ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
ペリー来航は横浜に鎖国をとくために来たとだけ習いました。前後の話もなく当時は少ない学習内容だった事に驚きました。いくつになっても学べ直せた事ができ、今回もとても楽しかったです。ありがとうございました😊
日本人の知的好奇心ってやっぱすごいな適応力、柔軟性がホントすごい
授業であるテーマに当たると、思いっきり脱線していろんなモノゴトに興味を持つきっかけを作ってくれた当時の教諭を思い出すような山田さんの解説。毎回とても楽しく視聴しています。
今回、ハイネさんを初めて知りました。スゴい人がいたんですね❗本当に学生の頃五郎さんの講義が聞けたら、もっと日本史が頭に入ったでしょうに😅
後編待ってました❤学校ではいかに日本政府が慌て、狼狽し、開国させられた話しか聞かなかったので本当に為になりました。そしてハイネの波瀾万丈物語も面白かったです💕
フォンシーボルトの話が出ましたが、ペリーはシーボルトから伊能忠敬の日本地図を買ったと言われてますね。それで江戸湾で測量して地図の正確さを調査したら、あまりにも正確で驚愕し、日本人の能力が分かり、外交態度が一変したと何かで説明がありましたね。砲艦外交の当時対日交渉は意外にも礼節があったと思います。
教科書より面白かった
11:00 着こなしカッコいい!!雪駄の鼻緒がまたカッコいい!
日本は音楽好き!って、初めて日本にアップライトのピアノを持って来たのは、ドイツ人のシーボルトです。ハイネもドイツ系米国人だったのですね。シーボルトは医者で彼を慕った日本人医学生等が日本中から5万点の品をシーボルトに贈呈しましたが、ハイネにはそういう人達が居なかったのでしょうか?ハイネの描いた絵、幕末を扱ったドラマや本には必ず出て来て、本当に貴重な作品を残してくれていたのですね。隣がマイセン市のドレスデン市国立美術館には日本の伊万里焼の素晴らしい展示室があります。
【トリビア】ペリーが連れてきた軍楽隊によって演奏された曲の一つが、当時のアメリカ国歌《ヘイル・コロンビア》です。昔、キングレコードから出ていた『黒船以来-吹奏楽150年の歩み』というCDに収録されていました。(同CDには、戦前戦後の著名な吹奏楽曲の他、戊辰戦争の時に鼓笛隊が演奏していた楽曲なども収録されています)。
とても驚くエピソードばかりで、次々と出てくる面白いエピソードに、驚きながら観ていました。波瀾万丈過ぎる、才能が仇となる数奇な運命に、映画化になっても良いかも知れないと思いました。既に主人公でなっているかも知れないですが…。今回の京都で写真家をされておられる方のお話も、とても楽しかったです。週末の憩いの時間になっています。ありがとうございます。
幕末の幕府側の話を聞くと大河ドラマ「青天を衝け」を見たくなる😊アメリカ側の人物視点も面白かったです。紹介していただきありがとうございました!
教科書の絵シリーズ好きです🥰
ペリー来航直後に林家が編纂責任者となってまとめた外交史料集『通航一覧』、その後の外交文書を集成した『通信全覧』『続通信全覧』をみると、幕府もなかなか優秀だったことがわかります。
外交政策の報告書の作成はどんな国でも当たり前ですが、随分な自画自賛ですね。仮想敵に対して有効だって事でしょうか。(笑)
楽しいですね。こんな授業だったら、勉強も楽しく学べただろうな〜って思います。ナメてるのか、ナメられてるのか…日本って面白いですね😊
遣隋使やそれ以前から言語問題は不思議に思っていました。きっと今とは比べられない程大変だっただろうに、その時の最重要項目への対応という事で必死だったのかな?と思うと凄い事だと思います。
ハイネさんの一生に今回は興味を持ってしまった。日本人の描き方はなかなかよく見ていて、実に当時のことがよくわかるな。
そうだと思います。
まさかのバクーニンには驚きました!シベリアから日本へ脱出していたとは…
1950年代生まれです。そのわずか100年前のことだったとは、不思議な気持ちです。
私が子供のころ母に連れられてさだまさしさんのコンサートに行ったとき歌と歌の合間のトークでさださんがハイネのことを話してたのを覚えています。内容は忘れましたがさださんがハイネに凄く好感を持っていたのが印象的でした。あとラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)の話しもしていましたね。
ラフカディオ・ハーンの文脈だとハインリッヒの方のハイネの可能性もありそうですね…
ペリーや黒船の足取りについては馬車道近くにある神奈川県立歴史博物館が詳しかったと思います。黒船の模型もあり好きな人には楽しい博物館。子供と見学してその後夏休み自由研究になーんちゃってサスケハナ号の模型を工作で作ったなぁ。
この前後編、すごく面白かったです❤
そうなんですよ。この時代、日本、結構世界の情勢わかって準備をしているんですよね。まともな通信手段がなく、外国との行き来もめっちゃ制限されてた時代に、なぜかアヘン戦争の詳細が、吉田松陰のような地方の役人に知られてたり、かなり早い段階で下田や浦賀に奉行おいたり、そもそもペリーが来ることも知ってましたしね。
面白過ぎて爆笑でした!このハイネのペリー上陸の絵、御一行が歩かれている道は、今の「日本大通り」(神奈川県庁から横浜スタジアムに続いている)で、絵の右側にあるクスノキは今でも開港資料館の中庭にあります。感動します!
風景について、当時の日本は主な燃料が薪でしたから、ハイネが訪ねた人口が比較的多い地域の景色は今のように緑の多い日本の里山…ではなく、田畑と、広陵としたハゲ山や荒地、丘が広がっていたそうなので、ハイネの描いた風景が日本ぽくないというのは、エネルギー革命を経た現代人から見た違和感なのかもしれません。(出典は忘れましたが、幕末〜明治初期の東海道の宿場を遠くから写した写真には、平地に田んぼと宿場町、その背景の低山はほとんど岩肌剥き出しのハゲ山で衝撃を受けた覚えがあります。)
浮世絵にもはげ山が描かれていることが多いそうですね。
景色が違って見えるのは戦後に針葉樹をたくさん植えたせいかと思ったのですが、それ以前は、入会山や採草地、手の入っていない荒地などが多くあって、このように見えていたのでしょうね。
去年、通信制高校に新入生として入学し、歴史総合の中にこの絵が出てきて記憶にあります
幕府にもちょっと前からオランダ商館長報告書によりアメリカ来航が知らされていたという話があります。案外狂歌ほどは慌ててなかったかもしれないです。あと、出島オランダ商館で働いていた人達は多国籍だったので、長崎通詞には英語や仏語や独語がわかる者がいたそうです。
音楽は文化の違いを軽々越えて凄いですね
ありがとうございます!
教科書だと、ペリー来航、日米和親条約だけで過ぎてしまう裏側に、ハイネのような波乱万丈なドラマがある、だから歴史は面白いです。
南北戦争と幕末が被るって面白いですね。 風と共に去りぬ、のあの雰囲気と、幕末の侍(ちょんまげ)文化が同時代なのですね。
戊辰戦争で使われた銃の中には南北戦争で使い古された中古品や売れ残り品が少なからずあったそうです
西洋軍服の写真が多いのは?お古を売りつけられたからですね。
@@huckeco6561 体格あったのか・・・
以前から日本を舞台にした米英映画に混浴シーンが出てくるのはこの頃の印象を引きずっているんでしょうね。合点がいきました。
画家が同行してたなんて知らなかった。幕末大好きなんです!!めちゃくちゃかっこいい。絵に描かれている木は、まだあるらしいですね。ヴィルヘルム・ハイネさん、名前覚えたい。写真かと思うぐらい絵が上手い!混浴で誰も恥ずかしがってなかったと言うのは驚きです。
当時の下田では混浴しながらグループで日常的な情報交換してらしたんですかね!よくよく見てみると相当なぽちゃっぷりでかわいらしくさえある😂ハイネにとってはなかなかの衝撃だったせいで、わざわざ絵に残したのだそうですね。😄
ハイネの描く日本の山の絵が中国っぽいは凄く興味深かったです。横浜周辺や江戸湾の西側の崖線、猿島(ペリー島)や夏島(ウェブスター島)などの島が中国っぽい地形としてハイネの目に焼き付いてしまったのではないかと感じました。江戸湾で停泊しているとまずは富士山、そのつぎに横浜の山手、根岸辺りの荒々しい崖地。そして、品川の御殿山から大田区大森辺りまでの崖線が目につきやすいと思うのでそれらとその延長線上で日本の山肌を描くと現実より中国っぽくなってしまったのでは?と邪推してしまいました😅もしそうならハイネやモースもを虜にした江戸湾から見える崖線って魅力的ですね。ちなみに下田時点での旗艦は五郎さんがおっしゃる通りポーハタン号です。サスケハナが有名になってしまったのは、日本人が言いやすいサスケハナの方を下田市や下田の遊覧船などがアピールしてしまったからのようです。
明日は岸田劉生を見に行ってきます✌横浜が小さな漁港ってのが一番ビックリでした。そうだったんですね!歴史やっぱり面白いです。
言葉足らず、もしくは勘違いで全然違う話になっているというのは、今でも世界でも日本でも起きていそう。ベルリンにドイツ語勉強に行ったのですが、日本の雑誌で読んだドッペルゲンガーという幽霊(魔物?)。日本の雑誌にはこれを見た人は死ぬと書かれていました。ドイツ人のドイツ語の先生にドッペルという単語が出た時に話すと、ドッペルゲンガーというのはドイツでは人が死ぬ間際に自分と同じ姿をした精霊が死のお向かいに来るという話だったそうです。訳の仕方で全然違う意味になるというのは日本人もやっているんだろうなあ。話をした相手をちゃんと確かめないとでたらめを聞いてしまうかもしれないけれど、その人がどの程度の知識があるかなんて初対面ではわからないものなあ。
興味深い内容を有難うございます。とても面白かったです。
ドイツだと サウナの混浴文化がありますよね日本の温泉混浴がそんなに珍しかったのかな
立派な歴史の証拠だね!
アメリカと物資交換(贈呈品含む)してたときは、相撲の興行に目を奪われていて戦士が屈強だと印象受けたり、ミニチュアの蒸気機関車を贈呈したときは度肝抜かれたようだが、仕組みの理解は早くて驚いたらしい。中島三郎助も船の仕組みをしつこく聞くから、船員に怪しまれるほど好奇心と理解度が深い人種だったって述懐してる。
下田の混浴銭湯画は高校生の時に本で見ましたが これもハイネ作だったのですね 私の記憶だと ペリーが浦賀に上陸した後 本国は戻らず 琉球に滞在したいて 再度サスケハナ号で来日したと思っていたのですが 違いますかね? バクーニン来日とか 写真家も同行していた等々 面白い話が聞けました ありがとうございました 😊
結構ちゃんとしてたというのはその通り。黒船来航のわずか2年後には、早くも薩摩藩・宇和島藩が蒸気船の開発に成功している。一握りとはいえ、蘭学者によるオランダ語文献からの知識の流入は、当時相当なレベルにあった。
実は日本が受けてきた教育レベルが高かったからですね✨
後編、待ってました。疑問 函館?箱舘?
「函館」は明治になってからの名称だそうです。脇からすみません🙇
@@nekonekonekonote 教えて下さり、ありがとうございます♪
意外と日本、手強いぞって成って嬉しいです😊
そうなんですか?そうだったら喜ばしいですね✨
ドレスデン生まれで波瀾万丈な生涯をドレスデンで終えたハイネ、旅行先のドレスデンで見てます❤
あぁ、ベネツィアに一人旅した際に訪れた美術館で日本展を偶々行っていたんですが、展示品が琉球~中国っぽい雰囲気のある刀剣が多かったんですよね。ただ、徳川家のあの紋章の描いてある黒漆塗りの桶までが展示されてましてねぇ。でも、磨いてないしなぁ・・・。徳川家のあの紋章の描いてあるって言ったら当時だと国家の実印が押されているという意味なんだけど、何でこんな所にあるんだろうとか思ったんですがね。何かが怪しい気がするとは思ったんですがね。しかも、日本刀の展示と言えば基本は刃の部分を展示するものなのだけれど、殆どはざっくばらんに鞘に納まって展示されていたし、槍も多かったんですが、立て掛けてあるだけだったしな。鞘の装飾美や鍔やそこに掛けているチャームみたいな小物の工芸的な美を展示するのもアリって言えばアリだと思うんですが、その辺が無い地味な鞘だったりしたので、なんかなー。とは当時思ったんですが、やはり距離があり過ぎるし、現地じゃないと見えない物はあるのはいつもの事でもあるし、まぁ、こんなものなのかもなとも思いましたよ。お土産品みたいな物の展示的な感じでもあったけど、それもそういう物になる事はあるしな。大英博物館からしてこの傾向はある物だから、現場現物主義は間違いないんですけど、そればっかり言っていると、地域の子供たちへの教育上室を揃えるのは難しいとも言えるから、そういう位置づけの展示会だったのだろうと思うんですけどね。
そう言えば乗組員の元銀行家が些細な事まで報告した手記についての話を聞いた事があります。ペリー同行時の、はじめて見た日本にご自分の興奮を抑えきれなかった様子が克明に記されているらしく、ペリーの見聞と一致しているらしいですね。
偉そう!
『ペリー提督日本遠征日記(1856年刊)』に書かれた、当時の日本人の技術力について述べられた「日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」180年前に未来予測?しているようで驚きます。個人的に好きなエピソードは、ペリーが帰国する際に日本側から贈られた朕(日本の犬)2匹を持ち帰りエドとシモダと名付けて飼っていた…というのがホンワカします。
前後編見させてもらいました。ハイネすげーな。今みたいに記録機材とか画像をおくる通信システムのない時代の軍隊では、図画の能力は重要視されていて、将校でしか理解できない情報を偵察のときに記録するために、士官学校とかではしっかりと図画の勉強をしたとか。ハイネさんも、工兵ということでどこにどう陣地を作るかとか、情報を絵として記録しただろうし、それが普通のことだったのに、スパイを疑われるほど描きまくっていたということか。それと、幕末の江戸幕府は不甲斐ないという印象操作がなされているが、維新後に国家規模で行政を執り行うのには徳川の官僚システムとその人員を利用しなかったら、新政府もどうなっていたかわからないと思います。英雄も偉人も生み出しはしなかったんだろうが、日常を日常として営ませる層の厚さはある。また、大規模公共事業を市井の優秀な人材に任せる、適材適所をここ得た起用法も駆使する。情報と判断力がなければできないことだと思う。ただし、無い袖は振れないとばかりに予算は少ないの簡便な、がまかり通っているのはちょっとあれだが・・・。」ただ、任された人間は私財をなげうったり、足らぬ足らぬは工夫が足らぬとばかりに頭を捻り、ことを成し遂げる。新政府側の英雄よりも、そういった人たちにスポットを当てれば、歴史はもっと楽しく感じられると思う。
日米和親条約は「我々は、外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない」これですよね。日本語版を渡したのと、オランダ語版と漢文版にサインをしたものを交換しているだけで英語で何が書かれているか解らんので英語版には日本側はサインしなかった。ペリーにしてみれば手強いと思ったでしょうね。それと蒸気船の外輪はたぶん補助機関で外洋では基本は帆走だと思うのですが艦の両舷の真ん中に推進器があったら砲戦になった時格好の的だと思うのですが実用性があったんでしょうか?気になってます☺
娘の高校の同級生が日本史の授業で、俺の先祖は下田でアメリカ人にお茶を出したんや!って言ってたという話思い出しました(なぜか関西人ですが)きっとすっごく緊張して、でもそのあと周りにお前スゲー!って人気者になったんだろうなあそれで子孫に語り継がれたんだろうなあ、と想像しました🤭
圧巻です。美術音楽は歴史をとても重視するようですがここまで素晴らしいのは五郎先生ならではとの認識です。とても勉強になります。ありがとうございます。今の日本は末期の李氏朝鮮です。個人の感想です。
技術的には違うか・・・
写真、もったいなかったですね。そういえば、日本開国してまもなく南北戦争起こってしまって、ペリーの活躍が霞んでしまったんですよね。
この時、日本側全権林大学頭はアメリカ側と交渉して「通商」という項目を取り下げさせたとのこと。幕府外交がけっこう頑張った交渉でした。
結果論ですが、砲艦外交で傲慢な印象が強いペリーですが、実際は常識人で日本を無茶苦茶にしても良いとは考えてなかったのに対して、ハリスの自分の利益(アメリカの利益ですら無い)の為なら日本を荒らす事に何にも思わない人物と交渉し、貨幣交換比率等で酷い状況になる位ならここでしっかりとした取り決めが出来ていればと思います。
オランダからアメリカが来るよと連絡があった。
ハイネも面白かったが、ペリー来航を時系列に諸外国の思惑を取り混ぜた解説が良かったw
サスケハナとか、ポウハタンとかってネィティブアメリカンの部族の名前ですね?ポウハタンはポカホンタスの一族。
サスケハナなんかまさに日本語っぽい語感ですし、日本人が聞いても、当たり前に日本語っぽく聞こえますけどね。
当時の日本は識字率が高かったらしいし、オランダの書物から世界を覗き見ていた状態って聞いたことあるね。福沢諭吉だったかの逸話で、あくまで逸話だけど、明治初期に諭吉らが外国の技術を学びに行った時、向こうの人は後進国の人が来たから工場とか機械を見せておけばビビるだろうと見せたけど、諭吉達は、そんなものは書物で知っていたし機構すらわかっていて興味を示さなかった。代わりに知りたかった事は「リバティ(自由)とは、ライト(権利)とは何か」だったのに、まともな返事が返ってこず、自由とか権利ってものがそれほど当たり前すぎることに驚いたって話があったね。
絵は歴史で見てても、いつのどんな場面かは知らずにいたし、印象と全然違ってた
江戸時代の日本の山って幕府が管理保護してた山以外は薪に使われまくって禿山だらけで今の山とは様子が違ったみたいです。明治頃の写真を見ると何とも寂しい山が多いです。
恐らく禿山の描かれ方に緑味が感じられないせいかしら。
毎日食事を作るために薪を作って燃やしてた上全ての建物が木造なんだから山に木なんかないんでしょうね。軍事的にも眺めが悪いのは危険だからみんな伐採してたんでしょうから…
しまめじさん😂下田は地政学的にも背景に山を従えており、恐らく当時であっても山に緑がなかったなんてあり得ないですね!(笑)
皆様随分洒落っ気があるんだなって思います🍵
いつの時代にも“親日家”というのがいるのかと思いました。個人的な事ですが以前講座で紹介していたキュビズム展にやっと行く事が出来ました。予習して行きました!時間かけて見ました。どれも見入ってしまいました✨戻って今回のシリーズは学校の授業より楽しく分かりやすく世間話のようで思わず笑ってしまいましたw相変わらず話が上手だと思いました。前回は何気にみうらじゅんさんも出てきて相変わらずの友情だとも思いました。安斎さんも出してほしいなぁ〜w
バクーニンが日本にいた、はビックリしました。ちなみに日米和親条約は清とアメリカの望厦条約(1844年)と同文の10条分削って国名など入れ替えただけのものらしく、和(戦争終結)親(国交樹立)の意味らしいです、戦争してないけども。それにしても条約文の引き写しってよくある事なんですかねー。
今も本牧には史蹟として「マンダリン・ブラフ」と言うが存在していて、これを航行の目印としていたそうなので、横浜と言ったら崖と言うのが頭にあったのかもしれませんね。記憶に基づいて盛ってる説が一番ありそうですけれど。その本牧には、しばらくすると、チャブ屋と言う外国人目当ての売春宿ができ、谷崎潤一郎が「痴人の愛」を書く契機になったり今の横浜スタジアムのとこには外国人用遊郭が作られ、焼けて移転を繰り返した先の遊郭が歌丸師匠のご実家になったり磔や晒し首の写真が撮られたりもしたり(ググると出てくるので注意されたし)ビゴー回でもありましたけど、廃仏毀釈もあって外国人が日本美術を買い漁って行く中で…と言うのは今後も出てくるでしょうけれど江ノ島のてっぺんに住んでたサミュエル・コッキングなんかは鎌倉の大仏を買わないかと持ちかけられたらしいです
ハイネさん、映画にしても面白そう! 大河でもいい
Thanks
ペリーが日本に来た理由は、小学校時代は開国を要求するためと習い、学校卒業後は捕鯨船の補給地が欲しかったからと聞いてましたが、どちらにしても「基地」が欲しかったということでしょうか?
波乱万丈でしたが、最後はドイツに帰れてめでたしでした。それにしても、バクーニンとの再会はお互いに何でこんなところで…ですね。バクーニンのその後も知りたいです。ハイネが好奇心旺盛だったように、当時の日本人にとってはやはりほぼ初めて見る外国人ですから興味は尽きませんよね松前藩が出たところで、北海道の名付け親と言われる、松浦武四郎も興味深い人らしいですね。
ところで、ハイネの絵が中国っぽく見えるのは、ペリー一行がシナ海経由で来た影響があったからであるのは間違いないでしょう。東洋の異国情緒はエキゾチックに感じたに違いないと思われます。
日本史は江戸末期や近代史特に昭和は時間が無くて上っ面だけでしたね。教科書の欄外読むの好きだったけどもっと深掘りしてたら面白かったのに人間が劇的に地球上を短時間で動き回った時代だったんですね。日本を辺境の土人国くらいに思っていたのかな艦砲射撃で一捻りとか。江戸の先人は相当頑張ってたんですね。
アナポリスの米海軍博物館にはペリー提督浮世絵が展示されてました。似ているような似てないような…。
横浜写真なんかも解説して
今日のテーマとは全然関係ないですが「君は隅田川に消えたのか」今日読了です個人的には藤牧義夫は左翼に拉致暗殺かなあと。小野氏は何らかの関係がありそう-違う話を失礼しました。これから本編観ます
はるばる来たぜ函館~♪
教科書深堀り面白いですね。バンバンやってほしいです。あと、福田平八郎さん・高山辰雄さん生野祥雲斎やってください。(日本史漉きの大分県民より)
大河ドラマの数十倍、数百倍? おもしろい事実の根拠!! こういうのを学生たちが見るべきだよね~~~ 絵画って、当時の最高の記録!
美術史にも西洋美術にもあかるくない私は、こういうアートから見えてくる作者の人生や歴史の流れをお話ししていただくのがとってもオモシロ〜!!てなります、ありがとうございます当時は各藩に優秀な人がいたってのは「信長の野望」やってたらわかるなぁw自治のためにも他領に攻め入るにも結局は自陣の人材よ…ってなるので…
バクーニンとまさかの日本で再会ってびっくりですね。地球半分は回っているのでは…そしてアメリカ行って南北戦争まで?世界何回回ってるんだろう…??
お台場はペリーが2度目に来航した時に幕府が対策として作ったものなんだよね
お台場建設を主導した江戸幕府の韮山代官である江川太郎左衛門英龍も大変優秀です。地元の誇りです。
パン祖 坦庵公♡
何が凄いって、キヨッソーネもそうだけど"行動力"。
だがキョッソーネは潔白とは絶対に言えなさそう!
第一回来航は文字通りの砲艦外交を試みた様ですが、欧州とロシア等列強と競争になるにつれ軟化してきた様子です。
そろそろマグリットをやってほしいです
実際当時の写真技術はななめ猫と同じ原理だった事に驚きました!
オランダ商船を通して当時の世界情勢を徳川幕府は分かったいた。ペリー来襲も時期、船の名前、数まで知っていた。民間人だけ知らずに驚いただけ。
ぺるり 古田新太にちょい似😂
この当時の日本の事興味があって本をよく読むのですが、ペリーの書いた「日本航海記」がとても参考になります。このチャンネルは大好きでいつも拝見してますが歴史的史実からちょっとだけ外れている部分が。ただ歴史が主題では無く絵が大事ですし総体的に一般の方々の為に作られているので仕方が無いかもしれません。ペリーは上から目線で自分たちの常識を日本に(勝手に)押し付けていますし、日本素晴らしい!よりは未開発国人は我々を騙すというスタンスです。
ペリーがやってくる!ヤァヤァヤァ!
オランダはペリーが日本に向かうことを既に日本に伝えていたので、幕府は前もって知っていた訳ですね。
どなたかがハイネを心臓に毛が生えている様だって😂毛むくじゃらじゃないですか!なかなか面白かったです😊
21:37 杉田玄白の弟子で解体新書の改訂やった優秀な蘭学者 大槻玄沢の子孫ですね。
大槻磐渓(芝蘭堂で蘭学普及に功のあった玄沢の息子で文彦の父)はペリー來訪後に福沢諭吉を木村摂津守の従者につけて咸臨丸で訪米させることにも協力した人物です。
義務教育でこのCHの動画視聴させるべきだよなぁ…子供時代にこんな面白ければもっと歴史も美術も興味持てただろうに…教育の偉い人見てるか~そういうとこやぞ
有名な?カスター将軍も南北戦争の時の算定的な位でリトルビックホーンで戦死した時は中佐だったかと思います
横浜なにもなかったんだぁ
元々は横に広がった砂州にあった静かな寒村だったそうです。(それで名称、横浜)ペリーさん来てから…下田、函館、横浜と3つの開港場に決まっちゃって!さー大変!埋め立てを進めて大発展!!だったそうですハイ。(横浜市民です。笑)
@@まあママ-j6i 知らなかったですありがとうございます!
山下りんさんの回があったかと思いますが、函館から確かロシア正教が入ってきたと思います-ニコライさん
当時ペリー一行の接待役を長野県の松代藩が担当したようで、宴会の様子を描いた資料を松代にある博物館で見ました。お酒を頂いた水兵の集団や赤顔の提督が描かれていたと思います。参考になるでしょうか?お知らせ致します。
日本人、あなどれないですね!このような知識は、他では学べないです。ありがとうございました!
日本じゃなくて中国っぽく見えるのは色彩が原因だと思う
当時の日本は連邦国家。武で覇権を争えないので文で競ったのです。だから藩校がバンバンできた。
不平等条約結ばされて情け無いと思う事も有るけど、たしかにそれで済んで良かったとも言える。
ペリー来航は横浜に鎖国をとくために来たとだけ習いました。前後の話もなく当時は少ない学習内容だった事に驚きました。いくつになっても学べ直せた事ができ、今回もとても楽しかったです。ありがとうございました😊
日本人の知的好奇心ってやっぱすごいな
適応力、柔軟性がホントすごい
授業であるテーマに当たると、思いっきり脱線していろんなモノゴトに興味を持つきっかけを作ってくれた当時の教諭を思い出すような山田さんの解説。
毎回とても楽しく視聴しています。
今回、ハイネさんを初めて知りました。スゴい人がいたんですね❗本当に学生の頃五郎さんの講義が聞けたら、もっと日本史が頭に入ったでしょうに😅
後編待ってました❤学校ではいかに日本政府が慌て、狼狽し、開国させられた話しか聞かなかったので本当に為になりました。
そしてハイネの波瀾万丈物語も面白かったです💕
フォンシーボルトの話が出ましたが、ペリーはシーボルトから伊能忠敬の日本地図を買ったと言われてますね。
それで江戸湾で測量して地図の正確さを調査したら、あまりにも正確で驚愕し、日本人の能力が分かり、外交態度が一変したと何かで説明がありましたね。砲艦外交の当時対日交渉は意外にも礼節があったと思います。
教科書より面白かった
11:00
着こなしカッコいい!!
雪駄の鼻緒がまたカッコいい!
日本は音楽好き!って、初めて日本にアップライトのピアノを持って来たのは、ドイツ人のシーボルトです。
ハイネもドイツ系米国人だったのですね。
シーボルトは医者で彼を慕った日本人医学生等が日本中から5万点の品をシーボルトに贈呈しましたが、ハイネにはそういう人達が居なかったのでしょうか?
ハイネの描いた絵、幕末を扱ったドラマや本には必ず出て来て、本当に貴重な作品を残してくれていたのですね。
隣がマイセン市のドレスデン市国立美術館には日本の伊万里焼の素晴らしい展示室があります。
【トリビア】
ペリーが連れてきた軍楽隊によって演奏された曲の一つが、当時のアメリカ国歌《ヘイル・コロンビア》です。
昔、キングレコードから出ていた『黒船以来-吹奏楽150年の歩み』というCDに収録されていました。(同CDには、戦前戦後の著名な吹奏楽曲の他、戊辰戦争の時に鼓笛隊が演奏していた楽曲なども収録されています)。
とても驚くエピソードばかりで、次々と出てくる面白いエピソードに、驚きながら観ていました。波瀾万丈過ぎる、才能が仇となる数奇な運命に、映画化になっても良いかも知れないと思いました。既に主人公でなっているかも知れないですが…。今回の京都で写真家をされておられる方のお話も、とても楽しかったです。週末の憩いの時間になっています。ありがとうございます。
幕末の幕府側の話を聞くと大河ドラマ「青天を衝け」を見たくなる😊
アメリカ側の人物視点も面白かったです。紹介していただきありがとうございました!
教科書の絵シリーズ好きです🥰
ペリー来航直後に林家が編纂責任者となってまとめた外交史料集『通航一覧』、その後の外交文書を集成した『通信全覧』『続通信全覧』をみると、幕府もなかなか優秀だったことがわかります。
外交政策の報告書の作成はどんな国でも当たり前ですが、随分な自画自賛ですね。
仮想敵に対して有効だって事でしょうか。(笑)
楽しいですね。こんな授業だったら、勉強も楽しく学べただろうな〜って思います。
ナメてるのか、ナメられてるのか…日本って面白いですね😊
遣隋使やそれ以前から言語問題は不思議に思っていました。きっと今とは比べられない程大変だっただろうに、その時の最重要項目への対応という事で必死だったのかな?と思うと凄い事だと思います。
ハイネさんの一生に今回は興味を持ってしまった。日本人の描き方はなかなかよく見ていて、実に当時のことがよくわかるな。
そうだと思います。
まさかのバクーニンには驚きました!シベリアから日本へ脱出していたとは…
1950年代生まれです。そのわずか100年前のことだったとは、不思議な気持ちです。
私が子供のころ母に連れられてさだまさしさんのコンサートに行ったとき歌と歌の合間のトークでさださんがハイネのことを話してたのを覚えています。内容は忘れましたがさださんがハイネに凄く好感を持っていたのが印象的でした。
あとラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)の話しもしていましたね。
ラフカディオ・ハーンの文脈だとハインリッヒの方のハイネの可能性もありそうですね…
ペリーや黒船の足取りについては馬車道近くにある神奈川県立歴史博物館が詳しかったと思います。黒船の模型もあり好きな人には楽しい博物館。
子供と見学してその後夏休み自由研究になーんちゃってサスケハナ号の模型を工作で作ったなぁ。
この前後編、すごく面白かったです❤
そうなんですよ。この時代、日本、結構世界の情勢わかって準備をしているんですよね。まともな通信手段がなく、外国との行き来もめっちゃ制限されてた時代に、なぜかアヘン戦争の詳細が、吉田松陰のような地方の役人に知られてたり、かなり早い段階で下田や浦賀に奉行おいたり、そもそもペリーが来ることも知ってましたしね。
面白過ぎて爆笑でした!
このハイネのペリー上陸の絵、御一行が歩かれている道は、今の「日本大通り」(神奈川県庁から横浜スタジアムに続いている)で、絵の右側にあるクスノキは今でも開港資料館の中庭にあります。感動します!
風景について、当時の日本は主な燃料が薪でしたから、ハイネが訪ねた人口が比較的多い地域の景色は今のように緑の多い日本の里山…
ではなく、田畑と、広陵とした
ハゲ山や荒地、丘が広がっていたそうなので、ハイネの描いた風景が日本ぽくないというのは、エネルギー革命を経た現代人から見た違和感なのかもしれません。
(出典は忘れましたが、幕末〜明治初期の東海道の宿場を遠くから写した
写真には、平地に田んぼと宿場町、その背景の低山はほとんど岩肌剥き出しのハゲ山で衝撃を受けた覚えがあります。)
浮世絵にもはげ山が描かれていることが多いそうですね。
景色が違って見えるのは戦後に針葉樹をたくさん植えたせいかと思ったのですが、それ以前は、入会山や採草地、手の入っていない荒地などが多くあって、このように見えていたのでしょうね。
去年、通信制高校に新入生として入学し、歴史総合の中にこの絵が出てきて記憶にあります
幕府にもちょっと前からオランダ商館長報告書によりアメリカ来航が知らされていたという話があります。案外狂歌ほどは慌ててなかったかもしれないです。あと、出島オランダ商館で働いていた人達は多国籍だったので、長崎通詞には英語や仏語や独語がわかる者がいたそうです。
音楽は文化の違いを軽々越えて凄いですね
ありがとうございます!
教科書だと、ペリー来航、日米和親条約だけで過ぎてしまう裏側に、ハイネのような波乱万丈なドラマがある、だから歴史は面白いです。
南北戦争と幕末が被るって面白いですね。 風と共に去りぬ、のあの雰囲気と、幕末の侍(ちょんまげ)文化が同時代なのですね。
戊辰戦争で使われた銃の中には南北戦争で使い古された中古品や売れ残り品が少なからずあったそうです
西洋軍服の写真が多いのは?
お古を売りつけられたからですね。
@@huckeco6561 体格あったのか・・・
以前から日本を舞台にした米英映画に
混浴シーンが出てくるのはこの頃の印象を引きずっているんでしょうね。
合点がいきました。
画家が同行してたなんて知らなかった。幕末大好きなんです!!めちゃくちゃかっこいい。絵に描かれている木は、まだあるらしいですね。
ヴィルヘルム・ハイネさん、名前覚えたい。写真かと思うぐらい絵が上手い!混浴で誰も恥ずかしがってなかったと言うのは驚きです。
当時の下田では混浴しながらグループで日常的な情報交換してらしたんですかね!
よくよく見てみると相当なぽちゃっぷりでかわいらしくさえある😂
ハイネにとってはなかなかの衝撃だったせいで、わざわざ絵に残したのだそうですね。😄
ハイネの描く日本の山の絵が中国っぽいは凄く興味深かったです。
横浜周辺や江戸湾の西側の崖線、猿島(ペリー島)や夏島(ウェブスター島)などの島が中国っぽい地形としてハイネの目に焼き付いてしまったのではないかと感じました。
江戸湾で停泊しているとまずは富士山、そのつぎに横浜の山手、根岸辺りの荒々しい崖地。
そして、品川の御殿山から大田区大森辺りまでの崖線が目につきやすいと思うので
それらとその延長線上で日本の山肌を描くと現実より中国っぽくなってしまったのでは?と邪推してしまいました😅
もしそうならハイネやモースもを虜にした江戸湾から見える崖線って魅力的ですね。
ちなみに下田時点での旗艦は五郎さんがおっしゃる通りポーハタン号です。
サスケハナが有名になってしまったのは、日本人が言いやすいサスケハナの方を下田市や下田の遊覧船などがアピールしてしまったからのようです。
明日は岸田劉生を見に行ってきます✌
横浜が小さな漁港ってのが一番ビックリでした。そうだったんですね!
歴史やっぱり面白いです。
言葉足らず、もしくは勘違いで全然違う話になっているというのは、今でも世界でも日本でも起きていそう。ベルリンにドイツ語勉強に行ったのですが、日本の雑誌で読んだドッペルゲンガーという幽霊(魔物?)。日本の雑誌にはこれを見た人は死ぬと書かれていました。ドイツ人のドイツ語の先生にドッペルという単語が出た時に話すと、ドッペルゲンガーというのはドイツでは人が死ぬ間際に自分と同じ姿をした精霊が死のお向かいに来るという話だったそうです。訳の仕方で全然違う意味になるというのは日本人もやっているんだろうなあ。話をした相手をちゃんと確かめないとでたらめを聞いてしまうかもしれないけれど、その人がどの程度の知識があるかなんて初対面ではわからないものなあ。
興味深い内容を有難うございます。
とても面白かったです。
ドイツだと サウナの混浴文化がありますよね
日本の温泉混浴がそんなに珍しかったのかな
立派な歴史の証拠だね!
アメリカと物資交換(贈呈品含む)してたときは、相撲の興行に目を奪われていて戦士が屈強だと印象受けたり、ミニチュアの蒸気機関車を贈呈したときは度肝抜かれたようだが、仕組みの理解は早くて驚いたらしい。
中島三郎助も船の仕組みをしつこく聞くから、船員に怪しまれるほど好奇心と理解度が深い人種だったって述懐してる。
下田の混浴銭湯画は高校生の時に本で見ましたが これもハイネ作だったのですね 私の記憶だと ペリーが浦賀に上陸した後 本国は戻らず 琉球に滞在したいて 再度サスケハナ号で来日したと思っていたのですが 違いますかね? バクーニン来日とか 写真家も同行していた等々 面白い話が聞けました ありがとうございました 😊
結構ちゃんとしてたというのはその通り。黒船来航のわずか2年後には、早くも薩摩藩・宇和島藩が蒸気船の開発に成功している。一握りとはいえ、蘭学者によるオランダ語文献からの知識の流入は、当時相当なレベルにあった。
実は日本が受けてきた教育レベルが高かったからですね✨
後編、待ってました。
疑問 函館?箱舘?
「函館」は明治になってからの名称だそうです。脇からすみません🙇
@@nekonekonekonote 教えて下さり、ありがとうございます♪
意外と日本、手強いぞって成って嬉しいです😊
そうなんですか?そうだったら喜ばしいですね✨
ドレスデン生まれで波瀾万丈な生涯をドレスデンで終えたハイネ、旅行先のドレスデンで見てます❤
あぁ、ベネツィアに一人旅した際に訪れた美術館で日本展を偶々行っていたんですが、展示品が琉球~中国っぽい雰囲気のある刀剣が多かったんですよね。ただ、徳川家のあの紋章の描いてある黒漆塗りの桶までが展示されてましてねぇ。でも、磨いてないしなぁ・・・。徳川家のあの紋章の描いてあるって言ったら当時だと国家の実印が押されているという意味なんだけど、何でこんな所にあるんだろうとか思ったんですがね。何かが怪しい気がするとは思ったんですがね。しかも、日本刀の展示と言えば基本は刃の部分を展示するものなのだけれど、殆どはざっくばらんに鞘に納まって展示されていたし、槍も多かったんですが、立て掛けてあるだけだったしな。鞘の装飾美や鍔やそこに掛けているチャームみたいな小物の工芸的な美を展示するのもアリって言えばアリだと思うんですが、その辺が無い地味な鞘だったりしたので、なんかなー。とは当時思ったんですが、やはり距離があり過ぎるし、現地じゃないと見えない物はあるのはいつもの事でもあるし、まぁ、こんなものなのかもなとも思いましたよ。お土産品みたいな物の展示的な感じでもあったけど、それもそういう物になる事はあるしな。大英博物館からしてこの傾向はある物だから、現場現物主義は間違いないんですけど、そればっかり言っていると、地域の子供たちへの教育上室を揃えるのは難しいとも言えるから、そういう位置づけの展示会だったのだろうと思うんですけどね。
そう言えば乗組員の元銀行家が些細な事まで報告した手記についての話を聞いた事があります。ペリー同行時の、はじめて見た日本にご自分の興奮を抑えきれなかった様子が克明に記されているらしく、ペリーの見聞と一致しているらしいですね。
偉そう!
『ペリー提督日本遠征日記(1856年刊)』に書かれた、当時の日本人の技術力について述べられた
「日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」
180年前に未来予測?しているようで驚きます。個人的に好きなエピソードは、ペリーが帰国する際に日本側から贈られた朕(日本の犬)2匹を持ち帰り
エドとシモダと名付けて飼っていた…というのがホンワカします。
前後編見させてもらいました。ハイネすげーな。
今みたいに記録機材とか画像をおくる通信システムのない時代の軍隊では、図画の能力は重要視されていて、将校でしか理解できない情報を偵察のときに記録するために、士官学校とかではしっかりと図画の勉強をしたとか。ハイネさんも、工兵ということでどこにどう陣地を作るかとか、情報を絵として記録しただろうし、それが普通のことだったのに、スパイを疑われるほど描きまくっていたということか。
それと、幕末の江戸幕府は不甲斐ないという印象操作がなされているが、維新後に国家規模で行政を執り行うのには徳川の官僚システムとその人員を利用しなかったら、新政府もどうなっていたかわからないと思います。英雄も偉人も生み出しはしなかったんだろうが、日常を日常として営ませる層の厚さはある。
また、大規模公共事業を市井の優秀な人材に任せる、適材適所をここ得た起用法も駆使する。情報と判断力がなければできないことだと思う。
ただし、無い袖は振れないとばかりに予算は少ないの簡便な、がまかり通っているのはちょっとあれだが・・・。」ただ、任された人間は私財をなげうったり、足らぬ足らぬは工夫が足らぬとばかりに頭を捻り、ことを成し遂げる。
新政府側の英雄よりも、そういった人たちにスポットを当てれば、歴史はもっと楽しく感じられると思う。
日米和親条約は「我々は、外国語で書かれたいかなる文書にも署名することはできない」これですよね。日本語版を渡したのと、オランダ語版と漢文版にサインをしたものを交換しているだけで英語で何が書かれているか解らんので英語版には日本側はサインしなかった。ペリーにしてみれば手強いと思ったでしょうね。それと蒸気船の外輪はたぶん補助機関で外洋では基本は帆走だと思うのですが艦の両舷の真ん中に推進器があったら砲戦になった時格好の的だと思うのですが実用性があったんでしょうか?気になってます☺
娘の高校の同級生が日本史の授業で、
俺の先祖は下田でアメリカ人にお茶を出したんや!
って言ってたという話思い出しました(なぜか関西人ですが)
きっとすっごく緊張して、でもそのあと周りに
お前スゲー!
って人気者になったんだろうなあ
それで子孫に語り継がれたんだろうなあ、と想像しました🤭
圧巻です。
美術音楽は歴史をとても重視するようですが
ここまで素晴らしいのは五郎先生ならではとの認識です。
とても勉強になります。
ありがとうございます。
今の日本は末期の李氏朝鮮です。
個人の感想です。
技術的には違うか・・・
写真、もったいなかったですね。
そういえば、日本開国して
まもなく南北戦争起こってしまって、
ペリーの活躍が霞んでしまったんですよね。
この時、日本側全権林大学頭はアメリカ側と交渉して「通商」という項目を取り下げさせたとのこと。
幕府外交がけっこう頑張った交渉でした。
結果論ですが、砲艦外交で傲慢な印象が強いペリーですが、実際は常識人で日本を無茶苦茶にしても良いとは考えてなかったのに対して、ハリスの自分の利益(アメリカの利益ですら無い)の為なら日本を荒らす事に何にも思わない人物と交渉し、貨幣交換比率等で酷い状況になる位ならここでしっかりとした取り決めが出来ていればと思います。
オランダからアメリカが来るよと連絡があった。
ハイネも面白かったが、ペリー来航を時系列に諸外国の思惑を取り混ぜた解説が良かったw
サスケハナとか、ポウハタンとかってネィティブアメリカンの部族の名前ですね?ポウハタンはポカホンタスの一族。
サスケハナなんかまさに日本語っぽい語感ですし、日本人が聞いても、当たり前に日本語っぽく聞こえますけどね。
当時の日本は識字率が高かったらしいし、オランダの書物から世界を覗き見ていた状態って聞いたことあるね。
福沢諭吉だったかの逸話で、あくまで逸話だけど、
明治初期に諭吉らが外国の技術を学びに行った時、向こうの人は後進国の人が来たから工場とか機械を見せておけばビビるだろうと見せたけど、
諭吉達は、そんなものは書物で知っていたし機構すらわかっていて興味を示さなかった。代わりに知りたかった事は「リバティ(自由)とは、ライト(権利)とは何か」だったのに、
まともな返事が返ってこず、自由とか権利ってものがそれほど当たり前すぎることに驚いたって話があったね。
絵は歴史で見てても、いつのどんな場面かは知らずにいたし、印象と全然違ってた
江戸時代の日本の山って幕府が管理保護してた山以外は薪に使われまくって禿山だらけで今の山とは様子が違ったみたいです。
明治頃の写真を見ると何とも寂しい山が多いです。
恐らく禿山の描かれ方に緑味が感じられないせいかしら。
毎日食事を作るために薪を作って燃やしてた上全ての建物が木造なんだから山に木なんかないんでしょうね。軍事的にも眺めが悪いのは危険だからみんな伐採してたんでしょうから…
しまめじさん😂下田は地政学的にも背景に山を従えており、恐らく当時であっても山に緑がなかったなんてあり得ないですね!(笑)
皆様随分洒落っ気があるんだなって思います🍵
いつの時代にも“親日家”というのがいるのかと思いました。個人的な事ですが以前講座で紹介していたキュビズム展にやっと行く事が出来ました。予習して行きました!時間かけて見ました。どれも見入ってしまいました✨戻って今回のシリーズは学校の授業より楽しく分かりやすく世間話のようで思わず笑ってしまいましたw相変わらず話が上手だと思いました。前回は何気にみうらじゅんさんも出てきて相変わらずの友情だとも思いました。安斎さんも出してほしいなぁ〜w
バクーニンが日本にいた、はビックリしました。ちなみに日米和親条約は清とアメリカの望厦条約(1844年)と同文の10条分削って国名など入れ替えただけのものらしく、和(戦争終結)親(国交樹立)の意味らしいです、戦争してないけども。それにしても条約文の引き写しってよくある事なんですかねー。
今も本牧には史蹟として「マンダリン・ブラフ」と言うが存在していて、これを航行の目印としていたそうなので、横浜と言ったら崖と言うのが頭にあったのかもしれませんね。
記憶に基づいて盛ってる説が一番ありそうですけれど。
その本牧には、しばらくすると、チャブ屋と言う外国人目当ての売春宿ができ、谷崎潤一郎が「痴人の愛」を書く契機になったり
今の横浜スタジアムのとこには外国人用遊郭が作られ、焼けて移転を繰り返した先の遊郭が歌丸師匠のご実家になったり
磔や晒し首の写真が撮られたりもしたり(ググると出てくるので注意されたし)
ビゴー回でもありましたけど、廃仏毀釈もあって外国人が日本美術を買い漁って行く中で…と言うのは今後も出てくるでしょうけれど
江ノ島のてっぺんに住んでたサミュエル・コッキングなんかは鎌倉の大仏を買わないかと持ちかけられたらしいです
ハイネさん、映画にしても面白そう! 大河でもいい
Thanks
ペリーが日本に来た理由は、小学校時代は開国を要求するためと習い、学校卒業後は捕鯨船の補給地が欲しかったからと聞いてましたが、どちらにしても「基地」が欲しかったということでしょうか?
波乱万丈でしたが、最後はドイツに帰れてめでたしでした。それにしても、バクーニンとの再会はお互いに何でこんなところで…ですね。バクーニンのその後も知りたいです。
ハイネが好奇心旺盛だったように、当時の日本人にとってはやはりほぼ初めて見る外国人ですから興味は尽きませんよね
松前藩が出たところで、北海道の名付け親と言われる、松浦武四郎も興味深い人らしいですね。
ところで、ハイネの絵が中国っぽく見えるのは、ペリー一行がシナ海経由で来た影響があったからであるのは間違いないでしょう。東洋の異国情緒はエキゾチックに感じたに違いないと思われます。
日本史は江戸末期や近代史特に昭和は時間が無くて上っ面だけでしたね。教科書の欄外読むの好きだったけどもっと深掘りしてたら面白かったのに人間が劇的に地球上を短時間で動き回った時代だったんですね。日本を辺境の土人国くらいに思っていたのかな艦砲射撃で一捻りとか。江戸の先人は相当頑張ってたんですね。
アナポリスの米海軍博物館にはペリー提督浮世絵が展示されてました。
似ているような似てないような…。
横浜写真なんかも解説して
今日のテーマとは全然関係ないですが「君は隅田川に消えたのか」今日読了です
個人的には藤牧義夫は左翼に拉致暗殺かなあと。小野氏は何らかの関係がありそう-違う話を失礼しました。これから本編観ます
はるばる来たぜ函館~♪
教科書深堀り面白いですね。バンバンやってほしいです。あと、福田平八郎さん・高山辰雄さん生野祥雲斎やってください。(日本史漉きの大分県民より)
大河ドラマの数十倍、数百倍? おもしろい事実の根拠!! こういうのを学生たちが見るべきだよね~~~ 絵画って、当時の最高の記録!
美術史にも西洋美術にもあかるくない私は、こういうアートから見えてくる作者の人生や歴史の流れをお話ししていただくのがとってもオモシロ〜!!てなります、ありがとうございます
当時は各藩に優秀な人がいたってのは「信長の野望」やってたらわかるなぁw自治のためにも他領に攻め入るにも結局は自陣の人材よ…ってなるので…
バクーニンとまさかの日本で再会ってびっくりですね。地球半分は回っているのでは…そしてアメリカ行って南北戦争まで?世界何回回ってるんだろう…??
お台場はペリーが2度目に来航した時に幕府が対策として作ったものなんだよね
お台場建設を主導した江戸幕府の韮山代官である江川太郎左衛門英龍も大変優秀です。地元の誇りです。
パン祖 坦庵公♡
何が凄いって、キヨッソーネもそうだけど"行動力"。
だがキョッソーネは潔白とは絶対に言えなさそう!
第一回来航は文字通りの砲艦外交を試みた様ですが、欧州とロシア等列強と競争になるにつれ軟化してきた様子です。
そろそろマグリットをやってほしいです
実際当時の写真技術はななめ猫と同じ原理だった事に驚きました!
オランダ商船を通して当時の世界情勢を徳川幕府は分かったいた。ペリー来襲も時期、船の名前、数まで知っていた。民間人だけ知らずに驚いただけ。
ぺるり 古田新太にちょい似😂
この当時の日本の事興味があって本をよく読むのですが、ペリーの書いた「日本航海記」がとても参考になります。このチャンネルは大好きでいつも拝見してますが歴史的史実からちょっとだけ外れている部分が。ただ歴史が主題では無く絵が大事ですし総体的に一般の方々の為に作られているので仕方が無いかもしれません。
ペリーは上から目線で自分たちの常識を日本に(勝手に)押し付けていますし、日本素晴らしい!よりは未開発国人は我々を騙すというスタンスです。
ペリーがやってくる!ヤァヤァヤァ!
オランダはペリーが日本に向かうことを既に日本に伝えていたので、幕府は前もって知っていた訳ですね。
どなたかがハイネを心臓に毛が生えている様だって😂毛むくじゃらじゃないですか!
なかなか面白かったです😊
21:37 杉田玄白の弟子で解体新書の改訂やった優秀な蘭学者 大槻玄沢の子孫ですね。
大槻磐渓(芝蘭堂で蘭学普及に功のあった玄沢の息子で文彦の父)はペリー來訪後に福沢諭吉を木村摂津守の従者につけて咸臨丸で訪米させることにも協力した人物です。
義務教育でこのCHの動画視聴させるべきだよなぁ…子供時代にこんな面白ければもっと歴史も美術も興味持てただろうに…教育の偉い人見てるか~そういうとこやぞ
有名な?カスター将軍も南北戦争の時の算定的な位でリトルビックホーンで戦死した時は中佐だったかと思います
横浜なにもなかったんだぁ
元々は横に広がった砂州にあった静かな寒村だったそうです。(それで名称、横浜)
ペリーさん来てから…下田、函館、横浜と3つの開港場に決まっちゃって!さー大変!埋め立てを進めて大発展!!だったそうですハイ。(横浜市民です。笑)
@@まあママ-j6i 知らなかったですありがとうございます!
山下りんさんの回があったかと思いますが、函館から確かロシア正教が入ってきたと思います-ニコライさん
当時ペリー一行の接待役を長野県の松代藩が担当したようで、宴会の様子を描いた資料を松代にある博物館で見ました。お酒を頂いた水兵の集団や赤顔の提督が描かれていたと思います。参考になるでしょうか?お知らせ致します。
日本人、あなどれないですね!
このような知識は、他では学べないです。ありがとうございました!
日本じゃなくて中国っぽく見えるのは色彩が原因だと思う
当時の日本は連邦国家。武で覇権を争えないので文で競ったのです。
だから藩校がバンバンできた。
不平等条約結ばされて情け無いと思う事も有るけど、たしかにそれで済んで良かったとも言える。