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この曲、小学生か中学生になりたてのころでしたか?小遣いためてレコード買いました。いまでいうジャケット買い。どんな曲なのか、それどころか名前すら知らない曲なのに、寒々とした写真に惹かれて買いました。じっさいに聞いて、それまで聴いたどの曲よりも強い印象を持ちました。子供なりに将来に対する漠然とした不安もあって余計に共感したのだと思います。何回も何回も、それこそ細かいところまで暗記するくらい聴きました。そんな、わたしにとって思い出深い曲への車田先生の解説、とてもすんなり心に入りました。余談ですが、70歳になった今年初めて、生まれ故郷の市にある市民オケの団員としてこの曲の演奏に参加しました。子供のころ夢中になった曲を約60年後になって生まれ育った町で演奏する、しかもオケ団員としての初舞台の曲・・・・この曲との不思議な縁を感じます。
こんにちは。ジャケ買いはロックやポップスだけかと思っていました。しかしご自身のエピソードに胸打たれるものがあり、ついつい書いてしまい。失礼致しました。お互い今後とも良い音楽人生を。
@@桃田牢 さま、読んでくださってありがとうございます。この曲、いちばん印象に残ったのは、暗ーい雰囲気で始まって、途中美しい旋律やら、なんだかよくわからないけどむちゃくちゃハイテンションの場面とかもあって、最後は始めよりもーっと暗ーーーーーい雰囲気で閉じる。まるで僕のこれからの人生を暗示しているかのよう・・・・そんなことを子供心に思ってしまう「おませな」坊やでした。でも、ある意味じぶんに生きる力を与えてくれた曲のような気もしています。お互い今後とも良い音楽人生・・・同感です。ぜひ!
私が大学2年のころ、大学オーケストラの定演でこの悲愴を演奏しました。この悲愴を演奏している本番で「こんな音楽はオーケストラでなければできない」と心底思いましたね。感傷的で胸に刺さる名曲だと思います。
今は亡き兄にこの曲を聴かせてもらった時、雷に打たれたような感覚を感じました。特に一楽章の魂を揺さぶるような音の連続にクラシック音楽の凄まじい力を感じたものです。そして四楽章の鼓動が止まり人生の幕を閉じるような終わり方に深い悲しみを感じました。忘れもしないムラヴィンスキー✕レニングラード・フィルの演奏でした。もしかして、動画中で使用されている音源もムラヴィンスキー✕レニングラード・フィルでしょうか?悲愴は大好きで様々な演奏を聴きましたが、ムラヴィンスキー✕レニングラード・フィルは特定の場所で鳥肌が立ちます。今はもうアマオケには乗っていませんが、私の最後のアマオケの本番でこの曲を演奏できたことは本当に幸せな経験でした。
昭和50年初頭、ムラヴィンスキー×レニングラードフィルで悲愴を聴きに行きました。日本全国地方巡業していただき、私を含め当時の日本の地方在住の若者にもムラヴィンスキーのファンをたくさん作りました。みんな彼やこのオケに親近感を感じたものでした。
「コレラ死亡説」については、彼の死後に一般人にまで遺体を公開し、触れ合える状態であったこと(当時は死後の接触でも感染する死病とされていた)について疑問が持たれていますね。個人的な感想ですが、この交響曲全体のイメージは基本テンポを含めて「終楽章をどう演奏するか」によってかなり左右されてくるように感じます。オケでの定演でこの曲を演奏されたある指揮者の方とお話させて頂いた時、「この曲をあまりに『悲劇的と捉えること』には疑問がある」と仰っていました。曰く「ここで示されているのは「哀しみ」よりも「情熱」である」と。
昔、ソ連から、ロシアになってからのチャイコフスキーのドキュメンタリーをテレビで見たことがありますが、たくさんチャイコフスキーに関する資料が公開され、非常に興味深く、拝見いたしました。悲愴については、この頃の末期のロシア帝国の影響があるのではないかということでした。とくに、最終楽章の悲愴感は、チャイコフスキーでなければ、かけないのではないかと思いますね。演奏では、ムラビンスキー指揮のレニングラードフィル、が圧巻だと思います。お菓子、美味しそうですね。
なんとも言えない暗い終わり方をするので、いつも聴くには重すぎます。それでもときどきどうしても聴きたい衝動に駆られます。一度聴き始めると曲に引き込まれて時には涙をこらえながら聴いています。時折でてくる美しいメロディも素敵ですし、最終楽章の最後の音が消えるまで身動きできないくらいです。数多のクラシック音楽のなかでも大大大好きな曲です。
先ほど、岐阜大オケで悲愴のライブを味わってきました。とても感動的な演奏で、聴きに行って本当によかったです。ホールで実際に聴くとCDでは得られなかった、この作品の姿が体感できました。何よりまずとても前衛的なところ。終楽章をアダージョにしたのみならず、3楽章にクライマックスを置きながらも、もう一度終楽章で盛り上がりもつけ静かに終わる完璧な構成。さらに当時の作曲家の技をすべて研究したかのような、テクスチュア。(ブルックナー・ワーグナー・サンサーンスなど、後のペルトのようなオスティナート)それに忘れられなかったのでしょう、イタリアの太陽のような長調の部分。1楽章の再現部直前(再現部かな?)の破壊的なトゥッティなんかはそこだけ針飛びレコードのようにくり返し流したら現代音楽のよう。第5番で運命と循環形式を修めたチャイコフスキーは6番で新たなスタートをしたかったのではと私は思ってしまいました。
16:51 悲愴を初めて聞くとマジでほぼ確実にフライング拍手ポイントに騙されるから、曲の途中なのに自分だけ拍手して他に誰も拍手してない現象が起きて、音楽的にはいいかもしれないけど周りからなんだコイツ的な視点を向けられて圧倒的やってしまった感があるからコンサート行く前に予習しておいた方がいい、予習無しではマジでフライング拍手不可避
でも、やってしまったあと絶望しても、ちょうど直後にそれに寄り添った音楽が展開されるからちょうどいいかもしれんww
悲愴を初めて聞いたのは、20代前半でした、その頃、私の好みは上昇機運を予感する様な曲、希望に満ちた曲、勇気付けられるような曲でした。世の中はバブル前期で給料は毎年20%以上アップ、社員は大量に採用され、希望にあふれた社会人としてスタートしていました。そんな心境で聴いた「悲愴」は悲しすぎる、深くて暗い闇に落ちて行くような気分になり、今の自分には合わないという感想でした。それっきり40歳ぐらいまでチャイコは聴きませんでした。中年になると人生経験が豊かになり、やっとチャイコフスキーが聞こえてくるようになり。今は大好きな作曲家の一人です。
私はこの第6番が大好きです。このような解説をいただいてとてもわかりやすくなりました。チャイコフスキーの人生そのものを表現されているような気がしました。とても痛ましい曲ですね。
素晴らしい解説をありがとうございます。この曲も様々な演奏を聞きましたが、印象的なのはグラモフォンのバーンスタイン&NYPで第4楽章が17分もある演奏です。凄いなぁと思って聞きましたが、我が子を失ったような激しい慟哭のように思いました。しかしやはりムラビンスキーのように自分の人生を悔恨してるような演奏に回帰しています。演奏行為の不思議さが良くわかる両演奏でした。
いつもながら説得力のある見事な解説を、ありがとうございます。音量やテンポ、曲調の変化、感情の起伏が非常に激しい名曲ですね。とても心を打たれるメロディも極めて印象的。涙なしにはとても聴けない名曲です…。
この曲でクラシックに興味を持ち始めました、マルティノンのLPを何度も聴いていました。しばらくして、吹奏楽部の弟がムラヴィンスキーのものを得意げに鳴らし始めました。
私が初めて知ったクラシック曲であり、1番好きな曲…!♡いつ聴いても美しくて、切ない気持ちになる…!
「悲愴」という訳語について、チャイコフスキーが名付けた"Pathétique"のニュアンスを汲みきれていないのではという批判がありますね。"Pathétique"はラテン語の"pathos"に由来しているため、情熱などの意味合いを含んでいると。第一楽章においてロシア聖歌の引用が多々みられるというのは非常に面白かったです。最後のコラール風の旋律については、私も何からの引用なのか分かりませんが…。それと、チャイコフスキーが同性愛者であったことは彼の人生において重要な要素だったとは思いますし、それが多少なりとも作品に影響を与えているとは思います。しかし、この作品から感じられる悲しさは、彼を取り巻く現実の苦しさから来たものというより、彼の実存的な(人間にとって普遍的な)苦しみが発露されたもののように思います。最有力の死因のコレラ説についても、お酒の席で友人から止められたにも関わらず生水を飲んだことが原因と考えられているものですから、自殺とまでは言えなくとも、かなりそれに近いものだったように思います。
深い、深い、深いーーー解説!!!ーーーうううーーーーん。此の一曲で、ヒトの人生の全てを、語るかーーーもう、音楽家を超ええるな!‐-このチャネル、続けて頂けると嬉しい!やっぱ、音楽は素晴らしいなあ!
こんなに絶望的な曲はなかなか無いですよね。第3楽章は個人的には成功というよりは狂気を感じます。テンポが速い演奏ほど狂ってる感じが強いですね。第4楽章の第2主題の裏で鳴ってるホルンのシンコペーションがたまらなく好きです、こんなに絶望的なのに😂
深い内容を素人にも分かりやすく解説してくださり、ありがとうございました。高校時代、学校の映画鑑賞会での映画を思い出しました。是非ともコンサートホールで聴きたい。。。
チャイコフスキー 後期交響曲の一つ 第6番『悲愴』調性がロ短調 で重々しい暗さが特徴で正に曲全体になしています。楽器の使い方にも特徴的で第1楽章冒頭のファゴット そのあともppppppで指示されてますがここではバスクラリネットが代わって吹く所や第4楽章の冒頭は第1 第2ヴァイオリンが交互に弾くことによる音響効果等チャイコフスキーの真骨頂と呼ばれる交響曲 ですね。
第3楽章は、大太鼓とずれているシンバルや、素早い上下行の音階などから、「躁鬱病の躁状態」や「自分自身を制御できなくなった狂気」を感じました。申し上げるまでもなく、感じ方は人それぞれだと思います。
中学時代に自伝映画を見ました。後にN響アワーである指揮者がこの曲は同性愛の苦悩を現している、と解説していましたが、当時は深い😊意味がわかりませんで今、聴くと分かる気がします。
毎回深い洞察で本当に感銘を受けます。
第一楽章に静かな場面からいきなりドッカーンと大きな音がして心臓が止まりそうになったよ。
この曲は、タイトルが悲愴とあるように、暗い印象を与える曲で曲全体を表すかと思いきや、ここまでの第三楽章には、勇ましい程の、感情が顕わにされています。そして、終楽章には、より深く悲愴感が漂います。話しは変わって、この作曲家は、ある日。死のうとして湖に入って死のうとしたが、寒くて死ねなくて…。というエピソードがありました。しかし、生水を飲んだことから、当たってお亡くなりになられたようです。その彼の人生観が垣間見れるような、作品となっている。が、この作品に対しましては、個人的には、やはりムラヴィンスキーとレニングラードフィルのレコードが好きです。当に、ロシアという感じがします。
切なくなるような、メランコリックなロシアのメロディー。チャイコフスキーは、しばらく聴いていませんでしたが、あらためて、深く共感するものがあることを思いました。ただ、この切なくなるようなメロディーは、少し病的なほどの美しさを奏でていると思うのは、考えすぎ、感じ過ぎ、でしょうか?
この曲の素晴らしい解説と語り口調に涙が出てきました😭
いつも興味深く拝聴しております。“Благословен еси, Господи,” の部分、確かに最初の動機と似ていますね。初めてこういう指摘を知って、驚いています。両方の曲を聴き知っていても、気付くかどうかはその人の感性しだいですね。第一楽章の最後のロ長調のコラールも、何かの聖歌に関連があるのか、今後も気を付けていきたいです。(第二楽章の最初の2小節と上がり下がりの外形が似ていて、予告なのかなとは思ってきましたが。)
悲愴のCDは指揮者フリッチャイの演奏が一番好きでした😊
色々と批判もありそうですが、カラヤンが最晩年にVPOを振った録音が忘れられません。第一楽章の冒頭ファゴットの深い祈りのような響き。第四楽章コーダはカラヤン入魂の棒捌きの物凄さよ‼️
ストコフスキーの指揮する悲愴の終楽章を聴いて思ったのですが、コーダの前に主人公(主題)が息が絶える描写があることに気がつきました。主題は冒頭で提示される降下旋律ですが、冒頭以外の主題(降下旋律)の前には必ず同じ上昇旋律が奏されます。この上昇旋律は主題を語るための「息継ぎ」の役割をしています。クライマックス直後に息継ぎの上昇旋律が流れますが、主題の降下旋律は力なく前半で途切れます。また息継ぎ上昇旋律を行いますが、主題の降下旋律は更に力を失い前半で途切れます。これを4回繰り返します。例えるなら主題を「愛している。あなたを…」、息継ぎ(ブレス)を「^」とするなら「^愛している…^愛している…^愛している…^愛している…愛…ぁぃ…」と言った感じです。最後まで主題を語ろうして語れない切なさを感じます。残念ながら、ストコフスキー以外の演奏は、この部分をクライマックスとみているようで、主題の断片として意識した演奏はない様に思います。ストコフスキーは他にも終楽章のコーダの部分でヴァイオリンが弾くべき旋律の最後の音がFのためクラリネットで代用している部分をヴァイオリンの弦を緩ませてヴァイオリンにF音を弾かせています。この部分をmfで演奏しているものは他になくチャイコフスキーが望んだ音響をオーケストラの現場で実現している事は評価されるべきだと思います。
チャイコフスキーの死についての真相は様々な説が言われていますがそれはそれで謎のままで良いのかなと思います。誰しも内に秘めた何かを持っているものですし、たとえそれが周囲と異なったり理解されなかったり罪だと言われたとしても彼にとってはそれが本能からの生や芸術に対する源泉だったのかもしれません。もしそれが原因で自らの命を絶ったとしても時の犠牲者または宿命だと彼は覚悟をしたうえで『悲愴』と言う遺言たる傑作を通して多様性や複雑な社会を生きる現代の私達へ様々なメッセージを残してくれたように思えてなりません。チャイコフスキーの沢山の様々な美しい作品に潜む愛と光と影は今も様々な人達を癒し慰め元気付けてくれているはずです。同じロ短調作品『マンフレッド交響曲』でも彼特有の生命や魂のうねり、狂気や愛憎を感じさせるメロディーが凄まじく入り乱れますが最後(第2稿)では救済のコラールが入り浄化されますが『悲愴』は最後まで絶望的闇に堕ち消えて行くpppp救いの無い終わり方は何度聴いても胸を打ちます。この録音後に白血病で逝ったフリッチャイ(指揮)ベルリン放送交響楽団の演奏はかなり危険です。
※ 追記『マンフレッド交響曲』の最後のコラールに『怒りの日』のメロディーが登場します。チャイコフスキーも使ってましたね。
次回の定期演奏会のメイン曲になります。すごく深い予習になりました。定期演奏会までの1年間の拠り所になります。ありがとうございます。指は回りそうにありませんが。
いよいよ来月演奏会となります半年ほどの時を隔てて再度先生の解説をお聴きしました指揮者の先生のご指示我々オーケストラの技量制約はありますがアマチュアなりに良い本番を迎えることができそうですこの動画に出会えた感謝得難いキセキですありがとうございます♪
曲の成り立ち等大変興味深いお話、大変勉強になりました。この、暗く、救いようのない悲しみや重苦しさは、やはり戦前のフルトヴェングラー、ベルリンフイルの演奏に具現化されてるように感じます。先生のお話をお聞きして、この演奏のすばらしさに改めて思いを新たにしました。戦後のカラヤン、ベルリンフイルも良いと思いますが、やはり沈み込むような暗さ、重々しさを感じません。メンゲルベルグやムラヴィンスキーの演奏も大好きなんですけどね。
チャイコフスキーの中でもこの六番は、幼い頃から最も好きな曲でした。内面を音に表した非常に深く激しく、美しい曲だからです。同性愛者であることは大人になるにつれ、その葛藤は想像できるようになりましたが、一方最愛の子供を亡くした悲しみをも表しているのではないかと思っていました。複合的に絡み合った人生がチャイコフスキー自身に訪れたからこその名曲だと思います。
チャイコフスキーの曲は好きですが、小学校の音楽室に飾られていた作曲家たちの肖像のイメージでは、けっこうなおじいちゃんだと思っていたのに、えっ、年下!?😱(笑)このお話を聞いて、はじめて「悲愴」全楽章を通しで聴いてみました。ライブの動画でショルティの指揮でしたが、最後の一音の響きが消えるときに、彼がふっと眼を閉じたのが印象的でした。ロシア聖歌の部分も、このお話を聞いていたから分かった程度ですが、印象的でした。第3楽章ではあきらかに「序曲」と同じメロディーが流れますね?これもなんらかの意味があるのでしょうか?
今回の話の趣旨からして「悲愴」というより「苦悩」、最終楽章の消えていくような終わり方は、「苦悩」な日々を過ごし、挙げ句に苦悩から開放される死がやって来た、という見方です。後期交響曲5-6番はムラヴィンスキーの切れ味鋭いDG盤、他にも優れた演奏があるが、ムラヴィンスキーは私のチャイコの教科書です。
いや~、良く解りますわ。初めて聴いたのが、例のメンゲルベルクの伝説的録音ですが、解説は私の印象ほぼぴったり。第3楽章は、もっと「自暴自棄」、いわば「ヤケクソ」的な要素もあるかと思います。これは指揮者の解釈によって相当に変わりますよね。
過去の音楽談話⑥を拝見した後に、ポケットスコアでこのP×5⇒6の部分を改めて見て、聴いて、聴き方が変わったのですが、今回はチャイコフスキーの内面のもっとずっと奥深くを想像しながら、全楽章を通して聴く事が出来そうです。改めて、聴いてみます、ありがとうございます!
フィナーレの最後のトロンボーンのコラールは、だんだん恐ろしいくらいディミヌエンドしていくのですが、音量を落とさず、大きめな音量でやり過ごす演奏も多いです。個人的にはチャイコフスキーの思い描こうとした悲愴感は、指定通り限りなく小さく演奏する方を支持したいです。
冒頭のメロディーが勝利のメロディーになって終わる第5番と対照的ですよね。
車田さんも言ってましたが、コンサートでは三楽章が終わると必ず拍手が来ますね。終わったと思った人と感動して思わず拍手をする人なんで仕方ないですね。指揮者はここはどんなかんじか聞いてみたいですね。中には三楽章と最終楽章を間髪を入れず演奏する指揮者もいますから、「ここは拍手はいらないよ」という感じでしょうか。しかし、いつも思うのは、最終楽章が終わって指揮者が手を止めて余韻を表現するようなときに、すかさず「ブラボー」を叫ぶ人にはいつも閉口します。言われなくても終わったことは知っていますよ。
僕は第3楽章について、先生とは、ちょっと違った印象を持っています。一言で表現するのは難しいのですが、スケルツォから行進曲に変わっていくときの激しい響きに「怒り」を感じるんです。他の楽章が消えていくように終わるのとは真逆で、なぜか心からの怒りを爆発させているように感じるんです。あ、でも他の方に同意を求めるつもりはありません。僕の個人的な感想です(__)
0:38 0:40 日本では、先日、札幌高裁で、「同性婚を禁止する法律は違憲である」という判決が降りたようですが、私個人としては、同性愛は自然の摂理に反するもの、と思います。ただ、生きている社会、時代によっては、その方が自然の理にかなっている、という場合もあるのかもしれません。ここは、論理ではなく、法律で云々できないものを、法律でしばるようなことをしようとしているような感がなきにしもあらず、人の手でつくられる法律というものの限界、といえるかもしれません。
同性愛者のこころは、しることはできないので、つらいです。
ムラヴィンスキーの録音を最高という意見が昔からありますが、私は聴いた時に腹が立ちました。硝子の神経を持つ子の音楽を、熊が演奏していると聴こえるからです。
ロシアの歴史はちょっとかじってるけど、同性愛の問題は、近年になって強引に勧められてるので、同性愛=迫害されて可哀想とは思わないなあ。どっちも行きすぎるのがよくないですね。
素敵なお話、ありがとうございます。悲愴に惹かれる理由がよくわかりました。一時期、カラヤン指揮のCDを数え切れないくらい聴きました。
この曲、小学生か中学生になりたてのころでしたか?小遣いためてレコード買いました。いまでいうジャケット買い。どんな曲なのか、それどころか名前すら知らない曲なのに、寒々とした写真に惹かれて買いました。じっさいに聞いて、それまで聴いたどの曲よりも強い印象を持ちました。子供なりに将来に対する漠然とした不安もあって余計に共感したのだと思います。何回も何回も、それこそ細かいところまで暗記するくらい聴きました。
そんな、わたしにとって思い出深い曲への車田先生の解説、とてもすんなり心に入りました。
余談ですが、70歳になった今年初めて、生まれ故郷の市にある市民オケの団員としてこの曲の演奏に参加しました。子供のころ夢中になった曲を約60年後になって生まれ育った町で演奏する、しかもオケ団員としての初舞台の曲・・・・この曲との不思議な縁を感じます。
こんにちは。
ジャケ買いはロックやポップスだけかと思っていました。
しかしご自身のエピソードに胸打たれるものがあり、ついつい書いてしまい。
失礼致しました。
お互い今後とも良い音楽人生を。
@@桃田牢 さま、読んでくださってありがとうございます。この曲、いちばん印象に残ったのは、暗ーい雰囲気で始まって、途中美しい旋律やら、なんだかよくわからないけどむちゃくちゃハイテンションの場面とかもあって、最後は始めよりもーっと暗ーーーーーい雰囲気で閉じる。まるで僕のこれからの人生を暗示しているかのよう・・・・そんなことを子供心に思ってしまう「おませな」坊やでした。
でも、ある意味じぶんに生きる力を与えてくれた曲のような気もしています。
お互い今後とも良い音楽人生・・・同感です。ぜひ!
私が大学2年のころ、大学オーケストラの定演でこの悲愴を演奏しました。この悲愴を演奏している本番で「こんな音楽はオーケストラでなければできない」と心底思いましたね。
感傷的で胸に刺さる名曲だと思います。
今は亡き兄にこの曲を聴かせてもらった時、雷に打たれたような感覚を感じました。
特に一楽章の魂を揺さぶるような音の連続にクラシック音楽の凄まじい力を感じたものです。
そして四楽章の鼓動が止まり人生の幕を閉じるような終わり方に深い悲しみを感じました。
忘れもしないムラヴィンスキー✕レニングラード・フィルの演奏でした。
もしかして、動画中で使用されている音源もムラヴィンスキー✕レニングラード・フィルでしょうか?
悲愴は大好きで様々な演奏を聴きましたが、ムラヴィンスキー✕レニングラード・フィルは特定の場所で鳥肌が立ちます。
今はもうアマオケには乗っていませんが、私の最後のアマオケの本番でこの曲を演奏できたことは本当に幸せな経験でした。
昭和50年初頭、ムラヴィンスキー×レニングラードフィルで悲愴を聴きに行きました。日本全国地方巡業していただき、私を含め当時の日本の地方在住の若者にもムラヴィンスキーのファンをたくさん作りました。みんな彼やこのオケに親近感を感じたものでした。
「コレラ死亡説」については、彼の死後に一般人にまで遺体を公開し、触れ合える状態であったこと(当時は死後の接触でも感染する死病とされていた)について疑問が持たれていますね。個人的な感想ですが、この交響曲全体のイメージは基本テンポを含めて「終楽章をどう演奏するか」によってかなり左右されてくるように感じます。オケでの定演でこの曲を演奏されたある指揮者の方とお話させて頂いた時、「この曲をあまりに『悲劇的と捉えること』には疑問がある」と仰っていました。曰く「ここで示されているのは「哀しみ」よりも「情熱」である」と。
昔、ソ連から、ロシアになってからのチャイコフスキーのドキュメンタリーをテレビで見たことがありますが、たくさんチャイコフスキーに関する資料が公開され、非常に興味深く、拝見いたしました。悲愴については、この頃の末期のロシア帝国の影響があるのではないかということでした。とくに、最終楽章の悲愴感は、チャイコフスキーでなければ、かけないのではないかと思いますね。演奏では、ムラビンスキー指揮のレニングラードフィル、が圧巻だと思います。お菓子、美味しそうですね。
なんとも言えない暗い終わり方をするので、いつも聴くには重すぎます。
それでもときどきどうしても聴きたい衝動に駆られます。一度聴き始めると曲に引き込まれて時には涙をこらえながら聴いています。時折でてくる美しいメロディも素敵ですし、最終楽章の最後の音が消えるまで身動きできないくらいです。数多のクラシック音楽のなかでも大大大好きな曲です。
先ほど、岐阜大オケで悲愴のライブを味わってきました。
とても感動的な演奏で、聴きに行って本当によかったです。
ホールで実際に聴くとCDでは得られなかった、この作品の姿が体感できました。
何よりまずとても前衛的なところ。終楽章をアダージョにしたのみならず、3楽章に
クライマックスを置きながらも、もう一度終楽章で盛り上がりもつけ静かに終わる完璧な構成。
さらに当時の作曲家の技をすべて研究したかのような、テクスチュア。
(ブルックナー・ワーグナー・サンサーンスなど、後のペルトのようなオスティナート)
それに忘れられなかったのでしょう、イタリアの太陽のような長調の部分。
1楽章の再現部直前(再現部かな?)の破壊的なトゥッティなんかは
そこだけ針飛びレコードのようにくり返し流したら現代音楽のよう。
第5番で運命と循環形式を修めたチャイコフスキーは6番で新たなスタートをしたかったのではと
私は思ってしまいました。
16:51 悲愴を初めて聞くとマジでほぼ確実にフライング拍手ポイントに騙されるから、曲の途中なのに自分だけ拍手して他に誰も拍手してない現象が起きて、音楽的にはいいかもしれないけど周りからなんだコイツ的な視点を向けられて圧倒的やってしまった感があるからコンサート行く前に予習しておいた方がいい、予習無しではマジでフライング拍手不可避
でも、やってしまったあと絶望しても、ちょうど直後にそれに寄り添った音楽が展開されるからちょうどいいかもしれんww
悲愴を初めて聞いたのは、20代前半でした、その頃、私の好みは上昇機運を予感する様な曲、希望に満ちた曲、勇気付けられるような曲でした。世の中はバブル前期で給料は毎年20%以上アップ、社員は大量に採用され、希望にあふれた社会人としてスタートしていました。そんな心境で聴いた「悲愴」は悲しすぎる、深くて暗い闇に落ちて行くような気分になり、今の自分には合わないという感想でした。それっきり40歳ぐらいまでチャイコは聴きませんでした。中年になると人生経験が豊かになり、やっとチャイコフスキーが聞こえてくるようになり。今は大好きな作曲家の一人です。
私はこの第6番が大好きです。このような解説をいただいてとてもわかりやすくなりました。チャイコフスキーの人生そのものを表現されているような気がしました。とても痛ましい曲ですね。
素晴らしい解説をありがとうございます。この曲も様々な演奏を聞きましたが、印象的なのはグラモフォンのバーンスタイン&NYPで第4楽章が17分もある演奏です。凄いなぁと思って聞きましたが、我が子を失ったような激しい慟哭のように思いました。しかしやはりムラビンスキーのように自分の人生を悔恨してるような演奏に回帰しています。演奏行為の不思議さが良くわかる両演奏でした。
いつもながら説得力のある見事な解説を、ありがとうございます。
音量やテンポ、曲調の変化、感情の起伏が非常に激しい名曲ですね。
とても心を打たれるメロディも極めて印象的。
涙なしにはとても聴けない名曲です…。
この曲でクラシックに興味を持ち始めました、マルティノンのLPを何度も聴いていました。
しばらくして、吹奏楽部の弟がムラヴィンスキーのものを得意げに鳴らし始めました。
私が初めて知ったクラシック曲であり、1番好きな曲…!♡
いつ聴いても美しくて、切ない気持ちになる…!
「悲愴」という訳語について、チャイコフスキーが名付けた"Pathétique"のニュアンスを汲みきれていないのではという批判がありますね。"Pathétique"はラテン語の"pathos"に由来しているため、情熱などの意味合いを含んでいると。
第一楽章においてロシア聖歌の引用が多々みられるというのは非常に面白かったです。最後のコラール風の旋律については、私も何からの引用なのか分かりませんが…。
それと、チャイコフスキーが同性愛者であったことは彼の人生において重要な要素だったとは思いますし、それが多少なりとも作品に影響を与えているとは思います。しかし、この作品から感じられる悲しさは、彼を取り巻く現実の苦しさから来たものというより、彼の実存的な(人間にとって普遍的な)苦しみが発露されたもののように思います。
最有力の死因のコレラ説についても、お酒の席で友人から止められたにも関わらず生水を飲んだことが原因と考えられているものですから、自殺とまでは言えなくとも、かなりそれに近いものだったように思います。
深い、深い、深いーーー解説!!!ーーーうううーーーーん。此の一曲で、ヒトの人生の全てを、語るかーーーもう、音楽家を超ええるな!‐-このチャネル、続けて頂けると嬉しい!やっぱ、
音楽は素晴らしいなあ!
こんなに絶望的な曲はなかなか無いですよね。
第3楽章は個人的には成功というよりは狂気を感じます。テンポが速い演奏ほど狂ってる感じが強いですね。
第4楽章の第2主題の裏で鳴ってるホルンのシンコペーションがたまらなく好きです、こんなに絶望的なのに😂
深い内容を素人にも分かりやすく解説してくださり、ありがとうございました。高校時代、学校の映画鑑賞会での映画を思い出しました。是非ともコンサートホールで聴きたい。。。
チャイコフスキー 後期交響曲の一つ 第6番『悲愴』調性がロ短調 で重々しい暗さが特徴で正に曲全体になしています。楽器の使い方にも特徴的で第1楽章冒頭のファゴット そのあともppppppで指示されてますがここではバスクラリネットが代わって吹く所や第4楽章の冒頭は第1 第2ヴァイオリンが交互に弾くことによる音響効果等チャイコフスキーの真骨頂と呼ばれる交響曲 ですね。
第3楽章は、大太鼓とずれているシンバルや、素早い上下行の音階などから、「躁鬱病の躁状態」や「自分自身を制御できなくなった狂気」を感じました。申し上げるまでもなく、感じ方は人それぞれだと思います。
中学時代に自伝映画を見ました。後にN響アワーである指揮者がこの曲は同性愛の苦悩を現している、と解説していましたが、当時は深い😊意味がわかりませんで今、聴くと分かる気がします。
毎回深い洞察で本当に感銘を受けます。
第一楽章に静かな場面からいきなりドッカーンと大きな音がして心臓が止まりそうになったよ。
この曲は、タイトルが悲愴とあるように、暗い印象を与える曲で曲全体を表すかと思いきや、ここまでの第三楽章には、勇ましい程の、感情が顕わにされています。そして、終楽章には、より深く悲愴感が漂います。話しは変わって、この作曲家は、ある日。死のうとして湖に入って死のうとしたが、寒くて死ねなくて…。というエピソードがありました。しかし、生水を飲んだことから、当たってお亡くなりになられたようです。その彼の人生観が垣間見れるような、作品となっている。が、この作品に対しましては、個人的には、やはりムラヴィンスキーとレニングラードフィルのレコードが好きです。当に、ロシアという感じがします。
切なくなるような、メランコリックなロシアのメロディー。チャイコフスキーは、しばらく聴いていませんでしたが、あらためて、深く共感するものがあることを思いました。ただ、この切なくなるようなメロディーは、少し病的なほどの美しさを奏でていると思うのは、考えすぎ、感じ過ぎ、でしょうか?
この曲の素晴らしい解説と語り口調に涙が出てきました😭
いつも興味深く拝聴しております。
“Благословен еси, Господи,” の部分、確かに最初の動機と似ていますね。
初めてこういう指摘を知って、驚いています。
両方の曲を聴き知っていても、気付くかどうかはその人の感性しだいですね。
第一楽章の最後のロ長調のコラールも、何かの聖歌に関連があるのか、今後も気を付けていきたいです。
(第二楽章の最初の2小節と上がり下がりの外形が似ていて、予告なのかなとは思ってきましたが。)
悲愴のCDは指揮者フリッチャイの演奏が一番好きでした😊
色々と批判もありそうですが、カラヤンが最晩年にVPOを振った録音が忘れられません。
第一楽章の冒頭ファゴットの深い祈りのような響き。第四楽章コーダはカラヤン入魂の棒捌きの物凄さよ‼️
ストコフスキーの指揮する悲愴の終楽章を聴いて思ったのですが、コーダの前に主人公(主題)が息が絶える描写があることに気がつきました。主題は冒頭で提示される降下旋律ですが、冒頭以外の主題(降下旋律)の前には必ず同じ上昇旋律が奏されます。この上昇旋律は主題を語るための「息継ぎ」の役割をしています。クライマックス直後に息継ぎの上昇旋律が流れますが、主題の降下旋律は力なく前半で途切れます。また息継ぎ上昇旋律を行いますが、主題の降下旋律は更に力を失い前半で途切れます。これを4回繰り返します。例えるなら主題を「愛している。あなたを…」、息継ぎ(ブレス)を「^」とするなら「^愛している…^愛している…^愛している…^愛している…愛…ぁぃ…」と言った感じです。最後まで主題を語ろうして語れない切なさを感じます。残念ながら、ストコフスキー以外の演奏は、この部分をクライマックスとみているようで、主題の断片として意識した演奏はない様に思います。ストコフスキーは他にも終楽章のコーダの部分でヴァイオリンが弾くべき旋律の最後の音がFのためクラリネットで代用している部分をヴァイオリンの弦を緩ませてヴァイオリンにF音を弾かせています。この部分をmfで演奏しているものは他になくチャイコフスキーが望んだ音響をオーケストラの現場で実現している事は評価されるべきだと思います。
チャイコフスキーの死についての真相は様々な説が言われていますがそれはそれで謎のままで良いのかなと思います。誰しも内に秘めた何かを持っているものですし、たとえそれが周囲と異なったり理解されなかったり罪だと言われたとしても彼にとってはそれが本能からの生や芸術に対する源泉だったのかもしれません。もしそれが原因で自らの命を絶ったとしても時の犠牲者または宿命だと彼は覚悟をしたうえで『悲愴』と言う遺言たる傑作を通して多様性や複雑な社会を生きる現代の私達へ様々なメッセージを残してくれたように思えてなりません。チャイコフスキーの沢山の様々な美しい作品に潜む愛と光と影は今も様々な人達を癒し慰め元気付けてくれているはずです。同じロ短調作品『マンフレッド交響曲』でも彼特有の生命や魂のうねり、狂気や愛憎を感じさせるメロディーが凄まじく入り乱れますが最後(第2稿)では救済のコラールが入り浄化されますが『悲愴』は最後まで絶望的闇に堕ち消えて行くpppp救いの無い終わり方は何度聴いても胸を打ちます。
この録音後に白血病で逝ったフリッチャイ(指揮)ベルリン放送交響楽団の演奏はかなり危険です。
※ 追記
『マンフレッド交響曲』の最後のコラールに『怒りの日』のメロディーが登場します。チャイコフスキーも使ってましたね。
次回の定期演奏会のメイン曲になります。
すごく深い予習になりました。
定期演奏会までの1年間の拠り所になります。
ありがとうございます。
指は回りそうにありませんが。
いよいよ来月
演奏会となります
半年ほどの時を隔てて
再度先生の解説をお聴きしました
指揮者の先生のご指示
我々オーケストラの技量
制約はありますが
アマチュアなりに
良い本番を迎えることができそうです
この動画に出会えた感謝
得難いキセキです
ありがとうございます♪
曲の成り立ち等大変興味深いお話、大変勉強になりました。
この、暗く、救いようのない悲しみや重苦しさは、やはり戦前の
フルトヴェングラー、ベルリンフイルの演奏に具現化されてるように感じます。
先生のお話をお聞きして、この演奏のすばらしさに改めて思いを新たにしました。
戦後のカラヤン、ベルリンフイルも良いと思いますが、やはり沈み込むような
暗さ、重々しさを感じません。
メンゲルベルグやムラヴィンスキーの演奏も大好きなんですけどね。
チャイコフスキーの中でもこの六番は、幼い頃から最も好きな曲でした。
内面を音に表した非常に深く激しく、美しい曲だからです。
同性愛者であることは大人になるにつれ、その葛藤は想像できるようになりましたが、一方最愛の子供を亡くした悲しみをも表しているのではないかと思っていました。
複合的に絡み合った人生がチャイコフスキー自身に訪れたからこその名曲だと思います。
チャイコフスキーの曲は好きですが、小学校の音楽室に飾られていた作曲家たちの肖像のイメージでは、けっこうなおじいちゃんだと思っていたのに、えっ、年下!?😱(笑)
このお話を聞いて、はじめて「悲愴」全楽章を通しで聴いてみました。ライブの動画でショルティの指揮でしたが、最後の一音の響きが消えるときに、彼がふっと眼を閉じたのが印象的でした。ロシア聖歌の部分も、このお話を聞いていたから分かった程度ですが、印象的でした。第3楽章ではあきらかに「序曲」と同じメロディーが流れますね?これもなんらかの意味があるのでしょうか?
今回の話の趣旨からして「悲愴」というより「苦悩」、最終楽章の消えていくような終わり方は、「苦悩」な日々を過ごし、挙げ句に苦悩から開放される死がやって来た、という見方です。
後期交響曲5-6番はムラヴィンスキーの切れ味鋭いDG盤、他にも優れた演奏があるが、ムラヴィンスキーは私のチャイコの教科書です。
いや~、良く解りますわ。初めて聴いたのが、例のメンゲルベルクの伝説的録音ですが、解説は私の印象ほぼぴったり。第3楽章は、もっと「自暴自棄」、いわば「ヤケクソ」的な要素もあるかと思います。これは指揮者の解釈によって相当に変わりますよね。
過去の音楽談話⑥を拝見した後に、ポケットスコアでこのP×5⇒6の部分を改めて見て、聴いて、聴き方が変わったのですが、今回はチャイコフスキーの内面のもっとずっと奥深くを想像しながら、全楽章を通して聴く事が出来そうです。
改めて、聴いてみます、ありがとうございます!
フィナーレの最後のトロンボーンのコラールは、だんだん恐ろしいくらいディミヌエンドしていくのですが、音量を落とさず、大きめな音量でやり過ごす演奏も多いです。
個人的にはチャイコフスキーの思い描こうとした悲愴感は、指定通り限りなく小さく演奏する方を支持したいです。
冒頭のメロディーが勝利のメロディーになって終わる第5番と対照的ですよね。
車田さんも言ってましたが、コンサートでは三楽章が終わると必ず拍手が来ますね。終わったと思った人と感動して思わず拍手をする人なんで仕方ないですね。指揮者はここはどんなかんじか聞いてみたいですね。中には三楽章と最終楽章を間髪を入れず演奏する指揮者もいますから、「ここは拍手はいらないよ」という感じでしょうか。
しかし、いつも思うのは、最終楽章が終わって指揮者が手を止めて余韻を表現するようなときに、すかさず「ブラボー」を叫ぶ人にはいつも閉口します。言われなくても終わったことは知っていますよ。
僕は第3楽章について、先生とは、ちょっと違った印象を持っています。一言で表現するのは難しいのですが、スケルツォから行進曲に変わっていくときの激しい響きに「怒り」を感じるんです。他の楽章が消えていくように終わるのとは真逆で、なぜか心からの怒りを爆発させているように感じるんです。あ、でも他の方に同意を求めるつもりはありません。僕の個人的な感想です(__)
0:38 0:40 日本では、先日、札幌高裁で、「同性婚を禁止する法律は違憲である」という判決が降りたようですが、私個人としては、同性愛は自然の摂理に反するもの、と思います。ただ、生きている社会、時代によっては、その方が自然の理にかなっている、という場合もあるのかもしれません。ここは、論理ではなく、法律で云々できないものを、法律でしばるようなことをしようとしているような感がなきにしもあらず、人の手でつくられる法律というものの限界、といえるかもしれません。
同性愛者のこころは、しることはできないので、つらいです。
ムラヴィンスキーの録音を最高という意見が昔からありますが、私は聴いた時に腹が立ちました。
硝子の神経を持つ子の音楽を、熊が演奏していると聴こえるからです。
ロシアの歴史はちょっとかじってるけど、同性愛の問題は、近年になって強引に勧められてるので、同性愛=迫害されて可哀想とは思わないなあ。
どっちも行きすぎるのがよくないですね。
素敵なお話、ありがとうございます。悲愴に惹かれる理由がよくわかりました。一時期、カラヤン指揮のCDを数え切れないくらい聴きました。