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行ってみたい✨茂木先生のおかげで古代史ミステリーハンターの気分です
茂木先生の豊富な知識と経験でどんなふうに見てどんな風に考えるのか、一緒に旅してる気分で楽しいです♪♪
【訂正】21:24 ×おおむなち→◯おおなむち(大きい名を持つ)27:39 ×長さ1メーター→◯幅1メーター
大国主は多くの名を持つため、オオナムチと呼ばれたともきいたことがあります。細かくてスミマセンw
大穴牟遅神おおなむちかみ(大きい名を持つ)のお名前は、諸説あると思いますが、一説によると出雲旧家の伝承では、文字通りの大名持おおなもちで、元々は出雲王国の王様を意味する役職名だった様です。出雲王国は2王制で、東西2王家から代々の当主がほぼ交代で、主王大名持と、副王少名彦に就任していたようで、おおなもちが、おおなむちや、おおむなちなどの、似てはいますが意味が通じないおかしな謎の名前になったのは、第8代目の主王大名持であった西王家郷戸家の当主で八千矛やちほこ(大国主命)と呼ばれた王の時に最も国として勢力が大きくなった頃であった。大国主は各地の豪族の娘と婚姻することで同盟を結び、子孫を拡大した。『出雲王国とヤマト政権』ー伝承の日本史ーより大国主命は大穴牟遅神や、ほかにも於保奈牟知、大穴道、大汝、オオアナムチ、国作大己貴命、八千矛神(これは本名)、葦原醜男、などなど数多くの別名があるため、『記紀』では、出雲王家(大国主など)の存在を史実として書くとすると、初代神武天皇誕生以前に既に日本には王国があった。ということを認めることになり、それが嫌われたため、神話上の神として書かれることになってしまった。ようです。最近新たに出雲から出土した出雲大社の高層本殿の宇豆柱や、埋納された数百体の銅鐸や銅剣が発見されるはるか以前のことなので、出雲はあくまで神話上の神々の国であった。とされていたようです。
この近くにある高御位山に登りました。縄文からの祭司場だったそうでなんと伊勢神宮と出雲大社との中間点だそうです。岩場も多く山頂の岩場(磐座?)は圧巻でした。機会があればぜひお勧めです。
茂木先生、旅にお供させて頂いてありがとうございます。生石神社⛩🪨、人工的な不思議な形状で、様々な想像をしてワクワクしています♪コメント欄も楽しく拝見させて頂きました。皆様の知恵袋ですよね!感謝!
竜山石(兵庫県高砂市)は初期古墳時代、二上山白石(奈良・大阪県境)は後期古墳時代の石棺に使用された岩です。高級ブランド石みたいなものかな?
失礼いたします。私は子供の頃、祖母から「昔、高御位(たかみくら)の神さまが生石神社の神さまに頼まれて石のお社を作っていたところ夜が明けてきてしまい、慌てて高御位の頂上から竜山に向けて投げたので、お社が横になってしまった。投げた時に付いた神さまの手形がお社の壁に付いている。」という話を聞かされていました。高御位と言うのは石の宝殿から北へ3キロほど行ったところにある標高304メートルの山で、頂上には高御位神社があります。播磨富士とも呼ばれ、昔は瀬戸内海を航行する船が位置を知る目安にしていたと聞いています。石の宝殿の浮石の側面を見上げると、「そう言われれば手の平のように見えるかな」というような窪みがあります。大人になった今祖母の話を思い返すと、この手形のような窪みがあることから考えられ言い伝えられたお話ではないかなと思います。また、地元には「石の宝殿研究会」がありまして、そこの編集委員会が編集された冊子「石の宝殿と竜山周辺史跡」のなかで、「これ(石の宝殿)を作った人たちは最終的に引き起こすつもりだったのか」という考察がされています。これは石の宝殿の基底部分に大ズワリ(座りキズ)という水平方向の亀裂があることから考えられているとのことで、この座りキズの一部は背面から腰をかがめて見れば、見ることができるそうです。この冊子の内容は、「石の宝殿研究会」のホームページのトップページの下の方、『小冊子【石の宝殿と竜山周辺史跡】』から、すべてのページを見ることができるようになっています。興味のある方はご覧になってみてください。動画の最後の「思いついたことがあったらコメントに書き込んで下さい」という茂木先生の言葉に勇気付けられて、コメントさせていただきました。ありがとうございました。
ご教示、感謝です!
ご紹介ありがとうございます。いや〜 素晴らしい資料でした。コメントされる方々の博識に驚きます。長年の疑問が解決出来ました。感謝!
@@Tanaka-Ichiro999 石の宝殿研究会の小冊子、見てくださったのですね。ありがとうございます。祖母から聞いていた話しの影響なのか私は横倒しになっているということを疑ったことがなかったので、この冊子に書かれている「これを作った人たちは最終的に引き起こすつもりだった」ということも(13ページの図もとても分かり易く)有り得るのではと思っていますが、では何故はじめから起こした状態で作らなかったのだろうと疑問に思います。それと、もしどこかへ運ぶつもりだったとしたら・・・正面のあの急な階段になっている斜面を滑り下ろす(?)様子を、時間の隔たりを超えて見に行ってみたかったなと思っています。
@@高御位 さまこちらこそ、素晴らしい資料のご紹介ありがとうございました。私見ですが、最初から起こした形状にしないのは移動する為だと思います。古代はクレーン等は無いので持ち上げる事が出来ず、本体の下に丸太の様なコロかソリをひく為ではないでしょうか? 拝殿の入口付近にソリ状の物を置き、90度転ばせば本体はソリの上に乗り、斜面を下ろし(これが一番難しい、逆に土を盛って傾斜を緩くする?)下の川(海)の船に乗せるのでは? と想像します。ただ、益田の岩船(こちらは石室にヒビが入り放棄という説も)同様あまりに大きすぎて、移動出来ずに放棄と言う事も有ると思います。私は先にTH-camで「生石神社ー御神体の謎」という配信を見ていたのですが、番組内で竜山の石工の方が模型まで作り解説していた内容と、今回の紹介された資料の内容が合致したのに驚き、感動し40年近くの疑問が晴れました。他にも多くある岩磐の謎が解明されれば良いですね。ありがとうございました。
@@Tanaka-Ichiro999 「生石神社ー御神体の謎」視聴させていただきました。石の宝殿研究会の少冊子を見たとき、ここに大ズワリ(座りキズ)があったのでこの位置が選ばれたのかと短絡的に思いましたが、この石工の方のお話では「(職人さんの言い方では)ズリ」を読み切るのは不可能に近いとのこと。それを見極めた人の凄さ!それ有っての、起こし移動させるための造形物だったということなのですね。ひととき、いにしえの人々の偉大さに思いを馳せることができました。ありがとうございました。
家から車で30分ぐらいの場所ですが、凄いところだと聞いてはいます。秋には禁忌が解けるのでパワースポットと聞けば是非行かねば。播磨国住人が武蔵国住人からレクチャーを受ける。先生が近くにお立寄り頂いただけで感激です。ありがとうございます😊また来て下さ〜い!しかし、このチャンネルには地元民が割といらっしゃることにびっくりでした。
茂木先生が参られた時は鯉のぼりだったんですね。先日私が行った時は短冊で夏越の大祓でした😊近くに平定された阿賀の神を祀った英賀(あが)神社があります。播磨風土記には「伊和大神の子、阿賀比古 阿賀比売二柱、此処に在しき故れ神の名によりて里の名と為す」とあります。阿賀の神のその後が気になりますね…ちなみにこの辺りは神輿を激しくぶつけ合う灘(播州)のけんか祭りが有名で、神功皇后が三韓征伐の際に舟と舟をぶつけたことがルーツとなっているようです。
ようこそお越しくださいました。冒頭の生石橋は、漫画「よつばと!」11巻102Pにも登場します子供心に「へんだな、ふしぎだなー」とは思いましたが、その不思議なものが当たり前に地元にあるのが普通なので、深く考察してきませんでしたね…。全国いろいろめぐりましたが、たしかに似たようなものを見たことないですね
以前、高砂~加古川を紹介させて頂いた者です。私の地元に、本当に来て頂きありがとうございます。感激です。色々説はありますが、天津神の命を受けた大国主命・少彦名命が高御位山で国造宣言を行い、石の宝殿で玉座を造ろうとしていた説、山全体を御神体とし、高御位山を中心とした巨大祭祀施設を造ろうとしていた説などがあります。ユダヤ秘宝説、アーク説、キリストの聖遺物:盃を石の宝殿に隠した説までありますw。高御位山頂には降臨された「磐座(いわくら)」があり、そこに立って見渡すことができます。眼下の高砂~加古川には大量の古墳群があることから、やはり何かしら建造しようとしていたと思われます。その他近所には、聖徳太子建立の「鶴林寺」、ヤマトタケル生誕地「日岡神社」などがあります。ごゆっくりしていって下さい。ちなみに個人的考察ですが、この眼下は、京の都と同様に風水四神獣、青龍(東に川):朱雀(南に大地か海):白虎(西に道):玄武(北に山)に完全に当てはまっておりますので、その辺も国造りに関係しているのではと推測しております。※昔は山陽電鉄ぐらいまで海です。
えわー
もう少し上流、加古川バイパス位までは海だったはずです。
良い発言ありがとうございます 応援します
@@おっちゃん-q1l 山陽電鉄付近の地名が、大塩(塩田地帯)・曽根・尾上の松、浜の宮。聖陵山古墳や古代大中遺跡もあります。この辺が海岸だったと思います。加古川は、日岡あたりから、高砂・加古川市方面へ2本に分かれていたようです。したがって高砂駅付近は中洲(一部、先が加古川バイパス付近)ですね。遺跡や古墳(尼塚・天神山・面向谷・宮前・平荘湖・西山・聖陵山・具平塚・日岡・西条・宮山・長慶寺山・愛宕塚)がやたらと密集していることから、やはり国造りと関係しているのではと感じます。
播磨国風土記によると、石宝殿の東の加古川市東神吉町に播磨地方では唯一の大和朝廷の屯倉が置かれてます。当時は益気(オケ)と呼ばれ現在も町名の由来や、升田山麓の神社に名前が残ります。当時、海も近く重要ポイントだったようですね
元兵庫県民ですが、茂木誠先生が行かれるまで高砂市の巨石群は詳しく知りませんでした。どうせなら茂木先生は関西にセカンドハウス作りませんか‼️
茂木先生お疲れ様です。石の宝殿!ロマンがありますね。
尺が長いのも良いですね・・・滝行の映像も、こういうロケーションは癒し効果があって、ゆっくり見られます・・・
メキシコのユカタン半島にあるチチェンイッツァで見た遺跡に似たようなのが有りました。
何という遺跡ですか?
マヤ文明のチチェンイッツァ遺跡内にある遺跡の一部に似たようなのが有りました。
お早う御座います!何時もお参り出来ない場所へ誘(いざな)われ、遠隔参拝できます事に感謝して居ります。何とも不思議ですねぇ。???が頭の中に詰まります。興味惹かれるものがあります。姫路と明石の間なら何とか動ける内に訪ねてみたいと思いました。いつも有り難う御座います。
面白い❗️楽しい❗️知らない事が多い、この日本が大好き💕
分からないから神秘的、分かってもきっと神秘的。Japan is a Bravo🇯🇵🇯🇵🇯🇵
生石神社は、岡山の行きたかった神社と姫路城へ行った後に行きました。駅から少し遠いんですよね〜
何度行っても、圧巻の迫力と共に、謎が深まります。しかもその読み方です。茂木先生の博学で、解明して下さい。周囲では現在も採掘しています。
14万人おめでとうございます。最近動画アップの頻度が少なくて寂しかったです。久しぶりに神社巡り以外の動画も期待してます
歴史旅が楽しすぎて…
神社巡りの旅も歴史解説動画も最高です!
おおー、写真でみたことはありますが、先生の解説がきけて素晴らしいです。
カメラの撮り方と音声が一緒に見にいけた感じがして良い。こういう動画増えてほしい。
子供とか近所の人の?世間話が凄く聞こえて、それも面白いですね
おばちゃんの世間話が止まらず…収録に苦労しました。
リアルで楽しい(笑)
本日、浮石見てきました♪凄い巨石ですね。きっかけを頂き感謝です。
パッと見て、エチオピア正教、聖地ラリベラにある聖ゲオルギウス(ジョージ)教会を思い出しました。エチオピアは造山帯なので火成岩が多いところですね。少し調べました。定かではありませんが、建設当時の王ラリベラが夢見で聖ゲオルギウスからのお告げがあり作ったとされ、ノアの箱舟を表している教会とありました。ワクワクしますね❤
私も、ぱっと見でエチオピアの聖ゲオルギウス神殿を思い浮かべました。その他の考察はないので、皆様のコメントが非常に面白く、いつももぎせかチャンネルの視聴者の博識に感心しきりです。
30年ぐらい前に行きました。懐かしい映像です。説明をお聞きして思ったのですが、渡来神が在地神(豪族)と人々を使役して作らせていたのではないかと思います。なので、反乱を鎮圧したけれど工事が継続できなくなり放棄されたのでしょう。知らんけど。
出雲神話の神様という事で、この石は古墳時代後期の出雲東部と下野で多く築造された石棺式石室の切り出し工程を連想させる様な気がします。この石室は普通の石室の様な積み石ではなくユニットバス的な全壁面一体型の築造方式になってるのですが、何故島根と栃木なのか兵庫にこれがあるのかは謎ですね…私個人的には任那4県割譲後の出来事と何らかの連動があるのではないかと想像しています
17:07茂木先生が参拝の為に正面へ近付くと風が吹きましたね歓迎されているんでしょうね
よく風が吹きます。
「石の宝殿」レイライン尖った先は、出雲大社(出雲山)を向いている。2点を結び、奈良に伸ばすと、益田岩船。香川県金刀比羅宮(厳魂神社)と石の宝殿を結んで伸ばすと、宮城県塩竃神社。出雲大社と金刀比羅宮を結んで伸ばすと剣山。伊勢の神宮を転々と移動して、宝を隠す場所を探していた。
石工=ユダヤ系の方 もしかして、実は昔からの信仰巨石で、それを加工したから祟りがあって中止になったかも。実家が明石なんで、帰省したら生石神社、赤穂まで足を伸ばして大避神社に行こうと思います。
いつも先生の動画で勉強させていただいております。私の地元を取り上げて頂きありがとうございます。播磨周辺も不思議だらけですが、よく見ると日本国中不思議な物やことだらけなんですよね。これからも学ばせていただきます。
始めまして。私も10数年前、友人と参拝させて頂いた事があります。JR宝殿駅で下車して駅前で貸し自転車を借りてエッチラオッチラ漕いで参拝を。頂上でお弁当を頂きました。気持ち良かったです。憑きものが取れたみたいでした。
ブラウン管テレビみたいですね。一番最後に下を切り離し、画面を下に、背中の突起を上にして、男石を作りたかったのでは❓荒覇吐信仰と繋がってるかも⁉️茂木先生の巡る地は本当に興味深いです✨いつか絶対見に行きます✊
2号バイパスを通る時に遠くで眺めるだけで行った事なかったけど今度は行ってみようと思います。
日本にもこんな面白い場所があるんですね。もぎせかさん、ありがとう!
おおしこ・・・、つまり溶岩が海底から噴出、凝り固まった、生成のさまを、名前にして呼んだのかと思いました。いつもありがとうございます。
インカの遺跡みたいですね・・神戸に近い所にあるのに知りませんでした。ありがとうございます。
ですよね。インカ マヤ アステカに似てますね
先生、貴重なお話ありがとうございます🙇生石の話し、興味深く、不思議しかありません😅昔から、宝殿という駅は知ってましたが石の宝殿との関連は知りませんでした。動画見ながら、なぜか秦氏が関わっているように感じました。生石→大石神社→大避神社→土木技術の秦氏、短絡的ですかね😅研究してみます
おはようございます。やはり脳内によぎるのは巨人説でしょうか?
うちの周りにも「石」を持つ地名がたくさんありますが、昔の人は石に対してなにか特別な思いを抱いていたんでしょうね。
秀吉が三木城攻めでここに陣をはろうとしたが神社側に拒否されて焼き討ちしたそうです。戦国武将ヤバい。
斉明天皇陵という説が有力の牽牛子塚古墳は、双室墓で、巨石で2部屋分かれた造りだそうです。益田岩船も石の宝殿も、未完の双室墓の切り出しなのではという説は、有名なのかと思ってました。白石太一郎氏も、益田岩船は失敗して、その教訓が牽牛子塚の時に生かされてるって話をされてるようです。亀裂が入りにくい柔らかい凝灰岩を撰び、保護なため大きな柱石を16本も並べたのでしょう と。2014年10月にNHK歴史秘話ヒストリアで、『日本にもあった? 謎の巨石文明 ~目覚める飛鳥 石の女帝~』という回があり、益田君船と高砂の石の宝殿も、未完成の石室という説が番組内でも紹介されてました。
東向きの台座かな?その上にまた乗せるのかな石?。反乱鎮圧で予算切れて放置されたかもね、出雲族系。
岡山に岩倉神社、鬼の城他、古代の石工職人が関わる遺跡があります。(突厥由来説もあり)何か関係がありますでしょうか?
いつも楽しく拝見しています!生石神社、初めて知りました!珍しい名前ですね。とても興味深いです。全く関係ないのですが、家の近くに黛神社(まゆずみ)という小さい神社がありますが、その名前の由来はマオリ語ではないかという説があります。「まゆずみ」を「マイ・ウツ・ミ」とすると、「川から荷物を積み下ろしする場所」という意味になるそうです。そこはまさしく船渡し場所で栄えた場所だったらしく意味がぴったり合います。マオリ語と日本語は似たような言葉が多いと言われていて、縄文時代にポリネシアから入ってきたのではないかという説があります。とても面白いですね。
ポリネシア語は、日本語の祖語だと思います。
返信ありがとうございます!次回も期待しています!日本を取り戻すには歴史を取り戻せねば!
こんにちは、とても興味深く拝見しました。パッと見て何かしらの棹石、軸石、柱石の様に見えました。突起部分はホゾであり、大入れ加工がされている様にも見えます、そちらが底面になり 石を90度起こしあげて突起部分をホゾ穴へ。どういった理由かは私の勝手な想像でしかありませんが、加工途中で放置された石材なのかと思いました。(職人への指示内容が途中で変更されて不要になった等々)どういった理由だとしても、これだけ巨大な石材にこういった加工するには大変な苦労をされた事だろうと思います。
配信ありがとうございます。 待ってました👏👏幼少の頃のムーの記事で知ったのが最初で当時は浮石が注目でした。他の方のコメントにも有りましたが上部構造が気になります。堆積はカモフラージュ? 造形的には益田の岩舟と似ている?様な気がする。竜山の石工からの見解が [生石神社ー御神体の謎] で配信されています。よろしければご参照ください。竜山石は古墳の石棺では最上位ブランドだそうで、赤色部は過去の落雷と黒田官兵衛の焼き討ちでの酸化、変色だそうです。また、古墳の小さい石棺は工事殉職者、本命は充分な大きさだそうなので後者が別の物に加工、持ち去ったのかも?追記 (石の宝殿研究会、資料より)天磐船と言われる石棺のふた(縄掛突起6ヶ付き、6世紀後半製2.7×1.7)が同山の西側より発見されています。
他の方のコメを拝見し、牽牛子塚古墳の横口式石槨を調べると石質、構造が非常に良く似ています。竜山の石工の方が曰く、後部の出っ張り側が石槨の上になる(後部から棒状の物でこじると石槨本体が倒れる。水を抜いての調査もしており、浮石とは地面から切断されているという意味合い) そうです。シーボルトのスケッチ時から現在に至るまで、上部の土砂堆積量(本来、平面であれば風雨で脱落)が同じなのは、上部入口部分は凹状になっているのでは。要は石棺でなく石槨(横口式石槨)だと考えると、大きさも合致するように思います。まあ、いくら山の中腹で下に川が有っても運搬は大変でしょうね。皆様の博識なコメントのお陰で40年来の謎が自己解決出来ました。感謝!
生石神社の🪨石の宝殿は、少し前の茂木先生の動画でもご紹介されておられた橿原にある益田の岩舟🪨とペアのセットで作られた陰陽男女合体による子孫繁栄を表すモニュメントであったらしく、ブラウン管テレビの様にも見える突起状の形状は、男性のシンボルを意味する陽石だそうです。初の女性天皇である豊御食炊屋比売とみみけかしきやひめ命第33代推古天皇が男尊女卑の大乗仏教の広がりに対抗するため、男尊女尊である古代出雲から信仰された、出雲荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に埋納された銅鐸、銅矛に刻まれたバッテン✖❌印と同じく男女の交合による生命の誕生を祈るサイノカミ女神信仰復活の一大国家プロジェクトのシンボルとして畝傍山⛰中腹まで運ぶ予定だったもののようですが、ようやく山中から切り出されたまま運搬する直前の状態で放り出されて製作途中のまま残されてしまったのは、製作責任者の大連であった物部守屋さんが八尾市西部で仏教擁護派の聖徳太子(574年~622年)・蘇我馬子(本名石川麻古、?~626年)の連合軍との間で起きた戦で戦死してしまったためのようです。大元出版㈱ ー伝承の日本史ー 『出雲と蘇我王国』 斎木雲州氏著より聖徳太子は、物部氏との戦勝祈願のため四天王を祀り、その加護によって物部守屋を打ち破ることができたとして、その地に大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ、八尾市太子堂3丁目)を建立したといわれているようです。(一部修正しました。)茂木先生、ハートマークが消えてすみません。💦
後ろの突起が、横に倒して屋根になるんではないか説もあるようですね。不思議ですよねぇ。私も参拝した時、( ´゚д゚)!????となりました。人工的なのに、畏怖の念が湧いてきます。山頂が、また手を合わせたくなる素晴らしい景色でした。大正天皇もこの景色をご覧になったのかと思うと、さらに感慨無量です。
石を横から真直ぐ削ぐのって超むずいらしく必ず上から削ぐらしいです。出張りは後で引き起こすためのもののようです。鬼の雪隠(せっちん)と同じく、くり抜き式横ロ石槨でしょうな。
竜山の石工の方が言うのには、まず底の面を決めてからでないと出来ない、との事でそれが現在では難しいと言われてました。
巨石をよくこんなに垂直に切り出せたもんだな・・・当時の日本人たちの高度な技術力よ
この付近には古墳がいっぱいあり、小さな古墳は場所によっては山と一体化しており標識がないと分かりません。今は不可能ですが、石棺を再利用し石仏を彫り込んだもの、石仏の光背の代わりに使用したものなども道端にあります。
正面の溝が怪しい天板の土を取り除いてみたいw出っ張りは前に倒れないためのバランス、木材をひっかけてこの原理で石を持ち上げずらしたり細工をしてる。巨石は空洞で水溜まりは水抜き穴を隠す、石の中か下に宝物を隠したまたは石棺。どこか壁面に穴を空け中に王の顔がある金のコイン20枚小さな金のマリア像を隠し入れ石で封をする。とかw
今年の年初めに私もこちらに参拝いたしました。石の宝殿の建造は一説には物部守屋によるものとも伝えられているようですね。これは想像なのですが、もともとこの向きで想定されて設計されたもので、宝殿山自体が女性器(ヨニ)+石の宝殿(浮石)が男性器(リンガ)、隣接する竜山がナーガを示しているのでは?と考えています。伊勢の方角を背にして太陽のエネルギーを宝殿山に注入し、エネルギーを蓄えた生きた石で王族の古墳の棺を作っていたと考えると楽しいですね。ちょうど伊勢の方角から太陽が昇ってくるのはこちらの秋祭りの頃でしょうか…🤔いつも貴重な動画をありがとうございます。追伸こちらとは関係ないのですが、大己貴命出生地伝承の残る神戸市西区神出町、雌岡山(めっこうさん「雌牛」)上にあります神出神社+(裸石神社・姫石神社)も面白いですので、もしお近くに来られることがありましたらオススメですのでぜひお立ち寄りくださいませ。
和歌山県に生石(おいし)高原という所があります。天気が良ければ淡路島まで見渡せます。ここの岩も使われていたのでしょうか?ちょっと調べたくなりました。
なるほど!
@@maomao96363 和歌山の生石神社(ショウセキジンジャ)主祭神は大穴牟遲命 少名彦命と有りました。繋がってたんですね。先生のお蔭でまたひとつ点と点が線になりました。ありがとうございます!
年代測定装置、炭素系で調査は可能ですかね?ミ ガド だったりしてw
こんにちわ、古代遺跡や神社の現地紹介を楽しみにしている一人です。小生の三角形解法で解明出来ましたので、参考になれば幸れをいです。 石の宝殿(34 46 57.32 N, 134 47 42.43 E)、仮・Alien FACE,(30 1 24.14 S, 21 1 5.43 E), CP-15683km/石の宝殿、(15 11 58.94 S, 7 29 26.23 W)、3箇所で形作る三角形の3辺の長さの合計;∑3=(15683km+3345km+13886km)=32914 km , この合計距離をGanymede周長;16550kmで割りますと、1.99→三辺の和は、ガニメデ周長の2倍長を示しています。だからどうした、、でしょうが(苦笑)解説しますと、先ずは,はやし浩司さんのYou Tube、#2375-12にAlien FACE,図形が紹介されています。ETの顔です。Area51、America から、15976km≒太陽直径;1392700km/177;伊那女(王)=@7868kmです、仮にイナンナ定数とします。古代遺跡の相互距離には、@イナンナ定数モジュールがとても良く合致シて適合シています。実証例30000件越えました。 石の宝殿からKaaba(メッカ)にラインを引くと、KH(機首方向)209.46で、9114kmです。なんとなく黒い箱のセット方向とも合致してるように思えます、、逆に、KH110.46方向にラインを引いて世界一周させると、大仙陵古墳芯()、石舞台古墳芯、そして、遥か遠くに感じるが、モーレア島火山辺りを通過しています。地球周長は、およそ40050km前後ですから、15683kmを差し引くと、仮に24367km前後となります。金星直径;12104kmで割ると、2.013、ざっと8方向に放射線の表示を持つのが、イナンナのシンボルマーク≒金星 なぜならば、ゼカリア・シッチン氏が著書で、太陽系天体は外側から数える、とシュメール解読結果を記述してます(日本語訳本、さらに45ページには、、シュメール語は当初、縦書きされていた!!と)この放射線を2倍にしたらイシュタール宮殿の大きなマークそのものです。ただし縄文文化が、恵那山で生誕したイナンナが伊那地方で育ち、やがて、富士山一帯に大きな縄文王朝を築いた可能性は高いです。7000年まえに、富士山大噴火が起きて縄文遺跡が埋まった挙げ句に寒冷化起きたら、富士山頂からエルブラス山頂までの実距離が、@7868kmで、スキップして、さらに西南方向などへ飛行していったと考えています。 CP-15683km/石の宝殿、という交差点は、Area51からAlien FACE,図形ラインと、Kaaba・石舞台ラインとの交点です。この交差点には他にも数本の重要なラインが収束しています。大仙陵古墳も、石舞台古墳も、Serpent mound を向いて築造されていますと、はやし浩司さんの動画で知りました。2つの古墳間距離=33km+10929km+10923km=21885km≒21343km;火星周長*1.025、←誤差率2.5%で、Serpent mound tail を頂点とした、ほぼ二等辺三角形だと見なせます。この手法で解くと、四国88箇所巡りとは、大窪寺~北極点=6217km≒3122km*1.99、、霊山寺~北極点、6221km、2つのお寺間距離、27.5kmで、合計距離;12466km≒12742km*0.98、歳差運動で極点は移動します、20万年前に、アヌンナキは地上に降り立ち、金採掘始めた。3600年頃に、ET同志で仲間割れして核攻撃で古代都市を破壊して、大半は去った。が残党組がバトルしてるようです。図形などを、近年に描いてくれるのは、人間創成したEnki、Mardukの派閥かな?と考えています。 天皇御座所、(35 40 56.22 N, 139 45 7.76 E)、CP-15761km/GN・ARROW→@7868km*2.003、北極点までの距離はなんと、6052kmですから、金星半径距離。つまり、イナンナの星;金星モジュールでレイアウトされています。世界最大の海底矢印からは、@7868kmの2倍長。K2峰からは、5610km≒216km*26=5616km、Gematria 26; ヤハウエ;最上位の神。と、なります。海底金泥の荷揚げ場;モーレア島から、天皇御座所は、9464km≒3122km;Europa *3.03です。日本近辺の古代遺跡群は、このEuropaのモジュールがとても良くマッチしています。長い文章をお読みいただきありがとうございます。乱筆失礼します
こんにちは。縄文文化が、恵那山で生誕したイナンナから始まる文明であった。凄いですね。日本生まれなのでしょうね。
おはようございます。元々、縄文時代の自然信仰の場所で、石を切り出そうとして厄災があったのではないでしょうか?かな😅
未完のゾロアスター教の祭壇では?石の切り方がペルシャ的な気がします。もしくは、ミトラ教の祭壇か?いずれにしても神道的ではないと思いました。
マニ教かも
何処かと思えば播磨アルプス南端の生石、七世紀の屋島城や対馬の金田城の様な古代城朝鮮式山城を神社にしたようなところですね😊その播磨アルプスですが高御位神社のある高御位山を中心に鹿島神社を囲む様な円形の山容で元々はカルデラだったのか?そして全体的に岩山で古墳も点在して不思議なところです😊大陸系の築城構造物なのでしょうかね〜🤔
こんにちは茂木さんの動画他のチャンネルでも拝見させていただいております。とても想像力を掻き立てられるお話解説楽しませていただいております。この巨石を見た第一印象巨大な灯籠の上の部分が寝転がっている感じに見えました後ろに突起物があるのはこれを90度手前に回転させて建造物?か何かになるのではと感じました後部にある突起物がゴロンと起こして上にくると完成に近い姿になるのでは・・・なんて思いました。いずれ起き上がるために90ど回転させるので、底辺部分も削られているんじゃないかな〜
石や木々があまりに強くて、日本を収めるのが大変だったけど、なんとかなったなー。みたいなことをオオクニヌシ様とスクナビコナ様が会話した。みたいなことが記紀のどこかにあったような気がするけど、何か関係があるんでしょうか。ちなみに塩竈は地元で、日本に異変があるとき水位が変化するというもので、不思議ですよね。
生石子(お/いし/こ)が元来生(お)ふ、生(お)ひ立ちの「お」、送り"ふ/ひ"が石の"い"を引き込んで長音化「おーしこ」(「おふしこ」「おひしこ」)子が消えたのは好字令713年以降かと
ユダヤの三種の神器はここにあります。秋祭りで.使う神輿には石版が入ってます。神輿2台で石版2枚せっとなので十戒が刻まれているかもしれません。まつりの一場面の赤ハヤシはアロンの杖の威力を表して居ます。証拠はもっとありますが、この辺で終わります。
もう少し続きを書いてみます。ここはエルサレムです。前提知識1.動画の最初に出てくる川(法華山谷川)を”ヨルダン川”に見立てる。前提知識2.ここの石の宮殿は物部守屋が作った説があります。モリヤ山の宮殿です。前提知識3エルサレム.宮殿の東向きの階段を降りると神輿(アーク)を担いで渡れるほどの川がある。”アークヨルダン川を渡る”というの聞いた事がある人もいらっしゃるかもしれません。この辺で終わります。
こんにちは、興味深い考察ありがとうございます。質問です。私は姫路市出身者で地元では灘のケンカ祭りがあります。アロンの杖の威光を表す赤ハヤシとはどこのお祭りの一場面になるのでしょうか?
@@kumitan-hs8bz さん こんにちは、赤というのは猿田彦の事です。赤い衣装にモンペを穿いてます。手には6尺ほどの棒を持って神輿を守ってます。シデ棒とは区別されるべきアイテムです。さて、神輿同士をぶつけ合い屋根などがひとしきり傷んだ頃に一旦神輿を置きます。担ぎ手が能舞台に上がり、”赤よ~”と大声で猿田彦をからかう仕草を見せます。猿田彦が棒を振って騒ぎを鎮圧します。魔法の力を持った棒を演出しています。
ありがとうございます♪確かに松葉八幡宮には能舞台がありますが、そんな場面があったことは初めて知りました。今年は注意してその場面をぜひ見て見たいです。
@@kumitan-hs8bz さん もう一つ言うと神輿が3台のところの祭りには猿田彦は出てこないはずです。ここからは推定)神話の通りだとしたら2台は神様が乗っていて、3番目の神輿は天宇受売命(アメノウズメノミコト)が乗っていてアメノウズメは猿田彦と結婚します。従って神輿は一台減って猿田彦が3台目の代わりをします。<おまけ>道案内の神様である猿田彦に案内を頼むためにアメノウズメは着衣の肩ひもを外して両脇からたらした姿で猿田彦の前に行きました 以下省略
茂木先生は全国各地に神出鬼没に現れますねw。予備校で教えながら出版と神社旅、ものすごい量のタスクをこなしてるように思うのですが、その仕事術が気になります。一日のルーティン動画とか見てみたいです。
影武者使ってます。
23:10 ”まさにテレビのブラウン管…” の言葉で、じゃあパブリックビューイングの場所なのね、と思ってしまう単純な私・・・・・・・
近江の阿賀神社も巨石ですね.阿賀一族が作っていたのを誰かが阻んだのでは?酒船石とか熊本のトンカラリンとかエジプトからペルシャ経由でやって来た渡来人がいるんでしょうね.石工(フリーメーソン)の系譜?
阿賀神社にも行かなければ!
縄文時代の話もされてましたが、飛騨 下呂の金山巨石群は、縄文時代の天体観測カレンダーのような配置だと言われてますね。夏至 冬至 春分 秋分、閏年か巨石でわかる配置になってる高精度な天文観測所だとかいう話。巨石が人工的に切り出しされてるのかなどは、私、行ったことがなくてよくわかりませんが、飛騨王朝や【羽根ライン】エリアも近いから気になります。
金山は自然石を動かした感じですね。ここは人工物。
@@maomao96363ありがとうございます。田中英道先生との共著『日本とユダヤの古代史&世界史』、読んでます。磐船神社に参拝された動画の時のお写真も掲載されてて良かったです。昔から行ってみたいと思ってたのに、なかなか行く機会がなく、帰省した時に行きたいなと毎回思ってながら、なかなか行けなくて… 臨場感あふれる動画、良かったです。1人だと入れないんですね。獅子窟寺の巨石群もセットでいつか行ってみたいです。
生きている石。実際石に苔や木、草花が生えている状態のものは日本ならではらしいです。生きている(エネルギーがある)からこそ生育する別個体が乗っかることが出来るそうです。
阿賀の神・・・阿賀野川の阿賀は、開墾しても水田にならない土地という意味とか墓とか水に関係するもの等の意味があったような、なかったような。
aqua はラテン語で水とされていますが、仏教を通じて仏前に閼伽(あか) の水をお供えします。阿賀野川にも繋がるのでしょうね。
西方向の近隣に「あが」という地がありますね現在は姫路市になります
2011年初版 文春新書『天皇陵の謎』矢澤高太郎 著のP267~271に石の宝殿が書かれていて、考古学者 猪熊兼勝先生の説を 最も説得性があるように思える と紹介されてます。☆☆☆~ 益田岩船と同様に90度の引き起こしを予定した未完の石棺式石室でしょう。大きな亀裂があり、全体を小面東側に倒せば必ず石が裂けると考え、作業が中止されたのだと思います。益田岩船と牽牛子塚と年代と構造がまったく同じです。斉明天皇の墳墓のために造られたのでしょう。益田岩船と石の宝殿は、あまりに大きすぎたために失敗し、最後に完成したのが牽牛子塚古墳。三つとも工人は違うと思います。三ヶ所コンペのようなものが行われたかもしれません。 ~☆☆☆みたいな感じの記述があります。私が持ってるのは初版本です。茂木先生、いつも配信楽しみにしています。
シーボルトのスケッチ、上手すぎ🤣。それはともかく、この謎の人工的巨石・・・あの「石工職人」たちが造り上げた「失われた〇ーク」にしか見えません‼神社の縁起は、出雲族が播磨に移住していたことを示唆している気がしますね。
面白い❗️想像して、ワクワクしてます♪
先生 オハヨ~ございます✨7:39の入り口の左柱に大国主大神と並んで 生石子大神 と表記あります🧐 なので「お・いし・ こ」が語源かもデス🤔🥰宝殿は トンガリ部はやっぱりロープひっかけてバッタン倒して最後は杭になるのかな~とか🤔それとも屋根に❓️ 木が生えてる所はくぼんでいるってこと❓️🤔イロイロ不思議~🥰 いつか…プレミア公開で皆さんでチャットしてワイワイ見てみたいデス🥰✨
茂木先生!!宝殿にお越しだったんですね!!!!知ってたら『古代史&世界史』の御著書にサインお願いに走っていったのに~😆生石神社からの初日の出はとてと美しいです✨
茂木先生を困らせるとは、石の宝殿すごい遺跡です!縄文の人たちは巨石を自然のあるがままの姿で崇めていたと思います。なので、巨石をこのように加工できる、石工の高度な技術を持った民族が渡来したと思えます。山や巨石のような自然を崇めていた地元の人々の中には、反感を持つ人もいたのではないでしょうか?神社の伝承の中に事実が含まれているように感じます。六甲山周辺は活断層も多く、地震の多い地域だと思います。阿賀の神の怒りが地を揺るがしたかもしれません。石宝殿の別名は鎮の岩室(しずのいわや)と言うそうで、宮殿が未完成でも国を鎮めるという意味なのだとか。でも、あの巨石、下を切ったとしてもどうやって起こすんでしょう?本当に宮殿の屋根の形なのでしょうか。ぜひ一度は行ってみたい神社がまたひとつ増えました!私も現地に赴いてその不思議さと荘厳さを感じてみたいです。茂木先生、ありがとうございました😊
ここは関西でも有数のパワースポットです。私は年に一度お札を貰いに言ってます。
エチオピアの世界遺産「ラリベラ聖堂群」を想起しました!あれも、掘り込んでいくスタイルです。何かつながりがあるのか…
イエスの弟が石切彦と呼ばれている説もあるくらいなので石工の渡来人の技術なのだろうと思います。宝殿のあたりは秋祭りが盛んで生石神社も神輿をぶつけあう祭りがあります。このあたりでは「灘のけんか祭り」という祭りの方が有名ですが、そちらは神輿を屋台(やたい)と呼び神功皇后が三韓征伐を行って帰ってきた船を神輿を見立て、船についたカキやフジツボを擦り落とす様子を表して屋台をぶつけてるそうです。ちなみに掛け声はヘブル語です。大河ドラマの黒田官兵衛を誘致の際、キリシタン大名をもっと知ろうとキリスト教の洗礼を受けて聖書や歴史を調べた方がユダヤのことを知り、自分達が古くから行ってる風習とユダヤの共通点を指摘していました。
不思議ですね。
「おおなもち」という名の場合は、征服地を意味することが多いと聞きます。神社の縁起は、事実を混ぜた話と邪推します。御神体の巨石を削って、厄災が訪れて放置したのかもしれないですね。貴重な動画を、いつもありがとうございます!
なるほど〜。厄災説ですね〜。
いつも興味深く拝見しています。ありがとうございます。石の宝殿についての考察を記させていただきます。シームレスな石室を構築するプロジェクトだったのではと思います。巨大な塊を切り出し、目的地まで移動し設置。移動設置後に石室空間を穿って形成という流れです。塊で移動することで、移動時の振動や負荷によるクラック発生の可能性を軽減できます。側面のくさび形突起は、設置時に水平と方位を正確に出すための仕掛けだと予想します。設置場所に予め四辺水平な基礎を構築し、中心にくさび状の窪みを形成します。移動した巨石を横倒し、くさび形凸をくさび型凹に滑り込ませます。その後これを穿ち、継ぎ目のない石室をつくります。そのような妄想が広がりました。
竜山の石工が曰く、正にその通りの事を言われてます。
後ろの出っ張りは90度前に倒して天辺となり、現在木の生えている部分が正面となる。実は木はカモフラージュでその部分に本当の何かが彫られている可能性♪あくまでも勝手な想像ですが。撤退した理由は龍の逆鱗に触れる何かがあったのかもしれませんね。🐉龍は何か宇宙と関係してそうですね〜。大国主命は国譲りをした・・・。勝手な想像ですが、この地を譲ったって事⁉️
神代文字とか彫ってあったら面白いですね
行ってみたいですね。この辺りで採れる石は最高級の良石で、古代に天皇の墓の石棺に使う為、わざわざこの辺りで採れる石を採用したそうですね。
自分の個人的な勘ですが ラリベラの岩窟教会群に似ていないでしょうか 何故かあの風景を連想させます
ここに先日参拝しました。関西にお越しの際は六甲比売神社か越木岩神社へ!
保久良神社、伊弉諾神宮、多くあって回りきれませんね。
私も以前行って驚きました。本当に謎の構築物ですよね… 何に使うために作られたのでしょうか… いつ作られたのでしょうか… 出雲の神々が関わっているのは確かなようですが… どなたか解明してください!
物部一族が隆盛だった時代の産物です
失礼します。最近先生の動画にハマりだしました、本当に楽しく勉強になります。ところで、先生は大分の国東半島にあるウガヤフキアエズ朝のものとされる石刻文字がある巨石についてはどのようにお考えでしょうか?長文スミマセン。
見てみないと何ともいえません。
@@maomao96363 ご返信ありがとうございます。突然スミマセンでした。
石の宝殿は地元です。来ていただいてたのですね。
製鉄所?高温に耐える炉をつくろうとしたのではないだろうか?そして、まっすぐな青銅をつくるために垂直に切り込みがあり、周りの空間に火を入れたのではないかと想像できます。
自分夜に行きました 幻想的で夜景と似合ってました 昔からあるですね すごいことだ思います
生石は浮石とずーっと小さい頃からばーちゃんに聞いてました。浮いてるかなぁ?なんて見てました。笑浮いてる事から生きてる石なんです。宝殿の石山は墓石に使われてる貴重な石山なんです。
私の加古川の知り合いは幼少の頃、ロープを持って侵入し水中でロープを張り、浮いていない事を確認したと言ってましたね。悪ガキです。
ウィキペディアしらべましたところ、生石神社は『播磨国風土記』の大国里の条にある石で、物部守屋が作ったという伝承があるとありました。石を加工した技術をかんがえると、斉明天皇の時代の飛鳥京っぽい印象をうけます。しかしこれは大国主の時代と異なるので、伝承には異なる時代が混在しているのでしょう。阿賀神=県(あがた)という推理をすると、また違ったストーリーを描くことができるのかもしれません。生石神社のある播磨国印南郡は、景行天皇の后・播磨稲日大郎姫(ヤマトタケルの母)の出身地であって、播磨御宅(益毛里)が設定されたところのようです。この后はキビツヒコの子孫ですから、景行天皇以前から大和政権の直轄地のような性格の土地「県」であったと推測します。すると物部守屋はここにいたというのでしょうか。阿賀神とは関係あるのでしょうか。阿賀神の反乱は、丁未の乱を指すのでしょうか。うーーん。。。。結論はいそがないで、もう少し調べたいと思います。
さらにしらべましたら、『播磨国風土記』の餝磨郡英賀里に「伊和大神の子、阿賀比古と阿賀比売の二神」とされているのがみつかりました。これが生石神社で語られる阿賀神と同一神であるかもしれません。これらの風土記の記述どおりにうけとれば.、「父・大国主(伊和大神)をうらぎった子・阿賀神の反乱があり、鎮圧された」ということになります。風土記のまた別のところでは、伊和大神と渡来神・天日槍との争いを記述していて、天日槍とされる天日矛がまつられている出石神社とこの生石神社は関係がありそうです。阿賀神と天日槍がおなじ勢力ではなかったかと推測します。
【私見】・大胆な推測を許されるなら、これは、『アーク』のレプリカっぽい形状では?・下部を切り離す際、後の突起物が天を向くように『ゴロン』と転がすと、あの『アーク』の箱にそっくりになるのでは?・それをご神体?とみなして何らかの神殿を建造しようとしたのではないでしょうか?・それが、外的要因により建造中止に。何の知識も見識も無いじいじの推理でございます。失礼いたしました。
動画配信ありがとうございます。真相はなるほど!というものなのでしょうが、全くわかりません。この技術は海外から伝わったもので、それを披露するのに良い条件の舞台も出来上がったけれど・・・何かの理由で取りやめになった。。。その理由とは?大化の改新!?妄想ですみません。。。
近所ですが、確かに何故おおしこと呼ぶのか特に考えもしなかったですね!たまに行くのですが、人も多く無いし年越しに行くのは結構良いです!ちなみに竜山の呼び方は地元では たつ↓やま↑です!
謎な物体ってそれほど意味がない場合もあるんじゃないですかね。 遊び半分だったり途中で飽きちゃったり。企画倒れで途中放棄されたり。
奈良県の山中に鎮座する益田岩船のような巨石ですね。この巨石はとても強いエネルギーを発していますね。映像からでも感じることができました。
興味深く拝見いたしました。直ぐに気が付いたのは、鳥居両脇の家紋石です。左が「三本矢」で、右が「違い矢」(動画で見えた方)元は観涛処(かんとうしょ)の北側の尾根上にあったのですが採石で崩れたので昭和50年に移設されました。姫路藩家老、河合家の家紋(明らかに鷹の羽紋)かもしれません。違い矢が×印を意味するとすれば、出雲系が伺えます…大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)をお祀りする縁起も成る程と思いました
浪漫と遊び心が残された古代の遺跡w 浮いてるみたいって絶対ねらって作ってるwもうちょっと有名でも良さそうなのだけども、おおよそ古墳に使われるのがドタキャンっぽいって分かってるからなぁ。
生石神社…。とてもじゃないですが。日本人でも正解に読める人は地元住民に限られた人達でしょう。あの『ブラウン管TV似の巨石』は何を意味するのか?…絶句。出来る事なら前回の様に携帯📱🧭を使って“磁場”を測って欲しかったです。このシリーズは毎回毎回腎臓バクバクモノ(^^)❣️…。楽しみです。TH-cam配信有難う御座います。
磁場は測ったことがあります。残念ながら通常通りでした💦
@@おっちゃん-q1l ご丁寧な返信。有難う御座います。
行ってみたい✨茂木先生のおかげで古代史ミステリーハンターの気分です
茂木先生の豊富な知識と経験でどんなふうに見てどんな風に考えるのか、一緒に旅してる気分で楽しいです♪♪
【訂正】21:24 ×おおむなち→◯おおなむち(大きい名を持つ)
27:39 ×長さ1メーター→◯幅1メーター
大国主は多くの名を持つため、オオナムチと呼ばれたともきいたことがあります。
細かくてスミマセンw
大穴牟遅神おおなむちかみ(大きい名を持つ)のお名前は、諸説あると思いますが、一説によると出雲旧家の伝承では、
文字通りの大名持おおなもちで、元々は出雲王国の王様を意味する役職名だった様です。
出雲王国は2王制で、東西2王家から代々の当主がほぼ交代で、主王大名持と、副王少名彦に就任していたようで、
おおなもちが、おおなむちや、おおむなちなどの、似てはいますが意味が通じないおかしな謎の名前になったのは、
第8代目の主王大名持であった西王家郷戸家の当主で八千矛やちほこ(大国主命)と呼ばれた王の時に最も国として
勢力が大きくなった頃であった。大国主は各地の豪族の娘と婚姻することで同盟を結び、子孫を拡大した。
『出雲王国とヤマト政権』ー伝承の日本史ーより
大国主命は大穴牟遅神や、ほかにも於保奈牟知、大穴道、大汝、オオアナムチ、国作大己貴命、八千矛神(これは本名)、
葦原醜男、などなど数多くの別名があるため、『記紀』では、出雲王家(大国主など)の存在を史実として書くとすると、
初代神武天皇誕生以前に既に日本には王国があった。ということを認めることになり、それが嫌われたため、
神話上の神として書かれることになってしまった。ようです。
最近新たに出雲から出土した出雲大社の高層本殿の宇豆柱や、埋納された数百体の銅鐸や銅剣が発見されるはるか以前の
ことなので、出雲はあくまで神話上の神々の国であった。とされていたようです。
この近くにある高御位山に登りました。縄文からの祭司場だったそうでなんと伊勢神宮と出雲大社との中間点だそうです。岩場も多く山頂の岩場(磐座?)は圧巻でした。機会があればぜひお勧めです。
茂木先生、旅にお供させて頂いてありがとうございます。生石神社⛩🪨、人工的な不思議な形状で、様々な想像をしてワクワクしています♪
コメント欄も楽しく拝見させて頂きました。皆様の知恵袋ですよね!感謝!
竜山石(兵庫県高砂市)は初期古墳時代、二上山白石(奈良・大阪県境)は後期古墳時代の石棺に使用された岩です。
高級ブランド石みたいなものかな?
失礼いたします。
私は子供の頃、祖母から
「昔、高御位(たかみくら)の神さまが生石神社の神さまに頼まれて石のお社を作っていたところ夜が明けてきてしまい、慌てて高御位の頂上から竜山に向けて投げたので、お社が横になってしまった。投げた時に付いた神さまの手形がお社の壁に付いている。」という話を聞かされていました。
高御位と言うのは石の宝殿から北へ3キロほど行ったところにある標高304メートルの山で、頂上には高御位神社があります。播磨富士とも呼ばれ、昔は瀬戸内海を航行する船が位置を知る目安にしていたと聞いています。
石の宝殿の浮石の側面を見上げると、「そう言われれば手の平のように見えるかな」というような窪みがあります。
大人になった今祖母の話を思い返すと、この手形のような窪みがあることから考えられ言い伝えられたお話ではないかなと思います。
また、地元には「石の宝殿研究会」がありまして、そこの編集委員会が編集された冊子「石の宝殿と竜山周辺史跡」のなかで、「これ(石の宝殿)を作った人たちは最終的に引き起こすつもりだったのか」という考察がされています。これは石の宝殿の基底部分に大ズワリ(座りキズ)という水平方向の亀裂があることから考えられているとのことで、この座りキズの一部は背面から腰をかがめて見れば、見ることができるそうです。
この冊子の内容は、「石の宝殿研究会」のホームページのトップページの下の方、『小冊子【石の宝殿と竜山周辺史跡】』から、すべてのページを見ることができるようになっています。興味のある方はご覧になってみてください。
動画の最後の「思いついたことがあったらコメントに書き込んで下さい」という茂木先生の言葉に勇気付けられて、コメントさせていただきました。ありがとうございました。
ご教示、感謝です!
ご紹介ありがとうございます。
いや〜 素晴らしい資料でした。
コメントされる方々の博識に驚きます。
長年の疑問が解決出来ました。感謝!
@@Tanaka-Ichiro999
石の宝殿研究会の小冊子、見てくださったのですね。
ありがとうございます。
祖母から聞いていた話しの影響なのか私は横倒しになっているということを疑ったことがなかったので、この冊子に書かれている「これを作った人たちは最終的に引き起こすつもりだった」ということも(13ページの図もとても分かり易く)有り得るのではと思っていますが、では何故はじめから起こした状態で作らなかったのだろうと疑問に思います。
それと、もしどこかへ運ぶつもりだったとしたら・・・正面のあの急な階段になっている斜面を滑り下ろす(?)様子を、時間の隔たりを超えて見に行ってみたかったなと思っています。
@@高御位 さま
こちらこそ、素晴らしい資料のご紹介ありがとうございました。
私見ですが、最初から起こした形状にしないのは移動する為だと思います。
古代はクレーン等は無いので持ち上げる事が出来ず、本体の下に丸太の様なコロかソリをひく為ではないでしょうか? 拝殿の入口付近にソリ状の物を置き、90度転ばせば本体はソリの上に乗り、斜面を下ろし(これが一番難しい、逆に土を盛って傾斜を緩くする?)下の川(海)の船に乗せるのでは? と想像します。ただ、益田の岩船(こちらは石室にヒビが入り放棄という説も)同様あまりに大きすぎて、移動出来ずに放棄と言う事も有ると思います。
私は先にTH-camで「生石神社ー御神体の謎」という配信を見ていたのですが、番組内で竜山の石工の方が模型まで作り解説していた内容と、今回の紹介された資料の内容が合致したのに驚き、感動し40年近くの疑問が晴れました。他にも多くある岩磐の謎が解明されれば良いですね。
ありがとうございました。
@@Tanaka-Ichiro999
「生石神社ー御神体の謎」視聴させていただきました。
石の宝殿研究会の少冊子を見たとき、ここに大ズワリ(座りキズ)があったのでこの位置が選ばれたのかと短絡的に思いましたが、この石工の方のお話では「(職人さんの言い方では)ズリ」を読み切るのは不可能に近いとのこと。それを見極めた人の凄さ!それ有っての、起こし移動させるための造形物だったということなのですね。
ひととき、いにしえの人々の偉大さに思いを馳せることができました。
ありがとうございました。
家から車で30分ぐらいの場所ですが、凄いところだと聞いてはいます。秋には禁忌が解けるのでパワースポットと聞けば是非行かねば。
播磨国住人が武蔵国住人からレクチャーを受ける。先生が近くにお立寄り頂いただけで感激です。ありがとうございます😊また来て下さ〜い!
しかし、このチャンネルには地元民が割といらっしゃることにびっくりでした。
茂木先生が参られた時は鯉のぼりだったんですね。
先日私が行った時は短冊で夏越の大祓でした😊
近くに平定された阿賀の神を祀った英賀(あが)神社があります。
播磨風土記には「伊和大神の子、阿賀比古 阿賀比売二柱、此処に在しき故れ神の名によりて里の名と為す」とあります。
阿賀の神のその後が気になりますね…
ちなみにこの辺りは神輿を激しくぶつけ合う灘(播州)のけんか祭りが有名で、神功皇后が三韓征伐の際に舟と舟をぶつけたことがルーツとなっているようです。
ようこそお越しくださいました。冒頭の生石橋は、漫画「よつばと!」11巻102Pにも登場します
子供心に「へんだな、ふしぎだなー」とは思いましたが、その不思議なものが当たり前に地元にあるのが普通なので、深く考察してきませんでしたね…。全国いろいろめぐりましたが、たしかに似たようなものを見たことないですね
以前、高砂~加古川を紹介させて頂いた者です。私の地元に、本当に来て頂きありがとうございます。感激です。
色々説はありますが、天津神の命を受けた大国主命・少彦名命が高御位山で国造宣言を行い、石の宝殿で玉座を造ろうとしていた説、
山全体を御神体とし、高御位山を中心とした巨大祭祀施設を造ろうとしていた説などがあります。
ユダヤ秘宝説、アーク説、キリストの聖遺物:盃を石の宝殿に隠した説までありますw。
高御位山頂には降臨された「磐座(いわくら)」があり、そこに立って見渡すことができます。
眼下の高砂~加古川には大量の古墳群があることから、やはり何かしら建造しようとしていたと思われます。
その他近所には、聖徳太子建立の「鶴林寺」、ヤマトタケル生誕地「日岡神社」などがあります。
ごゆっくりしていって下さい。
ちなみに個人的考察ですが、この眼下は、京の都と同様に
風水四神獣、青龍(東に川):朱雀(南に大地か海):白虎(西に道):玄武(北に山)に完全に当てはまっておりますので、
その辺も国造りに関係しているのではと推測しております。※昔は山陽電鉄ぐらいまで海です。
えわー
もう少し上流、加古川バイパス位までは海だったはずです。
良い発言ありがとうございます 応援します
@@おっちゃん-q1l
山陽電鉄付近の地名が、大塩(塩田地帯)・曽根・尾上の松、浜の宮。聖陵山古墳や古代大中遺跡もあります。この辺が海岸だったと思います。
加古川は、日岡あたりから、高砂・加古川市方面へ2本に分かれていたようです。したがって高砂駅付近は中洲(一部、先が加古川バイパス付近)ですね。
遺跡や古墳(尼塚・天神山・面向谷・宮前・平荘湖・西山・聖陵山・具平塚・日岡・西条・宮山・長慶寺山・愛宕塚)がやたらと密集していることから、
やはり国造りと関係しているのではと感じます。
播磨国風土記によると、石宝殿の東の加古川市東神吉町に播磨地方では唯一の大和朝廷の屯倉が置かれてます。当時は益気(オケ)と呼ばれ現在も町名の由来や、升田山麓の神社に名前が残ります。
当時、海も近く重要ポイントだったようですね
元兵庫県民ですが、茂木誠先生が行かれるまで高砂市の巨石群は詳しく知りませんでした。どうせなら茂木先生は関西にセカンドハウス作りませんか‼️
茂木先生お疲れ様です。石の宝殿!ロマンがありますね。
尺が長いのも良いですね・・・滝行の映像も、こういうロケーションは癒し効果があって、ゆっくり見られます・・・
メキシコのユカタン半島にあるチチェンイッツァで見た遺跡に似たようなのが有りました。
何という遺跡ですか?
マヤ文明のチチェンイッツァ遺跡内にある遺跡の一部に似たようなのが有りました。
お早う御座います!
何時もお参り出来ない場所へ誘(いざな)われ、遠隔参拝できます事に感謝して居ります。
何とも不思議ですねぇ。???が頭の中に詰まります。
興味惹かれるものがあります。
姫路と明石の間なら何とか動ける内に訪ねてみたいと思いました。
いつも有り難う御座います。
面白い❗️楽しい❗️知らない事が多い、この日本が大好き💕
分からないから神秘的、分かってもきっと神秘的。
Japan is a Bravo🇯🇵🇯🇵🇯🇵
生石神社は、岡山の行きたかった神社と姫路城へ行った後に行きました。
駅から少し遠いんですよね〜
何度行っても、圧巻の迫力と共に、謎が深まります。しかもその読み方です。茂木先生の博学で、解明して下さい。周囲では現在も採掘しています。
14万人おめでとうございます。最近動画アップの頻度が少なくて寂しかったです。久しぶりに神社巡り以外の動画も期待してます
歴史旅が楽しすぎて…
神社巡りの旅も歴史解説動画も最高です!
おおー、写真でみたことはありますが、先生の解説がきけて素晴らしいです。
カメラの撮り方と音声が一緒に見にいけた感じがして良い。こういう動画増えてほしい。
子供とか
近所の人の?世間話が凄く聞こえて、それも面白いですね
おばちゃんの世間話が止まらず…収録に苦労しました。
リアルで楽しい(笑)
本日、浮石見てきました♪
凄い巨石ですね。きっかけを頂き感謝です。
パッと見て、エチオピア正教、聖地ラリベラにある聖ゲオルギウス(ジョージ)教会を思い出しました。
エチオピアは造山帯なので火成岩が多いところですね。
少し調べました。定かではありませんが、建設当時の王ラリベラが夢見で聖ゲオルギウスからのお告げがあり作ったとされ、ノアの箱舟を表している教会とありました。
ワクワクしますね❤
私も、ぱっと見でエチオピアの聖ゲオルギウス神殿を思い浮かべました。
その他の考察はないので、皆様のコメントが非常に面白く、いつももぎせかチャンネルの視聴者の博識に感心しきりです。
30年ぐらい前に行きました。懐かしい映像です。
説明をお聞きして思ったのですが、渡来神が在地神(豪族)と人々を使役して作らせていたのではないかと思います。
なので、反乱を鎮圧したけれど工事が継続できなくなり放棄されたのでしょう。知らんけど。
出雲神話の神様という事で、この石は古墳時代後期の出雲東部と下野で多く築造された石棺式石室の切り出し工程を連想させる様な気がします。この石室は普通の石室の様な積み石ではなくユニットバス的な全壁面一体型の築造方式になってるのですが、何故島根と栃木なのか兵庫にこれがあるのかは謎ですね…私個人的には任那4県割譲後の出来事と何らかの連動があるのではないかと想像しています
17:07茂木先生が参拝の為に正面へ近付くと風が吹きましたね
歓迎されているんでしょうね
よく風が吹きます。
「石の宝殿」レイライン
尖った先は、出雲大社(出雲山)を向いている。
2点を結び、奈良に伸ばすと、益田岩船。
香川県金刀比羅宮(厳魂神社)と石の宝殿を
結んで伸ばすと、宮城県塩竃神社。
出雲大社と金刀比羅宮を結んで伸ばすと
剣山。
伊勢の神宮を転々と移動して、宝を隠す場所を探していた。
石工=ユダヤ系の方 もしかして、実は昔からの信仰巨石で、それを加工したから祟りがあって中止になったかも。実家が明石なんで、帰省したら生石神社、赤穂まで足を伸ばして大避神社に行こうと思います。
いつも先生の動画で勉強させていただいております。私の地元を取り上げて頂きありがとうございます。播磨周辺も不思議だらけですが、よく見ると日本国中不思議な物やことだらけなんですよね。これからも学ばせていただきます。
始めまして。私も10数年前、友人と参拝させて頂いた事があります。JR宝殿駅で下車して駅前で貸し自転車を借りてエッチラオッチラ漕いで参拝を。頂上でお弁当を頂きました。気持ち良かったです。憑きものが取れたみたいでした。
ブラウン管テレビみたいですね。
一番最後に下を切り離し、画面を下に、背中の突起を上にして、男石を作りたかったのでは❓荒覇吐信仰と繋がってるかも⁉️
茂木先生の巡る地は本当に興味深いです✨いつか絶対見に行きます✊
2号バイパスを通る時に遠くで眺めるだけで行った事なかったけど今度は行ってみようと思います。
日本にもこんな面白い場所があるんですね。もぎせかさん、ありがとう!
おおしこ・・・、つまり溶岩が海底から噴出、凝り固まった、生成のさまを、名前にして呼んだのかと思いました。いつもありがとうございます。
インカの遺跡みたいですね・・神戸に近い所にあるのに知りませんでした。ありがとうございます。
ですよね。インカ マヤ アステカに似てますね
先生、貴重なお話ありがとうございます🙇生石の話し、興味深く、不思議しかありません😅昔から、宝殿という駅は知ってましたが石の宝殿との関連は知りませんでした。動画見ながら、なぜか秦氏が関わっているように感じました。生石→大石神社→大避神社→土木技術の秦氏、短絡的ですかね😅
研究してみます
おはようございます。
やはり脳内によぎるのは巨人説でしょうか?
うちの周りにも「石」を持つ地名がたくさんありますが、昔の人は石に対してなにか特別な思いを抱いていたんでしょうね。
秀吉が三木城攻めでここに陣をはろうとしたが神社側に拒否されて焼き討ちしたそうです。
戦国武将ヤバい。
斉明天皇陵という説が有力の牽牛子塚古墳は、双室墓で、巨石で2部屋分かれた造りだそうです。
益田岩船も石の宝殿も、未完の双室墓の切り出しなのではという説は、有名なのかと思ってました。白石太一郎氏も、益田岩船は失敗して、その教訓が牽牛子塚の時に生かされてるって話をされてるようです。亀裂が入りにくい柔らかい凝灰岩を撰び、保護なため大きな柱石を16本も並べたのでしょう と。
2014年10月にNHK歴史秘話ヒストリアで、『日本にもあった? 謎の巨石文明 ~目覚める飛鳥 石の女帝~』という回があり、益田君船と高砂の石の宝殿も、未完成の石室という説が番組内でも紹介されてました。
東向きの台座かな?その上にまた乗せるのかな石?。反乱鎮圧で予算切れて放置されたかもね、出雲族系。
岡山に岩倉神社、鬼の城他、古代の石工職人が関わる遺跡があります。
(突厥由来説もあり)
何か関係がありますでしょうか?
いつも楽しく拝見しています!
生石神社、初めて知りました!
珍しい名前ですね。
とても興味深いです。
全く関係ないのですが、家の近くに黛神社(まゆずみ)という小さい神社がありますが、その名前の由来はマオリ語ではないかという説があります。
「まゆずみ」を「マイ・ウツ・ミ」とすると、「川から荷物を積み下ろしする場所」という意味になるそうです。
そこはまさしく船渡し場所で栄えた場所だったらしく意味がぴったり合います。
マオリ語と日本語は似たような言葉が多いと言われていて、縄文時代にポリネシアから入ってきたのではないかという説があります。とても面白いですね。
ポリネシア語は、日本語の祖語だと思います。
返信ありがとうございます!
次回も期待しています!
日本を取り戻すには歴史を取り戻せねば!
こんにちは、とても興味深く拝見しました。
パッと見て何かしらの棹石、軸石、柱石の様に見えました。
突起部分はホゾであり、大入れ加工がされている様にも見えます、そちらが底面になり 石を90度起こしあげて突起部分をホゾ穴へ。
どういった理由かは私の勝手な想像でしかありませんが、加工途中で放置された石材なのかと思いました。
(職人への指示内容が途中で変更されて不要になった等々)
どういった理由だとしても、これだけ巨大な石材にこういった加工するには大変な苦労をされた事だろうと思います。
配信ありがとうございます。 待ってました👏👏
幼少の頃のムーの記事で知ったのが最初で当時は浮石が注目でした。
他の方のコメントにも有りましたが上部構造が気になります。堆積はカモフラージュ? 造形的には益田の岩舟と似ている?様な気がする。
竜山の石工からの見解が [生石神社ー御神体の謎] で配信されています。
よろしければご参照ください。
竜山石は古墳の石棺では最上位ブランドだそうで、赤色部は過去の落雷と黒田官兵衛の焼き討ちでの酸化、変色だそうです。また、古墳の小さい石棺は工事殉職者、本命は充分な大きさだそうなので後者が別の物に加工、持ち去ったのかも?
追記 (石の宝殿研究会、資料より)
天磐船と言われる石棺のふた(縄掛突起6ヶ付き、6世紀後半製2.7×1.7)が同山の西側より発見されています。
他の方のコメを拝見し、牽牛子塚古墳の横口式石槨を調べると石質、構造が非常に良く似ています。
竜山の石工の方が曰く、後部の出っ張り側が石槨の上になる(後部から棒状の物でこじると石槨本体が倒れる。水を抜いての調査もしており、浮石とは地面から切断されているという意味合い) そうです。シーボルトのスケッチ時から現在に至るまで、上部の土砂堆積量(本来、平面であれば風雨で脱落)が同じなのは、上部入口部分は凹状になっているのでは。要は石棺でなく石槨(横口式石槨)だと考えると、大きさも合致するように思います。まあ、いくら山の中腹で下に川が有っても運搬は大変でしょうね。皆様の博識なコメントのお陰で40年来の謎が自己解決出来ました。感謝!
生石神社の🪨石の宝殿は、少し前の茂木先生の動画でもご紹介されておられた橿原にある益田の岩舟🪨とペアのセットで作られた陰陽男女合体
による子孫繁栄を表すモニュメントであったらしく、ブラウン管テレビの様にも見える突起状の形状は、男性のシンボルを意味する陽石だそうです。
初の女性天皇である豊御食炊屋比売とみみけかしきやひめ命第33代推古天皇が男尊女卑の大乗仏教の広がりに対抗するため、男尊女尊である古代出雲から信仰された、
出雲荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に埋納された銅鐸、銅矛に刻まれたバッテン✖❌印と同じく男女の交合による生命の誕生を祈るサイノカミ女神
信仰復活の一大国家プロジェクトのシンボルとして畝傍山⛰中腹まで運ぶ予定だったもののようですが、ようやく山中から切り出されたまま
運搬する直前の状態で放り出されて製作途中のまま残されてしまったのは、製作責任者の大連であった物部守屋さんが八尾市西部で仏教擁護派の
聖徳太子(574年~622年)・蘇我馬子(本名石川麻古、?~626年)の連合軍との間で起きた戦で戦死してしまったためのようです。
大元出版㈱ ー伝承の日本史ー 『出雲と蘇我王国』 斎木雲州氏著より
聖徳太子は、物部氏との戦勝祈願のため四天王を祀り、その加護によって物部守屋を打ち破ることができたとして、
その地に大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ、八尾市太子堂3丁目)を建立したといわれているようです。
(一部修正しました。)茂木先生、ハートマークが消えてすみません。💦
後ろの突起が、横に倒して屋根になるんではないか説もあるようですね。
不思議ですよねぇ。私も参拝した時、( ´゚д゚)!????となりました。人工的なのに、畏怖の念が湧いてきます。山頂が、また手を合わせたくなる素晴らしい景色でした。大正天皇もこの景色をご覧になったのかと思うと、さらに感慨無量です。
石を横から真直ぐ削ぐのって超むずいらしく必ず上から削ぐらしいです。出張りは後で引き起こすためのもののようです。鬼の雪隠(せっちん)と同じく、くり抜き式横ロ石槨でしょうな。
竜山の石工の方が言うのには、まず底の面を決めてからでないと出来ない、との事でそれが現在では難しいと言われてました。
巨石をよくこんなに垂直に切り出せたもんだな・・・当時の日本人たちの高度な技術力よ
この付近には古墳がいっぱいあり、小さな古墳は場所によっては山と一体化しており標識がないと分かりません。
今は不可能ですが、石棺を再利用し石仏を彫り込んだもの、石仏の光背の代わりに使用したものなども道端にあります。
正面の溝が怪しい天板の土を取り除いてみたいw出っ張りは前に倒れないためのバランス、木材をひっかけてこの原理で石を持ち上げずらしたり細工をしてる。巨石は空洞で水溜まりは水抜き穴を隠す、石の中か下に宝物を隠したまたは石棺。どこか壁面に穴を空け中に王の顔がある金のコイン20枚小さな金のマリア像を隠し入れ石で封をする。とかw
今年の年初めに私もこちらに参拝いたしました。
石の宝殿の建造は一説には物部守屋によるものとも伝えられているようですね。
これは想像なのですが、もともとこの向きで想定されて設計されたもので、宝殿山自体が女性器(ヨニ)+石の宝殿(浮石)が男性器(リンガ)、
隣接する竜山がナーガを示しているのでは?と考えています。
伊勢の方角を背にして太陽のエネルギーを宝殿山に注入し、エネルギーを蓄えた生きた石で王族の古墳の棺を作っていたと考えると楽しいですね。
ちょうど伊勢の方角から太陽が昇ってくるのはこちらの秋祭りの頃でしょうか…🤔
いつも貴重な動画をありがとうございます。
追伸
こちらとは関係ないのですが、大己貴命出生地伝承の残る神戸市西区神出町、雌岡山(めっこうさん「雌牛」)上にあります神出神社+(裸石神社・姫石神社)も面白いですので、
もしお近くに来られることがありましたらオススメですのでぜひお立ち寄りくださいませ。
和歌山県に生石(おいし)高原という所があります。天気が良ければ淡路島まで見渡せます。ここの岩も使われていたのでしょうか?
ちょっと調べたくなりました。
なるほど!
@@maomao96363
和歌山の生石神社(ショウセキジンジャ)
主祭神は大穴牟遲命 少名彦命と有りました。
繋がってたんですね。
先生のお蔭でまたひとつ点と点が線になりました。
ありがとうございます!
年代測定装置、炭素系で調査は可能ですかね?ミ ガド だったりしてw
こんにちわ、古代遺跡や神社の現地紹介を楽しみにしている一人です。小生の三角形解法で解明出来ましたので、参考になれば幸れをいです。 石の宝殿(34 46 57.32 N, 134 47 42.43 E)、仮・Alien FACE,(30 1 24.14 S, 21 1 5.43 E), CP-15683km/石の宝殿、(15 11 58.94 S, 7 29 26.23 W)、3箇所で形作る三角形の3辺の長さの合計;∑3=(15683km+3345km+13886km)=32914 km , この合計距離をGanymede周長;16550kmで割りますと、1.99→三辺の和は、ガニメデ周長の2倍長を示しています。だからどうした、、でしょうが(苦笑)解説しますと、先ずは,はやし浩司さんのYou Tube、#2375-12にAlien FACE,図形が紹介されています。ETの顔です。Area51、America から、15976km≒太陽直径;1392700km/177;伊那女(王)=@7868kmです、仮にイナンナ定数とします。古代遺跡の相互距離には、@イナンナ定数モジュールがとても良く合致シて適合シています。実証例30000件越えました。
石の宝殿からKaaba(メッカ)にラインを引くと、KH(機首方向)209.46で、9114kmです。なんとなく黒い箱のセット方向とも合致してるように思えます、、逆に、KH110.46方向にラインを引いて世界一周させると、大仙陵古墳芯()、石舞台古墳芯、そして、遥か遠くに感じるが、モーレア島火山辺りを通過しています。地球周長は、およそ40050km前後ですから、15683kmを差し引くと、仮に24367km前後となります。金星直径;12104kmで割ると、2.013、ざっと8方向に放射線の表示を持つのが、イナンナのシンボルマーク≒金星 なぜならば、ゼカリア・シッチン氏が著書で、太陽系天体は外側から数える、とシュメール解読結果を記述してます(日本語訳本、さらに45ページには、、シュメール語は当初、縦書きされていた!!と)この放射線を2倍にしたらイシュタール宮殿の大きなマークそのものです。ただし縄文文化が、恵那山で生誕したイナンナが伊那地方で育ち、やがて、富士山一帯に大きな縄文王朝を築いた可能性は高いです。7000年まえに、富士山大噴火が起きて縄文遺跡が埋まった挙げ句に寒冷化起きたら、富士山頂からエルブラス山頂までの実距離が、@7868kmで、スキップして、さらに西南方向などへ飛行していったと考えています。
CP-15683km/石の宝殿、という交差点は、Area51からAlien FACE,図形ラインと、Kaaba・石舞台ラインとの交点です。この交差点には
他にも数本の重要なラインが収束しています。大仙陵古墳も、石舞台古墳も、Serpent mound を向いて築造されていますと、はやし浩司さんの動画で知りました。2つの古墳間距離=33km+10929km+10923km=21885km≒21343km;火星周長*1.025、←誤差率2.5%で、Serpent mound tail を頂点とした、ほぼ二等辺三角形だと見なせます。
この手法で解くと、四国88箇所巡りとは、大窪寺~北極点=6217km≒3122km*1.99、、霊山寺~北極点、6221km、2つのお寺間距離、27.5kmで、合計距離;12466km≒12742km*0.98、歳差運動で極点は移動します、20万年前に、アヌンナキは地上に降り立ち、金採掘始めた。3600年頃に、ET同志で仲間割れして核攻撃で古代都市を破壊して、大半は去った。が残党組がバトルしてるようです。図形などを、近年に描いてくれるのは、人間創成したEnki、Mardukの派閥かな?と考えています。 天皇御座所、(35 40 56.22 N, 139 45 7.76 E)、CP-15761km/GN・ARROW→@7868km*2.003、北極点までの距離はなんと、6052kmですから、金星半径距離。つまり、イナンナの星;金星モジュールでレイアウトされています。世界最大の海底矢印からは、@7868kmの2倍長。K2峰からは、5610km≒216km*26=5616km、Gematria 26; ヤハウエ;最上位の神。と、なります。海底金泥の荷揚げ場;モーレア島から、天皇御座所は、9464km≒3122km;Europa *3.03です。日本近辺の古代遺跡群は、このEuropaのモジュールがとても良くマッチしています。長い文章をお読みいただきありがとうございます。乱筆失礼します
こんにちは。縄文文化が、恵那山で生誕したイナンナから始まる文明であった。凄いですね。日本生まれなのでしょうね。
おはようございます。元々、縄文時代の自然信仰の場所で、石を切り出そうとして厄災があったのではないでしょうか?かな😅
未完のゾロアスター教の祭壇では?
石の切り方がペルシャ的な気がします。
もしくは、ミトラ教の祭壇か?
いずれにしても神道的ではないと思いました。
マニ教かも
何処かと思えば播磨アルプス南端の生石、七世紀の屋島城や対馬の金田城の様な古代城朝鮮式山城を神社にしたようなところですね😊
その播磨アルプスですが高御位神社のある高御位山を中心に鹿島神社を囲む様な円形の山容で元々はカルデラだったのか?そして全体的に岩山で古墳も点在して不思議なところです😊
大陸系の築城構造物なのでしょうかね〜🤔
こんにちは茂木さんの動画他のチャンネルでも拝見させていただいております。
とても想像力を掻き立てられるお話解説楽しませていただいております。
この巨石を見た第一印象
巨大な灯籠の上の部分が寝転がっている感じに見えました
後ろに突起物があるのはこれを90度手前に回転させて建造物?か何かになるのではと感じました
後部にある突起物がゴロンと起こして上にくると完成に近い姿になるのでは・・・なんて思いました。
いずれ起き上がるために90ど回転させるので、底辺部分も削られているんじゃないかな〜
石や木々があまりに強くて、日本を収めるのが大変だったけど、なんとかなったなー。
みたいなことをオオクニヌシ様とスクナビコナ様が会話した。みたいなことが記紀のどこかにあったような気がするけど、何か関係があるんでしょうか。
ちなみに塩竈は地元で、日本に異変があるとき水位が変化するというもので、不思議ですよね。
生石子(お/いし/こ)が元来
生(お)ふ、生(お)ひ立ちの「お」、送り"ふ/ひ"が石の"い"を引き込んで長音化「おーしこ」(「おふしこ」「おひしこ」)
子が消えたのは好字令713年以降かと
ユダヤの三種の神器はここにあります。
秋祭りで.使う神輿には石版が入ってます。
神輿2台で石版2枚せっとなので十戒が刻まれているかもしれません。
まつりの一場面の赤ハヤシは
アロンの杖の威力を表して居ます。
証拠はもっとありますが、この辺で終わります。
もう少し続きを書いてみます。ここはエルサレムです。
前提知識1.動画の最初に出てくる川(法華山谷川)を”ヨルダン川”に見立てる。
前提知識2.ここの石の宮殿は物部守屋が作った説があります。モリヤ山の宮殿です。
前提知識3エルサレム.宮殿の東向きの階段を降りると神輿(アーク)を担いで渡れるほどの川がある。
”アークヨルダン川を渡る”というの聞いた事がある人もいらっしゃるかもしれません。
この辺で終わります。
こんにちは、興味深い考察ありがとうございます。質問です。私は姫路市出身者で地元では灘のケンカ祭りがあります。アロンの杖の威光を表す赤ハヤシとはどこのお祭りの一場面になるのでしょうか?
@@kumitan-hs8bz さん こんにちは、赤というのは猿田彦の事です。赤い衣装にモンペを穿いてます。
手には6尺ほどの棒を持って神輿を守ってます。シデ棒とは区別されるべきアイテムです。
さて、神輿同士をぶつけ合い屋根などがひとしきり傷んだ頃に一旦神輿を置きます。
担ぎ手が能舞台に上がり、”赤よ~”と大声で猿田彦をからかう仕草を見せます。
猿田彦が棒を振って騒ぎを鎮圧します。魔法の力を持った棒を演出しています。
ありがとうございます♪確かに松葉八幡宮には能舞台がありますが、そんな場面があったことは初めて知りました。今年は注意してその場面をぜひ見て見たいです。
@@kumitan-hs8bz さん
もう一つ言うと神輿が3台のところの祭りには猿田彦は出てこないはずです。
ここからは推定)神話の通りだとしたら2台は神様が乗っていて、
3番目の神輿は天宇受売命(アメノウズメノミコト)が乗っていて
アメノウズメは猿田彦と結婚します。従って神輿は一台減って猿田彦が3台目の代わりをします。
<おまけ>
道案内の神様である猿田彦に案内を頼むために
アメノウズメは着衣の肩ひもを外して両脇からたらした姿で猿田彦の前に行きました 以下省略
茂木先生は全国各地に神出鬼没に現れますねw。予備校で教えながら出版と神社旅、ものすごい量のタスクをこなしてるように思うのですが、その仕事術が気になります。一日のルーティン動画とか見てみたいです。
影武者使ってます。
23:10 ”まさにテレビのブラウン管…” の言葉で、じゃあパブリックビューイングの場所なのね、と思ってしまう単純な私・・・・・・・
近江の阿賀神社も巨石ですね.
阿賀一族が作っていたのを誰かが阻んだのでは?
酒船石とか熊本のトンカラリンとかエジプトからペルシャ経由でやって来た渡来人がいるんでしょうね.石工(フリーメーソン)の系譜?
阿賀神社にも行かなければ!
縄文時代の話もされてましたが、飛騨 下呂の金山巨石群は、縄文時代の天体観測カレンダーのような配置だと言われてますね。
夏至 冬至 春分 秋分、閏年か巨石でわかる配置になってる高精度な天文観測所だとかいう話。
巨石が人工的に切り出しされてるのかなどは、私、行ったことがなくてよくわかりませんが、飛騨王朝や【羽根ライン】エリアも近いから気になります。
金山は自然石を動かした感じですね。ここは人工物。
@@maomao96363ありがとうございます。田中英道先生との共著『日本とユダヤの古代史&世界史』、読んでます。磐船神社に参拝された動画の時のお写真も掲載されてて良かったです。
昔から行ってみたいと思ってたのに、なかなか行く機会がなく、帰省した時に行きたいなと毎回思ってながら、なかなか行けなくて… 臨場感あふれる動画、良かったです。1人だと入れないんですね。
獅子窟寺の巨石群もセットでいつか行ってみたいです。
生きている石。実際石に苔や木、草花が生えている状態のものは日本ならではらしいです。生きている(エネルギーがある)からこそ生育する別個体が乗っかることが出来るそうです。
阿賀の神・・・阿賀野川の阿賀は、開墾しても水田にならない土地という意味とか
墓とか水に関係するもの等の意味があったような、なかったような。
aqua はラテン語で水とされていますが、仏教を通じて仏前に閼伽(あか) の水をお供えします。
阿賀野川にも繋がるのでしょうね。
西方向の近隣に「あが」という地がありますね
現在は姫路市になります
2011年初版 文春新書『天皇陵の謎』矢澤高太郎 著のP267~271に石の宝殿が書かれていて、考古学者 猪熊兼勝先生の説を 最も説得性があるように思える と紹介されてます。
☆☆☆
~ 益田岩船と同様に90度の引き起こしを予定した未完の石棺式石室でしょう。大きな亀裂があり、全体を小面東側に倒せば必ず石が裂けると考え、作業が中止されたのだと思います。
益田岩船と牽牛子塚と年代と構造がまったく同じです。
斉明天皇の墳墓のために造られたのでしょう。
益田岩船と石の宝殿は、あまりに大きすぎたために失敗し、最後に完成したのが牽牛子塚古墳。三つとも工人は違うと思います。三ヶ所コンペのようなものが行われたかもしれません。 ~
☆☆☆
みたいな感じの記述があります。私が持ってるのは初版本です。
茂木先生、いつも配信楽しみにしています。
シーボルトのスケッチ、上手すぎ🤣。それはともかく、この謎の人工的巨石・・・あの「石工職人」たちが造り上げた「失われた〇ーク」にしか見えません‼神社の縁起は、出雲族が播磨に移住していたことを示唆している気がしますね。
面白い❗️想像して、ワクワクしてます♪
先生 オハヨ~ございます✨
7:39の入り口の左柱に大国主大神と並んで 生石子大神 と表記あります🧐 なので「お・いし・ こ」が語源かもデス🤔🥰
宝殿は トンガリ部はやっぱりロープひっかけてバッタン倒して最後は杭になるのかな~とか🤔それとも屋根に❓️ 木が生えてる所はくぼんでいるってこと❓️🤔イロイロ不思議~🥰 いつか…プレミア公開で皆さんでチャットしてワイワイ見てみたいデス🥰✨
茂木先生!!宝殿にお越しだったんですね!!!!
知ってたら『古代史&世界史』の御著書にサインお願いに走っていったのに~😆
生石神社からの初日の出はとてと美しいです✨
茂木先生を困らせるとは、石の宝殿すごい遺跡です!
縄文の人たちは巨石を自然のあるがままの姿で崇めていたと思います。なので、巨石をこのように加工できる、石工の高度な技術を持った民族が渡来したと思えます。山や巨石のような自然を崇めていた地元の人々の中には、反感を持つ人もいたのではないでしょうか?神社の伝承の中に事実が含まれているように感じます。
六甲山周辺は活断層も多く、地震の多い地域だと思います。阿賀の神の怒りが地を揺るがしたかもしれません。
石宝殿の別名は鎮の岩室(しずのいわや)と言うそうで、宮殿が未完成でも国を鎮めるという意味なのだとか。
でも、あの巨石、下を切ったとしてもどうやって起こすんでしょう?本当に宮殿の屋根の形なのでしょうか。
ぜひ一度は行ってみたい神社がまたひとつ増えました!私も現地に赴いてその不思議さと荘厳さを感じてみたいです。
茂木先生、ありがとうございました😊
ここは関西でも有数のパワースポットです。私は年に一度お札を貰いに言ってます。
エチオピアの世界遺産「ラリベラ聖堂群」を想起しました!あれも、掘り込んでいくスタイルです。何かつながりがあるのか…
イエスの弟が石切彦と呼ばれている説もあるくらいなので石工の渡来人の技術なのだろうと思います。
宝殿のあたりは秋祭りが盛んで生石神社も神輿をぶつけあう祭りがあります。
このあたりでは「灘のけんか祭り」という祭りの方が有名ですが、そちらは神輿を屋台(やたい)と呼び神功皇后が三韓征伐を行って帰ってきた船を神輿を見立て、船についたカキやフジツボを擦り落とす様子を表して屋台をぶつけてるそうです。
ちなみに掛け声はヘブル語です。
大河ドラマの黒田官兵衛を誘致の際、キリシタン大名をもっと知ろうとキリスト教の洗礼を受けて聖書や歴史を調べた方がユダヤのことを知り、自分達が古くから行ってる風習とユダヤの共通点を指摘していました。
不思議ですね。
「おおなもち」という名の場合は、征服地を意味することが多いと聞きます。
神社の縁起は、事実を混ぜた話と邪推します。
御神体の巨石を削って、厄災が訪れて放置したのかもしれないですね。
貴重な動画を、いつもありがとうございます!
なるほど〜。
厄災説ですね〜。
いつも興味深く拝見しています。ありがとうございます。
石の宝殿についての考察を記させていただきます。
シームレスな石室を構築するプロジェクトだったのではと思います。
巨大な塊を切り出し、目的地まで移動し設置。
移動設置後に石室空間を穿って形成という流れです。
塊で移動することで、移動時の振動や負荷によるクラック発生の可能性を軽減できます。
側面のくさび形突起は、設置時に水平と方位を正確に出すための仕掛けだと予想します。
設置場所に予め四辺水平な基礎を構築し、中心にくさび状の窪みを形成します。
移動した巨石を横倒し、くさび形凸をくさび型凹に滑り込ませます。
その後これを穿ち、継ぎ目のない石室をつくります。
そのような妄想が広がりました。
竜山の石工が曰く、正にその通りの事を言われてます。
後ろの出っ張りは90度前に倒して天辺となり、現在木の生えている部分が正面となる。
実は木はカモフラージュでその部分に本当の何かが彫られている可能性♪
あくまでも勝手な想像ですが。
撤退した理由は龍の逆鱗に触れる何かがあったのかもしれませんね。
🐉龍は何か宇宙と関係してそうですね〜。
大国主命は国譲りをした・・・。
勝手な想像ですが、この地を譲ったって事⁉️
神代文字とか彫ってあったら
面白いですね
行ってみたいですね。この辺りで採れる石は最高級の良石で、古代に天皇の墓の石棺に使う為、わざわざこの辺りで採れる石を採用したそうですね。
自分の個人的な勘ですが ラリベラの岩窟教会群に似ていないでしょうか 何故かあの風景を連想させます
ここに先日参拝しました。関西にお越しの際は六甲比売神社か越木岩神社へ!
保久良神社、伊弉諾神宮、多くあって回りきれませんね。
私も以前行って驚きました。
本当に謎の構築物ですよね…
何に使うために作られたのでしょうか…
いつ作られたのでしょうか…
出雲の神々が関わっているのは確かなようですが…
どなたか解明してください!
物部一族が隆盛だった時代の産物です
失礼します。最近先生の動画にハマりだしました、本当に楽しく勉強になります。ところで、先生は大分の国東半島にあるウガヤフキアエズ朝のものとされる石刻文字がある巨石についてはどのようにお考えでしょうか?長文スミマセン。
見てみないと何ともいえません。
@@maomao96363 ご返信ありがとうございます。突然スミマセンでした。
石の宝殿は地元です。来ていただいてたのですね。
製鉄所?
高温に耐える炉をつくろうとしたのではないだろうか?
そして、まっすぐな青銅をつくるために垂直に切り込みがあり、周りの空間に火を入れたのではないかと想像できます。
自分夜に行きました 幻想的で夜景と似合ってました 昔からあるですね すごいことだ思います
生石は浮石とずーっと小さい頃からばーちゃんに聞いてました。
浮いてるかなぁ?なんて見てました。笑
浮いてる事から生きてる石なんです。
宝殿の石山は墓石に使われてる貴重な石山なんです。
私の加古川の知り合いは幼少の頃、ロープを持って侵入し水中でロープを張り、浮いていない事を確認したと言ってましたね。悪ガキです。
ウィキペディアしらべましたところ、生石神社は『播磨国風土記』の大国里の条にある石で、物部守屋が作ったという伝承があるとありました。石を加工した技術をかんがえると、斉明天皇の時代の飛鳥京っぽい印象をうけます。しかしこれは大国主の時代と異なるので、伝承には異なる時代が混在しているのでしょう。
阿賀神=県(あがた)という推理をすると、また違ったストーリーを描くことができるのかもしれません。
生石神社のある播磨国印南郡は、景行天皇の后・播磨稲日大郎姫(ヤマトタケルの母)の出身地であって、播磨御宅(益毛里)が設定されたところのようです。この后はキビツヒコの子孫ですから、景行天皇以前から大和政権の直轄地のような性格の土地「県」であったと推測します。
すると物部守屋はここにいたというのでしょうか。阿賀神とは関係あるのでしょうか。阿賀神の反乱は、丁未の乱を指すのでしょうか。うーーん。。。。結論はいそがないで、もう少し調べたいと思います。
さらにしらべましたら、『播磨国風土記』の餝磨郡英賀里に「伊和大神の子、阿賀比古と阿賀比売の二神」とされているのがみつかりました。これが生石神社で語られる阿賀神と同一神であるかもしれません。
これらの風土記の記述どおりにうけとれば.、「父・大国主(伊和大神)をうらぎった子・阿賀神の反乱があり、鎮圧された」ということになります。
風土記のまた別のところでは、伊和大神と渡来神・天日槍との争いを記述していて、天日槍とされる天日矛がまつられている出石神社とこの生石神社は関係がありそうです。阿賀神と天日槍がおなじ勢力ではなかったかと推測します。
【私見】
・大胆な推測を許されるなら、これは、『アーク』のレプリカっぽい形状では?
・下部を切り離す際、後の突起物が天を向くように『ゴロン』と転がすと、あの『アーク』の箱にそっくりになるのでは?
・それをご神体?とみなして何らかの神殿を建造しようとしたのではないでしょうか?
・それが、外的要因により建造中止に。
何の知識も見識も無いじいじの推理でございます。
失礼いたしました。
動画配信ありがとうございます。真相はなるほど!というものなのでしょうが、全くわかりません。
この技術は海外から伝わったもので、それを披露するのに良い条件の舞台も出来上がったけれど・・・
何かの理由で取りやめになった。。。その理由とは?大化の改新!?妄想ですみません。。。
近所ですが、確かに何故おおしこと呼ぶのか特に考えもしなかったですね!たまに行くのですが、人も多く無いし年越しに行くのは結構良いです!ちなみに竜山の呼び方は地元では たつ↓やま↑です!
謎な物体ってそれほど意味がない場合もあるんじゃないですかね。 遊び半分だったり途中で飽きちゃったり。企画倒れで途中放棄されたり。
奈良県の山中に鎮座する益田岩船のような巨石ですね。この巨石はとても強いエネルギーを発していますね。映像からでも感じることができました。
興味深く拝見いたしました。
直ぐに気が付いたのは、鳥居両脇の家紋石です。
左が「三本矢」で、右が「違い矢」(動画で見えた方)
元は観涛処(かんとうしょ)の北側の尾根上にあったのですが
採石で崩れたので昭和50年に移設されました。
姫路藩家老、河合家の家紋(明らかに鷹の羽紋)かもしれません。
違い矢が×印を意味するとすれば、出雲系が伺えます…
大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)を
お祀りする縁起も成る程と思いました
浪漫と遊び心が残された古代の遺跡w 浮いてるみたいって絶対ねらって作ってるw
もうちょっと有名でも良さそうなのだけども、おおよそ古墳に使われるのがドタキャンっぽいって分かってるからなぁ。
生石神社…。とてもじゃないですが。日本人でも正解に読める人は地元住民に限られた人達でしょう。あの『ブラウン管TV似の巨石』は何を意味するのか?…絶句。出来る事なら前回の様に携帯📱🧭を使って“磁場”を測って欲しかったです。このシリーズは毎回毎回腎臓バクバクモノ(^^)❣️…。楽しみです。TH-cam配信有難う御座います。
磁場は測ったことがあります。残念ながら通常通りでした💦
@@おっちゃん-q1l
ご丁寧な返信。有難う御座います。