両親失った25歳「今度は自分が助けに」 震災10年 未来への決意<岩手・陸前高田市> (21/03/12

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  • เผยแพร่เมื่อ 11 มี.ค. 2021
  • 東日本大震災から10年が経った3月11日、岩手県陸前高田市で行われた追悼式で両親を失った25歳の男性が「今度は自分が誰かの助けになりたい」という決意を語った。10年の歩みを追った。
    陸前高田市で行われた追悼式で遺族代表の言葉を述べた丹野晋太郎さん(25)。
    丹野 晋太郎 さん
    「東日本大震災を経験した私から言えることは、家族や周囲の人に日々感謝し、その存在は決して当たり前ではなく『死』と隣り合わせで生きていることを知ってほしいと思います」
    10年前は中学3年生。
    あの日、津波で両親と祖母を失った。
    丹野 晋太郎 さん(2020年8月)
    「震災から10年経って、25歳になりましたっていうことと、何とか頑張ってますという報告ですかね。後ろを振り向くような気持ちではないので、前を向いて頑張ろうというところです」
    震災直後からの高校3年間は、母・勝子さんの妹・幸嘉子さんの家に身を寄せた。
    丹野さんのおば 幸嘉子 さん
    「孤児になって大変なところを近くで見てきたので…。ごめんなさい。何か、涙が…」
    丹野さんは県内の大学を卒業後、宮城県仙台市の広告代理店に勤めたが、2019年、障害者のアート作品を様々な形で発信する盛岡市の会社、ヘラルボニーに転職。
    (2020年7月)この日はTシャツやハンカチなどを販売する店のオープンに向け、準備をしていた。
    丹野 晋太郎 さん
    「結果がどう転ぶかは、これからになってくるんですけど、しっかりいい方向に進めるように、全力で頑張れたらなと思います」
    陸前高田を離れた後も、七夕や獅子舞など地域の行事に欠かさず参加してきた丹野さん。
    2020年6月、特別授業の講師として母校(高田高校)に招かれた。
    後輩たちに向けて丹野さんはこう語り掛けた。
    丹野 晋太郎 さん(2020年6月)
    「ほんとこの10年間、早かったです。生きることに必死だったというのが一番あるんですけど、自分がどうしたいかが一番大事だと思います。誰かに何を言われようが、自分がやりたいからやるというのがすごく大事だと思ってます。チャレンジするときは怖いときは勿論あって、でも震災があってからは、これやってみたいかもと思ったことは、全部やろうと思っています」
    ヘラルボニーは次々に新たな展開を生み出している。
    水産物の卸売業者などと共同企業体を設立し、11日からアート作品をパッケージに使ったむきホヤの販売を始めた。
    丹野 晋太郎 さん
    「震災10年のタイミングで(沿岸に)関われているのは縁を感じますし、自分の生まれ育った地域としっかり関わってそれが結果として出て、その地域が続いていくという未来が描けたらいいと思っている。しっかり結果が出る形で関わっていけたらと」
    両親と祖母を失ったあの日から10年。
    自分らしく、今を生きている丹野晋太郎さん。
    11日は、こんな言葉で未来への決意を示した。
    丹野 晋太郎 さん
    「私と同じように自責の念を背負い、まだまだ辛く悲しい思いをされている方は本当にたくさんいるかと思います。一個人ができることは本当に小さいですが、生きている限り一人ではなく、後ろを振り返るとたくさんの人が周囲にはいて、知らず知らずにお互いを助け合いながら、みんなが生きているはずです。震災後、本当にたくさんの方に助けられました。今度は、自分が誰かの助けになり、誰かの役に立てるような人間になりたいと、震災から今まで思い続けています」

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