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ありがとうございます。勉強になりました。
コメントありがとうございます。京都は奥が深過ぎて、私もまだまだ知らない事が沢山あります。引き続きご覧いただければ幸いです。
都など大きな町は非人といわれた人達がいなかったら、死体をどの様にしたらいいのかわからない社会でしたね。戦争や疫病などで死者が増えた時などは、彼らがいないと普通の生活が出来ませんでした。山間部などの田舎は人口も少なかったので、死者の数も少ないから自分達で埋葬してました。ですから田舎は地域の人たちとの繋がりが強く、そこの決め事に従う事が出来ない人は「村八分」という扱いになりました。じぃじさんの説明が丁寧で分かりやすく、大変勉強になりました。ありがとうございました。これからも楽しみにしています。
コメントありがとうございます。今後も変なことばかり配信していきますが、懲りずにご覧いただければ幸いです。
面白かったです。あの辺、人多すぎてゆっくり歩けないですもんね。安倍晴明の祠、今度行ってみます。そっと見ますね。有難うございました。弓矢町の祇園祭武者行列は、南北朝動乱前、鎌倉幕府が暴動を危惧するほどの規模だったらしく、相当立派だったようです。是非復活してほしいですね。。奈良生まれ京都在住です。癩病患者救済は、奈良の般若寺前の奈良坂旧街道が原型で、興福寺が統括していました。街道沿いに座っていると、京都奈良の仏閣を巡るような人々は、信仰心が強いので、お布施をよくしてくれて、衣食住は寺の指揮下で、生活できたようです。どんな裕福な家に生まれた方でも、発病すると一律、興福寺の管轄下に送られました。癩病は非常に弱いウイルスなので、体力が弱っている時のみかかりやすく、今は良い薬がありすぐ治る病ですが、当時は深刻でした。付近に、鎌倉時代の、わが国初の福祉施設に相当する建築物も現存します。立派な建物です。あの辺りは、保元の乱後、悪左府藤原頼長の首が捨てられた場所でもあります。京の風葬地は、紫野とか化野とか野のつくとこはみんなそうで、某学校を建設するとき、とんでもない数の白骨が出てきて、いよいよ、すべて掘るのは諦めたそうです。警察も来たんですが、事件性なしとして(骨が古すぎる…)終わりました。タイのアカ族に、風葬の原型があるらしく、鳥居に似たものもあります。鳥は天に昇るので、鳥についばまれることで魂が天に昇れるという発想で、いわゆる捨ててるわけではなく、魂の葬送の形です。今なら死体遺棄ですが。東山は、貴族も庶民にも風葬地でしたが、研究者によると、山の東側か西側で、遺体を置く場所は決まっていた(貴族と庶民の場所を分けていた)そうで、藤原実資が愛娘を幼くして失くし、錦の袋に入れて東山に運んだところ、不憫でどうしても恋しく、後日、人をやって様子を見に行かせたところ、袋ごとなくなっていたとか。日記にあります。まるで羅城門ですね…
コメントありがとうございます。奈良生まれ京都在住の方がご覧いただいているとは大変光栄です。清水寺坂の者と興福寺坂の者との戦いなど色々あったようですね。いつか奈良もじっくり歩いてみようと思っております。それにしても、東山の西と東で死体の置き場所が違っていたとの事、初めて知りました。興味深いお話ありがとうございます。私もまだまだ知らない事ばかりです。今後もご教示いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971 こちらこそ、勉強になります。ただ、貴族、、といっても、藤原北家(関白、中宮の実家)の一族は、鳥辺野や愛宕で火葬してから、宇治の木幡に埋葬するのが習わしでした。どうやら、藤原氏の大先祖、初代関白の藤原基経が、一族の墓は必ず同じ場所(木幡)に集めるべき、と遺言を残したそうです。旧奈良街道沿いです。平安時代当時は、今みたいに墓にエネルギーを使わない価値観だったみたいで、墓には豪華なお宝も入れないし、塚にして、葬られた後は、荒れ地みたいにほったらかしで、若き日の道長は、その様子を見てあんまりだとショック受けて、菩提寺(浄妙寺、今の木幡小学校)を建てましたが、それも、応仁の乱の前後、土一揆で破壊され、埋もれたままです。元に戻りましたwしかし、昭和40年代に、小学校建設時に、本堂の遺構が出てきて、伝説が実証されました。今も、古墳含め200か300の墳墓がありまして、そのうち37基を、まとめて宮内庁が宇治陵として管理しています。どれもめっちゃ小さいです。墓誌もないし、どれが誰かは、もうわからないそうです。多分これが道長?基経?みたいなレベルです。ちなみに、道長は、32号が怪しいそうですw息子頼道が、浄妙寺の南大門から、墓参りしたという記録があるそうです、近いのです。他は茶畑に埋もれていますw元祖・無常ですね…なので、鳥辺野に眠るのは、それ以外の貴族…ということになるんでしょうね。歴史は面白いですね。これからも動画楽しみにしています。☺✨
13:07 ?
丁寧な動画 観やすいしとても勉強になりました。このような動画が好きです。
コメントありがとうございます。今後も引き続きご覧いただければ幸いです。
華やかさだけを表に出す他の京都の画像からはなかなか学びは得られない。観て良かったですよ
コメントありがとうございます。京都は本当に奥深い。今後も京都の裏面を訪ねて回ります。ぜひご覧いただければ幸いです。
勉強になりました。
コメントありがとうございます。励みになります。
勉強になりましたぁ。はじめて知ることばかりです。神主をやっておるものですが、穢れという概念と神道は不可分であり、癩もその一つとされてきました。彼らへの救済措置がこのように取られていたとは本当にありがたく感じました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。神主様からの投稿とは大変光栄です。穢れと民間信仰については勉強しましたが、神道についてはよく知りませんでした。今後もいろいろ教えていただければ幸いです。
大阪に住んでいますが、清水寺は何度訪れたかはわかりません。学生の頃からの趣味の写真撮影が目的でしたがこのような歴史を少しでも知っていたら、もっと違った撮り方ができていただろなと思いました。コロナもあって京都に出かけることも少なくなりましたが、居酒屋訪問がてら散策に出かけたいです。興味深いお話ありがとうございました。
コメントありがとうございます。"居酒屋訪問がてら" に興味をもったのですが、清水寺近辺で、どこかお勧めの居酒屋など、あったりしますか?教えていただければ幸いです。
清水寺周辺は行ったことありません。祇園が多いですね。昼のみするときは中谷が好きです。夜だとまんざらですね❗
お!京都駅近くのまんざらは行ったことがあります。安くて美味しかったですね。それより、まんざらがチェーン店と、今初めて知りました。それなら祇園でも気軽に入れそうですね。今度行ってみます。ご教示ありがとうございました。
京都は色んな意味で奥深いですね。源氏物語で鳥辺野が何度か出ていたのを、この動画で思いだしました。桜が終わるころには、動画と同じルートのを散策楽しみたいと思います。昼食は”かねよ”の鰻でビールを2本程度、夜は新店を開拓してみようと思います。
犬神人さんのことを知ってる人がいる。なんて嬉しいこと。綾笠鉾に弓を回して地を清める犬神人さんがいはりますね。ワタシは大宮松原あたりで育ちました。76歳ですが、つい最近 フィクションですが 馬霊刀 と言うウニさんが書かれた本で主人公が弓をもつ犬神人をしりました。 京都生まれ育ちでも知りませんでした。洛中洛外図にも、もののけ姫にもえがかれていますね。 良かったです。
コメントありがとうございます。京都で生まれ育った方からの投稿は大変嬉しく思います。ちなみに私は、犬神人の話を聞いて「隼人の狗吠」を思い出しました。昔、薩摩国に住んでいた古代隼人族は、平安時代、京都に移住させられ、内裏の隼人司という部署で働かされていました。その仕事は宮中の高貴な方々の護衛。出かける時は先導して、辻々で狗吠をしたそうです。その狗吠とは、犬の吠え声。京都の隼人族は、犬の吠え声で悪霊を追い払った。犬神人という名前を聞いて、何となくそれを思い出しました。
とても、わかりやすく勉強になりました。 新発見です! 有難うございます。
コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。鳥辺野は大河ドラマの舞台になるくらい、平安京にとって重要な場所でした。今後も研究していきたいと思っております。引き続きご笑覧ください。
京都生まれ在住です。テーマや世界観に引き込まれました。六道の辺りには、剝製を作って販売もしてるお店があったり、独特の雰囲気。京都の非人は、八瀬童子等の逸話を含め他所と比べれば好待遇だった気がします。
コメントありがとうございます。地元の方からの投稿は大変嬉しく思います。剥製のお店は知りませんでしたが、確かに独特の雰囲気がありますよね。今後もご教示いただければ幸いです。
中三の修学旅行で行ったきりの清水寺でしたが、救済のお寺だとは知らず、その近くに鳥辺野(葬送地)があることも。40年前位に先輩の田舎の(茨城県の山のほう)ほうでは、樽に遺体を入れ、皆で担いでいきそのまま土葬するのだと聞いたことがありますが、京都では昔は鳥葬がされていたのですね。これもびっくりです。思えば修学旅行という名だけの退屈で(ガイドブックで幾らでも出てくる観光地ばかり。)たいして記憶に残らないものより、歴史じいじさんのような謂れや蘊蓄を知りたかったです。物事が起こる背景には色々な事情があるのだ。と改めて思いました。
コメントありがとうございます。機会あればぜひもう一度清水寺に行ってみませんか。違った風景が見えてくると思いますよ。
もうすぐ夫が定年退職なので、旅先候補に京都があがっています。お勧めの季節はやはり、春か秋でしょうか。京都は海外からの旅行者でいつも一杯で歩けないとTVで見るので反対ルートならどこから行けば楽なのか決められません。鞍馬寺、高瀬川(高瀬舟の航路)羅生門跡、今回初めて知った三大葬送地などなど。京都は知れば知るほど興味をそそられ、一度や二度では廻りきれないですね。GHQが京都は攻撃せず、残したかった理由も納得はしてしまいます。
すみません。変な操作ミスで返信を沢山送ってしまいました。消去して下さい。
鳥辺野へ行くなら絶対早朝が良いですよ。既に8時から混み始めます(私は6時に行きました)それはそれとして、米軍は10数ヶ所も原爆を落とす計画だったそうですよ。その中に京都も含まれていました。最初の2カ所(広島長崎)で降伏したので実行されなかっただけで、降伏しなければ京都にも原爆が落とされていたようです。はらに付け加えると、米軍は "原爆の効果"を正確に把握するために、その10数カ所の空襲を中止した、とのこと。決して文化財を守るためではありませんでした。(むしろ生きた人間を使った壮大な人体実験?そう思うと背筋が寒くなります)
観光客やインバウンドで過密になった今の清水寺とその周囲からは見えない重層的な歴史の風景を届けていただき、いい画像だと思います。
コメントありがとうございます。京都は様々な歴史が折り重なっていて深いですよね。最近、大河ドラマで疫病患者の収容施設「悲田院」がよく出てきますが、それを創ったのは光明皇后なんですよね。あの "癩者の身体を洗ったら仏様になった"という伝説の皇后です。大河を見ながら、こんなところも繋がってるんだな、と感じています。
知らない事ばかりで興味深かったです!
ありがとうございます!
お能の「熊野」にまさにこの道行があり、昨年の春の早朝に歩いてみました。より詳しく説明もして頂いて再び歩いている気持ちになりました。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。熊野は知りませんでした。教えていただきありがとうございます。同じルートとあらば、ぜひ熊野を観たくなりました。春の早朝の清水寺は素晴らしいですよね。今後もご笑覧いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971河原町松原から清水寺までの道中を、情勢的に最期の春かもしれぬという心情の平宗盛と共に花見をする愛人熊野(ゆや)の視線で謡われていて、彼女は里の母に病が心配で花見どころではなかったのですが死を連想させる鳥辺山からの煙が見え入る場所から行き進むと、経書堂(キィウカクドウ)あたりからは法の力を感じ取り気持ちが少し前向きになり母の為に祈れる心境に近くなるというその心境の変化を感じながら坂道を上がっていくと違う視界が見えてきて良い道中でした。能の謡を習っていて先生から教えてもらったパラレルワールド。同じ場所でも違う視点。この動画でも新たなパラレルが見えました。他の動画も見させて頂きます❤
面白かったです。鳥辺野はかなり広範囲だったんでしょうか?御寺 泉涌寺の北に一条天皇皇后定子 鳥戸野陵があります。大谷廟からは直線で約1キロほどです。あの辺りには秀吉さんのお墓もあるし今も京都市の火葬場もある昔から広い範囲で葬送の場なんですね。
コメントありがとうございます。そうですね、鳥辺野はかなり広範囲だったようです。ところで火葬場についてですが、最初は今の東区役所の所で、次に新道小学校の所に移転して、さらに明治になって西院の方に最移転して、今の所になったようですね。(江戸時代の都名所図会に火屋と描かれています)
@@aratatakeda7971 火葬場ってそんなに転々としていたんですね。興味深いです。
火葬場の跡地って、どこも公共施設なんですよね。区役所、小学校、福祉施設。さすがに民間では利用しがたいようで(笑)
ゆみやまち、ではなく、ゆみやちょうです。基本的に京都では、町を「ちょう」と発音します。(例外もあります)
コメントありがとうございます。また町名についてご教示いただいて感謝します。私もまだまだ知らない事ばかり。こうやって教えていただけると本当に嬉しく思います。引き続きご笑覧いただければ幸いです。
素晴らしい動画でした。死者だけでなくライ病気とも関係があったなんて知りませんでした。京都に通って50年にして初めてしりました。🎉
コメントありがとうございます。京都は奥深いですよね。私もまだまだ知らない事ばかりです。今後もご笑覧いただければ幸いです。
幽霊子育て飴は桑名にも昔ありました(桑名出身の嫁が子供の頃売っていたといっていました。嫁は2年前に亡くなりましたが)。日本昔話で紹介され探しに行きましたが、既にお店がありませんでした。
コメントありがとうございます。また貴重な情報も感謝します。桑名に行く機会があれば、是非訪ねてみたいと思います。引き続きご笑覧いただければ幸いです。
戦後すぐの頃 音羽の滝で子供たちが水着を着て水遊びをしていたそうです。お坊様が通られてもニコニコされていたそうです。
最後の光景(墓地)は大谷本廟では無いのでしょうか? 清水寺は檀家が居ないので墓と言うものが有るのでしょうか? そもそも清水寺の安定した主軸の収入源は大昔は何だったのでしょうか?
コメントありがとうございます。おっしゃる通り、最後は大谷本廟です。死体捨て場だった鳥辺野が、本願寺の墓地になったのは江戸時代だと思われます。ちなみに清水寺など、京都の有名寺院は、江戸時代から拝観料を取っていました。色々な古文書に書かれています。それ以外も、広大な寺院領があり、大勢の小作人を住まわせて、そこからの収入もあったようです。石高までは分かりませんが、清水寺クラスだと、旗本なみの収入があったのではないでしょうか。
この辺りよくウロウロしますが、ほとんど知らない事ばかりでとても勉強になりました。昨年息子が「小野篁」の書を手に入れて軸装にしたので、六道珍皇寺に一度訪れたいものです。
コメントありがとうございます。小野篁の書とは驚きました。大事になさってください。今後もご笑覧いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971 ありがとうございます。チャンネル登録したのでまた拝見いたします。
札幌から京都に移住したのですが東大路通を走る車をみて「京都の人って結構運転が荒い」と思いました、それと縄手通りって結構血生臭い由来なんですね。
コメントありがとうございます。私も札幌市民でしたので懐かしく拝察しました。札幌の割と自由な気風から京都に移住では、かなり戸惑ったのではないでしょうか。今後もご覧いただければ幸いです。
寂しいからとそれだけで来るはずもない鳥辺野。
京都に憧れて2年前に引っ越してきました義経が好きなので探しに来ました特に観光が好きでも歴史が好きでもないのですが街をブラブラ歩くのが大好きですじぃじさんの動画に最近出会えて馴染みの場所の歴史を知ることができ、ずっと鴨川、松原通り、松原橋に惹かれる理由が分かった気がしますこんな先生なら歴史も好きになってたかなありがとうございます京都
コメントありがとうございます。義経が好きで京都に移住なんて素晴らしいですね。京都は様々な歴史が積み重なっているので、どこを歩いても新たな発見があります。特に松原通は、西へ行っても、道祖神や天使突抜など不思議な所がいっぱい。謎めいています。今後もご笑覧いただければ幸いです。
不思議や謎が大好きですし、ますます京都散歩が好きになりそうです。じぃじさんに感謝です✨✨
新日本風土記で風葬が出てきてこの動画に辿り着きましたところで風葬は主にどういった方がこのような葬られたのですか?
コメントありがとうございます。古代日本において、一般人は風葬、貴族は火葬だったようです。その後、徐々に一般人も火葬が普及しましたが、奄美沖縄は近代まで風葬が続いたようです。もちろん貴族社会でも、檀林皇后のように風葬を希望する方もいました。なので、一概に決めつけることはできないかなと思います。今後も引き続きご笑覧いただければ幸いです。
ありがとうございます去年マデ京都東山の高台寺の近くにぃ住んどりました懐かしいです😢六道の辻よく歩きまし空上上人象見ました⤴️飴も買いました😅井戸近くで見ました裏にもう1つ井戸あるんですよね~ハッピー六原よく行きましたょ😢晴明さん行きたかった~チャンネル登録しましたm(_ _)mマタ楽しみしてます京都をいろいろ紹介してくださいm(_ _)m
コメントありがとうございます。近くに住んでいた方からの投稿は大変嬉しく思います。黄泉がえりの井戸の裏に、もう一つ井戸があるとは初めて知りました。ご教示ありがとうございます。ハッピー六原は私も行きました。お惣菜が沢山ありましたね。今後もご覧いただければ幸いです。
清水寺がそんな役割を持っていたとは全く知りませんでした!そう考えるとお寺の名前も納得のような🤔勉強になりました!高校生の頃の自分を叱ってやりたいw 修学旅行の前にこの動画を見られたらよかったなー。
コメントありがとうございます。機会あれば、ぜひまた行ってみてください(笑)今後も、ちょっと変わった街歩きを配信していくので、よろしくお願いします。
平家一族が住まいに与えられた土地が洛外のしかも加茂川を渡った葬送の地の近くなんですよね。平家は財力で五条橋を掛けるわけですが何か扱いが変ですね。都の道端で野垂れ死んだ者の遺体を川向こうまで捨てにいくのに途中で手早く五条橋の上から投げ捨てたりする。罪人の処刑も五条河原でした。なんか不浄感が強い土地でなんですかね。
コメントありがとうございます。鴨川を“賽の河原”に見立て、死体を捨てると、やがて淀川から海へ流れ、浄土へ向かう、という発想があったようですね。それはともかく、平家は“魔界の地”に住むことによって、魔界の頭領となり、都人が恐れる存在になった、そう僕は解釈しています。
❤日に
京都に行くと、よく歩く道ですが、細かい所まで説明していただき、大変参考になりました。光明皇后と籟者の関わり、葬送地、よくわかりました。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。京都は奥が深いですよね。さりげない所に歴史が隠れたりしています。今後もご覧いただければ幸いです。
先週の光る君で散楽の一行が鳥辺野で殺されて捨てられてました!
コメントありがとうございます。大河ドラマで出たと聞いたので、私も録画を見てみました。東山が魔界だった感じが伝わってきましたね。ただ余計な話ですが、平安京造営のため京都周辺の山々の樹木は、ほとんど伐採されてしまいました。(大量の建物を建てたため)そのため東山はハゲ山になってしまい、長い間、竹ヤブだったそうです。大河では鬱蒼とした森林でしたが、実際は竹ヤブだったので、そこだけ引っ掛かりましたが(笑)
葬送地があるのは、古い都だからですか。私の父方、母方も元々農家ですが本家は近隣の村から、移住してきた。居住許可の古文書あり。今の墓地の前に旧墓地もありますが、他の家系のものであっても、元風葬地と言われてるところは、ありません。人口が少なく小規模だったのでしょうか。人は死ぬもの、風葬もその時代の弔い方法、葬儀に携わるかたも(仏教の)けがれではない。
光る君へから^^
コメントありがとうございます。大河ドラマで出たようですね。ちなみに、この後の安倍晴明シリーズ(嵯峨墓所編)でも、源氏物語の舞台になった寺院が登場します。ぜひご覧いただければ幸いです。
歴史じじいさんは京都の人ですか?
元は札幌ですが、今は千葉在住です。京都は4年ほど住んだ事がありますが、たったの4年だけ、と駅言われそうですね(笑)歴史が大好きで、北海道から沖縄まで全国をエリアにしています。
あの清水寺参道のすぐ横、土産物屋の裏に巨大な墓地、京都人は知ってて観光客には一切知らぬ顔。恐らくこの実態を知ったら誰もこんな気味の悪いとこには寄り付かないだろうね。横浜の久保山霊園を見て、この清水寺鳥辺野を思った。清水寺は葬送の寺、、そしてこの参道一帯は死体鳥葬時は相当臭かったろうし,火葬になっても匂ったろう、こんな嫌な場所を一見綺麗な風に、、。京都人の意地も悪さ腹黒さを思い知らされる。
コメントありがとうございます。相当臭かったのは間違いないと思います。そもそも鴨川も死体捨て場だったので臭かったかも。ただ死体を捨てるというのは、浄土へ送るという儀式の一種でもあった事を考えると、どうなのかな〜という感じがします。
らんんらやむく
👍👍👍❤
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勉強になりました。
コメントありがとうございます。京都は奥が深過ぎて、私もまだまだ知らない事が沢山あります。引き続きご覧いただければ幸いです。
都など大きな町は非人といわれた人達がいなかったら、死体をどの様にしたらいいのかわからない社会でしたね。戦争や疫病などで死者が増えた時などは、彼らがいないと普通の生活が出来ませんでした。山間部などの田舎は人口も少なかったので、死者の数も少ないから自分達で埋葬してました。ですから田舎は地域の人たちとの繋がりが強く、そこの決め事に従う事が出来ない人は「村八分」という扱いになりました。
じぃじさんの説明が丁寧で分かりやすく、大変勉強になりました。ありがとうございました。
これからも楽しみにしています。
コメントありがとうございます。今後も変なことばかり配信していきますが、懲りずにご覧いただければ幸いです。
面白かったです。あの辺、人多すぎてゆっくり歩けないですもんね。安倍晴明の祠、今度行ってみます。そっと見ますね。有難うございました。弓矢町の祇園祭武者行列は、南北朝動乱前、鎌倉幕府が暴動を危惧するほどの規模だったらしく、相当立派だったようです。是非復活してほしいですね。。奈良生まれ京都在住です。癩病患者救済は、奈良の般若寺前の奈良坂旧街道が原型で、興福寺が統括していました。街道沿いに座っていると、京都奈良の仏閣を巡るような人々は、信仰心が強いので、お布施をよくしてくれて、衣食住は寺の指揮下で、生活できたようです。どんな裕福な家に生まれた方でも、発病すると一律、興福寺の管轄下に送られました。癩病は非常に弱いウイルスなので、体力が弱っている時のみかかりやすく、今は良い薬がありすぐ治る病ですが、当時は深刻でした。付近に、鎌倉時代の、わが国初の福祉施設に相当する建築物も現存します。立派な建物です。あの辺りは、保元の乱後、悪左府藤原頼長の首が捨てられた場所でもあります。京の風葬地は、紫野とか化野とか野のつくとこはみんなそうで、某学校を建設するとき、とんでもない数の白骨が出てきて、いよいよ、すべて掘るのは諦めたそうです。警察も来たんですが、事件性なしとして(骨が古すぎる…)終わりました。タイのアカ族に、風葬の原型があるらしく、鳥居に似たものもあります。鳥は天に昇るので、鳥についばまれることで魂が天に昇れるという発想で、いわゆる捨ててるわけではなく、魂の葬送の形です。今なら死体遺棄ですが。東山は、貴族も庶民にも風葬地でしたが、研究者によると、山の東側か西側で、遺体を置く場所は決まっていた(貴族と庶民の場所を分けていた)そうで、藤原実資が愛娘を幼くして失くし、錦の袋に入れて東山に運んだところ、不憫でどうしても恋しく、後日、人をやって様子を見に行かせたところ、袋ごとなくなっていたとか。日記にあります。まるで羅城門ですね…
コメントありがとうございます。奈良生まれ京都在住の方がご覧いただいているとは大変光栄です。
清水寺坂の者と興福寺坂の者との戦いなど色々あったようですね。いつか奈良もじっくり歩いてみようと思っております。
それにしても、東山の西と東で死体の置き場所が違っていたとの事、初めて知りました。興味深いお話ありがとうございます。
私もまだまだ知らない事ばかりです。今後もご教示いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971 こちらこそ、勉強になります。ただ、貴族、、といっても、藤原北家(関白、中宮の実家)の一族は、鳥辺野や愛宕で火葬してから、宇治の木幡に埋葬するのが習わしでした。どうやら、藤原氏の大先祖、初代関白の藤原基経が、一族の墓は必ず同じ場所(木幡)に集めるべき、と遺言を残したそうです。旧奈良街道沿いです。平安時代当時は、今みたいに墓にエネルギーを使わない価値観だったみたいで、墓には豪華なお宝も入れないし、塚にして、葬られた後は、荒れ地みたいにほったらかしで、若き日の道長は、その様子を見てあんまりだとショック受けて、菩提寺(浄妙寺、今の木幡小学校)を建てましたが、それも、応仁の乱の前後、土一揆で破壊され、埋もれたままです。元に戻りましたwしかし、昭和40年代に、小学校建設時に、本堂の遺構が出てきて、伝説が実証されました。今も、古墳含め200か300の墳墓がありまして、そのうち37基を、まとめて宮内庁が宇治陵として管理しています。どれもめっちゃ小さいです。墓誌もないし、どれが誰かは、もうわからないそうです。多分これが道長?基経?みたいなレベルです。ちなみに、道長は、32号が怪しいそうですw息子頼道が、浄妙寺の南大門から、墓参りしたという記録があるそうです、近いのです。他は茶畑に埋もれていますw元祖・無常ですね…なので、鳥辺野に眠るのは、それ以外の貴族…ということになるんでしょうね。歴史は面白いですね。これからも動画楽しみにしています。☺✨
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丁寧な動画 観やすいしとても勉強になりました。このような動画が好きです。
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華やかさだけを表に出す他の京都の画像からはなかなか学びは得られない。観て良かったですよ
コメントありがとうございます。京都は本当に奥深い。今後も京都の裏面を訪ねて回ります。ぜひご覧いただければ幸いです。
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コメントありがとうございます。励みになります。
勉強になりましたぁ。はじめて知ることばかりです。神主をやっておるものですが、穢れという概念と神道は不可分であり、癩もその一つとされてきました。彼らへの救済措置がこのように取られていたとは本当にありがたく感じました。ありがとうございます。
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大阪に住んでいますが、清水寺は何度訪れたかはわかりません。学生の頃からの趣味の写真撮影が目的でしたが
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コロナもあって京都に出かけることも少なくなりましたが、居酒屋訪問がてら散策に出かけたいです。
興味深いお話ありがとうございました。
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ワタシは大宮松原あたりで育ちました。76歳ですが、つい最近 フィクションですが 馬霊刀 と言うウニさんが書かれた本で主人公が弓をもつ犬神人をしりました。 京都生まれ育ちでも知りませんでした。洛中洛外図にも、もののけ姫にもえがかれていますね。 良かったです。
コメントありがとうございます。京都で生まれ育った方からの投稿は大変嬉しく思います。
ちなみに私は、犬神人の話を聞いて「隼人の狗吠」を思い出しました。
昔、薩摩国に住んでいた古代隼人族は、平安時代、京都に移住させられ、内裏の隼人司という部署で働かされていました。その仕事は宮中の高貴な方々の護衛。出かける時は先導して、辻々で狗吠をしたそうです。
その狗吠とは、犬の吠え声。京都の隼人族は、犬の吠え声で悪霊を追い払った。
犬神人という名前を聞いて、何となくそれを思い出しました。
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コメントありがとうございます。お返事が遅れて申し訳ありませんでした。鳥辺野は大河ドラマの舞台になるくらい、平安京にとって重要な場所でした。今後も研究していきたいと思っております。引き続きご笑覧ください。
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六道の辺りには、剝製を作って販売もしてるお店があったり、独特の雰囲気。京都の非人は、八瀬童子等の逸話を含め他所と比べれば好待遇だった気がします。
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中三の修学旅行で行ったきりの清水寺でしたが、救済のお寺だとは知らず、その近くに鳥辺野(葬送地)があることも。40年前位に先輩の田舎の(茨城県の山のほう)ほうでは、樽に遺体を入れ、皆で担いでいきそのまま土葬するのだと聞いたことがありますが、京都では昔は鳥葬がされていたのですね。これもびっくりです。思えば修学旅行という名だけの退屈で(ガイドブックで幾らでも出てくる観光地ばかり。)たいして記憶に残らないものより、歴史じいじさんのような謂れや蘊蓄を知りたかったです。物事が起こる背景には色々な事情があるのだ。と改めて思いました。
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もうすぐ夫が定年退職なので、旅先候補に京都があがっています。お勧めの季節はやはり、春か秋でしょうか。京都は海外からの旅行者でいつも一杯で歩けないとTVで見るので反対ルートならどこから行けば楽なのか決められません。鞍馬寺、高瀬川(高瀬舟の航路)羅生門跡、今回初めて知った三大葬送地などなど。京都は知れば知るほど興味をそそられ、一度や二度では廻りきれないですね。GHQが京都は攻撃せず、残したかった理由も納得はしてしまいます。
すみません。変な操作ミスで返信を沢山送ってしまいました。消去して下さい。
鳥辺野へ行くなら絶対早朝が良いですよ。既に8時から混み始めます(私は6時に行きました)
それはそれとして、米軍は10数ヶ所も原爆を落とす計画だったそうですよ。その中に京都も含まれていました。最初の2カ所(広島長崎)で降伏したので実行されなかっただけで、降伏しなければ京都にも原爆が落とされていたようです。
はらに付け加えると、米軍は "原爆の効果"を正確に把握するために、その10数カ所の空襲を中止した、とのこと。決して文化財を守るためではありませんでした。(むしろ生きた人間を使った壮大な人体実験?そう思うと背筋が寒くなります)
観光客やインバウンドで過密になった今の清水寺とその周囲からは見えない重層的な歴史の風景を届けていただき、いい画像だと思います。
コメントありがとうございます。京都は様々な歴史が折り重なっていて深いですよね。
最近、大河ドラマで疫病患者の収容施設「悲田院」がよく出てきますが、それを創ったのは光明皇后なんですよね。
あの "癩者の身体を洗ったら仏様になった"という伝説の皇后です。
大河を見ながら、こんなところも繋がってるんだな、と感じています。
知らない事ばかりで興味深かったです!
ありがとうございます!
お能の「熊野」にまさにこの道行があり、昨年の春の早朝に歩いてみました。
より詳しく説明もして頂いて再び歩いている気持ちになりました。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。熊野は知りませんでした。教えていただきありがとうございます。同じルートとあらば、ぜひ熊野を観たくなりました。春の早朝の清水寺は素晴らしいですよね。今後もご笑覧いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971河原町松原から清水寺までの道中を、情勢的に最期の春かもしれぬという心情の平宗盛と共に花見をする愛人熊野(ゆや)の視線で謡われていて、彼女は里の母に病が心配で花見どころではなかったのですが
死を連想させる鳥辺山からの煙が見え入る場所から行き進むと、経書堂(キィウカクドウ)あたりからは法の力を感じ取り気持ちが少し前向きになり母の為に祈れる心境に近くなるという
その心境の変化を感じながら坂道を上がっていくと違う視界が見えてきて良い道中でした。
能の謡を習っていて先生から教えてもらったパラレルワールド。
同じ場所でも違う視点。
この動画でも新たなパラレルが見えました。
他の動画も見させて頂きます❤
面白かったです。鳥辺野はかなり広範囲だったんでしょうか?御寺 泉涌寺の北に一条天皇皇后定子 鳥戸野陵があります。大谷廟からは直線で約1キロほどです。あの辺りには秀吉さんのお墓もあるし今も京都市の火葬場もある昔から広い範囲で葬送の場なんですね。
コメントありがとうございます。そうですね、鳥辺野はかなり広範囲だったようです。ところで火葬場についてですが、最初は今の東区役所の所で、次に新道小学校の所に移転して、さらに明治になって西院の方に最移転して、今の所になったようですね。(江戸時代の都名所図会に火屋と描かれています)
@@aratatakeda7971 火葬場ってそんなに転々としていたんですね。興味深いです。
火葬場の跡地って、どこも公共施設なんですよね。区役所、小学校、福祉施設。さすがに民間では利用しがたいようで(笑)
ゆみやまち、ではなく、ゆみやちょうです。基本的に京都では、町を「ちょう」と発音します。(例外もあります)
コメントありがとうございます。また町名についてご教示いただいて感謝します。
私もまだまだ知らない事ばかり。こうやって教えていただけると本当に嬉しく思います。
引き続きご笑覧いただければ幸いです。
素晴らしい動画でした。死者だけでなくライ病気とも関係があったなんて知りませんでした。京都に通って50年にして初めてしりました。🎉
コメントありがとうございます。京都は奥深いですよね。私もまだまだ知らない事ばかりです。
今後もご笑覧いただければ幸いです。
幽霊子育て飴は桑名にも昔ありました(桑名出身の嫁が子供の頃売っていたといっていました。嫁は2年前に亡くなりましたが)。日本昔話で紹介され探しに行きましたが、既にお店がありませんでした。
コメントありがとうございます。また貴重な情報も感謝します。桑名に行く機会があれば、是非訪ねてみたいと思います。引き続きご笑覧いただければ幸いです。
戦後すぐの頃 音羽の滝で子供たちが水着を着て
水遊びをしていたそうです。お坊様が通られても
ニコニコされていたそうです。
最後の光景(墓地)は大谷本廟では無いのでしょうか? 清水寺は檀家が居ないので墓と言うものが有るのでしょうか? そもそも清水寺の安定した主軸の収入源は大昔は何だったのでしょうか?
コメントありがとうございます。おっしゃる通り、最後は大谷本廟です。死体捨て場だった鳥辺野が、本願寺の墓地になったのは江戸時代だと思われます。
ちなみに清水寺など、京都の有名寺院は、江戸時代から拝観料を取っていました。色々な古文書に書かれています。
それ以外も、広大な寺院領があり、大勢の小作人を住まわせて、そこからの収入もあったようです。石高までは分かりませんが、清水寺クラスだと、旗本なみの収入があったのではないでしょうか。
この辺りよくウロウロしますが、ほとんど知らない事ばかりでとても勉強になりました。昨年息子が「小野篁」の書を手に入れて軸装にしたので、六道珍皇寺に一度訪れたいものです。
コメントありがとうございます。小野篁の書とは驚きました。大事になさってください。今後もご笑覧いただければ幸いです。
@@aratatakeda7971 ありがとうございます。チャンネル登録したのでまた拝見いたします。
札幌から京都に移住したのですが東大路通を走る車をみて「京都の人って結構運転が荒い」
と思いました、それと縄手通りって結構血生臭い由来なんですね。
コメントありがとうございます。私も札幌市民でしたので懐かしく拝察しました。札幌の割と自由な気風から京都に移住では、かなり戸惑ったのではないでしょうか。今後もご覧いただければ幸いです。
寂しいからとそれだけで来るはずもない鳥辺野。
京都に憧れて2年前に引っ越してきました
義経が好きなので探しに来ました
特に観光が好きでも歴史が好きでもないのですが街をブラブラ歩くのが大好きです
じぃじさんの動画に最近出会えて馴染みの場所の歴史を知ることができ、ずっと鴨川、松原通り、松原橋に惹かれる理由が分かった気がします
こんな先生なら歴史も好きになってたかな
ありがとうございます
京都
コメントありがとうございます。義経が好きで京都に移住なんて素晴らしいですね。
京都は様々な歴史が積み重なっているので、どこを歩いても新たな発見があります。
特に松原通は、西へ行っても、道祖神や天使突抜など不思議な所がいっぱい。謎めいています。
今後もご笑覧いただければ幸いです。
不思議や謎が大好きですし、ますます京都散歩が好きになりそうです。じぃじさんに感謝です✨✨
新日本風土記で風葬が出てきてこの動画に辿り着きました
ところで風葬は主にどういった方がこのような葬られたのですか?
コメントありがとうございます。古代日本において、一般人は風葬、貴族は火葬だったようです。その後、徐々に一般人も火葬が普及しましたが、奄美沖縄は近代まで風葬が続いたようです。
もちろん貴族社会でも、檀林皇后のように風葬を希望する方もいました。なので、一概に決めつけることはできないかなと思います。今後も引き続きご笑覧いただければ幸いです。
ありがとうございます去年マデ京都東山の高台寺の近くにぃ住んどりました懐かしいです😢六道の辻よく歩きまし空上上人象見ました⤴️飴も買いました😅井戸近くで見ました裏にもう1つ井戸あるんですよね~ハッピー六原よく行きましたょ😢晴明さん行きたかった~チャンネル登録しましたm(_ _)mマタ楽しみしてます京都をいろいろ紹介してくださいm(_ _)m
コメントありがとうございます。近くに住んでいた方からの投稿は大変嬉しく思います。黄泉がえりの井戸の裏に、もう一つ井戸があるとは初めて知りました。ご教示ありがとうございます。ハッピー六原は私も行きました。お惣菜が沢山ありましたね。今後もご覧いただければ幸いです。
清水寺がそんな役割を持っていたとは全く知りませんでした!
そう考えるとお寺の名前も納得のような🤔
勉強になりました!高校生の頃の自分を叱ってやりたいw 修学旅行の前にこの動画を見られたらよかったなー。
コメントありがとうございます。機会あれば、ぜひまた行ってみてください(笑)
今後も、ちょっと変わった街歩きを配信していくので、よろしくお願いします。
平家一族が住まいに与えられた土地が洛外のしかも加茂川を渡った葬送の地の近くなんですよね。平家は財力で五条橋を掛けるわけですが何か扱いが変ですね。都の道端で野垂れ死んだ者の遺体を川向こうまで捨てにいくのに途中で手早く五条橋の上から投げ捨てたりする。罪人の処刑も五条河原でした。なんか不浄感が強い土地でなんですかね。
コメントありがとうございます。鴨川を“賽の河原”に見立て、死体を捨てると、やがて淀川から海へ流れ、浄土へ向かう、という発想があったようですね。
それはともかく、平家は“魔界の地”に住むことによって、魔界の頭領となり、都人が恐れる存在になった、そう僕は解釈しています。
❤日に
京都に行くと、よく歩く道ですが、細かい所まで説明していただき、大変参考になりました。光明皇后と籟者の関わり、葬送地、よくわかりました。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。京都は奥が深いですよね。さりげない所に歴史が隠れたりしています。今後もご覧いただければ幸いです。
先週の光る君で散楽の一行が鳥辺野で殺されて捨てられてました!
コメントありがとうございます。大河ドラマで出たと聞いたので、私も録画を見てみました。東山が魔界だった感じが伝わってきましたね。
ただ余計な話ですが、平安京造営のため京都周辺の山々の樹木は、ほとんど伐採されてしまいました。(大量の建物を建てたため)
そのため東山はハゲ山になってしまい、長い間、竹ヤブだったそうです。大河では鬱蒼とした森林でしたが、実際は竹ヤブだったので、そこだけ引っ掛かりましたが(笑)
葬送地があるのは、古い都だからですか。私の父方、母方も元々農家ですが本家は近隣の村から、移住してきた。居住許可の古文書あり。今の墓地の前に旧墓地もありますが、他の家系のものであっても、元風葬地と言われてるところは、ありません。人口が少なく小規模だったのでしょうか。人は死ぬもの、風葬もその時代の弔い方法、葬儀に携わるかたも(仏教の)けがれではない。
光る君へから^^
コメントありがとうございます。大河ドラマで出たようですね。ちなみに、この後の安倍晴明シリーズ(嵯峨墓所編)でも、源氏物語の舞台になった寺院が登場します。ぜひご覧いただければ幸いです。
歴史じじいさんは京都の人ですか?
元は札幌ですが、今は千葉在住です。京都は4年ほど住んだ事がありますが、たったの4年だけ、と駅言われそうですね(笑)
歴史が大好きで、北海道から沖縄まで全国をエリアにしています。
あの清水寺参道のすぐ横、土産物屋の裏に巨大な墓地、京都人は知ってて観光客には
一切知らぬ顔。恐らくこの実態を知ったら誰もこんな気味の悪いとこには寄り付かない
だろうね。横浜の久保山霊園を見て、この清水寺鳥辺野を思った。
清水寺は葬送の寺、、そしてこの参道一帯は死体鳥葬時は相当臭かったろうし,
火葬になっても匂ったろう、こんな嫌な場所を一見綺麗な風に、、。京都人の意地も悪さ腹黒さを思い知らされる。
コメントありがとうございます。相当臭かったのは間違いないと思います。そもそも鴨川も死体捨て場だったので臭かったかも。
ただ死体を捨てるというのは、浄土へ送るという儀式の一種でもあった事を考えると、どうなのかな〜という感じがします。
らんん
らやむく
👍👍👍❤
ありがとうございます。