ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
小名木先生ありがとうございます。素晴らしい講義をワクワク拝聴しました。我ら日本人の誇りを子孫に繋ぎましょう。
アカホヤの大噴火で、日本から大陸に縄文人が移り住んで、朝鮮半島や揚子江河口付近に縄文の心と文化を広げていったのですね。この頃のご先祖の大和魂を思うと、尊敬の念しかないです。太古も、現在も常にリーダーとしてアジア地域を牽引してきたのが日本人であると知る事ができ、誇りを持てました。小名木先生、素晴らしい発信をありがとうございました!
火山の噴火は定番だろwwそれよりも森林火災だろ?建速須佐之男命とか海外だと雷神がこの系統化と・・・森は人を阻む森と杜どちらも人の侵入を阻みますおいおいおいww大丈夫かwwとなりますよね?くだらんしちゃんとやれよ!クソボケ!ってなるのが普通かと
現在はアジア内でも経済力が落ちまくってるアタオカな国が日本ですけど…そもそも噴火によって日本からアジアに出ていったと言いますが、日本でホモ・サピエンスが誕生しない限りその前には必ず大陸からホモサピエンスが流入して以降に孤立し日本独自の文化が発展しています。日本がサイコー!とかクールJAPANとか言ってる奴らはほぼ詐欺師ですよ。まー極端に騙されないのがいいですよ。
それはちょっと解釈が飛躍し過ぎな気がする
小名木さんの話が一番参考になるし、感覚でその通りだといつも納得します!話も上手いし面白いし最高です😊これからも楽しみにしてます!
小名木先生、いつもありがとうございます。先生の書かれた「縄文文明 世界中の教科書から消された歴史の真実 」のことを子供に話しても信じてくれなかったので本動画を送りました。孫たちにはぜひ真実を教えるために。
揚子江の解釈がすごい!はっと何か気づかされました!日本人!すごいなぁ!
小名木先生、素晴らしい動画をありがとうございます。縄文時代から日本には文字がありました。神代文字です。これが、アカホヤの大噴火を逃れた縄文人たちがメソポタミアや揚子江流域に伝わり、楔型文字や亀甲文字になったと思います。日本は文化の先進地で稲作や文字・土器などを各地で伝えてそれぞれの地域で新しい文化を作ったのでしょう。そして、弥生時代や古墳時代に東の地、ふるさと日本に戻ってきたのではないでしょうか。
この話は以前から推測されていた事でしたね。私も、どうもそう言うことが在りそうだと思います。アカホヤで九州は絶滅しましたから、関東、東北に逃れたのだと思います。元々、縄文文化は東北で育ったものです。
日本人として誇らしいです。日本人によって周りの国が成り立った事がよく分かりました。
日本のお陰じゃないか。。。やっぱり。感謝して欲しいわね。
今でも、日本は、ちっぽけな島国で野蛮な奴らが住んでるって、思っているのよね? 現在も敗戦国だし・・・いい加減消してほしいね
縄文時代には歴史教科書でも人々の争いの記述が無くて弥生時代からは争いが始まってるのは分かってましたが、本当に平和な時代だったことは素晴らしいとしか言えません。
情けは人の為ならず、って言葉知っていますか?人の為に助けたのではなく、自分の為にした事だと言う考えが、ご先祖様にはあったのだと思います。でも、その恩は、みんなが見ていて、自分に返って来るって考えですね?あの人・・いい人、わたしたちも同じ事して行こうって思うはずだよね?平和とは、そんなものです。
マルクス主義の方ですか?昔は理想的な社会で富が争いを産んだとかいう?多くの人が勘違いしてますが、縄文時代にも争いはありました。有名なのは、有珠モリシ遺跡です。他にも、石斧で殴られた人骨や矢で射られた人骨も見つかっています。縄文時代の平均寿命は、31歳と言われますが、死産したり、骨の残りに乳幼児を入れるともっと低いとも言われています。貧乏で人が少なかっただけで、争いがなかったのではなく、少なかっただけです。
支持します!
小名木先生の話し方は、とても聞きやすくて、お勉強になります。これからも扇子を゙トントンしてください😊
C国にも「三皇五帝はみな倭種なり」と記録があるそうです。
小名木先生へ、華頂宮博一先生との対談を見てみたいです。是非、実現して頂きたいです。
分厚いイモゴ(火山灰土壌)と旺盛な植物の成長で九州の縄文遺跡発掘は実は殆ど成されてないのかもしれないな、と思ってます。
先生、感動しました。ほんとうに、「あほが見るばかのけつみたい」に下しか見ない人達がいますものね??歴史学を真剣に学ぶなら、科学的であり、それを示す理由に基づく真実を見つけないといけないのに、わからないのね?何の根拠も理由もあいまいな歴史学は、このむすび大学で、消してあげましょうよ。これからも、楽しみにしています。日本は、かっこいいのにね?
何だかワクワクしてきます😊
アカホヤの大噴火🌋自体、知らないレベルの自分です。
分かりやすい講義で、ありがとうございます。
多摩川でメタセコイアの炭化した化石が日野市郷土資料館主催の化石採集会で転がってるのを拝見させてもらいました。やはり多摩川もメタセコイアの群生ぶりから大陸の一部だったようですね!それ以外インド大陸のように象の化石も八王子周辺で発見されています。こちらは八王子サイエンスドーム(子供向き)展示扱いの化石です。
7300年前の災害が神話として語り継がれてるなんて凄すぎる
事実として地層にあるんだよ、話を戻すんじゃありません!7000年前の事は神話では無い!
@@kaka-rq5zd @user-cm1ed8tm6zさんが言っているのはこの火山活動の灰が太陽を隠したように見えるから神話っぽくて受け継がれてたとしたら凄いねってことでは。つまり事実としては受け入れているのでは?事実だったのだと思っているんだと思うけどなあ。
@@kaka-rq5zd >事実として地層にあるんだようん知ってる、だから言ってるんじゃん>話を戻すんじゃありません!話を戻すって何?>7000年前の事は神話では無い!その根拠は?ちなみに7000年じゃなくて7300年ね
@@サザビーB2 ※7000年から7400年頃の地層だからだよ。※動画で事実って言ってんのに神話って戻してるだろうよ!理解出来ない?神話ってのは高千穂峰の出来事に関わる日本や地球の生立ちのことな😊
九州や四国西部、中国地方の縄文人は絶滅したとするとその後千数百年は人間がいなくなった。その後、九州の人間は何処から戻って来たのか?。沖縄、大陸の半島、中国の南部など、色々な地方から集まって来たのだろ??としか考えてられない。
グッグルマップで大陸と繋がる跡を教えられるのは小名木先生のほかいません!今もびっくりしています。
アカホヤの大噴火を学校で一度も習わなかった。こんな大きな出来事が何故、伏せられてきたのか不思議である。
そこで伏せられたなんて言葉使うから陰謀論が生まれる。やめた方がいいよ。
この話で映画が見てみたいな
これ、学校で教えて欲しい〜‼️
起承転結がハッキリしていて、内容も分かりやすく面白かったです。日本をカッコ良くみれた気がします。
愛国心感じるわぁ
実際、葦船で荒波の日本海を渡れるのかと疑問にも思います。
約7500年前の千葉の遺跡で丸木舟が発掘されています。
ヲシテの解説で、長江から稲作を習いに来ていたという話を読んだことがあります。
あの噴火で縄文人の人口激減したらしいが説明はそこまで。避難した九州の縄文人は何処へ行ったのか。東へ行っても火山灰が降り積もり東の縄文人と少ないパイを争わねばならない。不思議だと長年の疑問が明らかになって嬉しい。
阿蘇山によく似てる
神武以前のウガヤフキアエズ七十二代々の分析お願いします
鬼界カルデラ(きかいカルデラ)は、薩摩半島から約50 km南の大隅海峡にあるカルデラ・海底火山[1]。直径は約20 km[2]。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁の外輪山に相当する。カルデラ中央海底には、単一の火口に由来するものとしては世界最大規模の溶岩ドームがある[3]。溶岩ドームからは現在も火山性ガスの気泡が噴出しており[2]、地下にはマグマ溜りが存在すると考えられている[3]。薩摩硫黄島はランクAの活火山に指定されている。先史時代以前に複数回の超巨大噴火を起こしている。約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模で、火砕流が九州南部にも到達し、九州南部の縄文文化を壊滅させたと推測されている[3]。近年の研究では、屋久島、口永良部島、大分県、徳島県などで噴火に伴い発生したと考えられる津波の痕跡が発見されたとの報告がある[4]。地形カルデラは東西約21 km、南北約 18kmの楕円形であり、約7300年前の噴火で形成された内側のカルデラと、それ以前に形成された外側のカルデラの二重となっている。カルデラ底部の水深は400 - 500 m。海底には多数の海底火山があり起伏に富んだ地形になっている。カルデラ外輪山として竹島、硫黄島が海面上にある。硫黄島の硫黄岳、稲村岳、及び昭和硫黄島は後カルデラ火山。外輪山の矢筈岳、硫黄島西部の平坦部は先カルデラ火山。硫黄島から南東方向の中心部付近には海底の高まりがあり、後カルデラ火山活動によって形成された中央火口丘と推定される。このうち1つの浅瀬は海面上にあり、3つの岩礁からなっている。神戸大学などの研究チームが2016年から2017年にかけて行った海底調査では、直径約10 km、高さ約600 m、体積約40 km3の溶岩ドームを確認した[2][5]。
石器の発掘が沢山ありますね。縄文の土器には芸術性がありますよ。すでに日本芸術のシンボライズ性がありますよ。対人戦災でなく対自然災害が圧倒的に重要な人生を万年単位で引き継いでいる国です。歴史観は修正されますよ。
良い内容を話されてるな
大陸に行った縄文人が和人として日本に戻り弥生文明に発展した説があります。(武田鉄矢説)
弥生分化っていう発展なの?!劣化かと思ってた。小名木さんも縄文文化を壊したみたいに言ってたと思う。
@@gene5811 縄文文化が争いもなく異文化で有る弥生文化を受け入れたことが不思議だったのですが元々が同じ日本人だっただからではないか?推測?分かりませんが面白いいろんな説がこれから出てくるかも
地方の埋蔵物センターに行くと2万年前とか3万年の遺物が出て来てる。
郷と郷(国と国・ムラとムラ)そこの間に クチナシ(口無し)の花 を植えてた…これは近代の事かも知れませんが そうやって争わない 戦わない 郷の中 郷と郷 協力し合う仕組みをこの海洋に囲まれた山野の国土に古代のヤマト民族は命を紡ぎ合い繋ぎ合い 生きて来たのではないかなー と考えます🙏m(_ _)m🇯🇵
噴火する前から折りに触れどんどん半島に進入して行って居たと思いますが噴火にプッシュされて一文化の本拠地が一気に移動したりは有ったかも知れませんね😊
先生、当時、気候も恵まれていた太平洋沿岸といってもご説明のとおり今の高台、山地ですけど発祥というのがわかりました。また、大陸とわ陸続きっだのでわ?大移動、避難?に関して当時の地理的説明もおねがいします。
沖縄県伊是名島には、アギギタラ・ウミギタラという夫婦岩があるが、それぞれ伊是名アギ・伊是名アミとなり、イザナギ・イザナミの実在を表す証拠とされている。日本人が気に留めないうちに、中国人に買収される可能性がある。
なるほど。縄文時代を過ぎてから現代の間で殺戮侵略が起こった訳ですね。
葦船(あしぶね)や草いかだ(くさいかだ)は、丸木舟や他のいかだなどとともに、最も古くから知られている船のひとつである。伝統的漁船(英語版)としてよく使われてきたが、その大半は板張りの船に取って代わられた。しかし今でも使われている地域もいくらかはある。葦船は通常、何らかのタールで防水されているため、葦船と草いかだは区別できる[1]。小舟やいかだだけでなく、小さな浮島も葦で作ることができる。いままで発見された中で最古の葦船の遺物は7000年前のもので、クウェートで発見された。葦船は初期のペトログリフ(岩面彫刻)にも描かれており、古代エジプトでは一般的だった。有名な例は、赤ん坊のモーセを入れるのに使われた「パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗っ」たものである(Ark of bulrushes)。また、ペルーとボリビアでも早くから作られており、非常に類似したデザインの船はイースター島でも発見された。葦船は今でもペルー、ボリビア、エチオピアなどで使われており、最近までケルキラ島でも使用されていた。ノルウェーの人類学者で冒険家のトール・ヘイエルダールの探険航海と研究により、葦船の構造と能力についての理解が深まった。歴史右の画像は葦船と人間のペトログリフである。葦船はスカンジナビアの洞窟壁画に描かれているものと似ており、トール・ヘイエルダールはスカンジナビア人が今日のアゼルバイジャンに相当する地域から来たと結論した。ゴブスタン国立保護区には、12,000年前にこれらの洞窟に住んでいた狩猟採集民によって彫られた6,000以上のペトログリフがある。当時、カスピ海の湖面は今よりもはるかに高く、丘の低い岩に打ち寄せていた。また、エジプトのキフト(コプトス)にあるワディ・ハンママート(Wadi Hammamat)には、紀元前4000年のエジプトの葦船の絵がある[2]古代エジプトではパピルスで葦船を作った今まで発見された中で最古の葦(とタール)で作られた船の遺物は、クウェートのファイラカ島で見つかった7000年前の航海用ボートのものである[3]。古代のエジプト人は、ナイル川とデルタで広く栽培されていたパピルス(カミガヤツリ)から船を作っていた。この葦は、他にも多くの目的、特にパピルス紙を作るためにも使用された[4]。カヤツリグサ属の他の葦も同様に使用された可能性がある[4]。テオプラストスは著書「植物の歴史(Historia Plantarum)」[5]で、オデュッセウスが帰宅後に、妻への求婚者たちを殺害した際、彼らの退路を断つため、アンティゴノス王の船から持ち出された索具で扉を固定していた[6]が、その索具はパピルスから作られていたと述べている[4]。ナイル川の航行に適した軽い小船は、パピルスを切っている姿を描いた第4王朝のレリーフに示されているように、パピルスの茎で作られ、それを使って索具や帆を作り、葦船を作った[4]。聖書によれば、ファラオがすべてのヘブライ人の男性を殺すための布告を出したとき、赤ん坊のモーセは母親によって救われた。母親が彼をナイル川に隠す際に[7]、パピルスで作られたかご(小船)が使われた[4]。また、預言者イザヤは、イザヤ書18:2でエチオピアの葦の船について言及している。
トール・ヘイエルダール近代的な意味では、ノルウェーの人類学者で冒険家のトール・ヘイエルダール(1914年-2002年)の冒険航海と研究により、葦船の構造と能力がよりよく理解されるようになった。ヘイエルダールは、古代の地中海やアフリカの人々がカナリア海流に乗って航海して、大西洋を横断して、南北アメリカに到達した可能性があることを実証したいと考えていた。1969年、ヘイエルダールは古代エジプトの太陽神にちなんで「ラー」と名付けた葦船を建造した。その設計は古代エジプトのモデルと図面に基づいていた。船はチャド共和国のチャド湖から招請した船大工によって建造された。原料のパピルスの茎はエチオピアのタナ湖のものを使った。モロッコ海岸(サフィ市)から大西洋を横断しようとして出航した。数週間後、設計ミスと舵の喪失により、「ラー」の船体は大きく浸水していた。最終的に「ラー」は放棄された[8]。翌年、ヘイエルダールは新しい船、「ラーII号」で再挑戦した。今回はボリビアのチチカカ湖の船大工が建造した。再び、船はモロッコから出航し、今回は成功してバルバドスに到着した[9]。1978年、ヘイエルダールは3番目の葦船である「ティグリス」を建造した。この船の建造目的は、メソポタミアとインダス文明が、貿易と移住を通じて結びついていた可能性の実証だった。「ティグリス」はイラクで建造され、ペルシア湾を航海して、インダス文明のあったパキスタンを経由して、最終的には紅海にまで入った。船は5ヶ月間耐航性のある状態で海にとどまった。その後、アフリカの角で激化していた地域紛争への抗議として、「ティグリス」はジブチの海上で燃やされた[10]。チチカカ湖の葦船ウル人のこの頑丈な葦船は20人以上を収容することができるトトラ葦は南アメリカ、特にチチカカ湖周辺、そしてイースター島でも育つ。これらの葦は、コロンブス以前の南米のさまざまな文明で葦船を造るために使用されてきた。「バルサ」と呼ばれる船は、小型の釣り用カヌーから30メートル長までさまざまな大きさの物がある。それらは、海抜3810メートルのペルー・ボリビア国境にあるチチカカ湖で今でも使用されている[11]。ウル族(英語版)(ウル人、ウロス人)はインカ文明以前の先住民である。彼らは今でも、チチカカ湖に点在する人工の浮島に住んでいる。これらの島々もトトラ葦でできている[12]。それぞれの浮島に、同じく葦でできた3 - 10軒の家が建っている[11]。ウル族は今でもトトラ葦船を造っており、釣りや水鳥狩りに使用しているチチカカ湖のボリビア側の町であるスリキ島の葦船職人は、トール・ヘイエルダールが「ラー2号」と「ティグリス」を建造するのを助けた[13]。トール・ヘイエルダールは、チチカカ湖の葦船がエジプトのパピルス船に由来することを証明しようとした。チチカカ湖の南東岸近くには、古代都市国家ティワナク遺跡がある。ティワナクの遺跡からは、当時の卓越した石材加工技術の存在がうかがえる[14]。精巧な彫刻やモノリスを作成するために使用された緑色の安山岩は、チチカカ湖の対岸にあるコパカバーナ(英語版)半島に由来すると見られる[15]。一つの理論として、40トン以上の重さのこれらの巨大な安山岩石は、葦船に載せられてチチカカ湖上を約90キロメートル輸送された可能性がある[16]。イースター島でもトトラ葦を使って葦船が建造された。興味深いことに、この船のデザインは、ペルーで使用されている物とよく一致している[17]。日本神話における「葦船」日本における文献資料で「葦船」の最古の例は古事記の国産み神話で、イザナミとイザナギの間に生まれたヒルコ の処遇に登場する。《原文》興而生子水蛭子此子者入葦船而流去 古事記(上巻)《書き下し文》興して生める子は水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てきこの「葦船」が文字通りに葦で作った船だったかの解釈には異同がある。たとえば日本書紀纂疏においては、葦船ハ葦一ヲ以テ船トナリ [18]とあり、あたかも葦一本をとってそれを船にしたかのごとく解している[19]。本居宣長はこの部分について、「さも有りなむ。」と裏書きした後、「また、葦を多く集めて、からみ作りたるにてもあるべし。」と記して、先人の説を正面切って否定はしないが、実際は物理的に作られた葦船だったともしている[20]。吉田東伍は「葦舟はけだし竹筏にして」「葦船の葦はイカタの料にして、竹と同しかるべし」としており、船材としての葦とは竹のことだとしている[21]。西村眞次はこれについて、「難波の葦は伊勢の浜荻[22]」というように一般に植物名の使い分けが厳密を欠く場合があるのは確かにしても、記紀は竹と葦は識別して記しているため、やはり葦は葦だと解すべきとしている[23]。西村眞次はつづけて松村任三の言葉として、昔の日本では海辺や川岸に葦が非常に多く産していたことを紹介し、それを受けて、資源として得やすく加工しやすかった葦は、初期の歴史においては木材より多く船材として利用されていたのではないかと結論している[24]。なお、笠井新也は国産み神話に関連して、「当時産後の不潔物等も、葦などに包んで流し捨てるという風習のあった事が想像出来る」としており、葦の使用を認めている[25]。国産み神話以外では、南波松太郎が、神武東征において、速吸門で遭遇した珍彦(うづひこ)が乗っていた亀甲を葦船としている[26]。その他の例北米で広く存在するツーリー(英語版)葦は、さまざまなインディアンによって葦船を建造するために使用された。オローニ族、湾岸ミーウォク族(英語版)、海岸ミーウォク族(英語版)の人々は、サンフランシスコ湾の河口で使用する船を作るためにツーリーを使用した[27]。チュマシュ族(英語版)のうち、北部の集団はツーリーを使って葦の漁業用カヌーを作っていた[28]ペルーやボリビアだけでなく、エチオピアでも葦船が造られている[29]。そして最近までケルキラ島でも使用されていた[30]。カイサリアのエウセビオスの伝えるところによれば、シュメールの洪水神話においてはジウドスラは葦船を作って生き延びたと、少なくともベロッソスの時代までは信じられていたモキヒ(Mokihi)はニュージーランドの先住民・マオリの船で、ラウポやコラリという葦から作られる。ワイタキ川[1]とサウスウェストランド[2]では現存する「祈りの船」は、毎年何千人もの人々が小さな葦の船でお香やろうそくを燃やし、夜に川に浮かべて、願いや祈りを運ぶヒンズー教の宗教祭で使用される1836年、Narcissa Whitmanは、フォート・ボイス(英語版)のスネークフォートでインディアンが馬で曳いていた葦船について記述している[31]2007年、アボラ探険隊(英語版)の第3次航海として、ドイツの科学者ドミニク・ゲルリッツが船長を務める葦船が大西洋を西から東に渡ろうとニューヨークから出発した一部の網代船も葦で作られている(下の写真を参照)
日本の最古の丸木舟の遺跡は千葉県の7500年前の物だった。それ以前から葦舟があったと思うから縄もあったよね、神話でヒルコが流されたのも葦舟だもの、その描写はアカホヤ以前3万年前の姶良カルデラ(鹿児島)かもね?
@@ちりめん居坐 そうなのかもしれませんね^^姶良カルデラ(あいらカルデラ)は、鹿児島湾北部(湾奥)において直径約20kmの窪地を構成しているカルデラである。南九州のカルデラ群の一つで、加久藤カルデラと阿多カルデラの間に位置する。現在のカルデラを形成した姶良火砕噴火は、約3万年前と推定されている[1]。桜島火山のマグマ供給源とされる。概要姶良カルデラの範囲と地形図鹿児島湾と桜島を囲む巨大カルデラである。カルデラの中心は新島(燃島)付近。1940年代に松本唯一が提唱したが、現在では単一のカルデラではなく、大崎カルデラ(北西部)、若尊カルデラ(北東部)[2]、浮津崎カルデラ(南東部)など複数のカルデラが複合したものと考えられている。全体が一度に形成されたものではなく、150万年前から活動があり[3]、少なくとも北側の一部分は80万年以上前から存在している形跡がある[4]。入戸火砕流と姶良Tn火山灰などを噴出した約3万年前の姶良大噴火でおおむね現在の形になり、約2.6万年前に後カルデラ火山の桜島火山が誕生した。また、淡水性生物化石が出土していることから、形成当初は淡水で満たされていたが、約1万年前の最終氷期以降の海面上昇とカルデラ南壁の崩壊により海水化したと考えられている。現在もカルデラ内部にも噴気活動が観察される若尊などの海底火山や隼人三島(神造島)などの火山島が形成されている。地下100kmのプレート境界で作られたマグマが上昇し、カルデラ中央部地下10kmにマグマだまりを形成している。九州南部に広く分布するシラス層の起源を説明するため1930年代に姶良火山と呼ばれる大きな火山の存在が仮定されたが、その後の調査結果等から現在ではそのような仮定は必要ないとされている。ただし、姶良大噴火以前においてカルデラ北東部に淡水湖が存在していた形跡があり、何らかの隆起地形が存在していたとの説もある。カルデラに隣接して鹿児島市や霧島市などの市街地が形成されている。カルデラ壁は鹿児島市竜ヶ水地区や垂水市牛根地区で急斜面となっており、大雨によってしばしばの土砂災害が発生している。姶良火砕噴火長岡ら(2001)によれば約2.9万年前[5]、Smith et al.(2013)によれば約3万年前[1]、大噴火が発生した。一連の噴火は総称して姶良火砕噴火と呼ばれる。はじめに、現在の桜島付近で大規模なプリニー式噴火が発生し、軽石(大隅降下軽石)や火山灰が風下の大隅半島付近に降り積もった。この噴火では噴煙柱が複数回にわたって部分的に崩壊し、火砕流(垂水火砕流)が発生した[6]。このプリニー式噴火に引き続いて現在の若尊付近を噴出源として妻屋火砕流が発生した[7]。この火砕流堆積物と大隅降下軽石堆積物の上部と指交関係にあり、この二つの堆積物は時間間隙を置かない連続的な噴火と考えられる。妻屋火砕流は火山豆石を多量に含み、また堆積物は全て非溶結であることから、マグマ水蒸気噴火によって生じたと考えられる。垂水火砕流堆積物や妻屋火砕流堆積物の上面にしばしば見られる軽微な侵食構造が見られる。これについては、入戸火砕流の噴出までにわずかな時間間隙(数ヶ月以内)があったとの説と、この侵食は入戸火砕流による侵食であり時間間隙は示さないとする説がある。最後にカルデラ北東部の若尊付近から大量の流紋岩質マグマが火砕流(軽石流)として一度に噴出した。素材となったマグマは温度が770-780℃、圧力が1600-1900気圧であったと推定されている。この火砕流は入戸火砕流と呼ばれ、地表を走り九州南部に広がった。この火砕流堆積物は最大層厚は180mに及び、シラス台地を形成した。火砕流から巻き上げられた火砕物 (co-ignimbrite ash)は姶良Tn火山灰と呼ばれ、偏西風に流されて北東へ広がり、日本列島各地に降り積もった。関東地方で10cmの厚さの降灰があったとされる。現在の霧島市牧之原付近を中心とした地域の入戸火砕流堆積物最下部には、亀割坂角礫と呼ばれる岩塊が堆積しており、最大層厚は30m、中には直径2mの巨礫も含まれている。これは、噴火と同時にカルデラの陥没によって基盤岩が粉砕されて空中に放出され周辺に落下したものと考えられる。噴出物の総量は見かけ体積で、大隅降下軽石が98km3・垂水火砕流が1-20km3・妻屋火砕流が13.3km3、入戸火砕流が500-600km3・姶良丹沢テフラが300km3推定されており、火山爆発指数は7から8となる[8][4]。
余談ですが、三陸の過去の津波堆積物はおよそ6000年前のものが確認されてますが、それ以前のものは未確認だったかと思います。氷河時代を経てアカホヤの大噴火に至ったときまでの海岸線を詳しく調べると、より深く過去の出来事が見えてくるのではないかと思ってます。
阿波が熱。阿蘇は経路にある程度の理解で可&軍を置く=都ではない宣言と理解。
鬼界カルデラの説明をされる中で、出てきた噴火のイメージ図なのですが、おそらくあれは姶良カルデラのイメージ図ではないかと思われるます。ただ現在の鹿児島県の地図上に姶良カルデラのあった場所が噴火した様子を描かれているのも変ですが…。
磨製石器時代が文化の始まります、旧石器打製石器時代は12万年前からの石器、磨製石器は38000年前から35000年前の出土は数千箇所出土している、外国では22000年前オーストリア、15000年前中共の出土、土器は16500年前の出土しているようです、この年代に郡上市の縄文洞窟から人骨が発掘された。
喜界カルデラ噴火は7300年前では?カルデラの範囲は南北13㎞、東西20㎞(薩摩硫黄島、竹島あたり)。姶良カルデラの噴火は約30000年前、カルデラの直径約20㎞。
動画の説明での鬼界カルデラの範囲、思いっきり間違ってますよね。
シュメールとかにもつっこんでもらったらよかったのに
他の動画を見なさい。またシュメール文明は7000年前に突然出現してその前の遺跡がない、が答えだよ。
@@kaka-rq5zd さん 7000年前はアカホカ噴火後の年代なんですよね
@@オーケン-i1l そうだよね、だから縄文人の移動が理由だよな。
助けてほしい助けてほしい助けてほしい
現在の元号みたいにこの日からってきっかり何年から何年って変わらないですよね‼️漢字が来るまで記号みたいなものでも本当に文字無かったのかな⁉️
縄文土器が南米から発掘されたと聞いた事が有りますね
揚子江・・・陸側から見れば「河」だと分かるけど、海側から揚子江河口を見れば大きな入り江?と、錦江湾を見知った上野原遺跡を脱出したような人達には思えた?・・・かも知れませんね。ロマンですね(笑)
小名木先生の動画、楽しく拝聴してます。お願いがあります。鹿児島県の西に甑島があり、グーグルマップにより、甑島、西約10㌔先に海底遺跡が写っています。北へ直線で約80㌔長崎の五島列島の南まで続いてます。直線にそって丸いものがたくさん付いてます!何か?わかりません。お忙しい処、調べて頂くと幸いです。!!
揚子江がヤンズという発音は北京儀。広東語だとイエンチーカンですけれど・・・。お話が荒いですね。
想像だけでは断言できないので、参考までですね。内の田舎の宮崎県旧田野町に本野原遺跡は西日本最古の縄文時代の集合集落遺跡だそうです。旧石器時代から続く遺跡で縄文後期に100戸もある遺跡だそうです。あかほやの大噴火でも生き残ったと言う事です。日向の国です。
富士山は、平安時代に噴火し、当時大きな湖だったところに溶岩が流れ込み現在は、富士五湖の西湖と精進湖になっています。その溶岩の上にできたのが青木ヶ原樹海です。日本の照葉樹林は、500年で深い森林に復活します。貞観大噴火864年がその噴火です。アカホヤ噴火後、その上にできた縄文遺跡は、東国、四国から来た縄文人でしょう。
国東市国東町成仏には岩陰遺跡という縄文遺跡があります。ここの遺跡から鉄器が出ましたが隠蔽されました。歴史が変わるからです。
それは環太平洋とそれらの沿岸部から南米大陸の内陸への大移動で途中の島々にも根をおろしたんでしょうね。ちなみに長江の沿岸の湿地帯河姆渡辺りで水稲栽培を始めたのは倭人だと中国人学者も認めています。ただ、この倭人はあの倭人では無いなどと言うイミフなモノを添えて。
子供の頃、もく縄文土器と矢尻を発掘しましたが矢尻は確かに小さかったです。
小さいことですが アカホヤは場所を示す名詞ではなく土壌を示す呼称なので アカホヤ(火山灰)の大噴火 というのは適切ではなく 奇界カルデラの大噴火 と言うべきではないでしょうか
阿蘇山の噴火かと思いました。あれだけの外輪山を残して、どれだけの巨大なヤマだったかと思います。
縄文時代に行われていた遠洋漁業に使った舟で半島や大陸に渡った。それが葦舟と決める必要は無いと思います。さらなる発見と研究に期待したいです。
米が長江河畔で見つかり、日本で伝来してるとゆうのが定説だったのですが、米のDNA分析で日本にあった米は、原種近く、中国朝鮮にある米は分岐した亜種なのです。何故でしょう?
話が逆です。日本の稲を、大陸に渡った倭人が持って行ったんです。
日本文明はアトランティス大陸文明だったのかも知れませんね。
弥生時代が始まったとおっしゃいましたが、何をもって弥生時代が始まったとされているのでしょうか?稲作は縄文時代から行われていた事が明らかですし、人工乾季稲作も日本から始まったのではないかという説も有力だとか。集団定住生活?世界で稀な定住狩猟採取生活をしていたらしいと言われ始めています。今風に言えば、サスティナブル狩猟生活ですよね。そうなると、青銅器?青銅器よりも鉄器が先じゃないかという主張もあるらしいですね。果たして。
この事実を教育に反映される事は難しい。日本政府内部に食い込んでいる三国人が邪魔をするからね…
この噴火が実は天の岩戸神話の元ネタです。
黄泉の話だと思っています。破局噴火で大地の神が亡くなり 鬼界カルデラが首が飛ばされたカグツチで 火山灰被害等や避難時に多数の神々が生まれ、大陸に逃れて暮しても 寒冷化が始まり飢餓に陥り 難民として日本に帰ってきた。大地の穢(火山灰)が流され緑がもどり川の水も澄んで蘇がえり高天原となった。この頃 今の千葉辺りでは丸木舟が発達してたらしい。
日本人が渡って行ったのならどうしてあんなに劣化してしまったんだろう?
文字は?。日本と半島、揚子江では、文字らしきものは発見されていないのですか?(聞けば聞くほど、ワクワクしますね)
いわゆる「亀甲文字」が日本の遺跡から発見されているそうですよ。
面白かった。でも、いつも思うが、アカホヤの大噴火というものが、どうもピンとこない。
同じく、ピンとこない。
赤色の炎って意味じゃないの?
調べてみたら、火山灰土壌の一種、だとか、火山灰土の俗称、とありますね。土のことですね。
@@しのなな-o8d さん、教えてくれてありがとう。
@@たかあきのとぅじ いえいえ
縄文人は、ホビット族(ハーフリング)だった。という説に一票。
薩摩はイオウジマです。
武器がなかった、損傷した骨が出てない、それだけで平和的と思うのはいかがなものか。組織的に戦う知識・欲、要素、背景がなければそもそも戦争などを行うと言う思考さえもありません。せいぜい、猿のように追いかける、石を投げるくらいです。それを平和を愛したと思うのは全く別問題です。人類が戦いを知り必要になり覚えたのがもっと後になっただけと見るのが自然です。
殷は倭人の国って中国の記述にある。それにしても古代日本は本当に文字がなかったんだろうか高床式倉庫なんて数学の知識がないとできないと思うが
航海技術があったのかなあ🤔
つまり嘘つきで他人を殴る殺す弥生以降の戦乱は縄文文化が失われ最早日本人いうではないてこと
これがノアの方舟伝説?
逆のような気がします。火山噴火のおかげで、水はけの良い土壌が誕生し、畑に適した土地になったのでは。。。江戸の富士山噴火のおかげで、今の千葉県に偏西風によって火山灰が蓄積し、今の農業県になった様に。。
酸性土とリンが土中で化合物となってしまう事で農業不適
@@るるむ-r6d 最初はそうかも知れませんね!でも、阿蘇山の噴火と富士山の噴火のおかげで今ではスイカの名産地になってます(^o^)水はけの良い土壌がベストマッチしたようで。
あったのは大噴火だけじゃないはずですよ。元々小さい噴火とかもあったんじゃないかなぁなんて思います。大噴火前に農耕に気付いて出来ていて、でも逃げなきゃいけなかったとしたら…なんて思います。
そしてエジプトでファラオやってかえってきたんですね。うん
天岩戸隠れの時代のお話ですね。
縄文時代が日本特有のユニークな文化であるという事は確かにそうだと思います。しかし、縄文時代=ユートピア的な発想はいかがなものかと思います。有珠モシリ遺跡では、頭蓋骨に鈍器で殴られた跡があるそうです。受傷人骨から見る縄文時代の争いという論文がありますので、ご参考に。 縄文時代は、平均寿命が31歳と短く、貧しくて争う事もできなかったと考えた方がいいのではないかと思います。当然、人間ですから、個人のいざこざや争いはあったでしょうし、食糧が少ないことから、部族間での確執もあったでしょう。しかし、人間が少ないから争いも少なかったのでないでしようか?弥生時代になると稲作の影響で人口は縄文時代の三倍に増えています。ですから、人間の争いも増えるでしょう。富が戦争を起こしたという考え方には、賛同しかねます。
日本語とハングルの文法が近いのはこういう理由なんですね。
いつも楽しみに拝聴させていただいてます。ありがとうございます一点だけ疑問に思ったので、発言させていただきます。喜界カルデラ火山爆発での灰の雲がやってきて、その灰を吸うとバタバタ死んでいく…そんなすぐには人は死なないと考えます。桜島のある鹿児島や火山活動があった地域の人が呼吸しただけでバタバタ倒れますか?お伝えしたいことは理解しますが表現が少し違うと感じます
桜島等のそんなチンケナ火山灰では無いです。2㍍も降り注ぐ硫化化合物と云う毒物です。
嘘ここに極まれり
扇子を叩かない方が良いと思います。
縄文海進があったということは地球温暖化で海水が膨張していたということになります。その当時より数メートル低くなっているようです。ということは、海水は縮んでいるということです。ということはその当時より気温が低くなっていることです。地球温暖化が嘘っぽいと感じるのは私だけでしょうか?
考古学的な証拠を提示することはできませんが、私達は5万年前に日本に波動降下によって転生してきました当初は860名のソウルのグループでしたそのうち36名は超能力者で、最初の生涯の寿命は訳3万年でした。
誤字も有るし内容的にもアナ夕は日本人でしょうか?
一番気になるのが飲料水をどう確保してたんだろうと疑問です。相当過酷な移住であったろうと思います。陸地が有るかどうか、有るとしても地図が有る訳でも無いから見渡す限りの海へ向かうにはどれだけ大変か想像するだけでも身震いする。気になるのが必須な水、当然雨水は活用したのでしょうが、何か浄水システムの様なものが有ったのかと考えてしまいます。実際米大陸などに移住したとしか考えられないから、何らかの飲み水確保は出来てたんでしょうね。もしかして素焼きの土器に海水汲んで、染み出たものは塩分濃度が薄まるってことは無いのかな。どれ程過酷な航海だったんでしょうね。恐るべき縄文人。
縄文土器はあったよね。
いくら何でも違いすぎる余りにも架空のお話さもあらんは迷惑、人類の足跡を勝手に偽る事は許され無い‼️
扇子で叩くのに何か意味あるんですか?
火山の噴火についてはピナツボ火山の噴火などがあるから新規じゃない系統なので楽しくないよ
あほや
適当にしゃべるのは自由だ、信じてほしければ国の承認、こいつのしゃっている内容は正しいって証明を出してみろ。
御自分で証明されては如何ですか?。
古ければ偉いのか?
縄文時代の日本人を褒めると現在のアイヌを褒めていることになるのでは
アイヌ部族は12世紀頃に樺太辺りから南下して北海道の縄文人の末裔を毒矢等で虐殺してた。
日本人がそんな優れた民族だとは思わない
朝鮮人が優れた民族かい?
縄文人は中国人とDNAが違います。日本から揚子江付近に住みついたのは違うと思うな😎
古代漢民族は、現在のベトナム系人種です。隋、唐は鮮卑と言う騎馬民族です。夏王朝、殷(商)、周、春秋、戦国、秦、漢王朝は、ベトナム、オーストリアラレイシア語、印欧語、アルタイ語人種と言われています。漢字は、ベトナム、オーストリアラレイシア語、印欧語、アルタイ語人種の人たちが作ったコミュニケ―ション絵文字で、商業記号です。現在の中国人とは全く関係ない文字です。中国は、もとの漢人は滅び、現在の長江以北の中国人は、三国時代から隋、唐に人種が入れ変わっています。揚子江に住み着いた縄文人は、日本にも帰ってきています。つまり交流があったわけです。
小名木先生ありがとうございます。素晴らしい講義をワクワク拝聴しました。我ら日本人の誇りを子孫に繋ぎましょう。
アカホヤの大噴火で、日本から大陸に縄文人が移り住んで、朝鮮半島や揚子江河口付近に縄文の心と文化を広げていったのですね。この頃のご先祖の大和魂を思うと、尊敬の念しかないです。太古も、現在も常にリーダーとしてアジア地域を牽引してきたのが日本人であると知る事ができ、誇りを持てました。小名木先生、素晴らしい発信をありがとうございました!
火山の噴火は定番だろwwそれよりも森林火災だろ?建速須佐之男命とか海外だと雷神がこの系統化と・・・森は人を阻む
森と杜どちらも人の侵入を阻みます
おいおいおいww大丈夫かwwとなりますよね?くだらんしちゃんとやれよ!クソボケ!ってなるのが普通かと
現在はアジア内でも経済力が落ちまくってるアタオカな国が日本ですけど…
そもそも噴火によって日本からアジアに出ていったと言いますが、日本でホモ・サピエンスが誕生しない限りその前には必ず大陸からホモサピエンスが流入して以降に孤立し日本独自の文化が発展しています。
日本がサイコー!とかクールJAPANとか言ってる奴らはほぼ詐欺師ですよ。
まー極端に騙されないのがいいですよ。
それはちょっと解釈が飛躍し過ぎな気がする
小名木さんの話が一番参考になるし、感覚でその通りだといつも納得します!話も上手いし面白いし最高です😊これからも楽しみにしてます!
小名木先生、いつもありがとうございます。先生の書かれた「縄文文明 世界中の教科書から消された歴史の真実 」のことを子供に話しても信じてくれなかったので本動画を送りました。孫たちにはぜひ真実を教えるために。
揚子江の解釈がすごい!はっと何か気づかされました!日本人!すごいなぁ!
小名木先生、素晴らしい動画をありがとうございます。縄文時代から日本には文字がありました。神代文字です。これが、アカホヤの大噴火を逃れた縄文人たちがメソポタミアや揚子江流域に伝わり、楔型文字や亀甲文字になったと思います。日本は文化の先進地で稲作や文字・土器などを各地で伝えてそれぞれの地域で新しい文化を作ったのでしょう。そして、弥生時代や古墳時代に東の地、ふるさと日本に戻ってきたのではないでしょうか。
この話は以前から推測されていた事でしたね。私も、どうもそう言うことが在りそうだと思います。アカホヤで九州は絶滅しましたから、関東、東北に逃れたのだと思います。元々、縄文文化は東北で育ったものです。
日本人として誇らしいです。
日本人によって周りの国が成り立った事がよく分かりました。
日本のお陰じゃないか。。。やっぱり。感謝して欲しいわね。
今でも、日本は、ちっぽけな島国で野蛮な奴らが住んでるって、思っているのよね? 現在も敗戦国だし・・・いい加減消してほしいね
縄文時代には歴史教科書でも人々の争いの記述が無くて弥生時代からは争いが始まってるのは分かってましたが、本当に平和な時代だったことは素晴らしいとしか言えません。
情けは人の為ならず、って言葉知っていますか?人の為に助けたのではなく、自分の為にした事だと言う考えが、ご先祖様にはあったのだと思います。でも、その恩は、みんなが見ていて、自分に返って来るって考えですね?
あの人・・いい人、わたしたちも同じ事して行こうって思うはずだよね?
平和とは、そんなものです。
マルクス主義の方ですか?
昔は理想的な社会で富が争いを産んだとかいう?
多くの人が勘違いしてますが、縄文時代にも争いはありました。有名なのは、有珠モリシ遺跡です。他にも、石斧で殴られた人骨や矢で射られた人骨も見つかっています。
縄文時代の平均寿命は、31歳と言われますが、死産したり、骨の残りに乳幼児を入れるともっと低いとも言われています。
貧乏で人が少なかっただけで、争いがなかったのではなく、少なかっただけです。
支持します!
小名木先生の話し方は、とても聞きやすくて、お勉強になります。これからも扇子を゙トントンしてください😊
C国にも「三皇五帝はみな倭種なり」と記録があるそうです。
小名木先生へ、華頂宮博一先生との対談を見てみたいです。是非、実現して頂きたいです。
分厚いイモゴ(火山灰土壌)と旺盛な植物の成長で九州の縄文遺跡発掘は実は殆ど成されてないのかもしれないな、と思ってます。
先生、感動しました。ほんとうに、「あほが見るばかのけつみたい」に下しか見ない人達がいますものね??
歴史学を真剣に学ぶなら、科学的であり、それを示す理由に基づく真実を見つけないといけないのに、わからないのね?
何の根拠も理由もあいまいな歴史学は、このむすび大学で、消してあげましょうよ。
これからも、楽しみにしています。日本は、かっこいいのにね?
何だかワクワクしてきます😊
アカホヤの大噴火🌋自体、知らないレベルの自分です。
分かりやすい講義で、ありがとうございます。
多摩川でメタセコイアの炭化した化石が日野市郷土資料館主催の化石採集会で転がってるのを拝見させてもらいました。やはり多摩川もメタセコイアの群生ぶりから大陸の一部だったようですね!それ以外インド大陸のように象の化石も八王子周辺で発見されています。こちらは八王子サイエンスドーム(子供向き)展示扱いの化石です。
7300年前の災害が神話として語り継がれてるなんて凄すぎる
事実として地層にあるんだよ、話を戻すんじゃありません!
7000年前の事は神話では無い!
@@kaka-rq5zd
@user-cm1ed8tm6zさんが言っているのはこの火山活動の灰が太陽を隠したように見えるから神話っぽくて受け継がれてたとしたら凄いねってことでは。
つまり事実としては受け入れているのでは?事実だったのだと思っているんだと思うけどなあ。
@@kaka-rq5zd
>事実として地層にあるんだよ
うん知ってる、だから言ってるんじゃん
>話を戻すんじゃありません!
話を戻すって何?
>7000年前の事は神話では無い!
その根拠は?
ちなみに7000年じゃなくて7300年ね
@@サザビーB2
※7000年から7400年頃の地層だからだよ。
※動画で事実って言ってんのに神話って戻してるだろうよ!理解出来ない?神話ってのは高千穂峰の出来事に関わる日本や地球の生立ちのことな😊
九州や四国西部、中国地方の縄文人は絶滅したとするとその後千数百年は人間がいなくなった。
その後、九州の人間は何処から戻って来たのか?。沖縄、大陸の半島、中国の南部など、色々な地方から集まって来たのだろ??としか考えてられない。
グッグルマップで大陸と繋がる跡を教えられるのは小名木先生のほかいません!今もびっくりしています。
アカホヤの大噴火を学校で一度も習わなかった。こんな大きな出来事が何故、伏せられてきたのか不思議である。
そこで伏せられたなんて言葉使うから陰謀論が生まれる。やめた方がいいよ。
この話で映画が見てみたいな
これ、学校で教えて欲しい〜‼️
起承転結がハッキリしていて、内容も分かりやすく面白かったです。
日本をカッコ良くみれた気がします。
愛国心感じるわぁ
実際、葦船で荒波の日本海を渡れるのかと疑問にも思います。
約7500年前の千葉の遺跡で丸木舟が発掘されています。
ヲシテの解説で、長江から稲作を習いに来ていたという話を読んだことがあります。
あの噴火で縄文人の人口激減したらしいが説明はそこまで。避難した九州の縄文人は何処へ行ったのか。東へ行っても火山灰が降り積もり東の縄文人と少ないパイを争わねばならない。不思議だと長年の疑問が明らかになって嬉しい。
阿蘇山によく似てる
神武以前のウガヤフキアエズ七十二代々の分析お願いします
鬼界カルデラ
(きかいカルデラ)は、薩摩半島から約50 km南の大隅海峡にあるカルデラ・海底火山[1]。直径は約20 km[2]。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁の外輪山に相当する。カルデラ中央海底には、単一の火口に由来するものとしては世界最大規模の溶岩ドームがある[3]。溶岩ドームからは現在も火山性ガスの気泡が噴出しており[2]、地下にはマグマ溜りが存在すると考えられている[3]。薩摩硫黄島はランクAの活火山に指定されている。
先史時代以前に複数回の超巨大噴火を起こしている。約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模で、火砕流が九州南部にも到達し、九州南部の縄文文化を壊滅させたと推測されている[3]。近年の研究では、屋久島、口永良部島、大分県、徳島県などで噴火に伴い発生したと考えられる津波の痕跡が発見されたとの報告がある[4]。
地形
カルデラは東西約21 km、南北約 18kmの楕円形であり、約7300年前の噴火で形成された内側のカルデラと、それ以前に形成された外側のカルデラの二重となっている。カルデラ底部の水深は400 - 500 m。海底には多数の海底火山があり起伏に富んだ地形になっている。カルデラ外輪山として竹島、硫黄島が海面上にある。硫黄島の硫黄岳、稲村岳、及び昭和硫黄島は後カルデラ火山。外輪山の矢筈岳、硫黄島西部の平坦部は先カルデラ火山。硫黄島から南東方向の中心部付近には海底の高まりがあり、後カルデラ火山活動によって形成された中央火口丘と推定される。このうち1つの浅瀬は海面上にあり、3つの岩礁からなっている。神戸大学などの研究チームが2016年から2017年にかけて行った海底調査では、直径約10 km、高さ約600 m、体積約40 km3の溶岩ドームを確認した[2][5]。
石器の発掘が沢山ありますね。縄文の土器には芸術性がありますよ。すでに日本芸術のシンボライズ性がありますよ。対人戦災でなく対自然災害が圧倒的に重要な人生を万年単位で引き継いでいる国です。歴史観は修正されますよ。
良い内容を話されてるな
大陸に行った縄文人が
和人として日本に戻り
弥生文明に発展した説があります。(武田鉄矢説)
弥生分化っていう発展なの?!劣化かと思ってた。小名木さんも縄文文化を壊したみたいに言ってたと思う。
@@gene5811
縄文文化が争いもなく異文化で有る弥生文化を受け入れたことが不思議
だったのですが
元々が同じ日本人だっただからではないか?推測?
分かりませんが面白い
いろんな説がこれから出てくるかも
地方の埋蔵物センターに行くと2万年前とか3万年の遺物が出て来てる。
郷と郷(国と国・ムラとムラ)そこの間に クチナシ(口無し)の花 を植えてた…これは近代の事かも知れませんが そうやって争わない 戦わない 郷の中 郷と郷 協力し合う仕組みをこの海洋に囲まれた山野の国土に古代のヤマト民族は命を紡ぎ合い繋ぎ合い 生きて来たのではないかなー と考えます🙏m(_ _)m🇯🇵
噴火する前から折りに触れどんどん半島に進入して行って居たと思いますが噴火にプッシュされて一文化の本拠地が一気に移動したりは有ったかも知れませんね😊
先生、
当時、気候も恵まれていた太平洋沿岸といってもご説明のとおり今の高台、山地ですけど
発祥というのがわかりました。
また、大陸とわ陸続きっだのでわ?大移動、避難?に関して当時の地理的説明もおねがいします。
沖縄県伊是名島には、アギギタラ・ウミギタラという夫婦岩があるが、それぞれ伊是名アギ・伊是名アミとなり、イザナギ・イザナミの実在を表す証拠とされている。日本人が気に留めないうちに、中国人に買収される可能性がある。
なるほど。縄文時代を過ぎてから現代の間で殺戮侵略が起こった訳ですね。
葦船
(あしぶね)や草いかだ(くさいかだ)は、丸木舟や他のいかだなどとともに、最も古くから知られている船のひとつである。伝統的漁船(英語版)としてよく使われてきたが、その大半は板張りの船に取って代わられた。しかし今でも使われている地域もいくらかはある。葦船は通常、何らかのタールで防水されているため、葦船と草いかだは区別できる[1]。小舟やいかだだけでなく、小さな浮島も葦で作ることができる。
いままで発見された中で最古の葦船の遺物は7000年前のもので、クウェートで発見された。葦船は初期のペトログリフ(岩面彫刻)にも描かれており、古代エジプトでは一般的だった。有名な例は、赤ん坊のモーセを入れるのに使われた「パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗っ」たものである(Ark of bulrushes)。また、ペルーとボリビアでも早くから作られており、非常に類似したデザインの船はイースター島でも発見された。葦船は今でもペルー、ボリビア、エチオピアなどで使われており、最近までケルキラ島でも使用されていた。ノルウェーの人類学者で冒険家のトール・ヘイエルダールの探険航海と研究により、葦船の構造と能力についての理解が深まった。
歴史
右の画像は葦船と人間のペトログリフである。葦船はスカンジナビアの洞窟壁画に描かれているものと似ており、トール・ヘイエルダールはスカンジナビア人が今日のアゼルバイジャンに相当する地域から来たと結論した。ゴブスタン国立保護区には、12,000年前にこれらの洞窟に住んでいた狩猟採集民によって彫られた6,000以上のペトログリフがある。当時、カスピ海の湖面は今よりもはるかに高く、丘の低い岩に打ち寄せていた。
また、エジプトのキフト(コプトス)にあるワディ・ハンママート(Wadi Hammamat)には、紀元前4000年のエジプトの葦船の絵がある[2]
古代エジプトではパピルスで葦船を作った
今まで発見された中で最古の葦(とタール)で作られた船の遺物は、クウェートのファイラカ島で見つかった7000年前の航海用ボートのものである[3]。
古代のエジプト人は、ナイル川とデルタで広く栽培されていたパピルス(カミガヤツリ)から船を作っていた。この葦は、他にも多くの目的、特にパピルス紙を作るためにも使用された[4]。カヤツリグサ属の他の葦も同様に使用された可能性がある[4]。テオプラストスは著書「植物の歴史(Historia Plantarum)」[5]で、オデュッセウスが帰宅後に、妻への求婚者たちを殺害した際、彼らの退路を断つため、アンティゴノス王の船から持ち出された索具で扉を固定していた[6]が、その索具はパピルスから作られていたと述べている[4]。ナイル川の航行に適した軽い小船は、パピルスを切っている姿を描いた第4王朝のレリーフに示されているように、パピルスの茎で作られ、それを使って索具や帆を作り、葦船を作った[4]。
聖書によれば、ファラオがすべてのヘブライ人の男性を殺すための布告を出したとき、赤ん坊のモーセは母親によって救われた。母親が彼をナイル川に隠す際に[7]、パピルスで作られたかご(小船)が使われた[4]。また、預言者イザヤは、イザヤ書18:2でエチオピアの葦の船について言及している。
トール・ヘイエルダール
近代的な意味では、ノルウェーの人類学者で冒険家のトール・ヘイエルダール(1914年-2002年)の冒険航海と研究により、葦船の構造と能力がよりよく理解されるようになった。
ヘイエルダールは、古代の地中海やアフリカの人々がカナリア海流に乗って航海して、大西洋を横断して、南北アメリカに到達した可能性があることを実証したいと考えていた。1969年、ヘイエルダールは古代エジプトの太陽神にちなんで「ラー」と名付けた葦船を建造した。その設計は古代エジプトのモデルと図面に基づいていた。船はチャド共和国のチャド湖から招請した船大工によって建造された。原料のパピルスの茎はエチオピアのタナ湖のものを使った。モロッコ海岸(サフィ市)から大西洋を横断しようとして出航した。数週間後、設計ミスと舵の喪失により、「ラー」の船体は大きく浸水していた。最終的に「ラー」は放棄された[8]。
翌年、ヘイエルダールは新しい船、「ラーII号」で再挑戦した。今回はボリビアのチチカカ湖の船大工が建造した。再び、船はモロッコから出航し、今回は成功してバルバドスに到着した[9]。
1978年、ヘイエルダールは3番目の葦船である「ティグリス」を建造した。この船の建造目的は、メソポタミアとインダス文明が、貿易と移住を通じて結びついていた可能性の実証だった。「ティグリス」はイラクで建造され、ペルシア湾を航海して、インダス文明のあったパキスタンを経由して、最終的には紅海にまで入った。船は5ヶ月間耐航性のある状態で海にとどまった。その後、アフリカの角で激化していた地域紛争への抗議として、「ティグリス」はジブチの海上で燃やされた[10]。
チチカカ湖の葦船
ウル人のこの頑丈な葦船は20人以上を収容することができる
トトラ葦は南アメリカ、特にチチカカ湖周辺、そしてイースター島でも育つ。これらの葦は、コロンブス以前の南米のさまざまな文明で葦船を造るために使用されてきた。「バルサ」と呼ばれる船は、小型の釣り用カヌーから30メートル長までさまざまな大きさの物がある。それらは、海抜3810メートルのペルー・ボリビア国境にあるチチカカ湖で今でも使用されている[11]。
ウル族(英語版)(ウル人、ウロス人)はインカ文明以前の先住民である。彼らは今でも、チチカカ湖に点在する人工の浮島に住んでいる。これらの島々もトトラ葦でできている[12]。それぞれの浮島に、同じく葦でできた3 - 10軒の家が建っている[11]。ウル族は今でもトトラ葦船を造っており、釣りや水鳥狩りに使用している
チチカカ湖のボリビア側の町であるスリキ島の葦船職人は、トール・ヘイエルダールが「ラー2号」と「ティグリス」を建造するのを助けた[13]。トール・ヘイエルダールは、チチカカ湖の葦船がエジプトのパピルス船に由来することを証明しようとした。
チチカカ湖の南東岸近くには、古代都市国家ティワナク遺跡がある。ティワナクの遺跡からは、当時の卓越した石材加工技術の存在がうかがえる[14]。精巧な彫刻やモノリスを作成するために使用された緑色の安山岩は、チチカカ湖の対岸にあるコパカバーナ(英語版)半島に由来すると見られる[15]。一つの理論として、40トン以上の重さのこれらの巨大な安山岩石は、葦船に載せられてチチカカ湖上を約90キロメートル輸送された可能性がある[16]。
イースター島でもトトラ葦を使って葦船が建造された。興味深いことに、この船のデザインは、ペルーで使用されている物とよく一致している[17]。
日本神話における「葦船」
日本における文献資料で「葦船」の最古の例は古事記の国産み神話で、イザナミとイザナギの間に生まれたヒルコ の処遇に登場する。
《原文》興而生子水蛭子此子者入葦船而流去 古事記(上巻)
《書き下し文》興して生める子は水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき
この「葦船」が文字通りに葦で作った船だったかの解釈には異同がある。たとえば日本書紀纂疏においては、
葦船ハ葦一ヲ以テ船トナリ [18]
とあり、あたかも葦一本をとってそれを船にしたかのごとく解している[19]。本居宣長はこの部分について、「さも有りなむ。」と裏書きした後、「また、葦を多く集めて、からみ作りたるにてもあるべし。」と記して、先人の説を正面切って否定はしないが、実際は物理的に作られた葦船だったともしている[20]。
吉田東伍は「葦舟はけだし竹筏にして」「葦船の葦はイカタの料にして、竹と同しかるべし」としており、船材としての葦とは竹のことだとしている[21]。西村眞次はこれについて、「難波の葦は伊勢の浜荻[22]」というように一般に植物名の使い分けが厳密を欠く場合があるのは確かにしても、記紀は竹と葦は識別して記しているため、やはり葦は葦だと解すべきとしている[23]。西村眞次はつづけて松村任三の言葉として、昔の日本では海辺や川岸に葦が非常に多く産していたことを紹介し、それを受けて、資源として得やすく加工しやすかった葦は、初期の歴史においては木材より多く船材として利用されていたのではないかと結論している[24]。なお、笠井新也は国産み神話に関連して、「当時産後の不潔物等も、葦などに包んで流し捨てるという風習のあった事が想像出来る」としており、葦の使用を認めている[25]。
国産み神話以外では、南波松太郎が、神武東征において、速吸門で遭遇した珍彦(うづひこ)が乗っていた亀甲を葦船としている[26]。
その他の例
北米で広く存在するツーリー(英語版)葦は、さまざまなインディアンによって葦船を建造するために使用された。オローニ族、湾岸ミーウォク族(英語版)、海岸ミーウォク族(英語版)の人々は、サンフランシスコ湾の河口で使用する船を作るためにツーリーを使用した[27]。チュマシュ族(英語版)のうち、北部の集団はツーリーを使って葦の漁業用カヌーを作っていた[28]
ペルーやボリビアだけでなく、エチオピアでも葦船が造られている[29]。そして最近までケルキラ島でも使用されていた[30]。
カイサリアのエウセビオスの伝えるところによれば、シュメールの洪水神話においてはジウドスラは葦船を作って生き延びたと、少なくともベロッソスの時代までは信じられていた
モキヒ(Mokihi)はニュージーランドの先住民・マオリの船で、ラウポやコラリという葦から作られる。ワイタキ川[1]とサウスウェストランド[2]では現存する
「祈りの船」は、毎年何千人もの人々が小さな葦の船でお香やろうそくを燃やし、夜に川に浮かべて、願いや祈りを運ぶヒンズー教の宗教祭で使用される
1836年、Narcissa Whitmanは、フォート・ボイス(英語版)のスネークフォートでインディアンが馬で曳いていた葦船について記述している[31]
2007年、アボラ探険隊(英語版)の第3次航海として、ドイツの科学者ドミニク・ゲルリッツが船長を務める葦船が大西洋を西から東に渡ろうとニューヨークから出発した
一部の網代船も葦で作られている(下の写真を参照)
日本の最古の丸木舟の遺跡は千葉県の7500年前の物だった。
それ以前から葦舟があったと思うから縄もあったよね、神話でヒルコが流されたのも葦舟だもの、その描写はアカホヤ以前3万年前の姶良カルデラ(鹿児島)かもね?
@@ちりめん居坐
そうなのかもしれませんね^^
姶良カルデラ
(あいらカルデラ)は、鹿児島湾北部(湾奥)において直径約20kmの窪地を構成しているカルデラである。南九州のカルデラ群の一つで、加久藤カルデラと阿多カルデラの間に位置する。現在のカルデラを形成した姶良火砕噴火は、約3万年前と推定されている[1]。桜島火山のマグマ供給源とされる。
概要
姶良カルデラの範囲と地形図
鹿児島湾と桜島を囲む巨大カルデラである。カルデラの中心は新島(燃島)付近。
1940年代に松本唯一が提唱したが、現在では単一のカルデラではなく、大崎カルデラ(北西部)、若尊カルデラ(北東部)[2]、浮津崎カルデラ(南東部)など複数のカルデラが複合したものと考えられている。全体が一度に形成されたものではなく、150万年前から活動があり[3]、少なくとも北側の一部分は80万年以上前から存在している形跡がある[4]。入戸火砕流と姶良Tn火山灰などを噴出した約3万年前の姶良大噴火でおおむね現在の形になり、約2.6万年前に後カルデラ火山の桜島火山が誕生した。また、淡水性生物化石が出土していることから、形成当初は淡水で満たされていたが、約1万年前の最終氷期以降の海面上昇とカルデラ南壁の崩壊により海水化したと考えられている。
現在もカルデラ内部にも噴気活動が観察される若尊などの海底火山や隼人三島(神造島)などの火山島が形成されている。
地下100kmのプレート境界で作られたマグマが上昇し、カルデラ中央部地下10kmにマグマだまりを形成している。
九州南部に広く分布するシラス層の起源を説明するため1930年代に姶良火山と呼ばれる大きな火山の存在が仮定されたが、その後の調査結果等から現在ではそのような仮定は必要ないとされている。ただし、姶良大噴火以前においてカルデラ北東部に淡水湖が存在していた形跡があり、何らかの隆起地形が存在していたとの説もある。
カルデラに隣接して鹿児島市や霧島市などの市街地が形成されている。カルデラ壁は鹿児島市竜ヶ水地区や垂水市牛根地区で急斜面となっており、大雨によってしばしばの土砂災害が発生している。
姶良火砕噴火
長岡ら(2001)によれば約2.9万年前[5]、Smith et al.(2013)によれば約3万年前[1]、大噴火が発生した。一連の噴火は総称して姶良火砕噴火と呼ばれる。
はじめに、現在の桜島付近で大規模なプリニー式噴火が発生し、軽石(大隅降下軽石)や火山灰が風下の大隅半島付近に降り積もった。この噴火では噴煙柱が複数回にわたって部分的に崩壊し、火砕流(垂水火砕流)が発生した[6]。このプリニー式噴火に引き続いて現在の若尊付近を噴出源として妻屋火砕流が発生した[7]。この火砕流堆積物と大隅降下軽石堆積物の上部と指交関係にあり、この二つの堆積物は時間間隙を置かない連続的な噴火と考えられる。妻屋火砕流は火山豆石を多量に含み、また堆積物は全て非溶結であることから、マグマ水蒸気噴火によって生じたと考えられる。
垂水火砕流堆積物や妻屋火砕流堆積物の上面にしばしば見られる軽微な侵食構造が見られる。これについては、入戸火砕流の噴出までにわずかな時間間隙(数ヶ月以内)があったとの説と、この侵食は入戸火砕流による侵食であり時間間隙は示さないとする説がある。
最後にカルデラ北東部の若尊付近から大量の流紋岩質マグマが火砕流(軽石流)として一度に噴出した。素材となったマグマは温度が770-780℃、圧力が1600-1900気圧であったと推定されている。この火砕流は入戸火砕流と呼ばれ、地表を走り九州南部に広がった。この火砕流堆積物は最大層厚は180mに及び、シラス台地を形成した。火砕流から巻き上げられた火砕物 (co-ignimbrite ash)は姶良Tn火山灰と呼ばれ、偏西風に流されて北東へ広がり、日本列島各地に降り積もった。関東地方で10cmの厚さの降灰があったとされる。現在の霧島市牧之原付近を中心とした地域の入戸火砕流堆積物最下部には、亀割坂角礫と呼ばれる岩塊が堆積しており、最大層厚は30m、中には直径2mの巨礫も含まれている。これは、噴火と同時にカルデラの陥没によって基盤岩が粉砕されて空中に放出され周辺に落下したものと考えられる。
噴出物の総量は見かけ体積で、大隅降下軽石が98km3・垂水火砕流が1-20km3・妻屋火砕流が13.3km3、入戸火砕流が500-600km3・姶良丹沢テフラが300km3推定されており、火山爆発指数は7から8となる[8][4]。
余談ですが、三陸の過去の津波堆積物はおよそ6000年前のものが確認されてますが、それ以前のものは未確認だったかと思います。氷河時代を経てアカホヤの大噴火に至ったときまでの海岸線を詳しく調べると、より深く過去の出来事が見えてくるのではないかと思ってます。
阿波が熱。
阿蘇は経路にある程度の理解で可&軍を置く=都ではない宣言と理解。
鬼界カルデラの説明をされる中で、出てきた噴火のイメージ図なのですが、おそらくあれは姶良カルデラのイメージ図ではないかと思われるます。
ただ現在の鹿児島県の地図上に姶良カルデラのあった場所が噴火した様子を描かれているのも変ですが…。
磨製石器時代が文化の始まります、旧石器打製石器時代は12万年前からの石器、磨製石器は38000年前から35000年前の出土は数千箇所出土している、外国では22000年前オーストリア、15000年前中共の出土、土器は16500年前の出土しているようです、この年代に郡上市の縄文洞窟から人骨が発掘された。
喜界カルデラ噴火は7300年前では?カルデラの範囲は南北13㎞、東西20㎞(薩摩硫黄島、竹島あたり)。姶良カルデラの噴火は約30000年前、カルデラの直径約20㎞。
動画の説明での鬼界カルデラの範囲、思いっきり間違ってますよね。
シュメールとかにもつっこんでもらったらよかったのに
他の動画を見なさい。
またシュメール文明は7000年前に突然出現してその前の遺跡がない、が答えだよ。
@@kaka-rq5zd さん 7000年前はアカホカ噴火後の年代なんですよね
@@オーケン-i1l
そうだよね、だから縄文人の移動が理由だよな。
助けてほしい助けてほしい助けてほしい
現在の元号みたいにこの日からってきっかり何年から何年って変わらないですよね‼️漢字が来るまで記号みたいなものでも本当に文字無かったのかな⁉️
縄文土器が南米から発掘されたと聞いた事が有りますね
揚子江・・・陸側から見れば「河」だと分かるけど、海側から揚子江河口を見れば大きな入り江?と、錦江湾を見知った上野原遺跡を脱出したような人達には思えた?・・・かも知れませんね。ロマンですね(笑)
小名木先生の動画、楽しく拝聴してます。お願いがあります。鹿児島県の西に甑島があり、グーグルマップにより、甑島、西約10㌔先に海底遺跡が写っています。北へ直線で約80㌔長崎の五島列島の南まで続いてます。直線にそって丸いものがたくさん付いてます!何か?わかりません。お忙しい処、調べて頂くと幸いです。!!
揚子江がヤンズという発音は北京儀。広東語だとイエンチーカンですけれど・・・。お話が荒いですね。
想像だけでは断言できないので、参考までですね。
内の田舎の宮崎県旧田野町に本野原遺跡は西日本最古の縄文時代の集合集落遺跡だそうです。旧石器時代から続く遺跡で縄文後期に100戸もある遺跡だそうです。
あかほやの大噴火でも生き残ったと言う事です。日向の国です。
富士山は、平安時代に噴火し、当時大きな湖だったところに溶岩が流れ込み
現在は、富士五湖の西湖と精進湖になっています。その溶岩の上にできたのが青木ヶ原樹海です。
日本の照葉樹林は、500年で深い森林に復活します。
貞観大噴火864年がその噴火です。
アカホヤ噴火後、その上にできた縄文遺跡は、東国、四国から来た縄文人でしょう。
国東市国東町成仏には岩陰遺跡という縄文遺跡があります。ここの遺跡から鉄器が出ましたが隠蔽されました。歴史が変わるからです。
それは環太平洋とそれらの沿岸部から南米大陸の内陸への大移動で途中の島々にも根をおろしたんでしょうね。
ちなみに長江の沿岸の湿地帯河姆渡辺りで水稲栽培を始めたのは倭人だと中国人学者も認めています。ただ、この倭人はあの倭人では無いなどと言うイミフなモノを添えて。
子供の頃、もく縄文土器と矢尻を発掘しましたが矢尻は確かに小さかったです。
小さいことですが アカホヤは場所を示す名詞ではなく土壌を示す呼称なので アカホヤ(火山灰)の大噴火 というのは適切ではなく 奇界カルデラの大噴火 と言うべきではないでしょうか
阿蘇山の噴火かと思いました。あれだけの外輪山を残して、どれだけの巨大なヤマだったかと思います。
縄文時代に行われていた遠洋漁業に使った舟で半島や大陸に渡った。それが葦舟と決める必要は無いと思います。さらなる発見と研究に期待したいです。
米が長江河畔で見つかり、日本で伝来してるとゆうのが定説だったのですが、米のDNA分析で日本にあった米は、原種近く、中国朝鮮にある米は分岐した亜種なのです。何故でしょう?
話が逆です。
日本の稲を、大陸に渡った倭人が持って行ったんです。
日本文明はアトランティス大陸文明だったのかも知れませんね。
弥生時代が始まったとおっしゃいましたが、何をもって弥生時代が始まったとされているのでしょうか?
稲作は縄文時代から行われていた事が明らかですし、人工乾季稲作も日本から始まったのではないかという説も有力だとか。
集団定住生活?世界で稀な定住狩猟採取生活をしていたらしいと言われ始めています。今風に言えば、サスティナブル狩猟生活ですよね。
そうなると、青銅器?青銅器よりも鉄器が先じゃないかという主張もあるらしいですね。
果たして。
この事実を教育に反映される事は難しい。日本政府内部に食い込んでいる三国人が邪魔をするからね…
この噴火が実は天の岩戸神話の元ネタです。
黄泉の話だと思っています。
破局噴火で大地の神が亡くなり 鬼界カルデラが首が飛ばされたカグツチで 火山灰被害等や避難時に多数の神々が生まれ、大陸に逃れて暮しても 寒冷化が始まり飢餓に陥り 難民として日本に帰ってきた。
大地の穢(火山灰)が流され緑がもどり川の水も澄んで蘇がえり高天原となった。
この頃 今の千葉辺りでは丸木舟が発達してたらしい。
日本人が渡って行ったのならどうしてあんなに劣化してしまったんだろう?
文字は?。日本と半島、揚子江では、文字らしきものは発見されていないのですか?(聞けば聞くほど、ワクワクしますね)
いわゆる「亀甲文字」が日本の遺跡から発見されているそうですよ。
面白かった。でも、いつも思うが、アカホヤの大噴火というものが、どうもピンとこない。
同じく、ピンとこない。
赤色の炎って意味じゃないの?
調べてみたら、火山灰土壌の一種、だとか、火山灰土の俗称、とありますね。
土のことですね。
@@しのなな-o8d さん、教えてくれてありがとう。
@@たかあきのとぅじ いえいえ
縄文人は、ホビット族(ハーフリング)だった。という説に一票。
薩摩はイオウジマです。
武器がなかった、損傷した骨が出てない、それだけで平和的と思うのはいかがなものか。
組織的に戦う知識・欲、要素、背景がなければそもそも戦争などを行うと言う思考さえもありません。
せいぜい、猿のように追いかける、石を投げるくらいです。
それを平和を愛したと思うのは全く別問題です。
人類が戦いを知り必要になり覚えたのがもっと後になっただけと見るのが自然です。
殷は倭人の国って中国の記述にある。それにしても古代日本は本当に文字がなかったんだろうか高床式倉庫なんて数学の知識がないとできないと思うが
航海技術があったのかなあ🤔
約7500年前の千葉の遺跡で丸木舟が発掘されています。
つまり嘘つきで他人を殴る殺す弥生以降の戦乱は縄文文化が失われ最早日本人いうではないてこと
これがノアの方舟伝説?
逆のような気がします。
火山噴火のおかげで、水はけの良い土壌が誕生し、
畑に適した土地になったのでは。。。
江戸の富士山噴火のおかげで、今の千葉県に偏西風によって火山灰が蓄積し、
今の農業県になった様に。。
酸性土とリンが土中で化合物となってしまう事で農業不適
@@るるむ-r6d
最初はそうかも知れませんね!
でも、阿蘇山の噴火と富士山の噴火のおかげで今ではスイカの名産地になってます(^o^)
水はけの良い土壌がベストマッチしたようで。
あったのは大噴火だけじゃないはずですよ。元々小さい噴火とかもあったんじゃないかなぁなんて思います。
大噴火前に農耕に気付いて出来ていて、でも逃げなきゃいけなかったとしたら…なんて思います。
そしてエジプトでファラオやってかえってきたんですね。うん
天岩戸隠れの時代のお話ですね。
縄文時代が日本特有のユニークな文化であるという事は確かにそうだと思います。しかし、縄文時代=ユートピア的な発想はいかがなものかと思います。
有珠モシリ遺跡では、頭蓋骨に鈍器で殴られた跡があるそうです。
受傷人骨から見る縄文時代の争いという論文がありますので、ご参考に。
縄文時代は、平均寿命が31歳と短く、貧しくて争う事もできなかったと考えた方がいいのではないかと思います。
当然、人間ですから、個人のいざこざや争いはあったでしょうし、食糧が少ないことから、部族間での確執もあったでしょう。しかし、人間が少ないから争いも少なかったのでないでしようか?
弥生時代になると稲作の影響で人口は縄文時代の三倍に増えています。ですから、人間の争いも増えるでしょう。
富が戦争を起こしたという考え方には、賛同しかねます。
日本語とハングルの文法が近いのはこういう理由なんですね。
いつも楽しみに拝聴させていただいてます。ありがとうございます
一点だけ疑問に思ったので、発言させていただきます。喜界カルデラ火山爆発での灰の雲がやってきて、その灰を吸うとバタバタ死んでいく…
そんなすぐには人は死なないと考えます。
桜島のある鹿児島や火山活動があった地域の人が呼吸しただけでバタバタ倒れますか?
お伝えしたいことは理解しますが表現が少し違うと感じます
桜島等のそんなチンケナ火山灰では無いです。2㍍も降り注ぐ硫化化合物と云う毒物です。
嘘ここに極まれり
扇子を叩かない方が良いと思います。
縄文海進があったということは地球温暖化で海水が膨張していたということになります。その当時より数メートル低くなっているようです。ということは、海水は縮んでいるということです。ということはその当時より気温が低くなっていることです。地球温暖化が嘘っぽいと感じるのは私だけでしょうか?
考古学的な証拠を提示することはできませんが、私達は5万年前に日本に波動降下によって転生してきました当初は860名のソウルのグループでしたそのうち36名は超能力者で、最初の生涯の寿命は訳3万年でした。
誤字も有るし内容的にもアナ夕は日本人でしょうか?
一番気になるのが飲料水をどう確保してたんだろうと疑問です。
相当過酷な移住であったろうと思います。陸地が有るかどうか、有るとしても地図が
有る訳でも無いから見渡す限りの海へ向かうにはどれだけ大変か想像するだけでも
身震いする。気になるのが必須な水、当然雨水は活用したのでしょうが、何か
浄水システムの様なものが有ったのかと考えてしまいます。実際米大陸などに移住したとしか
考えられないから、何らかの飲み水確保は出来てたんでしょうね。もしかして素焼きの土器に
海水汲んで、染み出たものは塩分濃度が薄まるってことは無いのかな。どれ程過酷な航海だったん
でしょうね。恐るべき縄文人。
縄文土器はあったよね。
いくら何でも違いすぎる
余りにも架空のお話
さもあらんは迷惑、人類の足跡を勝手に偽る事は許され無い‼️
扇子で叩くのに何か意味あるんですか?
火山の噴火についてはピナツボ火山の噴火などがあるから新規じゃない系統なので楽しくないよ
あほや
適当にしゃべるのは自由だ、信じてほしければ国の承認、こいつのしゃっている内容は正しいって証明を出してみろ。
御自分で証明されては如何ですか?。
古ければ偉いのか?
縄文時代の日本人を褒めると現在のアイヌを褒めていることになるのでは
アイヌ部族は12世紀頃に樺太辺りから南下して北海道の縄文人の末裔を毒矢等で虐殺してた。
日本人がそんな優れた民族だとは思わない
朝鮮人が優れた民族かい?
縄文人は中国人とDNAが違います。日本から揚子江付近に住みついたのは違うと思うな😎
古代漢民族は、現在のベトナム系人種です。
隋、唐は鮮卑と言う騎馬民族です。
夏王朝、殷(商)、周、春秋、戦国、秦、漢王朝は、
ベトナム、オーストリアラレイシア語、印欧語、アルタイ語人種と言われています。
漢字は、ベトナム、オーストリアラレイシア語、印欧語、アルタイ語人種の人たちが作った
コミュニケ―ション絵文字で、商業記号です。
現在の中国人とは全く関係ない文字です。
中国は、もとの漢人は滅び、現在の長江以北の中国人は、
三国時代から隋、唐に人種が入れ変わっています。
揚子江に住み着いた縄文人は、日本にも帰ってきています。
つまり交流があったわけです。