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地元民として九戸政実は尊敬する大好きな武将です。豊臣秀吉が天下統一のために最後に戦った武将と知り、少ない兵力で決して屈しなかったその戦いぶりに感動しました。岩手の、私の英雄に変わりはないのですがそのいきさつはいろいろあったんですね。
コメントありがとうございます!九戸政実とても魅力的な武将ですよね^ ^ 政実だけを取り上げた動画もいずれチャレンジしてみたいです!
@@rekishitravel ありがとうございます✨楽しみにしています😊
岩手県人です。勉強になりました。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^
釜石や遠野、花巻は対伊達氏に南部の重臣を配置したので道路が横に繋がっていますが縦に繋がっていないから南北の移動が大変です(東北道と三陸道ができてようやく移動しやすくなりました)
最近の研究で南部家の本家は盛岡(三戸)南部氏ではなく、八戸の根城(ねじょうと読みます)南部氏だそうです。鎌倉期に現在の山梨県から2つの南部氏が八戸に上陸し、先に上陸した南部氏が三戸に城を構え、後からやってきたもう一つの南部氏が根城(日本百名城です)を構えました。そこから三戸南部氏、根城南部氏と言われています。上陸間もなく隆盛を誇ったのは、八戸に城を構えた本家筋である根城南部氏でした。勢力形成が逆転したのは南北朝時代です。南北朝時代に三戸南部氏は北朝に、根城南部氏は南朝につきました。南朝の劣勢と共に根城南部氏が衰退し、北朝についた三戸南部氏が徐々に勢力を持つようになり、三戸南部氏が南部一族の主導権を握るようになりました。元々南部家では三戸と八戸は同格でしたが、主従が決定的になったのは戦国期「小田原参陣」です。この頃南部領では南部一族であり家臣の大浦(津軽)為信と九戸政実が不穏な動きをしており、三戸南部氏と八戸根城南部氏両方が小田原に行くのは非常に危険な状況でした。そこで八戸根城南部氏が留守を買って出て領内に残り、三戸南部氏が小田原に参陣、豊臣秀吉に謁見し南部家の棟梁と承認されました。小田原に行けなかった、元々の本家筋である八戸根城南部氏は、三戸南部氏の家臣になってしまったと言う訳です。最後に皆さん南部氏の関係性を覚えておいてほしいです。三戸南部氏=盛岡南部氏、八戸根城南部氏=遠野南部氏、盛岡藩(盛岡南部氏)から分かれた八戸藩。ですので八戸根城南部氏と八戸藩はそれぞれ別物の南部氏です。家紋も微妙に違います。盛岡藩(盛岡南部氏)と、ここから分かれた八戸藩(八戸南部氏)の家紋「向かい鶴」は〇があります。八戸根城南部氏と遠野南部氏の家紋「向かい鶴」には〇がありません。マニアックすぎてすみません。
コメントありがとうございます!こうした経緯を考えると、天正期になっても八戸南部氏が裏切らなかったのは三戸氏にとって大きいですね…!ご丁寧に説明ありがとうございます^ ^
@@rekishitravel さん、返信ありがとうございます。戦国時代の南部氏は本当に面白い。三戸南部氏、八戸根城南部氏、九戸南部氏の南部家3大勢力の駆け引きや、大浦(津軽)為信の謀反、伊達政宗との抗争、豊臣秀吉など中央勢力との対峙など見どころ満載です。
鎌倉幕府から甲斐源氏の南部三郎光行(源氏)が今の青森県と岩手北部を所領し南部町に舘を構築し後に三戸に城を築城した。光行の次男実光が南部宗家を継ぎ、3男の実長が根城南部を起こし当主となった!後に根城南部は南部宗家の命により岩手遠野群に配置に成り根城南部は無くなった!江戸時代に宗家盛岡南部藩2代目重直に跡目がおらず、弟二人が盛岡南部藩、八戸藩となり所領を分割して治め、藩として同格となった!此れが正しい歴史ですよ!
付け加えるならば南部氏は甲斐源氏新羅三郎義光の三男加賀美遠光の息子光行が甲斐国の南部郡に本拠を構えた事が始まりです。
当方、九戸の軽米町の出身ですが。三戸南部氏と八戸南部氏の件は、少し違うようです。根城南部氏が小田原城攻略戦に参陣しなかったのは、南部信直や三戸南部家重臣の北信愛の策略です。何故かと言うと、南部信直が小田原攻めに参陣するためには、九戸氏を抑えておく必要が在り。それで根城南部氏に、秀吉への領地安堵の進言と引き換えに留守を任せたという話です。その頃から、根城南部氏が三戸南部氏に従う様になりました。ちなみに、三戸南部氏が何処の系統の南部なのかは不明なのです。家系図も、九戸の乱後に作られた物なので、信憑性に欠けると言われてます。それと九戸氏、本当に南部系だったのかも分かって居ません。自分の出身地の領主で、九戸の乱時に三戸南部氏へついた。もとは九戸氏の客将だった「小軽米氏」は、元名は武田姓で。根城南部氏が転任した遠野へ移り住んだ後、武田姓に戻したそうです。根城(遠野)南部氏や九戸氏が、使っていた家紋は「九曜紋(くよう)」で、南部家では、陰紋なんだそうです。なお、現在多く知られている「向い鶴」の家紋は、かなり後の年代から使われるようになったらしいです。
閉伊氏の中の花輪氏は私の先祖なのでとてもいい動画でした。閉伊氏に習って今でも四つ目結の家紋を使ってます。佐々木が多いので他に使ってる家も多いですが…
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです!花輪館いずれ行ってみたいです^ ^
岩手の戦国時代について分かりやすく説明していて非常に感動と感謝を覚えます。ただ、九戸の乱が3日で終わったという表現は、岩手県人としては承服できかねます。浅野氏の秀吉への報告は3日かもしれませんが、10日程度戦ったという説もあります。3日(諸説あり)などと修正をお願いしたいです。
今回の岩手は物凄く参考になりました‼️栃木と今回は勉強になりました。次回も期待して待ってます。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです!毎度ご視聴頂きありがとうございます^ ^
歴史小説としては高橋克彦が阿弖流為、前九年/後三年の役、九戸の乱を題材に書いていて好きだったなあ
コメントありがとうございます!今回の動画関連ですと、『天を衝く』は外せないですね^ ^
克彦センセイの一連の小説には、岩手人の僻みがよく表れている。この僻みが日本を滅ぼした。すなわち東条英機は軍事・政治の実権を握るとにっくき薩長人を追い落とした。そしてアメリカの挑発に乗り、勝ち目のない戦争を起こし、再三にわたり本土大空襲をやられ、原爆2個を落とされ、310万人もの死者を出し、敗戦後は60万の人々がシベリヤへ連行された。この敗戦の結果、北方領土や竹島を取られ、いつまでたっても韓国からカネをたかられている。これに対し、薩長政権当時起きた日清戦争後の三国干渉時には政府は無理せず遼東半島を返し、日露戦争講和時にも賠償要求を押し通すことをしなかった。この時、日本は軍事的にも経済的にも行き詰まっていて、到底戦争を続けることなどできなかったが、それを隠して講和を進めた。真相をしらない国民は日比谷で焼き討ちをやったが、政府は戒厳令を敷いて収めた。もしこのとき国民の意向を受けて戦争を続行していたら、日本は負けてロシアの植民地となっていただろう。岩手人が始めた戦争の結果、日本はアメリカの属国となった。小生の父は民間人だったが、戦争に駆り出され戦死したため、残った家族は極貧の生活を強いられた。岩手人に日本を任せるわけにはいかない。
天を衝くを読んで九戸政実が好きになった。
コメントありがとうございます!魅力的な武将ですよね! 九戸政実の乱の経過も諸説ありますが、政実の奮闘は目覚ましいですね^ ^
うちの稗貫氏が出てましたね。うちは直系ですので、表に出てはいけない裏歴史がイッパイ残ってます。表に出ると、政宗~秀吉まで通説覆ります。
コメントありがとうございます!なんと…ご子孫🙌 とても興味深いです!今回も、もっと稗貫氏取り上げたかったので…!
@@rekishitravel さん有難う御座います。備中守広忠と政宗の密書や豊臣政権(浅野、蒲生、大谷、石田)、秋田の小野寺氏、近隣の葛西、江刺、和賀、南部、大崎、九戸各諸氏との書状を見ると通説の流れと違い、豊臣政権への恭順と政宗の暗躍、浅野長吉の優柔不断な対応に奥州諸氏が踊らされ、蒲生の人望の厚さが目立つ内容がザックリとですが、見て取れるんですよ。
@@ゆう-v3m6e 凄く知りたい…
@@ゆう-v3m6e ご返信ありがとうございます! 想像するだけでワクワクします!!
盛岡市民です。近代以降の地元の偉人(金田一京助や新渡戸稲造など)については小中学校で学ぶのですが、中世のことはあまり知らないことが多くとても興味深かったです。
戦国武将、隙あらば裏切る。しっちゃかめっちゃかな中で日本を統一し、白人にも好きにさせなかった信長や秀吉の偉大さを改めて感じます。
コメントありがとうございます!そろそろ西の地方にも動画展開予定なので、信長や秀吉の登場率も上がりそうです^ ^
信長はキリシタン好きだったから、彼に日本を任せたら日本はキリスト教国となり、ポルトガルの植民地になっていただろう。かって作家の永井路子さんは「光秀さんありがとう」とTVで言っていたが、まさにそのとおりです。
友達の名字がたくさん出てきて笑いました😂自分が住む所の歴史を詳しく知れて良かったです授業でも地元の歴史やればいいのになあ…
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです! 小中学校で学ぶ機会が増えればまた面白いですよね^ ^
東京から九戸城まで車で1泊しながら行ったことがあります。ちょうど発掘作業中で、規模も大きく、2時間以上見てたと思います。
コメントありがとうございます!相当な長距離ですね!笑 九戸城は見所多いですよね^ ^ 私が見学した際も主郭は工事中でした!
岩手県民を代表して感謝します大変勉強になりました、ありがとうございます
コメントありがとうございます!地元の方に楽しんで頂けて光栄です! ご視聴頂きありがとうございます^ ^
盛岡に藩都が移った時の南部藩は結構平和になってましたからね。南部家がドロドロだったのは青森県を拠点としていた時です。三戸と八戸に南部家の2大勢力があり、そこに付け入ろうとする一族の大浦(津軽)為信や九戸政実など。その頃の南部領は盛岡以北と青森県全域、秋田県鹿角地方ですから、とんでもなく広大ですよね。「三日月の丸くなるまで南部領」とは言ったものです。
10:24~小学生の時に姉帯先生という方が「自分の先祖は信長の軍勢にあっという間にやられた」と仰っていたのを思い出しました。信長じゃなくて秀吉だったんだなぁ😄
コメントありがとうございます!なんと!!姉帯氏のご子孫なんですね^ ^
別の動画で別の方が全く同じコメントをしていました同じ恩師かもしれないですねw
学校では日本の歴史を学んでも地元の歴史を学ぶことはなかったので、初めて地元史を知った感じです。地名は地元武士の名前から来てたんですね。それにしても南部氏のイメージが変わりました。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです! 学校で地元の歴史を学ぶ機会が増えると良いですね^ ^
盛岡城跡公園は何回も行っている場所です🏯
コメントありがとうございます!素敵な城跡ですよね^ ^また見学に行きたいです!
九戸政実が南部の分家でありながら古代東北人の戦法をとったって話を聞いたことがあります。
コメントありがとうございます!九戸政実、アクの強いキャラクターで魅力的ですよね! 九戸政実の乱の経過も諸説あって興味深いです^ ^
徳島県の戦国時代もいずれやられるとは思いますが、戦国の初期に重要であったので期待してます。
コメントありがとうございます!はい!徐々に西日本にも展開予定です^ ^ 徳島編も追ってアップしたいと思います!
次は秋田県の戦国時代か宮城県の戦国時代を出して欲しい。
コメントありがとうございます!宮城編は年末にアップ予定です^ ^
非常にわかりやすい動画でした。出身地が岩手の仙台藩側ですが、江戸時代の盛岡藩は一揆とかヤバイなぁと思ってました。近世以前は安倍→藤原氏の間が岩手の全盛期だったんですかね。
コメントありがとうございます!藤原氏の時代も展開が激しくて面白いですね^ ^ いずれ特集したいと思います!
宮城県人ですが、ご先祖の一つの葛西氏の盛衰は切ないですね(本吉氏ヤンチャし過ぎ)ちなみにメインのご先祖様は熊谷氏(と馬籠(千葉)氏)ですが、本家当主の話では帰農した後に色々な人を土地と一緒に取り込んだ結果とか宮城県の動画も楽しみにしてます(歌津12人衆というロマン溢れる謎の集団は流石に出ないかなぁ)
コメントありがとうございます!宮城編は今月末にアップ予定です^ ^ 本吉氏も登場予定です!
今回は地元が舞台という事で嬉しい反面、仕方ない話ですが岩手で聞かれる話されるイントネーションと違う部分があり逆に内容が入ってきませんでした。これが標準語なのですね・・・
コメントありがとうございます!イントネーション課題ですね… 改善できるよう努めます>_
秋田県もみたいです!
コメントありがとうございます!追って特集予定です! リクエストありがとうございます^ ^
水沢城も触れて欲しかった
コメントありがとうございます!今回、胆沢地域の内容が薄くなってしまったのが心残りです…>_<またの機会に取り上げたいと思います^ ^
稗貫一族に関して、もっと知りたいと思っています。😂 てがかりが…😊丸に二引両です。愛媛から
コメントありがとうございます!稗貫氏は謎が多いですよね…>_
わたしは、平泉の生まれで何となく聞いていたもので気になって気になって、、、、です。😰😰
地元では屋号toyasakiでした。
今も活躍中の作家、安部龍太郎が書いた「冬を待つ城」も九戸の乱が題材でしたね
コメントありがとうございます!久慈政則視点なのが興味深いですね^ ^
九戸政実としては津軽為信の独立を目の当たりにして、中央政権が地方の内乱に介入してこないと思ったのかもしれませんね。
コメントありがとうございます!津軽為信の動きは間違いなく政実に大きな影響を与えていたでしょうね!為信は許されて、なぜ自分は…といったところでしょうか…>_
高橋克彦先生の「天を衝く」という作品では九戸直実が南部氏内での地位向上であえて旧知の津軽為信に弘前城を陥落させた説が採用されています。
「天を衝く」では、南部家は三戸家を中心とした同族連合だったのに対して秀吉は三戸家以外の南部各家に三戸家への従属(家来化)を命じたため政実らが反発したとしていますね。
@@jougen2 さん、「津軽為信に弘前城を陥落させた説が採用されています。」これは間違いですよね。弘前城は津軽為信が建設に着手した城ですよ。
@@rekishitravel 簡単なことです。大浦為信の乱は、秀吉が総無事令を出す16年も前のことであり、下剋上が是認されていたのに対し、九戸の乱は総無事令を出したあと4年も経ってから起こしたから当然討伐の対象となったのです。政実は秀吉に喧嘩を売ったのでも盾ついたのでもなく、単に愚鈍だったにすぎません。秀吉の天下統一最後の戦いは明らかに小田原攻めであり、政実は、小田原攻めを終えた秀吉が帰阪したのでまさか奥州まで来ないだろうと多寡をくくり、南部の当主になろうと、信直を攻めたものの、これが総無事令に反する行為だったのです。秀吉も政実の乱を軽く見ていたので、小田原のとこと異なり自らは出陣していません。そして事実政実は九戸城包囲後たった2日後に降伏しています。
花巻市遠野市は元の南部藩。北上市と釜石市は市内に南部藩と伊達藩の境界線があり、市内北部は南部藩、市内南側の地域は伊達藩だったそうです。北上と釜石以南は元の伊達藩だったということで、岩手県は北からと南からの勢力に飲みこまれてできた県ですね。
コメントありがとうございます!北上市と釜石市の成り立ちは興味深いですね!釜石は今回の動画ではカットとなったのが心残りです…
ちなみに北上は国境になっていて相去から南が伊達藩で、相去から北が南部藩だったから、詳しい事は相去のサービスエリアか、北上の歴史博物館だと、もっと詳しく岩手県の地図で国境線が引かれているのし、もっと詳しく書いてあるのは、花巻の歴史博物館に行けばもっと細かく書いてあるはずだよ
南部氏を勉強したければ「もりおか歴史文化館」と「八戸市博物館」がおすすめです。もりおか歴史文化館では安定期の南部氏が、八戸市博物館では草創期の南部氏が学べます。司馬遼太郎いわく「南部の首都は盛岡、副首都は八戸」この南部藩2大都市を抑えれば南部氏に関して間違いはありません。
相変わらず分かりやすい!豊臣秀吉が旧葛西大崎領に木村吉清を配置したのは、一応有能ではあるし支配が成功したらしたで良し、失敗したならそれもそれで良しということだったのでしょう。伊達政宗による一揆の扇動も事実だったようですが、このときの蒲生氏郷の動きはさすがでした。地頭、地侍ら地生えの層の駆逐は領国のガバナンスと税制の近世化を図るために必要な荒療治であり、秀吉は肥後の佐々成政の時と同様に成否どちらに転んでもかまわないという極めて政治的なムーブをかましたのは間違いないでしょうね。そんで伊達領が減封された結果大名復帰の朱印状が反故にされた大崎義隆もかわいそうですが、後々政宗が大崎少将と名乗りだすのもホントコイツ色々性格悪くて草です。
コメントありがとうございます!葛西・大崎一揆は今月アップ予定の宮城編でしっかり取り上げたいと思います^ ^ 蒲生氏郷は主役の1人ですね! 脚本作成中ですが、やはり大崎義隆の最後は残念ですね…
斯波氏はシワ氏では無いですか?地元ではシワ氏と読んでますあと不来方城は今の紫波町と矢巾町の業界線の所に築城の予定でした
コメントありがとうございます!地元情報ありがとうございます^ ^ 参考になります!
自分がこの時代にいたら、飢饉に備える内政したかったです。
小学校時代の一年上の先輩方がそれっぽい時代劇やってたの覚えてる。
コメントありがとうございます!面白そうですね!岩手県エリアを題材とした戦国ドラマも見てみたいです^ ^
金山が多くてジパングだった奥州…四代前の祖父方が遠野の霧伏せ(きりふせ)周辺の庄屋でした。鍋倉城址山頂には南部氏の墳墓があります。酒飲むと南部氏はBKって言ってたらしい。安倍貞任の隠し金の伝説はめっちゃ盛り上がった思い出。
コメントありがとうございます!鍋倉城良い城跡ですね^ ^ 行ってみたいです!
岩手は歴史的に朝廷による坂上田村麻呂軍10万、源頼朝軍20万、豊臣軍6万など時の権力者の大軍勢に3度攻められています。
コメントありがとうございます!激戦地ですね!同様に幕末の盛岡藩も時の権力者への抵抗と解釈できそうですね…!
@@rekishitravel 「時の権力者」ってのは明治天皇ですな。
豊臣政権という嵐
コメントありがとうございます!まさに嵐ですね!急に統一政権の政策を受容するのは難しいでしょう…
大崎氏がどうなったのか教えて欲しい。
コメントありがとうございます!再来週アップ予定の宮城編で取り上げます^ ^
九戸政実の乱はいまだに事実がよくわからず「長引く抵抗に調略でやっと勝った説」「大軍で取り囲んであっさり終わった説」「一応戦になって松前からアイヌの毒矢で勝った説」いろいろあるが宮城県栗原市で処刑されたという碑がある
コメントありがとうございます!真偽はともかく色々ドラマチックなエピソードがありますよね^ ^ 長引く抵抗〜の方が魅力的ですね…!
うちの先祖、南部氏に滅ぼされたんでちょっと興味ある
コメントありがとうございます!なんと….とても気になります!!
岩手県はその後土地を巡って南部藩と伊達藩で争ったし、あちこちに関所が有ったからね
コメントありがとうございます!関ヶ原の戦いでも対立していますが、なかなかの犬猿の仲ですね….!
犬猿の仲と言うよりも、平泉の浄土思想や、元々の土地の占領とかに反発していたし、伊達藩と南部藩で土地の境界を決める時に北上を境に伊達藩、南部藩を別けていたし、その後の奥州街道とかも国境決める場合も、江戸からわざわざ奉行が来て、どっちが南部藩、どっちが伊達藩かを決める裁きをやったから、南部藩、伊達藩=犬猿の仲と言う話では無いし、豊臣秀吉の奥州仕置きが無かったら岩手県南部とかが平和だったからね
@@rekishitravel 犬猿の仲も何もね、元を正せば秀吉の奥州仕置きがそもそもの元凶だったし、伊達政宗や、家臣達が平泉に来て金鶏山に感動しなかったら平泉は今日まで何も残ってないし、むしろ秀吉とかの文化に潰されていた訳だから、岩手県のその後はその後で南部、伊達の土地境界問題で泥沼の内戦になって結局、江戸からわざわざ来た奉行に裁かれるまで、この状態だったから、岩手県が本州で広大土地一つで南部、伊達で揉めたのかがこれでわかるはずだよ
岩手県が真っ二つになった出来事が、秀吉の奥州仕置きの前の年に北条討伐がきっかけだったし、奥州藩や、一関藩とかが唐梅館に集まって軍議をした時に秀吉側について平泉とかの土地を潰されるか、反発して徹底的に戦うかの二択だったし、結果は反発をとる結果になったため、秀吉の奥州仕置きとかを食らったが、その後伊達政宗が平泉の浄土思想に共感して土地の取り潰しとかは無かったけど、その代償として政治は全部伊達藩が管理する事になったのが、岩手県南部の歴史だったはずだよ
南部藩は前田氏とかからの支援が有ったし、花巻の歴史博物館には豊臣秀吉の家臣の扇が展示していたから、秀吉は南部藩を奥州仕置きの範囲に入れたくても入れにくい部分とかも有ったけど、仕方ないと言ってやってしまったし、その当時の岩手県がいかにやりにくいと言うのがコレだからね
電撃ネットワーク南部虎弾 本名佐藤このような歴史をわかっているのか❔
九戸方、大野弥五郎、野田市助の本拠があった村から
岩手県が真っ二つに割れたのが、小田原の北条討伐に行かなかった結果岩手県は伊達と南部藩に割れたからね
「小田原の北条討伐に行かなかった」から岩手県が伊達と南部に割れたのではなく、戊辰戦争で伊達、南部が幕府側についたから新政府からの仕置きとして、伊達領南部領が宮城県、岩手県、青森県に分断されたのです。青森県も八戸市を中心とする南部領が新政府側の津軽藩と一緒にされた。青森県の津軽と南部の「犬猿の仲」はあまりにも有名。東北では特に伊達氏と南部氏が廃藩置県でことごとく領地をバラバラにされた。秋田県鹿角地方も南部領でした。ちなみに三戸南部の棟梁南部信直は小田原で秀吉に謁見してますよ。そこで信直は家臣だった大浦(津軽)為信に取られた津軽地方の奪還を秀吉に直訴しましたが認められず、大浦為信は津軽地方を掌握し弘前藩の祖となったわけです。ここから400年以上も続く青森県での津軽と南部の不仲が始まりました。
冬に食べ物に困り餓え死ぬような生活から秀吉から“味方して統一すれば、広大な城を建てて、そこに暖かい布団と風呂と食べ物を代々に渡って与える”と言われれば、少しばかりの力のある勢力ならばそりゃあ加勢するかも知れないですね
東北(北東北)はそこまで酷くないけどね。
九戸城址にある資料館にいくと、西軍オールスターに包囲された九戸城の当時の陣形を見ることができます。まあ、半分見せしめみたいなもんだし、仕方なかったよねwww
コメントありがとうございます!豪華な陣容ですよね!笑 九戸城は見学前に埋蔵文化財センターに行くとイメージが湧きやすいですね^ ^
日本は中国よりも小さいから直ぐに平和になるから岩手県も直ぐに平和になると言われているです😭?
どこの国も弱いくせに独立の野望を持った将が居たんですね。主家を盛り上げて行けば良いものを…私は栃木ですが、どーせ滅亡するなら宇都宮国綱には秀吉に抵抗して欲しかった。
コメントありがとうございます!お住まいは栃木だったのですね^ ^ 国綱は少し可哀想でしたね…^^;
@@rekishitravel 伊達家発祥の地、中村です。八幡宮もあるので是非、お越しください。
「……しまぁ~す」語尾延ばし👎が無ければ高評価!
コメントありがとうございます!語尾改善します!
うーん、やっぱり伊達や織田、武田などの大大名がいない地域の歴史は退屈だなあ、物語がないというか笑
岩手は小沢一郎王の王国です
違います(岩手県民)。
岩手の黒歴史です…。年寄り以外は小沢のことは大嫌いです。
地元民として九戸政実は尊敬する大好きな武将です。
豊臣秀吉が天下統一のために最後に戦った武将と知り、少ない兵力で決して屈しなかったその戦いぶりに感動しました。
岩手の、私の英雄に変わりはないのですがそのいきさつはいろいろあったんですね。
コメントありがとうございます!
九戸政実とても魅力的な武将ですよね^ ^
政実だけを取り上げた動画もいずれチャレンジしてみたいです!
@@rekishitravel
ありがとうございます✨
楽しみにしています😊
岩手県人です。勉強になりました。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^
釜石や遠野、花巻は対伊達氏に南部の重臣を配置したので道路が横に繋がっていますが縦に繋がっていないから南北の移動が大変です(東北道と三陸道ができてようやく移動しやすくなりました)
最近の研究で南部家の本家は盛岡(三戸)南部氏ではなく、八戸の根城(ねじょうと読みます)南部氏だそうです。鎌倉期に現在の山梨県から2つの南部氏が八戸に上陸し、先に上陸した南部氏が三戸に城を構え、後からやってきたもう一つの南部氏が根城(日本百名城です)を構えました。そこから三戸南部氏、根城南部氏と言われています。上陸間もなく隆盛を誇ったのは、八戸に城を構えた本家筋である根城南部氏でした。勢力形成が逆転したのは南北朝時代です。南北朝時代に三戸南部氏は北朝に、根城南部氏は南朝につきました。南朝の劣勢と共に根城南部氏が衰退し、北朝についた三戸南部氏が徐々に勢力を持つようになり、三戸南部氏が南部一族の主導権を握るようになりました。元々南部家では三戸と八戸は同格でしたが、主従が決定的になったのは戦国期「小田原参陣」です。この頃南部領では南部一族であり家臣の大浦(津軽)為信と九戸政実が不穏な動きをしており、三戸南部氏と八戸根城南部氏両方が小田原に行くのは非常に危険な状況でした。そこで八戸根城南部氏が留守を買って出て領内に残り、三戸南部氏が小田原に参陣、豊臣秀吉に謁見し南部家の棟梁と承認されました。小田原に行けなかった、元々の本家筋である八戸根城南部氏は、三戸南部氏の家臣になってしまったと言う訳です。最後に皆さん南部氏の関係性を覚えておいてほしいです。三戸南部氏=盛岡南部氏、八戸根城南部氏=遠野南部氏、盛岡藩(盛岡南部氏)から分かれた八戸藩。ですので八戸根城南部氏と八戸藩はそれぞれ別物の南部氏です。家紋も微妙に違います。盛岡藩(盛岡南部氏)と、ここから分かれた八戸藩(八戸南部氏)の家紋「向かい鶴」は〇があります。八戸根城南部氏と遠野南部氏の家紋「向かい鶴」には〇がありません。マニアックすぎてすみません。
コメントありがとうございます!
こうした経緯を考えると、天正期になっても八戸南部氏が裏切らなかったのは三戸氏にとって大きいですね…!
ご丁寧に説明ありがとうございます^ ^
@@rekishitravel さん、返信ありがとうございます。戦国時代の南部氏は本当に面白い。三戸南部氏、八戸根城南部氏、九戸南部氏の南部家3大勢力の駆け引きや、大浦(津軽)為信の謀反、伊達政宗との抗争、豊臣秀吉など中央勢力との対峙など見どころ満載です。
鎌倉幕府から甲斐源氏の南部三郎光行(源氏)が今の青森県と岩手北部を所領し南部町に舘を構築し後に三戸に城を築城した。
光行の次男実光が南部宗家を継ぎ、3男の実長が根城南部を起こし当主となった!後に根城南部は南部宗家の命により
岩手遠野群に配置に成り根城南部は無くなった!江戸時代に宗家盛岡南部藩2代目重直に跡目がおらず、弟二人が
盛岡南部藩、八戸藩となり所領を分割して治め、藩として同格となった!此れが正しい歴史ですよ!
付け加えるならば
南部氏は甲斐源氏新羅三郎義光の三男加賀美遠光の息子光行が甲斐国の南部郡に本拠を構えた事が始まりです。
当方、九戸の軽米町の出身ですが。
三戸南部氏と八戸南部氏の件は、少し違うようです。
根城南部氏が小田原城攻略戦に参陣しなかったのは、南部信直や三戸南部家重臣の北信愛の策略です。
何故かと言うと、南部信直が小田原攻めに参陣するためには、九戸氏を抑えておく必要が在り。
それで根城南部氏に、秀吉への領地安堵の進言と引き換えに留守を任せたという話です。
その頃から、根城南部氏が三戸南部氏に従う様になりました。
ちなみに、三戸南部氏が何処の系統の南部なのかは不明なのです。
家系図も、九戸の乱後に作られた物なので、信憑性に欠けると言われてます。
それと九戸氏、本当に南部系だったのかも分かって居ません。
自分の出身地の領主で、九戸の乱時に三戸南部氏へついた。
もとは九戸氏の客将だった「小軽米氏」は、元名は武田姓で。
根城南部氏が転任した遠野へ移り住んだ後、武田姓に戻したそうです。
根城(遠野)南部氏や九戸氏が、使っていた家紋は「九曜紋(くよう)」で、南部家では、陰紋なんだそうです。
なお、現在多く知られている「向い鶴」の家紋は、かなり後の年代から使われるようになったらしいです。
閉伊氏の中の花輪氏は私の先祖なのでとてもいい動画でした。閉伊氏に習って今でも四つ目結の家紋を使ってます。佐々木が多いので他に使ってる家も多いですが…
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです!花輪館いずれ行ってみたいです^ ^
岩手の戦国時代について分かりやすく説明していて非常に感動と感謝を覚えます。
ただ、九戸の乱が3日で終わったという表現は、岩手県人としては承服できかねます。
浅野氏の秀吉への報告は3日かもしれませんが、10日程度戦ったという説もあります。
3日(諸説あり)などと修正をお願いしたいです。
今回の岩手は物凄く参考になりました‼️栃木と今回は勉強になりました。次回も期待して待ってます。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです!毎度ご視聴頂きありがとうございます^ ^
歴史小説としては高橋克彦が阿弖流為、前九年/後三年の役、九戸の乱を題材に書いていて好きだったなあ
コメントありがとうございます!
今回の動画関連ですと、『天を衝く』は外せないですね^ ^
克彦センセイの一連の小説には、岩手人の僻みがよく表れている。この僻みが日本を滅ぼした。すなわち東条英機は軍事・政治の実権を握るとにっくき薩長人を追い落とした。そしてアメリカの挑発に乗り、勝ち目のない戦争を起こし、再三にわたり本土大空襲をやられ、原爆2個を落とされ、310万人もの死者を出し、敗戦後は60万の人々がシベリヤへ連行された。この敗戦の結果、北方領土や竹島を取られ、いつまでたっても韓国からカネをたかられている。これに対し、薩長政権当時起きた日清戦争後の三国干渉時には政府は無理せず遼東半島を返し、日露戦争講和時にも賠償要求を押し通すことをしなかった。この時、日本は軍事的にも経済的にも行き詰まっていて、到底戦争を続けることなどできなかったが、それを隠して講和を進めた。真相をしらない国民は日比谷で焼き討ちをやったが、政府は戒厳令を敷いて収めた。もしこのとき国民の意向を受けて戦争を続行していたら、日本は負けてロシアの植民地となっていただろう。
岩手人が始めた戦争の結果、日本はアメリカの属国となった。小生の父は民間人だったが、戦争に駆り出され戦死したため、残った家族は極貧の生活を強いられた。岩手人に日本を任せるわけにはいかない。
天を衝くを読んで九戸政実が好きになった。
コメントありがとうございます!
魅力的な武将ですよね! 九戸政実の乱の経過も諸説ありますが、政実の奮闘は目覚ましいですね^ ^
うちの稗貫氏が出てましたね。
うちは直系ですので、表に出てはいけない裏歴史がイッパイ残ってます。表に出ると、政宗~秀吉まで通説覆ります。
コメントありがとうございます!
なんと…ご子孫🙌 とても興味深いです!今回も、もっと稗貫氏取り上げたかったので…!
@@rekishitravel さん
有難う御座います。
備中守広忠と政宗の密書や豊臣政権(浅野、蒲生、大谷、石田)、秋田の小野寺氏、近隣の葛西、江刺、和賀、南部、大崎、九戸各諸氏との書状を見ると通説の流れと違い、豊臣政権への恭順と政宗の暗躍、浅野長吉の優柔不断な対応に奥州諸氏が踊らされ、蒲生の人望の厚さが目立つ内容がザックリとですが、見て取れるんですよ。
@@ゆう-v3m6e 凄く知りたい…
@@ゆう-v3m6e ご返信ありがとうございます! 想像するだけでワクワクします!!
盛岡市民です。近代以降の地元の偉人(金田一京助や新渡戸稲造など)については小中学校で学ぶのですが、中世のことはあまり知らないことが多くとても興味深かったです。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^
戦国武将、隙あらば裏切る。しっちゃかめっちゃかな中で日本を統一し、白人にも好きにさせなかった信長や秀吉の偉大さを改めて感じます。
コメントありがとうございます!
そろそろ西の地方にも動画展開予定なので、信長や秀吉の登場率も上がりそうです^ ^
信長はキリシタン好きだったから、彼に日本を任せたら日本はキリスト教国となり、ポルトガルの植民地になっていただろう。かって作家の永井路子さんは「光秀さんありがとう」とTVで言っていたが、まさにそのとおりです。
友達の名字がたくさん出てきて
笑いました😂
自分が住む所の歴史を
詳しく知れて良かったです
授業でも地元の歴史
やればいいのになあ…
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです! 小中学校で学ぶ機会が増えればまた面白いですよね^ ^
東京から九戸城まで車で1泊しながら行ったことがあります。ちょうど発掘作業中で、規模も大きく、2時間以上見てたと思います。
コメントありがとうございます!
相当な長距離ですね!笑 九戸城は見所多いですよね^ ^ 私が見学した際も主郭は工事中でした!
岩手県民を代表して感謝します
大変勉強になりました、ありがとうございます
コメントありがとうございます!
地元の方に楽しんで頂けて光栄です! ご視聴頂きありがとうございます^ ^
盛岡に藩都が移った時の南部藩は結構平和になってましたからね。南部家がドロドロだったのは青森県を拠点としていた時です。三戸と八戸に南部家の2大勢力があり、そこに付け入ろうとする一族の大浦(津軽)為信や九戸政実など。その頃の南部領は盛岡以北と青森県全域、秋田県鹿角地方ですから、とんでもなく広大ですよね。「三日月の丸くなるまで南部領」とは言ったものです。
10:24~
小学生の時に姉帯先生という方が「自分の先祖は信長の軍勢にあっという間にやられた」と仰っていたのを思い出しました。
信長じゃなくて秀吉だったんだなぁ😄
コメントありがとうございます!
なんと!!姉帯氏のご子孫なんですね^ ^
別の動画で別の方が全く同じコメントをしていました
同じ恩師かもしれないですねw
学校では日本の歴史を学んでも地元の歴史を学ぶことはなかったので、初めて地元史を知った感じです。地名は地元武士の名前から来てたんですね。それにしても南部氏のイメージが変わりました。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです! 学校で地元の歴史を学ぶ機会が増えると良いですね^ ^
盛岡城跡公園は何回も行っている場所です🏯
コメントありがとうございます!
素敵な城跡ですよね^ ^また見学に行きたいです!
九戸政実が南部の分家でありながら古代東北人の戦法をとったって話を聞いたことがあります。
コメントありがとうございます!
九戸政実、アクの強いキャラクターで魅力的ですよね! 九戸政実の乱の経過も諸説あって興味深いです^ ^
徳島県の戦国時代もいずれやられるとは思いますが、戦国の初期に重要であったので期待してます。
コメントありがとうございます!
はい!徐々に西日本にも展開予定です^ ^ 徳島編も追ってアップしたいと思います!
次は秋田県の戦国時代か宮城県の戦国時代を出して欲しい。
コメントありがとうございます!
宮城編は年末にアップ予定です^ ^
非常にわかりやすい動画でした。
出身地が岩手の仙台藩側ですが、江戸時代の盛岡藩は一揆とかヤバイなぁと思ってました。
近世以前は安倍→藤原氏の間が岩手の全盛期だったんですかね。
コメントありがとうございます!
藤原氏の時代も展開が激しくて面白いですね^ ^ いずれ特集したいと思います!
宮城県人ですが、ご先祖の一つの葛西氏の盛衰は切ないですね(本吉氏ヤンチャし過ぎ)
ちなみにメインのご先祖様は熊谷氏(と馬籠(千葉)氏)ですが、本家当主の話では帰農した後に色々な人を土地と一緒に取り込んだ結果とか
宮城県の動画も楽しみにしてます(歌津12人衆というロマン溢れる謎の集団は流石に出ないかなぁ)
コメントありがとうございます!
宮城編は今月末にアップ予定です^ ^ 本吉氏も登場予定です!
今回は地元が舞台という事で嬉しい反面、仕方ない話ですが岩手で聞かれる話されるイントネーションと
違う部分があり逆に内容が入ってきませんでした。これが標準語なのですね・・・
コメントありがとうございます!
イントネーション課題ですね… 改善できるよう努めます>_
秋田県もみたいです!
コメントありがとうございます!
追って特集予定です! リクエストありがとうございます^ ^
水沢城も触れて欲しかった
コメントありがとうございます!
今回、胆沢地域の内容が薄くなってしまったのが心残りです…>_<
またの機会に取り上げたいと思います^ ^
稗貫一族に関して、もっと知りたいと思っています。😂 てがかりが…😊丸に二引両です。愛媛から
コメントありがとうございます!
稗貫氏は謎が多いですよね…>_
わたしは、平泉の生まれで何となく聞いていたもので気になって気になって、、、、です。😰😰
地元では屋号toyasakiでした。
今も活躍中の作家、安部龍太郎が書いた「冬を待つ城」も九戸の乱が題材でしたね
コメントありがとうございます!
久慈政則視点なのが興味深いですね^ ^
九戸政実としては津軽為信の独立を目の当たりにして、中央政権が地方の内乱に介入してこないと思ったのかもしれませんね。
コメントありがとうございます!
津軽為信の動きは間違いなく政実に大きな影響を与えていたでしょうね!為信は許されて、なぜ自分は…といったところでしょうか…>_
高橋克彦先生の「天を衝く」という作品では九戸直実が南部氏内での地位向上であえて旧知の津軽為信に弘前城を陥落させた説が採用されています。
「天を衝く」では、南部家は三戸家を中心とした同族連合だったのに対して秀吉は三戸家以外の南部各家に三戸家への従属(家来化)を命じたため政実らが反発したとしていますね。
@@jougen2 さん、「津軽為信に弘前城を陥落させた説が採用されています。」これは間違いですよね。弘前城は津軽為信が建設に着手した城ですよ。
@@rekishitravel 簡単なことです。大浦為信の乱は、秀吉が総無事令を出す16年も前のことであり、下剋上が是認されていたのに対し、九戸の乱は総無事令を出したあと4年も経ってから起こしたから当然討伐の対象となったのです。政実は秀吉に喧嘩を売ったのでも盾ついたのでもなく、単に愚鈍だったにすぎません。秀吉の天下統一最後の戦いは明らかに小田原攻めであり、政実は、小田原攻めを終えた秀吉が帰阪したのでまさか奥州まで来ないだろうと多寡をくくり、南部の当主になろうと、信直を攻めたものの、これが総無事令に反する行為だったのです。秀吉も政実の乱を軽く見ていたので、小田原のとこと異なり自らは出陣していません。そして事実政実は九戸城包囲後たった2日後に降伏しています。
花巻市遠野市は元の南部藩。
北上市と釜石市は市内に南部藩と伊達藩の境界線があり、市内北部は南部藩、市内南側の地域は伊達藩だったそうです。北上と釜石以南は元の伊達藩だったということで、岩手県は北からと南からの勢力に飲みこまれてできた県ですね。
コメントありがとうございます!
北上市と釜石市の成り立ちは興味深いですね!
釜石は今回の動画ではカットとなったのが心残りです…
ちなみに北上は国境になっていて相去から南が伊達藩で、相去から北が南部藩だったから、詳しい事は相去のサービスエリアか、北上の歴史博物館だと、もっと詳しく岩手県の地図で国境線が引かれているのし、もっと詳しく書いてあるのは、花巻の歴史博物館に行けばもっと細かく書いてあるはずだよ
南部氏を勉強したければ「もりおか歴史文化館」と「八戸市博物館」がおすすめです。もりおか歴史文化館では安定期の南部氏が、八戸市博物館では草創期の南部氏が学べます。司馬遼太郎いわく「南部の首都は盛岡、副首都は八戸」この南部藩2大都市を抑えれば南部氏に関して間違いはありません。
相変わらず分かりやすい!
豊臣秀吉が旧葛西大崎領に木村吉清を配置したのは、一応有能ではあるし支配が成功したらしたで良し、失敗したならそれもそれで良しということだったのでしょう。伊達政宗による一揆の扇動も事実だったようですが、このときの蒲生氏郷の動きはさすがでした。
地頭、地侍ら地生えの層の駆逐は領国のガバナンスと税制の近世化を図るために必要な荒療治であり、秀吉は肥後の佐々成政の時と同様に成否どちらに転んでもかまわないという極めて政治的なムーブをかましたのは間違いないでしょうね。
そんで伊達領が減封された結果大名復帰の朱印状が反故にされた大崎義隆もかわいそうですが、後々政宗が大崎少将と名乗りだすのもホントコイツ色々性格悪くて草です。
コメントありがとうございます!
葛西・大崎一揆は今月アップ予定の宮城編でしっかり取り上げたいと思います^ ^ 蒲生氏郷は主役の1人ですね! 脚本作成中ですが、やはり大崎義隆の最後は残念ですね…
斯波氏はシワ氏では無いですか?地元ではシワ氏と読んでますあと不来方城は今の紫波町と矢巾町の業界線の所に築城の予定でした
コメントありがとうございます!
地元情報ありがとうございます^ ^ 参考になります!
自分がこの時代にいたら、飢饉に備える内政したかったです。
小学校時代の一年上の先輩方がそれっぽい時代劇やってたの覚えてる。
コメントありがとうございます!
面白そうですね!岩手県エリアを題材とした戦国ドラマも見てみたいです^ ^
金山が多くてジパングだった奥州…
四代前の祖父方が遠野の霧伏せ(きりふせ)周辺の庄屋でした。
鍋倉城址山頂には南部氏の墳墓があります。
酒飲むと南部氏はBKって言ってたらしい。
安倍貞任の隠し金の伝説はめっちゃ盛り上がった思い出。
コメントありがとうございます!
鍋倉城良い城跡ですね^ ^ 行ってみたいです!
岩手は歴史的に朝廷による坂上田村麻呂軍10万、源頼朝軍20万、豊臣軍6万など時の権力者の大軍勢に3度攻められています。
コメントありがとうございます!
激戦地ですね!同様に幕末の盛岡藩も時の権力者への抵抗と解釈できそうですね…!
@@rekishitravel 「時の権力者」ってのは明治天皇ですな。
豊臣政権という嵐
コメントありがとうございます!
まさに嵐ですね!急に統一政権の政策を受容するのは難しいでしょう…
大崎氏がどうなったのか教えて欲しい。
コメントありがとうございます!
再来週アップ予定の宮城編で取り上げます^ ^
九戸政実の乱はいまだに事実がよくわからず
「長引く抵抗に調略でやっと勝った説」
「大軍で取り囲んであっさり終わった説」
「一応戦になって松前からアイヌの毒矢で勝った説」
いろいろあるが
宮城県栗原市で処刑されたという碑がある
コメントありがとうございます!
真偽はともかく色々ドラマチックなエピソードがありますよね^ ^ 長引く抵抗〜の方が魅力的ですね…!
うちの先祖、南部氏に滅ぼされたんでちょっと興味ある
コメントありがとうございます!
なんと….とても気になります!!
岩手県はその後土地を巡って南部藩と伊達藩で争ったし、あちこちに関所が有ったからね
コメントありがとうございます!
関ヶ原の戦いでも対立していますが、なかなかの犬猿の仲ですね….!
犬猿の仲と言うよりも、平泉の浄土思想や、元々の土地の占領とかに反発していたし、伊達藩と南部藩で土地の境界を決める時に北上を境に伊達藩、南部藩を別けていたし、その後の奥州街道とかも国境決める場合も、江戸からわざわざ奉行が来て、どっちが南部藩、どっちが伊達藩かを決める裁きをやったから、南部藩、伊達藩=犬猿の仲と言う話では無いし、豊臣秀吉の奥州仕置きが無かったら岩手県南部とかが平和だったからね
@@rekishitravel
犬猿の仲も何もね、元を正せば秀吉の奥州仕置きがそもそもの元凶だったし、伊達政宗や、家臣達が平泉に来て金鶏山に感動しなかったら平泉は今日まで何も残ってないし、むしろ秀吉とかの文化に潰されていた訳だから、岩手県のその後はその後で南部、伊達の土地境界問題で泥沼の内戦になって結局、江戸からわざわざ来た奉行に裁かれるまで、この状態だったから、岩手県が本州で広大土地一つで南部、伊達で揉めたのかがこれでわかるはずだよ
岩手県が真っ二つになった出来事が、秀吉の奥州仕置きの前の年に北条討伐がきっかけだったし、奥州藩や、一関藩とかが唐梅館に集まって軍議をした時に秀吉側について平泉とかの土地を潰されるか、反発して徹底的に戦うかの二択だったし、結果は反発をとる結果になったため、秀吉の奥州仕置きとかを食らったが、その後伊達政宗が平泉の浄土思想に共感して土地の取り潰しとかは無かったけど、その代償として政治は全部伊達藩が管理する事になったのが、岩手県南部の歴史だったはずだよ
南部藩は前田氏とかからの支援が有ったし、花巻の歴史博物館には豊臣秀吉の家臣の扇が展示していたから、秀吉は南部藩を奥州仕置きの範囲に入れたくても入れにくい部分とかも有ったけど、仕方ないと言ってやってしまったし、その当時の岩手県がいかにやりにくいと言うのがコレだからね
電撃ネットワーク南部虎弾 本名佐藤
このような歴史をわかっているのか❔
九戸方、大野弥五郎、野田市助の本拠があった村から
岩手県が真っ二つに割れたのが、小田原の北条討伐に行かなかった結果岩手県は伊達と南部藩に割れたからね
「小田原の北条討伐に行かなかった」から岩手県が伊達と南部に割れたのではなく、戊辰戦争で伊達、南部が幕府側についたから新政府からの仕置きとして、伊達領南部領が宮城県、岩手県、青森県に分断されたのです。青森県も八戸市を中心とする南部領が新政府側の津軽藩と一緒にされた。青森県の津軽と南部の「犬猿の仲」はあまりにも有名。東北では特に伊達氏と南部氏が廃藩置県でことごとく領地をバラバラにされた。秋田県鹿角地方も南部領でした。ちなみに三戸南部の棟梁南部信直は小田原で秀吉に謁見してますよ。そこで信直は家臣だった大浦(津軽)為信に取られた津軽地方の奪還を秀吉に直訴しましたが認められず、大浦為信は津軽地方を掌握し弘前藩の祖となったわけです。ここから400年以上も続く青森県での津軽と南部の不仲が始まりました。
冬に食べ物に困り餓え死ぬような生活から秀吉から
“味方して統一すれば、広大な城を建てて、そこに暖かい布団と風呂と食べ物を代々に渡って与える”
と言われれば、少しばかりの力のある勢力ならばそりゃあ加勢するかも知れないですね
東北(北東北)はそこまで酷くないけどね。
九戸城址にある資料館にいくと、西軍オールスターに包囲された九戸城の当時の陣形を見ることができます。
まあ、半分見せしめみたいなもんだし、仕方なかったよねwww
コメントありがとうございます!
豪華な陣容ですよね!笑
九戸城は見学前に埋蔵文化財センターに行くとイメージが湧きやすいですね^ ^
日本は中国よりも小さいから直ぐに平和になるから岩手県も直ぐに平和になると言われているです😭?
どこの国も弱いくせに独立の野望を持った将が居たんですね。主家を盛り上げて行けば良いものを…私は栃木ですが、どーせ滅亡するなら宇都宮国綱には秀吉に抵抗して欲しかった。
コメントありがとうございます!
お住まいは栃木だったのですね^ ^ 国綱は少し可哀想でしたね…^^;
@@rekishitravel 伊達家発祥の地、中村です。八幡宮もあるので是非、お越しください。
「……しまぁ~す」語尾延ばし👎が無ければ高評価!
コメントありがとうございます!
語尾改善します!
うーん、やっぱり伊達や織田、武田などの大大名がいない地域の歴史は退屈だなあ、物語がないというか笑
岩手は小沢一郎王の王国です
違います(岩手県民)。
岩手の黒歴史です…。年寄り以外は小沢のことは大嫌いです。