あまりにも空しい改易・減封となった大名たち
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- เผยแพร่เมื่อ 29 ต.ค. 2024
- あまりにも空しい改易・減封となった大名たち
について紹介しています。
ナレーション:真加藤沙織
脚本・監修:歴史の細道
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~音源~
DOVA-SYNDROME 様
dova-s.jp/
さおりさんの読み上げは明瞭で聞きやすく素晴らしいです。
空気を読むチカラって重要なんだね。
豊臣秀吉しかり、徳川家康しかり、TOPに昇り詰めた武将はみなそこが長けていたと思います。槍働きよりむしろ大事な要素かと思えます。それにしても理不尽なことだらけで可愛そうに思います。
聞きやすい、、毎回楽しみにしてますよ
さおりさん、有難うございます楽しく拝見させて頂きました。
お疲れさまでした。戦国時代ではありますが改易・減封された武将の気持ちがが分かる様で切ないです。
改易された宇喜多秀家の後に岡山に入った小早川秀秋は八丈島の秀家自身や秀家の正室の豪姫(前田利家の5女、豊臣秀吉の養女)からも散々非難されたうえ、夢の中にまで秀家や大谷吉継が出てきて発狂してしまい、24~25歳くらいで亡くなってしまいました。跡継ぎがいなかったので小早川家は大名としては断絶してしまいました。自業自得の所業をしてしまったとはいえ、勝った方でもそんな運命を辿るとは切ないですね。
カガッチィー
秀秋はアル中で死んだんじゃない?
戦後処理はやっぱりサラリーマンに通じるやるせない気持ちが沸いた!
清正・正則はほぼ見せしめで徳川に潰されたんだろうな。
正則は家康亡き後に秀忠が自身の威光を損なわない為に、幕府がナメられない為にも『関ヶ原や大阪の陣で活躍しても潰された』って他の大名に見せたんだろう。
長宗我部盛親は戦いたくても宰相殿の空弁当に動けず、戦場で散れず可哀想!やはり関ヶ原の布陣と三成の武将としての才覚では泰平の世なら官僚としては優秀でも戦国の世では生きていけんのだろう
osaru3 布陣してたとこは前からしか行けなかったしね
@@あちちあちち
南宮山の麓だから
山を回り込めば毛利を避けて池田や山内と戦えたはず
山形県の戦国大名、最上義光の四女、喜久姫について興味あります
社員旅行でいったお寺に正則のお墓ありました😭清正、正則、石田三成結束できたらどういう歴史になってただろう?
堀北真希さん似ですね
この他、家康公の時代ではありませんが蒲生家(蒲生氏郷の子孫)、最上家(最上義光の子孫)などの大大名家や譜代大名の大物の本多正純(本多正信の長男)などもお家騒動などの事情で改易になりました。空しい理由ではありませんが、後世では赤穂藩浅野家(忠臣蔵の浅野内匠頭)なども有名ですね。
本多正純は自業自得。
蒲生は無嗣断絶なんだよなぁ……
個人的に1番かわいそうなのは
家康の六男・忠輝かな
詳しく無いから知らないけど何があったの?
@@至高の反逆者明智光秀
見た目がイケメンじゃなかったってだけで
生まれた瞬間から家康に嫌われ
政略結婚で伊達政宗の娘と結婚するが、結局
政宗にそそのかされ謀反を起こすと家康に警戒され
大坂夏の陣では秀忠の直臣を切り殺したりと散々な人生
秀忠にとっては可愛い弟だから必死に庇ったけど
家康は結局許さず最終的に改易されてしまう。
ただこの忠輝は家康の息子の中で1番長生きすると言う皮肉
忠輝は伊達政宗の娘を正室にしていましたが、政宗の娘は支倉常長などの影響でキリスト教を信仰していたと言われます。忠輝も影響を受けて実はキリシタンだったのではないかとういう疑いが広まってしまい、家康は自身の六男がキリシタンではキリスト教禁教の示しがつかないと判断し苦渋の末に改易したという説もあります。
カガッチィー それ最悪ですね。
疑いだけで改易って(( ̄▽ ̄;;)ア、ハハハハ…
@@もふもふ-x4p 家康の葬儀にも参加させてもらえなかったそうですね、彼
長宗我部は東軍に付きたかった筈!石田三成が築いた関所で阻まれ仕方がなく西軍に着いた!
島津も伏見城へ加勢しようとしたら守将の鳥居元忠に 聞いていない!って門前払いだもんねえ
沙織さん上品な美人さん、声が聴き取り易いです。
これを観ると、さすが伊達政宗は賢明でしたね。城に天守を造らない事で徳川からの疑いや言いがかりのスキを与えず、庶子は宇和島藩14万石として独立。転封もされずに仙台藩67万石の基礎をつくったんですから。
ただの暴れん坊ではなかった政宗公。
かなりヤンチャやりましたが、朝鮮出兵や関ヶ原、大阪夏の陣では、やる事はやっていますし。天下取りの野心を捨ててからは、徳川からの信頼は家康、秀忠、家光まで厚かったですよね。
政宗公も若い時分は、叔父さんの最上義光やお母さんの言うことを聞かず、太閤殿下秀吉の所へぎりぎりのタイミングで小田原に挨拶に行ったため、母親から伊達家を滅亡させる気かと疑いを受けて毒殺されかけ、実の弟を騙し討ちにする事態になったこともありました。
Y・E Gassan
政宗は乱世の時代の軍事面はパッとしない感じあるけどずる賢さは抜きん出てた
改易とはちがうけど宇喜多秀家の八丈島生活が素敵過ぎる。
流し素麺のように流されて。
en t 宇喜多秀家は関ヶ原参戦大名中
で1番長生きした。穏やか八丈島でのんびり過ごしたでしょう。それに比べ小早川や福島、加藤清正は悲惨な最後でした。
現地ではなんか歓迎されて子孫も結構作っていたはず
家光までの幕府は大名を取り潰す武断政治を行っていたが浪人が増えすぎて家綱の代に由比正雪が幕府転覆を企てたため文治政治にシフトした。
宇都宮国綱も入れてあげて下さい。
織田信雄は時代を読む力があったから四男と五男の系統で大名として御家を遺して明治維新まで続いたでしょうが。
長兄信忠は本能寺で戦死、次兄信孝は秀吉に負けて内海の野間で切腹。信雄は生き延びた。
織田信雄の家系は今も続いてるよ
もふもふ
知ってますよ。武家としてどうなったかという論点で明治維新まで続いたという表現をしたまで。それは多くの方がご存知なのが前提でお話ししています。
戦国の世は、いろいろ
有りますね~
政則が改易されたのは元々決まってたような気がするけど、もう少し頭が良かったなら違う立ち回りもできたんじゃないかなと思った
秀吉の縁者だったこのふたりを家康が生かしておくはずがなかった。清正毒殺。正則流刑。
zahhatorute 毒殺と断定できる何か証拠でもあるのか?毒殺は一つの説でしかない
正則、わがまま放題だったから。家つぶされても仕方ない。
アル中で家臣切腹させたり日本号の槍を黒田長政の家臣母里友信に大盃の酒を飲み干せば好きなものをやると言う旨を言って母里がしぶると
「黒田の侍は酒においてはなんの役にも立たず」と言われて主家を馬鹿にされた母里が見事に飲み干し約束で家宝にしていた日本号を取られる羽目になったり、加藤清正は毒殺ではなく
かねてから悪かった持病が悪化して熊本で没している。毒饅頭は後から作られた話。
福島家は旗本として残ったが加藤清正の家は血筋が絶えたとか
しかし明君であったのは熊本の人が知っているし細川忠利が熊本に転封された際に清正に敬意を表して「貴方の土地を預からせて頂きます」と言ったとか。
@@あちちあちち
後世の作り話らしいですね。実際は持病が悪化して国元で亡くなりました。
さおりさん、綺麗ですね。
織田家は天童藩で幕末を迎えましたね。かろうじて「大名」でした。
福島正則は正純に届けを出していたんじゃなかったかな?
ただ、当時の正純に実権はなく土井利勝に届いていなかったのが駄目だった。
あと佐久間信盛も入れてほしかった。
側近の権力移転があったことに気が付かなかったんでしょうね
関ヶ原で西軍についておけばよかったものを…
福島正則 加藤清正は終生豊臣だったのでしょうね
豊臣滅亡の際は、江戸に留め置かれた気持ちはどのようなものだったのでしょう。
里見忠義「せやな……。」
逆に信雄に気概があったら家康は滅んでいたと思います。
あの頃の秀吉には誰も敵わないでしょう。
しかし、毛利は西軍の総大将だったのに、自分の身内が裏切るやからね。
さおりさん、3年前と美貌は変わらないなあ!!
織田信雄は、無能だったかもしれないけど、5万石の大名に復活したし、関ヶ原の戦い後、30年も、生きたのだから、恵まれた人生だ!!
城の無断改築が原因のお家騒動ってよく聞く
てか幕府側からすれば得たりや応の大義名分になったんだろうな
家康に騙されたのだとも言う。
zahhatorute 騙されたもなにも改易された時にはもう家康公は没してる
御家騒動ではないような気が……意味が違うし
確かに間違えてた💦
正しくはお家存続の危機かな
福島正則は元々秀吉子飼いであった為、徳川幕府に因縁をつけられて改易されたと思っていましたが、実際は幕府への反抗的態度の積み重ねによってだったんですね
そう考えると徳川幕府が外様を次々と標的にして改易していったと言う定説も考え直す必要があるかも知れません
アララ~!!!今回もラッキー!!!さおりさん( 〃▽〃)
300~800年位経って 必ず報復している 現在の薩摩 長州が手本
家康の死後、もう一度関ヶ原はできなかったのが徳川家の運の良かったところでしょうか。家臣も戦争するには実戦経験無い人か少ないが多かったのではと思う。
家康が死ぬ頃にはもう徳川の世で定まってたからなぁ
加藤清正や福島正則はいつかは潰される運命だったな
あの二人を生かしていれば家康から見れば正直邪魔だからな
秀吉の縁者だったこのふたりが徳川で生き残れるはずがなかった。清正毒殺。正則流刑。
私が家康だっとしても、目の上のたんこぶに映るでしょう。
福島正則って減封だったのか、改易だと思ってた。
一度改易された後、関ヶ原の功労者ということで改めて捨て扶持を与えられたようです。
正則の息子が父の死後、遺体を幕府の役人による検死を待たずに火葬したのが問題になって、完全に改易されたらしいけどね。
狼牙 そこからは旗本になったらしいね、途中からは不明だけど
賤ヶ岳7本槍の無残な晩年。
改易ですね。
捨て扶持なので改易・御家断絶の扱いです。
ドナドナドーナー…
里見も取り上げて
長宗我部盛親は、 西軍に加担したため 改易だけではなく 命まで取られるところを、 井伊直政の 家康への 助命嘆願で、 監視付きという条件で 命だけは助かりました。
しかし、 その後、監視を掻い潜って 大阪城へ入場した為、 落城後に捕まった後は、残酷な処刑の仕方で 殺されています。
福島正則は❗旗本として生き残っている
時流を読み間違えたから仕方ないよ。
さおりさんは、なんかホリマに似てる💛
先日「一 命」 を観賞しましたよ。(/_;)/~~
福島正則の晩年は? 誰か教えて(ググったらぼける じじ1957
広島城の無断修理で信州高遠に流刑、ジ・エンド!
相方の加藤清正は死後息子が改易だっけ
@@zahhatorute 高遠じゃなくて川中島じゃね?高遠は保科氏がおるし
美人さんだ🎵
福島正則の嫡子・正之(養子)。しかし、福島正則に実の息子・忠勝が誕生後に、乱行・狂疾を理由に幽閉され餓死してしまう。その正之の正室・満天姫は徳川家康の養女。満天姫は、正之の死後に忠勝に嫁がされる。10歳以上の姉さん女房。そんな福島家に激怒した徳川によって、満天姫は離縁させられる。その後、満天姫は津軽信枚に嫁ぐ。津軽家では、それまでの正室・辰姫(石田三成の娘)を弘前藩の飛地・太田(群馬県)に移し側室に。そして、満天姫を正室に迎える。その後、城の改築を名目に福島正則は津軽・弘前4万5000石に減転封を、津軽信枚は川中島10万石に増転封を命じられる。が、津軽家はそのまま弘前に残り、福島家は川中島4万5000石に転封。 津軽家が弘前に残れたのは、満天姫の力によると言われます。 天下人の養女の扱いが、福島家と津軽家の差。
福島正則
ちょうすがめ?
堀北真希さんより、可愛い。
似てますね
家康はバカですね