教科書では学べない壇ノ浦の戦いの真実と日本人の本質|小名木善行
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- เผยแพร่เมื่อ 28 พ.ย. 2024
- 「むすび大学」は日本人が今こそ学ぶべき
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#壇ノ浦の戦い#平家物語#平教経
毎日勉強させて頂き感謝しております。緩みきった日本人に喝を。小名木先生よろしくお願いします。
自分の考えの浅さを、毎回実感させられます。もっと勉強します。
昔から建前と本音という言葉を耳にしてきましたが最近気付いたのは源平合戦だけに限らず日本人の心の中に受け継がれてきたのは武士道の1つなのでしょうか?
相手を受け入れる、尊重する、礼儀など…
さりげない思いやり(愛)を感じます。
素晴らしいの一言です。
泣けるエピソードのわかりやすいご解説をありがとうございます!!!
小名木先生のお話、しみます。どれだけ多くの大切なことが今の日本人に伝わっていないのか。勉強し直さなければ。
自分をもっともっと磨かないと、こんな男らしい方に出会えないのかナーー😍🤣
柳井市の半島の池の浦公園の近くに源平合戦の古戦場跡の石碑がありますおよそ700人が戦死しています又上関大橋を渡ったら6人位が戦死した石碑があります。ピストルで日本刀を打ち抜いたらピストルの弾が半分になった試験していましたね。
直垂(ひたたれ)は武士の服装の一つ、相撲の行事さんが着ているやつです。鎧直垂は鎧の下に着るもの。
もう10数年以上前です
会社の仕事で1年半ほど下関に出張生活をしていたのですが、休みの日は何もすることがないので史跡巡りをしていました
壇ノ浦下関側の対岸、平家が最後の宴陣を張った和布刈神社の少し先(東側)、関門海峡の縁で満潮時には潮に洗われる場所に、平家追悼の供養碑群はありました
碑文の中の一つの文言「哀れ哀れ、平家の公達哀れ」(だったと思います)
現代でも、今日のお話のような事を知っている人達が大勢居て歴史的事実を忘れていない、供養碑までちゃんと建てているのだと
文民統制を守る事が大切なのだと銀河英雄伝説から学びました、一人一人が原因と結果に責任を持つ事もそうです。その実、権威の元で対等が守られる社会が前提なのだと今思います。
対等とは同じ目線になる為に山の上の者は他の者が上ってくるまで待たなくては成りません。麓に居る者は上まで上り上の景色を皆に伝えなければ成りません。
なぜ、努力が必要なのか。国民安寧を等しく願う一人の持ち物になるからこそ、他者をお預かりしている立場に成るのですね。他者を守らなければ成らないからです。
縄文思想で妻と子は天からの預かり物だから社会に無事に返すとの思想があります。ヤマトの国では一回り広げて、周り全ての人は互いに預かりし人々に成るわけですね。
母方の家系図を調べると、母方の祖先は、壇ノ浦の戦いに、3人も参戦していることがわかりました。
そのうち二人は、溺死でした。
途中で、平家から源氏に移り変わったと記載しております。
母の家系は、ネットで調べられるので有難いです。
こんばんは。今までも偶に小名木先生の動画を観させて頂いておりましたが、今日、この動画を観て思わず、何度も笑っちゃいました。先生の講義は、とても解かりやすく、とても面白いですね。それに、歌舞伎役者にも成れるかも知れませんよ。何せ、先生の講義は、丸で芝居を演じているようですから。それに、表現が子供みたいで、とっても可愛いですよ。ふっふっふ。お休みなさい。
本当の義経はハンサムじゃなかった😃
小名木先生も好きだし平教経も素晴らしいと思うが、義経が悪人として扱われるのはどうも納得がいきかねるものがある。平家が民を思い義経らが民を思わない人間としてとらえているがそうだろうか。また、物語等にもそうなっており義経が当時禁じ手となっていたこぎ手を狙い撃ち、平教経から逃れるために八艘飛びをしたのか。違うんでないのかな。平家は自分たちの栄華のために民衆をかえりみない政治をしてるしその事により貴族政治の時代以上に京の都には強盗などの類や飢えてさまよう民に溢れていた。義経使従は木曽義仲討伐以前から数々の功績をあげていたにもかかわらず恩賞は貰えず50人からの家来を養う事が出来ずにいた。本来義経も朝廷側の存在を快くは思っていなかったにもかかわらず、使従がつらい立場にあったため朝廷から都の治安を司る職を従五位の位と共に与えられることにより後白河上皇(法皇)側の人間にならざるを得なかったんだと思うし、100%までいかなくても恩賞を義経使従が困らない程度には貰っていれば後白河側の存在にはならなかったと思う。壇ノ浦の前の屋島の時も梶原らが動いてくれないから義経使従を中心とする少人数で動かなければならなかったし、少人数だから奇策を用いざるを得なかったし、壇ノ浦の戦いも物語等では義経が大将で戦いを指揮していたようになっているが、義経の直属の部下はほとんどなく恩賞を与えることができない存在にはたしてどんだけの存在が従うかどうかだ、ましてはこぎ手を討つことが当時の禁じ手となっていたのならば自分たちの上司でもない存在の指示に従うかどうかだ、物語では義経の相棒の弁慶のつながりで和歌山の方の別当の勢力の船が源氏方となり戦ったとされるがそれでも平家側より船の数が少なかったとされている、潮の流れの変化により源氏が勝利したとの説が正しいのではないか。
小名木さんは中々良い事を言って居られるけれど、詳細分析において間違って居る事が多々ある様に思います。それが無ければ良いのですがねー。
自分は平家の末裔です。
義経人気があるのが仕方ないですが、最近の研究?などを見るとただの卑怯者にしか思ません。
兄に殺されるのも当然かなと…
スパイとかいたのかな この時代も
明治維新以後国民の幸せを心から願っていたのは天皇陛下だけですよ。それは現代でも同じです。