The Great Kantō earthquake struck Japan in Sep. 1, 1923
ฝัง
- เผยแพร่เมื่อ 8 ธ.ค. 2024
- 大正12年、1923年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災。
この映像は、未曽有の大災害が発生した直後の首都、東京を撮影したものです。
テレビ朝日が1980年代にフィルムを入手し、復元しました。
この動画では、何が映し出されているのか分かっていることを、説明していきます。
オリジナル・フィルムの映像から、同じ映像が繰り返し出てくる部分はカットして再編集しました。一部順番を入れ替えている以外、フィルムに残っていたシーンをすべて公開します。
映像には「字幕」が挿入され、場所や状況を説明しています。
編集されていて、音声はありません。
02:00
東京駅丸の内口から西の方向に煙が見えています。
現在の日本橋本石町(ほんごくちょう)、からも
大きな煙が見えています。
02:17
火災は、ほぼ丸2日、46時間にわたって続きました。
倒壊した家屋が多かった下町、浅草は
地震の直後に火災が発生した場所でした。
02:35
昼食の準備をする時間帯で多くの家に火の気があり、東京では77カ所から燃え広がったと言われています。
およそ10万5000人の死者を出した関東大震災でそのうちの9割が火災による犠牲者でした。
03:17
画面奥にそびえているのは凌雲閣、通称「浅草十二階」です。
03:28
上野広小路です。
右手に帝国博品館のドームが見えます。
カメラを反対、北側に向けると上野の山に避難する人々が。
帝國博品館は翌日焼け落ちます。
03:47
凌雲閣を近くから映します。
日本一、52mの高さを誇った塔は8階から上が崩落しました。
04:49
本所、深川は甚大な被害があった地域です。
隅田川右岸からの映像で、川の東側に
煙と火の手が上がっているのが見えます。
05:53
上野駅です。
立錐の余地もないほど、人で溢れています。
壊れた家屋と駅舎の向こうに、巨大な煙が立ち上ります。
もう線路の上にも人や大八車が入り込んでいます。
06:22
上野駅の北、日暮里駅周辺も避難する人で溢れています。
06:29
こちらは上野広小路です。
大八車に人、人、人。市電は身動きが取れなくなっています。
07:23
上野からの列車が出せず、避難者は線路上を日暮里駅目指して歩きます。
鉄道省は避難者や物資を輸送する列車を無料にしたこともあり、駅や列車は大変な混雑になりました。
07:50
このフィルムを撮影したのは、京都西本願寺の撮影隊です。全国で上映されました。
08:05
宮城前広場、現在の皇居前広場です。
広い敷地に被災者が過ごすためのテントがズラリと並んでいます。
バラックも建てられています。
右手に富士見櫓が見えます。
坂下門の周辺の場所も、被災者に提供されたようです。
桜田門の橋の上にもバラック。
08:55
東京駅の丸の内側のようです。やはりバラックが建てられています。
09:05
西本願寺の東京別院、築地本願寺は救護部を組織し、東京都内6カ所を拠点として被災者支援を始めます。
神田・明治会館の焼け跡にテントを設けて活動したのは第三班です。
09:27
第四班は日比谷公園を拠点としていました。
都心の緑地には大勢が集まり、掲示板にはたくさんの張り紙が貼ってあるのが分かります。
日比谷交差点側でしょうか。屋台も出ています。田舎志る古、ライスカレー、と読めます。
10:12
映像には本願寺救護班の具体的な活動が記録されていました。
仮設の骨組みが建てられる向かい側にテントが設置されています。
10:27
「麦湯をあげます」麦茶のことです。
「はがきをあげます」
「読経をしてあげます」
お寺ならではのサービスのほかに、
通信のサポートもしていたようです。
11:00
本所被服廠跡を僧侶らが訪れます。
陸軍の軍服工場跡地の広い敷地に避難してきた市民らが、炎に包まれおよそ4万人が命を落とした関東大震災でも最大の被害が出た場所です。炎が巨大な竜巻状になる“火災旋風”が発生したのです。
現在は東京都立横網町公園になっていて、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を追悼する
慰霊堂が建てられています。
11:54
原型がわからないほどぐにゃりとねじ曲がってしまったのは現在の千代田区にある神田橋です。
橋を架けなおす工事が始まり、作業が進んでいます。仮設のものでしょうか。
細い橋を一列になって人が渡ってきます。
このフィルムの字幕では、工事には「工兵隊」が動員されたと説明しています。
12:36
芝浦埠頭では水兵が活躍していました。
セーラー服の襟を立て、1人が1つ、肩に大きな荷物を担いで人海戦術での荷揚げです。
膨大な量の荷物が陸揚げされていることが分かります。
支援物資は全国から、そして海外からも届きました。
壊滅的な被害を受けた横浜を避けて芝浦に寄港した船もあったということです。
13:53
建ち並ぶ銀座の洋館は軒並み崩れて
見る影もありません。
14:10
男子学生が集まり、紙を折ったり束ねたりしているようです。
これは、京都の映像です。
京都の西本願寺本山では、義援金を集める活動が進められていました。
この募金活動は被災した子どもを対象にしていました。
「児童愛護袋」
この活動の発案者の女性らは、この動画の最後の方に登場します。
本願寺の機関紙「教会一瀾」には、児童愛護袋には210万枚の需要があったと
記載されています。
袋の調達が間に合わず、龍谷大学付属平安中学校の生徒を動員して紙に印刷したもので凌いだということです。先ほどの男子学生が折っていたのは、この児童愛護袋だったのでしょうか。
9月22日から1週間の活動で総額7000円近く、現在の金額で数千万円相当を集めて送ったということです。
16:09
女性らが布を縫っているようです。寺の大広間でしょうか、女性ばかりが集まり、熱心に手を動かしています。
こうして支援物資も大量に用意されました。
16:51
大阪の活動についての映像は、船着き場から始まります。
10人の女性には割烹着姿の人もいます。支援の一団は50人ほどいるでしょうか。
大阪でも仮設テントの支援拠点が設けられました。
慰問品の準備を進めています。支援物資は山積みになっています。運び出された荷物がどんどん車に積み込まれます。
18:26
大阪でも児童愛護袋の活動が展開されていたことが映像で分かります。
手渡された袋の封をしているようです。ぶら下げてある籠に入れていきます。募金のための長い行列ができています。
袋のデザインの詳細が分かる映像です。発起人4人の女性の名前が下に並んで記されています。
19:18
神戸の映像も港から始まります。
関東に向けて移動する救護班を追った映像でしょうか。
駅のホームです。機関車が入ってきました。
カメラの方向に向かってくるワゴンの正面に「鉄道省神戸駅」と読めます。
神戸から被災地までは列車で向かったようです。
20:44
ここからは東京の映像です。
京都から到着した救護班の活動の様子が撮られています。
医師や看護師らの記念撮影。30人ほどのチームです。
21:14
バラックを訪問診療します。医師1人に看護師が2人付いています。
移動には自動車が使われています。
担いでいる荷物の包みに「・・帝国大学医院」と書いてあるのが見えます。
京都帝国大学医学部付属医院から派遣されたのでしょうか。
自動車の正面には「築地本願寺617」のナンバー。車を手配したのは築地本願寺のようです。
22:11
仮設テントの下で、女性が鼻の治療を受けています。
テーブルの上には10本以上の薬の瓶が見えます。
ガーゼもふんだんに使われます。
こちらは聴診器での診察です。
待合いのスペースも設けられたようです。
日比谷公園で活動する第四班です。
「京都市救護班薬局」と看板が出ています。
紙と引き換えに薬が手渡されます。
23:08
場所が変わって、大きなテント。上野公園のようです。
公園の木々に紐を渡して洗濯物が干してあります。
誰かがバラックから出てきました。
次のバラックを訪れると、手にしている封筒のようなものを中の人に手渡しました。
23:54
テント前の看板には「避難者に限り、無料理髪」と書いてあります。
現在の東京国立博物館前のテントです。
法被姿の理容師が顔そりに散髪。子どもにバリカンをかける割烹着の女性理容師。お客さんには子どももいます。授乳しながら髪の手入れをしてもらう人も。
休憩所では飲み物を提供していました。
救護班の活動が、多岐にわたっていたことが分かる映像です。
仮設住宅でしょうか。木造の平屋の建設が進んでいます。
24:40
大通りのようですが、見渡す限り水浸しです。
行き交う人々も車も、水をかき分けて進みます。
火災による被害がよく知られる関東大震災ですが、川沿いの地域や東京湾岸の埋め立て地、干拓地で、液状化が発生しました。
映像からは、広い範囲が冠水したことが分かります。
この映像は隅田川の東側、現在の江東区・墨田区辺りだと見られます。
焼け落ちた街は地平まで、瓦礫だらけです。
画面左手から全焼した当時の両国国技館が見えてきました。
大通りには歩行者や自転車の往来があります。
26:38
築地本願寺です。到着されたのは貞明皇后、大正天皇の皇后、です。
震災発生からおよそ3カ月後の11月30日のことでした。
芝公園に設置された臨時病院にお見舞いに行かれた後、午後1時に被災者支援をしていた築地本願寺に到着されました。
同行しているのは大森鐘一皇后宮大夫です。
この職に就いてすでに7年、それ以前は官僚や知事、議員を歴任しました。
本願寺が経営する託児所や学校の子どもたちが皇后陛下を迎えます。
幟に上野尋常小学校、築地本願寺託児所…
本願寺が関連する教育施設が数多くあったことが分かります。
28:29
眼鏡をかけた着物の女性は大谷きぬ子(「きぬ」は糸偏に壬)氏です。
教育者で仏教婦人会の総裁でもありました。
皇后陛下のご質問に答えているのは、この大谷きぬ子氏です。
西本願寺の大谷光明氏の妻であるきぬ子氏ですが、実は京都 九条家の5女で、貞明皇后の妹です。2人の姉は大谷光瑞氏と結婚しています。両家は深い姻戚関係にありました。
皇后陛下の本願寺への行啓が実現した背景には、大谷きぬ子氏の働きかけがあったと記録が残っています。
皇后陛下のご視察が終わり、本願寺を出発されます。
この後も病院などへの慰問に向かわれました。
31:21
子どもたちが列になって歩いてきます。
奥の建物の看板には「日比谷幼稚園」と書いてあります。
31:49
こちらの2人の女性、大谷きぬ子氏と、背が高いのは大正三美人と称された、人気の歌人、九条武子氏です。
2人は義理の姉妹に当たり、全国で行われた「児童愛護袋」の活動の発起人、4人のうちの2人です。
子どもたちはお遊戯を披露しているようです。
現在の日比谷公園第一花壇あたり、棕櫚の木の周りを元気に回っています。
子どもたちには服が手渡されます。
九条武子氏はこの4年後に敗血症で亡くなります。
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[テレ朝news] news.tv-asahi....
私のもう50年以上前に亡くなった明治生まれの祖母が、関東大震災を経験していて、幼い頃より良く話を聞いていました。そして、私は東日本大震災を経験しました。
本当に人間って、「凄い!」と、思います。
撮っているのも残っているのもそれを今の時代TH-camにあげてくれてるのもすごいな
甚大な被害の中で、人々の落ち着いた様子が印象的。自分たちで復興しようとする姿は素晴らしい。
これだけの被害があってこんなに大勢の人達が生き延びた。人間て強いね。凄いね。
もうここに映ってる大人は誰も生きていないし子供ですらわずかだし、約100年の歴史は凄い価値のある遺産。
伯父が母親のお腹にいたんですが、(12月25日に生まれて)13年前に亡くなりました。優しい伯父でした。神奈川も被害が多大でそれからは、瓦の屋根からトタンになったと聞きました。
この二年後に生まれた父親ですら今年97歳だからね。
ひいおじいちゃん おばあちゃんも 登場 18歳だろうな🥲
テレビ局にはこのような貴重な記録フィルムがたくさんあるのだから、是非とも公開して欲しい
たっぷりと長い尺の動画と丁寧な解説。大変見ごたえがありました。
貴重な資料のアップロードありがとうございました。
この映像もまた、後世に受け継がれることを願います
亡くなった祖母も、若いころ関東大震災で被災したとのことで、ひょっとしたらこのフィルムに写ってるかもと思うと感慨深い。
貴重な映像公開ありがとうございます。
戦前の救護活動は日本赤十字社くらいしか知らなかった。
こうしていろんな人が助け合っているのも見ると今も昔も力になりたいと思う心は全く変わらない。生まれるずっとずっと前の話だけどすごくすごく身近に感じる。
本当に関係ないけど昔の人ってめちゃくちゃ力持ちですね。重たそうな家具や身体の何倍もある荷物を軽々担いでスタスタ歩いてる、
見渡す限り瓦礫の山だが5年とたたずに復興したらしい、物凄いスピードだ。終戦後の復興もそうだが昔の日本人のバイタリティは凄い。
帝都復興エーゾエーゾ♪
その前に地下鉄も開業している‼️さすが‼️日本人‼️
@@zep750world さん
「帝都復興エーゾエーゾ」朝ドラで聴きましたね。「梅ちゃん先生?」
私も妙に記憶に残っています。
歌っていたのは、「片岡鶴太郎」さんでしたね。
片岡氏は、かなりの芸術肌です。
映像に映ってる人
全員既にこの世にはいないと思うと凄いな。
祖父が学生で関東大震災。祖母から福井大地震の被災体験を聞いていました。
この経験談を聞いていた事が、自身が阪神淡路大震災で被災した時に大変役立ちました。
被災時重量物の落下で危うく巻き込まれそうになったものの、いち早く逃げる行動に繋がりました。
災害は東京でしたが、関西各地の人々も一斉に応援に努力する姿に感動しました。きっと東京の人々に生きる力を与えたでしょうね。
これ4万再生くらいしか行ってないの勿体無いくらい良い資料。
35分もあるし画質もかなり良い、普段見ないような貴重な映像も多い。
関東大震災っていうと燃えてる映像と焼け出された人達ちょろっと映して終わりみたいなパターンが多いけどそれじゃ何も伝わらないよなっていつも思う。こういう細かい映像はありがたい。
しかしこの時の民間支援の機動力ってほんと凄いんだよな…
これから伸びそうだね。
全部カラー化してほしい
日本人の力強さと助け合いの素晴らしさに感動しました。
貴重な映像ありがとうございました。
焦土の中で生まれ育ち走り回るあの子たちの中で、22年後を生き延び、我々の親を生むことができたのは何割だろう
貴重な映像に感慨深いものを覚えます中でもこの映像に写っている四、五才の子供達は大東亜戦争で戦の中心になつて多くは戦死されたと思うと遣り切れなさを覚える。天災は忘れた頃にやって来る心しなければの思いを強く感じました。重複画像が無く解説付きで分かり易く大変良かった。
この約20年後に米軍に再び焼け野原にされたが、日本人はまた立ち上がって復興を果たした。
来る首都直下地震に備えよう
破壊と再生、東京は何回も焼けて江戸時代から、整備されては燃えての繰り返しでした。しかしこの震災の時も日本人の崇高さを海外の方が称えています。
足をひつぱる反日にご用心☀️爺🇯🇵
下町生まれの祖父が幼い頃に被災し、東京駅丸の内広場に避難した後でバラックに住んだりしながら身内を頼って郊外へ引越したと聞きました。
まさにその丸の内が時折映っていて驚きました。自分が見られることはないと思っていたので。アップありがとうございます。
凄い貴重な映像😢
福島で子供時代を過ごした祖母は関東大震災の時に東京方面の空がずっと赤くて怖かったと言っていました
この震災の瓦礫は横浜の山下公園の整地に使われたのですよね
横浜の被害も酷くて神奈川の駅が海底に沈んだと聞きました。
このわずか22年後に再びこの街は完膚なきまでの焼け野原になるが
それでもまた復興した
つくづく湧き上がるこの敬意を表す言葉が見つからない
日本人の不屈の精神すごい
被害もすごいけど、意外と今とそこまで生活が変わっていないのがすごい。
デジタル化ありがとうございます。とっても見たかったです。
これは貴重な記録映像ですね。
火の勢いが凄まじい…今はあまり見かけない大八車とかで沢山の荷物を乗せて移動していて昔の人のナチュラルな体力は凄いなと思いました。
貴重な映像を見せていただきありがとうございます。
想像以上に、みなさん冷静に対応されているのが驚きました。
実際の所、四方八方から火の手は上がっていますし、心ここにあらずかも知れませんけれど、
パニック映画などで見るそれとは、実際は全く違うという事を知らされました。
そういうもんだと思っているのでしょうね。
集団ヒステリーが起きて、被災者を助けにきた外国人や日本人を虐殺された事例が多々あるんですがそれは...
@@抹茶侍マスゴミ定期
12:38 当たり前の様に米俵(60キロ)担いでんの凄すぎる
東日本大震災の時もそうでしたが、日本人の災害に対する対処能力の高さがよくわかる映像ですね。英語の字幕があると海外にも紹介できるので、是非つけていただきたいと思います。
10:43 ペコペコして薬をもらっていくおじさん
20:40 汗を拭いながらおにぎりの炊き出しを行うお姉さん
30:36 キャッキャしながら歩く女子学生
今と変わらない当時の方々の人となりが伝わってきて、じーんときます。
逃げないのでは無く逃げようが無かった。倒壊した建物の瓦礫、道路は人、荷物、大八車で溢れ、鉄道は線路が歪み使えず。昼食時であった為にあちらこちらで火災。
火の粉が荷物に燃え移り延焼して、衣服にも燃え移り延焼。
地震で圧死した人よりも火災で焼死した人のほうが多かった。川沿いに折り重なる様に沢山の方々がなくなっていたそうです、経験者の祖父談。
大変貴重な映像ありがとうございます、この映像で日本中が、支援していた事をわかりました、感動した、関西も地震で揺れたって聴きました、被災者方々に、お悔やみも押し上げます。
貴重な映像ありがとうございます。悲惨な災害でした。その状況のなかで生きていこうという人々は偉かったです。
1800年代に産まれた
方々が映っている
貴重な映像
私の亡き祖母も関東大震災を
東京東陽町にて被災しました
その時の話を祖母から子供の頃聞かされました。
私の祖父の兄も被災したらしいです。
この中の数秒間の映像は、災害の日のニュースや特番で流れるので見てましたが、この様にほとんどの映像が見られるようになるとは思ってませんでした。大変貴重な記録映像ですね。
まだ着物の方が多くて特にこの頃はスニーカーなど履いてないので、逃げるのも大変だったと思います。
0.75倍で見ると映像が自然な速さになるのでよりリアルに感じる
@@kouchanmachan923 あ、速民だ、そんな早く見てなんの得あんの?
@@サモ0.75倍だよ?早く観てないから…
大変に貴重な録画、動画をありがとうございました。火災さえなければ。。と思います。沿岸部では大津波被害がでてます。全世界からの義援金、ありがたいです。人は助け合いの心、負けない心が大事ですね
今生かされている事に感謝します
私は関東大震災を実際に体験した2人の方にお話を聞いたことがあります。一人は横浜で被災された方で揺れが激しく座り込んでしまって動けなかったとのこと。もう一人は鎌倉で被災された方で津波?により七里ヶ浜の海岸沿いの建物が西側に押し流されてしまったとのことです。この画像では東京の火災の惨状が映し出されていますが、神奈川では火災の被害よりも建物の倒壊による被害の方が大きかったようです。
団結心が凄いな日本人
明治生まれの私の祖母が生前、関東大震災の時には埼玉の寄居町からも東京方面の空が真っ赤に見えたといっていたのを思い出しました。
本願寺が色々と助けの手をだしていますね。お寺さんはこの様な役目を果たしていたんですね。
京都に行った時に伺います。助け合う日本の文化は本当に素晴らしいです。ありがとうございます。
この映像中の生き残った元気そうな子供たちの多くが後の太平洋戦争で亡くなったのか、とふと考えてしまいました。
ホンマそれ、天災は仕方ないかもしれないが、戦争は人が生み出したものだから余計に虚しいね。
亡くなった人の9割が火災なんですね、阪神大震災の時テレビで見た神戸長田を思い出します。
火災になっても消化する人いなくて車が横を何もなかったかのように通りすぎていく光景
当時、同級生が神戸で罹災し、4月に引っ越して来たのがいたなぁ・・・
避難時に兄弟で神戸から名古屋辺りまで兄弟で原付にノーヘル2ケツしたけど警察からは非常時という事で許してもらえたそうですよ。
神戸の長田と言ったら一番酷いとこで企業でいえばこの震災でカワムラ自転車が再建不可能になったらしいですね・・・ミヤタと並ぶ様な最高級の国産自転車メーカーだったからよく覚えていますよ
この当時は、まだギリギリ幕末を生きた人が存在していたかと思うと時間の経過を感じます。
全く関係ないけど、「帝都」っていう響きが好き
こうやって復興していったんだなぁと、阪神淡路大震災を被災経験した自分も、しみじみ見てました。
当時アメリカも「Japan needs you」の看板掲げて募金活動したり支援物資くれたんだよね。のちに戦争で殺し合う運命になるなんて悲し過ぎるよ。
貴重な映像、永久保存版だ、、将来くるであろう大震災の教訓になる☺️
この事から22年後、また火によって日本人がたくさん亡くなってしまった。もうこんなこと起きて欲しくない。いつか必ず来るけど、備えて生き残ろう。
1935年にどんな火災があったのですか?
@@machazard 間違えた12じゃなくて22年だ
やられる前にやればいい
@@zcczJK 地震はどう頑張っても無理なんだけどね…
アメリカの民間人への大量虐殺な
そんな野蛮な国が今度は中国にも手を伸ばしている
精神力強いなぁ。自分の悩みがいかにちっぽけか思い知らされる
自分、昭和30年代生まれですが、昭和なら大正の映像はそんなに珍しくなかったですが、令和の現在では3元号前になるので、とても貴重な映像になるので、配信有難うございました。
一級の資料ですね。当時の様子がよくわかり、すごく勉強になりました。
シンプルな構成ながら、わかりやすいナレーションがあり、とてもよかったです。
子供はいつも元気で可愛らしいですが、写っていた幼稚園児たちが存命なら103歳くらいですね。
ノイズを消して、AI着色などできればいいですね。
あの子供達の多くが第二次世界大戦時に召集されて命を落とした世代であると思うとなんとも切ない気持ちです。
具然9月2日にこの映像に出逢った本当に感動しました、よくぞこの様な映像が保存してあった、本願寺有難う御座います、ANN有難う。冷静な避難行動、献身的な援護活動、女学生、また婦人、皇室の行動は本当い素晴らしいと感じました。もっと放送してほしい、災害時の日本人の見本頑張ろう日本。関東大震災はややもすると朝鮮人虐殺に結び付ける事が多々ある様に感じていました。
ここに写るこどもたちの多くが戦地に赴き犠牲になったかと思うといたたまれない…
貴重だな
関東大震災を経験した、大伯母がまだ存命している。怖いから火は止めたようだ。
約100年前の映像か
100年後の人達は今の映像を見てどう思うんだろうか
???「100年後の人々は今の映像を100年前の出来事だと感じるということです。」
@@の坊 なんだこのやり取りw
貴重な記録映像。人々の助け合いのレベルが凄い。昨今はびこる「今だけ、カネだけ、自分だけ」の考え方の御仁では絶対に出来ないであろう救護活動が行なわれている。しかも、ちゃんとね。
個の時代、頑張らなくてもいいんですよ~などと言っていたアホマスゴミの責任大かと
What a precious record of such a terrible disaster. The memory of those who perished will always be remembered though it's existence.
日本には全国に地震測定機がありますが1日に最低でも5回は揺れるそうです。しかし東日本大震災の際は2日間揺れが無かったそうです。
それを根拠に大震災の予測は出来るらしいのでその際には注意して下さい。
3.11の前に24時間以上の有感地震の空白が少なくとも9回ありましたね。その一つは58時間以上。
1回→M6クラス
2回→M7クラス
7回→M8クラス
9回→M9クラス
といったところでしょうか。
2 6:00の焼け野原 復興する時は道路幅を広くし碁盤の目のような街づくりにしで逆に東京大空襲では多くの人が逃げ延びた
火災を逃れた街は旧態依然たる状態だったので東京大空襲では多くの犠牲者を出した
歴史の皮肉ですよね
まさかこの約二十年後、再び帝都が火の海になるとは誰も思いもしなかったでしょうね...
既に現在と見紛うボランティアが機能しているのがすごい。この大きなお寺さんが主力になっていたのかな…
人々の底力があるし日本は強いわ
もうすぐで100年前か…
貴重な映像です。
最初の10分見たが100年前が案外近い世界に感じられた。
気になったのは逃げ場がない人達が道路いっぱいに群がっていること。これでは二次災害が起きてしまうぞ。
1945年以前の日本も素晴らしい文化があった事が良くわかります。私は子供の頃、日本は戦後アメリカによって民主主義国家になり発展出来たと教わってきましたが、それが間違っていたと改めて認識出来ました。
この後に三月事件や十月事件
226事件に515事件などがおこり要人暗殺などにより戦前の政治が歪み軍部主体になり他国への侵略を肯定する拡大路線になり国際社会から孤立して戦争となります
故に文民統制が戦後社会においてきつく言われますしシビリアンコントロールに関して厳しく言われます
戦後の発展は資本主義と社会主義により戦前よりも更に断然発展はしました
それは日本列島改造計画などがありましたがこれらはアメリカとの協力関係無しでは難しく思います
一つに戦前の軍備レベルを維持する場合の費用がかかり過ぎると思います
アメリカが軍備を担ってくれることにより戦前よりも国内の発展への投資が可能となったと思います
首都のみの様子ではまだ分かりにくいかと思いますが裏日本と呼ばれる地域があったり戦後ですらまだまだ発展途上の地域がありました
戦前は日本も五大国の一つになってはいましたがアメリカと比べれば隔世の感があり知米派の人間はアメリカとの戦争は無謀にしかうつらなかったと思います
迫力ある映像を 初めて拝見させていただきました。有難う御座いました。後期高齢者の一人として、昔を 懐かしく感じると共に、火災、大地震への対応を考えさせられました。自分は何をすべきか。 初動動作を見直しする事が出来ました。
コンクリート製のビルに大きくヒビが入っているから、かなりの規模だったんだな。
これが100年前の東京か。
カラー化したら炎がハッキリ分かるから、どれだけ凄かったのか良く分かりそう。
もうじき来る首都圏直下型で自分は生き残れるのだろうか···。
日本人の底力‼️
少子高齢化になった今、同じような災害が起きたら、
こんなに動ける人の数はあるのだろうか
九条武子さんをみることが出来た、背が高くて美しい方ですね。隣に並ぶ外人の女性より背が高いのでビックリしました。病院を設立されて素晴らしいです。
それにしても、燃えやすい木の塀や木造住宅や障子に畳の日本家屋はあっという間に、火が周り、着の身着のまま飛び出した方達や、大八車で、右往左往している間に、被災された。それから、路面バスでは、行動範囲が制限されてしまうので、震災以降はバスが発達したんだそうです。
これがたった100年前か。
凄いですね。自力で日本は再建したのですね。そりゃあ、戦後も頑張れたはずです。日本人はすごいなあ。誇らしいです。
災害に見舞われても復興に尽力していく。凄いと思います。
昔も今も立ち向かい生きていく、自分にできるかな...
横浜在住なので、関東大震災みたいな地震、首都直下型、東海トラフといつどの災害に遭うかわからないけど、確実に近づいてはいるからね😢
ここに映ってる小さい子供達やこれから産まれる子供は太平洋戦争を経験するんやね。辛いね。
この日、70人のお産があったという事ですが、男子は皆、戦争に行ったんですね。
貴重な映像だなぁ、この関東大震災を参考にして東京大空襲が行われたわけなんだけど、この時区画整理して災害に強い街づくりしてればもっと被害を減らせたかもしれないのにな
100年前の日本人尊すぎるやろ。世界を席巻したのを納得ですわ。
寺と地域社会の結びつきが強いですね。
大正から100年
感染病とか色々と現在を彷彿させる時代だから
ちょうど100年の2023年は地震に要注意だね
東京の被災イメージが強いですが、自分の祖父が住んでいた千葉の南房総の家の塀が崩れたらしいので相当な関東広域だったと思います。
昔の人の逞しさを感じます。
亡き祖母が上野の山に逃げた話を良くしてました。
当たり前だけどこの映像に出てくる方々のほぼ全ての方が今は亡くなってるわけよな
今、同規模の地震が来たら映像と同じ支援を受けられるまで何の位時間が掛かるかな?
当時の現場映像 始めて観た、何万人か亡くなったのだ、悲惨な状況が解る。9月始めだから暑くも寒くも なくて何とか耐えられたんだ。
地震直後は割とのんびりしてるけど
その状態から火災で9万人も亡くなってんだな
津波といい、地震は揺れそのものより
その後の方が数倍恐ろしい
地震の動画で場違いのコメントする人いるけどマジで不謹慎だってわからないのかな?
やばいな歳とったかな。なんかこの映像泣ける。。
東日本大震災の時救護班として行ってきたけど25:48の辺りが津波でめちゃめちゃになった被災地とダブって見える
大変だったろうな。
檀家を金づるとしか見ていない昨今の寺ではこれだけの人海戦術支援として人を集めることができるのだろうか
みんな姿勢が美しく、そして達筆!!
寺や地域社会が今よりも結びつきが強く、民間レベルでの助け合いも活発だったことがわかります。
全体に太ってる人がいないですね。体を普段から使ってる、均整の取れた体型。
男性は着物に帽子が多いですね。丈も動きやすいように短くしていて、生活着としての着物が垣間見えます。女性も学生は動きやすい袴姿に靴が多いですね。
それにしても震災以上に火災の被害が甚大そう。江戸も大規模な火災が多かったと言われていますが、どれだけ凄まじいかが映像を見ると想像できます。
確かに達筆です。美しい。
食事も肉など殆んど食べていなかった時代、歩くのが当たり前で肥満とは無縁ですね。
素晴らしい👏勉強になりました。
村岡花子さんが30歳の時か、そう考えるとそんなに昔ではない感じがする
5:15ここ好き 応援したくなる。
風化させてはいけない、、戦前の関東大震災から一世紀。
One of if not the most devastating earthquakes in history yet so few people in western countries know anything about it. Incredible