「見えないように5、6人で運んだ」津波から逃れた中学生が直面した苛烈な現実“救えた命、救えなかった命”

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  • เผยแพร่เมื่อ 12 ก.ย. 2024
  • 11日で東日本大震災の発生から12年1か月です。12年前、宮城県の南三陸町戸倉中学校の生徒たちは、津波に飲まれた人の救助にあたるなど過酷な場面を経験をしました。卒業生の一人で今は2児の父親となった男性が、あの日の体験を話してくれました。
    あの日、佐藤さんはまだ中学2年生でした
    岩手県一関市に住む佐藤裕さん26歳。公務員として働く2人の子どもの父親です。12年前の3月は、南三陸町戸倉中学校の2年生でした。佐藤裕さん:
    「地震の後は、安全確保のため校舎の外に出て、校庭に全校生徒でまとまって整列していた」海抜20メートルにある学校。地震のおよそ40分後、津波は校庭まで押し寄せました。佐藤裕さん:
    「おやと思った瞬間に、『津波だ、逃げろ』という声が聞こえてこちらを見たら(校庭への)上り口からツーと水たまりが広がるみたいに来た。そんなばかなという感じ」校舎をはさみ2つの方向から流れ込んだ津波。佐藤さんは、同級生らと校庭の脇にある山林の斜面を駆け上がりました。佐藤裕さん:
    「津波がぐるぐるまわっていた感じ。体育館の2階あたりまで水は来ていた」津波からは逃れましたが、逃げ込んだ山林では過酷な状況が待っていました。
    「助けたかった」懸命の救命措置も・・・
    目の当たりにしたのは、津波に飲まれた後、山に引き上げられた男性。授業で救命講習を受けた経験から、心臓マッサージなどを試みたといいます。しかし・・・。佐藤裕さん:
    「心臓マッサージと人工呼吸をしたが、助けられなくて亡くなってしまった。見えないように5、6人で陰に運んだ。大柄の方で水も大量に飲んでいたのでめちゃくちゃ重かった。力が入っていないとこんなに重いんだと。やはり助けたかったというのはあるが」その後、寒さをしのぐため、みんなで裏山を歩き高台にある工場へ移動しました。腕時計部品の製造工場です。工場長が案内してくれました。志津川オリエント工業 山内久見工場長:
    「ここですね。(当時は)畳の部屋だった」従業員の休憩スペース。そこにもまた、津波に飲まれ低体温症となっていた男性が運び込まれていました。
    懸命の救命措置で救えた命の重さ
    佐藤さんは、同級生と再び救命措置にあたります。佐藤裕さん:
    「大柄な先輩と私で布団の両サイドに入ってくれと、人の熱で人間カイロみたいに温めてくれと入って、さすっていた」1時間ほど温め、男性は一命をとりとめました。佐藤裕さん:
    「安堵です。さっきの人は助けられなかったのは、ひっかかっていたので。若いからこそできたのかなと思う」母校の戸倉中は、2014年に閉校。公民館となった校舎で、かつての教室は展示スペースに変わりました。佐藤裕さん:
    「いつか、お父さんここの出身だよと、ここ出身だと誇れるような場所になってほしい。今が誇れない訳じゃないですよ」震災発生から12年が過ぎ、自らの経験を語る機会はほとんど無くなりました。
    「次の世代につなぐのが使命とは言えないが、必要ではないか」
    佐藤裕さん:
    「いつか子どもたちに聞かせたい」今はそんな思いを抱いています。佐藤裕さん:
    「子どもが大きくなったときにそういうことやったんだよ、震災という大きな出来事として伝えたい。住んでいる地域で災害があって、自分が話したことや説明で自分の子どもだけでも助かってほしいので。次の世代につなぐのが使命とは言えないが、必要ではないか」佐藤さんは、今でも3月が近づくと当時の記憶が蘇り、つらくなると話していましたが、自分の経験を次の世代につないでいきたいと、今回の取材に応じてくれました。
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    newsdig.tbs.co...

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