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9/7(土)、9/14(土) 東京新橋で宇山卓栄先生とトークイベント。サイン本プレゼントもあります。businesssha.peatix.com
この数日間、私的なことでモヤモヤしてたのですが、禅のお話を聞いて、左脳で考えすぎず、何か別の事をしようかと切り替えができスッキリしました。私は学はないのですが、家庭環境から中高時代から自分の心と向き合うことをしていたのですが、それが歳を重ねるうちにしなくなっていたようにおもえてきました。4を楽しみにしています。ありがとうございました。
私も小さな家庭菜園ですが、畑で無になります。意味もなく不安な気持ちに駆られる時も、土と緑に触れると心が落ち着きます😊
こちらを見て、矢作先生と茂木先生の対談3も見返しました。いつもありがとうございます。
第3回も楽しく聞かせていただきました。ありがとうございます。私はクリスチャンで、神秘主義(鈴木大拙やエックハルト)から多くを学んでいるので、今回のお話もとても興味深かったです。神秘主義は、日常の当たり前の中に不思議(神秘)を見出してゆく在り方なので、短歌や俳句の世界に近いのかなと感じています。
機会あってマインドフルネス(瞑想)を生活に取り入れていますが、禅のお話に通じる、というか根っこは同じものだということを理解しました。
本当に勉強になります😊私にはレベルが高いお話しなのですが、面白く見ております😊
左脳が疲弊したり強いストレスを受けたりすると、うつ病になる報告があります。左脳を休ませるには、情報をこれ以上いれないのがよいそうです。禅や農業、無心になれる趣味は大事だと思います。
お2人の とても分かりやすい系統だったご説明と背景の簡潔な言葉の解説で全てが腑に落ちる過去の字面だけを追っていた自分の知識に血肉が入った感じでした。有難うございます!続きが楽しみです。
非常に興味深いお話でした
神秘学と神秘主義、すごく面白いですね!言葉にする(左脳)と体験として受けとめる(右脳)。はじめに言葉があり言葉は神であったキリスト教と森羅万象を感受する神道との違いのようだにゃーと思いました。
二人の対話、いつも面白くて、対話美術館みたい😂。
鈴木だいせつさんは裸足で土を踏めばよいとありましたので実行のみ現代人は裸足で歩く事がないため色々ため込み悩みますねオカルトは芸術の世界でもあると思いま絵を描くと経験します
西田の書いた最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」を読むと、そこで書かれているのは禅ではなく華厳。西田は禅で仏道(仏教)に入門したかもしれないが、最終的に華厳に行き着いたと思う。真言宗の空海も十住心において顕教の最高位に華厳を置いている。悟りの世界(神秘体験)を言語で表現しようとすると華厳に行き着くのだと思う。
大変勉強になります。妄想は欲から発しますね。欲との距離感を図るのが理趣経なのかな。
呪いを祝いに変換する。裏表内外前後左右上下の一体と言う事でしょうね。
ありがとうございます。神秘学と神秘主義、勉強になりました。言葉で説明しようとする学と、行動の中で体験や実現する主義。境界ははっきりしないところもありますが、学と主義で整理しやすくなりますね。井筒俊彦さんのイスラム神秘主義は、主義を学にする試みでしょうか😅
とても参考になります。ありがとうございます。1:30~浜崎先生「払おうとすることは、既に妄念でしょ。払おうと思っている俺を、払おうと思っている俺を、払おうと思っている俺を・・・と続く。」これは、仏教の如来です。曰く「~の如し、の如し、の如し・・・」と同じです。人がわかるのは物と事です。物と事は必ず「対」になった繰り返しです。ですから、言葉で言える「知」は必ず対になっていますから、浜崎先生が言われる「入れ子」が成り立ちます。どのような理論にも必ず循環が現れるはずです。究極的に、知は繰り返しです。
私はモヤモヤしたときはプールで泳ぎます。どんな大変な状態でも心がすっきりして悩みなど無かったようになります。座禅はそんな感じでしょうか?😊
モヤモヤのシャワーを浴びて自覚する事なのでしょう。プールの水が108の煩悩でその中を泳ぐ。空の青さに染まらぬ白鳥ですね。素晴らしい方法ですね😊
ふだん深く思考してるからこそ無になれるその時間が輝くのですね。人間は生きる事それ自体にではなく、よりよく生きることにのみ、本格的に関心を持つ奇妙な動物である(オルテガ)戦後のテレビが人の思考を奪い、眼の前の損得に振り回され自分の頭で考えられなくなった現代人はもう少し深く思惟しても良いかと思います。“善の研究”のような哲学書を高校の授業で教えることができたなら今の日本人も少しは変わるかもと感じました。
ブルースリーいうところのドンシンクフィールということですかね
坐禅と私が勉強した森田療法とよく似ていますね、あるがままを受け入れる。時の流れに身を任す。そうやっているうちに悩み事は消えていきます。それを受け入れることが大事ですけどね、私は受け入れて楽になりました。妄念、初一念は浮かぶものは消せないけれど、思うのは思う、それを思っているのを、そのまま受け入れて、時の流れに身を任すと、妄念は消えていきます。私の仕事も趣味も右脳しか使ってないですね〜😅スーパーで左脳を使うぐらいです。😅神秘なことを文面にすれば、小説みたいな薄っぺらいものになりますねよく解ります。
草取りも思考がとまる。1時間も草取りすれば頭も庭もすっきり😊
草取りって、心のゴミを引き抜いて綺麗にしてる感覚。お祓いに近いと感じてます。
ムー的世界に近づいてきました
大本教から分かれた生長の家創始者の谷口雅春師も、聖典『生命の實相』の中でスエーデンボルグの霊界通信について書いていらしたと記憶しています(生長の家は三代目になってからのお家騒動で雅春師が霊感を受けて書かれた多くの聖典が読めなくなりました)。文語調ですが聖教甘露の法雨にあらわされた内容は、想いが現実を創るといういまのスピリチュアルの教えと全く矛盾していないです。大正時代の日本にすでにこのような啓示が表されていてたことに、スピリチュアルに縁付いてからあらためて大変驚きました。生長の家は戦時下の日本でそれなりに教勢が拡大したと伺っています。市井の人々の健気な信仰心と天才宗教家の慈善を目的とした表現活動が、コトバを介する以上主義→学に成ってしまう過程で少しずつズレて行き、全体に変質する?可能性があることを、両先生は「危険」と仰られたのかなと思いました。間違っておりましたらご教授下さいませ。m(_ _)m追記「からだ」、ヒンドゥーのバクティのご説明でもお話されていらっしゃいましたネ💡古代インド①②、ぜんぜんわからなかったバラモン教ヒンドゥー、仏教の関係がやっと理解出来た瞬間でした😭
わたしもアリウス派なので左脳が勝ってしまいます笑アタナシウス派の堅信を少し羨ましく思いつつ、アリウス的な道を往くしかないかと観念、、それでも考えて考えて考えた先に突然天啓が降り「なんかわかった!」となったことがあります。それはコトバを超えてholyな体験でした。言葉で表された表現が大好きなので物語も大好きで😰ストーリーの中で生きる基本設定にどう対処苦慮して平安に行き着くか。巻き込まれない力のレベル上げが課題です😌
まだまだ思考中、、「ほとんどの宗教はそれを利用してしまう」ウーーーン😥キリストもシッダールタも自身は経典を残さなかった。のに使徒や弟子たちによって後世に経典として残されてしまったから“宗教”で、(いまも残していないのが神道?)けれどキリストもユダヤ教、シッダールタもジャイナ教バラモン教という下地と修行があってのその後なのだし、前の教えはあって良かったと思います。そうでないとみんなワヤになってしまう。。信仰は一対一の謙虚な作業であると思いますが、ニーチェの超人思想がヒトラーを育てたのであれば思想も宗教も罷り間違えば行き着く先は同じことになってしまいますね汗ナチの幹部がチベット仏教を研究とは、真言や儀式の持つ魔術的力と身体の重要性に何かヒントを感じたからなのでしょうか、、ナチズムもよく知らないのにたのしい思考は止まらず眠れないー(^^;;
スエデンボルグは見て来ちゃったから言葉で断言しているのですね。。浜崎先生から見て出口王仁三郎はどうなんでしょう?ちょっと気になりました。
誰が言ったか知らないが、直感的な心は神聖な贈り物で、合理的な心は忠実な召使いだ。我々は召使いを重んじて、贈り物が忘れ去られた社会を作ってきた。
いつも勉強になります。ありがとうございます。一度お二人の公演を聴講したく思います。質問ですが、どのような方々が聴講者なのですか?お二人の話しっぷりから推察すると、文学、歴史に明るい方々なのかな?!
もぎせかchの視聴者さんと、浜崎さんのファンですね。
@@maomao96363 先生、返信ありがとうございます。お二人の公演を聴講すべく告知をチェック致します。
哲学の意味や考え方では「学」や「派」は差異無いでしょうね。後づけとしてはあるかもですよ。時間の牢獄。
仏教にもキリスト教にもイスラム教にも言語化された経典があるが、例えば浜崎先生の区分では黙示録を含む聖書はどうなるのだろう?確かにわたしたち日本人的にはアーリア民族の優秀性なるドイツ的な思想がナチズムを生んだ原因であるかに感じてきたと思うが、ドラッカーは「実際には、ナチズムの理念やスローガンの直接の生みの親は、ほとんどがドイツ人ではない。」と語っている。
神官を排除したアメンホテップ4世、イクナートンです。
柳田先生と折口先生でやっとウンウン。
おはようございます☀ わ〜1コメ緊張❗️😖スウェーデンボルク、ハーゲンクロイツ(鉤十字)というと、はるか昔中2くらい?に夢中になって読んだムーのネタではないですか😂まさか浜崎先生からそのようなお話が聴けるとは思いませんでしたそれにしても大変難しくかつ楽しいお話しです♪ありがとうございます😊
念の為の補足。最も大切なのは日本語である。ので、些か左脳をというのは異論というより、補足する必用がある屋に見える。日本人がというより、日本語が優れている、という意味合いで。日本語人の脳: 理性・感性・情動、時間と大地の科学 単行本 - 2016/4/15角田忠信 (著)著者について1926年、東京府中野区生まれ。1949年、東京歯科医専卒(東京医科歯科大学の前身、耳鼻咽喉科)。1951年に同大学助手、1957年に講師、同年に「鐙骨固着度の検出法」で東京医科歯科大学にて医学博士。1958~70年、国立聴力言語障害センター職能課長。1983年、東京医科歯科大学難治疾患研究所教授。1986年、『脳の発見』で日本文学大賞(学芸部門)受賞。1990年、東京医科歯科大学名誉教授・日本語を使うことによる脳構造「日本人の脳」とニッポン人の〈原始のしっぽ〉ありていに言えば、約束事にしばられずに、縦横に「日本人とは何だろうか」を問うてみたいのです。そしてそれは自分自身への問いでもあります。そういうごく個人的な探索ノートが、実はこの「ニッポン民俗学」に他なりません。あらかじめ、あるいは改めましてご承知おき願います。ずっと以前に「右脳・左脳」ということがずいぶん話題に上った。同時に「日本人と脳」ということについても語られていたはずだ。本来なら、私もそのときにこの問題を「卒業」しておかねばならなかったのだろう。大人になってからの「はしか」は重篤になるという。しばらくはこのテーマが頭を離れそうにない。 その「禁断の書」とは、角田忠信氏の著作『日本人の脳』(正編1978年、続編1985年刊行)である。そこには何が書かれていたのか。日本人の脳の働き方が、欧米人とは愚か、ほとんどのアジア人とも異なるものであることが明証されていた。私たち日本人は他とは違う人間なのである。誇らしさが浮かびそうになるが、いやいや実は文字通り「日本の常識は世界の非常識」であることが運命づけられているのであり、相互理解のためには必ず「翻訳」が必須であることを自覚せねばならないのである。(二) 人類とは種であり、ここにおいて民族の差はなく、脳を含めた身体的諸機能に差異はない。いかなる民族や国籍において生まれようと、どんな言語の習得も可能である。発声および聴覚機能自体は普遍的であり、生得的な差異はない。言わば、人間としてのハードウェアは同一である。興味深いことにコンピュータ同様に(人間がこれを作ったのだから、むしろ当然と言うべきかも知れないが)、ここでもソフトウェアが重要なのである。 いま、世界中のコンピュータの基盤ソフトウェア(OS:オペレーティング・システム;各アプリケーション・ソフト起動の前提となる基本ソフト)はほとんどがMS-Windows(DOS-V)である。これに対するのは少数派のMac-OSやLinuxである。人間にとってのOSとは何か。それは紛れもなく、思考の基盤となる言語である。そうである、日本人の言語が違うのである。 問題は日本語にある。日本語というOSが日本人を作るのである。日本人であることは生得的なものではなく、日本語を習得することによって、母国語とすることによって「日本人になる」のである。では、「日本人になる」とはどういうことか。脳の働かせ方を、日本人仕様にするということである。脳の働かせ方の日本人仕様とは何か。母音を左脳に取り込むということである。 何でもないことのように思えるだろう。ところがこれこそが人類学的に特異なことなのである。日本語は母音が必ず伴う言語である。よって、これが言語脳である左脳に取り込まれること自体は仕方がない。しかし、母音的特質(注)をもつ他の自然「音」も、母音的なものとしてすべて言語として左脳に受容されてしまうのだ。その例として最も有名なものは、虫の音である。ちなみに欧米人はこれを右脳で聞いている。(注)母音的特質 二つ以上のフォルトマン構造をもち、その周波数比が倍数関係にないこと及び構成音の一つ以上がFM音であること(要は音韻・音波的な特徴である)。(三) 右脳と左脳、それぞれの機能の特徴と一般的に言われていることを列挙してみよう(欧米人の脳モデル)。【左脳】言語脳、理性、デジタル的、ストレス脳。顕在意識(意識)、理解・記憶を求める、段階的に少量ずつ受け入れる、低速で受け入れる、直列処理する、手動処理、意識処理。言語、観念構成、算術処理などに適し、分析的、抽象的、論理的。【右脳】イメージ脳、感性、アナログ的、リラックス脳。潜在意識(無意識)、理解・記憶を求めない、一度に大量を受け入れる、高速で受け入れる、並列処理する、自動処理、無意識処理。音楽、図形感覚、絵画、幾何学処理などに適し、合成的、全体的、感覚的、直観的。もちろん、右脳と左脳はバラバラに働いているのではなく、普通は協働的に機能している。ただし、「言語」が発せられたとき、言語脳である左脳が優位となる。例えば、楽器の音色を聴いているとき、右脳が受容処理の主体となっているが、言葉が聞こえてくると、その音楽を含めて左脳で処理され始めるのである。しかしこれは多数派のWindowsのOSで働く脳の場合である。 Mac-OSとでも言うべきOSで働く日本人の脳の場合は、最初から特殊である。洋楽器の音色こそ右脳受容であるが、三味線など邦楽器となれば初めから左脳で受容されるのである。前述したが、虫の音も左脳(欧米人は右脳)だし、言語は母音・子音とも左脳(欧米人は母音は右脳、子音は左脳)である。さらに、日本人は情動(感情、パトス)も左脳にその座がある。音関係について、まとめよう。【日本人の脳】 〈左脳で受容〉 言語(母音・子音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音 〈右脳で受容〉洋楽器音、機械音【欧米人の脳】 〈左脳で受容〉言語(子音) 〈右脳で受容〉言語(母音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音、洋楽器音、機械音それぞれ〈右脳で受容〉の音だけが聞こえている間は右脳優位となるが、〈左脳で受容〉の音が聞こえ始めた途端、左脳優位となり、〈右脳で受容〉の音も左脳経由で処理される。
(四) 西欧思想を学ぶ者にとって、ロゴス(論理)とパトス(情念)というのは基本タームであり、この二項対立が西欧思想を形作っていることは常識である。例えば、理性と感情、霊魂と肉体、精神と身体などというのは、このヴァリエーションである。ここからデカルト的にさらに引き延ばせば、思惟と延長、精神と物体、人工と自然、人間と世界などの二元対立項も引き出せる。 欧米人のこの二元論思考には、実に生理学的根拠があったのだ。彼らのOSでは、【左脳】 ロゴス(言葉) 【右脳】パトス(言葉ではないもの)、人間以外の自然、もの(物体、延長)と脳は作動している。ところが、日本語OSに従う日本人の脳の場合はどうか。【左脳】 こころあるもの(ロゴス、パトス、自然) 【右脳】こころがない、ただの「もの」(物体)と作動していたのだった。 価値づけは相対的なものだ。日本人が「もしかしたら自分たちは妙なOSを持っているのかも知れない」とようやく気づいたのは、明治以降、「西欧近代」の世界図式を「普遍」として受け容れてからのことである。それまでの日本人は、ことさら「不幸」ではなかった。別に、いまでも不幸がることはもちろんない。しかしながら、私たちのOSは世界標準から大きく外れたものであることは紛れのない事実である。 日本語を母国語とする限り、この脳という物質に依拠した「唯物論」(あるいは、脳機能という観点から言えば「唯脳論」)から私たちは逃れられない。日本人の自然と一体だと感じる呪術的心性もここに基盤があったわけだ。また、日本語に「情理」という言葉あるが、実に日本的な言葉であることに思い至る。「情理を尽す」とは、人情と道理を述べ、ものごとを説き明らかにすることである。この言葉には、ロゴスとパトスの隣接、いや同居が語られている。 思えば、オリンピック・シドニー大会で柔道の篠原選手が出場した決勝での判定を巡っての騒動は、実は日本人にとってだけの「騒動」で、日本的なるものと非日本的なるものとの葛藤であったのだろう。そのキイ・ワードは「気配り」である。気配りとは、ロゴスとパトスが隣接ないしは同居した「情理」を感じる心である。日本人はこの情理が「普遍的に」通じることを信じて「謙虚」であったのだ。しかし、ロゴスとパトスが別物であるOSを持った人間から見れば、そんな「短絡」は単なる愚かさにすぎない。これは、無媒介の「翻訳」は不可能であることを実証する「不幸」の一例である。
学問の解析…なかなか奥深くて、少し見方が広がりますね~~で入り込むのはやめときましょう。
う~ん!頭の悪い私にはとても難しい話でした 学問として考えるととても難しい 心の問題を頭と知識で私は理解が出来ないから 人の話を聞くとき本を読む時 自分の心がどう感じたかが私の判断基準です(笑)あいだみつを さんの言葉と文字が好きです 「一生感動一生青春」
神智学から別れた人智学のルドルフシュタイナーとかクリシュナムルティは、ご存じなのだろうか? クリシュナムルティに言わせれば、諸悪の根源は「思考」です。
@@田口善茂 様シュタイナーに触れてない違和感を私も感じました。
鈴木大拙頭どーなってるんだ。
超克論の議論体系からは少し離れますが、左脳で考えて考えて考えた先にヒラメク時ってありませんか?山、海、畑、馬は確かに自分が無くなるので強制終了なのですが歴史の考察は一応、何で何でどうしてそうしたの~と一度左脳に落としている感じがいたします。その先に主人公の感情がうわぁ~っっっと湧いてきてやっと腹落ちする。最後に右脳にシフトしている。だから小学校高学年~中学くらいに読んだ本の影響が大きいのかなぁ~ごめんなさい🙏平田篤胤や長嶋茂雄みたいな「ぐゎーっとばぁっと」みたいな解りつらい話で。体系的な事も最後まで見てキチンと考えて感じてみます。ただ、最初からいきなり右脳では無いと思う。知らんけど。
章代さん、おはようございます。久方振りの投稿が見れて嬉しいです☺お忙しいとは思いますが、お元気なのがわかって。
@@kosahi-m0135 様尚子さん?お久しぶりでございました~💖お暑いけどいかがお過ごしですか?尚子さんとお話していた六甲比命神社様あの後、何回も行く機会もあって宮司様に祠を開けて頂くお約束までしているのに、何故かその都度行けなくなるのです。瀬織津媛様に嫌われてしまったのかも😅中々お逢い出来ないですがまた先生のご講演が関西であったら是非ご一緒致しましょ🥰わざわざ私のような者にまでお気をかけて頂きありがとうございます🙏
@@高見章代 様私は章代さんが大好きですよ。関西人はお節介なんで、今まで投稿されていた方が急にいなくなったら、なんかあったんかと思ってしまいます。お元気でいてくださったなら、それで良し!!また関西に来られる日もあると思いますので、そのいつかを楽しみにしておりますね。今日もお疲れ様でございます。
@@kosahi-m0135 様ありがとうございます😭😭😭この際、先生どーでも良いので尚子さんには絶対逢いたいわ‼️
@@高見章代 様待ってるニャ🐈
分からん(勉強不足です)
釣りに行くのは藤井聡教授だな。 禅の修行では水墨画を描くというのもある。右脳の作用である。
坐ったことがない方々に、心を妄念をそのままにする身体技法として、ことばで禅を説明しようとするのは、ちょっとどうなんだろうか?
矛盾。
9/7(土)、9/14(土) 東京新橋で宇山卓栄先生とトークイベント。サイン本プレゼントもあります。
businesssha.peatix.com
この数日間、私的なことでモヤモヤしてたのですが、禅のお話を聞いて、左脳で考えすぎず、何か別の事をしようかと切り替えができスッキリしました。私は学はないのですが、家庭環境から中高時代から自分の心と向き合うことをしていたのですが、それが歳を重ねるうちにしなくなっていたようにおもえてきました。4を楽しみにしています。ありがとうございました。
私も小さな家庭菜園ですが、畑で無になります。意味もなく不安な気持ちに駆られる時も、土と緑に触れると心が落ち着きます😊
こちらを見て、矢作先生と茂木先生の対談3も見返しました。いつもありがとうございます。
第3回も楽しく聞かせていただきました。ありがとうございます。
私はクリスチャンで、神秘主義(鈴木大拙やエックハルト)から多くを学んでいるので、今回のお話もとても興味深かったです。
神秘主義は、日常の当たり前の中に不思議(神秘)を見出してゆく在り方なので、短歌や俳句の世界に近いのかなと感じています。
機会あってマインドフルネス(瞑想)を生活に取り入れていますが、禅のお話に通じる、というか根っこは同じものだということを理解しました。
本当に勉強になります😊私にはレベルが高いお話しなのですが、面白く見ております😊
左脳が疲弊したり強いストレスを受けたりすると、うつ病になる報告があります。
左脳を休ませるには、情報をこれ以上いれないのがよいそうです。
禅や農業、無心になれる趣味は大事だと思います。
お2人の とても分かりやすい系統だったご説明と背景の簡潔な言葉の解説で全てが腑に落ちる過去の字面だけを追っていた自分の知識に血肉が入った感じでした。有難うございます!続きが楽しみです。
非常に興味深いお話でした
神秘学と神秘主義、すごく面白いですね!言葉にする(左脳)と体験として受けとめる(右脳)。はじめに言葉があり言葉は神であったキリスト教と森羅万象を感受する神道との違いのようだにゃーと思いました。
二人の対話、いつも面白くて、対話美術館みたい😂。
鈴木だいせつさんは裸足で土を踏めばよいとありましたので実行のみ
現代人は裸足で歩く事がないため色々ため込み悩みますね
オカルトは芸術の世界でもあると思いま絵を描くと経験します
西田の書いた最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」を読むと、そこで書かれているのは禅ではなく華厳。西田は禅で仏道(仏教)に入門したかもしれないが、最終的に華厳に行き着いたと思う。真言宗の空海も十住心において顕教の最高位に華厳を置いている。悟りの世界(神秘体験)を言語で表現しようとすると華厳に行き着くのだと思う。
大変勉強になります。妄想は欲から発しますね。欲との距離感を図るのが理趣経なのかな。
呪いを祝いに変換する。
裏表内外前後左右上下の一体と言う事でしょうね。
ありがとうございます。神秘学と神秘主義、勉強になりました。言葉で説明しようとする学と、行動の中で体験や実現する主義。境界ははっきりしないところもありますが、学と主義で整理しやすくなりますね。井筒俊彦さんのイスラム神秘主義は、主義を学にする試みでしょうか😅
とても参考になります。ありがとうございます。
1:30~浜崎先生「払おうとすることは、既に妄念でしょ。払おうと思っている俺を、払おうと思っている俺を、払おうと思っている俺を・・・と続く。」これは、仏教の如来です。曰く「~の如し、の如し、の如し・・・」と同じです。
人がわかるのは物と事です。物と事は必ず「対」になった繰り返しです。ですから、言葉で言える「知」は必ず対になっていますから、浜崎先生が言われる「入れ子」が成り立ちます。どのような理論にも必ず循環が現れるはずです。究極的に、知は繰り返しです。
私はモヤモヤしたときはプールで泳ぎます。どんな大変な状態でも心がすっきりして悩みなど無かったようになります。座禅はそんな感じでしょうか?😊
モヤモヤのシャワーを浴びて
自覚する事なのでしょう。
プールの水が108の煩悩でその中を泳ぐ。
空の青さに染まらぬ白鳥ですね。
素晴らしい方法ですね😊
ふだん深く思考してるからこそ無になれるその時間が輝くのですね。
人間は生きる事それ自体にではなく、よりよく生きることにのみ、本格的に関心を持つ奇妙な動物である(オルテガ)
戦後のテレビが人の思考を奪い、眼の前の損得に振り回され自分の頭で考えられなくなった現代人はもう少し深く思惟しても良いかと思います。
“善の研究”のような哲学書を高校の授業で教えることができたなら今の日本人も少しは変わるかもと感じました。
ブルースリーいうところのドンシンクフィールということですかね
坐禅と私が勉強した森田療法とよく似ていますね、あるがままを受け入れる。時の流れに身を任す。そうやっているうちに悩み事は消えていきます。それを受け入れることが大事ですけどね、私は受け入れて楽になりました。妄念、初一念は浮かぶものは消せないけれど、思うのは思う、それを思っているのを、そのまま受け入れて、時の流れに身を任すと、妄念は消えていきます。私の仕事も趣味も右脳しか使ってないですね〜😅スーパーで左脳を使うぐらいです。😅神秘なことを文面にすれば、小説みたいな薄っぺらいものになりますねよく解ります。
草取りも思考がとまる。1時間も草取りすれば頭も庭もすっきり😊
草取りって、心のゴミを引き抜いて綺麗にしてる感覚。お祓いに近いと感じてます。
ムー的世界に近づいてきました
大本教から分かれた生長の家創始者の谷口雅春師も、聖典『生命の實相』の中でスエーデンボルグの霊界通信について書いていらしたと記憶しています(生長の家は三代目になってからのお家騒動で雅春師が霊感を受けて書かれた多くの聖典が読めなくなりました)。
文語調ですが聖教甘露の法雨にあらわされた内容は、想いが現実を創るといういまのスピリチュアルの教えと全く矛盾していないです。大正時代の日本にすでにこのような啓示が表されていてたことに、スピリチュアルに縁付いてからあらためて大変驚きました。
生長の家は戦時下の日本でそれなりに教勢が拡大したと伺っています。
市井の人々の健気な信仰心と天才宗教家の慈善を目的とした表現活動が、コトバを介する以上主義→学に成ってしまう過程で少しずつズレて行き、全体に変質する?可能性があることを、両先生は「危険」と仰られたのかなと思いました。間違っておりましたらご教授下さいませ。m(_ _)m
追記
「からだ」、ヒンドゥーのバクティのご説明でもお話されていらっしゃいましたネ💡
古代インド①②、
ぜんぜんわからなかったバラモン教ヒンドゥー、仏教の関係がやっと理解出来た瞬間でした😭
わたしもアリウス派なので左脳が勝ってしまいます笑
アタナシウス派の堅信を少し羨ましく思いつつ、アリウス的な道を往くしかないかと観念、、
それでも考えて考えて考えた先に突然天啓が降り「なんかわかった!」となったことがあります。それはコトバを超えてholyな体験でした。
言葉で表された表現が大好きなので物語も大好きで😰
ストーリーの中で生きる基本設定にどう対処苦慮して平安に行き着くか。巻き込まれない力のレベル上げが課題です😌
まだまだ思考中、、
「ほとんどの宗教はそれを利用してしまう」ウーーーン😥
キリストもシッダールタも自身は経典を残さなかった。のに使徒や弟子たちによって後世に経典として残されてしまったから“宗教”で、(いまも残していないのが神道?)
けれどキリストもユダヤ教、シッダールタもジャイナ教バラモン教という下地と修行があってのその後なのだし、前の教えはあって良かったと思います。そうでないとみんなワヤになってしまう。。
信仰は一対一の謙虚な作業であると思いますが、ニーチェの超人思想がヒトラーを育てたのであれば思想も宗教も罷り間違えば行き着く先は同じことになってしまいますね汗
ナチの幹部がチベット仏教を研究とは、真言や儀式の持つ魔術的力と身体の重要性に何かヒントを感じたからなのでしょうか、、
ナチズムもよく知らないのにたのしい思考は止まらず眠れないー(^^;;
スエデンボルグは見て来ちゃったから言葉で断言しているのですね。。
浜崎先生から見て出口王仁三郎はどうなんでしょう?ちょっと気になりました。
誰が言ったか知らないが、
直感的な心は神聖な贈り物で、合理的な心は忠実な召使いだ。
我々は召使いを重んじて、贈り物が忘れ去られた社会を作ってきた。
いつも勉強になります。
ありがとうございます。
一度お二人の公演を聴講したく思います。
質問ですが、どのような方々が聴講者なのですか?
お二人の話しっぷりから推察すると、文学、歴史に明るい方々なのかな?!
もぎせかchの視聴者さんと、浜崎さんのファンですね。
@@maomao96363 先生、返信ありがとうございます。
お二人の公演を聴講すべく告知をチェック致します。
哲学の意味や考え方では「学」や「派」は差異無いでしょうね。後づけとしてはあるかもですよ。時間の牢獄。
仏教にもキリスト教にもイスラム教にも言語化された経典があるが、例えば浜崎先生の区分では黙示録を含む聖書はどうなるのだろう?
確かにわたしたち日本人的にはアーリア民族の優秀性なるドイツ的な思想がナチズムを生んだ原因であるかに感じてきたと思うが、ドラッカーは「実際には、ナチズムの理念やスローガンの直接の生みの親は、ほとんどがドイツ人ではない。」と語っている。
神官を排除したアメンホテップ4世、イクナートンです。
柳田先生と折口先生でやっとウンウン。
おはようございます☀
わ〜1コメ緊張❗️😖
スウェーデンボルク、ハーゲンクロイツ(鉤十字)というと、はるか昔中2くらい?に夢中になって読んだムーのネタではないですか😂
まさか浜崎先生からそのようなお話が聴けるとは思いませんでした
それにしても大変難しくかつ楽しいお話しです♪
ありがとうございます😊
念の為の補足。最も大切なのは日本語である。ので、些か左脳をというのは異論というより、補足する必用がある屋に見える。日本人がというより、日本語が優れている、という意味合いで。
日本語人の脳: 理性・感性・情動、時間と大地の科学 単行本 - 2016/4/15
角田忠信 (著)
著者について
1926年、東京府中野区生まれ。1949年、東京歯科医専卒(東京医科歯科大学の前身、耳鼻咽喉科)。1951年に同大学助手、1957年に講師、同年に「鐙骨固着度の検出法」で東京医科歯科大学にて医学博士。1958~70年、国立聴力言語障害センター職能課長。1983年、東京医科歯科大学難治疾患研究所教授。1986年、『脳の発見』で日本文学大賞(学芸部門)受賞。1990年、東京医科歯科大学名誉教授
・日本語を使うことによる脳構造
「日本人の脳」とニッポン人の〈原始のしっぽ〉
ありていに言えば、約束事にしばられずに、縦横に「日本人とは何だろうか」を問うてみたいのです。そしてそれは自分自身への問いでもあります。そういうごく個人的な探索ノートが、実はこの「ニッポン民俗学」に他なりません。あらかじめ、あるいは改めましてご承知おき願います。
ずっと以前に「右脳・左脳」ということがずいぶん話題に上った。同時に「日本人と脳」ということについても語られていたはずだ。本来なら、私もそのときにこの問題を「卒業」しておかねばならなかったのだろう。大人になってからの「はしか」は重篤になるという。しばらくはこのテーマが頭を離れそうにない。
その「禁断の書」とは、角田忠信氏の著作『日本人の脳』(正編1978年、続編1985年刊行)である。そこには何が書かれていたのか。日本人の脳の働き方が、欧米人とは愚か、ほとんどのアジア人とも異なるものであることが明証されていた。私たち日本人は他とは違う人間なのである。誇らしさが浮かびそうになるが、いやいや実は文字通り「日本の常識は世界の非常識」であることが運命づけられているのであり、相互理解のためには必ず「翻訳」が必須であることを自覚せねばならないのである。
(二)
人類とは種であり、ここにおいて民族の差はなく、脳を含めた身体的諸機能に差異はない。いかなる民族や国籍において生まれようと、どんな言語の習得も可能である。発声および聴覚機能自体は普遍的であり、生得的な差異はない。言わば、人間としてのハードウェアは同一である。興味深いことにコンピュータ同様に(人間がこれを作ったのだから、むしろ当然と言うべきかも知れないが)、ここでもソフトウェアが重要なのである。
いま、世界中のコンピュータの基盤ソフトウェア(OS:オペレーティング・システム;各アプリケーション・ソフト起動の前提となる基本ソフト)はほとんどがMS-Windows(DOS-V)である。これに対するのは少数派のMac-OSやLinuxである。人間にとってのOSとは何か。それは紛れもなく、思考の基盤となる言語である。そうである、日本人の言語が違うのである。
問題は日本語にある。日本語というOSが日本人を作るのである。日本人であることは生得的なものではなく、日本語を習得することによって、母国語とすることによって「日本人になる」のである。では、「日本人になる」とはどういうことか。脳の働かせ方を、日本人仕様にするということである。脳の働かせ方の日本人仕様とは何か。母音を左脳に取り込むということである。
何でもないことのように思えるだろう。ところがこれこそが人類学的に特異なことなのである。日本語は母音が必ず伴う言語である。よって、これが言語脳である左脳に取り込まれること自体は仕方がない。しかし、母音的特質(注)をもつ他の自然「音」も、母音的なものとしてすべて言語として左脳に受容されてしまうのだ。その例として最も有名なものは、虫の音である。ちなみに欧米人はこれを右脳で聞いている。
(注)母音的特質
二つ以上のフォルトマン構造をもち、その周波数比が倍数関係にないこと及び構成音の一つ以上がFM音であること(要は音韻・音波的な特徴である)。
(三)
右脳と左脳、それぞれの機能の特徴と一般的に言われていることを列挙してみよう(欧米人の脳モデル)。
【左脳】
言語脳、理性、デジタル的、ストレス脳。
顕在意識(意識)、理解・記憶を求める、段階的に少量ずつ受け入れる、低速で受け入れる、直列処理する、手動処理、意識処理。
言語、観念構成、算術処理などに適し、分析的、抽象的、論理的。
【右脳】
イメージ脳、感性、アナログ的、リラックス脳。
潜在意識(無意識)、理解・記憶を求めない、一度に大量を受け入れる、高速で受け入れる、並列処理する、自動処理、無意識処理。
音楽、図形感覚、絵画、幾何学処理などに適し、合成的、全体的、感覚的、直観的。
もちろん、右脳と左脳はバラバラに働いているのではなく、普通は協働的に機能している。ただし、「言語」が発せられたとき、言語脳である左脳が優位となる。例えば、楽器の音色を聴いているとき、右脳が受容処理の主体となっているが、言葉が聞こえてくると、その音楽を含めて左脳で処理され始めるのである。しかしこれは多数派のWindowsのOSで働く脳の場合である。
Mac-OSとでも言うべきOSで働く日本人の脳の場合は、最初から特殊である。洋楽器の音色こそ右脳受容であるが、三味線など邦楽器となれば初めから左脳で受容されるのである。前述したが、虫の音も左脳(欧米人は右脳)だし、言語は母音・子音とも左脳(欧米人は母音は右脳、子音は左脳)である。さらに、日本人は情動(感情、パトス)も左脳にその座がある。音関係について、まとめよう。
【日本人の脳】
〈左脳で受容〉
言語(母音・子音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音
〈右脳で受容〉
洋楽器音、機械音
【欧米人の脳】
〈左脳で受容〉
言語(子音)
〈右脳で受容〉
言語(母音)、情動的な人声(喜怒哀楽の声、ハミング)、虫や動物の鳴き声、波や雨音、邦楽器音、洋楽器音、機械音
それぞれ〈右脳で受容〉の音だけが聞こえている間は右脳優位となるが、〈左脳で受容〉の音が聞こえ始めた途端、左脳優位となり、〈右脳で受容〉の音も左脳経由で処理される。
(四)
西欧思想を学ぶ者にとって、ロゴス(論理)とパトス(情念)というのは基本タームであり、この二項対立が西欧思想を形作っていることは常識である。例えば、理性と感情、霊魂と肉体、精神と身体などというのは、このヴァリエーションである。ここからデカルト的にさらに引き延ばせば、思惟と延長、精神と物体、人工と自然、人間と世界などの二元対立項も引き出せる。
欧米人のこの二元論思考には、実に生理学的根拠があったのだ。彼らのOSでは、
【左脳】
ロゴス(言葉)
【右脳】
パトス(言葉ではないもの)、人間以外の自然、もの(物体、延長)
と脳は作動している。
ところが、日本語OSに従う日本人の脳の場合はどうか。
【左脳】
こころあるもの(ロゴス、パトス、自然)
【右脳】
こころがない、ただの「もの」(物体)
と作動していたのだった。
価値づけは相対的なものだ。日本人が「もしかしたら自分たちは妙なOSを持っているのかも知れない」とようやく気づいたのは、明治以降、「西欧近代」の世界図式を「普遍」として受け容れてからのことである。それまでの日本人は、ことさら「不幸」ではなかった。別に、いまでも不幸がることはもちろんない。しかしながら、私たちのOSは世界標準から大きく外れたものであることは紛れのない事実である。
日本語を母国語とする限り、この脳という物質に依拠した「唯物論」(あるいは、脳機能という観点から言えば「唯脳論」)から私たちは逃れられない。日本人の自然と一体だと感じる呪術的心性もここに基盤があったわけだ。また、日本語に「情理」という言葉あるが、実に日本的な言葉であることに思い至る。「情理を尽す」とは、人情と道理を述べ、ものごとを説き明らかにすることである。この言葉には、ロゴスとパトスの隣接、いや同居が語られている。
思えば、オリンピック・シドニー大会で柔道の篠原選手が出場した決勝での判定を巡っての騒動は、実は日本人にとってだけの「騒動」で、日本的なるものと非日本的なるものとの葛藤であったのだろう。そのキイ・ワードは「気配り」である。気配りとは、ロゴスとパトスが隣接ないしは同居した「情理」を感じる心である。日本人はこの情理が「普遍的に」通じることを信じて「謙虚」であったのだ。しかし、ロゴスとパトスが別物であるOSを持った人間から見れば、そんな「短絡」は単なる愚かさにすぎない。これは、無媒介の「翻訳」は不可能であることを実証する「不幸」の一例である。
学問の解析…なかなか奥深くて、少し見方が広がりますね~~で入り込むのはやめときましょう。
う~ん!頭の悪い私にはとても難しい話でした 学問として考えるととても難しい 心の問題を頭と知識で私は理解が出来ないから 人の話を聞くとき本を読む時 自分の心がどう感じたかが私の判断基準です(笑)あいだみつを さんの言葉と文字が好きです 「一生感動一生青春」
神智学から別れた人智学のルドルフシュタイナーとかクリシュナムルティは、ご存じなのだろうか? クリシュナムルティに言わせれば、諸悪の根源は「思考」です。
@@田口善茂 様
シュタイナーに触れてない違和感を私も感じました。
鈴木大拙
頭どーなってるんだ。
超克論の議論体系からは少し離れますが、左脳で考えて考えて考えた先にヒラメク時ってありませんか?山、海、畑、馬は確かに自分が無くなるので強制終了なのですが歴史の考察は一応、何で何でどうしてそうしたの~と一度左脳に落としている感じがいたします。その先に主人公の感情がうわぁ~っっっと湧いてきてやっと腹落ちする。最後に右脳にシフトしている。だから小学校高学年~中学くらいに読んだ本の影響が大きいのかなぁ~ごめんなさい🙏平田篤胤や長嶋茂雄みたいな「ぐゎーっとばぁっと」みたいな解りつらい話で。体系的な事も最後まで見てキチンと考えて感じてみます。ただ、最初からいきなり右脳では無いと思う。知らんけど。
章代さん、おはようございます。久方振りの投稿が見れて嬉しいです☺お忙しいとは思いますが、お元気なのがわかって。
@@kosahi-m0135 様
尚子さん?お久しぶりでございました~💖お暑いけどいかがお過ごしですか?尚子さんとお話していた六甲比命神社様あの後、何回も行く機会もあって宮司様に祠を開けて頂くお約束までしているのに、何故かその都度行けなくなるのです。瀬織津媛様に嫌われてしまったのかも😅中々お逢い出来ないですがまた先生のご講演が関西であったら是非ご一緒致しましょ🥰わざわざ私のような者にまでお気をかけて頂きありがとうございます🙏
@@高見章代 様
私は章代さんが大好きですよ。関西人はお節介なんで、今まで投稿されていた方が急にいなくなったら、なんかあったんかと思ってしまいます。
お元気でいてくださったなら、それで良し!!
また関西に来られる日もあると思いますので、そのいつかを楽しみにしておりますね。
今日もお疲れ様でございます。
@@kosahi-m0135 様
ありがとうございます😭😭😭この際、先生どーでも良いので尚子さんには絶対逢いたいわ‼️
@@高見章代 様
待ってるニャ🐈
分からん(勉強不足です)
釣りに行くのは藤井聡教授だな。 禅の修行では水墨画を描くというのもある。右脳の作用である。
坐ったことがない方々に、心を妄念をそのままにする身体技法として、ことばで禅を説明しようとするのは、ちょっとどうなんだろうか?
矛盾。