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鐘銘事件、そして冬の陣へ。解説ありがとうございました🙏❣️ドラマでの二条城のシーンは、ドキドキしました。家康と秀頼の一悶着😮‼️ 鐘銘事件も有名ですが、きりゅうさんの解説、ありがたい🤗次回、冬の陣の解説とても楽しみにしています。
以前の動画で方広寺鐘銘事件について質問した者です。大変勉強になりました。ありがとうございました。
ニコニコなみなさんのオープニングにほっこりしました❤今日も勉強させてもらいました。ありがとうございました😊
あ、きりゅうさん家で鳴いてたのか。うちの猫にゴハンを用意してしまった😂鐘銘の難癖?については、生き残れる道をいく通りも用意して何とか、、、と思った温情を何度も無視されてとうとう家康の堪忍袋の緒も切れたのかと思ってます。理由とトリモチはどこにでも引っ付くってヤツ、、、こうと決めた権力者を止める者はいない。物事が転び始めると止められないから、その前に対処しなきゃ行けないのにね。茶々は母や父、義父の死に方を見てきてるはずなのに、そこから得た教訓が「生き残るための方策」ではなくて「誇りある死、栄えある滅び」だけだったのかと思うと、、、辛い人生だったんだろうな。
しんどくなってから言っておられた「楽しく行きましょう」真似してみます。私も笑ったり、Hなことを考えたりしていましたが、声に出します。😊
思い出話っぽくなりますが、真田丸の片桐且元さんが良い人過ぎて切なかったことを思い出しました。現代の実社会でも間に入っちゃうとそういうことあるよなぁって。敵に乗り込んであっちからそう言われ、それを伝令すれば身内のこっちからはこう言われ・・。真田丸では且元さんが勝手に条件を考えてしまったように描かれましたが、学説も色々出てる中で改めてそれを採用するか従来でいくか。その辺もドラマとしてどう作っていくのかってことをすごく興味深く動画を楽しませてもらいました。これからも応援してます、ありがとうございました。
今回も解説ありがとうございます。片桐且元は本当に可哀そうな立場ですね、取次に奔走した挙句に味方から内応を疑われて出奔とは…おや、何処かで聞いたような?文英清韓の言い分、確かになんで最初に草案見せながら言わなかったんでしょうね。時々ある幸運のおまじないのルールみたいに、仕込んでることが知られない事で効果が出る、とかだったんでしょうか。いや、苦しいか。
ドラマで信繁が九度山を出できたっぽい演出があったので、もう出たの?早いんじゃない?と思いましたが、鐘銘事件より早くから兵糧と浪人を集めてたとわかって納得でした!
どうする家康でも、ほうこうじ鐘事件やってましたね、淀さんも、思わずキレてしまって大阪の陣のフラグだったかな?ますます面白い展開に、ハラハラしながら、来週もどうする家康を絶対に観よう。さあ楽しみじゃあ🐯家康さんも、タヌキ家康さんになりましたね🐰
織田信雄は、反豊臣・徳川に利用されることもなく、才能がないおかげで生き延びれた訳だから、一周回って豊臣秀頼よりも賢かった気がしてきました😅
@user-yu2dv8ur1q それは本当に同意。判りやすくするためにそう書きましたが、最近では見直す説もありますね。
ラットさんナイスアシスト!どうするの予告編見たら真田丸やるみたいですよきりゅうさん!
鐘銘を考えたお坊さんも当然それを認めた大坂方も~意図はどこにあったか?は諸説ありでしょうが・・・少なくとも不注意の誹りは免れませんね!そうじゃなかったらもう挑発しかない😅そこで疑問があります。そもそも鐘は何故現在まで残って伝えられているのでしょうか?鋳潰し・破却等を命じられてもおかしくないのに・・・と思いました。
夕飯どきにいつも聞いてます。ちょうどいい!
茶々のあの抗戦的な態度、イヤー さっすが信長さんの姪っ子‼️っておもいました。天下は、自分が取るって言い切ってましたもんね。片桐且元、かつての石川数正を感じます。
wikiにも片桐且元と大藏卿局は一緒に面会して一緒に帰坂した説が有力ってありますねなるほど、最近だとその説なのですねぇ🤔
「国家安康」「君臣豊楽」も有名ですが、「右僕射源朝臣家康公」 も、「右僕」を無視して「源朝臣家康公を射る」といちゃもんつけられてましたね。わりとこっちの方が直接的な気がするんですけどねえ
家康が重要視してたのは方広寺の件よりも牢人の方を危険視していたという話もありますね。家康よりも秀忠の方が強硬派で豊臣家を潰したかったという説も聞いた事があります。
徳川家康「この銘文、儂が書かせたんじゃからええで」徳川秀忠「国家安康、君臣豊楽とはゆるせぬ」徳川家康「それより、浪人雇い城改修は戦の準備かぇ?」徳川家康「戦いたいなら、ええで」
秀吉・秀頼親子が2代にわたり京都方広寺に巨大な大仏殿を築いたおかげで日本国内の巨木を伐採しつくし、宝永年間に東大寺大仏殿を再建時には、奈良時代・鎌倉時代の大仏殿に比べて小さな大仏殿しか作れなかったんですよね。
方広寺の鐘銘を見た時の茶々の表情から、大阪方から仕掛けた様に感じられ、面白いなぁと思いました。茶々達は本気で勝てると思ってたんでしょうかね?あの状況で豊臣が軍事的に徳川に勝てる道筋はたてられないと思うのですが?まぁ、結果を知っているから言える事かもしれませんが。
こんばんは。「国家安康」よりも「君臣豊楽」のほうが上に刻まれているといちゃもんつけることもできるなと思いました😜
それも~当然ありですよね!目上・格上を下に置いては普通に失礼。現代も手紙書く時に皆、注意している。逆に豊臣が上なのだ!と主張している・・・
@@ケンケン-g8gさまケンケンさん、こんばんは😊ですよねぇ🙌位置も意図的なのかなと思うと、いちゃもん説が有効だし、鐘を作った人(刻んだ人)?の豊臣贔屓説も考えられますね😃共感と補足ありがとうございました😊
@@momopopo. いいえ~。各コメントに色々なご意見が出ていて⇒成程!ですね😃本田正純は片桐且元に「鐘銘?そんなもの削り取れば良い。問題ではない!」と言ったとか・・・本音かどうかは分かりませんが😁
そんなに問題になった鐘がいまだに残っているのは何故でしょう。それとも今の鐘は復刻版?
なんか意図的に囲われてるのも謎ですね。家康がそんなもの残すのかなって思ってしまいます。
鐘の文よりも大仏開眼供養と堂供養を同日に挙行しよう!!ってのが問題だったみたいです 本来はそれぞれの式典で天台宗と真言宗がそれぞれ上座担当だったけど、同日となるとどっちの宗派が「上座」になるんや!?ってのが論争になって、その最中に棟札の未記入問題(大工の建築証明書に施工者の大工棟梁の中井さんの名前が無い!という実質給与未払い訴訟)、鐘問題が出てしまった『本光国師日記』では「国家安康」「君臣豊楽」よりも御諱の書入れ自体が非常識じゃね?が争点だったそうですby考証の平山先生
@@フォード-i1wさん 資料提供の市橋先生もおっしゃってました。
きりゅうさん、年号、年をすっごく良く覚えていらっしゃいますが、覚え方とかあるんですか?もし、覚え方が有るなら、教えて下さい😊
動画を面白かったです。「なんていちゃもんや」→「あれ、家康側にも一理ある?」→「まさかうっかりではないよね…」→「え、下書き貰ってたの?」→「真実は分からないんだ」→「面白かった。歴史はエンターテイメントやわ」
思ったのですが、豊臣家は武士になるのですか??昔に秀吉は農民の出身だから、秀頼も将軍にはなれないと聞いたことがあります!その辺はどうなのでしょうか??
大坂城、信長がその立地で散々苦戦した石山本願寺の跡地な上に、小田原の総構えを参考にして作られているから難攻不落なんだよね。唯一の弱点が南側で、そこに真田丸が作られた。
慶長伏見大地震で秀吉は方広寺の大仏を銅製じゃなく工期に拘って木造にしたのが災いしてしまって、更にその大仏が破損して秀吉が激怒「自分の身すら守れない仏が人を守れるわけがない!そんな役立たずの仏は壊してしまえ!!」と破壊してしまったんですよね…(宣教師ゴメスの書簡曰く)方広寺問題は鐘はあくまでサブにすぎないってのが面倒なところ…→他にも棟札の未記入問題(ひいては大工の感状に関わる)、豊臣家による急な式典の日程統一希望と、それに伴う宗派の席次問題(真言宗の仁和寺が大仏開眼供養の上座→堂供養も同日になると天台宗が下座のまま続行することに 天台宗の僧らが激怒して不参加表明)でややこしくなってしまった…
今日も楽しい解説ありがとうございます😁ドラマでは柿が落ちるまで待てばよかったのに茶々さんがいらないこと言うから・・・大野治長さんの顔が”茶々様それは無理ですよ”ていう顔に見えたのは気のせい?😅史実の方でも諸大名の味方無しに浪人だけでなんとかなると思っていたのか不思議🤔🤔🤔
徳川との武力衝突を互角・優勢に進めていけば、ちょっと前まであれだけ年始の挨拶に来てた恩顧の大名たちが寝返ってくれるだろう、そうなれば天下の形勢は豊臣に傾く……そんな思惑があったのかもしれませんね。また豊臣家には秀吉以来の蓄財がまだまだ健在でしたし、関ケ原以来の浪人たちは巷にあふれてたので兵士の当てはあったんでしょう。後藤又兵衛・長宗我部盛親などの兵を率いることができる将も味方にできそうとだ楽観していたのかもしれません。家康さんにしてみれば、平和を望まない者たちを大阪に集めて一網打尽にできるチャンスだったかもしれませんけどね
清韓は南禅寺本体で、崇伝は南禅寺の塔頭の金地院ですよね。金地院は鷹峯から移設したらしいが鐘銘事件のときにはすでに南禅寺敷地内にありますね。(地下鉄東西線蹴上(けあげ)駅から南進してインクラインの下「ねじりまんぼ」を通って左にあります)今思えば、南禅寺内の勢力争い見たいな側面もあったのかもしれませんね
質問です! 以前のお沙汰で、日本馬のルーツはモウコノウマだという話がありましたが、日本猫はどうだったのでしょうか?(=^・ω・^=) 江戸期には庶民文化の中にも度々登場しているので現代の飼猫・野良猫と大差ないように思われますが、先週の大河ドラマの中で豊臣家で猫を可愛がっていたので上流階級が飼う「珍獣」扱いだったのでしょうか?
真田丸では鎌倉殿の三善殿を演じた小林さんでしたね。
「淀殿の御座所はどこじゃ?大砲はそこを外して撃つゆえ教えてくれぬか?」と囁く内野家康を思い出す。
今回、茶々さん、超怖くて…💦鐘の文のとこも、なんか茶々の思いだけで呪える感じが…💦あ〜千姫が かわいそう😢
徳川方は、いちゃもんを付けた梵鐘をなぜ破壊しなかったのでしょうか?そのままの形で残したことに意味があるのでしょうか?残すなら鐘銘を書き換えることもできたはず、梵鐘そのものを作り変えることもできたのでは?
ちょっと気になったので質問したいのですが…「大阪城に牢人が集まって…」という「牢人」は「浪人とは違うのでしょうか?」「ろうにん」と聞くと「浪人」という字を思いつくことが多いと思いますが。教えていただけると嬉しいです。
片桐かつもとと、大蔵卿の局は共に家康の元へ行ったんですね。ははあ、なるほど。秀吉の弟、秀長が渾身の力をもって築いた大和郡山に行く方法もあったのに。豊臣には人物がいなかったのが滅亡の始まりですね。いくらお金持ちでも、浪人とその家族も大阪城に入れたらあかんですわ。悲劇の始まりです。大阪の陣の屏風絵の左側が悲惨ですよね。戦には女人がついていき、兵士の世話をして、米、味噌を貰い、赤子が出来たら隣の娘と赤子を殺しあう、ブラックな面もあります。家康公は戦のない世を作った事は偉人と言わざるを得ません。
方広寺の梵鐘はその後どうなったのでしょうか。呪詛とイチャモンを付けておきながら江戸時代ずーっと放置してたの?
歴史探偵では、最近は秀頼が仕掛けた説もあるらしいと言ってました。どうなんでしょうね。無謀なような気がします。
私もその回を見て半信半疑でした。大坂側から仕掛けるメリットあるのかな~、と…。でも大河ドラマで採用されていてびっくりw事前に下書きのやり取りまでしてたのに、イチャモン・言い訳の応酬をしているあたり、案外どっちもこの頃にはやる気満々だったのかもw
「真田丸」では」片桐さんストレスで胃を痛めててかわいそうだった記憶
家康のような狡猾で先の見通しもある相手に接する時に、自分の論理を押し通し、上から目線で物事を処そうとしても無理ですね。受け入れ難い条件でも、その中で選択できる最も抵抗感のないものを選ぶべきであり、片桐且元もおそらくそう説得したと思います。しかし、自身の家柄、血統に深い自負があり息子を天下人にすることに固執してしまい、淀殿は自滅してしまったように感じます。この三条件の中では、人質として江戸に向かうのであれば、他のものより可能だろうと思います。前田利家の妻まつも同様に出向いているのですから、大大名の母親といえど例外はないと知るべきでした。彼女が家康の幼少期の人質生活を知っていれば、彼自身も決して楽して今の地位に付いたとは思わなかったでしょう。淀殿は、めぐり合わせが悪いことは確かですが、その悪い方へと向かう流れを変えることはできたはずです。大阪冬夏の陣では、もっと早い段階で柔軟に対応していたら、息子も死ぬ必要はなかった。運が悪いとよく言いますが、運は待っているだけではなく、見極める瞬間と掴み取る必要があります。
家康は狡猾ではない!織田家を乗っ取った藤吉郎が謀反者なのだ!
問題の銘文の部分だけ白く囲ってあるのは初めからですか?それとも後の人が囲っちゃったのかな?
おはようございます☀️🙋♀️❗ドラマの終盤にナレーションの寺島忍さんが出る予想、大当たりでしたね(^O^)🎉👍️⤴️ドラマの本編とは全く関係の無いショーも無い質問何ですが、家光君が書いた絵の中に、何か不思議な、上手いのか下手なのか、分からないうさぎのような🐰人のような('_'?)絵があるのですが、あれは何の絵でしょうか?調べたけれど分かりませんでした。家光君は絵を習っていたそうですが……グラフィックデザイナーのラットちゃん、くーさんはどう思われますか?本当にこんな質問してすみません😅何時でも良いので、もしお時間の空いた時が有りましたら宜しくお願いいたします(^人^)大河もいよいよ後数話ですね……淋しいです😢
ウサギの絵です。家光君の絵はヘタウマで有名ですw
早速のお返事有り難うございます!嬉しいです(^○^)💖やっぱり🐰ヘタウマ確かに、でも習ってらしたんですよね!先生もさぞやりにくかったことかと……大河も後少しですね、淋しいです😂😂😂有り難うございました(^.^)(-.-)(__)❤
信長の野望新生withパワーアップキットプレイ配信とかどうですか? ちょうど、大坂の陣シナリオありますし
大野治長、大野治房、大野治胤の兄弟話もお願いします😊
歴史にもしも、は無いのですが、もし、戦いで豊臣方が勝っていたら、徳川家康は処刑されたのかなぁ、とか考えてしまいます。きりゅうさんはどう思いますか?
大坂の陣で豊臣方は多くの牢人たちを抱えていた…とよく紹介されますが、この牢人たちの多くは関ヶ原の戦後処理で牢人となった武士たちですよね。彼らを豊臣の家臣として召し抱えなかったのはなぜなのでしょうか?一応、征夷大将軍が改易した結果牢人になった武士たちを征夷大将軍に刃向かう状態とはいえ、勝手に召し抱えることはできなかった?大坂の陣での働きを見てから相応の禄を与えるつもりだった?狡猾な家康に豊臣の財力が削られてしまっていて(方広寺の大仏建立も、秀頼が「父の遺志を継ぐ!」と発起した説と、豊臣の金蔵をガラガラにするために家康が「秀吉のねんがんだった大仏をもう1回作りましょうよ♪」とけしかけた説もありますよね?)、新たに召し抱えるだけの財力が残っていなかった?それとも、牢人たちが「おれたちゃ暴れたいだけだ。もう人に仕えるなんてこりごり」と脳筋状態で豊臣の威光そっちのけだった?昔からの疑問です。
財力はあったけど、土地がなかったんですよね。
名より実を取ればね・・。銀河英雄伝説でオーベルシュタインが「生きていれば、復讐戦の機会もあるだろうに」みたいな言葉を言ってたはずです。豊臣陣に、そういうオーベルシュタイン的な、本多正信的な人物がいないから・・・
方広寺の鐘に付いて質問( ・ω・)∩シツモーンと思っていたのですが、きっと、きりゅう先生が話して下さると思っていました❗嬉しい(^o^)私も昔はイチャモン説の方をよく聞きましたが、最近はこれはとても失礼な事なので、うっかりこの銘文が鐘に彫られたとは思いにくいとも思います。片桐且元を信じなかったのは茶々様痛い失敗なのでは😨💦ゆうくん、声の出演有り難う😸😸😸今日はラットちゃんの眼鏡が無~い👓✨✨✨👍💖
さあ、真田が立ちはだかるぞ、どうする家康。
豊臣家が徳川に申し開きするようになった時点で豊臣家は終わっていたんでしょうね。😢
質問です。牢人ってどうやって集めたんですか?
お金ですw
歴史にifはないと言われますが、確かに起きたことは変えられませんが、ifを考えることによって現在に生かすことはできますよね。てか、歴史を学ぶ最大の意義はここにありますよね
最近では、方広寺鐘銘事件より大阪城に牢人が多数集まり世相が不穏だったので、徳川はそれを危惧しこの鐘銘事件を利用して、豊臣家を滅ぼそうと大阪の陣に至ったという説が、有力だそうですね。何よりも残念なのは、大野治長の去就です。片桐且元は彼を高く評価し自分の後継の立場にと望んでいたのに、その且元と最終的に対立してしまったことです。何とか彼と連携して淀殿を説得していれば、豊臣家は一家臣としてではあっても生き残れたでしょう。でも、乳兄妹として常に淀殿と共に生きて来た治長には、恋愛感情の有無とは別に、豊臣家が天下を治める形で存続させなければ意味がない!という固い信念があったのかもしれません。且元と治長が協調して説得しても、淀殿は納得しなかったかもしれませんが、少なく且元はそのまま大阪城に残れたので、あれほど悲惨な結末は避けられたような気がします。
それ考えると、織田家の一部は上手く生き残ったなと思いました。
片桐に外交も内政も一手に担って権力が集中したせいで木村達若手の嫉妬の対象になって、とうとう一番欠いてはいけない人物を追放してしまい、秀吉寄り疑惑あった三家老を斬った信雄と同じ展開になるという皮肉→取次(外交官)に危害を加える=その大名への宣戦布告と同義と捉えられる関ヶ原以降、豊臣方では片桐や淀殿の親戚勢力(大野や織田有楽)が台頭してるけど、この中でかつての奉行が担っていた職務を代行する力量があったのは片桐しかいない層の薄さも如実だったというか東国界隈では諱はガチで重い概念とか、宗派の席次は慎重に扱えとかの最低限の教養備わってる+片桐の負担減らす人いたらこうはならなかったはず…
幕府設立あたりから、三河家臣団以外にも多くのブレーンをかかえるようになり、ま家康も以前とはどんどん変わっていったような気がする。石川数正と同じように片桐且元も豊臣を保護するために家康の元に走ったかもしれない。
でも、やっぱりいちゃもんだよね~😅😅😅
豊臣家は摂関家,つまり公家ですから武家の事は知ったこっちゃありません!と言う態度を秀頼くんが取っていたら,どうなっていたでしょうね.秀頼君の官位は正二位ですから大名ってわけにも行かないでしょう.
イチャモンですよね ヤクザが工事現場にきて金をせびるのと変わらない 「なんでこんなおっソロしい文言書いとるねん あーん」
鐘銘事件、そして冬の陣へ。解説ありがとうございました🙏❣️
ドラマでの二条城のシーンは、ドキドキしました。家康と秀頼の一悶着😮‼️ 鐘銘事件も有名ですが、きりゅうさんの解説、ありがたい🤗次回、冬の陣の解説とても楽しみにしています。
以前の動画で方広寺鐘銘事件について質問した者です。大変勉強になりました。ありがとうございました。
ニコニコなみなさんのオープニングにほっこりしました❤
今日も勉強させてもらいました。ありがとうございました😊
あ、きりゅうさん家で鳴いてたのか。うちの猫にゴハンを用意してしまった😂
鐘銘の難癖?については、生き残れる道をいく通りも用意して何とか、、、と思った温情を何度も無視されてとうとう家康の堪忍袋の緒も切れたのかと思ってます。理由とトリモチはどこにでも引っ付くってヤツ、、、
こうと決めた権力者を止める者はいない。物事が転び始めると止められないから、その前に対処しなきゃ行けないのにね。
茶々は母や父、義父の死に方を見てきてるはずなのに、そこから得た教訓が「生き残るための方策」ではなくて「誇りある死、栄えある滅び」だけだったのかと思うと、、、
辛い人生だったんだろうな。
しんどくなってから言っておられた「楽しく行きましょう」真似してみます。
私も笑ったり、Hなことを考えたりしていましたが、声に出します。😊
思い出話っぽくなりますが、真田丸の片桐且元さんが良い人過ぎて切なかったことを思い出しました。現代の実社会でも間に入っちゃうとそういうことあるよなぁって。敵に乗り込んであっちからそう言われ、それを伝令すれば身内のこっちからはこう言われ・・。真田丸では且元さんが勝手に条件を考えてしまったように描かれましたが、学説も色々出てる中で改めてそれを採用するか従来でいくか。その辺もドラマとしてどう作っていくのかってことをすごく興味深く動画を楽しませてもらいました。これからも応援してます、ありがとうございました。
今回も解説ありがとうございます。
片桐且元は本当に可哀そうな立場ですね、取次に奔走した挙句に味方から内応を疑われて出奔とは…おや、何処かで聞いたような?
文英清韓の言い分、確かになんで最初に草案見せながら言わなかったんでしょうね。時々ある幸運のおまじないのルールみたいに、仕込んでることが知られない事で効果が出る、とかだったんでしょうか。いや、苦しいか。
ドラマで信繁が九度山を出できたっぽい演出があったので、もう出たの?早いんじゃない?と思いましたが、鐘銘事件より早くから兵糧と浪人を集めてたとわかって納得でした!
どうする家康でも、ほうこうじ鐘事件やってましたね、淀さんも、思わずキレてしまって大阪の陣のフラグだったかな?ますます面白い展開に、ハラハラしながら、来週もどうする家康を絶対に観よう。さあ楽しみじゃあ🐯家康さんも、タヌキ家康さんになりましたね🐰
織田信雄は、反豊臣・徳川に利用されることもなく、才能がないおかげで生き延びれた訳だから、一周回って豊臣秀頼よりも賢かった気がしてきました😅
@user-yu2dv8ur1q
それは本当に同意。
判りやすくするためにそう書きましたが、最近では見直す説もありますね。
ラットさんナイスアシスト!どうするの予告編見たら真田丸やるみたいですよきりゅうさん!
鐘銘を考えたお坊さんも当然それを認めた大坂方も~意図はどこにあったか?は諸説ありでしょうが・・・少なくとも不注意の誹りは免れませんね!そうじゃなかったらもう挑発しかない😅
そこで疑問があります。そもそも鐘は何故現在まで残って伝えられているのでしょうか?鋳潰し・破却等を命じられてもおかしくないのに・・・と思いました。
夕飯どきにいつも聞いてます。ちょうどいい!
茶々のあの抗戦的な態度、イヤー さっすが信長さんの姪っ子‼️っておもいました。天下は、自分が取るって言い切ってましたもんね。
片桐且元、かつての石川数正を感じます。
wikiにも片桐且元と大藏卿局は一緒に面会して一緒に帰坂した説が有力ってありますね
なるほど、最近だとその説なのですねぇ🤔
「国家安康」「君臣豊楽」も有名ですが、「右僕射源朝臣家康公」 も、「右僕」を無視して「源朝臣家康公を射る」といちゃもんつけられてましたね。わりとこっちの方が直接的な気がするんですけどねえ
家康が重要視してたのは方広寺の件よりも牢人の方を危険視していたという話もありますね。
家康よりも秀忠の方が強硬派で豊臣家を潰したかったという説も聞いた事があります。
徳川家康「この銘文、儂が書かせたんじゃからええで」
徳川秀忠「国家安康、君臣豊楽とはゆるせぬ」
徳川家康「それより、浪人雇い城改修は戦の準備かぇ?」
徳川家康「戦いたいなら、ええで」
秀吉・秀頼親子が2代にわたり京都方広寺に巨大な大仏殿を築いたおかげで日本国内の巨木を伐採しつくし、宝永年間に東大寺大仏殿を再建時には、奈良時代・鎌倉時代の大仏殿に比べて小さな大仏殿しか作れなかったんですよね。
方広寺の鐘銘を見た時の茶々の表情から、大阪方から仕掛けた様に感じられ、面白いなぁと思いました。茶々達は本気で勝てると思ってたんでしょうかね?あの状況で豊臣が軍事的に徳川に勝てる道筋はたてられないと思うのですが?まぁ、結果を知っているから言える事かもしれませんが。
こんばんは。「国家安康」よりも「君臣豊楽」のほうが上に刻まれているといちゃもんつけることもできるなと思いました😜
それも~当然ありですよね!目上・格上を下に置いては普通に失礼。現代も手紙書く時に皆、注意している。逆に豊臣が上なのだ!と主張している・・・
@@ケンケン-g8gさま
ケンケンさん、こんばんは😊ですよねぇ🙌
位置も意図的なのかなと思うと、いちゃもん説が有効だし、鐘を作った人(刻んだ人)?の豊臣贔屓説も考えられますね😃
共感と補足ありがとうございました😊
@@momopopo. いいえ~。各コメントに色々なご意見が出ていて⇒成程!ですね😃本田正純は片桐且元に「鐘銘?そんなもの削り取れば良い。問題ではない!」と言ったとか・・・本音かどうかは分かりませんが😁
そんなに問題になった鐘がいまだに残っているのは何故でしょう。それとも今の鐘は復刻版?
なんか意図的に囲われてるのも謎ですね。
家康がそんなもの残すのかなって思ってしまいます。
鐘の文よりも大仏開眼供養と堂供養を同日に挙行しよう!!ってのが問題だったみたいです 本来はそれぞれの式典で天台宗と真言宗がそれぞれ上座担当だったけど、同日となるとどっちの宗派が「上座」になるんや!?ってのが論争になって、その最中に棟札の未記入問題(大工の建築証明書に施工者の大工棟梁の中井さんの名前が無い!という実質給与未払い訴訟)、鐘問題が出てしまった『本光国師日記』では「国家安康」「君臣豊楽」よりも御諱の書入れ自体が非常識じゃね?が争点だったそうですby考証の平山先生
@@フォード-i1wさん
資料提供の市橋先生もおっしゃってました。
きりゅうさん、年号、年をすっごく良く覚えていらっしゃいますが、覚え方とかあるんですか?もし、覚え方が有るなら、教えて下さい😊
動画を面白かったです。
「なんていちゃもんや」→「あれ、家康側にも一理ある?」→「まさかうっかりではないよね…」→「え、下書き貰ってたの?」→「真実は分からないんだ」→「面白かった。歴史はエンターテイメントやわ」
思ったのですが、豊臣家は武士になるのですか??
昔に秀吉は農民の出身だから、秀頼も将軍にはなれないと聞いたことがあります!
その辺はどうなのでしょうか??
大坂城、信長がその立地で散々苦戦した石山本願寺の跡地な上に、小田原の総構えを参考にして作られているから難攻不落なんだよね。唯一の弱点が南側で、そこに真田丸が作られた。
慶長伏見大地震で秀吉は方広寺の大仏を銅製じゃなく工期に拘って木造にしたのが災いしてしまって、更にその大仏が破損して秀吉が激怒「自分の身すら守れない仏が人を守れるわけがない!そんな役立たずの仏は壊してしまえ!!」と破壊してしまったんですよね…(宣教師ゴメスの書簡曰く)
方広寺問題は鐘はあくまでサブにすぎないってのが面倒なところ…→他にも棟札の未記入問題(ひいては大工の感状に関わる)、豊臣家による急な式典の日程統一希望と、それに伴う宗派の席次問題(真言宗の仁和寺が大仏開眼供養の上座→堂供養も同日になると天台宗が下座のまま続行することに 天台宗の僧らが激怒して不参加表明)でややこしくなってしまった…
今日も楽しい解説ありがとうございます😁ドラマでは柿が落ちるまで待てばよかったのに茶々さんがいらないこと言うから・・・大野治長さんの顔が”茶々様それは無理ですよ”ていう顔に見えたのは気のせい?😅
史実の方でも諸大名の味方無しに浪人だけでなんとかなると思っていたのか不思議🤔🤔🤔
徳川との武力衝突を互角・優勢に進めていけば、ちょっと前まであれだけ年始の挨拶に来てた恩顧の大名たちが寝返ってくれるだろう、そうなれば天下の形勢は豊臣に傾く……そんな思惑があったのかもしれませんね。また豊臣家には秀吉以来の蓄財がまだまだ健在でしたし、関ケ原以来の浪人たちは巷にあふれてたので兵士の当てはあったんでしょう。後藤又兵衛・長宗我部盛親などの兵を率いることができる将も味方にできそうとだ楽観していたのかもしれません。
家康さんにしてみれば、平和を望まない者たちを大阪に集めて一網打尽にできるチャンスだったかもしれませんけどね
清韓は南禅寺本体で、崇伝は南禅寺の塔頭の金地院ですよね。金地院は鷹峯から移設したらしいが鐘銘事件のときにはすでに南禅寺敷地内にありますね。(地下鉄東西線蹴上(けあげ)駅から南進してインクラインの下「ねじりまんぼ」を通って左にあります)今思えば、南禅寺内の勢力争い見たいな側面もあったのかもしれませんね
質問です! 以前のお沙汰で、日本馬のルーツはモウコノウマだという話がありましたが、日本猫はどうだったのでしょうか?(=^・ω・^=) 江戸期には庶民文化の中にも度々登場しているので現代の飼猫・野良猫と大差ないように思われますが、先週の大河ドラマの中で豊臣家で猫を可愛がっていたので上流階級が飼う「珍獣」扱いだったのでしょうか?
真田丸では鎌倉殿の三善殿を演じた小林さんでしたね。
「淀殿の御座所はどこじゃ?大砲はそこを外して撃つゆえ教えてくれぬか?」と囁く内野家康を思い出す。
今回、茶々さん、超怖くて…💦
鐘の文のとこも、なんか茶々の思いだけで呪える感じが…💦
あ〜千姫が かわいそう😢
徳川方は、いちゃもんを付けた梵鐘をなぜ破壊しなかったのでしょうか?
そのままの形で残したことに意味があるのでしょうか?
残すなら鐘銘を書き換えることもできたはず、梵鐘そのものを作り変えることもできたのでは?
ちょっと気になったので質問したいのですが…
「大阪城に牢人が集まって…」という「牢人」は「浪人とは違うのでしょうか?」
「ろうにん」と聞くと「浪人」という字を思いつくことが多いと思いますが。
教えていただけると嬉しいです。
片桐かつもとと、大蔵卿の局は共に家康の元へ行ったんですね。ははあ、なるほど。秀吉の弟、秀長が渾身の力をもって築いた大和郡山に行く方法もあったのに。豊臣には人物がいなかったのが滅亡の始まりですね。いくらお金持ちでも、浪人とその家族も大阪城に入れたらあかんですわ。悲劇の始まりです。大阪の陣の屏風絵の左側が悲惨ですよね。戦には女人がついていき、兵士の世話をして、米、味噌を貰い、赤子が出来たら隣の娘と赤子を殺しあう、ブラックな面もあります。家康公は戦のない世を作った事は偉人と言わざるを得ません。
方広寺の梵鐘はその後どうなったのでしょうか。呪詛とイチャモンを付けておきながら江戸時代ずーっと放置してたの?
歴史探偵では、最近は秀頼が仕掛けた説もあるらしいと言ってました。どうなんでしょうね。無謀なような気がします。
私もその回を見て半信半疑でした。大坂側から仕掛けるメリットあるのかな~、と…。でも大河ドラマで採用されていてびっくりw
事前に下書きのやり取りまでしてたのに、イチャモン・言い訳の応酬をしているあたり、案外どっちもこの頃にはやる気満々だったのかもw
「真田丸」では」片桐さんストレスで胃を痛めててかわいそうだった記憶
家康のような狡猾で先の見通しもある相手に接する時に、自分の論理を押し通し、上から目線で物事を処そうとしても無理ですね。受け入れ難い条件でも、その中で選択できる最も抵抗感のないものを選ぶべきであり、片桐且元もおそらくそう説得したと思います。しかし、自身の家柄、血統に深い自負があり息子を天下人にすることに固執してしまい、淀殿は自滅してしまったように感じます。この三条件の中では、人質として江戸に向かうのであれば、他のものより可能だろうと思います。前田利家の妻まつも同様に出向いているのですから、大大名の母親といえど例外はないと知るべきでした。彼女が家康の幼少期の人質生活を知っていれば、彼自身も決して楽して今の地位に付いたとは思わなかったでしょう。淀殿は、めぐり合わせが悪いことは確かですが、その悪い方へと向かう流れを変えることはできたはずです。大阪冬夏の陣では、もっと早い段階で柔軟に対応していたら、息子も死ぬ必要はなかった。運が悪いとよく言いますが、運は待っているだけではなく、見極める瞬間と掴み取る必要があります。
家康は狡猾ではない!
織田家を乗っ取った藤吉郎が謀反者なのだ!
問題の銘文の部分だけ白く囲ってあるのは初めからですか?それとも後の人が囲っちゃったのかな?
おはようございます☀️🙋♀️❗ドラマの終盤にナレーションの寺島忍さんが出る予想、大当たりでしたね(^O^)🎉👍️⤴️
ドラマの本編とは全く関係の無いショーも無い質問何ですが、家光君が書いた絵の中に、何か不思議な、上手いのか下手なのか、分からないうさぎのような🐰人のような('_'?)絵があるのですが、あれは何の絵でしょうか?調べたけれど分かりませんでした。家光君は絵を習っていたそうですが……グラフィックデザイナーのラットちゃん、くーさんはどう思われますか?
本当にこんな質問してすみません😅何時でも良いので、もしお時間の空いた時が有りましたら宜しくお願いいたします(^人^)大河もいよいよ後数話ですね……淋しいです😢
ウサギの絵です。家光君の絵はヘタウマで有名ですw
早速のお返事有り難うございます!嬉しいです(^○^)💖やっぱり🐰ヘタウマ確かに、でも習ってらしたんですよね!先生もさぞやりにくかったことかと……大河も後少しですね、淋しいです😂😂😂有り難うございました(^.^)(-.-)(__)❤
信長の野望新生withパワーアップキットプレイ配信とかどうですか? ちょうど、大坂の陣シナリオありますし
大野治長、大野治房、大野治胤の兄弟話もお願いします😊
歴史にもしも、は無いのですが、もし、戦いで豊臣方が勝っていたら、徳川家康は処刑されたのかなぁ、とか考えてしまいます。きりゅうさんはどう思いますか?
大坂の陣で豊臣方は多くの牢人たちを抱えていた…とよく紹介されますが、この牢人たちの多くは関ヶ原の戦後処理で牢人となった武士たちですよね。
彼らを豊臣の家臣として召し抱えなかったのはなぜなのでしょうか?
一応、征夷大将軍が改易した結果牢人になった武士たちを征夷大将軍に刃向かう状態とはいえ、勝手に召し抱えることはできなかった?
大坂の陣での働きを見てから相応の禄を与えるつもりだった?
狡猾な家康に豊臣の財力が削られてしまっていて(方広寺の大仏建立も、秀頼が「父の遺志を継ぐ!」と発起した説と、豊臣の金蔵をガラガラにするために家康が「秀吉のねんがんだった大仏をもう1回作りましょうよ♪」とけしかけた説もありますよね?)、新たに召し抱えるだけの財力が残っていなかった?
それとも、牢人たちが「おれたちゃ暴れたいだけだ。もう人に仕えるなんてこりごり」と脳筋状態で豊臣の威光そっちのけだった?
昔からの疑問です。
財力はあったけど、土地がなかったんですよね。
名より実を取ればね・・。銀河英雄伝説でオーベルシュタインが「生きていれば、復讐戦の機会もあるだろうに」みたいな言葉を言ってたはずです。豊臣陣に、そういうオーベルシュタイン的な、本多正信的な人物がいないから・・・
方広寺の鐘に付いて質問( ・ω・)∩シツモーンと思っていたのですが、きっと、きりゅう先生が話して下さると思っていました❗
嬉しい(^o^)
私も昔はイチャモン説の方をよく聞きましたが、最近はこれはとても失礼な事なので、うっかりこの銘文が鐘に彫られたとは思いにくいとも思います。
片桐且元を信じなかったのは茶々様痛い失敗なのでは😨💦
ゆうくん、声の出演有り難う😸😸😸
今日はラットちゃんの眼鏡が無~い👓✨✨✨👍💖
さあ、真田が立ちはだかるぞ、どうする家康。
豊臣家が徳川に申し開きするようになった時点で豊臣家は終わっていたんでしょうね。😢
質問です。牢人ってどうやって集めたんですか?
お金ですw
歴史にifはないと言われますが、確かに起きたことは変えられませんが、ifを考えることによって現在に生かすことはできますよね。てか、歴史を学ぶ最大の意義はここにありますよね
最近では、方広寺鐘銘事件より大阪城に牢人が多数集まり世相が不穏だったので、徳川はそれを危惧しこの鐘銘事件を利用して、豊臣家を滅ぼそうと大阪の陣に至ったという説が、有力だそうですね。
何よりも残念なのは、大野治長の去就です。片桐且元は彼を高く評価し自分の後継の立場にと望んでいたのに、その且元と最終的に対立してしまったことです。何とか彼と連携して淀殿を説得していれば、豊臣家は一家臣としてではあっても生き残れたでしょう。でも、乳兄妹として常に淀殿と共に生きて来た治長には、恋愛感情の有無とは別に、豊臣家が天下を治める形で存続させなければ意味がない!という固い信念があったのかもしれません。且元と治長が協調して説得しても、淀殿は納得しなかったかもしれませんが、少なく且元はそのまま大阪城に残れたので、あれほど悲惨な結末は避けられたような気がします。
それ考えると、織田家の一部は上手く生き残ったなと思いました。
片桐に外交も内政も一手に担って権力が集中したせいで木村達若手の嫉妬の対象になって、とうとう一番欠いてはいけない人物を追放してしまい、秀吉寄り疑惑あった三家老を斬った信雄と同じ展開になるという皮肉→取次(外交官)に危害を加える=その大名への宣戦布告と同義と捉えられる
関ヶ原以降、豊臣方では片桐や淀殿の親戚勢力(大野や織田有楽)が台頭してるけど、この中でかつての奉行が担っていた職務を代行する力量があったのは片桐しかいない層の薄さも如実だったというか東国界隈では諱はガチで重い概念とか、宗派の席次は慎重に扱えとかの最低限の教養備わってる+片桐の負担減らす人いたらこうはならなかったはず…
幕府設立あたりから、三河家臣団以外にも多くのブレーンを
かかえるようになり、ま家康も以前とはどんどん変わっていっ
たような気がする。
石川数正と同じように片桐且元も豊臣を保護するために家康
の元に走ったかもしれない。
でも、やっぱりいちゃもんだよね~😅😅😅
豊臣家は摂関家,つまり公家ですから武家の事は知ったこっちゃありません!
と言う態度を秀頼くんが取っていたら,どうなっていたでしょうね.秀頼君の官位は正二位ですから大名ってわけにも行かないでしょう.
イチャモンですよね ヤクザが工事現場にきて金をせびるのと変わらない 「なんでこんなおっソロしい文言書いとるねん あーん」