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ロココさん、こんにちは。こだわりの強さゆえに、合わない仕事を続けること自体にこだわってしまったことがあります。まるで他人の人生を生きているようです。ロココさんのように、少しずつでも自分を知り、自分取り戻していければと思います。
全く共感します。言語化ありがとうございます。みんなと同じ、やればできる、は結局は自分を苦しめますが、経験していくうちに自分を理解してきたわけです。
ASDとADHD混合の当事者です。少しずつでも自分が何者かを知っていかないと、いつまでも間違った環境を選び続けて、それがストレスとなり二次障害へと繋がりますので、自分を知るということは本当に大切なことですよね。
やるべき事が家にも職場にもあり、死ぬほど頑張ってたのはASD傾向だったのかも。共感するお話で自分の取り扱いに役立てています
天職とかっていいますね。仕事があなたを選ぶっていいますから。私は投資家が適職でしたね。チャリンチャリン増えてます。そのあとはひたすら自分の能力を信じて、高めるだけでした。ただ、肉体的な栄養失調とかはどうしようもなかったりしますね。ASDの特性の子たち。自己完結型の仕事はほんと良いみたいですね。TH-camr、投資家、文章校正、画家、陶芸家、書道家、弁護士、研究者。この文字列みて、あ!ってびびって来るものが天職だったりしますね。ま、生活保護も障がい年金もありますから。ゆるっとふわっといきましょ。幸せ第一。健康第一。僕は外資系の家族だったので、イエスノーはっきりした環境は最高でしたね。出来ることからコツコツと~。
"わたしが当たり前に思っていた、地球上の全ての人が、自分に不向きなこと=絶対に死んでもやりたくないこと、ではなかった"の部分、気にかかって何回も読み直しました。やっと腑に落ちて、あぁ、やっと自分の輪郭が見えてきた、これはストレスが数十倍は違う世界でしょうがないな、、、と!(感激😢
私も会社勤めが物凄く混沌としたものに感じられ、とても困難ですf(^_^;特に、チームプレーを要する職種は大抵は向こうから1ヶ月以内に切られます。今は、単独業務だからこそ何とか継続出来ています。
30代の息子が最近 ASDと診断されました。それに伴い勉強していたら自分に当てはまることがたくさんありました。うつ病で10年位通院していますが、異常に疲れるのは苦手なことを必死でやっていたのかと納得しました。
毎回思っているのですが本当に頭が良いですね!非常に分かり易くお伝えしてくれて凄いなって思ってます!お人柄も素敵です✨私も胃にポリープが出来ながら長年合わない仕事していました(人の評価が怖くて苦手なのに金融機関の窓口業務をしていました)
ありがとうございます。私も自分が理解できて無いです。50直前に診断が付いても、いまだに、掴みきれてない。特定疾患難病(難病も20過ぎて診断)の合併症で発達障がいだったり学習障がいが、あると知り。30過ぎから、薄々と自分は発達やわった気付いていました。仕事ではうまくいってたときもありましたが、だいたいしんどかったですね。今は、障害者枠で、事務員をしてます。それでも、まだまだ生きづらさや、働きにくさが、あります。自分の事は理解しきれてませんね😢生きるって、難しい😅
これはまた鋭い所を! 俺はASDで権威主義パーソナリティの親父と回避性依存性PDの母親の影響で承認不足から自己肯定感不足で敗北性PDになりアイデンティティ形成を放棄崩壊したとばかり思っていました。ASDは共感力が弱い→他人を理解し難い→自分をも理解しにくい→自分をどう育てれば良いか分からない。共感力が弱いと他人との心身の距離が遠く、教室や職場にいても一人で引きこもっているような状態で、それだけでエンドルフィン不足になり幸福感に満たされ難くなる上に、他人を鏡とすればその鏡が遠くぼんやりしている上に平面でなく歪んで見えるために自分の生き方の手本にしにくかったり自己理解の役に立てにくい。親父がASDだったり他の原因もあって(過去に書いたので略)一人よがりで独善的にならざるを得なかったため根性論しか振りかざせず、俺もその背中ばかり見させられたためにその論理が大嫌いでも他の発想をやはり40歳まで持てませんでした。環境と刺激に比べたら意思なんてゴミ同然だけど、それは自身で偶然や成り行きから肌で経験実感してみて初めて納得出来る事なので知識として知ってるだけではそれを活かせない。共感力が弱いと環境と刺激という外的要因に対しても心身の距離が遠いためにそれらを無意識に軽視してしまい相対的に自分の内側にある意思や思考の存在が大きくなり、自己評価や自己理解が独善的になり、自己を肯定するにしろ否定するにしろ極端になり易い。自他に自己責任論を振りかざしやすくもなると言えます。他国で非合法のセコい稼ぎをして暮らしていた時に、日本語がペラペラなアメリカ黒人と知り合いました。彼は日本で経営コンサルタント的な仕事をしていたらしくあらゆる物事に聡明でした。俺が今やってる違法で誰でも出来るようなくだらない仕事じゃなてくちゃんとした仕事をしたいと言うと、彼は「ちゃんとって何?」と返しました。それで俺は初めて、既に日本を出て長年経っていたにも関わらす、自分の価値観が未だに母国社会の価値観に呪縛され続けていて主体性を持ちきれていない事に、たったその一言で気付かされました。正社員だとか人に自慢できる学歴や資格を持っているとか結婚して子供がいて家と車を持っているとか、或いは仕事が社会の役に立っているかとか、俺はそれらを半分くらいしか否定出来ていなかったんです。また彼の質問はいかにも個人主義のアメリカ人らしい指摘です。欠点としては思想も行動も自由すぎる権利をフル活用しなきゃならないみたいな脅迫観念に疲弊させられる面があり、「自由からの逃走」という反動が生じ得ます。これがイスラム圏やインドならば日本以上に権威的な社会であり自他への理解や自己探求を否定すらし従順さを正義とするので「ちゃんと」は習慣に従う事になります。好き嫌いと得意苦手は混同しやすいですね。俺は食べ物の話で嫌いなものを上品に苦手と表現する風潮が嫌いです。体質的に受け付けないのか、単に嗜好に合わないのかが自他に誤魔化されてしまい、誤魔化した分だけ理解が進まなくなるからです。嫌いなもんは自他に対して素直に嫌いと言えば良い、それを自身も他人も受け止めて認めれば良い。それが出来ないのは万能であろうとする自分と、強い事を求める他人のエゴです。俺は好き嫌いはありますが苦手な食べものは世界に一つもありません。イナゴでも犬でも山羊の脳みそでもくさやでも一年毎日食べられるし、好物を3年断たれても耐えられます。麻婆豆腐は下痢し易いので体質的には苦手ではあるけれど味は決して苦手でも嫌いでもありません。下痢していつでもトイレに行って良いならこれも一年毎日食べても構いません。仕事、趣味、五感嗜好や政治経済宗教の思想でも全て同じです。得意と好き、苦手と嫌いは違う。苦手な事でも好きであり続けるならば趣味にすれば良いし、嫌いでも得意ならば仕事にすべき事に。今の俺は得意な事は全て嫌いになり過ぎているのと、好きな事は苦手であり仕事に出来るレベルのものは何一つ無いので結果的に無職です。これも幼少期からアイデンティティ形成を自他から放棄させられてきた結果です。
ロココさんは客観性の乏しさを自身のASDも含めて自身に求めていますが、これを見た人は動画をそのまま受け売り的に取り入れるのではなく、原因を他人にも求めるべきだとも思います。たまたまこの動画では自身を客観視する事に特化していますが、他国生まれ他国育ちだとか他国暮らしが10年以上あるとかでない限りは、それと同時に客もよく見るべきです。客とは日本社会です。これも度々書いてますがエマニュエルトッドの言う権威主義直系家族社会は継続崇拝社会なので極端に言えばASD的国家です。こだわりが強いから国民当たり特許取得率が世界トップクラスにある。でも大局観が無いからその技術力を金銭や幸福感に換えるのが下手だし大戦でも孤立して負けた。日本が二次大戦に参加したのはちょうどドイツの勢いが上昇から停滞に入った日(ソ連の抵抗が激しくなって戦線膠着し始めた日)とほとんど同じでした。流行は作る人・最初に飛びついて広めるミーハーな人・世間に流される人、廃れた頃に手を出す人・終始無関心な人に分かれますが、日本は社会権威性が技術力には長けさせていても流行なり時勢の把握力は凡人レベルで流されるタイプだったのです。失われた30年もその硬直は継続(愚直な根性論)という大義名分で現状維持を肯定するのが大好きな国民性である事が影響しています。持ってる物を手放せない、他人が持ってる物は酸っぱい葡萄の如く排外的に拒絶する。経済停滞しているのは政府の誰々のせいだとかのミクロな話ではなくて、その政府も一体どこの国のたち人なんだという話です。あちこちで書いているのですが1945年にアメリカで汝の敵を知れと言う反日プロパガンダ映画が作られました。youtube上でもその20分の動画を見られます。それを見た数百数千の日本人たちは「なんだ当時の日本の様子が淡々と紹介されてるだけでどこにも悪意なんか無いじゃないか」「こんな貴重な資料を残してくれてアメリカありがとう」的なコメ一色です。しかしそこには一人のアメリカ人とおぼしき英語母語話者によって英語で「プロパガンダとはプロパガンダだと気付かれないようにやるものだ」と書かれていました。その映画の原題はknow your enemy japanで全編1時間の映画です。冒頭から露骨に日本を批判するとアメリカ国民がそれをプロパガンダだと理解して戦争に強力しなくなってしまうので、初めの20分は作為を故意に込めず日本の風俗をただ紹介して見せ、中盤では日本批判をし始め、最後には日本を嫌いになるように構成した映画であり、誰かが冒頭の20分だけを日本礼賛的あるいはアメリカの加害要素を赦すつもりで善意として、或いは日本社会に対し「どうせお前らこの切り取り方の作為に気付けないだろ」と嘲笑する愚民化政策みたいな悪意によって、それでも無いなら視聴者がどのくらいまんまと騙されるかの社会実験の場として、切り取って見せているのです。これももし大勢の日本人視聴者が、例え鈍くて動画の裏には直接は付けなかったとしても、異言語や外集団に関心が強ければその英語忠告を皆で読み、なーんだ本来1時間の映画じゃんと気付いた筈なのです。外集団に関心が乏しいのはやはり意識が個人でも集団でも内に向きすぎており、外の事には鈍感な証拠なんです。日韓どちらも権威主義直系家族社会だけどその国民性は独自文字を持ち且つ公用語がそれ一つである国民国家度の強さ事にも表れています。鎖国も江戸幕府都合だとか島国だからなんて事より排外的な国民性が根底にあるのです。そして250年の鎖国のツケは90年かかっても取り返せず原爆という形で払う事になり、更に80年経っても国民は自国引きこもり体質であるために大局観が無くて「アメリカよ日本の昔の様子を記録してくれてて有難う」とか言ってるんです。近い将来また同じ失敗を繰り返すとしか思えません。移民に対しても盲目的に毛嫌いしてばかりで、現実的に具体的にどう付き合うべきかの討論にまで至りません。そしてそういう社会の中では個人もASDでなかろうが自力では客観性なんて持てなくて当然なんです。客観性を持たない事が良しとされているためにASDはその自分の視野の狭さを肯定もしやすくなります。ではなぜ客観性を持つのを悪と見做す社会になったのかというと、親や先生や村長などの地域有力者や幕府などの権威者にとって、目下の者が自分を客観性を添えて論理的に批判されなくて済んだ方が得だし、目下を自分の私物として手元に置いておき好きなように勝つ都合や効率良く活かすために、能力を高めさせつつその能力を自分以外の者のためには使わせたくなかったからなんです。分かりやすく具体的に言えば親が長男に家業を強制的に継がせる習慣です。子供を遠くに行かせない、家業だけでなく家系も効率良く維持するために遺産も子供たちに平等に分配するのではなく跡継ぎに指名した者だけに集中投下し、拡大はしなくても長く保たれるようにする。一千万円ある資産を5人の子に200万円ずつ分配する社会は平等志向且つ拡大志向であり、1人に全部あげて他の4人にはゼロな社会は不平等且つ継続志向です。日本は当然後者です。生物の本能は生存と繁殖ですが、繁殖は多くの場合は生存が安泰になった上で着手されます。繁殖が困難だと生存にウェイトが置かれます。それは個人でも集団でも同じで、集団の生き残りが苦しい状況になると外への攻めの拡大よりも、内への守りの意識が強くなり、その一形態として継続つまり少数精鋭型になります。研究予算が足りないと言われれば東大だけ残してFランは潰せなんて不効率な世論になってしまうのもそれです。本当は東大大学院から知的障碍者まで満遍なく再分配した方が国全体を富ませるトータル効率が良いのにも関わらずです。有力者が自分の生存のために内集団の一部を切り捨てるのもやはり共感力が乏しいからです。これも個人で言えば自分の能力や意識の一部だけを優先していて精神や嗜好のバランスが悪いためにトータルでは幸福感乏しくなってしまうのと同じです。自分はこの分野でだけは誰にも負けないぜっていう、他人や社会を中途半端に意識した自己肯定感を維持するために、或いは自分の価値観のバランスの悪さや好き嫌いの激しさを独善的に肯定するために、自分の中で自分が関心が乏しかったり価値を置かない部分を自ら虐待してしまうのです。また俺は軍国主義者でもナショナリストでもありません。むしろナショナリズムが大嫌いです。それにも恐らくASDが影響していて、隣人には人並み以上に共感しないために相対的に縁遠い人への感情移入度が高いのかもしれません。世界地図を広げればほとんどの人は無意識に自国に目が行くでしょうが俺は自国を含むどの特定集団にもあんまり感情移入したくないしするのは悪くらいに思ってるので、意識が全ての地域に万遍無く行き渡り、自国への意識は相対的に弱まります。毎年8月になる度に日本はこうすれば勝てたとか空襲や原爆の被害者がどうのこうのの話ばかりされるのが大嫌いです。植民地だて空襲されたしその犠牲者は日本からの移民よりも現地人の方が圧倒的に多い、てもそれを国家もテレビもネット住人も誰もろくに語らない。この理由の一つにも視野が狭く大局観が乏しい国民性である事が影響しています。
客観視についてですが、ASDはそもそも定型発達の人と違う言語感覚を持っていると思われるので、客観視=定型発達の文化背景で、定型発達の言語で、定型発達の言語の定義や認識、使い方で(定型発達に合わせて)言語を紡ぎ出さねばならない(ことになっている)ため、難しいのは無理のないことではないかな、と最近思っています。もし定型発達の人たちが逆の立場だったら(ASDの視点や言語で言葉にするとしたら)、同じように難しいのではないかと思うのですが、皆さんはどう思うかな。要は一般に言われる〝客観視〟の定義が狭いのではないかなと。
私は昔、世の中の人はみんな好きなことを仕事にしていると、思い込んでいました。確かに、好きか嫌いかでしか判断できなかったので、好きなことを仕事にしている人は一部と知った時は、衝撃しかなかったです。でも、やらないと分からないこともあるので、パティシエの経験は無駄じゃないと思います!私も、子どもの頃はパティシエになりたかったです笑
発達障がいのハの字も知らなかった私も自分の苦手な分野でずっと周りと違和感を感じながら転職を繰り返していました。
お部屋がとても、お綺麗ですね😊観葉植物を置いたり、壁紙も白。シンプルかつ綺麗です。視覚優先の私にはピッタリ理想のお部屋です😊失礼しましたm(_ _)m
ロココさん、こんにちは。こだわりの強さゆえに、合わない仕事を続けること自体にこだわってしまったことがあります。まるで他人の人生を生きているようです。ロココさんのように、少しずつでも自分を知り、自分取り戻していければと思います。
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そのあとはひたすら自分の能力を信じて、高めるだけでした。ただ、肉体的な栄養失調とかはどうしようもなかったりしますね。ASDの特性の子たち。
自己完結型の仕事はほんと良いみたいですね。TH-camr、投資家、文章校正、画家、陶芸家、書道家、弁護士、研究者。この文字列みて、あ!ってびびって来るものが天職だったりしますね。ま、生活保護も障がい年金もありますから。ゆるっとふわっといきましょ。幸せ第一。健康第一。
僕は外資系の家族だったので、イエスノーはっきりした環境は最高でしたね。出来ることからコツコツと~。
"わたしが当たり前に思っていた、地球上の全ての人が、自分に不向きなこと=絶対に死んでもやりたくないこと、ではなかった"の部分、気にかかって何回も読み直しました。やっと腑に落ちて、あぁ、やっと自分の輪郭が見えてきた、これはストレスが数十倍は違う世界でしょうがないな、、、と!(感激😢
私も会社勤めが物凄く混沌としたものに感じられ、とても困難ですf(^_^;
特に、チームプレーを要する職種は大抵は向こうから1ヶ月以内に切られます。
今は、単独業務だからこそ何とか継続出来ています。
30代の息子が最近 ASDと診断されました。
それに伴い勉強していたら自分に当てはまることがたくさんありました。うつ病で10年位通院していますが、異常に疲れるのは苦手なことを必死でやっていたのかと納得しました。
毎回思っているのですが本当に頭が良いですね!非常に分かり易くお伝えしてくれて凄いなって思ってます!お人柄も素敵です✨私も胃にポリープが出来ながら長年合わない仕事していました(人の評価が怖くて苦手なのに金融機関の窓口業務をしていました)
ありがとうございます。
私も自分が理解できて無いです。
50直前に診断が付いても、いまだに、掴みきれてない。
特定疾患難病(難病も20過ぎて診断)の合併症で発達障がいだったり学習障がいが、あると知り。30過ぎから、薄々と自分は発達やわった気付いていました。
仕事ではうまくいってたときもありましたが、だいたいしんどかったですね。
今は、障害者枠で、事務員をしてます。
それでも、まだまだ生きづらさや、働きにくさが、あります。自分の事は理解しきれてませんね😢
生きるって、難しい😅
これはまた鋭い所を! 俺はASDで権威主義パーソナリティの親父と回避性依存性PDの母親の影響で承認不足から自己肯定感不足で敗北性PDになりアイデンティティ形成を放棄崩壊したとばかり思っていました。ASDは共感力が弱い→他人を理解し難い→自分をも理解しにくい→自分をどう育てれば良いか分からない。共感力が弱いと他人との心身の距離が遠く、教室や職場にいても一人で引きこもっているような状態で、それだけでエンドルフィン不足になり幸福感に満たされ難くなる上に、他人を鏡とすればその鏡が遠くぼんやりしている上に平面でなく歪んで見えるために自分の生き方の手本にしにくかったり自己理解の役に立てにくい。親父がASDだったり他の原因もあって(過去に書いたので略)一人よがりで独善的にならざるを得なかったため根性論しか振りかざせず、俺もその背中ばかり見させられたためにその論理が大嫌いでも他の発想をやはり40歳まで持てませんでした。環境と刺激に比べたら意思なんてゴミ同然だけど、それは自身で偶然や成り行きから肌で経験実感してみて初めて納得出来る事なので知識として知ってるだけではそれを活かせない。共感力が弱いと環境と刺激という外的要因に対しても心身の距離が遠いためにそれらを無意識に軽視してしまい相対的に自分の内側にある意思や思考の存在が大きくなり、自己評価や自己理解が独善的になり、自己を肯定するにしろ否定するにしろ極端になり易い。自他に自己責任論を振りかざしやすくもなると言えます。
他国で非合法のセコい稼ぎをして暮らしていた時に、日本語がペラペラなアメリカ黒人と知り合いました。彼は日本で経営コンサルタント的な仕事をしていたらしくあらゆる物事に聡明でした。俺が今やってる違法で誰でも出来るようなくだらない仕事じゃなてくちゃんとした仕事をしたいと言うと、彼は「ちゃんとって何?」と返しました。それで俺は初めて、既に日本を出て長年経っていたにも関わらす、自分の価値観が未だに母国社会の価値観に呪縛され続けていて主体性を持ちきれていない事に、たったその一言で気付かされました。正社員だとか人に自慢できる学歴や資格を持っているとか結婚して子供がいて家と車を持っているとか、或いは仕事が社会の役に立っているかとか、俺はそれらを半分くらいしか否定出来ていなかったんです。また彼の質問はいかにも個人主義のアメリカ人らしい指摘です。欠点としては思想も行動も自由すぎる権利をフル活用しなきゃならないみたいな脅迫観念に疲弊させられる面があり、「自由からの逃走」という反動が生じ得ます。これがイスラム圏やインドならば日本以上に権威的な社会であり自他への理解や自己探求を否定すらし従順さを正義とするので「ちゃんと」は習慣に従う事になります。
好き嫌いと得意苦手は混同しやすいですね。俺は食べ物の話で嫌いなものを上品に苦手と表現する風潮が嫌いです。体質的に受け付けないのか、単に嗜好に合わないのかが自他に誤魔化されてしまい、誤魔化した分だけ理解が進まなくなるからです。嫌いなもんは自他に対して素直に嫌いと言えば良い、それを自身も他人も受け止めて認めれば良い。それが出来ないのは万能であろうとする自分と、強い事を求める他人のエゴです。俺は好き嫌いはありますが苦手な食べものは世界に一つもありません。イナゴでも犬でも山羊の脳みそでもくさやでも一年毎日食べられるし、好物を3年断たれても耐えられます。麻婆豆腐は下痢し易いので体質的には苦手ではあるけれど味は決して苦手でも嫌いでもありません。下痢していつでもトイレに行って良いならこれも一年毎日食べても構いません。仕事、趣味、五感嗜好や政治経済宗教の思想でも全て同じです。得意と好き、苦手と嫌いは違う。苦手な事でも好きであり続けるならば趣味にすれば良いし、嫌いでも得意ならば仕事にすべき事に。今の俺は得意な事は全て嫌いになり過ぎているのと、好きな事は苦手であり仕事に出来るレベルのものは何一つ無いので結果的に無職です。これも幼少期からアイデンティティ形成を自他から放棄させられてきた結果です。
ロココさんは客観性の乏しさを自身のASDも含めて自身に求めていますが、これを見た人は動画をそのまま受け売り的に取り入れるのではなく、原因を他人にも求めるべきだとも思います。たまたまこの動画では自身を客観視する事に特化していますが、他国生まれ他国育ちだとか他国暮らしが10年以上あるとかでない限りは、それと同時に客もよく見るべきです。客とは日本社会です。これも度々書いてますがエマニュエルトッドの言う権威主義直系家族社会は継続崇拝社会なので極端に言えばASD的国家です。こだわりが強いから国民当たり特許取得率が世界トップクラスにある。でも大局観が無いからその技術力を金銭や幸福感に換えるのが下手だし大戦でも孤立して負けた。日本が二次大戦に参加したのはちょうどドイツの勢いが上昇から停滞に入った日(ソ連の抵抗が激しくなって戦線膠着し始めた日)とほとんど同じでした。流行は作る人・最初に飛びついて広めるミーハーな人・世間に流される人、廃れた頃に手を出す人・終始無関心な人に分かれますが、日本は社会権威性が技術力には長けさせていても流行なり時勢の把握力は凡人レベルで流されるタイプだったのです。失われた30年もその硬直は継続(愚直な根性論)という大義名分で現状維持を肯定するのが大好きな国民性である事が影響しています。持ってる物を手放せない、他人が持ってる物は酸っぱい葡萄の如く排外的に拒絶する。経済停滞しているのは政府の誰々のせいだとかのミクロな話ではなくて、その政府も一体どこの国のたち人なんだという話です。
あちこちで書いているのですが1945年にアメリカで汝の敵を知れと言う反日プロパガンダ映画が作られました。youtube上でもその20分の動画を見られます。それを見た数百数千の日本人たちは「なんだ当時の日本の様子が淡々と紹介されてるだけでどこにも悪意なんか無いじゃないか」「こんな貴重な資料を残してくれてアメリカありがとう」的なコメ一色です。しかしそこには一人のアメリカ人とおぼしき英語母語話者によって英語で「プロパガンダとはプロパガンダだと気付かれないようにやるものだ」と書かれていました。その映画の原題はknow your enemy japanで全編1時間の映画です。冒頭から露骨に日本を批判するとアメリカ国民がそれをプロパガンダだと理解して戦争に強力しなくなってしまうので、初めの20分は作為を故意に込めず日本の風俗をただ紹介して見せ、中盤では日本批判をし始め、最後には日本を嫌いになるように構成した映画であり、誰かが冒頭の20分だけを日本礼賛的あるいはアメリカの加害要素を赦すつもりで善意として、或いは日本社会に対し「どうせお前らこの切り取り方の作為に気付けないだろ」と嘲笑する愚民化政策みたいな悪意によって、それでも無いなら視聴者がどのくらいまんまと騙されるかの社会実験の場として、切り取って見せているのです。これももし大勢の日本人視聴者が、例え鈍くて動画の裏には直接は付けなかったとしても、異言語や外集団に関心が強ければその英語忠告を皆で読み、なーんだ本来1時間の映画じゃんと気付いた筈なのです。外集団に関心が乏しいのはやはり意識が個人でも集団でも内に向きすぎており、外の事には鈍感な証拠なんです。日韓どちらも権威主義直系家族社会だけどその国民性は独自文字を持ち且つ公用語がそれ一つである国民国家度の強さ事にも表れています。鎖国も江戸幕府都合だとか島国だからなんて事より排外的な国民性が根底にあるのです。そして250年の鎖国のツケは90年かかっても取り返せず原爆という形で払う事になり、更に80年経っても国民は自国引きこもり体質であるために大局観が無くて「アメリカよ日本の昔の様子を記録してくれてて有難う」とか言ってるんです。近い将来また同じ失敗を繰り返すとしか思えません。移民に対しても盲目的に毛嫌いしてばかりで、現実的に具体的にどう付き合うべきかの討論にまで至りません。そしてそういう社会の中では個人もASDでなかろうが自力では客観性なんて持てなくて当然なんです。客観性を持たない事が良しとされているためにASDはその自分の視野の狭さを肯定もしやすくなります。ではなぜ客観性を持つのを悪と見做す社会になったのかというと、親や先生や村長などの地域有力者や幕府などの権威者にとって、目下の者が自分を客観性を添えて論理的に批判されなくて済んだ方が得だし、目下を自分の私物として手元に置いておき好きなように勝つ都合や効率良く活かすために、能力を高めさせつつその能力を自分以外の者のためには使わせたくなかったからなんです。分かりやすく具体的に言えば親が長男に家業を強制的に継がせる習慣です。子供を遠くに行かせない、家業だけでなく家系も効率良く維持するために遺産も子供たちに平等に分配するのではなく跡継ぎに指名した者だけに集中投下し、拡大はしなくても長く保たれるようにする。一千万円ある資産を5人の子に200万円ずつ分配する社会は平等志向且つ拡大志向であり、1人に全部あげて他の4人にはゼロな社会は不平等且つ継続志向です。日本は当然後者です。生物の本能は生存と繁殖ですが、繁殖は多くの場合は生存が安泰になった上で着手されます。繁殖が困難だと生存にウェイトが置かれます。それは個人でも集団でも同じで、集団の生き残りが苦しい状況になると外への攻めの拡大よりも、内への守りの意識が強くなり、その一形態として継続つまり少数精鋭型になります。研究予算が足りないと言われれば東大だけ残してFランは潰せなんて不効率な世論になってしまうのもそれです。本当は東大大学院から知的障碍者まで満遍なく再分配した方が国全体を富ませるトータル効率が良いのにも関わらずです。有力者が自分の生存のために内集団の一部を切り捨てるのもやはり共感力が乏しいからです。これも個人で言えば自分の能力や意識の一部だけを優先していて精神や嗜好のバランスが悪いためにトータルでは幸福感乏しくなってしまうのと同じです。自分はこの分野でだけは誰にも負けないぜっていう、他人や社会を中途半端に意識した自己肯定感を維持するために、或いは自分の価値観のバランスの悪さや好き嫌いの激しさを独善的に肯定するために、自分の中で自分が関心が乏しかったり価値を置かない部分を自ら虐待してしまうのです。
また俺は軍国主義者でもナショナリストでもありません。むしろナショナリズムが大嫌いです。それにも恐らくASDが影響していて、隣人には人並み以上に共感しないために相対的に縁遠い人への感情移入度が高いのかもしれません。世界地図を広げればほとんどの人は無意識に自国に目が行くでしょうが俺は自国を含むどの特定集団にもあんまり感情移入したくないしするのは悪くらいに思ってるので、意識が全ての地域に万遍無く行き渡り、自国への意識は相対的に弱まります。毎年8月になる度に日本はこうすれば勝てたとか空襲や原爆の被害者がどうのこうのの話ばかりされるのが大嫌いです。植民地だて空襲されたしその犠牲者は日本からの移民よりも現地人の方が圧倒的に多い、てもそれを国家もテレビもネット住人も誰もろくに語らない。この理由の一つにも視野が狭く大局観が乏しい国民性である事が影響しています。
客観視についてですが、ASDはそもそも定型発達の人と違う言語感覚を持っていると思われるので、客観視=定型発達の文化背景で、定型発達の言語で、定型発達の言語の定義や認識、使い方で(定型発達に合わせて)言語を紡ぎ出さねばならない(ことになっている)ため、難しいのは無理のないことではないかな、と最近思っています。もし定型発達の人たちが逆の立場だったら(ASDの視点や言語で言葉にするとしたら)、同じように難しいのではないかと思うのですが、皆さんはどう思うかな。要は一般に言われる〝客観視〟の定義が狭いのではないかなと。
私は昔、世の中の人はみんな好きなことを仕事にしていると、思い込んでいました。確かに、好きか嫌いかでしか判断できなかったので、好きなことを仕事にしている人は一部と知った時は、衝撃しかなかったです。でも、やらないと分からないこともあるので、パティシエの経験は無駄じゃないと思います!私も、子どもの頃はパティシエになりたかったです笑
発達障がいのハの字も知らなかった私も自分の苦手な分野でずっと周りと違和感を感じながら転職を繰り返していました。
お部屋がとても、お綺麗ですね😊観葉植物を置いたり、壁紙も白。シンプルかつ綺麗です。視覚優先の私にはピッタリ理想のお部屋です😊失礼しましたm(_ _)m