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岩本牧師のお話は「初心者にも分かる神学」という感じでとてもためになります。岩本牧師の贖罪の説明を聞いていると「兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを思い出したら、神に捧げ物をする前にまずその兄弟と和解しなさい」という聖句が頭に浮かんできました。
いつも素晴らしい事を発見して頂いて有り難う御座います❤うちの教会は地上と霊界の存在があって、この地上は霊界に行って永遠の幸せの為にあるので、罪を反省しこの地上で脱いで、霊界で天国に行く為に毎日自分を戒めて生きて行くよう努力しています。霊界の存在を知らない、分からないから、罪を簡単に犯してしまうのだと思いました😢
ドラゴン牧師毎日ありがとうございます。深い内容だと思いました。キリスト教も、そして統一原理も同様だと思うのですが、メシアによる救済の前提として、罪に対する認識があります。だから、牧師はまずは罪について教えるという面があると思うのですが、それが先行してしまうと、「罪を楽しむ」という危険があるのかもしれません。それを松下氏が指摘していたとすれば、鋭い指摘だと思いました。罪を認識するからこそキリストの救いと神の愛を実感するのだと思いますが、神の愛を知るためにあえて罪を求めるのは、逆転してしまっているように思えます。ドラゴン牧師がおっしゃるように、罪を認めるなら、まず相手に対してつぐなうべきであって、それ無くして赦しの神を求めようというのは、順序が逆に思えます。神は許す権能を持っていて、それをキリストが行うのですが、罪に悩みながら、それを許しを得るために放置するなら、そこに神は関わることができないように思いました。難しいですね、考えさせられます。
信仰と心情が幼い時の家庭環境から影響されることを具体的な1人の人物を通して伝えてくださって、イエス様の十字架による贖罪に対しても単に罪を贖ってくださるのではなく、自分自身の深い心情に向き合う贖罪の意識を感じました。難しいなと思いながらお聞きしましたが、宗教性を持って解説していただくのはありがたいことです。
高倉徳太郎は母親だけでなく父親も憎んでいたと思います。その父親と同様、妻がいるにもかかわらず、若い女性を愛するようになったことは、多分高倉本人も耐え難い苦しみだったと思います。愛の試練を神とサタンがじっと見つめていたことを思うと胸が痛くなります。
ドラゴン牧師様、いつもありがとうございます。松下正寿先生の著書については、以前田村先生も紹介して下さいましたが、やはり牧師という立場から、田村先生とは違った観点からのお話で、とても深い内容でした。(田村先生が浅いという意味ではありません。)高倉徳太郎は知性や信仰に溢れた方でありながら、男女問題を超えられなかったのは、やはりサタンがこの部分をしっかりと握っていて、この一点を持って、お前は私の子だ、と言っているように思います。立派な方でも、男女問題、お金の問題、権力の問題で引っかかりますね。ですからキリスト教でも、質素倹約、謙遜、柔和を重んじる訳ですよね。そして家庭が大事、という事がよく分かるお話でした。完璧な人間はおりませんし、完璧な家庭はないかも知れませんが、神様の愛に立脚したより良い人、より良い家庭を目指して努力して行きたいな、と思わせて頂きました。
ありがとうございます。縦の罪と横の罪。なるほど。縦の罪は神に対する罪でこれが原罪ですね。それを赦してくださるのがイエス様。横の罪は簡単ではないですが、人間自身が解決しなければならない。神霊と真理によって自分を高めるのですね。完全な救いには両方必要なんだと感じました。単に十字架を信じているから救われる、とは言い切れない感じがします。
今回のお話しの内容は、ルーシェルとエバの話しを思い出しました。
話を伺って思う事ですが、キリスト教の罪感と家庭連合の罪感の温度差が、両者の摩擦の一原因だと思います。私は、キリスト教のイエスを信じれば救われる。この事の限界を強く感じます。なぜなら人間の努力は必要ないか?その摩擦がキリスト教と家庭連合の摩擦だと思います。深く、掘り下げると原罪の受け止め方。罪の根アダムとエバの淫乱による罪が人類の罪の根元である。と言い切れる所に、キリスト教の反発する思いがあるのでしょうね。大変難しい摩擦です。神様と人類が和解する時、大変ですがよろしくお願いします。
高倉氏と贖罪について、松下氏自身の身に起きたら、どのように考えるかの推察と考察でしょう。水平的横的贖罪も必要ですが、縦的霊的、歴史的な罪を私は感じます。愛し合うべき夫婦の愛を霊的に邪魔する存在。サタンの誘惑に負けた絶望感からの自殺かもしれません。自殺も重大な罪なのに。本人の言動、手記でしか真相は解りません。
親なる神と人間の心情を蹂躙することが罪。
岩本牧師のお話は「初心者にも分かる神学」という感じでとてもためになります。
岩本牧師の贖罪の説明を聞いていると「兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを思い出したら、神に捧げ物をする前にまずその兄弟と和解しなさい」という聖句が頭に浮かんできました。
いつも素晴らしい事を発見して頂いて有り難う御座います❤
うちの教会は地上と霊界の存在があって、この地上は霊界に行って永遠の幸せの為にあるので、罪を反省しこの地上で脱いで、霊界で天国に行く為に毎日自分を戒めて生きて行くよう努力しています。霊界の存在を知らない、分からないから、罪を簡単に犯してしまうのだと思いました😢
ドラゴン牧師
毎日ありがとうございます。
深い内容だと思いました。
キリスト教も、そして統一原理も同様だと思うのですが、メシアによる救済の前提として、罪に対する認識があります。だから、牧師はまずは罪について教えるという面があると思うのですが、それが先行してしまうと、「罪を楽しむ」という危険があるのかもしれません。それを松下氏が指摘していたとすれば、鋭い指摘だと思いました。
罪を認識するからこそキリストの救いと神の愛を実感するのだと思いますが、神の愛を知るためにあえて罪を求めるのは、逆転してしまっているように思えます。
ドラゴン牧師がおっしゃるように、罪を認めるなら、まず相手に対してつぐなうべきであって、それ無くして赦しの神を求めようというのは、順序が逆に思えます。
神は許す権能を持っていて、それをキリストが行うのですが、罪に悩みながら、それを許しを得るために放置するなら、そこに神は関わることができないように思いました。
難しいですね、考えさせられます。
信仰と心情が幼い時の家庭環境から影響されることを具体的な1人の人物を通して伝えてくださって、イエス様の十字架による贖罪に対しても単に罪を贖ってくださるのではなく、自分自身の深い心情に向き合う贖罪の意識を感じました。難しいなと思いながらお聞きしましたが、宗教性を持って解説していただくのはありがたいことです。
高倉徳太郎は母親だけでなく父親も憎んでいたと思います。その父親と同様、妻がいるにもかかわらず、若い女性を愛するようになったことは、多分高倉本人も耐え難い苦しみだったと思います。
愛の試練を神とサタンがじっと見つめていたことを思うと胸が痛くなります。
ドラゴン牧師様、いつもありがとうございます。
松下正寿先生の著書については、以前田村先生も紹介して下さいましたが、やはり牧師という立場から、田村先生とは違った観点からのお話で、とても深い内容でした。(田村先生が浅いという意味ではありません。)
高倉徳太郎は知性や信仰に溢れた方でありながら、男女問題を超えられなかったのは、やはりサタンがこの部分をしっかりと握っていて、この一点を持って、お前は私の子だ、と言っているように思います。立派な方でも、男女問題、お金の問題、権力の問題で引っかかりますね。ですからキリスト教でも、質素倹約、謙遜、柔和を重んじる訳ですよね。そして家庭が大事、という事がよく分かるお話でした。完璧な人間はおりませんし、完璧な家庭はないかも知れませんが、神様の愛に立脚したより良い人、より良い家庭を目指して努力して行きたいな、と思わせて頂きました。
ありがとうございます。縦の罪と横の罪。なるほど。縦の罪は神に対する罪でこれが原罪ですね。それを赦してくださるのがイエス様。横の罪は簡単ではないですが、人間自身が解決しなければならない。神霊と真理によって自分を高めるのですね。完全な救いには両方必要なんだと感じました。単に十字架を信じているから救われる、とは言い切れない感じがします。
今回のお話しの内容は、ルーシェルとエバの話しを思い出しました。
話を伺って思う事ですが、キリスト教の罪感と家庭連合の罪感の温度差が、両者の摩擦の一原因だと思います。私は、キリスト教のイエスを信じれば救われる。この事の限界を強く感じます。
なぜなら人間の努力は必要ないか?
その摩擦がキリスト教と家庭連合の摩擦だと思います。
深く、掘り下げると原罪の受け止め方。罪の根アダムとエバの淫乱による罪が人類の罪の根元である。と言い切れる所に、キリスト教の反発する思いがあるのでしょうね。
大変難しい摩擦です。
神様と人類が和解する時、大変ですがよろしくお願いします。
高倉氏と贖罪について、松下氏自身の身に起きたら、どのように考えるかの推察と考察でしょう。
水平的横的贖罪も必要ですが、縦的霊的、歴史的な罪を私は感じます。愛し合うべき夫婦の愛を霊的に邪魔する存在。サタンの誘惑に負けた絶望感からの自殺かもしれません。自殺も重大な罪なのに。本人の言動、手記でしか真相は解りません。
親なる神と人間の心情を蹂躙することが罪。