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福島県の歴史をクローズアップしてくれてありがたい。福島県民は見るべきですな👍
コメントありがとうございます!地元の皆様に楽しんで頂けますと励みになります!こちらこそご視聴頂きありがとうございました^ ^
伊達家の隆盛の経緯が非常にわかりやすい。
コメントありがとうございます!後日アップの宮城編でも伊達氏は登場予定ですので楽しんで頂けますと幸いです^ ^
地元白河の歴史を知れました。ありがとうございます!
コメントありがとうございます!白河ご出身なんですね^ ^楽しんで頂けて幸いです!
地元、白河ありがとうございます。昔は、白川 氏ですね。
会津とは、すごく古くからある地名なのですね。楽しく視聴させていただきました。ありがとうございます。
地元なんですけど、学生の頃 福島って戊辰戦争の方が全国的には有名で戦国時代らへんってあんまり教えてもらえなかったりするので大変勉強になりました!🎉
コメントありがとうございます!地元の方に楽しんで頂けて嬉しいです! 福島県は特に激戦地ですよね^ ^
凄く面白かったです。伊達天文の乱は越後への輿入れ以外にも理由が有ったのですね。海道の戦国時代、相馬の変遷や蘆名の日本海進出の野望などもずっと先で良いので見てみたい物です。
コメントありがとうございます!今回の動画では泣く泣く海道の割合が少なめになっています… 追って相馬氏の変遷も特集したいと思います^ ^蘆名氏については次回アップ予定の新潟編で登場予定です!
こういう歴史を知りたかったです! しかも、約15分。👍✴️✴️✴️
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^ 今後も10〜15分程度の尺でアップしていきたいと思います!
須賀川市出身です。二階堂氏が伊達政宗に滅ぼされたことをいまだに町のイベント(松明あかし)として語りついでますが、前後の歴史は知らなかったのですごく勉強になりました。
福島県民です。すっごい面白かった。
福島県民です。地名が戦国大名の名前からだったなんて初めて知りました。若い時にもっと歴史の勉強してたらって後悔です😢
嬉しいです!三春田村氏に縁の者として嬉しいですね。
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて嬉しいです^ ^ 近日蘆名氏の特集予定ですが、徐々に南奥地域の動画をアップしていきます!
東北は大名の性が地名に残ってる事が多くて感慨深い
それ秋田とかも安東氏の一門の秋田氏がいたし。相馬や磐城なんかもね。
コメントありがとうございます!当時の姿がよりイメージできますよね! 歴史散策も楽しめそうです^ ^
伊達、最上、石川、相馬、二本松かな。蒲生も会津蒲生なんて駅がある。
サムネイルに我が地元の白河を使ってくれるのは嬉しい☺
コメントありがとうございます!桜ノ門が美しくて、サムネイルにどうしても採用したかったのです^ ^
福島盆地に信夫山という山があります。その昔は青葉山と呼ばれていたようで、1600年の松川の合戦で敗れ仙台へ帰った伊達政宗は築城の際、青葉山城(青葉山)としたそうです。
そうでしたか。貴重なコメントありがとうございます。
色々と複雑で難しいですが,東北や越後や北の方は興味があります。
コメントありがとうございます!次回より東北シリーズの予定です^ ^ まずは青森県です!
奥会津はさらに山ノ内氏と長沼氏そして河原田氏の3家がいた
相馬氏って考えてみたら、平将門や平忠常の子孫なんだよね。
こういう知識を持って旅すると楽しいだろーなぁ!
当時、会津を制するものは奥羽を制すると言われてました。政宗が会津を取った時点で「奥州の覇者」と言われたのはその為です。
伊達と言えば米沢か仙台みたいになっちゃってるけど、伊達郡があるくらいだから本貫は福島県「だて」は仙台でも「いだて」は福島くらいにアピールしても良いと思ってます会津があるから伊達という歴史的コンテンツに頼らなくても充分だからかな?
コメントありがとうございます!仰る通り、確かに伊達氏は福島県のイメージが薄い気がしますね…政宗以前が少し注目度が低いからですかね…^^;
佐竹氏が南奥の拠点とした棚倉市の赤舘はその後江戸時代に立花宗茂が入りました。棚倉城は更にそのあとに入った丹羽長重による築城。丹羽長重は写真にあった小峰城も築城してます。私は戦国時代の佐竹氏を卒論にしてたのですが、佐竹の公文書である『秋田藩家蔵文書』には小峰義親の書簡が多数出てきます。その印象からとても厄介な人物と思われました。
興味深いですね。小峰義親の白河結城氏内での立ち位置はまだ鮮明にはなっていないのでしょうかね。確か市村高男が随分前に義親がどういった系統の人物であるかの論文を出していた気がします。
コメントありがとうございます!小峰義親の素性は色々な説があって興味深いですよね!今回は晴綱の子として解釈しました^ ^
棚倉藩は江戸時代、不良大名を反省させる為に使われたそうです。私の知り合いのSさんも先祖が大名で、悪い事して棚倉藩に転封になったそうです。そこに一定期間居たら戻して貰えたそうです。
伊達政宗公より前の時代の話は知らなかったから色々学べた…
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです! 政宗以前は内部対立でドロドロしていてまた面白いですよね^ ^
横の抗争より縦の抗争が多いのが、福島県らしい。
コメントありがとうございます!他の県ではあまり見られない特徴ですよね!地形によって分かれる地域性がまた面白いですね^ ^
懐かしいなー修学旅行で黒川城と飯盛山行ったわ
コメントありがとうございます!会津旅行素敵ですね^ ^ また行ってみたいです!
会津ではなく、黒ですな。
複雑怪奇な戦国期南奥州の様相が簡潔にまとめられていてとても見やすかったです。ところで人取橋の合戦ですが、私としては、佐竹蘆名連合軍の謎の撤退は佐竹軍の総大将だった山能義政(佐竹義重の叔父)が馬子に刺殺されたことによるものだったと考えています(『会津四家合考』等)。人取橋合戦当時佐竹義重は宇都宮氏の新居城となる多気山城建設に協力している最中でした。
コメントありがとうございます!人取橋の合戦での佐竹勢の撤退は本当に謎ですね…笑そもそも義昌が殺害された背景も気になるとこですね!
@@rekishitravel 『会津四家合考』によれば、翌日の決戦のために山能義政が馬労による馬の手入れを検分していたところ気に入らないところがあったらしく、馬労を蹴り飛ばしたところ馬労が逆ギレして義政を刺殺したということですね。『合考』は軍記物ですが記述の信頼性は比較的高いと思われます。実際他の史料にも義政がいわゆる人取橋合戦で死んだとあるようなので、おそらく事実でしょう。後々伊達政宗が「多勢を退けつつこの合戦を生き延びたのは永代の誉」みたいなことを、同席していた将軍秀忠と佐竹義宣の前で自慢したので、義宣は面目を失ったという逸話があります。この高倉人取橋合戦は南奥州惣無事連合の枠内で蘆名執権金上盛備と常陸守護代山能小野崎義政が中心となって計画したもののようです。山能小野崎家は佐竹氏から養子に入った家ということもあって秋田藩の中でも家格が高くてもおかしくないはずですが、江戸後期には真壁や多賀谷より下位、和田や小貫等地頭土豪出身の直臣クラスと同列になっています。馬子による刺殺という不名誉な死によって山能小野崎家の地位が後退したと思われます。しかも山能家の文書は紛失したらしく残念ながら秋田藩採集文書にも存在していません。家自体は存続しているのに文書がないというのは不可解ですが、私はこういったことの背景に佐竹義宣の怒りが存在したのではないかと勝手に推測しています。
加えて佐竹と対立していた那須家が北条と組んで佐竹を討つという情報も入ったからとか
福島にずっと一族がいるので勉強になりました。伊達氏の分家の方医学部生&タレントやってますね。眼科医志望だそうですよ
コメントありがとうございます!存じ上げませんでした!某有名お笑い芸人さんが思い浮かびました笑
@@rekishitravel あのお笑い芸人の伊達さんは、会津で営業マンやろうとしたら、全然駄目だったそうです。(伊達政宗のせいで、伊達姓の人は会津では嫌われてるようです。)
上杉は福島県で評判良いです。
@@pontarou01 伊達政宗の子孫の方が会津まつりの招待されてPR大使やったりガッツリ絡んでたりするので今はそこらへんの因縁は大分薄れてる気がしますね昨年久々に鶴ヶ城を訪れたのですが会津はやっぱり戦国より幕末の長州との因縁のが根強いのかなと思いました
@@真島吾郎-i2r 私も子孫が不利益被るのは良くないと思います。私の従姉妹も長州の人と結婚しましたし。
関東北条勢と山内上杉が激戦を開いて古河公方が暗躍してる時期に古河公方方の与力だった佐竹や結城氏蘆名氏の動きがやたら鈍いというか消極的だったのは北には北の内乱や騒乱にかかりっきりだからだったんだなぁってもしも南奥騒乱が無く磐石態勢だったら関東の歴史はまた大きく違ったのかもしれないですね。
コメントありがとうございます!改めて南奥と関東は切っても切れない関係ですね!
県民だからうれしい
コメントありがとうございます!楽しんで頂けて幸いです^ ^
相馬氏は数少ない平氏の武家だっけ?(武家の殆どが源氏)
コメントありがとうございます!相馬氏は千葉氏庶流なので平氏ですね^ ^
亘理の方も・・・。名は変えてるが
相馬氏は自称「平将門の子孫」だそうで。ホントのことはわかりません。
蘆名も元は平氏です、だから、手紙に書く名前は平〜って書いてました。
@@pontarou01 蘆名氏は元は今年の大河ドラマで名を広めた三浦氏より興った氏族です
昔、私の家に工事に来た人が針生っていう人で、「先祖は伊達政宗相手に最後まで抵抗してた。」って言ってました。また私の知人の知人が「福島県に居た先祖が、伊達政宗に一族皆殺しにされそうになったけど、豊臣秀吉の惣無事令のお陰で助かった。」とも言ってたそうです。
コメントありがとうございます!針生さんということは…もしかして蘆名氏ルーツの方ですかね?!貴重なお話ありがとうございます^ ^
@@rekishitravel さんはい、そうです。
針生氏は元々蘆名氏の分家で本家が断絶した時に蘆名氏に姓を戻したと言いますその時は伊達氏に仕えており、蘆名氏に姓を戻した時の当主が伊達騒動で有名な伊達亀千代丸、後の綱村です
@@コンノマコト-i8f そうでしたか
秀吉…つえぇ。
やっぱり、、、ここ一番の盛り上がりをかき消す秀吉の奥州仕置き
コメントありがとうございます!もう少し政宗の快進撃の続きを見てみたかったですね^ ^笑
惣無事令がなかったら、伊達政宗は佐竹との決戦まで往ったかなあ?それとも、和睦かな?
コメントありがとうございます!面白そうですね!北条氏と挟み撃ちからの決戦を見てみたいですね^ ^
鶴ヶ城に行った時伊達政宗が1年ぐらい城主していたことが何でって思ってたんですがコレ見て納得以前テレビで伊達政宗が南の方に勢力を拡大しようとして秀吉に止められたら秀吉には従順らしく言う事きいたってのも納得でした
コメントありがとうございます!確かに伊達政宗や上杉景勝は鶴ヶ城の城主のイメージが薄いですよね!笑
逃げ若の北畠顕家の本拠地も福島ですよー(伊達市霊山町)舞台がほぼ畿内の戦いですが
コメントありがとうございます!福島は南北朝時代もいずれ特集したいです!
石川昭光は、いざという時に頼りになる伊達政宗の叔父様。
こんにちは!熊本県もお願いしたいです。
コメントありがとうございます!こんにちは!時間は掛かってしまうかもしれませんが、熊本編もアップしたいと思います^ ^リクエストありがとうございます!
@@rekishitravel 返信ありがとうございます😊楽しみに待っときます✨宜しくお願い致します!
ここまでやったならやはり北の関ヶ原とゆうことで上杉対伊達最上もやってほしいですね(^^)
コメントありがとうございます!慶長出羽合戦は絶対に特集したいです! 構想中なのでしばらくお待ちください^ ^
桑折、梁川、伊達市、川俣、東和、三春と桑折西山城から三春までの349号線付近で伊達氏に対する反応の違いがあるのが面白いです。北の方(桑折西山城)に行くと伊達氏に対して友好的、南の方(三春城、小手森)に行くと敵対的な人がいるイメージです。ただ政宗侵攻時に通った道中でも途中途中で反発した地域だと批判的な話があったり、むしろ南の方でも友好的な地域があったり。かと思えば北の方で政宗は嫌いって意見があったり(伊達氏ってより政宗が嫌い?)ひとつの道沿いでこんだけ意見が分かれるのが面白いです。ちなみに実家の地域は少数騎馬隊(農民)を編成しましたが相手にされず素通りされましたw長文失礼しやした。
コメントありがとうございます!貴重なお話ありがとうございます!! 時を経ても当時の印象が色濃く残っているのはとても興味深いですね^ ^
改行をしてください。
興味深いご指摘です!小手森城跡は、もう何も残ってないようですが、「虐サツの話」は、語り継がれているみたいです。若い世代はわかりませんが、90以上ぐらいだと、知っている人もいるようです。あの辺は、針道という意味深な土地名です。歴史のロマンですね〜。
非常に面白かったです。あまり光が当てられることのない中世の福島の歴史を分かりやすく取り上げて頂き、ありがとうございます。小手森城にまつわる政宗による「虐サツの言い伝え」を聞いたことがあって、興味を持ってました。背景がわかってとてもよく理解できました。どのぐらいの規模かは不明ですが、今日に語り継がれるぐらいなので、よっぽど負のインパクトがあったんだろうな、と思いました。歴史のロマンをありがとうございます!
この動画見て、昔は、福島のとある地域の結婚式に宮城の人が呼ばれて、祝いの唄としてうっかり「さんさ時雨」を歌うと親族と取っ組み合いになったって話を思い出した。あと、三春は伊達家が乱取りし過ぎたせいで美人がいない。って年寄りから聞いたことあるけど、わりと福島って近年までご先祖様がされたことずっと根に持ってたよね。今は「福島の人間かそれ以外」くらいの感覚しかない人が多そうだけど。
コメントありがとうございます!非常に参考になります!現代まで受け継がれているのは興味深いですね…!貴重な情報ありがとうございます^ ^
相馬氏と芦名氏は先祖は同じ平氏で似ている。相馬氏は千葉氏で芦名氏三浦氏の分家。千葉氏は小田原に参戦せずに取り潰される。生き残る相馬氏、郡上藩の遠藤氏は血筋は絶えて名跡だけが残るので徳川綱吉は千葉氏の分家だから相馬氏から継がせればよかった。芦名氏は逆に滅びて、三浦氏は房総半島に逃げて正木氏を名乗った1族が紀州藩、水戸藩と高松藩などの大名になり将軍を出す
田村氏=田村市= 三春町、愛姫、故郷なんで、様々、最初の就職先が、仙台城に近い八木山この歴史見るたび考えさせられます❤
コメントありがとうございます! まさに伊達氏ゆかりの地ですね^ ^
伊達政宗👍👍
伊達政宗と最上義光との対立と書かれてますけどぶっちゃけ大崎合戦にお互い"巻き込まれて"対立した時くらいで大半の期間は一応同盟関係でしたよね摺上原では最上が援軍派遣してますしまあ政宗が最上義光への愚痴や悪口をちょくちょく言ってはいますがw
コメントありがとうございます!仰る通りですね!今回の動画では大崎氏・最上氏の説明が欠けているのがネックですね… 大崎合戦については後日アップの宮城編でしっかり取り上げます^ ^
稙宗の時点で足利義稙の稙の字をもらえたのが重要。なお義稙本人は与えたくなかったとのこと。
コメントありがとうございます!稙宗の幕府や朝廷への外交政策は、奥羽における伊達氏の立ち位置を確立させる点でも非常に重要でしたね^ ^
福島県の歴史の悲劇は幕末にも・・・。
コメントありがとうございます!少し先になると思いますが、幕末シリーズも特集予定です^ ^
芦名氏と幕末の松平氏はかぶる。栄光と悲劇というか。猪苗代方面からの侵攻されて落城とかも似ている。
会津にいたままバリバリの巨大勢力になる伊達政宗の世界線も見てみたかった
コメントありがとうございます!私も見てみたいです!!果たして関東にも進出していたのか……!
初コマンド、よろしくお願いします
コメントありがとうございます!信長さん!よろしくお願いします^ ^
会津四家に触れられてなくて泣き
コメントありがとうございます!まさにそれが心残りでしたので、別動画「蘆名氏の戦い〜」で少し触れました!
相馬はないのですか?
コメントありがとうございます!相馬は今回はかなり削ってしまいました>_< また次の機会に取り上げたいと思います!
摺上原は、政宗が、言わばオフサイドの笛を無視してゴール狙いに行っていた様なものですからね。ネットを揺らしても無効です。
コメントありがとうございます!まさに絶妙な例えですね! どんなに美しいゴールでも反則であれば認められませんよね^ ^
島津や長曾我部などの地方大名が、豊臣によって本貫の地以外は全部取られたのに対して、伊達は逆に本貫の地(米沢、桑折)を取られて北の宮城に飛ばされたという形になってるんよねだから伊達の地元ってどこだ??ってなると現代的には仙台なんだけど、本当は福島や山形の方が正しい(仙台に行ってからよりも桑折以前の方が長い)
コメントありがとうございます!福島と伊達氏の印象が比較的薄いのは、仰る経緯がやはり大きいですかね…!米沢もどちらかというと上杉氏のイメージですよね>_
白河氏って白河結城氏のことですよね
コメントありがとうございます!はい!仰る通りです^ ^
昔の南奥州の勢力関係がよくわかりました。当方は、南相馬市出身、ハリーポッター関係者です。
コメントありがとうございます!ということは、ま、まさか…… 恐れ多いです…!
伊達政宗も苦労したのですね
コメントありがとうございます!短期間でよくここまで勢力を拡大させましたね^ ^
伊達たね宗・晴宗・輝宗が縁戚によって築き上げた奥州の伊達家コネクションをぶち壊して南奥州の覇者になった政宗。
コメントありがとうございます!言い得て妙ですね!それが短期間なのもまた面白いです^ ^
伊達市、白河市、いわき市等みんな大名の名前なのに、なんで会津はあしな市じゃなくて、会津若松市なんだろう?
コメントありがとうございます!他三者と異なり、蘆名氏は相模にルーツを持つ点が要因の一つだと思われます^ ^ (蘆名も相模の地名由来)
蘆名氏(三浦佐原氏)と相馬氏(千葉相馬氏)は奥州合戦以後にほかから移ってきたから土地の名前を使ってない。その後幕末まで治めた相馬氏の治めた領地は、大名の名前を使い相馬市、南相馬市になった。
@@shootsta4399 ありがとうございます!
@@rekishitravel ほほぅ。ありがとうございます。
私の故郷は三春町です!三春城の近くです!!
コメントありがとうございます!三春城素晴らしい城跡ですよね!また再訪してみたいです^ ^
めっちゃわかりやすい。伊達以外の登場人物もきちんと知っている人からすると、「なるほど」と思わされる部分が多かったです。伊達政宗って好きになれないので、こういうのを聞いていると秀吉様様です。
コメントありがとうございます!南奥は伊達氏のイメージが強いかもですが、最後まで群雄割拠な地域でしたね^ ^
個人的に南奥に伊達のイメージはありません。最後のほうにかすめとっただけのイメージで、蘆名のイメージのほうが強いです。それから昔は阿武隈高地程度でも十分に文化圏を分けていたんだなと感じました。あれがなければ相馬氏なんてひとにぎりにやられていたでしょうね😅
福島って伊達と佐竹の草刈り場のイメージがある。
佐竹氏というのは、常陸や下野までちょっかい出して、結構やばいやつなのか?
コメントありがとうございます!天正年間の佐竹義重の勢いは凄まじいですね!
常陸北部の戦国大名である佐竹氏は南奥州から北関東にかけての大名や国人らの盟主的存在でした。北条氏や伊達氏と争うことになったのはそのためですね。
福島はなんでも地味だからねぇ。
高校野球も強くないしね。幕末会津藩は頑張ったけどね。
@@室井修-k1r 奇跡的に、磐城高校が準優勝したことあるけど。
@@pontarou01まあ、最近は東北勢も強くなってきているからね。福島もいつかは優勝するかもね。
大名の性が地名になっとるんや無く、地名から大名が性を取ってるんよ😁例えば伊達氏の出自は茨城県下館で元は「館(だて)」やった😃✌️奥州進行に当たり、初の初陣を飾ったのが現在の福島県伊達市で、験担ぎで「伊達(だて)」に改名した🕵️🤔
素晴らしい福島で原発が爆発したのが残念です😭
コメントありがとうございます!残念です…>_< 支援の動きへの関心を風化させてはいけないですね…>_
伊達は犬すら殺すて有名
コメントありがとうございます!小手森城の戦いは凄まじいですね… 情け容赦ない!
発掘調査で人骨など大して発見されなかった事で実は大した規模ではなかった事が判明してしまい厨二病政宗くんが義光叔父さんにイキって大袈裟に言っただけだった事がバレてしまった小手森城の撫斬り(笑)ですねw
くっついたり離れたり、節操ない奴ばかりだ
コメントありがとうございます!和平と対立を繰り返しつつ、なんだかんだで戦国末期まで南奥諸氏の多くが存続しているのも面白いですよね^ ^
ちょっと端折りすぎた解説。
コメントありがとうございます!10分尺を目標にしているのですが、より上手く纏められるよう努めます>_
伊達輝宗、佐竹義重、蘆名盛隆は織田権力(信長時代)には従属姿勢を示しており、「東国(奥州)御一統」で佐竹氏がまとめ上げたお陰で、南奥の領主達が織田権力に従属体制が確立した事になりました。しかし、相馬義胤は織田権力に従属姿勢を示さず、本能寺の変を迎えてしまいました。ですが、本当に相馬義胤は従属姿勢を示していなかったのでしょうか。私は、そうとは思いません。何故なら、周辺の伊達輝宗や佐竹義重は信長に属しているのに、流石に信長の援護を仰がずに本能寺の変を迎えることは、絶対にないと思います。ぜひ、歴史トラベル様に御意見をお願いいたします。
コメントありがとうございます!私もコメ主さんの意見に近いですね…! この時の義胤は輝宗と激しく対立していますが、信長への従属姿勢は同様だったと考える方が自然ですよね。
@@rekishitravel 貴重なご意見をありがとうございます。僕は書いた後に思い出したのですが、確か、『本能寺前夜』という本に九州の大名・九州北部国人州たちが毛利氏と結んで信長権力に対抗する気はなかったと、そういう感じで書いてあり、ということは、相馬義胤は従属姿勢を示していた可能性もあるけど、もしかしたら示していなくとも織田権力には反抗するようにはしておらず、でも信長の九州征伐後ないし柴田勝家の越州(この場合は越後のみ)征伐後に予定されていたであろう織田権力による奥羽仕置にて義胤は織田権力に従属したのではなかろうかと思いますが、再びご意見をお願いいたします。
県庁所在地の存在感の無さに笑うw自称経済都市の未開の地っぷりに笑うw
コメントありがとうございます!確かに今回の動画では存在感が薄いですね…笑 尺の問題もあって、より勢力の変遷が激しい他地域を優先しました>_
聴きづらい…
ん~~中途半端
福島県の歴史をクローズアップしてくれてありがたい。
福島県民は見るべきですな👍
コメントありがとうございます!
地元の皆様に楽しんで頂けますと励みになります!
こちらこそご視聴頂きありがとうございました^ ^
伊達家の隆盛の経緯が非常にわかりやすい。
コメントありがとうございます!
後日アップの宮城編でも伊達氏は登場予定ですので楽しんで頂けますと幸いです^ ^
地元白河の歴史を知れました。ありがとうございます!
コメントありがとうございます!
白河ご出身なんですね^ ^楽しんで頂けて幸いです!
地元、白河ありがとうございます。
昔は、白川 氏ですね。
会津とは、すごく古くからある地名なのですね。
楽しく視聴させていただきました。
ありがとうございます。
地元なんですけど、学生の頃 福島って戊辰戦争の方が全国的には有名で戦国時代らへんってあんまり教えてもらえなかったりするので大変勉強になりました!🎉
コメントありがとうございます!
地元の方に楽しんで頂けて嬉しいです! 福島県は特に激戦地ですよね^ ^
凄く面白かったです。伊達天文の乱は越後への輿入れ以外にも理由が有ったのですね。海道の戦国時代、相馬の変遷や蘆名の日本海進出の野望などもずっと先で良いので見てみたい物です。
コメントありがとうございます!
今回の動画では泣く泣く海道の割合が少なめになっています… 追って相馬氏の変遷も特集したいと思います^ ^
蘆名氏については次回アップ予定の新潟編で登場予定です!
こういう歴史を知りたかったです!
しかも、約15分。👍✴️✴️✴️
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^ 今後も10〜15分程度の尺でアップしていきたいと思います!
須賀川市出身です。二階堂氏が伊達政宗に滅ぼされたことをいまだに町のイベント(松明あかし)として語りついでますが、前後の歴史は知らなかったのですごく勉強になりました。
福島県民です。すっごい面白かった。
福島県民です。地名が戦国大名の名前からだったなんて初めて知りました。若い時にもっと歴史の勉強してたらって後悔です😢
嬉しいです!三春田村氏に縁の者として嬉しいですね。
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて嬉しいです^ ^ 近日蘆名氏の特集予定ですが、徐々に南奥地域の動画をアップしていきます!
東北は大名の性が地名に残ってる事が多くて感慨深い
それ秋田とかも安東氏の一門の秋田氏がいたし。相馬や磐城なんかもね。
コメントありがとうございます!
当時の姿がよりイメージできますよね! 歴史散策も楽しめそうです^ ^
伊達、最上、石川、相馬、二本松かな。蒲生も会津蒲生なんて駅がある。
サムネイルに我が地元の白河を使ってくれるのは嬉しい☺
コメントありがとうございます!
桜ノ門が美しくて、サムネイルにどうしても採用したかったのです^ ^
福島盆地に信夫山という山があります。その昔は青葉山と呼ばれていたようで、1600年の松川の合戦で敗れ仙台へ帰った伊達政宗は築城の際、青葉山城(青葉山)としたそうです。
そうでしたか。貴重なコメントありがとうございます。
色々と複雑で難しいですが,東北や越後や北の方は興味があります。
コメントありがとうございます!
次回より東北シリーズの予定です^ ^ まずは青森県です!
奥会津はさらに山ノ内氏と長沼氏そして河原田氏の3家がいた
相馬氏って考えてみたら、平将門や平忠常の子孫なんだよね。
こういう知識を持って旅すると楽しいだろーなぁ!
当時、会津を制するものは奥羽を制すると言われてました。
政宗が会津を取った時点で「奥州の覇者」と言われたのはその為です。
伊達と言えば米沢か仙台みたいになっちゃってるけど、伊達郡があるくらいだから
本貫は福島県
「だて」は仙台でも「いだて」は福島
くらいにアピールしても良いと思ってます
会津があるから伊達という歴史的コンテンツに頼らなくても充分だからかな?
コメントありがとうございます!
仰る通り、確かに伊達氏は福島県のイメージが薄い気がしますね…
政宗以前が少し注目度が低いからですかね…^^;
佐竹氏が南奥の拠点とした棚倉市の赤舘はその後江戸時代に立花宗茂が入りました。棚倉城は更にそのあとに入った丹羽長重による築城。丹羽長重は写真にあった小峰城も築城してます。私は戦国時代の佐竹氏を卒論にしてたのですが、佐竹の公文書である『秋田藩家蔵文書』には小峰義親の書簡が多数出てきます。その印象からとても厄介な人物と思われました。
興味深いですね。小峰義親の白河結城氏内での立ち位置はまだ鮮明にはなっていないのでしょうかね。確か市村高男が随分前に義親がどういった系統の人物であるかの論文を出していた気がします。
コメントありがとうございます!
小峰義親の素性は色々な説があって興味深いですよね!今回は晴綱の子として解釈しました^ ^
棚倉藩は江戸時代、不良大名を反省させる為に使われたそうです。
私の知り合いのSさんも先祖が大名で、悪い事して棚倉藩に転封になったそうです。そこに一定期間居たら戻して貰えたそうです。
伊達政宗公より前の時代の話は知らなかったから色々学べた…
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです! 政宗以前は内部対立でドロドロしていてまた面白いですよね^ ^
横の抗争より縦の抗争が多いのが、福島県らしい。
コメントありがとうございます!
他の県ではあまり見られない特徴ですよね!
地形によって分かれる地域性がまた面白いですね^ ^
懐かしいなー
修学旅行で黒川城と飯盛山行ったわ
コメントありがとうございます!
会津旅行素敵ですね^ ^ また行ってみたいです!
会津ではなく、黒ですな。
複雑怪奇な戦国期南奥州の様相が簡潔にまとめられていてとても見やすかったです。
ところで人取橋の合戦ですが、私としては、佐竹蘆名連合軍の謎の撤退は佐竹軍の総大将だった山能義政(佐竹義重の叔父)が馬子に刺殺されたことによるものだったと考えています(『会津四家合考』等)。人取橋合戦当時佐竹義重は宇都宮氏の新居城となる多気山城建設に協力している最中でした。
コメントありがとうございます!
人取橋の合戦での佐竹勢の撤退は本当に謎ですね…笑
そもそも義昌が殺害された背景も気になるとこですね!
@@rekishitravel 『会津四家合考』によれば、翌日の決戦のために山能義政が馬労による馬の手入れを検分していたところ気に入らないところがあったらしく、馬労を蹴り飛ばしたところ馬労が逆ギレして義政を刺殺したということですね。『合考』は軍記物ですが記述の信頼性は比較的高いと思われます。実際他の史料にも義政がいわゆる人取橋合戦で死んだとあるようなので、おそらく事実でしょう。後々伊達政宗が「多勢を退けつつこの合戦を生き延びたのは永代の誉」みたいなことを、同席していた将軍秀忠と佐竹義宣の前で自慢したので、義宣は面目を失ったという逸話があります。
この高倉人取橋合戦は南奥州惣無事連合の枠内で蘆名執権金上盛備と常陸守護代山能小野崎義政が中心となって計画したもののようです。山能小野崎家は佐竹氏から養子に入った家ということもあって秋田藩の中でも家格が高くてもおかしくないはずですが、江戸後期には真壁や多賀谷より下位、和田や小貫等地頭土豪出身の直臣クラスと同列になっています。馬子による刺殺という不名誉な死によって山能小野崎家の地位が後退したと思われます。しかも山能家の文書は紛失したらしく残念ながら秋田藩採集文書にも存在していません。家自体は存続しているのに文書がないというのは不可解ですが、私はこういったことの背景に佐竹義宣の怒りが存在したのではないかと勝手に推測しています。
加えて佐竹と対立していた那須家が北条と組んで佐竹を討つという情報も入ったからとか
福島にずっと一族がいるので勉強になりました。伊達氏の分家の方医学部生&タレントやってますね。眼科医志望だそうですよ
コメントありがとうございます!
存じ上げませんでした!某有名お笑い芸人さんが思い浮かびました笑
@@rekishitravel
あのお笑い芸人の伊達さんは、会津で営業マンやろうとしたら、全然駄目だったそうです。
(伊達政宗のせいで、伊達姓の人は会津では嫌われてるようです。)
上杉は福島県で評判良いです。
@@pontarou01 伊達政宗の子孫の方が会津まつりの招待されてPR大使やったりガッツリ絡んでたりするので今はそこらへんの因縁は大分薄れてる気がしますね
昨年久々に鶴ヶ城を訪れたのですが会津はやっぱり戦国より幕末の長州との因縁のが根強いのかなと思いました
@@真島吾郎-i2r
私も子孫が不利益被るのは良くないと思います。
私の従姉妹も長州の人と結婚しましたし。
関東北条勢と山内上杉が激戦を開いて古河公方が暗躍してる時期に古河公方方の与力だった佐竹や結城氏蘆名氏の動きがやたら鈍いというか消極的だったのは北には北の内乱や騒乱にかかりっきりだからだったんだなぁって
もしも南奥騒乱が無く磐石態勢だったら関東の歴史はまた大きく違ったのかもしれないですね。
コメントありがとうございます!
改めて南奥と関東は切っても切れない関係ですね!
県民だからうれしい
コメントありがとうございます!
楽しんで頂けて幸いです^ ^
相馬氏は数少ない平氏の武家だっけ?(武家の殆どが源氏)
コメントありがとうございます!
相馬氏は千葉氏庶流なので平氏ですね^ ^
亘理の方も・・・。
名は変えてるが
相馬氏は自称「平将門の子孫」だそうで。ホントのことはわかりません。
蘆名も元は平氏です、だから、手紙に書く名前は平〜って書いてました。
@@pontarou01 蘆名氏は元は今年の大河ドラマで名を広めた三浦氏より興った氏族です
昔、私の家に工事に来た人が針生っていう人で、「先祖は伊達政宗相手に最後まで抵抗してた。」って言ってました。また私の知人の知人が「福島県に居た先祖が、伊達政宗に一族皆殺しにされそうになったけど、豊臣秀吉の惣無事令のお陰で助かった。」とも言ってたそうです。
コメントありがとうございます!
針生さんということは…もしかして蘆名氏ルーツの方ですかね?!
貴重なお話ありがとうございます^ ^
@@rekishitravel さん
はい、そうです。
針生氏は元々蘆名氏の分家で本家が断絶した時に蘆名氏に姓を戻したと言います
その時は伊達氏に仕えており、蘆名氏に姓を戻した時の当主が伊達騒動で有名な伊達亀千代丸、後の綱村です
@@コンノマコト-i8f
そうでしたか
秀吉…つえぇ。
やっぱり、、、
ここ一番の盛り上がりをかき消す秀吉の奥州仕置き
コメントありがとうございます!
もう少し政宗の快進撃の続きを見てみたかったですね^ ^笑
惣無事令がなかったら、伊達政宗は佐竹との決戦まで往ったかなあ?それとも、和睦かな?
コメントありがとうございます!
面白そうですね!北条氏と挟み撃ちからの決戦を見てみたいですね^ ^
鶴ヶ城に行った時伊達政宗が1年ぐらい城主していたことが何でって思ってたんですがコレ見て納得
以前テレビで伊達政宗が南の方に勢力を拡大しようとして秀吉に止められたら秀吉には従順らしく言う事きいたってのも納得でした
コメントありがとうございます!
確かに伊達政宗や上杉景勝は鶴ヶ城の城主のイメージが薄いですよね!笑
逃げ若の北畠顕家の本拠地も福島ですよー(伊達市霊山町)
舞台がほぼ畿内の戦いですが
コメントありがとうございます!
福島は南北朝時代もいずれ特集したいです!
石川昭光は、いざという時に頼りになる伊達政宗の叔父様。
こんにちは!
熊本県もお願いしたいです。
コメントありがとうございます!
こんにちは!時間は掛かってしまうかもしれませんが、熊本編もアップしたいと思います^ ^
リクエストありがとうございます!
@@rekishitravel 返信ありがとうございます😊
楽しみに待っときます✨
宜しくお願い致します!
ここまでやったならやはり北の関ヶ原とゆうことで上杉対伊達最上もやってほしいですね(^^)
コメントありがとうございます!
慶長出羽合戦は絶対に特集したいです! 構想中なのでしばらくお待ちください^ ^
桑折、梁川、伊達市、川俣、東和、三春と桑折西山城から三春までの349号線付近で伊達氏に対する反応の違いがあるのが面白いです。北の方(桑折西山城)に行くと伊達氏に対して友好的、南の方(三春城、小手森)に行くと敵対的な人がいるイメージです。ただ政宗侵攻時に通った道中でも途中途中で反発した地域だと批判的な話があったり、むしろ南の方でも友好的な地域があったり。かと思えば北の方で政宗は嫌いって意見があったり(伊達氏ってより政宗が嫌い?)ひとつの道沿いでこんだけ意見が分かれるのが面白いです。ちなみに実家の地域は少数騎馬隊(農民)を編成しましたが相手にされず素通りされましたw長文失礼しやした。
コメントありがとうございます!
貴重なお話ありがとうございます!! 時を経ても当時の印象が色濃く残っているのはとても興味深いですね^ ^
改行をしてください。
興味深いご指摘です!小手森城跡は、もう何も残ってないようですが、「虐サツの話」は、語り継がれているみたいです。若い世代はわかりませんが、90以上ぐらいだと、知っている人もいるようです。あの辺は、針道という意味深な土地名です。歴史のロマンですね〜。
非常に面白かったです。あまり光が当てられることのない中世の福島の歴史を分かりやすく取り上げて頂き、ありがとうございます。小手森城にまつわる政宗による「虐サツの言い伝え」を聞いたことがあって、興味を持ってました。背景がわかってとてもよく理解できました。どのぐらいの規模かは不明ですが、今日に語り継がれるぐらいなので、よっぽど負のインパクトがあったんだろうな、と思いました。歴史のロマンをありがとうございます!
この動画見て、昔は、福島のとある地域の結婚式に宮城の人が呼ばれて、祝いの唄としてうっかり「さんさ時雨」を歌うと親族と取っ組み合いになったって話を思い出した。
あと、三春は伊達家が乱取りし過ぎたせいで美人がいない。って年寄りから聞いたことあるけど、わりと福島って近年までご先祖様がされたことずっと根に持ってたよね。今は「福島の人間かそれ以外」くらいの感覚しかない人が多そうだけど。
コメントありがとうございます!
非常に参考になります!現代まで受け継がれているのは興味深いですね…!貴重な情報ありがとうございます^ ^
相馬氏と芦名氏は先祖は同じ平氏で似ている。相馬氏は千葉氏で芦名氏三浦氏の分家。千葉氏は小田原に参戦せずに取り潰される。生き残る相馬氏、郡上藩の遠藤氏は血筋は絶えて名跡だけが残るので徳川綱吉は千葉氏の分家だから相馬氏から継がせればよかった。芦名氏は逆に滅びて、三浦氏は房総半島に逃げて正木氏を名乗った1族が紀州藩、水戸藩と高松藩などの大名になり将軍を出す
田村氏=田村市= 三春町、愛姫、故郷なんで、様々、最初の就職先が、仙台城に近い八木山この歴史見るたび考えさせられます❤
コメントありがとうございます! まさに伊達氏ゆかりの地ですね^ ^
伊達政宗👍👍
伊達政宗と最上義光との対立と書かれてますけどぶっちゃけ大崎合戦にお互い"巻き込まれて"対立した時くらいで大半の期間は一応同盟関係でしたよね
摺上原では最上が援軍派遣してますし
まあ政宗が最上義光への愚痴や悪口をちょくちょく言ってはいますがw
コメントありがとうございます!
仰る通りですね!今回の動画では大崎氏・最上氏の説明が欠けているのがネックですね… 大崎合戦については後日アップの宮城編でしっかり取り上げます^ ^
稙宗の時点で足利義稙の稙の字をもらえたのが重要。なお義稙本人は与えたくなかったとのこと。
コメントありがとうございます!
稙宗の幕府や朝廷への外交政策は、奥羽における伊達氏の立ち位置を確立させる点でも非常に重要でしたね^ ^
福島県の歴史の悲劇は幕末にも・・・。
コメントありがとうございます!
少し先になると思いますが、幕末シリーズも特集予定です^ ^
芦名氏と幕末の松平氏はかぶる。栄光と悲劇というか。猪苗代方面からの侵攻されて落城とかも似ている。
会津にいたままバリバリの巨大勢力になる伊達政宗の世界線も見てみたかった
コメントありがとうございます!
私も見てみたいです!!果たして関東にも進出していたのか……!
初コマンド、よろしくお願いします
コメントありがとうございます!
信長さん!よろしくお願いします^ ^
会津四家に触れられてなくて泣き
コメントありがとうございます!
まさにそれが心残りでしたので、別動画「蘆名氏の戦い〜」で少し触れました!
相馬はないのですか?
コメントありがとうございます!
相馬は今回はかなり削ってしまいました>_< また次の機会に取り上げたいと思います!
摺上原は、政宗が、言わばオフサイドの笛を無視してゴール狙いに行っていた様なものですからね。ネットを揺らしても無効です。
コメントありがとうございます!
まさに絶妙な例えですね! どんなに美しいゴールでも反則であれば認められませんよね^ ^
島津や長曾我部などの地方大名が、豊臣によって本貫の地以外は全部取られたのに対して、
伊達は逆に本貫の地(米沢、桑折)を取られて北の宮城に飛ばされたという形になってるんよね
だから伊達の地元ってどこだ??ってなると現代的には仙台なんだけど、本当は福島や山形の方が正しい(仙台に行ってからよりも桑折以前の方が長い)
コメントありがとうございます!
福島と伊達氏の印象が比較的薄いのは、仰る経緯がやはり大きいですかね…!
米沢もどちらかというと上杉氏のイメージですよね>_
白河氏って白河結城氏のことですよね
コメントありがとうございます!
はい!仰る通りです^ ^
昔の南奥州の勢力関係がよくわかりました。当方は、南相馬市出身、ハリーポッター関係者です。
コメントありがとうございます!
ということは、ま、まさか…… 恐れ多いです…!
伊達政宗も苦労したのですね
コメントありがとうございます!
短期間でよくここまで勢力を拡大させましたね^ ^
伊達たね宗・晴宗・輝宗が縁戚によって築き上げた奥州の伊達家コネクションをぶち壊して南奥州の覇者になった政宗。
コメントありがとうございます!
言い得て妙ですね!それが短期間なのもまた面白いです^ ^
伊達市、白河市、いわき市等みんな大名の名前なのに、なんで会津はあしな市じゃなくて、会津若松市なんだろう?
コメントありがとうございます!他三者と異なり、蘆名氏は相模にルーツを持つ点が要因の一つだと思われます^ ^ (蘆名も相模の地名由来)
蘆名氏(三浦佐原氏)と相馬氏(千葉相馬氏)は奥州合戦以後にほかから移ってきたから土地の名前を使ってない。
その後幕末まで治めた相馬氏の治めた領地は、大名の名前を使い相馬市、南相馬市になった。
@@shootsta4399 ありがとうございます!
@@rekishitravel ほほぅ。ありがとうございます。
私の故郷は三春町です!三春城の近くです!!
コメントありがとうございます!
三春城素晴らしい城跡ですよね!また再訪してみたいです^ ^
めっちゃわかりやすい。伊達以外の登場人物もきちんと知っている人からすると、「なるほど」と思わされる部分が多かったです。
伊達政宗って好きになれないので、こういうのを聞いていると秀吉様様です。
コメントありがとうございます!
南奥は伊達氏のイメージが強いかもですが、最後まで群雄割拠な地域でしたね^ ^
個人的に南奥に伊達のイメージはありません。最後のほうにかすめとっただけのイメージで、蘆名のイメージのほうが強いです。それから昔は阿武隈高地程度でも十分に文化圏を分けていたんだなと感じました。あれがなければ相馬氏なんてひとにぎりにやられていたでしょうね😅
福島って伊達と佐竹の草刈り場のイメージがある。
佐竹氏というのは、常陸や下野までちょっかい出して、結構やばいやつなのか?
コメントありがとうございます!
天正年間の佐竹義重の勢いは凄まじいですね!
常陸北部の戦国大名である佐竹氏は南奥州から北関東にかけての大名や国人らの盟主的存在でした。北条氏や伊達氏と争うことになったのはそのためですね。
福島はなんでも地味だからねぇ。
高校野球も強くないしね。幕末会津藩は頑張ったけどね。
@@室井修-k1r
奇跡的に、磐城高校が準優勝したことあるけど。
@@pontarou01まあ、最近は東北勢も強くなってきているからね。福島もいつかは優勝するかもね。
大名の性が地名になっとるんや無く、地名から大名が性を取ってるんよ😁例えば伊達氏の出自は茨城県下館で元は「館(だて)」やった😃✌️奥州進行に当たり、初の初陣を飾ったのが現在の福島県伊達市で、験担ぎで「伊達(だて)」に改名した🕵️🤔
素晴らしい福島で原発が爆発したのが残念です😭
コメントありがとうございます!
残念です…>_< 支援の動きへの関心を風化させてはいけないですね…>_
伊達は犬すら殺すて有名
コメントありがとうございます!
小手森城の戦いは凄まじいですね… 情け容赦ない!
発掘調査で人骨など大して発見されなかった事で実は大した規模ではなかった事が判明してしまい厨二病政宗くんが義光叔父さんにイキって大袈裟に言っただけだった事がバレてしまった小手森城の撫斬り(笑)ですねw
くっついたり離れたり、
節操ない奴ばかりだ
コメントありがとうございます!
和平と対立を繰り返しつつ、なんだかんだで戦国末期まで南奥諸氏の多くが存続しているのも面白いですよね^ ^
ちょっと端折りすぎた解説。
コメントありがとうございます!
10分尺を目標にしているのですが、より上手く纏められるよう努めます>_
伊達輝宗、佐竹義重、蘆名盛隆は織田権力(信長時代)には従属姿勢を示しており、「東国(奥州)御一統」で佐竹氏がまとめ上げたお陰で、南奥の領主達が織田権力に従属体制が確立した事になりました。しかし、相馬義胤は織田権力に従属姿勢を示さず、本能寺の変を迎えてしまいました。ですが、本当に相馬義胤は従属姿勢を示していなかったのでしょうか。私は、そうとは思いません。何故なら、周辺の伊達輝宗や佐竹義重は信長に属しているのに、流石に信長の援護を仰がずに本能寺の変を迎えることは、絶対にないと思います。ぜひ、歴史トラベル様に御意見をお願いいたします。
コメントありがとうございます!
私もコメ主さんの意見に近いですね…! この時の義胤は輝宗と激しく対立していますが、信長への従属姿勢は同様だったと考える方が自然ですよね。
@@rekishitravel 貴重なご意見をありがとうございます。僕は書いた後に思い出したのですが、確か、『本能寺前夜』という本に九州の大名・九州北部国人州たちが毛利氏と結んで信長権力に対抗する気はなかったと、そういう感じで書いてあり、ということは、相馬義胤は従属姿勢を示していた可能性もあるけど、もしかしたら示していなくとも織田権力には反抗するようにはしておらず、でも信長の九州征伐後ないし柴田勝家の越州(この場合は越後のみ)征伐後に予定されていたであろう織田権力による奥羽仕置にて義胤は織田権力に従属したのではなかろうかと思いますが、再びご意見をお願いいたします。
県庁所在地の存在感の無さに笑うw
自称経済都市の未開の地っぷりに笑うw
コメントありがとうございます!
確かに今回の動画では存在感が薄いですね…笑 尺の問題もあって、より勢力の変遷が激しい他地域を優先しました>_
聴きづらい…
ん~~中途半端