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その時の自分に置かれている状況において、自分に出来る最良策を考え続け、実践し続けた結果が現代の真田幸村伝説になっている気がします。私はこの武将が好きです!近いのでよく安居神社にも行きますが、最後の戦いでの突撃等に想いを巡らせています。
一時のきらめき.......日本人の琴線に触れる生き方が幸村の名を後世に語り継がれる存在にしたね。真田家の故郷、真田町(現上田市)に行くとあんなに小さい集落からよく全国行ったな。と思います。
真田信繁が居た九度山は徳川の息がかかった者ばかりだったと言われてます。真田一族が逃げないように監視していたと伝わります。その為か九度山周辺には真田一族が逃げられる隠し穴が数多くあったとも言われますが最近の調査で穴はあるけど真田の抜け穴とは別物と判明したみたいですね。しかしながら大坂からの誘いがあった時は村人たち一丸となって大坂に無事に辿り着いて欲しいと願い監視役を煙に巻いたそうです。まさに真田一族の人徳ですよね。
めにあおばさん、いつもコメントありがとうございます!普段から民と仲良くされていた事がよくわかるエピソードです!!良いお話です!ありがとうございます!
幸村と大谷吉継が婚姻関係というのは知ってましたが、三成と血縁関係というのは知らなかったです!勉強になりました!!
六文銭一番好きな家紋
幸村さんが亡くなった後に、次男の真田(片倉) 守信が伊達家の家臣片倉氏の養子となりて、仙台真田氏の誕生しました。 幸村のお兄さんは確か90歳ぐらいまで長生きして余生を過ごしたそうです。
タナカさん、いつもコメントありがとうございます!あー!そうなんですね!情報ありがとうございます!
幸村を討った人が「最後まで抵抗激しく」って話を盛って怒られた事とか
幸村は後の伝記物から始まった?と言われているが、、最近、大阪の夏の陣で最後に本人が名乗ったとの新説が出てきてます。兄、信幸が→信之に変えた事で幸の字が無くなるのを危惧して信繁が幸村と名乗ったとの説です。
少数の兵で奪われた城を奪還→北条方五千が守る手子丸城を兵八百で奪還(しかも1日で!)
紀の川市で半年ほど仕事をしていた時、街道沿いに六文銭の幟が連なっていた事がありました。昼食にいつもの食堂で訊ねたら、「もうすぐ真田祭りやからして」と言われて六文銭は真田氏の旗印だったのを思い出しました。時間があったら高野街道に入って見物して、十勇士の扮装も見たかったけど。まだ駆け出しだったから来年にでも、と思って数十年経ちました。
一番下の娘には真田幸村の幸の音だけ拝借して命名しました(笑)
tottiさん、コメントありがとうございます!tottiさん、随分頑張りましたねwこうチャンですかね?どんだけ歴史好きなんですかwwありがとうございます!またチャンネルに遊びに来て下さいね!
義を重んじる…歴史に残る武将です。
真田の家紋の、6文銭の絵柄について。6文銭=三途の川の渡し賃。それにより、死を恐れない勇戦を表しているそうです。また、真田軍の武士は紐に通した6文銭を首から下げていたと聞いたことがあります。
高校生でよく知らなかったので、自分の先祖様について理解が深まって良かったです。
何県の人?
@@arsenie19 特定怖いので言いませんが、家紋が六文銭です。また、家系図もあります。
@@cooky.1683 実はうちも母方が松代の真田で、父方が真田の本家の○野で、うちは苗字は○野ですが家紋が昔は六文銭でした。今は家紋は結び雁金ですが。うちは親戚筋ではあるけど信繁の直系ではないし、他にも各地に歴とした子孫やとんでも論も含めて、末裔と言われている家系が多々ありますが、もしあなたが信繁の直系である宮城県の仙台真田家だったら凄いなと思って、もしくは長野だったら親戚だったりしてーとか思って、軽い気持ちでつい聞いてしまいました。すみません、他意はありません。
@@arsenie19 昌幸の長男真田伊豆守信之(信幸)そして二男真田左衛門佐信繁(幸村)、どちらの血筋も流れております。父方の祖母、祖父がどちらも真田の血筋で結婚されているためです。私も同じ長野です。この前長野駅の絵を書いた真田さんも実際家に来られました。
実は生きていた 島津が匿ったと島津家に伝わっている
氷見さん、コメント頂きありがとうございます!本当にそうであったらワクワクしますね!そうであって欲しいですw!また是非遊びにいらして下さいね!
やはり秀頼公も薩摩へ落ち延びた、と信じたいですね。関西勢からすれば。
大阪市の玉造に大助さんから16代目と称する方が居酒屋をされています 私もお会いして来ました 嘘を言っているようには思えませんでしたが秀頼さんも木下と改名してその末裔が今もいらっしゃるみたいです
安居神社、九度山、上田城に行ってやはり幸村は武士として有能であったにもか変わらず、残念です
昔、自分の通っていた中学校が上田城址公園まで(信号青なら)10秒で行けた。土曜日の午後は決まって、上田城のお堀周り10週(900m×10)をやらされたが、お堀の無い、西側の櫓の裏がサボりポイントで、よくそこで先生の目を盗んでサボってた。(搦手側だから)断崖の景勝地で、上田盆地から千曲川、その向こうの塩田平まで一望。そのころ第二次上田合戦は知っていたから、「この下に徳川軍4万か~」「怖っ」「でも農民も鎌持って戦ったんだよな」とか運動着パタパタしながら想い馳せてたな(笑)
johnさん、いつもコメント頂きありがとうございます!大河で真田丸が放送していた頃、上田城に行きましたwとても良い所でした!大手町門を入ってしばらくまっすぐ行き右手の方に広場がありその左側は断崖絶壁からの景色がとても綺麗でしたのを覚えております!今は広く運動場みたいな所に川が流れていたのですかね?また行きたいです!
@@mononofu3163 そうですね!右手は本丸跡で、その左手の断崖絶壁側に有るのが物見櫓だと思います。隣には真田神社があります。上道からも回れると思いますし、今は、簡単な普請で下の運動広場側からでも真田神社に上がれると思います。(この頃上田に帰って無いけど、下からは行けると思います。大きな駐車場もありますし)小学校の時、遠足で上田城に行った時、その櫓の裏の小さなスペースにクラスみんなを座らせて、先生が話してくれました。「あの頃(上田合戦当時)は、千曲川がそこまで来ていた」と、今バスケやスケボー等出来る運動広場(当時は多分空き地とか材木置き場だった気がする)を指して言ったけど、当時子供だった自分は、にわかには信じられなかったけど、色々調べるにつれ、灌漑がある程度整った近代以前は、大体日本のどの河川も今より流域面積が断然でかかったですもんね。まあ、堀の無い西側は、地の利を生かした、天然の強固な搦手だったんでしょうね。
ご返信ありがとうございます!あー、なにか情景が浮かんでくるようなw!とても良い思い出でしたのでまた行きたいですね!!
司馬遼太郎が家康と頼朝は天下太平を行ったが、裏切りが多く陰湿で日本人に好かれない。って書いてたが、全く持って全面同意。幸村はアンチ家康ヒーローでしょうね。
匿名希望Sazanamiさん司馬遼太郎は反日ですから話し半分に聞くべきですよ!
リメイク版、新ナレーションで聞き直すと新鮮です(´・ω・`)幸村は村正の使い手だったそうですが、名剣の次には、魔剣・妖刀の話も企画してそうですね♪
吉川さん、いつもコメントありがとうございます!これから消してしまった動画もリメイクしていきますので是非ご覧下さい!徳川に仇なす刀ですね!徳川打倒に燃えていたのでしょうね!妖刀など作ってみたいですねwまた遊びに来て下さい!
更に家康を討ち取る秘策が宿許筒。後一歩で討ち取れていたが残酷にも手元から落ちてしまった。イフですが、そこで家康を仕留めおけば倒幕していたかも。
入城したのは、子の方と聞いて安心したが、夏の陣で、散々追い回され自害を口走る程の思いを味わった家康。生きた心地しなかっただろう。
中西様、コメント頂きありがとうございます。馬印が倒されておっしっる通り生きた心地がしなかった思いますね!色々な動画でコメントありがとうございます!またチャンネルに遊びに来て下さい!宜しくお願い致します。
私は堺の出身ですがなぜか南宗寺に家康公の墓がありますね 秀忠公も家光公も何度も来ている事は事実のようですが
左衛門尉でしょうか?左衛門佐では無いんでしょうか?
実際毛利勝永の方が断然すごいのにゲームとかで美化しまくるからな幸村っていうの明治以降の名なんだよな
いや、幸村の名前は江戸時代にはすでに幸村呼びが定着してる。豊臣方の武将をそのまま讃えるわけにいかなかったから真田幸村という架空の武将扱いにして色々物語がつくられた。
冬の陣、夏の陣全体で見れば信繁のが活躍してますよ真田丸でも描かれてましたけど信繁の武名が広まったのは冬の陣の大活躍ですから勝永は冬の陣で目立った活躍が出来ずそこで名を売れなかったのが痛かった
信繁の官位は左衛門尉ではなく、左衛門佐だと思いますよ。
真田を調略、有ったね。だが断った。マア、俺的が徳川方だが交渉に言ってるたかも。真田殿、我らの仲間になりませんか??何故、徳川は真田を味方に引き込もうとしたか、それは手強い相手だからよ。確かに兄が徳川方に着いて名は残せた。父雅昌幸、信繁、兄も参陣したら到底豊臣には勝てなかっただろう。が、兄は徳川方に着いて後は信繁一人なら組しゃすかったかな??真田の忍びは出なかったな。昔の漫画には真田人群が出てた。猿飛佐助、霧隠れ才蔵、穴山小助、三好清海入道等はテレビドラマでは見てないわ。代わりに後藤又兵衛等が出てた。戦に成り打って出た後藤又兵衛様、お討ち死に!!って、セリフが蘇る!!
大阪の陣が始まる直前、徳川方からの調略を当然のように断った事も、幸村が人気のある理由のひとつですよね。しかし幸村がカッコよく断れたのは、兄が徳川方にいたからでしょう。もし自分が負けたら真田の家名が断絶となる、てな状況だったら、卑怯者だ裏切り者だと言われても家名は残さねば、と考えるのが自然です。幸村が現代のイメージ通りの男であれば、尚更調略を受けたのでは?とも思います。自分が卑怯者で裏切り者の汚名さえ着れば真田家は残れる、となれば自分が犠牲となって家名を残す選択をするのでは? とも思うからです。まぁ私が勝手に考えたハナシですがw
戦国1の卑怯者の息子が我を張ったために美化された戦という視点はある。自分もそう思う。しかし、家康があの歳で馬で逃げるって?何の書物から?
真田十勇士が好きだったが、ほとんどが架空の人物って聞いてがっかりした記憶が有る。
千田さん、コメント頂きありがとうございます!その気持ちわかりますw!誰もがそのそんな経験ありますね!またコメントお待ちしております!ありがとうございます!
元ネタは尼子十勇士だったようだね。
架空の人物ばかりですが、猿飛佐助のモデルになった人物は確かいた筈ですね。
@用顔 モデルに成った人達の事って知って居ますか?このチャンネルでやった事有る?
@用顔 おおっ!かたじけない。
幸村でヨシ!
まあ大坂豊臣は滅びるべくして滅びた全ての選択がアホ
御家存続のため東西両軍に親族をおいた。どちらが勝ってもお家は末代まで続く。真田家は明治維新まで続いたそうですね。
確かに、徳川幕府特に家康に対して一泡吹かせてやろうとは考えていたでしょう。九度山での生活は厳しくかなりの借金が有ったとか?豊臣は現金を渡し徳川は領地の約束のみだったようで、それで豊臣についた可能性はあるかと。本気で徳川に勝てるとは思って無かった、なんとか少し退却させて優位に和議を結ばせる考えだったのでは?最後家康に迫った時回りはほとんどが関ヶ原からの合戦経験の無い馬廻りのみでパニックになりその流れで下がったのでしょう。幸村に全体を統率できるだけの才能と運が無かったように思います。
kantoさん、コメント頂きありがとうございます!幸村殿は確かに実戦経験はお父上よりはなかったようですね!妖刀村正を持っていた言う事で恨みは相当な物だったのでしょうかね!またチャンネルにいらして下さいね!
武田勝頼は情け容赦ない武将で滅亡しました。家康公も本来なら何度も煮湯を飲まされた真田は早急に手打ちにしたかったと思いますが、本田忠勝や真田の長男の手前もあり出来なかったのが後に家康公を切腹の覚悟に追い込んだんですよね。
その時の自分に置かれている状況において、自分に出来る最良策を考え続け、実践し続けた結果が現代の真田幸村伝説になっている気がします。
私はこの武将が好きです!
近いのでよく安居神社にも行きますが、最後の戦いでの突撃等に想いを巡らせています。
一時のきらめき.......
日本人の琴線に触れる生き方が幸村の名を後世に語り継がれる存在にしたね。
真田家の故郷、真田町(現上田市)に行くとあんなに小さい集落からよく全国行ったな。と思います。
真田信繁が居た九度山は徳川の息がかかった者ばかりだったと言われてます。真田一族が逃げないように監視していたと伝わります。その為か九度山周辺には真田一族が逃げられる隠し穴が数多くあったとも言われますが最近の調査で穴はあるけど真田の抜け穴とは別物と判明したみたいですね。
しかしながら大坂からの誘いがあった時は村人たち一丸となって大坂に無事に辿り着いて欲しいと願い監視役を煙に巻いたそうです。まさに真田一族の人徳ですよね。
めにあおばさん、いつもコメントありがとうございます!普段から民と仲良くされていた事がよくわかるエピソードです!!良いお話です!ありがとうございます!
幸村と大谷吉継が婚姻関係というのは知ってましたが、三成と血縁関係というのは知らなかったです!勉強になりました!!
六文銭一番好きな家紋
幸村さんが亡くなった後に、次男の真田(片倉) 守信が伊達家の家臣片倉氏の養子となりて、仙台真田氏の誕生しました。 幸村のお兄さんは確か90歳ぐらいまで長生きして余生を過ごしたそうです。
タナカさん、いつもコメントありがとうございます!あー!そうなんですね!情報ありがとうございます!
幸村を討った人が「最後まで抵抗激しく」って話を盛って怒られた事とか
幸村は後の伝記物から始まった?と言われているが、、最近、大阪の夏の陣で最後に本人が名乗ったとの新説が出てきてます。兄、信幸が→信之に変えた事で幸の字が無くなるのを危惧して信繁が幸村と名乗ったとの説です。
少数の兵で奪われた城を奪還→
北条方五千が守る手子丸城を兵八百で
奪還(しかも1日で!)
紀の川市で半年ほど仕事をしていた時、街道沿いに六文銭の幟が連なっていた事がありました。
昼食にいつもの食堂で訊ねたら、「もうすぐ真田祭りやからして」と言われて六文銭は真田氏の旗印だったのを思い出しました。時間があったら高野街道に入って見物して、十勇士の扮装も見たかったけど。
まだ駆け出しだったから来年にでも、と思って数十年経ちました。
一番下の娘には真田幸村の幸の音だけ拝借して命名しました(笑)
tottiさん、コメントありがとうございます!tottiさん、随分頑張りましたねwこうチャンですかね?どんだけ歴史好きなんですかwwありがとうございます!またチャンネルに遊びに来て下さいね!
義を重んじる…歴史に残る武将です。
真田の家紋の、6文銭の絵柄について。6文銭=三途の川の渡し賃。それにより、死を恐れない勇戦を表しているそうです。また、真田軍の武士は紐に通した6文銭を首から下げていたと聞いたことがあります。
高校生でよく知らなかったので、自分の先祖様について理解が深まって良かったです。
何県の人?
@@arsenie19 特定怖いので言いませんが、家紋が六文銭です。また、家系図もあります。
@@cooky.1683 実はうちも母方が松代の真田で、父方が真田の本家の○野で、うちは苗字は○野ですが家紋が昔は六文銭でした。今は家紋は結び雁金ですが。
うちは親戚筋ではあるけど信繁の直系ではないし、他にも各地に歴とした子孫やとんでも論も含めて、末裔と言われている家系が多々ありますが、もしあなたが信繁の直系である宮城県の仙台真田家だったら凄いなと思って、もしくは長野だったら親戚だったりしてーとか思って、軽い気持ちでつい聞いてしまいました。すみません、他意はありません。
@@arsenie19 昌幸の長男真田伊豆守信之(信幸)そして二男真田左衛門佐信繁(幸村)、どちらの血筋も流れております。父方の祖母、祖父がどちらも真田の血筋で結婚されているためです。私も同じ長野です。この前長野駅の絵を書いた真田さんも実際家に来られました。
実は生きていた 島津が匿ったと島津家に伝わっている
氷見さん、コメント頂きありがとうございます!本当にそうであったらワクワクしますね!
そうであって欲しいですw!また是非遊びにいらして下さいね!
やはり秀頼公も薩摩へ落ち延びた、と信じたいですね。関西勢からすれば。
大阪市の玉造に大助さんから16代目と称する方が居酒屋をされています 私もお会いして来ました 嘘を言っているようには思えませんでしたが秀頼さんも木下と改名してその末裔が今もいらっしゃるみたいです
安居神社、九度山、上田城に行ってやはり幸村は武士として有能であったにもか変わらず、残念です
昔、自分の通っていた中学校が上田城址公園まで(信号青なら)10秒で行けた。
土曜日の午後は決まって、上田城のお堀周り10週(900m×10)をやらされたが、お堀の無い、西側の櫓の裏がサボりポイントで、よくそこで先生の目を盗んでサボってた。
(搦手側だから)断崖の景勝地で、上田盆地から千曲川、その向こうの塩田平まで一望。
そのころ第二次上田合戦は知っていたから、
「この下に徳川軍4万か~」「怖っ」「でも農民も鎌持って戦ったんだよな」とか運動着パタパタしながら想い馳せてたな(笑)
johnさん、いつもコメント頂きありがとうございます!大河で真田丸が放送していた頃、上田城に行きましたwとても良い所でした!大手町門を入ってしばらくまっすぐ行き右手の方に広場がありその左側は断崖絶壁からの景色がとても綺麗でしたのを覚えております!今は広く運動場みたいな所に川が流れていたのですかね?また行きたいです!
@@mononofu3163
そうですね!右手は本丸跡で、その左手の断崖絶壁側に有るのが物見櫓だと思います。隣には真田神社があります。上道からも回れると思いますし、今は、簡単な普請で下の運動広場側からでも真田神社に上がれると思います。(この頃上田に帰って無いけど、下からは行けると思います。大きな駐車場もありますし)
小学校の時、遠足で上田城に行った時、その櫓の裏の小さなスペースにクラスみんなを座らせて、先生が話してくれました。
「あの頃(上田合戦当時)は、千曲川がそこまで来ていた」と、今バスケやスケボー等出来る運動広場(当時は多分空き地とか材木置き場だった気がする)を指して言ったけど、当時子供だった自分は、にわかには信じられなかったけど、色々調べるにつれ、灌漑がある程度整った近代以前は、大体日本のどの河川も今より流域面積が断然でかかったですもんね。
まあ、堀の無い西側は、地の利を生かした、天然の強固な搦手だったんでしょうね。
ご返信ありがとうございます!あー、なにか情景が浮かんでくるようなw!
とても良い思い出でしたのでまた行きたいですね!!
司馬遼太郎が家康と頼朝は天下太平を行ったが、裏切りが多く陰湿で日本人に好かれない。って書いてたが、全く持って全面同意。幸村はアンチ家康ヒーローでしょうね。
匿名希望Sazanamiさん
司馬遼太郎は反日ですから話し半分に聞くべきですよ!
リメイク版、新ナレーションで聞き直すと新鮮です(´・ω・`)
幸村は村正の使い手だったそうですが、
名剣の次には、魔剣・妖刀の話も企画してそうですね♪
吉川さん、いつもコメントありがとうございます!これから消してしまった動画もリメイクしていきますので是非ご覧下さい!
徳川に仇なす刀ですね!徳川打倒に燃えていたのでしょうね!
妖刀など作ってみたいですねwまた遊びに来て下さい!
更に家康を討ち取る秘策が宿許筒。後一歩で討ち取れていたが残酷にも手元から落ちてしまった。
イフですが、そこで家康を仕留めおけば倒幕していたかも。
入城したのは、子の方と聞いて安心したが、夏の陣で、散々追い回され自害を口走る程の思いを味わった家康。生きた心地しなかっただろう。
中西様、コメント頂きありがとうございます。馬印が倒されておっしっる通り生きた心地がしなかった思いますね!色々な動画でコメントありがとうございます!またチャンネルに遊びに来て下さい!宜しくお願い致します。
私は堺の出身ですがなぜか南宗寺に家康公の墓がありますね 秀忠公も家光公も何度も来ている事は事実のようですが
左衛門尉でしょうか?左衛門佐では無いんでしょうか?
実際毛利勝永の方が断然すごいのにゲームとかで美化しまくるからな
幸村っていうの明治以降の名なんだよな
いや、幸村の名前は江戸時代にはすでに幸村呼びが定着してる。豊臣方の武将をそのまま讃えるわけにいかなかったから真田幸村という架空の武将扱いにして色々物語がつくられた。
冬の陣、夏の陣全体で見れば信繁のが活躍してますよ
真田丸でも描かれてましたけど信繁の武名が広まったのは冬の陣の大活躍ですから
勝永は冬の陣で目立った活躍が出来ずそこで名を売れなかったのが痛かった
信繁の官位は左衛門尉ではなく、左衛門佐だと思いますよ。
真田を調略、有ったね。だが断った。マア、俺的が徳川方だが交渉に言ってるたかも。真田殿、我らの仲間になりませんか??何故、徳川は真田を味方に引き込もうとしたか、それは手強い相手だからよ。確かに兄が徳川方に着いて名は残せた。父雅昌幸、信繁、兄も参陣したら到底豊臣には勝てなかっただろう。が、兄は徳川方に着いて後は信繁一人なら組しゃすかったかな??真田の忍びは出なかったな。昔の漫画には真田人群が出てた。猿飛佐助、霧隠れ才蔵、穴山小助、三好清海入道等はテレビドラマでは見てないわ。代わりに後藤又兵衛等が出てた。戦に成り打って出た後藤又兵衛様、お討ち死に!!って、セリフが蘇る!!
大阪の陣が始まる直前、徳川方からの調略を当然のように断った事も、幸村が人気のある理由のひとつですよね。
しかし幸村がカッコよく断れたのは、兄が徳川方にいたからでしょう。もし自分が負けたら真田の家名が断絶となる、てな状況だったら、卑怯者だ裏切り者だと言われても家名は残さねば、と考えるのが自然です。
幸村が現代のイメージ通りの男であれば、尚更調略を受けたのでは?とも思います。
自分が卑怯者で裏切り者の汚名さえ着れば真田家は残れる、となれば自分が犠牲となって家名を残す選択をするのでは?
とも思うからです。
まぁ私が勝手に考えたハナシですがw
戦国1の卑怯者の息子が我を張ったために美化された戦という視点はある。自分もそう思う。
しかし、家康があの歳で馬で逃げるって?
何の書物から?
真田十勇士が好きだったが、ほとんどが架空の人物って聞いてがっかりした記憶が有る。
千田さん、コメント頂きありがとうございます!その気持ちわかりますw!誰もがそのそんな経験ありますね!またコメントお待ちしております!ありがとうございます!
元ネタは尼子十勇士だったようだね。
架空の人物ばかりですが、猿飛佐助のモデルになった人物は確かいた筈ですね。
@用顔
モデルに成った人達の事って知って居ますか?
このチャンネルでやった事有る?
@用顔
おおっ!
かたじけない。
幸村でヨシ!
まあ大坂豊臣は滅びるべくして滅びた
全ての選択がアホ
御家存続のため東西両軍に親族をおいた。どちらが勝ってもお家は末代まで続く。真田家は明治維新まで続いたそうですね。
確かに、徳川幕府特に家康に対して一泡吹かせてやろうとは考えていたでしょう。
九度山での生活は厳しくかなりの借金が有ったとか?豊臣は現金を渡し徳川は領地の約束のみだったようで、それで豊臣についた可能性はあるかと。
本気で徳川に勝てるとは思って無かった、なんとか少し退却させて優位に和議を結ばせる考えだったのでは?
最後家康に迫った時回りはほとんどが関ヶ原からの合戦経験の無い馬廻りのみでパニックになりその流れで下がったのでしょう。
幸村に全体を統率できるだけの才能と運が無かったように思います。
kantoさん、コメント頂きありがとうございます!幸村殿は確かに実戦経験はお父上よりはなかったようですね!妖刀村正を持っていた言う事で恨みは相当な物だったのでしょうかね!またチャンネルにいらして下さいね!
武田勝頼は情け容赦ない武将で滅亡しました。
家康公も本来なら何度も煮湯を飲まされた真田は早急に手打ちにしたかったと思いますが、本田忠勝や真田の長男の手前もあり出来なかったのが後に家康公を切腹の覚悟に追い込んだんですよね。