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この時代の瓦町駅に降りて、志度まで行ってみたかった。喧騒、電動が、聞こえてきます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。瓦町駅、今では当時の面影がほとんど無いようですが、当時の平日朝の喧騒と目まぐるしい光景は、動画の通りでした。
ありがとう😊🌼❤
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
今もですが、本数の多さから博物館ぶりでは西日本最強ですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。当時の電車博物館といったら、仰るように琴電が西日本最強ですね。東日本では、弘南鉄道や日立電鉄が博物館的でしたが、琴電のバリエーションにはちょっと及ばなかった気がします。路面電車のカテゴリーでは、もちろん広電で、これも西日本ですね。
高松出身(長尾線)の学生君が近所の🏪で働いていた。(旧)瓦町駅を👦の頃見たらしい。讃岐平野の温暖な風土と相まって穏やかな青年だった。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。琴電目的以外にも讃岐地方を何度訪問しましたが、気候のせいか、私も全体的に穏やかな印象を受けました。
長尾線は当時瓦町で折り返してましたが、車両基地は現在の仏生山じゃなくて志度線と同じ今橋だったみたいです。当時は増結車も多かったので瓦町~今橋での回送も結構あったと思いますね。その長尾線も今じゃ京急の中古が入って大型化され、京急と名古屋市地下鉄の車両が共演してます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。仰るように、当時は車輛の増解結が頻繁に行われ、長尾線車輛の瓦町~今橋車庫間の回送も引っ切り無しでしたね。それは、この動画に映像がたっぷり出てくる通りです。
旧瓦町駅の4番線につながっていたのは瓦町駅の留置線ですよ(元出晴駅?)。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。手元の資料を確認したところ、瓦町駅と今橋駅は0.6kmしか離れていないのに、瓦町駅から僅か0.1kmのところに、仰る通りに出晴(ではれ)駅がありました! 尤も、昭和20年の終戦前に廃止になっているようですが。
@@昭和電車チャンネル 旧瓦町駅では3番線は志度線と瓦町駅の留置線の両方に行くことができたのですが、4番線は志度線にはつながっておらず瓦町駅の留置線にのみ行くことができました。瓦町駅の留置線(瓦町検車区?)は今はありません。当時は今橋工場はほとんど使われておらず全車両が仏生山工場の受け持ちでした。私が通学で琴電を利用していたのは高校生の頃で昭和58年まで利用していました。
高松琴平電鉄の動画見させ貰いました。自分はまだ直接乗車したことは有りませんが、そんな中で自分は元京浜急行の車輌が印象に残りました。何せ(横浜在住の自分)、この車輌には何度か京急時代に乗りました。側面の窓がやたら大きいのが特長でしかも路面電車のように窓いっぱいに保護棒が渡して有るのも多車輌との違いですね‼️それにしても琴電の朝ラッシュは首都圏並みだったのにはびっくりしました。今回も動画ありがとうございました🙇
いつもご視聴、コメントありがとうございます。元京急車両の窓の大きさは、他にほとんど例を見ない強烈な個性でしたよね。この30形は、正面非貫通のオリジナルは勿論好きですが、貫通化した方も、なかなか様になっていました。平日朝の瓦町駅では、三つの線の列車が本当にひっきりなしに発着し、且つその合間には頻繁に車輛入れ換えが行われ、撮影を休む暇が全くありませんでした。複数の電車が同時に動いているため、両方とも撮りたいのに撮れないというジレンマが多々ありましたっけ。
電車を去る前に上がる遮断機。これも懐かしい。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。ちょっと不思議ですよね。
鉄道ファンはいいけど一般利用者はたまらないでしょうね、これらの旧型電車が琴電旧経営陣営の考えで冷房車も京急600形投入まで無く、そごうの破綻がきっかけに琴電も経営危機に陥りましたね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。鉄道事業者としては、もちろん「博物館」を運営していた訳ではないので、業務効率を考えても、好きで種々雑多な車輛を抱えていたはずはありませんよね。ただ、経営陣の違いによって、旧型車輛への温度差はあったのかもしれません。
この動画が撮影された時に小学生だった私は長尾線の沿線に住んでいたので、瓦町駅の風景が懐かしいです。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。地元の方に懐かしんでいただけたなら、当方としても大変嬉しいです。私は後年、何度か琴電に乗りましたが、当時と比べて瓦町駅が激変していて、大変驚きました。
3:12 27+28編成 さよなら運転で志度~瓦町往復で乗りました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。さよなら運転があったのですね!
かつての瓦町は、平面交差やスイッチバックなのにこんなに切り盛りしてたんですね。みんな線路を渡っちゃってるし(笑)志度線は海沿いのカーブが変えられないという事もあり、車両の一括運用出来ず切り離されちゃったんですね。67は切り離しの後、ドア開けっぱなしで通過する姿がのどかでいいですね~事業車になった300とかは、たまにはイベントで走らせてほしいですけどね。コロナで最後の姿を行かれなかったんで…
いつもご視聴、コメントありがとうございます。そうですよね! スイッチバックに平面交差があるところに、志度線と長尾線の電車を縦横無尽に入れ換えしていて、ほんと「神業」かと思いました。志度線分離の背景にそんな事情があったのですか。古典電車の一部は、事業車としてであっても残されたのは良かったです。
懐かしいなぁ…幼少期を思い出すなぁ…
いつもご視聴、コメントありがとうございます。元?地元の方に懐かしんでいただけたなら、当方としても嬉しいです。
今の志度線は瓦町で分断されて独立路線になりましたね。近々置き換えもあるそうですがやはり噂の京急1500形になるんですかね?
いつもご視聴、コメントありがとうございます。運用だけならともかく、線路も物理的に切れてしまったのを知ったときは、昔を活況を知っているだけに驚きました。志度線車輛の足回り整備の際は台車だけを仏生山に陸送しているようです。車輛置き換えの噂については知りませんでした。
♪電車いろいろ瓦町 コ ト デ ン〜ここもオノデン坊やの歌が当てはまりますね。朝の学生さん達が走る様子は 昭和の地方の駅の風景そのもの。全員が乗り終わるまでは 電車も待ってくれました。流石にショートカットする輩には 怒鳴り散らす駅員さんもいたけど。ワイドな窓の元京急230形の30形は 大きさも手頃で使い勝手も良かったんでしょうね。琴電が後に京急車を大量に入れるようになった切っ掛けだと思います。車両間は 物凄く間が開いていて 幌がなく 簡単な手摺と両側から渡してある踏み板だけという連結面は 関鉄等 他の地方私鉄でも見る事が出来ました。元南武鉄道の電車は 80年代に入る頃までは 流鉄でも見る事が出来(モハ100形)1200形が来るまでは ラッシュ時の増結用に使われていました。如何にも重厚そうなクラシカルな釣り合い梁台車の足回りは 90年代半ば頃の『鉄道ジャーナル』の記事によれば 実際物凄く重かったものの その分かなり頑丈だったそうです。だから古い物は 既にこの時点で 60年以上も走れたんでしょうね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。そんな替え歌?があったのですね。思わず笑ってしまいました。江ノ電だったら「電車いろいろ(ここは共通?)極楽寺 エッノッデ~ン」とかになるんでしょうね。電車乗り換えでは、最後に辿り着いた学生まで待っていてくれて地方私鉄の温かさを感じました。速攻でショートカットした男子学生は車内でだいぶ待ったことでしょう(笑)。ここでは線路渡りが黙認されていたようで、他の映像にも出てきます。大正末期生まれの車輛は、たしかにこの時点で60歳を超えていましたが、老朽化という感じは一切ありませんでしたね。
そごうデパートは閉店になりましたね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。'97年オープンの駅ビルに最初に入ったのが「コトデンそごう」だったようですね。
「コトデンそごう」はそごう破綻(その煽りで琴電も民事再生法の適用を受ける羽目になるが‥‥)で「高松天満屋」となるも、撤退で「瓦町FLAG」という複合ビルになりました。
カンカン踏切の音は、絶対に合いません。これは、モーターでかねを叩いているんですが、モーターの回転はそれほど精度が高くないので、同じ電圧をかけても微妙に回転数が同じにならないからです。現在の電子音式の場合、音源が一つで多数のスピーカーを繋いでいるだけなので、合うのは当たり前なんです。そもそも昔は電子音式はなかったのですが、音が小さいことや錆びてくるとまともな音が出ないと言った問題から切り替わっていったんですが、変えたら踏切そばの家の受験生が、「うるさい」とボロ布を詰めて音を小さくしてしまったなんて、笑うに笑えない話があるくらいです。あと、東芝製の電車(と言えるかどうかわかりませんが)ドリーム交通のモノレールの車両がありますが、開通から一年半で運休になってしまいました。その後かなり時間が経ってから、廃止されました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。なるほどモータの回転ムラですね。このリズムが一定でないのも、鐘のサイズや材質違いから音色が様々だったのも、それぞれ大変味があり魅力的でした。それが時代と共に、合理化の観点から電子音式に変わっていったのは致し方ありませんが、音色がなんとも味気無く、おまけに受験生でなくとも(笑)、近くで聞くと耳に障るほどウルさく感じるのも事実だと思います。あのいわく付きのドリーム交通の車輛も東芝製だったのですね。コンクリートのレールの残骸が長らく放置されていましたが、いつの間にか撤去されてしまいました・・
朝のジャンクション瓦町、ものすごい活気、若さあふれる高校生にジジィとなった私奴は、その若さに嫉妬しそう(苦笑)この時代、琴電は一輛一輛が出自が違うと云ってよいほど、雑多な車が走っていましたね。国鉄に例えれば飯田線級でしょうか。しかし京急一党30型はまとまった数が。研修整備の統一に、大きく寄与したことと思います。しかし、貫通化改造は、熱烈京急230型信奉者としては、複雑な思い。しかし、出自の面影も無いほどに改造された車も居ますしね、現場の使い勝手の為の改造はやむを得ませんね。今も京急の名車が活躍する琴電、元1000系に会いに訪れたいですね!
いつもご視聴、コメントありがとうございます。高校生のダッシュ乗り換え風景は、撮影当時一応20代wだった私から見ても多少圧倒される場面だったので、カメラをパンして追いかけた次第です。当時の琴電は仰るように種々雑多だった車輛が大変魅力的でした。元京急の30形は全て貫通化されずにオリジナルの顔も残っていたので嬉しかったですね。だいぶ後年に琴電を訪問した際には元1000系に会えて懐かしい思いがしました。
1:30 ここ本当に日本?笑
いつもご視聴、コメントありがとうございます。次の電車がすぐ来る都会では想像できませんが、本数の少ない地方の鉄道では、昔も今も、電車に間に合おうと必死で走る光景・・あると思います。
@@昭和電車チャンネル ホームから降りてショートカットする光景今では想像できませんね!
増解結、入換、ルービックキューブより難しそうです。笑瓦町駅も車両に線路にだいぶ変わりましたが、駅の放送のおばちゃんの声だけは未だに現役ですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。この、分刻み秒刻みの複雑な入れ換えを、毎朝繰り返していたとは! ホント驚きです。放送の声?は変わっていないのですね・・笑
この時代の瓦町駅に降りて、志度まで行ってみたかった。喧騒、電動が、聞こえてきます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
瓦町駅、今では当時の面影がほとんど無いようですが、当時の平日朝の喧騒と目まぐるしい光景は、動画の通りでした。
ありがとう😊🌼❤
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
今もですが、本数の多さから博物館ぶりでは西日本最強ですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
当時の電車博物館といったら、仰るように琴電が西日本最強ですね。東日本では、弘南鉄道や日立電鉄が博物館的でしたが、琴電のバリエーションにはちょっと及ばなかった気がします。路面電車のカテゴリーでは、もちろん広電で、これも西日本ですね。
高松出身(長尾線)の学生君が近所の🏪で働いていた。(旧)瓦町駅を👦の頃見たらしい。讃岐平野の温暖な風土と相まって穏やかな青年だった。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
琴電目的以外にも讃岐地方を何度訪問しましたが、気候のせいか、私も全体的に穏やかな印象を受けました。
長尾線は当時瓦町で折り返してましたが、車両基地は現在の仏生山じゃなくて志度線と同じ今橋だったみたいです。当時は増結車も多かったので瓦町~今橋での回送も結構あったと思いますね。その長尾線も今じゃ京急の中古が入って大型化され、京急と名古屋市地下鉄の車両が共演してます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
仰るように、当時は車輛の増解結が頻繁に行われ、長尾線車輛の瓦町~今橋車庫間の回送も引っ切り無しでしたね。それは、この動画に映像がたっぷり出てくる通りです。
旧瓦町駅の4番線につながっていたのは瓦町駅の留置線ですよ(元出晴駅?)。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
手元の資料を確認したところ、瓦町駅と今橋駅は0.6kmしか離れていないのに、瓦町駅から僅か0.1kmのところに、仰る通りに出晴(ではれ)駅がありました! 尤も、昭和20年の終戦前に廃止になっているようですが。
@@昭和電車チャンネル 旧瓦町駅では3番線は志度線と瓦町駅の留置線の両方に行くことができたのですが、4番線は志度線にはつながっておらず瓦町駅の留置線にのみ行くことができました。瓦町駅の留置線(瓦町検車区?)は今はありません。当時は今橋工場はほとんど使われておらず全車両が仏生山工場の受け持ちでした。私が通学で琴電を利用していたのは高校生の頃で昭和58年まで利用していました。
高松琴平電鉄の動画見させ貰いました。
自分はまだ直接乗車したことは有りませんが、そんな中で自分は元京浜急行の車輌が印象に残りました。
何せ(横浜在住の自分)、この車輌には何度か京急時代に乗りました。側面の窓がやたら大きいのが特長でしかも路面電車のように窓いっぱいに保護棒が渡して有るのも多車輌との違いですね‼️
それにしても琴電の朝ラッシュは首都圏並みだったのにはびっくりしました。
今回も動画ありがとうございました🙇
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
元京急車両の窓の大きさは、他にほとんど例を見ない強烈な個性でしたよね。この30形は、正面非貫通のオリジナルは勿論好きですが、貫通化した方も、なかなか様になっていました。平日朝の瓦町駅では、三つの線の列車が本当にひっきりなしに発着し、且つその合間には頻繁に車輛入れ換えが行われ、撮影を休む暇が全くありませんでした。複数の電車が同時に動いているため、両方とも撮りたいのに撮れないというジレンマが多々ありましたっけ。
電車を去る前に上がる遮断機。これも懐かしい。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
ちょっと不思議ですよね。
鉄道ファンはいいけど一般利用者はたまらないでしょうね、これらの旧型電車が琴電旧経営陣営の考えで冷房車も京急600形投入まで無く、そごうの破綻がきっかけに琴電も経営危機に陥りましたね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
鉄道事業者としては、もちろん「博物館」を運営していた訳ではないので、業務効率を考えても、好きで種々雑多な車輛を抱えていたはずはありませんよね。ただ、経営陣の違いによって、旧型車輛への温度差はあったのかもしれません。
この動画が撮影された時に小学生だった私は長尾線の沿線に住んでいたので、瓦町駅の風景が懐かしいです。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
地元の方に懐かしんでいただけたなら、当方としても大変嬉しいです。私は後年、何度か琴電に乗りましたが、当時と比べて瓦町駅が激変していて、大変驚きました。
3:12
27+28編成
さよなら運転で志度~瓦町
往復で乗りました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
さよなら運転があったのですね!
かつての瓦町は、平面交差やスイッチバックなのにこんなに切り盛りしてたんですね。みんな線路を渡っちゃってるし(笑)
志度線は海沿いのカーブが変えられないという事もあり、車両の一括運用出来ず切り離されちゃったんですね。
67は切り離しの後、ドア開けっぱなしで通過する姿がのどかでいいですね~
事業車になった300とかは、たまにはイベントで走らせてほしいですけどね。コロナで最後の姿を行かれなかったんで…
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
そうですよね! スイッチバックに平面交差があるところに、志度線と長尾線の電車を縦横無尽に入れ換えしていて、ほんと「神業」かと思いました。志度線分離の背景にそんな事情があったのですか。古典電車の一部は、事業車としてであっても残されたのは良かったです。
懐かしいなぁ…幼少期を思い出すなぁ…
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
元?地元の方に懐かしんでいただけたなら、当方としても嬉しいです。
今の志度線は瓦町で分断されて独立路線になりましたね。
近々置き換えもあるそうですがやはり噂の京急1500形になるんですかね?
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
運用だけならともかく、線路も物理的に切れてしまったのを知ったときは、昔を活況を知っているだけに驚きました。志度線車輛の足回り整備の際は台車だけを仏生山に陸送しているようです。車輛置き換えの噂については知りませんでした。
♪電車いろいろ瓦町 コ ト デ ン〜
ここもオノデン坊やの歌が当てはまりますね。
朝の学生さん達が走る様子は 昭和の地方の駅の風景そのもの。
全員が乗り終わるまでは 電車も待ってくれました。
流石にショートカットする輩には 怒鳴り散らす駅員さんもいたけど。
ワイドな窓の元京急230形の30形は 大きさも手頃で使い勝手も良かったんでしょうね。
琴電が後に京急車を大量に入れるようになった切っ掛けだと思います。
車両間は 物凄く間が開いていて 幌がなく 簡単な手摺と両側から渡してある踏み板だけという連結面は 関鉄等 他の地方私鉄でも見る事が出来ました。
元南武鉄道の電車は 80年代に入る頃までは 流鉄でも見る事が出来(モハ100形)1200形が来るまでは ラッシュ時の増結用に使われていました。
如何にも重厚そうなクラシカルな釣り合い梁台車の足回りは 90年代半ば頃の『鉄道ジャーナル』の記事によれば 実際物凄く重かったものの その分かなり頑丈だったそうです。
だから古い物は 既にこの時点で 60年以上も走れたんでしょうね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
そんな替え歌?があったのですね。思わず笑ってしまいました。江ノ電だったら「電車いろいろ(ここは共通?)極楽寺 エッノッデ~ン」とかになるんでしょうね。電車乗り換えでは、最後に辿り着いた学生まで待っていてくれて地方私鉄の温かさを感じました。速攻でショートカットした男子学生は車内でだいぶ待ったことでしょう(笑)。ここでは線路渡りが黙認されていたようで、他の映像にも出てきます。大正末期生まれの車輛は、たしかにこの時点で60歳を超えていましたが、老朽化という感じは一切ありませんでしたね。
そごうデパートは閉店になりましたね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
'97年オープンの駅ビルに最初に入ったのが「コトデンそごう」だったようですね。
「コトデンそごう」はそごう破綻(その煽りで琴電も民事再生法の適用を受ける羽目になるが‥‥)で「高松天満屋」となるも、撤退で「瓦町FLAG」という複合ビルになりました。
カンカン踏切の音は、絶対に合いません。これは、モーターでかねを叩いているんですが、モーターの回転はそれほど精度が高くないので、同じ電圧をかけても微妙に回転数が同じにならないからです。
現在の電子音式の場合、音源が一つで多数のスピーカーを繋いでいるだけなので、合うのは当たり前なんです。
そもそも昔は電子音式はなかったのですが、音が小さいことや錆びてくるとまともな音が出ないと言った問題から切り替わっていったんですが、変えたら踏切そばの家の受験生が、「うるさい」とボロ布を詰めて音を小さくしてしまったなんて、笑うに笑えない話があるくらいです。
あと、東芝製の電車(と言えるかどうかわかりませんが)ドリーム交通のモノレールの車両がありますが、開通から一年半で運休になってしまいました。その後かなり時間が経ってから、廃止されました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
なるほどモータの回転ムラですね。このリズムが一定でないのも、鐘のサイズや材質違いから音色が様々だったのも、それぞれ大変味があり魅力的でした。それが時代と共に、合理化の観点から電子音式に変わっていったのは致し方ありませんが、音色がなんとも味気無く、おまけに受験生でなくとも(笑)、近くで聞くと耳に障るほどウルさく感じるのも事実だと思います。あのいわく付きのドリーム交通の車輛も東芝製だったのですね。コンクリートのレールの残骸が長らく放置されていましたが、いつの間にか撤去されてしまいました・・
朝のジャンクション瓦町、ものすごい活気、若さあふれる高校生にジジィとなった私奴は、その若さに嫉妬しそう(苦笑)
この時代、琴電は一輛一輛が出自が違うと云ってよいほど、雑多な車が走っていましたね。国鉄に例えれば飯田線級でしょうか。しかし京急一党30型はまとまった数が。研修整備の統一に、大きく寄与したことと思います。しかし、貫通化改造は、熱烈京急230型信奉者としては、複雑な思い。しかし、出自の面影も無いほどに改造された車も居ますしね、現場の使い勝手の為の改造はやむを得ませんね。
今も京急の名車が活躍する琴電、元1000系に会いに訪れたいですね!
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
高校生のダッシュ乗り換え風景は、撮影当時一応20代wだった私から見ても多少圧倒される場面だったので、カメラをパンして追いかけた次第です。当時の琴電は仰るように種々雑多だった車輛が大変魅力的でした。元京急の30形は全て貫通化されずにオリジナルの顔も残っていたので嬉しかったですね。だいぶ後年に琴電を訪問した際には元1000系に会えて懐かしい思いがしました。
1:30 ここ本当に日本?笑
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
次の電車がすぐ来る都会では想像できませんが、本数の少ない地方の鉄道では、昔も今も、電車に間に合おうと必死で走る光景・・あると思います。
@@昭和電車チャンネル ホームから降りてショートカットする光景今では想像できませんね!
増解結、入換、ルービックキューブより難しそうです。笑
瓦町駅も車両に線路にだいぶ変わりましたが、駅の放送のおばちゃんの声だけは未だに現役ですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
この、分刻み秒刻みの複雑な入れ換えを、毎朝繰り返していたとは! ホント驚きです。放送の声?は変わっていないのですね・・笑