小田原征伐の真相 豊臣政権の取次の無能さが原因で起きた理不尽な戦【どうする家康】
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- เผยแพร่เมื่อ 7 ก.ย. 2024
- 参考文献
黒田基樹『小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史)』
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黒田基樹『北条氏政:乾坤を截破し太虚に帰す (ミネルヴァ日本評伝選) 』
amzn.to/3t7QYIE
黒田基樹『戦国大名・北条氏直 (角川選書) 』
amzn.to/3Yn1hnL
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北条氏は徳川家康とともに秀吉と敵対していましたが、家康が豊臣政権に臣従すると抵抗を諦め、早々に豊臣政権に臣従しています。
真田氏との領土問題も解決し、北条氏政の上洛も決定していましたが、上洛直前に名胡桃城奪取事件が起き、豊臣政権は北条討伐を決定します。
この一件も、氏政の上洛時期を秀吉が勘違いしていたため討伐決定に至ったとされ、両者の行き違いをすり合わせる豊臣政権の取次の不手際から北条氏は滅亡に追い込まれることとなりました。
今回は、北条氏が敵対関係から臣従するまでの過程、理不尽な小田原征伐決定の経緯、瞬く間に北条領国が豊臣軍に蹂躙されていく合戦の経過について紹介します!
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#どうする家康 #日本史 #歴史
参考文献の内、黒田基樹氏の『戦国大名・北条氏直 』は従来の北条氏のイメージを覆す最新研究に基づいて北条氏末期の様子が書かれているので一読をおすすめします。
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『小田原合戦と北条氏 (敗者の日本史)』は合戦の経過がより詳しく記載されていますが、少し古い本なので交渉部分などについてはあまり深く書かれていません。
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臣従する気で「12月に」は、現代感覚では北条氏のミスのように思うな。従うと決めたらさっさと従わないと空白は誤解を生むだけ。現に誤解が生まれたということですね。
行くにしても何も当人だけ行くわけではない(大名当主の場合参勤交代みたくある程度の人数で顔出さないと大名としての沽券にも関わる)し秀吉本人に上納する手土産も旅費も用意しないといけないから領内に増税して貯まる見積もりは12月だった(氏規の上洛時には毛利輝元が秀吉に石見銀3000枚上納を目撃 氏規の旅費20000貫相当)
東北勢は小田原だったら京都より安く済むから大半は顔を出せたのもある
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普通の上洛なら、色々準備もあるでしょうが、
今回は、
「北条配下の者が、勝手に軍事行動を起こした事」に対する、
「弁明」もしくは「謝罪」の必要があるのですから、悠長な事を言っている場合ではないでしょう。
この動画では10:37「戦闘が起きていないから、軍事行動ではない」と仰っていますが、
そんな訳ないですから。
こんな風に取次のミスで重大な齟齬が生じるとは、怖いですね!ただ基本的に秀吉と北条氏の間には、そういう誤解が生まれるような土壌(お互いへの信頼関係の希薄さ)があったように感じられます。現代のように即座の対応は無理でも、他大名とはこういう齟齬が生じていないということは、やはりやり方がまずかったと思われます。北条氏の秀吉に対する心の底での蔑視や急いで誤解を解こうと動く機敏さの欠如、秀吉側の天下統一のための障害をどんな理由であれ滅ぼしたいという願いがあったのではないでしょうか?!名門大名が、下克上の戦国期に、最後に飲み込まれていく過程のように感じられます。
アンジャッシュのコントか何かかって感じですが、臣従を決めても実際に臣従するのは一筋縄では行かないことがよく分かります。
まぁ格好つかなきゃダメなんよな。両方。
江戸時代の士族と金貸しの証文とか博物館にあるけど、士族は必ず金貸しの名前よりも上のところから書き始める。
つまり、「すいません。金を借ります。」という体ではなく。「しょうがねーな。お前から金を借りてやるよ!」という建前をする。
北条は単に慣れていなかったのかなぁ・・・。
でも、秀吉がすぐに出兵を決断するあたり、やっぱ北条側に何かしらの不手際があって秀吉を怒らせたんじゃないかな。
やっぱ氏政に大阪にきてもらって、なにか話したり、面白い宴会でも予定してたんかな。
北条が慣れていないというのは間違いなくありますね。
というか織田政権がちょこっとやって以来の事実上日本初の試みなので、豊臣政権含め皆手探りでやっていたというのが実態かと思います。
@@WearstFaker 現代サラリーマン感覚なら「臣従を決めたらさっさと上洛」クイックレスポンスの相手先訪問でしょう。「12月に上洛」これが間違いの始まり
@@rekishock 北条は京、大坂にアンテナを張ってなかったのですかね。真田KGB諜報活動小大名と敵対しておいて。真田にやられっぱなしやん😂
現代感覚でも、敵対的買収かけられているのに社内の調整や相手との詰合せせず即座にハンコ押す社長はいないと思います…
レキショック様
私は、北条氏滅亡の原因は氏政が大局、時勢が見えず、秀吉を舐めていた事と当初は教わりましたが、段々と家康を関東に追いやる為にあえて潰したと思うようになりました。
そんな深謀遠慮ではなく、取り次ぎの不手際だったのですね。
氏政、氏直の器量も決して低くは無かった、むしろ毛利輝元なんかより上だと思うようになりました。
沼田城代が名胡桃城に兵を入れて、その後も沼田城代のまま何の処罰もなかったのだから北条無関係説は無理がある。
そもそも交渉に不備があるとすれば臣従してまで開戦を避けたがった北条側の交渉ミス、取次ミスと考えるべき。臣従か抗戦か、北条側の判断が中途半端であったことが元凶。
臣従するつもりが、
その逆の結末とは・・・
北条ミニ幕府も呆気ないですね😅
きっかけはともかく、これだけ臣従を渋れば、今更なのでダメとなるのもわからなくもないです。
成り上がり者に従いたくないという関東の名家というプライドと、戦国最強の謙信・信玄もあきらめさせた難攻不落の小田原城があったばかりに、即断できなかったのが失敗ですね。
ゆーても後北条家も成上りの家系ではあるんですけどね
成り上がり説は古いです。
今は室町幕府政所執事の京伊勢家のかなり近い分家、備中伊勢氏の伊勢盛時が後の早雲であること確定しています。
父の伊勢盛定は足利義政期の幕府政所執事伊勢貞国の妹婿、盛時は貞国の甥にあたり、貞国の次代執事貞親とは従兄弟です。
その縁で盛時は幕府申次衆となり、その際に今川家の申次をしていた縁で姉の北川殿が今川義忠の正室となったとの説が有力です。
そもそも名もない成り上がり者の姉が名門今川家に入嫁するなどないのも証左になってます。
早雲の家臣団も小笠原氏や垪和氏、布施氏などの奉公衆一族出身の家系が多いですね。これも京時代からの縁かと思います。
元々大名でもないんだし、将軍にお前相模管理してねと言われたわけでもないので思い切り成り上がり。
下剋上で領地掠め取っただけ。あとあと渋々幕府が認めただけだもの。
早雲成り上がりの通説は江戸時代中期頃になって突然読本で言われ出し、また早雲の旧姓伊勢から全く違う出身地の「伊勢の素浪人」説が言われ出し、伊豆の堀越公方の子、茶々丸を滅ぼし更に相模の大森氏を騙し小田原を占拠し素浪人から身を起こした、、、そんなストーリーが一種の英雄出世譚として人口に膾炙したことが原因。明治になってもそれが引き継がれたことが大きい。
江戸時代初期にはそのようなことが書かれている資料は皆無。
確かに早雲は幕府より伊豆相模の支配について守護などには任じられている形跡はないが、そもそもの伊豆打入りも京の明応の政変に連動し、日野富子&管領細川政元等との連携で起こされたものと言う説が有力(将軍義材を追放し茶々丸の弟、義澄を将軍に付ける)。
伊豆侵攻に今川氏親からの援助もあったことも頷ける。当然、その後の相模への進出も幕府の了解の元に行われていることも明白。資料は残らないが、明応の政変への協力の見返りである線が濃厚。
進出された側の守護扇谷上杉に対し、何等幕府や古河公方からの援助はなく、むしろ山内上杉などは早雲に加担している。
また早雲に対して罰も与えられてはいない。
効力は別にして幕府からは御教書や討伐命令を近隣の大名へ出すことは後々までしているのに早雲には一切それがない。
そこからも一方的に掠め取った訳ではなく、京からの指示と在地の勢力の援助による正当な軍事行動であると言える。
幕府の任命云々だが、次代氏綱は過去の執権北条氏を意識した北条改姓を近衛家を通じ申請し幕府・朝廷に認められた時点で正式に相模支配の正当性を認められていることである。
早雲に関しても申請すれば正式な守護にも任じられたと思うが、彼が官位などを欲した形跡はなく、あくまで元幕府奉公衆にして今川家の家宰兼部将であることに徹した可能性も考えられる。
長文は申し訳ないが、この場合の成り上がりと云う概念は秀吉のような父さえ一次資料では不明な、おそらくは一介の農民階層かそれ以下と思しき人物への概念で有ると思う。
または松永のような地侍程度の家柄からの出世等。
貴殿が云う「幕府に認められていない」、「勝手に領土を下剋上で掠め取っただけ」が成り上がりの概念なら、朝倉や織田、尼子に毛利、長尾上杉、長宗我部等々、かなりの戦国大名はほとんど成り上がりになると思うが。
まして早雲や氏綱の行動は小田原役より約90年も前のこと。そして氏綱以来、代々当主は従五位下〜従四位下左京大夫そして相模守に正式に任じられてる。
松平元康(=徳川家康)などは更に成り上がりになると思うが?
それと渋々どころか申請があれば官位も、そして一定の条件はあれど守護にも喜んで任じてくれますよ、朝廷に室町幕府。
もちろん見返りはしっかり出す必要は有るが。
上杉謙信の臼井城攻め失敗や大内義隆の月山富田城の戦いみたいに「大軍にも動員しても落とせなかった」は武威の失墜に繋がって政権内に動揺走るからそのタイミングで島津や長曾我部みたく臣従安堵というルートしかなかったんだろうけども…国境が近すぎて速攻で伊豆と小田原という二大本拠地が早期に囲まれる事態に
楽勝ムード故か秀吉は江戸から現場判断で上総下総と着々と攻略進めてた浅野長政(+忠勝・平岩・鳥居ら別動隊2万)に対して「利家と景勝と合流して鉢型城行けや!どうでも良い小屋みたいなちんけな城に二万の軍で落としましたとか手柄にもならん!開城の使者出てきた城なら兵200で接収すれば終わりだろが!」とムロ秀吉なら言いそうな手紙も残してるようで…
秀吉は名胡桃城事件が起きることを事前に知っていた説を推します。
元々秀吉は北条を赦す気など毛頭無かったが大義名分が無ければ動けない。
そこで名胡桃城事件を画策したのではないかと。
秀吉は名胡桃城事件が起きるよりも前に20万石の兵糧を用意しておくようにと通達を出しています。
上杉景勝にも関東へ出陣するから準備しておくようにと事前に連絡があったという話もあります。
北条氏の最大版図を築き、代々受け継がれた領民への善政も5代100年守り、身内同士の醜い権力争いも起こさなかった氏政。
歴史は勝者の歴史なので仕方ありませんが、天下人秀吉に最後まで抵抗し、北条氏を滅亡させた愚かな氏政という話を広められてしまったことが非常に残念でなりません。
未だに信じている人も多いですが、汁飯などの話も後世の創作話です。
様々なご意見はあると思いますが、氏政は間違いなく名君の一人だと思っています。
しかも北条一族は他家に比べてかなり多かった
それを離反者を出さずに最期までまとめ上げた手腕はもっと評価されるべき
全く同感です。勝頼然り最後の当主は治世や家臣団統率や日頃の行為を捏造されたり典型的な例ですね。
最後は不運ですが後ろに氏康が居たとは言え、若い頃から経験を積んだ氏政の治世は優れていたと思います。
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近年、氏政が再評価され始めているので嬉しいですね。
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秀吉からすれば、最後まで楯突いた悪の北条を成敗して天下統一を成したという最高のアピールになりますしね。
氏政が「バカ殿」ではなかったのは間違いないでしょう。
父親から100万石超えの領地を引き継いで、
それを、更に倍に増やした大名は他にいません。
ただ、この件に関しては、氏政のミスだったと思います。
秀吉には、どうしても北条を軍事力で倒さなければならない理由などありません。
秀吉の肥大化した「野望」は、世界に向いているのですから。
それは、これまでの日本人のスケールでは考えられない、
「中国の皇帝を倒し、アジア一帯の支配者になる」という野望です。
もちろんムチャな計画でしたが、
こんな稀有壮大な発想自体が、「秀吉」という為政者の、
とんでもないスケール感を物語っています。
秀吉にとって、国内のいざこざは通過点に過ぎません。
北条があっさり臣従するなら、それで全然構わないんです。
さっさと天下統一して、次のレベルに行きたいのですから。
氏政は、急いで上洛せず、北条の「格」を上げる為に「駆け引き」をしていた。
それ自体は、本来なら真っ当でしょう。
少なくとも、家康と同等の扱いを要求しても、パワーバランスとしてはおかしくないのですから。
しかし、この時点の秀吉に対しては愚行でした。
氏政の生涯の、殆ど「唯一のミス」は、致命的なミスだったという事です。
うーん、どう考えても「ハゲネズミ」で、あの膨よかな俳優ではイメージが違い過ぎて。どーするもこーするもあったもんじゃぁないですよ。
今話題の「なんとか」事務所並みにどーにもならない気がします。
明智光秀役の酒匂さんのほうがよほど実際の秀吉に似てたと思いますね😙🤔
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私もそう思います。
取次のミスという説は興味深いですね。石田三成・大谷刑部辺りが担当だったらそんな失敗は無かったと思いますが、三成は佐竹・上杉という北条家の敵対大名の担当で、大谷刑部は真田家の親族ですから北条家は避けようの無い滅亡へ進んでいたんでしょうね。
まあでも上洛が遅いのは事実でしょう。
上杉景勝は臣従表明後すぐに上洛してますし。
臣従を表明した以上は秀吉の気が変わる前にすぐに上洛すべきでした。
後北条氏は、織田徳川連合軍の防波堤だった武田家との関係を切ってから、だいたい後手に回っている印象。
潜在的な強敵の織田家を旧武田領に拡張させた時点で、終わりなんだよな。本能寺の変で寿命が延びただけ。
惜しい、惜しいなぁ………
宇都宮家なんかもそうだけど、ホント、あとちょっとで逃げ切りだったのに………
もし、保証の為の人質に拘らず、氏政が白装束で上洛したら赦されていたのだろうか………
討伐軍の出陣は防げたかもしれませんが、号令を発した手前、氏政を人質に取られ国替、改易などより厳しい交渉を突きつけられただろうなとは思います。
氏政単騎で上洛し間に合っても、それは大名北条氏が総力を挙げて上洛、臣従するのとはかけ離れていますし…
そうですよねぇ………
しかしこの話、どうにも理不尽を感じてやるせなくなります。
まあこれは戦国の世のみならず、現代でも変わらないところはあるのでしょうけど………
やっぱ北条は豊臣がいかに強いかを理解してなかったんだとおもう。
氏政がすぐさま上洛しなかったのが失敗。
北条としては裏切り者でもある伊達政宗が白装束で秀吉に従属したように生きる奴は賢いのよ
豊臣秀吉はその天下統一構想で、最初から「北条家を取り潰す」つもりだったのではないか⁉
北条家は最大時240万石もの(氏康の頃)領地を有していた。秀吉は最初からこの領地をそっくり手に入れ、付き従う家臣や大名に配分する積りだったのではないだろうか?!
私も、秀吉は「北条を潰すつもりだった」と思っています。
ただし「領地」云々の話よりも、他の2つの要因が大きい様に感じます。
一つ目は、北条氏が「公家との繋がりが深い」とか「鶴岡八幡宮(武家政権のシンボル的なモノ)の再建などで東国武士の多くをまとめ上げて居たので、将来的に危険と感じられると言う事。
鎌倉時代早期の「承久の乱」では、朝敵と成った「執権北条氏」側が上皇側に勝利しているので、秀吉と対峙して勝てるかは別として、関東武士は「関白」「朝廷」と言う権威を気にせず抵抗して来る可能性が有ると言う危機感も有ったかも知れません。
後北条氏は執権北条氏と直接的な繋がりは無くても、「北条ブランド」を受け継いでいますから、ポット出の「豊臣」とは重さも違いますしね。
二つ目の理由は、北条は徳川との繋がりが有るので仮に「徳川・北条」連合が「伊達・毛利・長宗我部・島津」など秀吉に不満を持つ他の外様大名と連携してしまうと厄介だと考えて居たのでは無いかと言う事。
秀吉が健在の間は大丈夫だとしても、病気や死亡の際は二代目が秀吉の様な調略を出来る筈もないので、出来る限り潰せる大物は潰しておきたいと言う思いも有った様に感じます。
やはり、氏より育ち!
卑しい育ちの秀吉は権力をえて、卑しい性分が出た!
現在でも、貧乏で卑しい育ちをした、人物と付き合ってはいけない!
相手の氏、素性は調べるべきである!
危腹事件結婚がそのいい例である!
もぅこれだけでNHKのスペシャルドラマが作れるレベルの歴史的な大番狂わせと言えよう、ウン
沼田名胡桃城へのちょっかいは余計な動きでしたね。
北条は統治も築城も上手くいっており、今見ても平地部も海山も素晴らしい。
群雄割拠の国境の小競り合いは有ったにしても周辺諸国とも同盟などでも上手い統治だったと思うんだが、一旦は解体されないと全国統一した感が出なかったのかなぁ
他統一されてしまった各戦国大名達の討伐参加の勢いをみたりするターゲットにされた気もするし、伊達佐竹が内応してくれると勘違い過信していた感もあるけれどな
今の大河ドラマは、あの脚本家の技量では重すぎて無理がある!実にくだらないドラマだ!
関東の城攻めの経過がわかる動画はいいね(^^)b
北条は秀吉に花を持たせるべきだったな。徳川じゃないけど「その陣羽織を頂けないか!?」ってやることが大事よ。
秀吉はそういうパフォーマンスとか、死ぬまで戦った。みたいなイイ話が好き。
あと、小牧長久手で、徳川家康が善戦したことが、変に北条を勇気づけさせたとも言えるなぁ・・・。
「織田信勝が勝手に講和したから家康は敗北したんだ!難攻不落の小田原城を持っているから勝てる!」
と思っても不思議じゃない。
取次も大事だけどなぁ・・・。まぁぶっちゃけ。最初からつぶすつもりだったんじゃないかな?
なんというか、のちの「方広寺鐘名事件」に繋がらなくもない。
真田十勇士の真田氏も、夜討ち、朝駆け、二枚舌のなかなかの曲者盟主ですね。
後北条は東北仕置を簡単にするためのスケープゴートと私は見ています。
忍城戦でもう一本動画が作られそう。
それと、八王子城祉って今もやっぱり出るんですか?
バレた…
こんばんは😊😊😊
西からの脅威に対する盾となっていた武田が消滅したことが、けちの付き始めでしょうかね。
実際は滅亡せずに江戸時代も大名として存続されましたよね。
運命を決める「天地人」の内、北条には地の利しか無かった事が決め手でしょう。
天の時と有能な人が欠けているだから、そうなるのは必至。
家康の動きが見事だなぁ
北条氏が揺らぐと見るやそこに付け行って北条氏の所領を簒奪する手立てを考えてたみたいだし
本多佐渡の入知恵だろうけど、その後の国替えのための布石も打ってる
結局、三英傑の中で最も若かった家康が時間を味方につけ健康であることで天下を獲ったのは必然なんだな
あくまで個人的見解ですが、もともと豊臣政権は北条討伐をしようと思ってたのにあっさり臣従されてしまったので、名胡桃奪取+取次のトラブル+氏政の上洛の延期という問題をでっちあげたのだと思います。
関白であり、惣無事を掲げる以上は秀吉自身も北条討伐のために大義名分は必要だと思いますし。
間違いですね。豊臣側が何くせつけているかもしれないし、家来衆が下手を打ったのは本当かもしれないけど、北条氏の対応に間違いがある。そういう状況になったとしても伊達のように上洛して説明しないのが間違いである。自分たちは強者であるかからというプライドがあったのでは。家康が配下に入った時点で状況が変わったのを読みきれないのが間違い。
・天下統一したくて豊臣方が戦争理由欲しかった
・豊臣家臣の謀略に秀吉が乗ってしまった
・なんかよくわかんねえけど全部真田の作戦
創作だとこのどれかを登場人物の狙いとして落とし込む余地がありそうですね。
この辺の敵対関係を関ヶ原でも引きづるんだね。。。佐竹、真田、上杉・・・。
ってか、いつまでもウダウダやってるから、北条も。アレじゃ無理。
あれ?小牧長久手の後の地震に関しては触れてないのね
地震は秀吉家康の講和のきっかけの一つにはなりましたが、地震=講和と直接結びつかず、地震後も豊臣陣営による軍事行動は起きており触れるにはかなりの文量が必要なので省きました。
取次関係なく同じ結果になっていたでしょうね。
取次ぎのミスとかではなく、
北条は、駆け引きをしていたという事ですよ。
そう簡単に、いいなりにはならない所を見せて、
自身の格を上げようとしたのでしょう。
最終的には臣従したとしても、どういう経緯で上洛するかは大事ですから。
でも、そういう態度が、秀吉の逆鱗に触れた訳です。
秀吉から見れば、もう戦国時代は事実上終わっており、
さっさと全国統一して、大陸侵略計画に着手したいのに、
いつまでも地方大名相手に、チマチマとした「駆け引き」なんかやってられない。
「トラブルを弁明するなら、予定とか関係なく、一刻も早く上洛しろ」
って事でしょう。
「予定では、まだ先ですから」なんて、弁明する気が無いし、
そもそも、秀吉を嘗めていると感じたのでしょう。
少なくとも北条が豊臣を舐めていたということだけはないでしょう。
10:37 この解釈は、おかしいと思います。
戦闘が起きずとも、軍事力を背景に領地を占領すれば、
それは、立派な「軍事行動」です。
13:05 「北条は何も悪くない」と仰っていますが、
北条配下の者が軍事行動を起こしたのですよね?
北条の指示ではないならば、
勝手に軍事行動を起こした、現場の指揮官を処罰する必要があります。
秀吉もそれを求めましたが、北条は渋りました。
これは、「秀吉を舐めている」と取られても仕方がないでしょう。
自分達の指示ではないなら、責任者を処罰するべきです。
それをやらないなら、「北条の指示だった」という事になるでしょう。
10:53 「元々は北条の領地だった」と言っていますが、
それを「真田の領地とする」というのが「豊臣政権の決定」なのだから、
それに従わないなら、
まさに「秀吉に従わない」と言っているのと同じです。
こうなった以上、北条が大大名として生き残る為には、
(伊達政宗がやったように)
恥も外聞もなく平身低頭するしかなかったのに、
人質を求めるとか、まだ、ごちゃごちゃごねていたのですから、
「秀吉の力を読み違えた」という以外にないでしょう。
まさか関八州支城は五十、百年の歴史ある後北条氏がこんなにあっけなく蹂躙されるなんて当時の誰も予想もしてなさそう
お城たくさんあっても無駄ですよね。織田信長が南近江攻めた時も一気に本拠地叩いて終わりましたから。
北条は大変やったんすね😉
原因は取次の無能さでは無い。
本当のことは分かりませんが、秀吉と昌幸の謀略なんじゃないかなと思わせるとこがあります。
遅参は疑心を生む
信長、秀吉は北条の扱いが悪いよなあ。
舐められてたんかな😢
猪俣邦憲さえいなけりゃなぁ……
さっさと秀吉詣でをしなかった時点で
アウトです 勘違いではありません 必然です 伊達政宗の死に装束を見習うべき 滅びる理由がある(´・ω・`)
物量で勝てるわけないのに降伏しなかった北条が悪いって事だろう。
少し早口で残念😓
討伐ではない。侵攻。