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ナンバースクールの良い校風が、大学の教養課程に継承されたのは素晴らしく感じました0:21 桜修館や武蔵、成蹊、成城、甲南は例外、それらは高校でも中学相当の尋常科でした桜修館は府立高校として開校後、第二次大戦を経て都立大附属へ移行、首都大発足など諸影響あり中等教育学校として再出発しました2:10 東大予備門より改組から約半世紀の間本郷にありましたが、帝大農学部と校地交換で駒場へ移転、その63年後に再統合されました3:08 かつての予科と本科みたいな立地です7:10 いずれも第二次大戦前からの医大が立地、地元高校から進学者がおられたはずです8:04 「藩候」ではなく「藩校」です
日本の古き良き時代の、若者の青春、の姿を思い起こします
岡山、熊本、金沢が名門とされるのは戦前の旧六医大を引き継いでることもあるのでこれについても取り上げて下さいね。
7:35~ 熊本の五高と鹿児島の七高の野球対抗戦の映画で七高寮歌「北辰斜め」を聞いたけど一高寮歌の次に好きになった。
七高寮歌「北辰斜め」は名曲ですね!歌詞も当時の高校生の気概が溢れていて鳥畑立つほど素晴らしいと思います!
@@小野間東平 さま、お褒め頂き有難うございます!
😄お褒め頂き有難うございます!
作家の井上靖に、第四高等学校の柔道部をモデルにした『北の海』という作品があります。作者の井上靖も同校柔道部の出身。旧制高校の雰囲気が味わえる名作です。
『しろばんば』『夏草冬濤』『北の海』が井上靖の自伝的三部作と言われてます。私はこの『北の海』を読んで何となく憧れて、結果的に金沢に入りました。相当昔の話です。当時、合格電報を申し込もうかと思いましたが、「ケンロクエンサクラサク オメデトウ カナザワ」ではなく「フユノノトノナミタカシ サイキキス カナザワ」が送られてきたらと考え、申し込めませんでした。懐かしい思い出です。『南下軍の歌』は昔の四校生の心意気を感じてとても好きです♪名曲だと思います。
@@t5000 洒落た合格電報ですね。私の時代は合格者番号一覧がそのまんま送られてきて味気なかったなぁ・・・今はネットで公開なのでそれすらもなくなりましたね。
大学入試とか全く関係ない社会人ですけど戦前の大学の歴史を知ってためになりました。
旧制高校はナンバースクール8校、ネームスクール19校を含め最終的には30数校です。その中では、第一高等学校と第三高等学校に優秀な学生が集中してしまい、結果、本来、他の高校を受験していれば楽々合格できたのに一高と三高を受けたばかりに不合格になってしまう者が多数生じたそうです。一人でも多くの優秀な学生を帝大に送りたい文部省は、こうした事態を回避するため、旧制高校を、一高をはじめとした第一班と三高をはじめとした第二班に分けて、それぞれの班から1校づつ受検可能とするなどの入試改革をしばしば行ったようです。ある本によれば、昭和初期には、東日本では、一高、浦和、水戸、二高(仙台)、静岡、西日本では、三高、六高(岡山)、姫路あたりが難しかったようです。また、旧制高校全体の入学定員と、帝大全体の入学定員は概ね同数で設定されていたようです。なので、一部の大学・学部に志願者が集中してしまい、その他の大学・学部では定員割れということもよく生じたようです。昭和初期のある年には、文系では、東大法・経済及び京大法のみ入学定員以上の志望者が集まり、東大文や京大経済・文ですら定員割れ、理系では、全帝大の医学部及び東大工・理のみ入学定員以上の志願者が集まったようです。もちろん、定員割れの学部は無試験で入学できたようです。
私も旧制高校から新制大学になった大学の卒業生ですが、私の恩師の多くに旧制高校から帝国大学へ進んだ人がいらっしゃいました。その恩師が言うには東北とか九州の秀才でも、下宿費用を捻出できない家庭の子弟は都会の東大とか京大でなく、地元の九大や東北大学に進学したと聞いています。旧制高校の定員と大学の定員はほぼ同じなので、どの大学でもで無試験で入学できたと聞いています。但し、人気の学部は競争入試があったそうですが。
四国にはないのはどうしてかな?
第四高等学校と書いて、だいしこうとうがっこう、と読むのが正式です。因みに、四高(しこう)の赤レンガの建物は、今は近代文学館としても使われてて、中に入ると四高に関する展示物がありますが、当時の学生のノートが展示されてて、めちゃくちゃレベルが高いことに驚かされます。間違いなく今の新制高等学校のレベルを遥かに超えてる感じです。小学校の頃、旧四高の校舎のある敷地で写生大会がありましたが、旧四高の校舎もとても美しい建物です。
そうですね! 昔の「4階」も「しかい」と読んでいたのと同じです。
まぁ分かりやすさ重視じゃないかな?
金沢大学は以前、キャンパスが全て金沢城の城内でした。城内がキャンパスになっているのは、世界中でドイツのハイデルベルク大学とここだけ と昔の金沢大生は自慢していました。そう言えば、東大の赤門もかつての加賀藩の江戸屋敷の門ですね。ナンバースクールと関係のないコメント失礼しました😅
そうですね。四高南下軍(しこうなんかぐん)という、当時の運動部が金沢から京都に南下して、三高に対抗する母校応援の概念(ググるといっぱい出て来ますので省略)もあったようです。鹿児島の七高もしちこうと読んだはずです。あと旧制高等学校は、高校と略さず、高等学校と言われた方が良いと思いますよ。(up主に対して)
1963年に金沢大学に入学した者です.下宿から毎日兼六園から石川門を通って,金沢城内の教養部に通学していました.四高(しこう)寮歌を日常的に歌っていました.懐かしいです.些事ながら,先の方も仰っているように,旧制高等学校は,高校と省略する事はなかったと思います.
四国にナンバースクール設置は、議論の俎上にも上がらなかったのかな。
旧制松本高校の校章には9本のラインが入ってました🥺
本来の第七高等学校は(旧制)松本高校(長野県松本市)だったらしいんですね。いろいろあって鹿児島に取られちゃいましたが。そして幻の「第九高等学校」の座を巡って新潟と争ったけど、結局松本高等学校という名前に落ち着いたらしいです。
旧制五高の「医学部」は長崎にあった...そして旧制三高の「医学部」は岡山にあった...後に「長崎医学専門学校」「岡山医学専門学校」として独立したが...とにかく政治的なのか行政的な問題なのか、新しく学校が設立される度に新しい学校令が創られるので、まさに切った貼ったの決定だったようだ.....
四高は西田幾多郎の出身校でしたね
旧制熊本高校は夏目漱石が英語教師として赴任したとこですよね?たしか
旧制第五高等学校ですね。今でも当時のグラウンド(武夫原、白雲原、東光原)のうち武夫原(ぶふげん)がキャンパス内にあります。当時は六高と並んでキャンパスの広さでは1、2を争っていたそうです。見学に行きましたが、確かに森木立に覆われた本当に美しいキャンパスですね。漱石、小泉八雲(ラフカディオハーン)、嘉納治五郎(講道館)らが校長や教官として在職していたそうです。
旧制高校とは言わず… 旧制高等学校と言い給え。同様に、生徒ではなく学生てある。
熊本大学はバス停がすぐ近くにあるからアクセス面ではいい所でもあるで。本数はあれやけど。
昔、岡山大出身の大蔵次官がいたが、まわりは大して騒ぐことはなかった。旧制六高に入ったあと新制岡山大になってしまったからだろう。東大を受け直すてもあったのかもしれないが、最後の世代は戦後の混乱の中。省内は六高出身者かというくらいの感覚だったのだろう。
小長啓一さんですか 吉永検事総長と同窓のスイマセンがそれなら通産省
昔は理学といえば東北大学でしたね。数学でいえば、grothendieckのtohoku paper等が有名です。金沢大学はいつだかに帝国大学化運動とかありましたよね。
山内さんの間違いを指摘します。まず4高(金沢)は「よん」ではなく「し」と読みます。7高(鹿児島)は造志館と呼ばれていました。ここで有名なのは「北進斜めに」という記念祭歌です。9高(名古屋)は創立後まもなくして第二次世界大戦終戦の為に歴史は数年です。数字の大きいナンバースクールよりも浦和や静岡といった旧制ネームスクールの方が東京帝大に行く優秀な人は多かったようです。因みに中曽根元総理は旧制静岡高等学校から東京帝国大学です。早稲田慶応等々の私大は予科(旧制高等学校)から入り専門部(大学)卒業というルートになっています。
9高はありませんよ 名古屋は8高です
戦前の大学予科、あるいは私立の旧制高校についての動画もお願いしたいです。
陸軍士官学校・海軍兵学校も、ですね。
松山とかにありそうな感じだけどなかったのか。
帝国大学は各地域(京城、台北を含む)を代表する都市に作られました。一方、旧制高校は帝国大学への進学課程(大学の教養部)に相当するため、各地に作られました。なので、北陸地方や中国地方に帝国大学が作られる予定だったとは思えません。最後の帝国大学である名古屋帝国大学さえ、昭和14年創立ですから、もし、北陸地方や中国地方に帝国大学が作られたとしても、かなり後(敗戦でなければ、昭和30年代以降かも)だったと思います。
ひゃーーー。お得な大学がばれちゃうじゃないですか。困るなぁ😅
金岡千広をなめるなってこと。
金沢、熊本、岡山、鹿児島は旧帝大でないからこそ伝統を誇る名門。
旧制五高は夏目漱石が英語を教えていたんですよね。
個人の感想ですが、熊本大学はとても美しい大学に大いに賛同します。私も複数の大学へいきましたが最も美しい大学だと思いました。熊本や金沢は城下町としても美しい街ですから当然と言えば当然ですが洗練された美意識が高い。熊本県民にその意識が薄く、あれが普通レベルとの勘違いは甚だ残念です。
旧制専門学校もお願いします🤲。
ナンバースクールや旧帝大は講道館柔道の立ち技、投げ技が主流になる前までは締め技、関節技を主たる攻撃技として強かった。
東北大学を馬鹿にしていることありあり。高校と言わないで高等学校と言って下さい。本当に無知な解説です。
第○高校という呼び方は昔リアルでしてたんでしょうか。フルに第○高等学校というか、略すなら○高と呼んでたイメージですが。四高はよんこうでなくしこうと呼んでたし、第四高等学校もだいしこうとうがっこう、ではなかっただろうか。
他の方も述べておられますが、先程から聞いていると気持ちが悪い響きですね。旧制第四高校は「だいよん」ではありませんよ。「だいしこうとうがっこう」です、旧制四高→「きゅうせいしこう」です。旧制七高も「だいなな」ではなく、「だいしちこうとうがっこうぞうしかん」「しちこう」です。第七高等学校造士館です。せっかく紹介されるなら名称くらいは正確にお願いします。 簡単といってますが、それは相対的であってナンバースクールは超エリート校でどこも簡単には入試突破できる学校ではありませんでした。当初は東大法学部(官僚養成)以外は各帝大に定員次第で空きがあればほぼ全員が無試験で進学出来ていました。いわば大学専門課程前にあった以前の教養部(東大は学部と一体の教養学部)でした。ちなみに、映画「北辰斜めに」(三国連太郎、緒形直人)が当時の七高と五高の対抗戦を通じての七高生らの姿を再現してくれてますね。
どこ出身かでは無く、何を学んだかでは?特に旧制ではスクールカラーが選択の基準だったのでは?
福岡に九州大ができたから、熊本より都会になったという話がありますね。
旧制高校は一から八までの「ナンバースクール」だけではなく、「浦和高校」とか「静岡高校」とか地名のついた高校も20ぐらいありました。(ナンバースクールより後にできた)。さらに旧制高校は国立だけでなく、東京府(都)立高校、大阪府立浪速高校などの公立高校や、成蹊・成城・武蔵・甲南などの私立高校もあり、高校ではなく北海道大学予科や学習院の中等過程修了で、帝国大学を受験することもできました。総理大臣になった宮沢喜一は私立の武蔵高校出身ですよ。戦前の帝国大学に進学できるのはナンバースクールだけだった、なんて戯言を言っていると笑われますよ。
おもしろいですね。明治政府による、名古屋冷遇は徳川権現様、戦国三武将の出生地ですからやむをえないといいますか。トヨタも徳川寄り企業です。北九州にある官営**製鉄所などとは根本が違うわけです。愛知が住みにくいのは外ずらと内ずらが違うからですが、明治政府の流れをくむ現政府に表面上でしかなびかず、うちでは権現様の教えを寡黙に貫き続け、バブルに踊らず負債がすくない、少子高齢化日本にあって衰退せず、トヨタ、デンソーなど次世代企業を輩出し続ける稀有な存在です。徳川家康おそるべし。
岡山大学出身なのですが岡山大学とゆうより旧制六校とゆうほうがカッコいいので人には旧制六校出身ですと言ってます。有名な人では阿倍晋三の父親で阿部晋太郎が旧制六校の出身です。
揚げ足取ってる訳じゃないけど、岡大出てる人でも「ゆう」って言うのかぁと思った。
六校→六高(ろっこう)ですね。帽子の徽章はたしか、大日本六高(だいにっぽんろっこう)がデザインされてたと聞いてます。伝統を引く岡山大学は名門ですね。
安倍晋三
ナンバースクールは学力順ではなく学区と設置順でしたよね。その後、学区が無くなりましたが。それから数字の付かない旧制高校はネームスクールなんて呼ばれたりしたようですが、ともかく旧制大学の定員より旧制高校の定員の方が少なかったようなので、当時の高校生は超エリートですね。大学に入学するには高校を出てる必要はあるけど、当時は複線型なので高校相当の教育機関からの受験も可能だった事から大学の定員の方が多くなってたようですがその後、定員を埋める為か、大学予科が設置される場合もあったようです。うーん旧制官立学校ってロマンが溢れてますね。
戦前も旧制一高→東京帝国大学がトップエリートの進路だったようですが、一高の次に東京帝大に入学者を送り込んでいたのは、意外にも東京のすぐ隣、旧制浦和高校だったらしいです。
@@csny0627 番町小学校-府立一中-一高-東大法科 がエリートでしたね
だいしです だいよんではありません
わたくし、一中です!
七帝戦になると東大は一高の寮歌を歌うし、東北大は二高の寮歌を歌うし、京都大は三高の寮歌を歌うし、名古屋大は八高の寮歌を歌う。北海道大、大阪大、九州大は残念な感じ。
ても、昔の旧制高校生は他校の寮歌もよく歌っていました。
都ぞ弥生!
@@kosei-cn5he 吾等が三年を契る絢爛のその饗宴は・・・
一 → 東大 二 → 東北大 三 → 京大 四 → 金沢大 五 → 熊本大 六 → 岡山大 七 → 鹿児島大 八 → 名古屋大
この人は歴史が正しくはわかってない。ナンバースクールは 明治に区割りした大学区の名称を使っている。一から七まで順番に作ったわけではないのじゃ。三高の設立が一番古い(大阪の舎密局)。四高や五高は、大藩であった前田藩、肥後藩が取ったのだ。七高も大藩であった薩摩藩が取ったのだ。福岡の黒田藩は弱藩だったからナンバースクールは無い。でも大藩の長州はなぜかナンバースクールがない、なぜ?岡山の六高は大藩があったのかな?三高の分校(三高医学部)が岡山に置かれた。広島には大藩がなかった。
岡山は池田藩だろ。
いいね
ナンバースクールの良い校風が、大学の教養課程に継承されたのは素晴らしく感じました
0:21 桜修館や武蔵、成蹊、成城、甲南は例外、それらは高校でも中学相当の尋常科でした
桜修館は府立高校として開校後、第二次大戦を経て都立大附属へ移行、首都大発足など諸影響あり中等教育学校として再出発しました
2:10 東大予備門より改組から約半世紀の間本郷にありましたが、帝大農学部と校地交換で駒場へ移転、その63年後に再統合されました
3:08 かつての予科と本科みたいな立地です
7:10 いずれも第二次大戦前からの医大が立地、地元高校から進学者がおられたはずです
8:04 「藩候」ではなく「藩校」です
日本の古き良き時代の、若者の青春、の姿を思い起こします
岡山、熊本、金沢が名門とされるのは戦前の旧六医大を引き継いでることもあるのでこれについても取り上げて下さいね。
7:35~ 熊本の五高と鹿児島の七高の野球対抗戦の映画で七高寮歌「北辰斜め」を聞いたけど一高寮歌の次に好きになった。
七高寮歌「北辰斜め」は名曲ですね!歌詞も当時の高校生の気概が溢れていて鳥畑立つほど素晴らしいと思います!
@@小野間東平 さま、お褒め頂き有難うございます!
😄お褒め頂き有難うございます!
作家の井上靖に、第四高等学校の柔道部をモデルにした『北の海』という作品があります。作者の井上靖も同校柔道部の出身。旧制高校の雰囲気が味わえる名作です。
『しろばんば』『夏草冬濤』『北の海』が井上靖の自伝的三部作と言われてます。私はこの『北の海』を読んで何となく憧れて、結果的に金沢に入りました。相当昔の話です。
当時、合格電報を申し込もうかと思いましたが、「ケンロクエンサクラサク オメデトウ カナザワ」ではなく「フユノノトノナミタカシ サイキキス カナザワ」が送られてきたらと考え、申し込めませんでした。懐かしい思い出です。
『南下軍の歌』は昔の四校生の心意気を感じてとても好きです♪名曲だと思います。
@@t5000
洒落た合格電報ですね。
私の時代は合格者番号一覧がそのまんま送られてきて味気なかったなぁ・・・
今はネットで公開なのでそれすらもなくなりましたね。
大学入試とか全く関係ない社会人ですけど
戦前の大学の歴史を知ってためになりました。
旧制高校はナンバースクール8校、ネームスクール19校を含め最終的には30数校です。その中では、第一高等学校と第三高等学校に優秀な学生が集中してしまい、結果、本来、他の高校を受験していれば楽々合格できたのに一高と三高を受けたばかりに不合格になってしまう者が多数生じたそうです。一人でも多くの優秀な学生を帝大に送りたい文部省は、こうした事態を回避するため、旧制高校を、一高をはじめとした第一班と三高をはじめとした第二班に分けて、それぞれの班から1校づつ受検可能とするなどの入試改革をしばしば行ったようです。ある本によれば、昭和初期には、東日本では、一高、浦和、水戸、二高(仙台)、静岡、西日本では、三高、六高(岡山)、姫路あたりが難しかったようです。
また、旧制高校全体の入学定員と、帝大全体の入学定員は概ね同数で設定されていたようです。なので、一部の大学・学部に志願者が集中してしまい、その他の大学・学部では定員割れということもよく生じたようです。昭和初期のある年には、文系では、東大法・経済及び京大法のみ入学定員以上の志望者が集まり、東大文や京大経済・文ですら定員割れ、理系では、全帝大の医学部及び東大工・理のみ入学定員以上の志願者が集まったようです。もちろん、定員割れの学部は無試験で入学できたようです。
私も旧制高校から新制大学になった大学の卒業生ですが、私の恩師の多くに旧制高校から帝国大学へ進んだ人がいらっしゃいました。その恩師が言うには東北とか九州の秀才でも、下宿費用を捻出できない家庭の子弟は都会の東大とか京大でなく、地元の九大や東北大学に進学したと聞いています。
旧制高校の定員と大学の定員はほぼ同じなので、どの大学でもで無試験で入学できたと聞いています。但し、人気の学部は競争入試があったそうですが。
四国にはないのはどうしてかな?
第四高等学校と書いて、だいしこうとうがっこう、と読むのが正式です。
因みに、四高(しこう)の赤レンガの建物は、今は近代文学館としても使われてて、中に入ると四高に関する展示物がありますが、当時の学生のノートが展示されてて、めちゃくちゃレベルが高いことに驚かされます。間違いなく今の新制高等学校のレベルを遥かに超えてる感じです。
小学校の頃、旧四高の校舎のある敷地で写生大会がありましたが、旧四高の校舎もとても美しい建物です。
そうですね! 昔の「4階」も「しかい」と読んでいたのと同じです。
まぁ分かりやすさ重視じゃないかな?
金沢大学は以前、キャンパスが全て金沢城の城内でした。
城内がキャンパスになっているのは、世界中でドイツのハイデルベルク大学とここだけ と昔の金沢大生は自慢していました。
そう言えば、東大の赤門もかつての加賀藩の江戸屋敷の門ですね。
ナンバースクールと関係のないコメント失礼しました
😅
そうですね。四高南下軍(しこうなんかぐん)という、当時の運動部が金沢から京都に南下して、三高に対抗する母校応援の概念(ググるといっぱい出て来ますので省略)もあったようです。
鹿児島の七高もしちこうと読んだはずです。
あと旧制高等学校は、高校と略さず、高等学校と言われた方が良いと思いますよ。(up主に対して)
1963年に金沢大学に入学した者です.下宿から毎日兼六園から石川門を通って,金沢城内の教養部に通学していました.四高(しこう)寮歌を日常的に歌っていました.懐かしいです.
些事ながら,先の方も仰っているように,旧制高等学校は,高校と省略する事はなかったと思います.
四国にナンバースクール設置は、議論の俎上にも上がらなかったのかな。
旧制松本高校の校章には9本のラインが入ってました🥺
本来の第七高等学校は(旧制)松本高校(長野県松本市)だったらしいんですね。いろいろあって鹿児島に取られちゃいましたが。
そして幻の「第九高等学校」の座を巡って新潟と争ったけど、結局松本高等学校という名前に落ち着いたらしいです。
旧制五高の「医学部」は長崎にあった...そして旧制三高の「医学部」は岡山にあった...後に「長崎医学専門学校」「岡山医学専門学校」として独立したが...とにかく政治的なのか行政的な問題なのか、新しく学校が設立される度に新しい学校令が創られるので、まさに切った貼ったの決定だったようだ.....
四高は西田幾多郎の出身校でしたね
旧制熊本高校は夏目漱石が英語教師として赴任したとこですよね?たしか
旧制第五高等学校ですね。今でも当時のグラウンド(武夫原、白雲原、東光原)のうち武夫原(ぶふげん)がキャンパス内にあります。当時は六高と並んでキャンパスの広さでは1、2を争っていたそうです。見学に行きましたが、確かに森木立に覆われた本当に美しいキャンパスですね。漱石、小泉八雲(ラフカディオハーン)、嘉納治五郎(講道館)らが校長や教官として在職していたそうです。
旧制高校とは言わず… 旧制高等学校と言い給え。
同様に、生徒ではなく学生てある。
熊本大学はバス停がすぐ近くにあるからアクセス面ではいい所でもあるで。本数はあれやけど。
昔、岡山大出身の大蔵次官がいたが、まわりは大して騒ぐことはなかった。旧制六高に入ったあと新制岡山大になってしまったからだろう。東大を受け直すてもあったのかもしれないが、最後の世代は戦後の混乱の中。省内は六高出身者かというくらいの感覚だったのだろう。
小長啓一さんですか 吉永検事総長と同窓の
スイマセンがそれなら通産省
昔は理学といえば東北大学でしたね。数学でいえば、grothendieckのtohoku paper等が有名です。
金沢大学はいつだかに帝国大学化運動とかありましたよね。
山内さんの間違いを指摘します。まず4高(金沢)は「よん」ではなく「し」と読みます。7高(鹿児島)は造志館と呼ばれていました。ここで有名なのは「北進斜めに」という記念祭歌です。9高(名古屋)は創立後まもなくして第二次世界大戦終戦の為に歴史は数年です。数字の大きいナンバースクールよりも浦和や静岡といった旧制ネームスクールの方が東京帝大に行く優秀な人は多かったようです。因みに中曽根元総理は旧制静岡高等学校から東京帝国大学です。早稲田慶応等々の私大は予科(旧制高等学校)から入り専門部(大学)卒業というルートになっています。
9高はありませんよ 名古屋は8高です
戦前の大学予科、あるいは私立の旧制高校についての動画もお願いしたいです。
陸軍士官学校・海軍兵学校も、ですね。
松山とかにありそうな感じだけどなかったのか。
帝国大学は各地域(京城、台北を含む)を代表する都市に作られました。一方、旧制高校は帝国大学への進学課程(大学の教養部)に相当するため、各地に作られました。なので、北陸地方や中国地方に帝国大学が作られる予定だったとは思えません。最後の帝国大学である名古屋帝国大学さえ、昭和14年創立ですから、もし、北陸地方や中国地方に帝国大学が作られたとしても、かなり後(敗戦でなければ、昭和30年代以降かも)だったと思います。
ひゃーーー。お得な大学がばれちゃうじゃないですか。困るなぁ😅
金岡千広をなめるなってこと。
金沢、熊本、岡山、鹿児島は旧帝大でないからこそ伝統を誇る名門。
旧制五高は夏目漱石が英語を教えていたんですよね。
個人の感想ですが、熊本大学はとても美しい大学に大いに賛同します。私も複数の大学へいきましたが最も美しい大学だと思いました。熊本や金沢は城下町としても美しい街ですから当然と言えば当然ですが洗練された美意識が高い。熊本県民にその意識が薄く、あれが普通レベルとの勘違いは甚だ残念です。
旧制専門学校もお願いします🤲。
ナンバースクールや旧帝大は講道館柔道の立ち技、投げ技が主流になる前までは締め技、関節技を主たる攻撃技として強かった。
東北大学を馬鹿にしていることありあり。高校と言わないで高等学校と言って下さい。本当に無知な解説です。
第○高校という呼び方は昔リアルでしてたんでしょうか。フルに第○高等学校というか、略すなら○高と呼んでたイメージですが。
四高はよんこうでなくしこうと呼んでたし、第四高等学校もだいしこうとうがっこう、ではなかっただろうか。
他の方も述べておられますが、先程から聞いていると気持ちが悪い響きですね。旧制第四高校は「だいよん」ではありませんよ。「だいしこうとうがっこう」です、旧制四高→「きゅうせいしこう」です。
旧制七高も「だいなな」ではなく、「だいしちこうとうがっこうぞうしかん」「しちこう」です。第七高等学校造士館です。
せっかく紹介されるなら名称くらいは正確にお願いします。 簡単といってますが、それは相対的であってナンバースクールは超エリート校でどこも簡単には入試突破できる学校ではありませんでした。当初は東大法学部(官僚養成)以外は各帝大に定員次第で空きがあればほぼ全員が無試験で進学出来ていました。いわば大学専門課程前にあった以前の教養部(東大は学部と一体の教養学部)でした。ちなみに、映画「北辰斜めに」(三国連太郎、緒形直人)が当時の七高と五高の対抗戦を通じての七高生らの姿を再現してくれてますね。
どこ出身かでは無く、何を学んだかでは?特に旧制ではスクールカラーが選択の基準だったのでは?
福岡に九州大ができたから、熊本より都会になったという話がありますね。
旧制高校は一から八までの「ナンバースクール」だけではなく、「浦和高校」とか「静岡高校」とか地名のついた高校も20ぐらいありました。(ナンバースクールより後にできた)。さらに旧制高校は国立だけでなく、東京府(都)立高校、大阪府立浪速高校などの公立高校や、成蹊・成城・武蔵・甲南などの私立高校もあり、高校ではなく北海道大学予科や学習院の中等過程修了で、帝国大学を受験することもできました。
総理大臣になった宮沢喜一は私立の武蔵高校出身ですよ。
戦前の帝国大学に進学できるのはナンバースクールだけだった、なんて戯言を言っていると笑われますよ。
おもしろいですね。明治政府による、名古屋冷遇は徳川権現様、戦国三武将の出生地ですからやむをえないといいますか。トヨタも徳川寄り企業です。北九州にある官営**製鉄所などとは根本が違うわけです。愛知が住みにくいのは外ずらと内ずらが違うからですが、明治政府の流れをくむ現政府に表面上でしかなびかず、うちでは権現様の教えを寡黙に貫き続け、バブルに踊らず負債がすくない、少子高齢化日本にあって衰退せず、トヨタ、デンソーなど次世代企業を輩出し続ける稀有な存在です。徳川家康おそるべし。
岡山大学出身なのですが岡山大学とゆうより旧制六校とゆうほうがカッコいいので人には旧制六校出身ですと言ってます。有名な人では阿倍晋三の父親で阿部晋太郎が旧制六校の出身です。
揚げ足取ってる訳じゃないけど、岡大出てる人でも「ゆう」って言うのかぁと思った。
六校→六高(ろっこう)ですね。帽子の徽章はたしか、大日本六高(だいにっぽんろっこう)がデザインされてたと聞いてます。伝統を引く岡山大学は名門ですね。
安倍晋三
ナンバースクールは学力順ではなく学区と設置順でしたよね。その後、学区が無くなりましたが。
それから数字の付かない旧制高校はネームスクールなんて呼ばれたりしたようですが、ともかく旧制大学の定員より
旧制高校の定員の方が少なかったようなので、当時の高校生は超エリートですね。
大学に入学するには高校を出てる必要はあるけど、当時は複線型なので高校相当の教育機関からの受験も可能だった事から
大学の定員の方が多くなってたようですが
その後、定員を埋める為か、大学予科が設置される場合もあったようです。
うーん旧制官立学校ってロマンが溢れてますね。
戦前も旧制一高→東京帝国大学がトップエリートの進路だったようですが、一高の次に東京帝大に入学者を送り込んでいたのは、意外にも東京のすぐ隣、旧制浦和高校だったらしいです。
@@csny0627
番町小学校-府立一中-一高-東大法科 がエリートでしたね
だいしです だいよんではありません
わたくし、一中です!
七帝戦になると東大は一高の寮歌を歌うし、東北大は二高の寮歌を歌うし、京都大は三高の寮歌を歌うし、名古屋大は八高の寮歌を歌う。北海道大、大阪大、九州大は残念な感じ。
ても、昔の旧制高校生は他校の寮歌もよく歌っていました。
都ぞ弥生!
@@kosei-cn5he 吾等が三年を契る絢爛のその饗宴は・・・
一 → 東大 二 → 東北大 三 → 京大 四 → 金沢大 五 → 熊本大 六 → 岡山大 七 → 鹿児島大 八 → 名古屋大
この人は歴史が正しくはわかってない。ナンバースクールは 明治に区割りした大学区の名称を使っている。一から七まで順番に作ったわけではないのじゃ。三高の設立が一番古い(大阪の舎密局)。四高や五高は、大藩であった前田藩、肥後藩が取ったのだ。七高も大藩であった薩摩藩が取ったのだ。福岡の黒田藩は弱藩だったからナンバースクールは無い。でも大藩の長州はなぜかナンバースクールがない、なぜ?岡山の六高は大藩があったのかな?三高の分校(三高医学部)が岡山に置かれた。広島には大藩がなかった。
岡山は池田藩だろ。
いいね