1800年前の日本人
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- เผยแพร่เมื่อ 11 ก.ย. 2024
- 皆さんは、3世紀頃の日本人がどのように暮らし、生きていたかイメージすることはできますか?239年に卑弥呼が魏に使いを送って「親魏倭王」の称号を授かったといわれている、その頃の日本人の様子はどのようなものだったのでしょうか。今回は、「魏志倭人伝」で語られた当時の日本人の様子を、魏の使者が綴った記録を交えながら紹介します。
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シナリオ執筆担当:suzuran888az
校正・編者:飛鳥
#世界が称賛する日本 #感動
100%確かなことは私のご先祖はどの時代であれ生きていたということ。
病気や多くの争い事があっても生き抜いてくれた多くのご先祖に感謝しかない。
壱岐の島の出身です。
島の人は争いを穏便に済ます優しい人が殆どです。だから統治した人は島の人では無いのだろう。
2千年ほど前にはすでに日本人の精神性が出来上がっていたようですね。
故郷、昔の人々の生活に興味があるので楽しかった。また、穏やかな話し方が素晴らしい。
当時の日本の姿を書き記してくれた魏の使者や陳寿さんに感謝ですね🙌🎵一夫多妻制だったんですね。女性が多かったのか戦や狩りなどで亡くなった遺族を養護してたのか分かりませんが犯罪は少なく皆で助け合って暮らしていたんですね😊日本人らしいですね。
男は少なかったと思う。生まれるときは同じ人数でも、子孫を残せる人が少なかったのかも。海の事故や争い、異国への冒険などで。嫉妬が少ないのは、妻という名前は貰っても、ただ養って貰ってるだけだったのかも知れない。現代の母子家庭保護のような感じで。色欲が目的なら、いくら穏やかな日本妻でも、嫉妬したと思う。そんな文化のない大陸の人からさたら、只の一夫多妻制に見えたんだろう。本妻がただただ耐えていた。女性蔑視だ~と騒ぐのは短絡的すぎると思う。今とは事情の違う古代の風習を聞くたびいろいろ想像して楽しい。
わかりやすく、その時代が説明されている。
このチャンネルは楽しみです、楽しい学校の朗読を聞いているようで耳にやさしいテンポととても聞きやすい声ですね。
邪馬台国があったかどうかは別として、魏から見てもこの時代から我が国は高い道徳性を持っていたことがうかがえます。自分はただただ、この倭人の末裔であることを誇りに思いますし、このことを子々孫々に伝えたいと強く思います。
逆になんでないと思ったんですか?
私はあると思っています。場所は今の福岡あたりではないかと推測します。であると同時に「無かった」という人たちの意見を頭ごなしに否定することもしないという態度です。
むしろ原住民のが生活レベルも高くて穏やかだったんだと思うけど入植者に殺されて文化と歴史と土地を奪われて他国では縄文土器しか残らなかっただけだと思われる
魏人には感謝しないですか?
今から、疑問は研究者によって解明されます。結果を先に述べるのは賢明でありません。魏の国では遠く離れた、彼の地の国から朝貢しに来た事が大きな意味が有った。倭人の意味をよく解釈されされて、表現した方が良いと思います、倭国は日本だけではありません。
この頃の1人が自分のご先祖様ですよね以来誰かが欠けても私は存在しないとは血の繋がりは奇跡だね。
岩波文庫に魏志倭人伝の書がありますので、読まれたらよいかと思います。解説も詳しく書いてあります。陳寿は当時列島にきたわけではなく、100年以上前に先人の書いた書物を参考にして倭人伝を書いています。
中に錦の織物を贈り物として持ってきたことや、使いの者が親書らしき物を持ってきたことなどが書かれていて、驚いたのを覚えています。当時は絹織物や文字などはなかったと教えられていましたから。親書というのは文字の書かれていた物でしょう?
それから卑弥呼のことも書かれていますが、どくしんで弟と別にもう一人男の人を従えた中年の女性と書かれていたと思います。記憶が定かでないので、本棚を漁ってもう一度読み返してみようかな?
現代日本人が世界に誇るものが、じつはすでに弥生期にあり(つまり縄文期にすでに培われていたからこそ弥生期にあったのだろうが)、まことに誇らしい先祖のかたがただ。文明というのは日進月歩するが、文化とくに精神文化などは育まれ培われる性質であるから、1000年2000年かかったりする。20年周期で世代交代がなされるとして、いくらの先祖か培い続けてくれたから今の我々がその恩恵に浴することができるのだろうか。感謝しかない。
三世紀頃の日本風土は、魏志倭人伝の書物で少しは納得します。しかし、私は古事記を一番に信じております。
第一代神武天皇は2,683年前に日本建国を宣言しました。その神武天皇は、天照大御神の玄孫にあたり。
当時は、稲作や養蚕も機織りまで天照大御神が実行したと考えております。
よって、日本は約3000年前から優れた文化が存在していたと信じております。拝
同感です。魏志倭人伝についてはまだ勉強不足ですが、女王卑弥呼は居なかったと思いますし、卑弥呼神社が存在しないことなどなど。(昭和五十七年に建てられた「捏造」
された「卑弥呼神社」はある。いかに「卑弥呼」神話が最近の話であることを、証明しているようなものです。邪馬台国論争にも通じますが、個人的にはこれも存在しなかった
捏造の歴史と考えています。分からないことは種々ありますが、日本最古の歴史書古事記に記された神武東征されヤマト平定が事実であると考えます。
【追記】卑弥呼に「類推」される皇后陛下がおられたようですが。
歴史というものは、過去の事象が、どのような影響を後世に及ぼしたかが重要だと思います。
日本に大きな影響を及ぼし、現在でも精神的、思想的な日本の支柱となっているのが、古事記と聖徳太子の業績です。
この二つは現在の日本人すべてを無意識の行動に駆り立てています。
宗教に対する態度、大災害時の助け合い、人同士の交友の仕方、立ち振る舞い、あらゆるものが色濃く影響を受けています。
卑弥呼はいてもいなくても、何の影響も及ぼしていないのでどうでもいいことだと思います。
@@yoshitoh2585 様。ありがとうございます。御意見に同意します。拝
@@takesihara4852 様。ありがとうございます、私も卑弥呼の存在は信じておりません。拝
一万年以上も前から培って来た文化(言霊の化身)は消えることはありません。
この声優さん、語り方が上手い!🎉👍✨💮
そうですか?
外国人みたいな?喋り方に聞こえますが…?
急いだような喋り方したり、イントネーション?が変だったり…?
外国人であるなら、とてもお上手だとは思いますが、日本人からすると、少し違和感を覚えます…いや、聞きやすくはありますので、何も問題はないのですが…
日本の歴史授業では縄文人が突然弥生人に変わった、いれかわったかのように教えているが嘘だろう。人種が突然変わることは無く徐々に文化の変化があったと思う。幕末日本の文化が明治維新で洋服、西洋文化が入り、ヘアースタイルも変わった。江戸人が消えて現代人にかわったのではない。それと同じで外部からのしげきで文化が縄文時代後期におきた。だから我々日本人は縄文人の血を引く民族である。縄文日本人と言ってもいい。第一神道は縄文時代からあるではないか。
わたしは 大陸からの難民が教えたと、思ってます
その難民が倭国で国を作ったと、思います
@@user-un2lw3yq9y
客観的なことを言うと、最近DNA研究で縄文人がどこからきてどこへ行ったか証明している。東南アジアが主流で黒潮に乗って日本列島へたどり着いた。一部はまだ白紙状態の朝鮮半島へ上陸し半島南部まで勢力を広げた。日本列島からさらにアリューシャンを通過しアラスカから米大陸へ入り南下した。つまり南米原住民には縄文人のDNAが入っていると云う訳。話を戻すと
日本列島の縄文文化は1万年以上前から始まっていた。朝鮮半島に最初上陸したのは
縄文人であった。その後任那をへて百済創立に貢献した。だから百済人は日本語を話せた。新羅は全く違うことばだったことは古事記に載っている。時代をサラッとながしたが、AD500年ころには半島南部はにほんの勢力圏になっていた。だから日本より新しい前方後円墳が南部には今でも数個遺跡として残っている。日本の古墳時代より若い古墳だから日本人が造ったものだと韓国学会でも認めざるを得なかった。
@@user-un2lw3yq9y さん、その難民がそもそも日系だという話もありますね。
@@たかあきのとぅじ 弥生の前の倭人なら縄文人じゃないですか?それとも縄文人が日本で弥生人に変異して大陸に渡ってさらに日本に来た?または縄文人が大陸に渡って弥生人に変異して日本に再上陸?いずれにしても弥生人はもともと倭人だった説はおかしいと思います。
@@mandamnippon1 さん 縄文人がアカホヤの大噴火でシュメールやタミル地方に行ったという説で、シュメールが滅ぶとき東を目指し日本に戻ってきた説です。キリストの誕生の時、東から賢者が訪れ、祝福を与えるってのもあるし、モーゼが東に向かい約束の地を目指した。というのもあるので、元々が日本からだったので、日本に戻ったという説です。
当時の日本人は入れ墨をしていた話を昔から良く聞き、どこか土人ぽく書かれている印象でしたが、
海難事故などで屍になった時、現在の兵隊の認識票みたいに身元証明として入れていた説は大変良かったです。
戦や略奪・泥棒も無く礼節を重んじた穏やかな国柄や、大きな罪を犯した時の一族死刑は裏返すと自分だけじゃなく一族・家族を大切にする教えにも思えました。
タイ族は黑歯と入れ墨が今でもやっています.入れ墨が魔よけになるそうです.聞いたところによれば植物の葉っぱの色素を絞って.少量の蛇の毒を交じり使うらしいです.ちょうど蛇の解毒の薬、天然痘を作る方法に似ています.大陸の南方の林に毒蛇が生息しているから古代人には致命の厄です.あと持衰(じすぃ)は日本語らしいです.タイ語に不運とか不吉の事はスワイと発音します.持衰という人が航海の一切の災いが自分自身に降り注ぐように願をかける役目の人みたいです.
アイヌ民族や琉球でも、刺青は、有ります
昭和の四十年代のアイヌ民族には、唇に、刺青為る風習有ります
お葉書の写真にも、残って居ます
流石に、自分の身近に居たアイヌ民族の方には、居ませんが
苦笑い
因みに、自分は、北海道東部の出身
ご近所さん、同級生にも、アイヌ民族は、多数居ました
その親戚
熊襲が、陸上自衛隊自衛官時代に、後輩で、居ましたが、顔が、見分け付きません
爆笑
わかり易く、言えば、
濃い顔
爆笑
以上
海を潜る人はサメ避けの為に入れるって話もありますね
倭人伝は日本に渡った人が書いたというよりは、倭についての伝え聞いた話を、あたかも本人が行った事のように書いたという説もあるそうです。
素晴らしい内容でした、ありがとうございます
訴訟が少ないのは事なかれ主義って事ですよね。
罰を親類縁者にまで負わせるのは、戦国時代まであった様で。
「事なかれ主義」という一面で日本を批判しようとするのは間違いです。
最近「日本の良いところをあげる」チャンネルが増えた一方、「日本を褒めるな、日本の欠点に目を瞑るな」と反射的にいちいち文句をつけてくる人も増えました。あなたは、そういうタイプでしょうか。
「事なかれ主義」とは、ある程度の問題を、些細なことだ、と飲み込める(我慢できる)精神性や文化の象徴とも言えるでしょう。
もし、盗みや暴行などが多かったら、訴訟が少なくて済むと思いますか?さすがにそれはないでしょう。
実際に事件が少なかった→訴訟が少なかったと考えるのが自然でしょう。
あなたの今回の意見は「重要な批判」にはなり得ないと思いました。それは、批判ではなく、日本を良しとする意見(自画自賛)に対する嫌悪感なのではないでしょうか。
まずは、その嫌悪感を捨てることができれば、客観性をもてるのではないかと思います。
「事なかれ主義」で十分に生きていける安全な国だったということです。
魏志倭人伝に書かれた内容で邪馬台国や卑弥呼以外の内容を始めて伺いました。勉強になりました。
声が最高に好き
カタリベ調で
日本むかし話が合いそうです。
出産や感染症で亡くならなかった人が長寿であったのは自然なことだと思う。毒が少ない食事ですから。
基本的には変わらない様に思いますが盗まず騙さず嘘を言わず殺さず⁉️天は観ていなさるの精神は!多分日本民族固有の資質なのでしょう‼️これから先も日本民族であることに誇りを持って生きるのです❣️
1800年前の農耕民族になりかけの日本の様子が分かるって凄い。刺青は重要な個人識別の為のもので、今と感覚は違いますね。
分身黥面は疫病除けに紅等を塗る行為で入墨ではありませんね🙇
「入墨文化」の、元は【ワタツミ】(海人族)から、派生したそうですね? 過ごし過去迄は、「分身」ト゚謂われた様ですね??
@@横田政克 海人族の言葉ですか?
顔にも入墨があったと記されていたそうですが、なぜか大和王権の時代にはその風習は古事記などき記されてはいません。
入墨乃人たちは何処に行ってしまったのか不思議でたまりません。倭人伝の伝える倭人とは何処の人たちなのか不思議です。
@@hiroshi-itou 其の時代には、言葉は、有れど、文字は無し!! ですから、「平城京」か、「平安京」時代以降に、遣われたのでは、無いでしょうかね?? 又は、漢字で記されては居ても、意味を、解明出来なかった事も、有り得ますよね。
魏志倭人伝は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
みたいですね。
謎は金印の文字「漢委奴国王」
志賀島で見つかりましたね。
当時の様子が詳しく書かれていますね。
私の住んでいる町がそうですが、歩いて直ぐに海があり貝や海藻、魚が捕れます。
又、裏山と言えるほど小高い山が直ぐ近くにあり、わらび、フキノトウ、ヨモギ、タケノコや栗やドングリなども捕れます。
当時から海洋民族であった事が良く判りました。
町から50kmほど離れた所に島がありますが、戦前は天気予報もなく、非力なエンジンの船で1日かかりで渡ったそうです。
私の小学生時代は数年に1度の海難事故があり、最近2、30年でようやく海難事故件数が減りました。
いつ荒れるか判らない海へ航海に出る事の大変さを伺い知りました。
卑弥呼が送った生口は奴隷でわ無いよ。汚い奴隷を送っても喜ばれるハズが無いよ。卑弥呼が送った生口はそれぞれ優秀な職人の一団と思われる。だから卑弥呼に対して銅印や銀印でわ無くて皇帝自身と対等な立場と見なされる金印を送られて居るのが証拠です。
「わ」が気になって入ってこない
とても聞きやすい。自然に耳に入ってくるのはとても良い。
「ゆっくりナントカ」というのが幅をきかせているけど、あの不自然なコンピューター音声と語り口は(少なくとも私には)生理的に合わなくて とても疲れるので・・・
生まれ変わっても、日本人に生まれるとは限らないが、どうして日本国ができ、日本人はどこから来たのか、いろんな話しを聞き勉強したいです。
当時から、今の日本に通じる文化なのですね。規律を守る、長寿、貴人を敬う、調和を大切にする、など全く同じでしょう。少なくとも2000年の間同じである日本を誇りに思いますし、この伝統や文化を大事にしたいと思いました。
語り部のような落ち着いた口調はとても聞き入ってしまいました。
魏志倭人伝に倭国のことをありのままに書いてあると言うのは多少異議ありです。
確かに、生活、文化、風習は割と正確に記載してあると思いますが、日数距離感については遠くの倭国が魏に朝貢していると、蜀や呉に見せかけている手法を用いており、現在でも邪馬台国論争になっているところですね。
いずれにせよ、この倭人伝が無ければ当時の倭国の様子を知るのは難しかったでしょうね。
魏志倭人伝に記されている卑弥呼の時代は弥生時代前期ではありません。弥生時代終末期です。
倭人の武器のところで和弓の特徴である上が長くて下が短い世界的にも珍しい特殊な弓は
既にこんな魏志倭人伝の頃からだったんだね?
鎌倉時代あたりからだとばかり思っていたが思った以上に和弓の歴史は古かったんだね?
中華思想的には東夷の倭の国だが頭から見下したり、嘲笑的な筆致でない点と全般的に客観的描写に感心する。戦争と外交が身近な時代で周辺諸国への分析と対策に作成された背景があるのだろうか。
それに関しては正直な話、魏の内情や司馬家忖度の可能性が高いですね
1800年後に裕福になった途端隣国国民を家畜同然に扱いさらにその文化まで根こそぎ否定しょうとする某お人好しな国とは大違いですよねー
爺聞き入りました、文学部卒なのに。大変有難う御座います。拝
たたら製鉄で製造されるのは日本刀にも使われる玉鋼である。琵琶湖のサバ街道のある朽木地方でマンガンが出るがこれを混ぜるハイマンガンスチールにナル。忌部氏などが移住して山陰地方は古代の儲る工業都市圏だった。兵庫県はは三木がそうである。
魏志倭人伝の日本は弥生時代のはじまりではありません。古墳時代の最初です。!
入れ墨の土偶は東北と九州からも発掘されています。入れ墨は日本中でされてたポピュラーな風習だったのかな?
弓の形状が現代につながるね。
盗みがないなどの秩序意識についての外国人による記録が戦国時代、幕末、現代と似ている。
一夫多妻な日本と書いているが
当時は何らかの事情…(勢力争い)で男子が少なかったかも知れない
なので、生めよ増やせよと必死だったのかも知れない
子供が出来ても男子の死亡率は高かったと言われている
男子は好奇心が強く、自分からヤバいところに行くし
女子よりも病気に弱かったとも聞きました
重罪には一族全員に罰=それだけ悪い事する渡来人が多かったって事かな(A;´・ω・)フキフキ;;;;;;
その当時から日本人は礼儀作法が身に付いており
貞節を持ち合わせ、治安が良かった。
とても興味深いですね!人口が少ない時代を思えば、多産が社会の必要な事であったでしょうし、
子供を産める女の大切さと地位の高さは、とても重要なものだったのでしょうね、
かなり健全な原始日本社会のようです!
現在の日本人の文化レベルをみると、古代から平和的ですね。武士は渡来民族ですね。
@@asa01053いやいや、武士のころになると、縄文も弥生も混血されています(比較的、近畿では弥生の血が多かったとのことですが)。
どのような人間であっても、時代の中で人間はつくられてしまいます。そうでしょ?
戦を起こすものを日本人と思いたくないようですが、鎌倉期以降の武士、大名ら、江戸期の侍、彼らも明らかな日本人ですよ。そこに縄文と弥生の区別はありません。
まあ、日本列島に戦争という概念を持ち込んだのは、弥生系の人々でしょうがね。
縄文人が戦争しなかったのは、そういうDNAだったからだそうです。
勢力を大きくしたがる遺伝子は突然変異で出来たもので、それが海外から持ち込まれたそうで。
What reasons makes Javanese love 三国志 so much? Even in CHINA AND TAIWAN we dont see most of people are interested in 三国志...
ジャワ人?
日本人。
だれかが、三国志演義を書いて、それが「面白い!」となったので、人気になったのだと、私は思います。
@@user-rf5dw9wj2q sorry i dont understand,わたしは日本語の初心者,N5程度。
入れ墨は文字の無かった頃の、印のようですね。文字は特定の人達だけが使う物で、一般人は入れ墨を入れる事は、文字を紙や骨・甲羅に入れる事と同じ意味だったのですね。
4:51 人間を攻撃する「海鳥」? 鷲や鷹、トンビでも人間は襲わないのに。「プテラノドン」の生き残りローぺン(ニューギニアで目撃多い人を襲う怪鳥)の事かも。
大昔なのに犯罪が少ないとは本当にいい国で、世界に誇れると思います、その当時は海、山、ともに色んな獲物が取れたと思います、豊かな国だったのでしね、アワビなんか潜らなくとも取れたのでしょう本当に勉強になりました、ありがとう。
魏志倭人伝の内容だけを聞くと和弓の形以外は沖縄以南の地域みたいな描写なんだよな。
もののけ姫にそのシーンが沢山ありますね
海の近くに暮していましたね!
邪馬台国があったかどうか、卑弥呼が存在していたかどうかは、小名木先生が納得がいく説明をされています。
邪馬台国:弥生時代前期→弥生時代後期
史書「魏志倭人伝」は冒頭で書いてる これは他の民族を介して私の手元に来た情報であり、私、そして魏の人が実際に見聞した事ではない。
この部分は日本列島人ではなく会稽の東の船山列島に住んでいる人々の風俗についての記述だそうです。
3:12
右上のワイっていうのが現代韓国北朝鮮人の祖先であると言われています
持衰興味深い。極限状態で感覚を研ぎ澄ませて超感覚的なナビかセンサーみたいにしてたのかも
なんかやだなあ。見も知らない遠くに住む親族がやらかしてその罪を背負わされて殺される事があるなんて・・・。
当時の入れ墨は彫り物ではなく、樹液等でコーテングしていた。陳寿は朝貢を受けた50年後に聞き知った倭人に
ついてまとめ記載しているので、かなり曖昧で誤記が多い。倭人伝としているが、日本人は自分の事を皆『わ』と
言っていた。東北ではいまだに『わ』と言っている。又大和の和は『わ』の漢字変換である。
つまり個人の和の集合体を大和と称した。
前期に成る
いつから?過去に戻って成る??
チャチャを入れている訳ではありません!
前期に当たります。
と云う表現は如何でしょうか。
年齢2倍の制度は、日本語の「とし」が稲の收穫を意味しているので、一年に二度も稲を収穫する二期作を行っていた古代では当然のことですね
要するに古代日本では1年を数える基準が世界基準と違っていたという事でしょうか。
太陰暦、太陽暦じゃなかったということかな?
早い話
暦が無かったわけだ。
何らかの糸を使い布状にした技術があったのだろう。
大陸では、「漢の国」での、(不確かですが)九代目皇帝を選んだ時代には、犯罪は殆ど無かったそうですが、其の前後の「治世」が、良くなかったとも、解釈出来ましょうね!! 九代目の皇帝は、「代の国」を、治めて居た若い人物だったとか? 上に立つ者で、世の中が変化するのは、昔も今も大差有りませんね。
日本と交流できる航海術であれば、台湾~九州~本州~北海道~樺太は把握してたと推察する。よって、邪馬台国は島の形から、邪(北海道)、馬(本州、九州、四国)、台(台湾)から成る国と解釈してみたい。そして、当時を思わせる祖先の記録が他国の書物に残っているだけでもありがたいことと思いました。
此の説明の中で『“ヤマタイコク”は魏のありふれた属国の一つ』として話されておりますが、
大陸からは後漢時代既に“奴国”に使者を使わせて居り「金印」を授け、
魏の使者は“ヤマタイコク”へ金印や銅鏡等も贈って居ります
金印は皇帝に次ぐ位の高い印綬に成りますので、他の諸国とは違う扱いに成ります
因みに、朝鮮半島には確か最高でも銅印か、一度くらい銀印が有ったくらいでしょう
歴史を紐解く時には、もっと比較しながら説明する必要が有るでしょう
昔は山道などは獣道、踏み分け道等人の足の通り幅くらいだったから貴人とすれ違ったら脇によけるのは当たり前で荷車も無かったから広い道は必要がない。広い道が出来たのは奈良時代くらいからでしょう。今でも山等は通り道は狭いですから一緒の様なものだったと考えられます。
要するに卑弥呼はたぶん独立国家が欲しかったと思うだから魏に加勢したんじゃないだろうか
金印を送る程の国であったのか?
アイよくわかりました
ハイじゃなくアイなのが笑えるわ笑笑❤
魏の使者にはアイと聞こえたのかな?
3世紀の倭国が魏志倭人伝のような国であるならば聖徳太子も大化の改新も必要なかったでしょう。
昔って、本当に寿命が短かったんですか?子供や病気では死にますが、長生きする人は多かったのではないでしょうか?信長も人生50年などとうたっていますよね。どうなんだろう?
「狭い土地ながらも」とありますが、
果たして、弥生時代の日本は狭いのでしょうか?
現代に立ってさえ日本は決して小国では無い。況んや弥生時代。
当時の領土は九州だけだったかもしれません。
@@HoraceZ919 それは今に立っての見方。
九州の先は海ですが、弥生時代も海だったでしょうか?
違うと思います。Google地図をうま〜く使うと、鹿児島から沖縄まで陸続きのはず。
こう考えると、それでも小国でしょうか?
魏からしたら
それなりに強い国として書く必要がある。
違う感じ考えの文化圏の人が見たこと聞いたことを解釈するのだけれど、使者となれるひとはは相応の人なのでほぼ客観的に見れているのだと思う。
「中国」と言ってもそれぞれ違う文化•民族なので、一体どのような国の人々なのでしょう。
漢委奴国王の印に対して、親魏倭王となると、印は無いにしても、対等?
漢に委任された奴国に比べると、朝貢ではない親しい付き合い方を魏が新しく生み出すとも思えない。
本当は魏委邪馬台国印とか想像出来る。
本人が記した書物では無く後年になって、口伝えで伝えられた事を後の者が書いた書物というものは、後の者の想像や空想、創作が入るのが人間の常。
伝言ゲームはまともに伝わる事が無い。
という事は、、、、と考えると、謎である意味が理解出来る気がしました。
ありがとうございます
二倍年説なら100歳は50歳、80歳なら40歳、他国の人にも40歳程度ならいそうだから珍しいと言うかな?
2倍年暦説はどうなんだろ。魏呉蜀の君主は50歳は余裕で超えるし臣下も何なら司馬懿もね、40歳以上が何人かいるだけで長生きだとあえて記すのだろうか、まぁ百とかは眉唾感はあるけど。
クチャってるクチャってる
イコアライザで周波数削って!
太古の大陸は倭人にとって憧れで文化や文字を見本にしていた偉大な国。
カササギがいないならば、北九州ではないのでは? 現代では北部九州にはカササギがいる????
女は嫉妬しないというのはどうだろう。我々と同じ日本人と考えるなら、人前で感情を出さなかったと解釈する方が自然ではないだろうか。
海で囲まれ人の出入りの少ない日本では、人の性質もあまり変わってないと思われます。
一夫多妻の国とかだと生まれた時からそういうもんだから自分だけのものにとかそんな発想もなく一生を終える人もけっこう多いんでない?
絶対にどこにも居なかったとは言い切れないけど、基本的にはそれでわりと普通に暮らしてたんじゃないかなあ?現代でもそういう平和な地域けっこうあるじゃん。
興味あるけど眠くなんねん
来日した時に何故文字を教えなかったのでしょうか?
魏志倭人伝
魏 委と鬼
倭 にんべん 委
委 ノギヘン 女 稲荷神 穀物神
すると 穀物神の鬼が魏 荒神となると
姉妹となる
倭と大和は 違う 女の国と男の国となる
漢字の成立は日本にあった
当時の話し言葉は?翻訳のぎほう、くふうは?くろういつぱいやろう。
懲罰の苛酷さはこの時代から続いていたようで、現代は緩くなったことで重罪を犯す若年層がふえたようだな、日本人も地に落ちた仕舞った。
2倍速でも遅い遅い
卑弥呼は当て字で日向ではありませんか🙇
ペチャペチャきになる
1800年前って弥生時代後期かと思ってたんだけど、違うん?
卑弥呼も南方諸島の渡来のようです。ベトナムあたりから沖縄経由し九州いり。昔の日本には道路はないので川が交通に利用していましたね。江戸時代まで。入れ墨といえば、アイヌですね。追いやられて北海道にですね。もう少し淡々と話して欲しいです。土下座🙇文化はこの頃から。
卑弥呼ではなく日ノ御子(ひのみこ)です。
普通に喋って下さい。
二倍年齢説だと春分と秋分で年齢が上がるのかな
未だに、中国の私的な歴史書を信じているとは?
もう少し、日本の縄文、弥生遺跡等ま勉学を必要ではないですか?
正史(国書)ですよ
天皇家が126代で2,700年弱と言われてるが、3世紀に卑弥呼の名前が出て天皇の名前が出ないのは可笑しく無いか? 当然、卑弥呼じゃ無く天皇を倭国の王として認めてる筈だが
筑波神社の歴史は3千年だと言われてるが、3世紀なんか相当後の話だな 金に換算すると並みの寿司しか食えん^^
邪馬台国が九州説か近畿説かで分かれてるてるが、天皇家の歴史が事実なら判ってるんじゃ~
歴史が古い神社でも判ってるんじゃ無い 敢えて公表しないだけかも知れんが
弥生時代より古い縄文時代には現代人の俺でも造れない様な火炎土器や赤漆とか、相当進んでたと思うが、雅か裸で生活してたって事は無いよな 当時の魏は日本の極一部の地域しか知らなかったんでは無いだろうか 海辺なら大陸に近い北九州だろう
人類の歴史からしたら瞬きみたいに最近の事だが、判らないって言うのも可笑しな話だな
現代人が思ってる以上に世界的な交流が有ったと思うが、平安時代にはペルシャ人の役人が居たそうで、発掘された木簡に書いて有ったとか
俺は学者じゃ無いから良く判らないが、疑問を感じる事も多い。