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すごい情報量の動画
8:41ようつべのガイドラインギリギリ
カパックとかスクコとか
横須賀の猿島もマチュピチュ感ありますよ。ショッカーの本部跡もありますし。
BGMが激しくうるさくて音を消して見てます。幸い字幕ありオッケー
内容が最新データに更新されていて、 充実してますね。これからも頑張ってください。
ほんと、昔の征服者にしろ、現代の観光客にしろ、ろくな奴がいねぇ・・・
文字が見つかって無いのは今のコンピュータみたいなのでデータで存在したのかも?コンピュータが壊れたらデータが見れないみたいな
発見される迄の数百年はほとんど当時の姿を残していたのに、人間が入って来るとろくな事しない…歴史的文化財に落書きとか…削ってみたりとか…こう言った歴史的文化財の見学に行く時は、先人への敬意を持って見学する事が大切だと思う。そして、これらを後世の人々に伝えるのも現代に生きている人間の役割だと思う。
全くその通りだと思います。クメール朝アンコールワットに江戸時代の武士、加藤清正の重臣だった森本儀太夫の息子「森本右近太夫一房」という人物がが落書きを残していました。1860年のフランス人の博物学者アンリ・ムオーによって世界に紹介される200年以上前に日本人の武士がすでにここに来ていた証拠でした。当時は文化財という概念がないので落書きも「絵馬奉納」ぐらいの気持ちだったのでしょう。ポルポト政権時に青ペンキで塗りつぶされて今は、判別しにくい状態です。今は文化財保護の教育は小学校からされているはず。それに対して損壊や落書き、思想、宗教による破壊など許されるはずはないのです。
つボイノリオ氏の、「インカ帝国の成立」という歌があってだな…
♪クスコで開かれたマー(以下自主規制
マチュピチュとかアンコールワットとか行ってみたいけど僻地にあって相当体力がないと楽しめそうにないから一生いけるきがしない
遠くから水源を引いていたり、勾配角が物凄く緩やかだったり、その標高だったりと、文字なくあれだけ高度な構造物が作れたのはホント不思議…
南米の太平洋側では縄文土器に似た土器も見つかっているので、航路で繋がっていた可能性はあると思う。
マチュピチュは体が不自由な父親と行きました。杖をついていたので、行列のバスに並ばずマチュピチュ遺跡行のバスに乗れました。父親との最後の旅となりました。ペルー国内の観光地は結構wifiが通じます。
マチュピチュから来た人が横浜のベンダーで普通に働いてるよ
大昔は海面が低かったのでベーリング海を介して北米と日本は地続きだった
いつも楽しみにしています。もうテレビなど観ることがほぼなくなりました。インカやアステカは、たかだか500年前ですからねえ。足利幕府。マヤでさえ紀元後でしょ。2000年前。中南米が以外と最近の話だと知らないファンが多いのではないかと思います。エジプト、シュメール、黄河の超古代文明とは3〜4000年も開きがあるんですよね。景観が素晴らしいので、行ってみたい気持ちはあります。
マチュ・ピチュとアンコール・ワットは、死ぬ迄に行きたい場所‼️
自分は生きてるうちにルーブル美術館見たい(´- `*)
面白かった❗️日本人が造った説に度肝抜かれた。間を置いてまた視聴したいな(´- `*)
文字を持たなかったのでしょうか?文字が発見されていないだけではないのでしょうか?
文字というか記号ならあります
文字がなかった筈のに、スペイン人が一度帰った後の事情の細かい年代が分かってるのは何故?
ノアの大洪水みたいに、周りが水没してて、あそこにしか建設出来なかったか?
面白かったです。有難うございます。マチピュチは、今から半世紀ほど前にデニケンが書物で世界に紹介したのが最初でしょうかね?断層が交差する場所にマチピュチがあることはデニケンも書いてなかったと思います。
いえ、アメリカの探検家ハイラム・ビンガム3世が1911年にインカの遺跡調査していて発見し報告。書籍「失われたインカの都市」を発表しベストセラーになりました。そしてそれを「ナショナル・ジオグラフィック」が1913年にマチュ・ピチュ特集を組み、1930年の著書「マチュ・ピチュ:インカの要塞」で写真、図面付きの論文が出ました。エーリッヒ・フォン・デニケンは「マチュ・ピチュ」に行ってもいません。ペルーの考古学者はこのデニケンが書いたデマ本に「あの当時の考古学者がもっと批判、検証すべきだった。間違ったペルーの文化を世に広めてしまった。国の恥だった」といっています。デニケン『未来の記憶』は間違いだらけで、同じ宇宙人説を持っている学者さえ、「論理的そして事実的誤りだらけである最近の本の存在を知らない」といわれた
マンカパさんは本当にいたのか
なっが!、作った人偉いわ〜
太陽を神とするのは、多くの文明でよくある事( =Φ人Φ=)づ🌞✨
以前ある本で見た仮説なのですがマチュピチュはもともと平坦な所に建設されていたのが川の氾濫により削られていって川が低くなりマチュピチュだけが残ったと言う説があります
ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ とコロンビアの水利技術者ケネス・ライトの調査で、この都市建設の努力は、ほぼ60%以上は急斜面に城壁の土台つくりに費やされていると報告している事から、都市建設の時すでにこの急斜面の土地であったとされる。だから今でもなぜこんなところに城壁を作らなければならなかったのかが議論されている。降雨が多く何故崩れずに500年以上の残っているのか、それはこの急斜面に農耕地するさいに農耕用の整地ではなく城壁をつくる技術が土台に使われていることぐらいは判明している。
ならばその氾濫をもたらした水源はいつどこからもたらされたのでしょうか?マチュピチュを上手く避けてくれた氾濫とは随分都合のいい災害もあったものだとは思います。
3つの窓の神殿から初代皇帝が生まれた伝説があるという話だけど、文字が無いのにどうやってその伝説が伝わったのだろう?何百年も忘れ去られていた街で現地の人達も知らなかったような街だし、現地の人達が伝えていたわけではないですよね。
インカやマヤも文字らしきものが見つかってなかったかな?
BGMがうるさ過ぎて話に集中できない
いつか私は帰ってくる!黒潮で漕がなくても。じゃどやって戻るの?
漫画・キン肉マンに出てくる「ベンキマン」はインカ帝国出身なのに何故かボディが和式トイレなわけですが日本人が深く関わっていたなら、説明がつきますね😊
アンデス文明の最後期にあたるのがインカ帝国(ペルー、アンデス山脈)。アンデス文明は紀元前2500年頃から文字を持たない文明としてスタート(世界四大文明と違い文字を持っていない状態だった)一方、マヤ文明(メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズ)は紀元前2000年頃スタート(マヤ高地で一部土器使用程度)日本の縄文土器 紀元前1万2000年前(縄目の文様が特徴の土器を使用)ただ、縄文文明や日本文明などとは呼ばない。文明とは「人間が作り出した高度な文化または社会を包括的に指す」と言われるが、要は「農耕」とその生産物に「余剰があることらしい」その日暮らしの生活では文明とは呼ばれない。縄文時代はこれからもっと解明が進む。農耕もあったかもしれない。しかし余剰生産物を蓄えるほどの農耕は確認できていない。せいぜいドングリやクリを拾って土器に入れて確保するぐらいだった思われる。ただよくわかってない事もあり、文明とはされていない。このあたりは世界の注目するところ
一般的な農耕とは違いますが、保存してたどんぐりなどの樹の実は豊作な収穫が見込める期間が限られてるとかで、一定期間毎に植樹と伐採が行われていたって証拠が見つかったって話を数年前NHKの縄文時代の特番で見たような気がします。解明はされてませんが独自の文字も少数見つかっていて、気候変動がなければ稲作に切り換わらなかった可能性もあったかもなど、すべての遺跡ではないみたいですが単純な狩猟採集ではなく文明的な民族だったみたいです。弥生人も遺跡の時代測定と様式から日本の縄文人が渡来人として半島に渡った末裔が再度渡来人として渡ってきたのではないかって説も出てきてるくらいで、規模や科学レベルでは他の文明に劣る部分もあるものの、ゼロからの文明の黎明期ってことを考えると移動が困難だった時代や地理的背景を考えると特殊な事例なのは間違いないなと思ってます、
文字無しでこれは凄過ぎる
ほんと凄いですね!!!
ノアの大洪水の時に島だったとか?
石に書かれた、文字が残っていない。既に、「紙」が、開発されていて、紙に書いていたので、残らなかった。と思う。
物理的に風化してしまう媒体は、現在のデジタルデータも同様なのかもしれませんよね。
「とうへい」ではなく、「とうなる」と読みます
鬼界カルデラで絶滅の危機に遭った縄文人が海を渡った説もあった様な?
詳しい事は曖昧ですがインカ帝国の遺跡から古代日本で使用されていた神代文字で書かれた黄金板が発見されて解読するとちゃんと文章になっていたんですよね。文字を持たないはずのインカ文明から神代文字で書かれた黄金板が発見されるなんてとんでもない事です。内容はかなりあいまいなので書けませんが、、、後は縄文土器が数十個発掘されていたりと古代の日本との交易を示す物が出土していたはずです
ハイラムが発見しました。ここ重要なので2回言いました。
どうせだったら、BGMは旧西ドイツの音楽グループ・ジンギスカンの「マチュピチュ」にして欲しかったなぁ。
「」使いすぎって論文書く時先生につっこまれてそうww
インカ帝国の遺跡、子供の頃から憧れていたけど、南米は治安が悪いと言われて躊躇している間に歳を取ってしまった。空気の薄い高地に精緻な都市を造った文明を滅ぼした人々には反感を感じます。あとこの動画、とても勉強になりました。
でもあの時南米に行ってなくてよかったですよ。行ってたらあなたは生きて帰れませんでした。
東平は(とうへい )では無くて(とうなる)と読みます、竹田城跡も行きました。
昔、平地だった処が隆起したんじゃないでしょうかぁ~でしょでしょ❗️
デレと○○○だけしか、頭に残らん。まぁ、話もおもしろいけどw
すごい情報量の動画
8:41
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こう言った歴史的文化財の見学に行く時は、先人への敬意を持って見学する事が大切だと思う。そして、これらを後世の人々に伝えるのも現代に生きている人間の役割だと思う。
全くその通りだと思います。クメール朝アンコールワットに江戸時代の武士、加藤清正の重臣だった森本儀太夫の息子「森本右近太夫一房」という人物がが落書きを残していました。1860年のフランス人の博物学者アンリ・ムオーによって世界に紹介される200年以上前に日本人の武士がすでにここに来ていた証拠でした。当時は文化財という概念がないので落書きも「絵馬奉納」ぐらいの気持ちだったのでしょう。ポルポト政権時に青ペンキで塗りつぶされて今は、判別しにくい状態です。今は文化財保護の教育は小学校からされているはず。それに対して損壊や落書き、思想、宗教による破壊など許されるはずはないのです。
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マチュピチュとかアンコールワットとか行ってみたいけど僻地にあって相当体力がないと楽しめそうにないから一生いけるきがしない
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南米の太平洋側では縄文土器に似た土器も見つかっているので、航路で繋がっていた可能性はあると思う。
マチュピチュは体が不自由な父親と行きました。
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マチュピチュ遺跡行のバスに乗れました。
父親との最後の旅となりました。
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マチュ・ピチュとアンコール・ワットは、死ぬ迄に行きたい場所‼️
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マチュピチュはもともと平坦な所に建設されていたのが川の氾濫により削られていって川が低くなりマチュピチュだけが残ったと言う説があります
ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ とコロンビアの水利技術者ケネス・ライトの調査で、この都市建設の努力は、ほぼ60%以上は急斜面に城壁の土台つくりに費やされていると報告している事から、都市建設の時すでにこの急斜面の土地であったとされる。だから今でもなぜこんなところに城壁を作らなければならなかったのかが議論されている。降雨が多く何故崩れずに500年以上の残っているのか、それはこの急斜面に農耕地するさいに農耕用の整地ではなく城壁をつくる技術が土台に使われていることぐらいは判明している。
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「とうへい」ではなく、「とうなる」と読みます
鬼界カルデラで絶滅の危機に遭った縄文人が海を渡った説もあった様な?
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行ってたらあなたは生きて帰れませんでした。
東平は(とうへい )では無くて(とうなる)と読みます、竹田城跡も行きました。
昔、平地だった処が隆起したんじゃないでしょうかぁ~でしょでしょ❗️
デレと○○○だけしか、頭に残らん。まぁ、話もおもしろいけどw