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長文になりますが、大正生まれの祖母から聞いた話をご紹介します。祖母は横浜の山手で育ち、幼い頃 近所のピアノを弾いていた「お姉様」のお家に行くと、ビスケットとミルクティーを出してくれたそうです。また、当時は来客があるとケーキを2種類お出ししたそうです。お客様はお好きな1つを召し上がり、1つは残すのが暗黙の了解。手付かずで下げられたケーキは、上女中の「役得」でした。屋台で「蜜パン」(食パンに黒蜜を塗った物)などを売りに来ましたが(5銭か10銭)、買い食いは大人達に嫌がられたそうです。夏場に出された素麺は、天ぷら・精進揚げ・茄子の旨煮・各種薬味が添えられ、「簡単ご飯」では無かったようです。基本は「家食」ですが、時折 洋食店や中華料理を食べに出掛けました。特に余裕のあるお家では、子供1人1人に専属の「ねえや」が付きました。お醤油を入れる醤油猪口は「お小皿」、取って置きの物は「おとっとき」(おそらく「取って置き」の音便変化)と祖母は言っていました。
皇室や将軍家のおすべりという習慣の民間バージョンですね。私の実家辺りはド田舎で、近所の叔母さんとかは子供は客の内に入らないので別ですが正式に招かれたり訪問してきたお客様は出された菓子等大体自分では手を付けず家族のために持ち帰るのでそのために客が一人であってもお茶菓子は二つ三つ用意するのだと言ってました。昔は冠婚葬祭に出される料理は家族も食べる事前提で量もそこそこ多く、祖母などは酒肴や簡単なご飯だけは頂いて、料理には手を付けずに折詰にして持ち帰ってみんなで食べてました。
@@さいたま2000-f6j さん。千葉北総でも昔はそんな感じでした。私が結婚した時(バツイチ)、披露宴のお料理は当然フレンチのコースだと思っていたら、和食のコースにするように、元義母に言われました。そして必ず「生折り」(なまおり)を付けるように、と。???の私は、披露宴には料理の入った折り詰めを並べ、それは出席者が家へ持ち帰る分だ、と説明されました。そして、披露宴の前日、当日夜、と花婿の家で近所親類が宴会する、と。親類が亡くなった時も、火葬後は喪主の家で食事が出され、折り詰めが出されました。普段は質素な食事で済ませ、冠婚葬祭でご馳走を食べる習慣なんですね。
@@とらかぶりともこ 祝儀不祝儀に出された食事を家族で食べるのは直会の意味もあるとは言いますが、一緒に食べることで親族同士の結束を固めたり、福の(あるいは穢れの分担)お裾分けの意味もあるんでしょうね。理由はともあれいい習慣だったと思いますし、宴席で出されるごちそうとかは普段の食事とは異なるので、家で待つ家族は嬉しかったんじゃないかしら。私が生まれ育ったのは山奥だったので、祝儀の折詰のお重に鯛の尾頭付きやお刺身なんかが入っていたらとても珍しく、或いは葬式では羊羹やお饅頭なんかが詰めてあったりしてその意味合いや食べ方なんかを祖母がいちいち教えてくれて、みんなでありがたく食べたのは良い想い出です。今は菓子折りなどのお土産はあっても、食事は持ち帰りませんものね。
@@さいたま2000-f6j さん。確かに質素な暮らしが普通だった頃、「宴会のお土産」は嬉しかったでしょうね。昔、祖母が同窓会か何か集まりに、横波中華街に出掛けると中華料理の折り詰めを持ち帰りました。その中に広東式叉焼があり、甘くて周りが赤く染まっていました。今でも叉焼は、「甘くて周りが赤い物」が好きです。農村部で育った元夫の子供時代も、おかずは野菜のみ(鶏が卵を産めば卵も)、たまに行商の人が自転車で干物魚を売りに来たそうです。ヤマザキのケーキを食べたのは中学になってから、だとか。
ウチの祖父は明治41年生まれで長男であったにもかかわらず農業がイヤで東京へ丁稚奉公に出てきたそうです。そして初めて白米を食べ、その美味しさに驚いたとか。しかし「江戸患い」で故郷へ帰る事に…実家に戻ってから数日の後、関東大震災が起き、自分が住み込みで働いていた商店も被害に遭い、後に再び東京に出てきた時に消息を辿ったものの、店主以下みな亡くなっていたそうです。
トンカツとキャベツの千切りの組み合わせは最強ですね。家に遊びに来たドイツ人夫婦に祖母ちゃんがトンカツ出した時、キャベツの千切りおかわりしてました。
大正12年生まれだった婆ちゃんはハイカラさんだったらしく洋食大好きで、子供の頃によく百貨店に連れて行ってくれてはレストランで洋食食べさせて貰ったなぁ…まだまだ川口市は田舎だったから、わざわざ電車に揺られ三越、伊勢丹に連れて行って貰っては食べ歩き(笑)ありがとうな婆ちゃん……
随分前に亡くなったけどうちの祖母も大正時代の田舎生まれにしてはハイカラさんでした。一般的な食パンを角パン、山型の食パンをイギリスパンと区別し、若い頃からお肉が好きで洋食党。晩年はマクドナルドのハンバーガーが好物になり、コーラと一緒に食べてなんて美味しいものがあるのかとご満悦でした。そんな祖母でしたが、若い頃に近所にいた進駐軍からの配給品に混じっていたコンビーフだけは【あんな油臭いものは食えない、腹を壊すから食わない方がいい】とずっと言っていて、祖母が亡くなった後もコンビーフを食べる気になれず私は四十になった頃初めてコンビーフ食べました………日本産は美味しいんですね……
@@さいたま2000-f6j コンビーフ…確かに脂っこいですね(笑)おばあ様マクドナルド好きだったんですか(笑)益々ハイカラさんですね!
この人ちゃんと文献とかを元に説明するから好き
天皇陛下に食べ物が献上される話はよくあるけど、天皇陛下は「うまい」とか「まずい」とか「好き」とか「嫌い」とか言ってはいけないそうで。明治天皇に木村屋のあんパンが献上されたとき、それを召し上がった陛下は一言「これを引き続き納めるように」と仰有ったとか。よほどおいしかったんだろうなぁ。
昔の皇族や将軍家、大名家の人たちは、宗教的や道徳的な観念から好き嫌いをしない(食べてはいけないと決められているものは別)という事を幼いころから徹底的に教え込まれたことと、立場的に下手に食事に好き嫌いを口に出すと、嫌いなものを出したと厨房の人が処罰の対象になったり、好きなものに毒を仕込まれたりするようなことがあったらしいです。だから毎日の御前に出たものすべてに美味い不味い関係なく、差がないように箸をつけることが大切だったとか。ただ好きなものはあったので毎日食事に何かしら好みのものは出たそうですが、それも少ししか食べられなかったみたいです。明治天皇は朝はフレンチスタイルのパン食だったそうですし甘いものが相当お好きだったそうで、もう少し立場が軽ければアンパンを毎朝でも食べたかったかもしれないですね。(晩年は糖尿で砂糖をたくさん使う料理やお菓子は控えるように指導されていたらしいですが)
出されたものは全て召し上がるのが前提なので、うっかり葉付きのまま柏餅が出された時も全部召し上がったとか。これはご令孫の昭和天皇の話でしたっけ
@@edogawasullivan9191 昭和天皇のお話ですね。でも昭和天皇は皮付きの深し芋や焼き芋をお好みだったとも言いますし、同じように考えて知らずに食べちゃったんでしょうかね…(笑)出されたものはすべて食べるというのは、まず食べられる物、場所しか出してないことが前提なのかもしれません。皇室では皇族方がミカン一つ食べる時も皮とすじを奇麗に取り除いて、房まで分けてお皿に乗せて出す事が上皇后さまがお嫁入した頃には普通だったそう。でも一般家庭では親が剝いてくれることはあってもそんな形で出てくることはまずないので、これから育つ子供たちに庶民の感覚が身につかないのは困ると自分で処理して食べるように上皇后さま(当時は皇太子妃美智子様)自ら見本を見せていたという話を聞いた事があります。つまり、現天皇陛下より前の世代の皇族方の中には、ミカンやリンゴ、その他皮付き種有の果物や野菜などは【そのままで全部食べられる状態】で出てくるものだという刷り込みがあったのかもしれません。そんな環境で育っていたらこれは全部食べられるのか?と聞く前に食べちゃいますよね…だって食べられる場所しか食卓に上らないことが当たり前だもの……私たちからしたら柏餅の葉っぱとか食べられないのは見たらわかりますが、食べ方もわからないし初めて見るものだとなおさらかと💦因みに以前はブドウも大膳課の職員が皮をひとつづつ剝き種を取り除いてお皿に盛り、お魚なども厨房から渡された後に給仕の女官が形を崩さぬよう小骨などを抜いていたそうです。ブドウなんて皮の内側のところが甘くて美味しいのに…(笑)
@洋ろりあなるの開発日誌 天皇陛下でしょ
@@武田蒼-d2c 触っちゃダメです。
明治の洋食事始めの物語は虚実入り乱れてよく判らない部分もありますが、オリジナルの欧州料理を創意工夫し日本人好みに変えていったところは共通していますね。そして今や日本には美味があふれ当の欧州人達をうならせるほどのものになっているんだから、先達者達の努力には頭が下がるばかり。
そしてトンカツのような料理ができたと。
しかし今は日本食を海外で現地風にアレンジしたものを叩くテレビ番組があるんですよね。。同じ日本人として恥ずかしい
東郷平八郎がイギリス留学時代のビーフシチューが忘れられず日本の料理人に作らせたら、肉じゃがが出来た。
@@たろ太郎 ネオ日本食はイタリア料理を日本人の好みに合わせたたらこパスタや和風きのこ、ナポリタンみたいなものなのに現地人が美味しいと思えばそれでいいんじゃないかと思うんですけどね……どこの国の人が作ったって、現地の人が美味しいというなら現地のニーズに合ってる。それを日本人が作ってないから違う、日本食じゃない!とか言い出すのは野暮な話だと思います。
家の死んだじいさん、軍隊でカレーを初めて食べて、旨くて衝撃だったようです。
おじいちゃんに電流走る
@@Megariss-Carol.Unofficial 矢木電やめろ
このチャンネルの解説スタイル、解説動画によくありがちな「~~なのはどうしてだと思う?」↓「わからないぜ、どうしてなんだ?」↓「それはね、~~だからなのよ」みたいなもったいぶった会話が少なくてとても好き人によって好き嫌いはあるんだろうけど、個人的にはこういうテンポのいい会話劇の方が好きだなあ
私が子供のころ、昭和の終わりごろまでメニューにライスカレーと記載していたお店はありましたねかなり長く併用されていて、最終的にはご飯にかかったまま出されるのがカレーライス、別々の器で出されるものがライスカレーと定義しているのを割と近年目にしました
昔のカレーって舟形の器に盛って出てきませんでしたっけ……?家にも舟形があった気がします。デパートの屋上レストランとかで、別々の器で出てくるカレーに憧れましたわ……銀の器に入ったカレーと別盛りの白米と数種の薬味。天ぷらご膳やエビフライやステーキの方がよっぽど高いのに、器がアレだと言うだけで高級感があった気がします。
倉本聡脚本の昭和の終わりか平成の始めに作られたドラマに「ライスカレー」というのがありますよね
「味の吉野家 牛丼一筋80年〜」てCM思い出した。もう40年以上前なのか。
今や創業120年🎊
滋賀県では今は高齢の方した言いませんがすき焼きのように肉や湖魚を入れた鍋料理を「じゅんじゅん」ということがあります。由来は肉や魚がじゅんじゅんと煮える様からのようですが、もしかしたら大っぴらには食べられないなかで産まれた料理なのかもと思うと面白いですね!
食ってた人は食ってたのか面白い!!
響きがかわいい😊
滋賀のどの辺でしょうか?
料理名が隠語みたいになってるのが面白いですね。
この時代は洒落ていて良いですね。
この動画見るまで気づかなかった確かに大正メシっていうイメージが自分には無い。
牛肉食がなかなか広まらなかった理由の一つに、品種改良されておらず肥育も不慣れだったりで硬くて癖のある肉だったこともあるようですね。あと初期の牛鍋は味噌ベースの味付けだったと聞いたことがありますが、こってりして美味しそうで一度食べてみたいです。ちなみに母方の祖父(戦前生まれ)もライスカレーと言っていました。
横浜に明治時代からの牛鍋を出しているお店がありますよ。 肉は薄切りではなくサイコロ状にカットされています。 味噌だれで煮て頂く牛鍋も美味しいですね。まあ使われている牛肉も和牛の高級霜降り肉なんで、明治時代の牛鍋よりも美味しいのではと思います。
8:02 なかなか風流があるな→風情があるな だと思います
小学生の頃、友人とウシガエルのおたまを掬って遊んでいた。川岸の斜面にいくらでもいたのだ。自分は本当に遊びで、帰りには全部逃がすつもりでいたんだけど、友人の母親はバケツふたつにみっちりのそれを、ほくほく顔で持ち帰っていった。 自分の両親は他所からの流れ者なので知らなかったが、あの土地では普通に食用とする習慣があったのかもしれない。確かにぷるぷるして旨そうだしね…。
木村屋総本店のあんぱんにはまだ塩漬けにした桜が乗ってます。6個入りであんぱんにしてはそれなりの値段はしますが、美味しいですよ。クリームパンとかもありますね。まああそこはなんでも美味いです。
先生こんばんは!木村屋さんの桜アンパン🌸催事で来られた際には必ず購入します。餡がぎっしり詰まって凄く美味しいです。明治大正時代に創業されてたのですね。祖父母が生まれた明治大正時代の食事について色々と懐かしい思い出が蘇りました。配信ありがとうございました!
この人の解説詳しくて好きや
【ウサギ】 鋤焼きって、ウサギの肉を鋤の上で焼いたのが始まりだと聞いていた。 ウサギって「一羽、二羽」と数えるように、獣ではなく鳥の扱いだったようですね。 耳を羽根に見立てて、後足で飛ぶ(跳ぶ)からかな。
江戸の平均身長は成人男性で155cm~156cm、女性で143~145cm東京都内の開発で掘り出された1万人分の人骨を国立科学博物館が保管してるけど江戸時代の骨が、ほとんどで小柄で栄養状態が悪かった。若い世代の骨が多いのも特徴で伝染病が流行して人が簡単に死んだ事も分かっている。富国強兵の為には、まず栄養ということか
それが完全に解消されたのは第二次大戦後
親切丁寧で好きです。
イザベラ・バードが農村で鶏買って、捌いて食事と言う時に、鶏を売った人が、泣きながら返してと頼み込んで来たので、返した話を思い出した。
えぇ………、その話、詳しく知りたいです。
昔の日本人ちょっとかわいくて草
その時代の鶏は、鶏卵が目的だったのでは?採れた鶏卵を市で売って現金収入にしていた。小さいころから庭で飼っているから、良い子供達の遊び相手でしょう。卵を産めなくなった、年寄りの鶏を潰して鶏肉にしていたから、鶏肉を食べる機会も少なかったはず。子供にすれば大切な遊び仲間だもんな…
@@石垣勝-k6r 鶏卵を採るのもありますが、実は家の周りの草刈りも鶏の大事な任務だったりします。鶏は雑食で雑草が芽吹いたら直ぐに食べてしまうし、ミミズや虫類を好んで食べるので、農家は敷地内で放し飼いにしてました。うちの父方の実家は鶏では飽き足らず七面鳥も放し飼いにしてましけど、七面鳥は草刈りどころか番犬ならぬ番鳥にもなって不審者がやってくると延髄切りを決めてましたwww
@@gale_straits2695 怒り猛る雄鶏の勇猛果敢さは、サッカーフランス代表のエンブレムに描かれるほどですからね。
カレーに入れてたネギは長ネギじゃなくて太いポロネギだったはずあと明治の西洋料理指南に書かれたカレーに入れるカエルはウシガエルでなくアカガエル
カエル(グルヌイユ)はフランス料理でも高級食材。普通においしい。日本でもカエル(ガマ)の煮物を「もみ」と呼び、美味の代名詞とされている。ちなみにこの「もみ」から「もみでない」ものを不昧とし「もみない」、「もむない」という言葉ができた(関西の方言で「水っぽくてまずい」という意味)という説がある。
カレーでお馴染みハウス食品も薬種問屋から出発した会社だそうです
中流以上、裕福な家庭を基準として、資金力のある家庭などなど。が対象のような、大勢の貧しい家庭の食はどうなっていたのかも。昔から現代迄の時代でも貧しい一般家庭の食事についてのコメントもあったら尚良いとお思いました。
僕のひいおじいさんは主計兵として戦争に行ったらしいですが、軍で作ったカレーがおいしすぎて帰ってからも僕のおじいさん達にカレーをふるまったそうですおじいちゃんはまた食べたいなあと言っていましたw
国民に肉食を奨励するために肉を召し上がらない明治天皇に政府要人がたのみこんで明治天皇も国民のためならと承諾した話好き。
天皇という存在がいかに国民と寄り添ったものか、がよく分かるエピソードですね。やはり日本は「和」の国です。
両陛下が牛乳を初めて召し上がったのは明治六年か十二年だったかどっちかと思いましたが牛乳に骨を強くし体力つくりと滋養強壮の効果があると聞いて、生来身体が弱かった皇后美子様に特に強く勧められたという話好き。
明治・大正・昭和の内、昭和・平成・令和のどれよりも、正しく大帝に相応しい近代化を感じさせますし。 神格化と言うか美談による威信や敬愛に寄せたものが多いようです。藩閥政府による全国行幸は、中にはホッコリするのもあるそうですし。
肉食はほとんどしなかったとはいえ、昔(平安貴族とかそのへん)すでに牛の乳を使った品があったりしますよね。牛の乳自体を飲むのは初めてかもしれませんが、牛の乳を使った加工品ははるか昔から召し上がってますね。
@@四季菜摘 平安期はどうかわからないのですが、江戸から明治に入るまでの宮廷では乳製品は殆ど摂取されてないようですね。まあでも【異人は牛の乳を茶に入れて飲む】と気持ち悪がられてるくらいですから、日本人にしてみれば獣の乳を飲むのは理解不能だったのでしょうし皇室と言えば神道の長なので穢れの観点からも敢えて避けていたのかもしれません。その一方で乳が出ない母親が赤ん坊にヤギ乳を飲ませたりもしたらしいので、一般では薬食など仕方がない場合には口にする事はあったのかも。生活を洋風に近づけるためでしょうが、両陛下は朝はコーヒー濃いめのカフェオレ、パンにはバターを塗って食べるというスタイルが明治のかなり早い頃から定着しています。朝もその他に色々用意していたという事ですが、食べるのはパンとカフェオレと決めていた当たり案外お気に召していたのかも。ちなみに宮中で両陛下がお肉を初めて召し上がったのは明治になってからのようですが、両陛下は案外平気だったのに対し宮中の女官は肉食をかなり嫌がったそうです。
カエルは鶏肉と変わらない。言わないで出せば皆普通に美味いというだろう。
やっぱり面白かったです!今に直接つながる食文化ですねふと、思ったのですが、ハヤシライスの普及は戦後でしょうかね…?
ウイーン在住です。インドやパキスタンカレーの店でカレーを時々食べますが、ご飯の上にカレーをかけて食べている人がほとんどです。またスペイン人の友達が「クロケット」を作ってくれましたが、じゃがいもとツナで作ってました。また私が「コロッケ」を作るとオーストリア人は「クロケットだ!」と言って食べます。クリームコロッケは逆にここでは見たことないです。またウイーンには15、6世紀からヴィーナーシュニッツェルという子牛を薄く叩いたカツレツがあり、オーストリアとも親交の深かった明治時代に日本に伝わったのかな、と思ってました。一言で西洋料理と言っても国によってだいぶ違うんだと思います。
カエル食が上手く広まっていれば、今のウシガエルの問題も大きくならなかったかもしれないですね。
関西の本格的すき焼きは牛脂で肉軽く炒めサラメ加えてから醤油で肉を食べ日本酒で薄め(出汁含め)豆腐葱食べます。
「くっ付かる」って北関東と福島でも浜通りあたりの方言のイメージありましたけど、中通りの方も使うんですね
昭和は戦前・戦中期と戦後復興〜高度成長期で大分違うと思うけど分けてやる感じなんですかね?
すき焼きの次の朝は残り汁にご飯ぶちこんでおじやにしたな。うちは貧乏で牛肉は最初だけで、途中からホルモンに変わったから、これが結構残る。これが一晩経つと大変美味しくなる。朝は野菜を継ぎ足して栄養満点ホルモン飯になる。今は肉が安いからやらんが。
カツカレーは戦後、巨人軍の千葉茂が洋食屋で注文したのが始まりと言われています。後、自分が子供の頃には食用ガエルってあったはず(食べたことはありませんけど)
カレーライスは軍隊では明治時代から食べられていたけど一般庶民の間では中々手の出ない高級料理でありつづけ、レストランでカレーライスが庶民にも手の出る価格で提供されるようになるのは昭和になってからじゃなかったかな?小林一三が執念で阪急百貨店のレストランで提供したのが庶民に広まる切っ掛けだったとかいう話を聞いたことがある。
私も、イギリス軍…それこそ横浜(横須賀?)から伝わって明治から知られてはいたとテレビだったかで聞いたことがあります。資料が違うのか、テレビの番組製作の為か、カレーが庶民の味として定着したのは昭和で、SDS?SBS?なんかそんな感じの会社のカレー粉の流通が切っ掛けだったとか
くっ付かるって何?って調べたら茨城の言葉なんだね…18年いた訳だげっど初めて聞いだ
トンカツのキャベツは、適当に選んだキャベツを使ったのが始まりという説がありますね。
戦中世代の祖父はライスカレーってずっと呼んでるなああと舟型の皿で食べてた
これはある程度裕福な家庭の話ですよね。貧しい家庭だとパンは無く朝→ご飯、漬け物、味噌汁昼→ご飯、野菜のつけ汁、漬け物夕→蕎麦関東の某地域における一般庶民はそのメニューだったそうです(大正~昭和初期)。地域資料館の展示にそう書かれており、「えっ、それだけ?😨」と驚きましたご飯もおそらく、今のように白米のみではなく、麦飯もしくは、粟·ひえ混じりの飯だったんじゃないかと思います「昔の人は栄養状態が悪かった」という言葉を知恵袋などで見かけはしても、その詳細まで語った御意見になかなか巡り合えず、その具体例を想像することができませんでした…😖けれど上記のメニューを目にしたら「ああ、少ないな…これでは栄養悪いのも無理ないかも。魚や肉などのたんぱく質ゼロだし🍚🥬🍆🥕🍅」と思えてしまい、やっと具体例にたどり着けた気分にもなりました
食べたことがありますが、カエル肉の味は鶏肉とほぼ同じです。鶏肉よりちょっとさっぱり気味でした。
文明開化、明治維新等も含めてご先祖様ありがとうm(_ _)m美味しい食べ物が食べられるのは先人の皆様のおかげです。
大正は年数が短かったですからね
江戸時代に「薬食い」として部分的に行われていた獣食が「ぼたん鍋」「もみじ鍋」など多くが鍋料理、あと焼き肉だったっぽいから「牛鍋」もその延長線で自然と鍋になったんではなかろうかとは思うとこ
袋入りのタレ漬け焼肉やタレ漬けボルモンを買って来て、野菜とカレー粉を足すだけで、カレーが出来上がる。 御薦めは、タレ漬けボルモンです。
明治になって西洋的な料理が増えて今は🍚よりパンを食べる人まで多くなってしまったけど、飛脚を使って実験したらパンを主食にさせられた飛脚は長い距離を走れなくなったらしい話を昔聞いたことがある。やはり民族的に合わなかったんだと思う。自分の子供の頃は昭和の30年代前半だったから、小学生の時に給食で脱脂粉乳なるどう考えても家畜の試料用の牛乳もどきや、何故か肉じゃがにコッペパンなどの変な組み合わせが与えられた。子供心にも変な組み合わせに慣れるまでに時間を要した。戦後でさえ違和感あるのに、明治でガラッと食生活を変えられた日本人は精神的にも日本人らしさを失ってしまった気がしてる。それほど食は生きてく上で大切だと改めて思う。と言いながら、毎日ほとんど自炊だけど肉中心の食事の自分。カツ丼とすき焼きが好きなんだよォー😁👍
郷土料理の歴史とか知りたいなー
おお、待ってました!
牛の胃袋のカレーて、今で言うホルモンカレーだろ。昔の人は今よりホルモンに抵抗ある人多かったかもしれんが、やっぱホルモンカレーは美味いと思う
7:20木村屋アンパンの超成功は北海道まで轟いたんだよね。北海道でウワサの伝聞だけで作ってみた!をやって人気になり、今も生き残ってるのが月寒あんぱん。どっちもおいしいので大好きです(`・ω・´)
ちなみに札幌キムラヤというパン屋さんがありましてこちらは正式に木村屋から指導を受けて創業されたお店ですが工場型なので本店とは雰囲気違いますけどあんぱんまあまあ旨いですよちなみに歌手の大黒摩季さんのご実家としても地元ではそこそこ有名です。
ポマードべったりの橋本龍太郎が予算編成のとき大蔵省の役人どもに木村屋のアンパンをさしいれしてたな。
牛の胃(ハチノス)を使ったカレーは今でもカフェとかで置いてる所ありますよ!
大正時代はたった15年しかないからよほどのことがない限り大きく変化をするのは難しい明治大正の食べ物明治はチョコレートや牛乳大正はリポビタンdが代表的な食品です
大正生まれだったじいちゃんがコロッケ大好きだったなあボケ出してからは家に前日買ったコロッケがあるのに次の日コロッケ買ってきてた(´・ω・`)
♪今日もコロッケ明日もコロッケ~♪
うぽつですm(*_ _)mいいちゃんねるを見つけた……英国シリーズも完走しよ……
カレーのスパイスは漢方と共通のものがあるから、薬問屋の方が当時は流通とか取り扱いで優位やったんやろな。
クッソ、また貴重な時間を奪われてしまったぜ。
00:30 くっつかる…?
カレーのおかげで、海軍の洋上での脚気が激減したそうですね。イギリス海軍の食事をとり入れたのもカレー普及の要因かも。ビクトリア女王もカレー大好きみたいでしたし。ビバ、キレンジャー♪🍛
へばな〜 ぐぶりーさびら!いつものやつ大好き。方言しゃべるレイマリは珍しいね。かわいい。
別の洋食のところの魔理沙と霊夢………、老舗の洋食店にお出掛けしておめかししてという、可愛い話がありました。それ以来で、最も大好きな洋食だ♥ 牛・豚・鶏の順で………。食べてもOKの獣鳥肉類の対象が、猪🐗と鹿🦌。大体、牛🐂は江戸時代まで耕作に使い、鶏🐔は時告げ鳥だから対象外❗卵🥚は安土桃山時代の影響で、料理や和菓子にと使われるようになった。山間部では、獣鳥肉類は行き届かなかったようです。 明治天皇自ら牛肉を膳に上せられた、と云う新聞報道などで、庶民の間に牛鍋などの形で徐々に肉食が始まり、これがスキヤキの基になった………。と言う、天皇崇拝による影響を与えたあたり、現在と比べものにならない権威=思慕を感じさせます。 豚🐷と言えば、豚カツ。老舗洋食屋は当時の庶民に手が届く範疇ではなく、むしろ大正時代になってから。関東大震災の後、売り上げの落ちた蕎麦屋が、カツ丼やカレーライスなどの洋食も扱い始めたのが幸いしたこと。三回目の景気は、昭和初期の東京都御徒町の洋食店が、予め肉を切り分けておき、ご飯と味噌汁、漬物をセットにした「豚カツ定食」を出して更に豚カツの人気が上がったこと。同じ揚げ物・天麩羅も、既にこの頃から、屋台→お座敷に変わり、関東好みの胡麻油→関西風の綿実油、大豆油に取って変わる。時代が下れば下るほど、民衆に身近な肉になった感が強い。 鶏🐔は、よくよく母から聞かせられましたからね。上記は、自分で調べたり、集めたりした知識ですが、身近な家畜として、玉子や鶏をわざわざしめたり、ごく普通に使って、スキヤキにして食べていたりしたとか。雑穀を混ぜる事のない白ご飯だったり、自然な卵で玉子焼きだったり………。 現在と違い、人工的な食品の類いはないけど、塩田や田圃を持っていたり、山を持っていたり、海にも近く、一男三女のお嬢さん育ちで、男衆女衆(おとこし・おなごし)と言う、華麗なる一族の原作で出てくる言葉だったので、何不自由のない裕福な庄屋(同じ魔理沙と霊夢が出て来るゆっくり大江戸シリーズ「農民~豪農の誕生と百姓の生活」に出て来た)育ちであることを何回も………。 豪農の名残は現在も健在で、新鮮な物を頂きに行きます。明治→大正→昭和は激動の戦乱に相次ぐ生き難い時代であるのも、聞き知りました。白黒写真が居間から来客室(和室)に変わってましたが、日露戦争で亡くなった方が残ってますし。一番逞しいのは、昔で言う、年貢を納めさせられる立場の人達とは皮肉です♥
オマケのビール、面白かったよ!ちなみにカエル、食べたことあるけど臭くない鶏肉みたいでカレーはイケると思います。名前をつけて一緒に働いてた牛を食べるくらいだったら私はカエルに行くわ。
カツカレーはもっと後で巨人軍の千葉茂選手が大好きなカレーとカツを一緒に食べたいってことから銀座の洋食屋さんで生まれたとか
昔の美味しんぼのトンカツの話あたりの頃は好きだったんだけどな。
明治・大正・昭和中期までの食事は「聞き書 ***の食事 (日本の食生活全集) 日本の食生活全集***編集委員会 」が都道府県ごとに纏められています。 ぜひ、参考にしてください。 良書です。
カツカレーは昭和の野球選手由来だったよね。だれだっけな
千葉茂?
焼いた蛙はほぼタンドリーチキンと同じって濱口優さんが言ってた
今の吉野家まで122年あると思うと、歴史があるなw 牛丼食べたいと思えばやっぱり吉野家かな。
ハチノスカレー旨いんじゃないか?(モツ好き)
爺さんが作ってくれた戦艦比叡カレーが美味かった。味の秘訣は野菜をみじん切りにして徹底的に炒めることでした。
駆け足で良い感じだと思います。
ビール🍻がそんな昔から人気だったとは…
当時、牛よりも豚の方が飼育数が多かったのも、豚カツの生まれに繋がるという事も紹介して欲しかった
もっと日本の食べ物解説希望します…個別とか地域の食べ物とか。例えばホヤは三倍酢ときゅうりってのが定番だけど他には?ってのとか。
天ぷらも元は外国の食べ物じゃなかったっけ
そうです。 ポルトガルの宣教師が現地の料理を宗教的理由から魚に小麦粉をつけて、油で揚げた物を食べていた。それを真似て、天麩羅の前身ができました。
昭和後期と平成と令和の食文化の違いもお願いします。
牛めしとかカレーとかこの頃から出始めたんだよな。日本人の食生活の転換期だったんだ。
【食用カエル】 食用にカエルが移入される暗いですから、カエルは食用なのでしょう。 50年以上前ですが、中学校の理科の時間にカエルの骨格標本を作る授業があり、確かに鶏肉と似ていたのを覚えています。
追加。今も営業する、横浜で老舗の鰻料理店「わかな」にも、折々出掛けたそうです。
カエルは鳥肉に近いのは本当
明治に牛鍋(すき焼き)とトンカツに吉野家が登場しました
私の祖母はカレーライスのことを、ライスカレーとよく言ってました。
昭和30年後半生まれですが、子供時代「ライスカレー」って呼んでましたよ。
クリームパンは中村屋だと聞いたことがある。
戦時中の陸軍ではカレーを辛味付き汁かけ飯って呼ばれてましたよ
敵国言葉の使用禁止ですね
@@江戸城の正成像 靖国神社内にある「遊就館」の土産物屋にレトルトカレーとして売っているので食べる事が出来ますよ!
そう言えば、職業軍人の祖父、真珠湾攻撃の時にもにも空母赤銀の護衛駆逐艦として出兵。彼は、ライスカレーって言ってた。
カレーの話だけど、豚汁と同じ材料で作れてリーズナブル、そして波で揺れる軍艦内で調理するので、溢れないように小麦粉でとろみ付けたのが始まりって聞いたけど⁉
此れ面白い❗何時も堪能させて貰ってます‼️カツカレーが落ちですか最期はビール⁉️カツカレーを食って、古の文明開化、、、🐒明治は遠くに成りに蹴り👣💨
確かに店で食べるすき焼きは肉を焼いてたなぁ。家では焼く事をすっかり忘れてた。なんか味が違うと思ってたらこれか。
カエル食ったことのある俺は現代人じゃなかったのかw今風に言うならチキンカレーに近い感じだったんじゃないかと思います。ホルモン入りカレーも良さそうですね。
良牛1号店は築地にありました。
カエルは言われなければ鶏肉と殆ど変わらない普通に美味しいですよ
フランスでは今でもポピュラーな食べ物ですよね。
鶏肉と変わらければ、蛙を食う意味がないよ。
小さい頃、初めて最初から煮込んであるすき焼きを見たときはえっ・・・ってなった
牛鍋は明治村でも食べられるが¥5000~6000は高過ぎる。
家のすき焼きは豚肉を入れて煮込んでいた。焼いて割り下を入れて煮込むなんてことは無かった。親父は牛も豚も同じだ。とか言っていた。豚のすき焼き風料理は薄切り肉をそのまま入れていたものだから、灰汁が物凄く出てなんか、昔人間ギャートルズみたいだった。
すき焼きと言うと、何故かすき焼きの日だけは親父が料理していた。口癖は「すき焼きつぅのは、煮るんやなしに焼くもんや、皆が食うとるのはすき煮やで」って言っていたなァ。まあ、うちも最終的にすき煮になるんだけどね。
ウチも今だに父親が鍋奉行です。(笑)すき焼きは美味しいですから。😁
ハヤシライス、やって欲しかった。丸善が発祥の地だっけ。今でも出してるよね。あと、カエルとか牛の胃袋がゲテモノ扱いなのが違和感。カエルはまぁ、知らないとゲテモノなんだろうな。フランス料理で出てくるじゃんね。ウシガエル美味しいよ?牛の胃袋って、ミノとかセンマイとか食わないの?
胃袋というか、内蔵は終戦直後の飢餓時代で食べられ始めた物だから…
長文になりますが、大正生まれの祖母から聞いた話をご紹介します。
祖母は横浜の山手で育ち、幼い頃 近所のピアノを弾いていた「お姉様」のお家に行くと、ビスケットとミルクティーを出してくれたそうです。
また、当時は来客があるとケーキを2種類お出ししたそうです。お客様はお好きな1つを召し上がり、1つは残すのが暗黙の了解。手付かずで下げられたケーキは、上女中の「役得」でした。
屋台で「蜜パン」(食パンに黒蜜を塗った物)などを売りに来ましたが(5銭か10銭)、買い食いは大人達に嫌がられたそうです。
夏場に出された素麺は、天ぷら・精進揚げ・茄子の旨煮・各種薬味が添えられ、「簡単ご飯」では無かったようです。
基本は「家食」ですが、時折 洋食店や中華料理を食べに出掛けました。
特に余裕のあるお家では、子供1人1人に専属の「ねえや」が付きました。
お醤油を入れる醤油猪口は「お小皿」、取って置きの物は「おとっとき」(おそらく「取って置き」の音便変化)と祖母は言っていました。
皇室や将軍家のおすべりという習慣の民間バージョンですね。
私の実家辺りはド田舎で、近所の叔母さんとかは子供は客の内に入らないので別ですが
正式に招かれたり訪問してきたお客様は出された菓子等大体自分では手を付けず家族のために持ち帰るので
そのために客が一人であってもお茶菓子は二つ三つ用意するのだと言ってました。
昔は冠婚葬祭に出される料理は家族も食べる事前提で量もそこそこ多く、祖母などは酒肴や簡単なご飯だけは頂いて、料理には手を付けずに折詰にして持ち帰ってみんなで食べてました。
@@さいたま2000-f6j さん。千葉北総でも昔はそんな感じでした。
私が結婚した時(バツイチ)、披露宴のお料理は当然フレンチのコースだと思っていたら、和食のコースにするように、元義母に言われました。
そして必ず「生折り」(なまおり)を付けるように、と。
???の私は、披露宴には料理の入った折り詰めを並べ、それは出席者が家へ持ち帰る分だ、と説明されました。
そして、披露宴の前日、当日夜、と花婿の家で近所親類が宴会する、と。
親類が亡くなった時も、火葬後は喪主の家で食事が出され、折り詰めが出されました。
普段は質素な食事で済ませ、冠婚葬祭でご馳走を食べる習慣なんですね。
@@とらかぶりともこ 祝儀不祝儀に出された食事を家族で食べるのは直会の意味もあるとは言いますが、一緒に食べることで親族同士の結束を固めたり、福の(あるいは穢れの分担)お裾分けの意味もあるんでしょうね。理由はともあれいい習慣だったと思いますし、宴席で出されるごちそうとかは普段の食事とは異なるので、家で待つ家族は嬉しかったんじゃないかしら。
私が生まれ育ったのは山奥だったので、祝儀の折詰のお重に鯛の尾頭付きやお刺身なんかが入っていたらとても珍しく、或いは葬式では羊羹やお饅頭なんかが詰めてあったりしてその意味合いや食べ方なんかを祖母がいちいち教えてくれて、みんなでありがたく食べたのは良い想い出です。
今は菓子折りなどのお土産はあっても、食事は持ち帰りませんものね。
@@さいたま2000-f6j さん。確かに質素な暮らしが普通だった頃、「宴会のお土産」は嬉しかったでしょうね。
昔、祖母が同窓会か何か集まりに、横波中華街に出掛けると中華料理の折り詰めを持ち帰りました。
その中に広東式叉焼があり、甘くて周りが赤く染まっていました。
今でも叉焼は、「甘くて周りが赤い物」が好きです。
農村部で育った元夫の子供時代も、おかずは野菜のみ(鶏が卵を産めば卵も)、たまに行商の人が自転車で干物魚を売りに来たそうです。
ヤマザキのケーキを食べたのは中学になってから、だとか。
ウチの祖父は明治41年生まれで長男であったにもかかわらず農業がイヤで東京へ丁稚奉公に出てきたそうです。
そして初めて白米を食べ、その美味しさに驚いたとか。
しかし「江戸患い」で故郷へ帰る事に…
実家に戻ってから数日の後、関東大震災が起き、自分が住み込みで働いていた商店も被害に遭い、後に再び東京に出てきた時に消息を辿ったものの、店主以下みな亡くなっていたそうです。
トンカツとキャベツの千切りの組み合わせは最強ですね。家に遊びに来たドイツ人夫婦に祖母ちゃんがトンカツ出した時、キャベツの千切りおかわりしてました。
大正12年生まれだった婆ちゃんはハイカラさんだったらしく洋食大好きで、子供の頃によく百貨店に連れて行ってくれてはレストランで洋食食べさせて貰ったなぁ…まだまだ川口市は田舎だったから、わざわざ電車に揺られ三越、伊勢丹に連れて行って貰っては食べ歩き(笑)ありがとうな婆ちゃん……
随分前に亡くなったけどうちの祖母も大正時代の田舎生まれにしてはハイカラさんでした。
一般的な食パンを角パン、山型の食パンをイギリスパンと区別し、若い頃からお肉が好きで洋食党。
晩年はマクドナルドのハンバーガーが好物になり、コーラと一緒に食べてなんて美味しいものがあるのかとご満悦でした。
そんな祖母でしたが、若い頃に近所にいた進駐軍からの配給品に混じっていたコンビーフだけは
【あんな油臭いものは食えない、腹を壊すから食わない方がいい】とずっと言っていて、祖母が亡くなった後もコンビーフを食べる気になれず
私は四十になった頃初めてコンビーフ食べました………日本産は美味しいんですね……
@@さいたま2000-f6j コンビーフ…確かに脂っこいですね(笑)おばあ様マクドナルド好きだったんですか(笑)益々ハイカラさんですね!
この人ちゃんと文献とかを元に説明するから好き
天皇陛下に食べ物が献上される話はよくあるけど、天皇陛下は「うまい」とか「まずい」とか「好き」とか「嫌い」とか言ってはいけないそうで。明治天皇に木村屋のあんパンが献上されたとき、それを召し上がった陛下は一言「これを引き続き納めるように」と仰有ったとか。よほどおいしかったんだろうなぁ。
昔の皇族や将軍家、大名家の人たちは、宗教的や道徳的な観念から好き嫌いをしない(食べてはいけないと決められているものは別)という事を幼いころから徹底的に教え込まれたことと、立場的に下手に食事に好き嫌いを口に出すと、嫌いなものを出したと厨房の人が処罰の対象になったり、好きなものに毒を仕込まれたりするようなことがあったらしいです。だから毎日の御前に出たものすべてに美味い不味い関係なく、差がないように箸をつけることが大切だったとか。
ただ好きなものはあったので毎日食事に何かしら好みのものは出たそうですが、それも少ししか食べられなかったみたいです。
明治天皇は朝はフレンチスタイルのパン食だったそうですし甘いものが相当お好きだったそうで、もう少し立場が軽ければアンパンを毎朝でも食べたかったかもしれないですね。
(晩年は糖尿で砂糖をたくさん使う料理やお菓子は控えるように指導されていたらしいですが)
出されたものは全て召し上がるのが前提なので、うっかり葉付きのまま柏餅が出された時も全部召し上がったとか。これはご令孫の昭和天皇の話でしたっけ
@@edogawasullivan9191 昭和天皇のお話ですね。でも昭和天皇は皮付きの深し芋や焼き芋をお好みだったとも言いますし、同じように考えて知らずに食べちゃったんでしょうかね…(笑)
出されたものはすべて食べるというのは、まず食べられる物、場所しか出してないことが前提なのかもしれません。
皇室では皇族方がミカン一つ食べる時も皮とすじを奇麗に取り除いて、房まで分けてお皿に乗せて出す事が上皇后さまがお嫁入した頃には普通だったそう。
でも一般家庭では親が剝いてくれることはあってもそんな形で出てくることはまずないので、これから育つ子供たちに庶民の感覚が身につかないのは困ると自分で処理して食べるように上皇后さま(当時は皇太子妃美智子様)自ら見本を見せていたという話を聞いた事があります。
つまり、現天皇陛下より前の世代の皇族方の中には、ミカンやリンゴ、その他皮付き種有の果物や野菜などは【そのままで全部食べられる状態】で出てくるものだという刷り込みがあったのかもしれません。そんな環境で育っていたらこれは全部食べられるのか?と聞く前に食べちゃいますよね…だって食べられる場所しか食卓に上らないことが当たり前だもの……私たちからしたら柏餅の葉っぱとか食べられないのは見たらわかりますが、食べ方もわからないし初めて見るものだとなおさらかと💦
因みに以前はブドウも大膳課の職員が皮をひとつづつ剝き種を取り除いてお皿に盛り、お魚なども厨房から渡された後に給仕の女官が形を崩さぬよう小骨などを抜いていたそうです。ブドウなんて皮の内側のところが甘くて美味しいのに…(笑)
@洋ろりあなるの開発日誌 天皇陛下でしょ
@@武田蒼-d2c
触っちゃダメです。
明治の洋食事始めの物語は虚実入り乱れてよく判らない部分もありますが、オリジナルの欧州料理を創意工夫し日本人好みに変えていったところは共通していますね。そして今や日本には美味があふれ当の欧州人達をうならせるほどのものになっているんだから、先達者達の努力には頭が下がるばかり。
そしてトンカツのような料理ができたと。
しかし今は日本食を海外で現地風にアレンジしたものを叩くテレビ番組があるんですよね。。
同じ日本人として恥ずかしい
東郷平八郎がイギリス留学時代のビーフシチューが忘れられず日本の料理人に作らせたら、肉じゃがが出来た。
@@たろ太郎
ネオ日本食はイタリア料理を日本人の好みに合わせたたらこパスタや和風きのこ、ナポリタンみたいなものなのに
現地人が美味しいと思えばそれでいいんじゃないかと思うんですけどね……どこの国の人が作ったって、現地の人が美味しいというなら現地のニーズに合ってる。
それを日本人が作ってないから違う、日本食じゃない!とか言い出すのは野暮な話だと思います。
家の死んだじいさん、軍隊でカレーを初めて食べて、旨くて衝撃だったようです。
おじいちゃんに電流走る
@@Megariss-Carol.Unofficial 矢木電やめろ
このチャンネルの解説スタイル、解説動画によくありがちな
「~~なのはどうしてだと思う?」
↓
「わからないぜ、どうしてなんだ?」
↓
「それはね、~~だからなのよ」
みたいなもったいぶった会話が少なくてとても好き
人によって好き嫌いはあるんだろうけど、個人的にはこういうテンポのいい会話劇の方が好きだなあ
私が子供のころ、昭和の終わりごろまでメニューにライスカレーと記載していたお店はありましたね
かなり長く併用されていて、最終的にはご飯にかかったまま出されるのがカレーライス、別々の器で出されるものがライスカレーと定義しているのを割と近年目にしました
昔のカレーって舟形の器に盛って出てきませんでしたっけ……?家にも舟形があった気がします。
デパートの屋上レストランとかで、別々の器で出てくるカレーに憧れましたわ……銀の器に入ったカレーと別盛りの白米と数種の薬味。
天ぷらご膳やエビフライやステーキの方がよっぽど高いのに、器がアレだと言うだけで高級感があった気がします。
倉本聡脚本の昭和の終わりか平成の始めに作られたドラマに「ライスカレー」というのがありますよね
「味の吉野家 牛丼一筋80年〜」てCM思い出した。もう40年以上前なのか。
今や創業120年🎊
滋賀県では今は高齢の方した言いませんがすき焼きのように肉や湖魚を入れた鍋料理を「じゅんじゅん」ということがあります。由来は肉や魚がじゅんじゅんと煮える様からのようですが、もしかしたら大っぴらには食べられないなかで産まれた料理なのかもと思うと面白いですね!
食ってた人は食ってたのか面白い!!
響きがかわいい😊
滋賀のどの辺でしょうか?
料理名が隠語みたいになってるのが面白いですね。
この時代は洒落ていて良いですね。
この動画見るまで
気づかなかった
確かに大正メシっていうイメージが自分には無い。
牛肉食がなかなか広まらなかった理由の一つに、品種改良されておらず肥育も不慣れだったりで硬くて癖のある肉だったこともあるようですね。
あと初期の牛鍋は味噌ベースの味付けだったと聞いたことがありますが、こってりして美味しそうで一度食べてみたいです。
ちなみに母方の祖父(戦前生まれ)もライスカレーと言っていました。
横浜に明治時代からの牛鍋を出しているお店がありますよ。 肉は薄切りではなくサイコロ状にカットされています。 味噌だれで煮て頂く牛鍋も美味しいですね。
まあ使われている牛肉も和牛の高級霜降り肉なんで、明治時代の牛鍋よりも美味しいのではと思います。
8:02 なかなか風流があるな→風情があるな だと思います
小学生の頃、友人とウシガエルのおたまを掬って遊んでいた。川岸の斜面にいくらでもいたのだ。自分は本当に遊びで、帰りには全部逃がすつもりでいたんだけど、友人の母親はバケツふたつにみっちりのそれを、ほくほく顔で持ち帰っていった。 自分の両親は他所からの流れ者なので知らなかったが、あの土地では普通に食用とする習慣があったのかもしれない。確かにぷるぷるして旨そうだしね…。
木村屋総本店のあんぱんにはまだ塩漬けにした桜が乗ってます。6個入りであんぱんにしてはそれなりの値段はしますが、美味しいですよ。クリームパンとかもありますね。まああそこはなんでも美味いです。
先生こんばんは!
木村屋さんの桜アンパン🌸
催事で来られた際には必ず購入します。
餡がぎっしり詰まって凄く美味しいです。
明治大正時代に創業されてたのですね。
祖父母が生まれた明治大正時代の食事について
色々と懐かしい思い出が蘇りました。
配信ありがとうございました!
この人の解説詳しくて好きや
【ウサギ】
鋤焼きって、ウサギの肉を鋤の上で焼いたのが始まりだと聞いていた。
ウサギって「一羽、二羽」と数えるように、獣ではなく鳥の扱いだったようですね。
耳を羽根に見立てて、後足で飛ぶ(跳ぶ)からかな。
江戸の平均身長は成人男性で155cm~156cm、女性で143~145cm
東京都内の開発で掘り出された1万人分の人骨を国立科学博物館が保管してるけど
江戸時代の骨が、ほとんどで小柄で栄養状態が悪かった。
若い世代の骨が多いのも特徴で伝染病が流行して人が簡単に死んだ事も分かっている。
富国強兵の為には、まず栄養ということか
それが完全に解消されたのは第二次大戦後
親切丁寧で好きです。
イザベラ・バードが農村で鶏買って、
捌いて食事と言う時に、鶏を売った人が、
泣きながら返してと頼み込んで来たので、
返した話を思い出した。
えぇ………、その話、詳しく知りたいです。
昔の日本人ちょっとかわいくて草
その時代の鶏は、鶏卵が目的だったのでは?採れた鶏卵を市で売って現金収入にしていた。
小さいころから庭で飼っているから、良い子供達の遊び相手でしょう。
卵を産めなくなった、年寄りの鶏を潰して鶏肉にしていたから、鶏肉を食べる機会も少なかったはず。
子供にすれば大切な遊び仲間だもんな…
@@石垣勝-k6r 鶏卵を採るのもありますが、実は家の周りの草刈りも鶏の大事な任務だったりします。鶏は雑食で雑草が芽吹いたら直ぐに食べてしまうし、ミミズや虫類を好んで食べるので、農家は敷地内で放し飼いにしてました。うちの父方の実家は鶏では飽き足らず七面鳥も放し飼いにしてましけど、七面鳥は草刈りどころか番犬ならぬ番鳥にもなって不審者がやってくると延髄切りを決めてましたwww
@@gale_straits2695 怒り猛る雄鶏の勇猛果敢さは、サッカーフランス代表のエンブレムに描かれるほどですからね。
カレーに入れてたネギは長ネギじゃなくて太いポロネギだったはず
あと明治の西洋料理指南に書かれたカレーに入れるカエルはウシガエルでなくアカガエル
カエル(グルヌイユ)はフランス料理でも高級食材。普通においしい。
日本でもカエル(ガマ)の煮物を「もみ」と呼び、美味の代名詞とされている。ちなみにこの「もみ」から「もみでない」ものを不昧とし「もみない」、「もむない」という言葉ができた(関西の方言で「水っぽくてまずい」という意味)という説がある。
カレーでお馴染みハウス食品も
薬種問屋から出発した会社だそうです
中流以上、裕福な家庭を基準として、資金力のある家庭などなど。
が対象のような、大勢の貧しい家庭の食はどうなっていたのかも。
昔から現代迄の時代でも貧しい一般家庭の食事についてのコメントも
あったら尚良いとお思いました。
僕のひいおじいさんは主計兵として戦争に行ったらしいですが、軍で作ったカレーがおいしすぎて帰ってからも僕のおじいさん達にカレーをふるまったそうです
おじいちゃんはまた食べたいなあと言っていましたw
国民に肉食を奨励するために肉を召し上がらない明治天皇に
政府要人がたのみこんで明治天皇も国民のためならと
承諾した話好き。
天皇という存在がいかに国民と寄り添ったものか、がよく分かるエピソードですね。
やはり日本は「和」の国です。
両陛下が牛乳を初めて召し上がったのは明治六年か十二年だったかどっちかと思いましたが
牛乳に骨を強くし体力つくりと滋養強壮の効果があると聞いて、生来身体が弱かった皇后美子様に特に強く勧められたという話好き。
明治・大正・昭和の内、昭和・平成・令和のどれよりも、正しく大帝に相応しい近代化を感じさせますし。
神格化と言うか美談による威信や敬愛に寄せたものが多いようです。藩閥政府による全国行幸は、中にはホッコリするのもあるそうですし。
肉食はほとんどしなかったとはいえ、昔(平安貴族とかそのへん)すでに牛の乳を使った品があったりしますよね。
牛の乳自体を飲むのは初めてかもしれませんが、牛の乳を使った加工品ははるか昔から召し上がってますね。
@@四季菜摘 平安期はどうかわからないのですが、江戸から明治に入るまでの宮廷では乳製品は殆ど摂取されてないようですね。
まあでも【異人は牛の乳を茶に入れて飲む】と気持ち悪がられてるくらいですから、日本人にしてみれば獣の乳を飲むのは理解不能だったのでしょうし
皇室と言えば神道の長なので穢れの観点からも敢えて避けていたのかもしれません。
その一方で乳が出ない母親が赤ん坊にヤギ乳を飲ませたりもしたらしいので、一般では薬食など仕方がない場合には口にする事はあったのかも。
生活を洋風に近づけるためでしょうが、両陛下は朝はコーヒー濃いめのカフェオレ、パンにはバターを塗って食べるというスタイルが明治のかなり早い頃から定着しています。
朝もその他に色々用意していたという事ですが、食べるのはパンとカフェオレと決めていた当たり案外お気に召していたのかも。
ちなみに宮中で両陛下がお肉を初めて召し上がったのは明治になってからのようですが、両陛下は案外平気だったのに対し宮中の女官は肉食をかなり嫌がったそうです。
カエルは鶏肉と変わらない。言わないで出せば皆普通に美味いというだろう。
やっぱり面白かったです!
今に直接つながる食文化ですね
ふと、思ったのですが、ハヤシライスの普及は戦後でしょうかね…?
ウイーン在住です。インドやパキスタンカレーの店でカレーを時々食べますが、ご飯の上にカレーをかけて食べている人がほとんどです。またスペイン人の友達が「クロケット」を作ってくれましたが、じゃがいもとツナで作ってました。また私が「コロッケ」を作るとオーストリア人は「クロケットだ!」と言って食べます。クリームコロッケは逆にここでは見たことないです。またウイーンには15、6世紀からヴィーナーシュニッツェルという子牛を薄く叩いたカツレツがあり、オーストリアとも親交の深かった明治時代に日本に伝わったのかな、と思ってました。一言で西洋料理と言っても国によってだいぶ違うんだと思います。
カエル食が上手く広まっていれば、今のウシガエルの問題も大きくならなかったかもしれないですね。
関西の本格的すき焼きは牛脂で肉軽く炒めサラメ加えてから醤油で肉を食べ日本酒で薄め(出汁含め)豆腐葱食べます。
「くっ付かる」って北関東と福島でも浜通りあたりの方言のイメージありましたけど、中通りの方も使うんですね
昭和は戦前・戦中期と戦後復興〜高度成長期で大分違うと思うけど分けてやる感じなんですかね?
すき焼きの次の朝は残り汁にご飯ぶちこんでおじやにしたな。
うちは貧乏で牛肉は最初だけで、途中からホルモンに変わったから、これが結構残る。これが一晩経つと大変美味しくなる。朝は野菜を継ぎ足して栄養満点ホルモン飯になる。
今は肉が安いからやらんが。
カツカレーは戦後、巨人軍の千葉茂が洋食屋で注文したのが始まりと
言われています。後、自分が子供の頃には食用ガエルってあったはず
(食べたことはありませんけど)
カレーライスは軍隊では明治時代から食べられていたけど一般庶民の間では中々手の出ない高級料理でありつづけ、レストランでカレーライスが庶民にも手の出る価格で提供されるようになるのは昭和になってからじゃなかったかな?
小林一三が執念で阪急百貨店のレストランで提供したのが庶民に広まる切っ掛けだったとかいう話を聞いたことがある。
私も、イギリス軍…それこそ横浜(横須賀?)から伝わって明治から知られてはいたとテレビだったかで聞いたことがあります。
資料が違うのか、テレビの番組製作の為か、カレーが庶民の味として定着したのは昭和で、SDS?SBS?なんかそんな感じの会社のカレー粉の流通が切っ掛けだったとか
くっ付かるって何?って調べたら茨城の言葉なんだね…
18年いた訳だげっど初めて聞いだ
トンカツのキャベツは、適当に選んだキャベツを使ったのが始まりという説がありますね。
戦中世代の祖父はライスカレーってずっと呼んでるなあ
あと舟型の皿で食べてた
これはある程度裕福な家庭の話ですよね。貧しい家庭だとパンは無く
朝→ご飯、漬け物、味噌汁
昼→ご飯、野菜のつけ汁、漬け物
夕→蕎麦
関東の某地域における一般庶民はそのメニューだったそうです(大正~昭和初期)。地域資料館の展示にそう書かれており、「えっ、それだけ?😨」と驚きました
ご飯もおそらく、今のように白米のみではなく、麦飯もしくは、粟·ひえ混じりの飯だったんじゃないかと思います
「昔の人は栄養状態が悪かった」という言葉を知恵袋などで見かけはしても、その詳細まで語った御意見になかなか巡り合えず、その具体例を想像することができませんでした…😖
けれど上記のメニューを目にしたら「ああ、少ないな…これでは栄養悪いのも無理ないかも。魚や肉などのたんぱく質ゼロだし🍚🥬🍆🥕🍅」と思えてしまい、やっと具体例にたどり着けた気分にもなりました
食べたことがありますが、カエル肉の味は鶏肉とほぼ同じです。鶏肉よりちょっとさっぱり気味でした。
文明開化、明治維新等も含めてご先祖様ありがとうm(_ _)m美味しい食べ物が食べられるのは先人の皆様のおかげです。
大正は年数が短かったですからね
江戸時代に「薬食い」として部分的に行われていた獣食が
「ぼたん鍋」「もみじ鍋」など多くが鍋料理、あと焼き肉だったっぽいから
「牛鍋」もその延長線で自然と鍋になったんではなかろうかとは思うとこ
袋入りのタレ漬け焼肉やタレ漬けボルモンを買って来て、野菜とカレー粉を足すだけで、カレーが出来上がる。 御薦めは、タレ漬けボルモンです。
明治になって西洋的な料理が増えて今は🍚よりパンを食べる人まで多くなってしまったけど、飛脚を使って実験したらパンを主食にさせられた飛脚は長い距離を走れなくなったらしい話を昔聞いたことがある。やはり民族的に合わなかったんだと思う。自分の子供の頃は昭和の30年代前半だったから、小学生の時に給食で脱脂粉乳なるどう考えても家畜の試料用の牛乳もどきや、何故か肉じゃがにコッペパンなどの変な組み合わせが与えられた。子供心にも変な組み合わせに慣れるまでに時間を要した。戦後でさえ違和感あるのに、明治でガラッと食生活を変えられた日本人は精神的にも日本人らしさを失ってしまった気がしてる。それほど食は生きてく上で大切だと改めて思う。と言いながら、毎日ほとんど自炊だけど肉中心の食事の自分。カツ丼とすき焼きが好きなんだよォー😁👍
郷土料理の歴史とか知りたいなー
おお、待ってました!
牛の胃袋のカレーて、今で言うホルモンカレーだろ。昔の人は今よりホルモンに抵抗ある人多かったかもしれんが、やっぱホルモンカレーは美味いと思う
7:20
木村屋アンパンの超成功は北海道まで轟いたんだよね。
北海道でウワサの伝聞だけで作ってみた!をやって人気になり、今も生き残ってるのが月寒あんぱん。
どっちもおいしいので大好きです(`・ω・´)
ちなみに札幌キムラヤというパン屋さんがありましてこちらは正式に木村屋から指導を受けて創業されたお店ですが工場型なので本店とは雰囲気違いますけどあんぱんまあまあ旨いですよ
ちなみに歌手の大黒摩季さんのご実家としても地元ではそこそこ有名です。
ポマードべったりの橋本龍太郎が予算編成のとき大蔵省の役人どもに木村屋のアンパンをさしいれしてたな。
牛の胃(ハチノス)を使ったカレーは今でもカフェとかで置いてる所ありますよ!
大正時代はたった15年しかないからよほどのことがない限り大きく変化をするのは難しい
明治大正の食べ物
明治はチョコレートや牛乳
大正はリポビタンd
が代表的な食品です
大正生まれだったじいちゃんがコロッケ大好きだったなあ
ボケ出してからは家に前日買ったコロッケがあるのに次の日コロッケ買ってきてた(´・ω・`)
♪今日もコロッケ
明日もコロッケ~♪
うぽつですm(*_ _)m
いいちゃんねるを見つけた……英国シリーズも完走しよ……
カレーのスパイスは漢方と共通のものがあるから、薬問屋の方が当時は流通とか取り扱いで優位やったんやろな。
クッソ、また貴重な時間を奪われてしまったぜ。
00:30 くっつかる…?
カレーのおかげで、海軍の洋上での脚気が激減したそうですね。イギリス海軍の食事をとり入れたのもカレー普及の要因かも。ビクトリア女王もカレー大好きみたいでしたし。ビバ、キレンジャー♪🍛
へばな〜
ぐぶりーさびら!
いつものやつ大好き。方言しゃべるレイマリは珍しいね。かわいい。
別の洋食のところの魔理沙と霊夢………、老舗の洋食店にお出掛けしておめかししてという、可愛い話がありました。それ以来で、最も大好きな洋食だ♥
牛・豚・鶏の順で………。食べてもOKの獣鳥肉類の対象が、猪🐗と鹿🦌。大体、牛🐂は江戸時代まで耕作に使い、鶏🐔は時告げ鳥だから対象外❗卵🥚は安土桃山時代の影響で、料理や和菓子にと使われるようになった。山間部では、獣鳥肉類は行き届かなかったようです。
明治天皇自ら牛肉を膳に上せられた、と云う新聞報道などで、庶民の間に牛鍋などの形で徐々に肉食が始まり、これがスキヤキの基になった………。と言う、天皇崇拝による影響を与えたあたり、現在と比べものにならない権威=思慕を感じさせます。
豚🐷と言えば、豚カツ。老舗洋食屋は当時の庶民に手が届く範疇ではなく、むしろ大正時代になってから。関東大震災の後、売り上げの落ちた蕎麦屋が、カツ丼やカレーライスなどの洋食も扱い始めたのが幸いしたこと。三回目の景気は、昭和初期の東京都御徒町の洋食店が、予め肉を切り分けておき、ご飯と味噌汁、漬物をセットにした「豚カツ定食」を出して更に豚カツの人気が上がったこと。同じ揚げ物・天麩羅も、既にこの頃から、屋台→お座敷に変わり、関東好みの胡麻油→関西風の綿実油、大豆油に取って変わる。時代が下れば下るほど、民衆に身近な肉になった感が強い。
鶏🐔は、よくよく母から聞かせられましたからね。上記は、自分で調べたり、集めたりした知識ですが、身近な家畜として、玉子や鶏をわざわざしめたり、ごく普通に使って、スキヤキにして食べていたりしたとか。雑穀を混ぜる事のない白ご飯だったり、自然な卵で玉子焼きだったり………。
現在と違い、人工的な食品の類いはないけど、塩田や田圃を持っていたり、山を持っていたり、海にも近く、一男三女のお嬢さん育ちで、男衆女衆(おとこし・おなごし)と言う、華麗なる一族の原作で出てくる言葉だったので、何不自由のない裕福な庄屋(同じ魔理沙と霊夢が出て来るゆっくり大江戸シリーズ「農民~豪農の誕生と百姓の生活」に出て来た)育ちであることを何回も………。
豪農の名残は現在も健在で、新鮮な物を頂きに行きます。明治→大正→昭和は激動の戦乱に相次ぐ生き難い時代であるのも、聞き知りました。白黒写真が居間から来客室(和室)に変わってましたが、日露戦争で亡くなった方が残ってますし。一番逞しいのは、昔で言う、年貢を納めさせられる立場の人達とは皮肉です♥
オマケのビール、面白かったよ!
ちなみにカエル、食べたことあるけど臭くない鶏肉みたいでカレーはイケると思います。名前をつけて一緒に働いてた牛を食べるくらいだったら私はカエルに行くわ。
カツカレーはもっと後で巨人軍の千葉茂選手が大好きなカレーとカツを一緒に食べたいってことから銀座の洋食屋さんで生まれたとか
昔の美味しんぼのトンカツの話あたりの頃は好きだったんだけどな。
明治・大正・昭和中期までの食事は「聞き書 ***の食事 (日本の食生活全集) 日本の食生活全集***編集委員会 」が都道府県ごとに纏められています。 ぜひ、参考にしてください。 良書です。
カツカレーは昭和の野球選手由来だったよね。だれだっけな
千葉茂?
焼いた蛙はほぼタンドリーチキンと同じって濱口優さんが言ってた
今の吉野家まで122年あると思うと、歴史があるなw
牛丼食べたいと思えばやっぱり吉野家かな。
ハチノスカレー旨いんじゃないか?(モツ好き)
爺さんが作ってくれた戦艦比叡カレーが美味かった。
味の秘訣は野菜をみじん切りにして徹底的に炒めることでした。
駆け足で良い感じだと思います。
ビール🍻がそんな昔から人気だったとは…
当時、牛よりも豚の方が飼育数が多かったのも、豚カツの生まれに繋がるという事も紹介して欲しかった
もっと日本の食べ物解説希望します…個別とか地域の食べ物とか。例えばホヤは三倍酢ときゅうりってのが定番だけど他には?ってのとか。
天ぷらも元は外国の食べ物じゃなかったっけ
そうです。
ポルトガルの宣教師が現地の料理を宗教的理由から魚に小麦粉をつけて、油で揚げた物を食べていた。それを真似て、天麩羅の前身ができました。
昭和後期と平成と令和の食文化の違いもお願いします。
牛めしとかカレーとかこの頃から出始めたんだよな。日本人の食生活の転換期だったんだ。
【食用カエル】
食用にカエルが移入される暗いですから、カエルは食用なのでしょう。
50年以上前ですが、中学校の理科の時間にカエルの骨格標本を作る授業があり、確かに鶏肉と似ていたのを覚えています。
追加。今も営業する、横浜で老舗の鰻料理店「わかな」にも、折々出掛けたそうです。
カエルは鳥肉に近いのは本当
明治に牛鍋(すき焼き)とトンカツに吉野家が登場しました
私の祖母はカレーライスのことを、ライスカレーとよく言ってました。
昭和30年後半生まれですが、子供時代「ライスカレー」って呼んでましたよ。
クリームパンは中村屋だと聞いたことがある。
戦時中の陸軍ではカレーを辛味付き汁かけ飯って呼ばれてましたよ
敵国言葉の使用禁止ですね
@@江戸城の正成像 靖国神社内にある「遊就館」の土産物屋にレトルトカレーとして売っているので食べる事が出来ますよ!
そう言えば、
職業軍人の祖父、真珠湾攻撃の時にもにも空母赤銀の護衛駆逐艦として出兵。
彼は、ライスカレーって言ってた。
カレーの話だけど、豚汁と同じ材料で作れてリーズナブル、そして波で揺れる軍艦内で調理するので、溢れないように小麦粉でとろみ付けたのが始まりって聞いたけど⁉
此れ面白い❗何時も堪能させて貰ってます‼️カツカレーが落ちですか最期はビール⁉️カツカレーを食って、古の文明開化、、、🐒明治は遠くに成りに蹴り👣💨
確かに店で食べるすき焼きは肉を焼いてたなぁ。家では焼く事をすっかり忘れてた。なんか味が違うと思ってたらこれか。
カエル食ったことのある俺は現代人じゃなかったのかw今風に言うならチキンカレーに近い感じだったんじゃないかと思います。ホルモン入りカレーも良さそうですね。
良牛1号店は築地にありました。
カエルは言われなければ鶏肉と殆ど変わらない
普通に美味しいですよ
フランスでは今でもポピュラーな食べ物ですよね。
鶏肉と変わらければ、蛙を食う意味がないよ。
小さい頃、初めて最初から煮込んであるすき焼きを見たときはえっ・・・ってなった
牛鍋は明治村でも食べられるが¥5000~6000は高過ぎる。
家のすき焼きは豚肉を入れて煮込んでいた。焼いて割り下を入れて煮込むなんてことは無かった。親父は牛も豚も
同じだ。とか言っていた。豚のすき焼き風料理は薄切り肉をそのまま入れていたものだから、灰汁が物凄く出て
なんか、昔人間ギャートルズみたいだった。
すき焼きと言うと、何故かすき焼きの日だけは親父が料理していた。
口癖は「すき焼きつぅのは、煮るんやなしに焼くもんや、皆が食うとるのはすき煮やで」って言っていたなァ。
まあ、うちも最終的にすき煮になるんだけどね。
ウチも今だに父親が鍋奉行です。(笑)
すき焼きは美味しいですから。😁
ハヤシライス、やって欲しかった。
丸善が発祥の地だっけ。今でも出してるよね。
あと、カエルとか牛の胃袋がゲテモノ扱いなのが違和感。
カエルはまぁ、知らないとゲテモノなんだろうな。フランス料理で出てくるじゃんね。ウシガエル美味しいよ?
牛の胃袋って、ミノとかセンマイとか食わないの?
胃袋というか、内蔵は終戦直後の飢餓時代で食べられ始めた物だから…