剣幕だ」くそわらった🤣
コメントありがとうございます!自分でも作っていて笑いました😆😆
200の兵しかいないのに律儀に戦闘して損害を出すところに義弘の真面目さを感じる
コメントありがとうございます!そう言った部分が義弘が他大名からの信頼を勝ち得ていた理由なんでしょうね。
次回「なあ?大将首だろお前?首置いてけ!」お楽しみにwww
義弘軍が家康の命に従い、伏見城に入城しようとするが、城代の鳥居元忠に拒まれる場面は、大河「葵三代」で描かれていましたね。
「家康公の命により、助太刀に参った。開門されよ」
「聞いており申さず」
「我等を疑っているのか」
「お答いたしかねる」
「敵にまわっても、よかとか!」
「お答いたしかねる」
ここで元忠は、島津方に威嚇射撃を行い、
「早々にお立ち退きあるべし」と、追い払ってしまう。
恥をかかされる形になった義弘軍は西軍につくことになる、といった展開でした。
コメントありがとうございます!そんな場面ありましたね。思い出補正かもですけど、あのころの大河は良かったなと思います😄😄
義弘謎の西軍参戦と兵数が極端に少なかった(けど異常に士気が高かった)理由が、
なるほどよく分かってスッキリ!
コメントありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです😄😄
今回の義久、亀寿を溺愛していた!以上だったなぁ🤣🤣🤣
コメントありがとうございます!このときの義久は人間らしくてちょっとカワイイです😆😆
動画投稿お疲れ様です!
関ヶ原時の島津軍は、謂わば島津義勇軍、薩摩義勇軍みたいな感じなんですね。納得です!
コメントありがとうございます!少数精鋭だったのが「島津退き口」を可能にした要因だったかもですね😄😄
ついに始まるのですね。関ヶ原の戦い編が……。
コメントありがとうございます!次回もご期待ください😄😄
相変わらずグッダグダのお家事情からのショボイ兵力と成りゆき参戦だけど
結果的には義弘のために死をも厭わない少数精鋭になってるのか…
コメントありがとうございます!少数精鋭だったのが退き口でプラスに働いた感はありますね。
うpさんへの返信です。
TH-camの不具合でコメントに返信出来なかったので、この場で返信を送らせていただきます。
やっぱり家康のリップサービスの可能性を考えますよね!!
もし家康が三成たち西軍諸将の挙兵を予測していたとして、家康にとって上方の政治拠点である伏見城の防衛の援軍に、そこまで接点のない外様大名に頼むのか?という疑問点がありますよね
また、挙兵を予測していたのなら、敵方の旗頭にされかねない主君秀頼を伏見城などで確保していないのは、自身の政治的立場を危うくする行動なので、やはり家康は自身が不在の時に大きな事変が起きるとは思っていなかったと考えるのが普通ですよね
加藤清正の脅威のため戦力温存かぁ...
まさか悪久や義久も加藤だけじゃなくものの数か月で九州の北半分ほぼ全土が敵になって攻めてくる(未遂)とは思わなかったよなぁ
もし本当に攻められてたらやばかったですね
数万相手にたった200騎で主体性も何も無い
亀寿を守るために、真田のように兄と弟で東軍と西軍に分かれて参陣したのと同じ香りを感じますね。自分だけなら良いと。
コメントありがとうございます!義久は三成を嫌ってはいましたけど、西軍方とのチャンネルを完全に切ろうとしてたわけでもないようですしね。
正直三成からすると、真面目に働いてくれるだけでも義弘を加入させる価値はあったかも。西軍のメンツを見ても家康とまともに戦う気がありそうなのは非常にかぎられてそうですし。
コメントありがとうございます!やる気があるのは宇喜多秀家・大谷吉継・小西行長くらいでしょうしね…
「薩摩弁まくしたてられて……。(9:18)」って霊夢が言ってたくだり、家康の側近の中に薩摩弁を解せる人がいたら話は変わってたんじゃあ……。
そしたら鳥居元忠との間での伏見城の留守居云々の行き違い(11:58)もなく義弘も西軍につくこともないまま関ヶ原終わって東軍寄り大名の一つとしてさらに所領増やせたんじゃないの?
あとは伏見城攻防戦で「主公の天下取りのために伏見城には寡兵だけで十分、とはいえ安易に落とさせないように奮戦させていただきます」という鳥居元忠の忠誠心ゆえにすぐには落ちなくて(19:57)、その奮戦ぶりが各地の東軍側武将たちに伝播したせいで西軍はその後も重要どころで足止めを食らいまくって時間空費しまくる(←京極高次の大津城や細川幽斎の田辺城など)という悪循環に陥っちゃうよね……。
家康が加藤清正以外を九州から動かした理由を考えたらまさかのちょっとした誤算が生じただけで、黒田如水という厄介者を仕掛ける罠には何の影響もなかったという結末、これ兵力数立花宗茂軍と逆だったら家康が足止めされることで大坂城の方が大変なことになっていたと思うんだけどw
上杉景勝討伐は表向きで、奥州から九州までの危ないのが3匹揃ったら毛利輝元では当然太刀打ちできないし、石田三成も立花宗茂もそれを察してたとしか思えません。島津義弘が気づいていたかどうかは分からないけど、三成が東西分けるような戦に発展させる程の豊臣家内紛ではなかったハズ
島津さん…まったく頼りにみられてない説ある?
😭😭
24:40 ここにもありますが義弘は本当に人望があんですよね。そうでもなければ鹿児島から駆け付けないでしょう。
あと中馬さんの話でなかったので次回に期待。
コメントありがとうございます!中馬大蔵の活躍を語るのはもうちょっと先になりそうです😅😅
その西軍自体も三成の主体的意思で結成されたのではなく、宇喜多秀家や毛利輝元、上杉景勝らが主体であったとか、三成が大谷吉継を西軍に加わるように説得したのではなく、宇喜多家のお家騒動を仲介していた吉継が家康に面子を潰されるような振る舞いを受けたから、それに不満を持って三成を西軍に引き込んだとか色々言われてますね。
三成本人は家康と仲が良かったらしいですし。
コメントありがとうございます!西軍結成は毛利輝元の主体性を評価する向きも最近出て来ていますね。
15:37 今話題のガラシャさんみたいにならんで良かったなぁ
実際は義弘の独断だったようだ。
それとなんか犬伏の別れを彷彿とされる!
コメントありがとうございます!確かにちょっと真田と被る部分もありますよね。
家康が義弘に伏見城入城をお願いをしたのって、家康からしても上杉征伐中に不測の事態が起きるなんて思っていなかっただろうし、社交辞令のつもりで言った可能性とかないかな?だから鳥居元忠には伝えてなかったじゃないかな?
もし鳥居元忠に伝えてあったとしても、家康不在の時に石田三成が決起した状態で、三成ベッタリの義弘が「一緒に守らせてくれ」なんて言ってきても信用できないよな〜
その家康リップサービス説の可能性は自分もちょっと考えました😯😯おっしゃるように家康は三成の決起など予測してなかった説が有力になってますし、伏見城の守備を重視していた感じがしないんですよね。
@@ゆっくり真実の戦国史
やっぱり家康のリップサービスの可能性を疑いますよね。
もし家康が三成たちの決起を予測していたとしても、家康の上方での政治拠点である伏見城を外様大名の義弘に任せるか?という疑問がありますね。
そもそも敵方の旗頭にされかねない主君秀頼を伏見などでしっかり確保していない時点で、やはり家康は三成たちの決起を予測できていなかったと考えるのが自然かな?
あれって確か、家康が島津義弘が伏見城防衛に加勢してくれる ってことを完全に伝えるのを忘れてたって話だっけ?
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やっぱりリップサービスの可能性を考えますよね。
もし家康が三成たち西軍の挙兵を予測していたとしたら、家康にとって上方の政治拠点である伏見城の防衛を、そこまで家康との接点がない外様大名に援軍を任せか?という疑問もありますよね。
そもそも敵方の旗頭にされる可能性がある主君秀頼を、伏見城などで確保していないのはあまりにも不手際すぎる気がします。
@@ゆっくり真実の戦国史
やっぱり家康のリップサービスの可能性を考えますよね
もし家康が三成たち西軍諸将の挙兵を予測していたとして、家康にとって上方の政治拠点である伏見城の防衛の援軍に、そこまで接点のない外様大名に頼むのか?という疑問点がありますよね
また、挙兵を予測していたのなら、敵方の旗頭にされかねない主君秀頼を伏見城などで確保していないのは、自身の政治的立場を危うくする行動なので、やはり家康は自身が不在の時に大きな事変が起きるとは思っていなかったと考えるのが普通ですよね
俗説かもしれないけど家康は伏見城守備を元忠に任せた際に今生の別れを述べてたというのであれば、義弘に任せていたというのは矛盾があるような…
コメントありがとうございます!そのあたりの事情も含めて義弘が家康から伏見城の留守を任された経緯は謎が多いんですよね。
城将の鳥居元忠からしたら、指揮統制の面から徳川譜代の家臣以外を城に入れたくは無いでしょうね。
それに外交的な視点から考えれば、島津義弘が伏見城を枕に討ち死にした場合、徳川が勝った際に島津への大幅な加増は避けられないですし。
島津義弘は武人肌の人だったのでしょうね。
亀寿様の存在は島津家の家督継承に重要で忠恒公の後継の光久公も亀寿様の養子という形式を整えた上で島津家当主と認められた経緯があります。それだけ忠恒公の島津家での立場が弱かった事になるのですが。島津家の女性達は亀寿様以外にも新城様や御下様等々強い薩摩おごじょな方々が多いです。
コメントありがとうございます!九州の女性は押しの強いイメージを勝手に持っています😅😅
ついに井伊直政登場 朝鮮の役で大活躍した島津義弘をたたかえると積極的に追撃したなんて言われてるけどその辺もお願いします(結果直政は寿命を縮めるお誘い事になるが)
コメントありがとうございます!井伊直政についても次回でちゃんと触れます😄😄
亀寿が原因ですか。大阪付近にいる200人が東軍として戦闘をしてしまった場合、人質として一番危険なことにはなりやすそーですね。他の東軍は、近くにいなくて戦闘してなくて、断るよりは危険と。
100石あたり三人なら豊久の軍勢は840人になりますが
コメントありがとうございます!あ~その可能性もありますね。
あかん、ワイの義弘像が崩壊や!早く、早く回復を!
😥😥次回で名誉回復できる…でしょうか🙄🙄
成り行きで西軍に着かざるをえなかったと弁明を繰り広げた敗軍大名は長宗我部、島津はじめ数多いですが、状況証拠的には十分に信用に値するんですよね…
三成挙兵の時点で西軍は上方の交通をほぼ掌握、関ヶ原という日本有数の軍事要衝(日本アルプスを東西に抜けられる唯一のルート。ここを抑えることは列島の物流・軍事行動の多くを牛耳ることと同じ。壬申の乱、青野ヶ原、関ヶ原etc、この地が天下分け目となった内戦は数多い)していて、関東に拠る家康と連絡を保つことが物理的に不可能だったんですよね。蜂須賀なんかも親父が無理やり西軍につかざるを得なかったですし。
上杉征伐に一族が従軍していたなんて幸運がない限り、西国大名には最初から選択の余地が少なかった。
16:32
亀寿と人質交換で西軍の人質になる島津氏第16代当主島津義久の展開は見てみたかったかも……
……冗談はさておき、正直亀寿の人質交換の話は幾ら末娘が可愛いからって仮にも島津氏第16代当主の判断にしては浅はか過ぎる
下手したら徳川家康から島津家が西軍に完全についたと判断されて、戦後改易もあり得た
戦国時代、武家の女は戦略の道具として扱われる時代に置いて義久は人の心があったと、好意的に解釈する事も出来るが
当主なら宇喜多直家位、非情でなければ生き残るのは難しい時代だと、分かっているはずなのに……
コメントありがとうございます!そこまで非情に徹しきれないのが義久の限界なのかもですね。