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大河ドラマ八代将軍吉宗は名作だと思います。合戦がないのを吉宗の将軍継承へのサクセスストーリー、継いだ後は幕府の立て直し、子育て家庭問題サイズを置き換えて身近な大河ドラマでした。
B級ニュースでtera senさんを知って、今日初めて動画を拝見させて頂きました。とても分かりやすくて聞き取りやすい、徳川家の家系解説をありがとうございました☺️
ありがとうございます、待ってました😊来年徳川家広氏が19代当主をなりますね
家広氏は、色々やらかしがあるから、ちょっと心配
家広氏には子供がいない為、20代当主を何処から連れてくるかが気になる所家広氏本人には、全く期待していない
前田家も最近当主が生前に家督を譲っていた。
系図大好きです。うpありがとうございます。いつまでも眺めていられます。好きだけど理解するのに時間がかかるので何回も見て確認します。ウィキによると、来年第19代当主になられる家広氏にはお子がいないとのことでしたので、その次の第20代宗家当主はどうなるのか気になります。
恒孝氏がお元気な内に養子を迎えた方が良い気がします。慶喜家も当代で断絶ですし、徳川宗家だけは…と思ってしまいます。
@@ma2kma2uさまそうですよね。宗家だけは残ってほしいですよね。思いは同じです。どこかに必ず血は残っているはずですから。
宗家を残さないと徳川財団を管理する人がいなくなっちゃうしね
水戸徳川家の次期当主の斉礼氏が有力でしょうかね。ちょうど家広氏の子息ぐらいの年齢ですし。ただし血筋の近さで言うと11代将軍の家斉の15男の松平斉民の男系の子孫がおられるので、そちら(津山松平家)に移る可能性もあります。
@@コング東山さまそうでしたか。まだお血筋が脈々と受け継がれているのですね。将来的にはどうなるかわかりませんが、具体的に候補らしき方のお名前を教えてくださりありがとうございました。私はただの一庶民ですが、宗家が存続する可能性があることを知りホッとしました。
小学生の頃、中学の兄の日本史資料集の系図を見て、誰と誰がこうなって、、みたいなのにワクワクしてました。系図はホントに面白い。ちなみに、尾張義直の血統は、姫も含めてもう無いのかな・・
尾張義直の血統は8代宗勝の子が臣下の竹腰家に養子に出され更に井上更に永井家に現在まで受け継がれている。女系は4代吉通の姫が九条家に入り貞明皇后を経て現天皇に受け継がれている。
@@ezwebbyau ありがとうございます。
ここまでしてくれるなら家康以前の戦国期、松平姓の時の話も聞いてみたいw(専門外かな??🤔)
こうして通してみると、なぜ吉宗が御三卿という血のスペアを残したのかがよく分かりますね。家光以降の宗家のgdgd相続を鑑みれば。
まず家康の嫡流が4代家綱までで止まってしまったのがミソの着き始めでしたね。そして家綱の弟たちから既に別家(館林藩徳川家)を興していた筈の綱吉が5代将軍となりました。この時に引き連れていた館林藩主時代からの家臣団を次々と要職ポストに就けたことで従来の幕閣らとの間に軋轢が生まれてしまい政治に歪みが生じてしまいました。こうした側近政治による歪みは吉宗の代で終わりを迎えましたが、何事も自分で決めたがる性格の吉宗の死去後にはまた元の側近主導による政治に逆戻りしてしまいます。余談ですが賄賂政治家として有名な田沼意次も父の代に吉宗が将軍就任の際に引き連れた元紀伊藩士の幕臣出身でした。
楽しめました
北条も足利も徳川も三代以降どんどん病弱になるのはインブリードによるものなのか…
足利なんか、殆どの正室が日野家出身だもんね。
個人的には太平の世になると武士が貴族化して白粉や食生活、毒殺などが悪影響を及ぼし死亡率や病弱になるのではと自分は考えています
徳川に至っては本家は7代で滅び、8~14代は紀州系、最後の慶喜は水戸藩。結局尾張からは1人も将軍にはならなんだ。
興味があるのは家康さん以降よりも松平家の系図ロンダリングしていない本当の出自実際はどんな形でのしあがって来た一族だったのかが知りたい
徳川氏(松平氏)が家紋とした葵はもともとは京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の神紋だったので、本当の出自は賀茂別雷神社や賀茂御祖神社の神職だったのかもしれない。
松平氏の出自は室町幕府の政所執事の伊勢氏の被官として仕えてた岩津松平家が本筋。三河守護だった一色氏が足利義教によって殺害→その功で細川氏が三河守護になったことで内紛勃発。その過程で松平信光が応仁の乱で細川成之(管領を巡って細川高国&大内義興と争う細川澄元の祖父)と共に三河復帰を狙う一色を倒してのし上がってきた家康は松平信光の子が派生した分家の一つ、安祥松平家の家系で、祖父松平清孝(清康という名前は生没年間の史料上に無いらしい)のそのまた爺ちゃんの長親は伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退したりとかなりの手練れで今川の圧迫による岩津落城→伊勢家を頼って京に退避したことによる岩津松平の衰退がきっかけで松平家の本流となった和田合戦や承久の乱にも出た足利家3代目当主足利義氏の庶子家系である三河吉良氏(吉良氏は大名でもないのにあの大原雪斎からも「御屋形様(守護・守護代以上の大名限定の呼称)」と敬語で接せられる家系)に対して三河統治の正当性を得るために祖父・清孝は新田源氏系の「得川氏」のまた分家の「世良田」と名乗った背景もあります孫である家康は「徳川」改姓+藤原に本姓変更(官位獲得にあたって申し込むが「世良田の新田源氏が三河守任官した時期がないのでダメ」と正親町天皇に拒否されたため近衛前久らに相談→「得川氏が藤原姓名乗った時期の文献ならあるで」→それや!!)を申し出て家康個人限定で「徳川」改姓+三河守を叙任することで三河統治の正当性が確立それ以降名乗りは源と藤原を状況によって名乗りを変えてたらしい(源に固定された時期は今でも学者間で激論が繰り広げられてる 足利義昭出家~死去辺り?)
@@フォード-i1w 吉良は今川の本家筋ですからね。
時宗の僧じゃないの?
@@ひろたかし-w8m様 “御所(足利)が絶えなば吉良が継ぎ吉良が絶えなば今川が継ぐ“と言われるくらいですしね。
冒頭の嫡男信康の切腹は近年では舅の信長の命令ではなく、父・家康が家臣団の分裂を避けるため自ら手を下したという説が有力になってきてますね。信康の岡崎派と家康の浜松派が分裂せず、父子の仲違いがなく、切腹を回避できていたら信康が間違いなく二代将軍になっていたでしょう。また現在の宗家当主の方は松平容保の子孫、つまり水戸家の血筋ですが、11代家斉の子である松平斉民の男系の血筋も続いています。
最後の現在の徳川宗家の話、ここで初めて知ってびっくりです。過去に家広氏が選挙出た時に第19代当主名乗ってて徳川一族から「存命中のお父様に失礼だ」なんて言われてたらしいですね(^_^;)あと御三家の現在も前に気になって調べたら、紀伊家が近く断絶予定💦になってた一方、尾張家の当主の方は今でも名古屋で「殿」と呼ばれてるそうでなかなか面白かったです。あとは、水戸徳川コーヒーとか。
六男忠輝の居城付近に住んでいますが、もし忠輝が改易されなかったら徳川御三家がどうなっていたかに思いを馳せますね。
尾張紀州より格下扱いは変わらない。元々忠輝は長沢松平家の養子になって後を継いだから徳川は名乗れない。だから将軍継承権は無い。ただ、忠輝の家が存続して忠長の家も存続していたら、頼房は永久に徳川では無く松平のままだった。
@@yh6146 水戸黄門は徳川では無く松平光圀か。
幕末解説、楽しみです!
世界中で1番長い家系図は天皇家。
めちゃくそ人間臭い歴史で面白いですね
家宣の弟の松平清武が将軍候補から外された理由が齢54の高齢だからっていうのはわかるけど、かつて旗本格の交代寄合という低い身分だったことがあるからと言うもう一つの理由が酷過ぎるw館林藩主時代に重税を課して一揆を起こされて指導者を死刑にしてもそれは理由にならなかったのもw本人も別にそういう野心はなかったし子供も居なかったので将軍にならなかったのは納得できるが。まぁ一休さんが天皇になれなかったのも僧侶である以前に母親が低い身分だったからで当時すでに御皇胤だと言うのは当たり前に言われていたにも関わらず身分を絶対視する封建的価値観を窺い知ることができる。歴代天皇で唯一皇族として生まれなかった醍醐天皇は、仮にも父宇多天皇と共に源氏の賜姓貴族としてそれなりの身分にあったし。
どのみち幾ら血筋が良かろう悪かろうが無子で断絶してしまっては元も子も無い訳で。
徳川家も複雑な家系ですからね。
それ言ったら皇室だって…。
親藩譜代の結束は何代目までつづいていたのかなぁ、二、三代目でも権力の移り変わりでも大改編したのかなぁ
動画に誤植があります。徳川将軍家は侯爵ではなく「公爵」ですね。
徳川宗家は存続しているけど元の慶喜公爵家は直系男子はいなくなって女系しかいないので菩提寺を墓じまいするみたいです。墓の維持費の一部は国から出るけど大半は個人負担なので維持出来ないようです。
@@宗岡亮博-u5s は???😊
興味深い物でした。有難う😭✨
初代以前もお願いします。
慶喜ちゃんが将軍職を投げ出すのもわかる複雑怪奇
慶喜は大きなリスクを極力取りたがらない性格だったらしいです。
周りから優等生として見られチヤホヤされて育ったせいかな 父の斉昭が厳しかったせい
慶喜ちゃんには女系の信康の血も受け継がれている。
慶喜は、12代将軍家慶の御台所(夫とは仲がいい。ただし子供は早世)の妹の子に当たります。一橋家の相続が認められたのも、この血筋があったからです。 家慶が慶喜を寵愛したのも、おそらく御台所に似ていたからだと思われます。(明らかに疑似息子)
三男の生まれで同腹の兄頼重の存在がありながら二代藩主を継いだ「水戸黄門」こと光圀は終生不遇な立場だった兄を大切に扱い、その子である綱條を養子として引き取り三代藩主を継がせたとか。
讃岐高松藩十二万石。代々江戸城詰間は、溜の間。官位は従四位下侍従。松平讃岐侍従と呼ばれてた。水戸家上屋敷より江戸城に近く(ほぼ隣合ってる)。毎年年始の挨拶は水戸家から讃岐高松藩へ行き次の日に高松藩から水戸家へ返礼しに行くのが慣わしでした。
@@吉野正洋-k5g様 儒教を重んじる水戸家ならではですね🧐
まさかなぁ三河(静岡・愛知)の松平からここまで大きくなるとは
元々三河松平氏は“十八松平“と言って同じ松平姓の家が18もありまして、徳川将軍家の母体である「安祥松平家」はその庶流の一つに過ぎませんでした。
本家は松平郷松平家。
鬼っ子こと松平忠輝は創作しやすい人物として、時代劇では千葉真一氏や松平健氏が自由奔放な暴れん坊キャラで演じてます😄
分かりやすい系図ありがとうございます。1つリクエストですが、字幕を系図にかぶらない様にして頂けますか見にくいです。よろしくお願いいたします。
4:11 頼房は忠長の叔父なのに石高も官位も下扱い。綱重と綱吉が正三位参議の時に頼房は正三位権中納言だから、何とか格上だったけど息子の光國が家督時には従三位参議でまた格下になった。ちなみに尾張の光友は正三位権中納言で紀州の頼宣は従二位権大納言で光貞は正三位権中納言で綱重と綱吉よりも格上だった。そして綱重が亡くなり綱豊が後を継いだらすぐに正三位参議になって権中納言になったから水戸の格下扱いは続いた。
幕末期の斉昭はその辺りの水戸家に対する扱いの軽さを不満に感じていたらしいな。
@@提督オルタ 御三卿は田安の三代目が将軍家斉の弟で従一位権大納言で一橋の二代目が家斉の実父だから従一位准大臣で水戸の格下扱いがまた始まり、斉昭の兄は家斉の娘婿になったけど、従三位権中納言止まりで自分自身は30歳まで部屋住みの無位無官。そりゃ不満になるか。
@@yh6146様 斉昭はその境遇のせいで性格が歪み後世に“烈公“と諡される程気性が激しくプライドの高い人物になってしまったそうで😅
八代将軍は「鈴木末七」という……
何だかんだはあったが、松平(結城)秀康の子孫の家は優遇されていたと思う本家に当たる光長の家は後に津山藩主として復活しているし忠昌の子孫は改易になりかねない事件を起こしながらも、減封で済んで福井藩主として残ったし彼等の弟達は松江藩、前橋藩(川越藩)、明石藩の家として残ったし(前橋藩の家は越後騒動の時にとばっちりの減封処分くらいましたが)
松平清武には松平清方という息子がおり、7代家継が亡くなった時は20歳でした。だから高齢の清武が一旦将軍位を継ぎ、数年後に清方が9代目を継いでも良かったし、清方が直接8代目を継いで清武が大御所となっても良かったはず。ここら辺、闇が深いですね。なお、清方は28歳で清武より先に亡くなり、子供もいませんでした。ここにも闇を感じてしまいます。
もし清方が8代将軍となってもその父である清武は「大御所」にはなれずせいぜい「大御所待遇」にしかなれない筈。なにしろあの一橋治済でさえ家斉が朝廷に働きかけて大御所待遇にするべく勅命を賜ろうとして果たせなかったくらいですから
@@アウトローという者 一橋治済が大御所になれなかったのは尊号一件の余波なので、清武の時代なら大御所くらい簡単になれたと思いますよ。本来、朝廷が反対する理由も無いしね。
@@satosin2660様 確かに尊号の一件は大きいでしょうけど、あの松平定信の頑強な反対も大きかったでしょうね。ただ朱子学マニアの定信なら将軍の父が一介の御三卿の当主に甘んじてるのを何とか解消しようとしなかったのもおかしな話ではあります。そもそも定信が老中首座に就任出来たのも治済の尽力あっての事なのに
@@アウトローという者 元々松平定信と一橋治済は仲が悪いというかライバルですからね。一橋治済を大御所にさせたいという気持ちはさらさら無かったと思いますよ。田沼意次が一橋治済の意を汲んで松平定信を養子に出さなければ松平定信が11代目でしたからね。まあ、そこで貧乏くじを引いたのが田沼意次で、松平定信の恨みを一身に浴びて失脚しちゃいました。あれは政治路線の違いというよりは、単に将軍になれなかった松平定信の腹いせだと思います。もともと田沼家は完全な一橋派で、田沼意次の弟は一橋家の家老でした。しかし、田沼意次失脚に巻き込まれ、田沼意次の弟は一橋家から追い出され、老中水野忠友の婿養子になっていた田沼意次の4男も離縁されて田沼家に戻されました。大名の地位はかろうじて守られましたが、場所は遠江国相良藩から陸奥国下村藩へ、石高も5万7000石から大名ぎりぎりの1万石まで減封されました。それから30年以上たって、ついに田沼家5代藩主の意正が若年寄(1819年)、側用人(1825年)へ出世し、相良の地に再転封(1823年)と復権を果たしたのですが、その時の藩主である意正は、水野忠友の婿養子だった本人であり(2代から4代藩主は暗殺された田沼意知の息子)、復権を主導した老中首座の水野忠成(老中首座就任は1817年)は、意正が離縁させられた娘と再婚する事で水野忠友の婿養子となった人物でした。なお、一橋治済が亡くなったのが1827年なので、自分が生きているうちに田沼家を復権させてやりたいという一橋治済の指示だったのかもしれませんね。
@@satosin2660様 なるほど。素晴らしい情報量と御明察に感服致しました。定信は治済から見て8歳下の従弟で彼を後継ぎの無かった陸奥白河藩の養子縁組に尽力したのも治済でした。一方意次も自身の家老である田沼意誠の実兄にあたる人物で彼を通じて幕府内の“田沼派“を動かす事も可能だった事は想像するに難くないのかも知れないですね。ちなみに意誠の子の田沼意致は父の跡を継いで一橋家重臣を経て小姓組番頭格・西丸御側取次見習いとなり10代家治の世子家基付きとなりました。ひょっとしたら元家臣の意致を使って家基を病死に見せかけて暗殺する事も可能だったかもしれませんね…😨
昔うちの家の母方の親戚が先祖を辿った結果、何故か水戸徳川家に行き着いたらしいので、コイツらの血がごく僅かでも自分に受け継がれてるんかなぁと思うとなんだか感慨深い
徳川、前田、伊達、島津、毛利あたりのどメジャーな大名の末裔はまだまだいるんだろうけど、我々と同じような生活をしている元大名の末裔とかもいるんだろうなぁ。
板倉家は、戦後没落して当主は一人暮で死亡。その板倉家は、毎年参勤交代で上京してくる松平郷松平家(松平家の本家筋)四百四十石。の宿泊所となってた。
貧乏してるのも多いだろうね。
井伊直弼の解説をリクエストします
「始祖ジュラ」突然出て来てワロタ。😅
ビックリマンかな?
始祖ウイルス
徳川家は、本当に源氏の流れを汲んでいるですか?
まさか
紀州藩はもう後継ぎいないんだよね今の当主の親父が愛人作って蒸発してるし、現当主は高齢の女性で未婚だし。
もしペリー来航がなかったら、南紀派と一橋派が対立することもなく、家茂がすんなり14代将軍になっていたのかな。
忠輝はとにかく謎。隆慶一郎先生の『影武者徳川家康』と『捨て童子忠輝(未完)』を読むと一応納得出来る仮説は出るけどあくまでも仮説だからなぁ。基本的に将軍家は、吉宗が入るまでは家康ではなく秀忠の血統重視と考えるべきだよねぇ。家宣辺りの段階で家康との血統の近さが将軍推認の条件となってないのが明らかだもんねぇ。それとやはり家基の早逝が謎よねぇ。
家斉の息子が津山藩に入りその子が交代寄合表向御礼衆の五島家(三千石)に養子に入ってる。
家康は手当たり次第養女を迎えあちこちに嫁に出していたから結構あちこちの大名家が遠戚に。
本当の家康の子供は何人だったのだろう。
ぱーてぃちゃんの信子は何処に入る?
忠輝、忠直、忠長と〝忠〟の字は行く末芳しからず😭
信康が生きていれば…
非常に面白い動画でした。ただ、家系図が小さすぎて、非常に見づらい。徳川家のなので、余計にごちゃごちゃする。解説しているときは、テーマになっている部分に焦点を当てるように、ズームするかせめて赤丸なので「ここを解説していますよ」という編集が欲しかったです。
暗殺と言う言葉がちらつきますが、後継者が決定すれば証拠隠滅がチラつくのが王朝、王家の歴史ですね。🤔
「忠」の字の付く人間が悉く不行状で取沙汰されてるけど秀忠も内心うんざりモノなんじゃないかな
揃いも揃って不「忠」義者ばかり
ガチホモの家光に跡継ぎが生まれたのが不思議。
徳川光圀の実子の頼常は水戸家の養子となった綱條と入れ替わる形で光圀の兄頼重の養子となって高松松平家を継いだ。頼常の実子は早世したようで、頼常の後は頼重の孫にあたる頼豊が養子となって継いでいるので、光圀の直系は頼常で途絶えている。
紀州と水戸は影武者の血筋と言われていたな
それぞれの初代である頼宣と頼房は同腹の兄弟ですし
魔理沙の一人称が気になる
御三卿ほんまw
ちなみに元NHKアナウンサーの松平定知氏は、家康の異父弟を藩祖とする伊予藩松平家(久松氏)の分家筋にあたる旧旗本家出身
男子だけで無く女子の嫁ぎ先も解説して欲しい。
家斉時代は相当数ありますね😅
@@アウトローという者 ただし家斉の娘は子どもを生む前に亡くなっている人がほとんどで今でも子孫がいるのが前田家に嫁いだ溶姫だけ。そして溶姫の子孫には細川元首相がいる。
@@yh6146様 そう考えると細川さんは皇室・藤原(近衛)・徳川・明智の血を引くという、まさにやんごとなきお方(むしろやんごと無さすぎるレベル)
@@アウトローという者 細川元首相は細川忠興と側室の間の子どもの子孫だから、明智の血筋では無い。忠興の長男の子孫は明智の血筋だけど。
家康の娘も結構面白いですよね。
慶喜じゃなく茂承が将軍になれば良かったのにな。
忠輝の息子の徳松は、秀忠の没年の1632年に配流先で18歳で家に火を放って自〇してるんだよなぁ…何か闇があるのかもしれん。
家系図で御三卿の初代が間違えとる。田安家初代が宗武、一橋初代が宗尹
ご指摘ありがとうございます次回反映させたいと思います
@@terasen さんいつも楽しく観させてもらっています。今回は上からすみません。
徳川家達の侯爵は公爵の間違いです。
5代将軍にもし家斉 がいたら 徳川幕府は50代ぐらい 、続いたのかも、笑。
それだと15代以降も徳川将軍の治世が続く筈がそうならなかった事と整合性が取れ無くなるな…(汗
よく間違えてるけど御三家は将軍家以外で徳川を名乗った家をいうんだよ将軍家家督権の尾張と紀州と秀忠三男駿府の忠長が徳川姓で御三家と言われてた家光で忠長が取り潰しになりその代わりが水戸頼房が徳川となり尾張紀州水戸が御三家になったんだよそれまで頼房は松平も貰えなかった名字無しの頼房だったらしい自称松平を名乗ってたとか
松平家とか元山賊だろ?
三河の山間土豪の出自。
日本外史
現在も徳川の時代なら原爆も落とされなかったしコロナも無かったろうね…
どこまでも、「想像の域」を出ません!!
大河ドラマ八代将軍吉宗は名作だと思います。合戦がないのを吉宗の将軍継承へのサクセスストーリー、継いだ後は幕府の立て直し、子育て家庭問題
サイズを置き換えて身近な大河ドラマでした。
B級ニュースでtera senさんを知って、今日初めて動画を拝見させて頂きました。
とても分かりやすくて聞き取りやすい、徳川家の家系解説をありがとうございました☺️
ありがとうございます、待ってました😊
来年徳川家広氏が19代当主をなりますね
家広氏は、色々やらかしがあるから、ちょっと心配
家広氏には子供がいない為、20代当主を何処から連れてくるかが気になる所
家広氏本人には、全く期待していない
前田家も最近当主が生前に家督を譲っていた。
系図大好きです。うpありがとうございます。いつまでも眺めていられます。好きだけど理解するのに時間がかかるので何回も見て確認します。
ウィキによると、来年第19代当主になられる家広氏にはお子がいないとのことでしたので、その次の第20代宗家当主はどうなるのか気になります。
恒孝氏がお元気な内に養子を迎えた方が良い気がします。
慶喜家も当代で断絶ですし、徳川宗家だけは…
と思ってしまいます。
@@ma2kma2uさま
そうですよね。宗家だけは残ってほしいですよね。思いは同じです。どこかに必ず血は残っているはずですから。
宗家を残さないと徳川財団を管理する人がいなくなっちゃうしね
水戸徳川家の次期当主の斉礼氏が有力でしょうかね。ちょうど家広氏の子息ぐらいの年齢ですし。
ただし血筋の近さで言うと11代将軍の家斉の15男の松平斉民の男系の子孫がおられるので、そちら(津山松平家)に移る可能性もあります。
@@コング東山さま
そうでしたか。まだお血筋が脈々と受け継がれているのですね。将来的にはどうなるかわかりませんが、具体的に候補らしき方のお名前を教えてくださりありがとうございました。私はただの一庶民ですが、宗家が存続する可能性があることを知りホッとしました。
小学生の頃、中学の兄の日本史資料集の系図を見て、誰と誰がこうなって、、みたいなのにワクワクしてました。系図はホントに面白い。ちなみに、尾張義直の血統は、姫も含めてもう無いのかな・・
尾張義直の血統は8代宗勝の子が臣下の竹腰家に養子に出され更に井上更に永井家に現在まで受け継がれている。
女系は4代吉通の姫が九条家に入り貞明皇后を経て現天皇に受け継がれている。
@@ezwebbyau ありがとうございます。
ここまでしてくれるなら家康以前の戦国期、松平姓の時の話も聞いてみたいw
(専門外かな??🤔)
こうして通してみると、なぜ吉宗が御三卿という血のスペアを残したのかがよく分かりますね。
家光以降の宗家のgdgd相続を鑑みれば。
まず家康の嫡流が4代家綱までで止まってしまったのがミソの着き始めでしたね。
そして家綱の弟たちから既に別家(館林藩徳川家)を興していた筈の綱吉が5代将軍となりました。この時に引き連れていた館林藩主時代からの家臣団を次々と要職ポストに就けたことで従来の幕閣らとの間に軋轢が生まれてしまい政治に歪みが生じてしまいました。
こうした側近政治による歪みは吉宗の代で終わりを迎えましたが、何事も自分で決めたがる性格の吉宗の死去後にはまた元の側近主導による政治に逆戻りしてしまいます。
余談ですが賄賂政治家として有名な田沼意次も父の代に吉宗が将軍就任の際に引き連れた元紀伊藩士の幕臣出身でした。
楽しめました
北条も足利も徳川も三代以降どんどん病弱になるのはインブリードによるものなのか…
足利なんか、殆どの正室が日野家出身だもんね。
個人的には太平の世になると武士が貴族化して白粉や食生活、毒殺などが悪影響を及ぼし死亡率や病弱になるのではと自分は考えています
徳川に至っては本家は7代で滅び、8~14代は紀州系、最後の慶喜は水戸藩。結局尾張からは1人も将軍にはならなんだ。
興味があるのは家康さん以降よりも
松平家の系図ロンダリングしていない
本当の出自
実際はどんな形でのしあがって来た一族だったのかが知りたい
徳川氏(松平氏)が家紋とした葵はもともとは京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の神紋だったので、本当の出自は賀茂別雷神社や賀茂御祖神社の神職だったのかもしれない。
松平氏の出自は室町幕府の政所執事の伊勢氏の被官として仕えてた岩津松平家が本筋。三河守護だった一色氏が足利義教によって殺害→その功で細川氏が三河守護になったことで内紛勃発。その過程で松平信光が応仁の乱で細川成之(管領を巡って細川高国&大内義興と争う細川澄元の祖父)と共に三河復帰を狙う一色を倒してのし上がってきた
家康は松平信光の子が派生した分家の一つ、安祥松平家の家系で、祖父松平清孝(清康という名前は生没年間の史料上に無いらしい)のそのまた爺ちゃんの長親は伊勢宗瑞(北条早雲)を撃退したりとかなりの手練れで今川の圧迫による岩津落城→伊勢家を頼って京に退避したことによる岩津松平の衰退がきっかけで松平家の本流となった
和田合戦や承久の乱にも出た足利家3代目当主足利義氏の庶子家系である三河吉良氏(吉良氏は大名でもないのにあの大原雪斎からも「御屋形様(守護・守護代以上の大名限定の呼称)」と敬語で接せられる家系)に対して三河統治の正当性を得るために祖父・清孝は新田源氏系の「得川氏」のまた分家の「世良田」と名乗った背景もあります
孫である家康は「徳川」改姓+藤原に本姓変更(官位獲得にあたって申し込むが「世良田の新田源氏が三河守任官した時期がないのでダメ」と正親町天皇に拒否されたため近衛前久らに相談→「得川氏が藤原姓名乗った時期の文献ならあるで」→それや!!)を申し出て家康個人限定で「徳川」改姓+三河守を叙任することで三河統治の正当性が確立
それ以降名乗りは源と藤原を状況によって名乗りを変えてたらしい(源に固定された時期は今でも学者間で激論が繰り広げられてる 足利義昭出家~死去辺り?)
@@フォード-i1w 吉良は今川の本家筋ですからね。
時宗の僧じゃないの?
@@ひろたかし-w8m様 “御所(足利)が絶えなば吉良が継ぎ吉良が絶えなば今川が継ぐ“と言われるくらいですしね。
冒頭の嫡男信康の切腹は近年では舅の信長の命令ではなく、父・家康が家臣団の分裂を避けるため自ら手を下したという説が有力になってきてますね。
信康の岡崎派と家康の浜松派が分裂せず、父子の仲違いがなく、切腹を回避できていたら信康が間違いなく二代将軍になっていたでしょう。
また現在の宗家当主の方は松平容保の子孫、つまり水戸家の血筋ですが、11代家斉の子である松平斉民の男系の血筋も続いています。
最後の現在の徳川宗家の話、ここで初めて知ってびっくりです。過去に家広氏が選挙出た時に第19代当主名乗ってて徳川一族から「存命中のお父様に失礼だ」なんて言われてたらしいですね(^_^;)
あと御三家の現在も前に気になって調べたら、紀伊家が近く断絶予定💦になってた一方、尾張家の当主の方は今でも名古屋で「殿」と呼ばれてるそうでなかなか面白かったです。あとは、水戸徳川コーヒーとか。
六男忠輝の居城付近に住んでいますが、もし忠輝が改易されなかったら徳川御三家がどうなっていたかに思いを馳せますね。
尾張紀州より格下扱いは変わらない。元々忠輝は長沢松平家の養子になって後を継いだから徳川は名乗れない。だから将軍継承権は無い。ただ、忠輝の家が存続して忠長の家も存続していたら、頼房は永久に徳川では無く松平のままだった。
@@yh6146 水戸黄門は徳川では無く松平光圀か。
幕末解説、楽しみです!
世界中で1番長い家系図は天皇家。
めちゃくそ人間臭い歴史で面白いですね
家宣の弟の松平清武が将軍候補から外された理由が齢54の高齢だからっていうのはわかるけど、かつて旗本格の交代寄合という低い身分だったことがあるからと言うもう一つの理由が酷過ぎるw
館林藩主時代に重税を課して一揆を起こされて指導者を死刑にしてもそれは理由にならなかったのもw本人も別にそういう野心はなかったし子供も居なかったので将軍にならなかったのは納得できるが。
まぁ一休さんが天皇になれなかったのも僧侶である以前に母親が低い身分だったからで当時すでに御皇胤だと言うのは当たり前に言われていたにも関わらず身分を絶対視する封建的価値観を窺い知ることができる。
歴代天皇で唯一皇族として生まれなかった醍醐天皇は、仮にも父宇多天皇と共に源氏の賜姓貴族としてそれなりの身分にあったし。
どのみち幾ら血筋が良かろう悪かろうが無子で断絶してしまっては元も子も無い訳で。
徳川家も複雑な家系ですからね。
それ言ったら皇室だって…。
親藩譜代の結束は何代目までつづいていたのかなぁ、二、三代目でも権力の移り変わりでも大改編したのかなぁ
動画に誤植があります。徳川将軍家は侯爵ではなく「公爵」ですね。
徳川宗家は存続しているけど元の慶喜公爵家は直系男子はいなくなって女系しかいないので菩提寺を墓じまいするみたいです。
墓の維持費の一部は国から出るけど大半は個人負担なので維持出来ないようです。
@@宗岡亮博-u5s は???😊
興味深い物でした。有難う😭✨
初代以前もお願いします。
慶喜ちゃんが将軍職を投げ出すのもわかる複雑怪奇
慶喜は大きなリスクを極力取りたがらない性格だったらしいです。
周りから優等生として見られチヤホヤされて育ったせいかな 父の斉昭が厳しかったせい
慶喜ちゃんには女系の信康の血も受け継がれている。
慶喜は、12代将軍家慶の御台所(夫とは仲がいい。ただし子供は早世)の妹の子に当たります。一橋家の相続が認められたのも、この血筋があったからです。
家慶が慶喜を寵愛したのも、おそらく御台所に似ていたからだと思われます。(明らかに疑似息子)
三男の生まれで同腹の兄頼重の存在がありながら二代藩主を継いだ「水戸黄門」こと光圀は終生不遇な立場だった兄を大切に扱い、その子である綱條を養子として引き取り三代藩主を継がせたとか。
讃岐高松藩十二万石。代々江戸城詰間は、溜の間。
官位は従四位下侍従。
松平讃岐侍従と呼ばれてた。
水戸家上屋敷より江戸城に近く(ほぼ隣合ってる)。毎年年始の挨拶は水戸家から讃岐高松藩へ行き次の日に高松藩から水戸家へ返礼しに行くのが慣わしでした。
@@吉野正洋-k5g様 儒教を重んじる水戸家ならではですね🧐
まさかなぁ三河(静岡・愛知)の松平から
ここまで大きくなるとは
元々三河松平氏は“十八松平“と言って同じ松平姓の家が18もありまして、徳川将軍家の母体である「安祥松平家」はその庶流の一つに過ぎませんでした。
本家は松平郷松平家。
鬼っ子こと松平忠輝は創作しやすい人物として、時代劇では千葉真一氏や松平健氏が自由奔放な暴れん坊キャラで演じてます😄
分かりやすい系図ありがとうございます。
1つリクエストですが、字幕を系図にかぶらない様にして頂けますか
見にくいです。よろしくお願いいたします。
4:11 頼房は忠長の叔父なのに石高も官位も下扱い。綱重と綱吉が正三位参議の時に頼房は正三位権中納言だから、何とか格上だったけど息子の光國が家督時には従三位参議でまた格下になった。ちなみに尾張の光友は正三位権中納言で紀州の頼宣は従二位権大納言で光貞は正三位権中納言で綱重と綱吉よりも格上だった。そして綱重が亡くなり綱豊が後を継いだらすぐに正三位参議になって権中納言になったから水戸の格下扱いは続いた。
幕末期の斉昭はその辺りの水戸家に対する扱いの軽さを不満に感じていたらしいな。
@@提督オルタ 御三卿は田安の三代目が将軍家斉の弟で従一位権大納言で一橋の二代目が家斉の実父だから従一位准大臣で水戸の格下扱いがまた始まり、斉昭の兄は家斉の娘婿になったけど、従三位権中納言止まりで自分自身は30歳まで部屋住みの無位無官。そりゃ不満になるか。
@@yh6146様 斉昭はその境遇のせいで性格が歪み後世に“烈公“と諡される程気性が激しくプライドの高い人物になってしまったそうで😅
八代将軍は「鈴木末七」という……
何だかんだはあったが、松平(結城)秀康の子孫の家は優遇されていたと思う
本家に当たる光長の家は後に津山藩主として復活しているし
忠昌の子孫は改易になりかねない事件を起こしながらも、減封で済んで福井藩主として残ったし
彼等の弟達は松江藩、前橋藩(川越藩)、明石藩の家として残ったし
(前橋藩の家は越後騒動の時にとばっちりの減封処分くらいましたが)
松平清武には松平清方という息子がおり、7代家継が亡くなった時は20歳でした。
だから高齢の清武が一旦将軍位を継ぎ、数年後に清方が9代目を継いでも良かったし、清方が直接8代目を継いで清武が大御所となっても良かったはず。
ここら辺、闇が深いですね。
なお、清方は28歳で清武より先に亡くなり、子供もいませんでした。ここにも闇を感じてしまいます。
もし清方が8代将軍となってもその父である清武は「大御所」にはなれずせいぜい「大御所待遇」にしかなれない筈。なにしろあの一橋治済でさえ家斉が朝廷に働きかけて大御所待遇にするべく勅命を賜ろうとして果たせなかったくらいですから
@@アウトローという者
一橋治済が大御所になれなかったのは尊号一件の余波なので、清武の時代なら大御所くらい簡単になれたと思いますよ。
本来、朝廷が反対する理由も無いしね。
@@satosin2660様 確かに尊号の一件は大きいでしょうけど、あの松平定信の頑強な反対も大きかったでしょうね。ただ朱子学マニアの定信なら将軍の父が一介の御三卿の当主に甘んじてるのを何とか解消しようとしなかったのもおかしな話ではあります。そもそも定信が老中首座に就任出来たのも治済の尽力あっての事なのに
@@アウトローという者
元々松平定信と一橋治済は仲が悪いというかライバルですからね。
一橋治済を大御所にさせたいという気持ちはさらさら無かったと思いますよ。
田沼意次が一橋治済の意を汲んで松平定信を養子に出さなければ松平定信が11代目でしたからね。
まあ、そこで貧乏くじを引いたのが田沼意次で、松平定信の恨みを一身に浴びて失脚しちゃいました。
あれは政治路線の違いというよりは、単に将軍になれなかった松平定信の腹いせだと思います。
もともと田沼家は完全な一橋派で、田沼意次の弟は一橋家の家老でした。
しかし、田沼意次失脚に巻き込まれ、田沼意次の弟は一橋家から追い出され、老中水野忠友の婿養子になっていた田沼意次の4男も離縁されて田沼家に戻されました。
大名の地位はかろうじて守られましたが、場所は遠江国相良藩から陸奥国下村藩へ、石高も5万7000石から大名ぎりぎりの1万石まで減封されました。
それから30年以上たって、ついに田沼家5代藩主の意正が若年寄(1819年)、側用人(1825年)へ出世し、相良の地に再転封(1823年)と復権を果たしたのですが、その時の藩主である意正は、水野忠友の婿養子だった本人であり(2代から4代藩主は暗殺された田沼意知の息子)、復権を主導した老中首座の水野忠成(老中首座就任は1817年)は、意正が離縁させられた娘と再婚する事で水野忠友の婿養子となった人物でした。
なお、一橋治済が亡くなったのが1827年なので、自分が生きているうちに田沼家を復権させてやりたいという一橋治済の指示だったのかもしれませんね。
@@satosin2660様 なるほど。素晴らしい情報量と御明察に感服致しました。定信は治済から見て8歳下の従弟で彼を後継ぎの無かった陸奥白河藩の養子縁組に尽力したのも治済でした。
一方意次も自身の家老である田沼意誠の実兄にあたる人物で彼を通じて幕府内の“田沼派“を動かす事も可能だった事は想像するに難くないのかも知れないですね。
ちなみに意誠の子の田沼意致は父の跡を継いで一橋家重臣を経て小姓組番頭格・西丸御側取次見習いとなり10代家治の世子家基付きとなりました。
ひょっとしたら元家臣の意致を使って家基を病死に見せかけて暗殺する事も可能だったかもしれませんね…😨
昔うちの家の母方の親戚が先祖を辿った結果、何故か水戸徳川家に行き着いたらしいので、コイツらの血がごく僅かでも自分に受け継がれてるんかなぁと思うとなんだか感慨深い
徳川、前田、伊達、島津、毛利あたりのどメジャーな大名の末裔はまだまだいるんだろうけど、
我々と同じような生活をしている元大名の末裔とかもいるんだろうなぁ。
板倉家は、戦後没落して当主は一人暮で死亡。
その板倉家は、毎年参勤交代で上京してくる松平郷松平家(松平家の本家筋)四百四十石。
の宿泊所となってた。
貧乏してるのも多いだろうね。
井伊直弼の解説をリクエストします
「始祖ジュラ」突然出て来てワロタ。😅
ビックリマンかな?
始祖ウイルス
徳川家は、本当に源氏の流れを汲んでいるですか?
まさか
紀州藩はもう後継ぎいないんだよね
今の当主の親父が愛人作って蒸発してるし、現当主は高齢の女性で未婚だし。
もしペリー来航がなかったら、南紀派と一橋派が対立することもなく、家茂がすんなり14代将軍になっていたのかな。
忠輝はとにかく謎。隆慶一郎先生の『影武者徳川家康』と『捨て童子忠輝(未完)』を読むと一応納得出来る仮説は出るけどあくまでも仮説だからなぁ。
基本的に将軍家は、吉宗が入るまでは家康ではなく秀忠の血統重視と考えるべきだよねぇ。家宣辺りの段階で家康との血統の近さが将軍推認の条件となってないのが明らかだもんねぇ。
それとやはり家基の早逝が謎よねぇ。
家斉の息子が津山藩に入りその子が交代寄合表向御礼衆の五島家(三千石)に養子に入ってる。
家康は手当たり次第養女を迎えあちこちに嫁に出していたから結構あちこちの大名家が遠戚に。
本当の家康の子供は
何人だったのだろう。
ぱーてぃちゃんの信子は何処に入る?
忠輝、忠直、忠長と〝忠〟の字は行く末芳しからず😭
信康が生きていれば…
非常に面白い動画でした。
ただ、家系図が小さすぎて、非常に見づらい。
徳川家のなので、余計にごちゃごちゃする。
解説しているときは、テーマになっている部分に焦点を当てるように、ズームするかせめて赤丸なので「ここを解説していますよ」という編集が欲しかったです。
暗殺と言う言葉がちらつきますが、後継者が決定すれば証拠隠滅がチラつくのが王朝、王家の歴史ですね。🤔
「忠」の字の付く人間が悉く不行状で取沙汰されてるけど秀忠も内心うんざりモノなんじゃないかな
揃いも揃って不「忠」義者ばかり
ガチホモの家光に跡継ぎが生まれたのが不思議。
徳川光圀の実子の頼常は水戸家の養子となった綱條と入れ替わる形で光圀の兄頼重の養子となって高松松平家を継いだ。頼常の実子は早世したようで、頼常の後は頼重の孫にあたる頼豊が養子となって継いでいるので、光圀の直系は頼常で途絶えている。
紀州と水戸は影武者の血筋と言われていたな
それぞれの初代である頼宣と頼房は同腹の兄弟ですし
魔理沙の一人称が気になる
御三卿ほんまw
ちなみに元NHKアナウンサーの松平定知氏は、家康の異父弟を藩祖とする伊予藩松平家(久松氏)の分家筋にあたる旧旗本家出身
男子だけで無く女子の嫁ぎ先も解説して欲しい。
家斉時代は相当数ありますね😅
@@アウトローという者 ただし家斉の娘は子どもを生む前に亡くなっている人がほとんどで今でも子孫がいるのが前田家に嫁いだ溶姫だけ。そして溶姫の子孫には細川元首相がいる。
@@yh6146様 そう考えると細川さんは皇室・藤原(近衛)・徳川・明智の血を引くという、まさにやんごとなきお方(むしろやんごと無さすぎるレベル)
@@アウトローという者 細川元首相は細川忠興と側室の間の子どもの子孫だから、明智の血筋では無い。忠興の長男の子孫は明智の血筋だけど。
家康の娘も結構面白いですよね。
慶喜じゃなく茂承が将軍になれば良かったのにな。
忠輝の息子の徳松は、秀忠の没年の1632年に配流先で18歳で家に火を放って自〇してるんだよなぁ…何か闇があるのかもしれん。
家系図で御三卿の初代が間違えとる。
田安家初代が宗武、一橋初代が宗尹
ご指摘ありがとうございます
次回反映させたいと思います
@@terasen さん
いつも楽しく観させてもらっています。
今回は上からすみません。
徳川家達の侯爵は公爵の間違いです。
5代将軍にもし家斉 がいたら 徳川幕府は50代ぐらい 、
続いたのかも、笑。
それだと15代以降も徳川将軍の治世が続く筈がそうならなかった事と整合性が取れ無くなるな…(汗
よく間違えてるけど御三家は将軍家以外で徳川を名乗った家をいうんだよ
将軍家家督権の尾張と紀州と秀忠三男駿府の忠長が徳川姓で御三家と言われてた家光で忠長が取り潰しになりその代わりが水戸頼房が徳川となり尾張紀州水戸が御三家になったんだよそれまで頼房は松平も貰えなかった名字無しの頼房だったらしい自称松平を名乗ってたとか
松平家とか元山賊だろ?
三河の山間土豪の出自。
日本外史
現在も徳川の時代なら原爆も落とされなかったしコロナも無かったろうね…
どこまでも、「想像の域」を出ません!!