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修学旅行で沖縄行った時めちゃくちゃヤンキーの奴でさえ心を痛めて泣いていた。哀悼の意を捧げます。
ヤンキーなんて平和だからできる事なんですよね。
遠縁がひめゆり学徒隊でした。最後動けなくなり一緒に避難できず、青酸カリを飲んだ亡くなった、と聞いた記憶があります。取り上げてくださりありがとうございます。ぜひ1人でも多くの方に、ひめゆり資料館でひとりひとりの少女たちの顔写真を見て、ご自分のお子さんや周りの子どもさんを思い出してほしいと思います。今は平和でよかったね、という話ではなく、一歩間違えばまたこういう時代になるかもしれないよ、という警鐘です。
ウクライナの様な事にならない為に改憲しましょう
親族に……想像しか出来ませんがご本人もご家族もさぞ辛かったでしょう。痛ましいです。なのにまた戦争の地にしようとしている岸田が自民党が許せません!!
ひめゆりの塔 伺いました。私にも小さな娘が居るので苦しくて彼女達の辛さを思い 吐きそうになりました。 娘は当日で4歳だったのでわからなかったかも知れませんが、尊い純粋な命を亡くした事を必ず忘れずに 2度と同じ事のないように伝えます。今の日本があるのは彼女達のおかげ様でもあります。心から 詳しい。 そして、ありがたい仏様です
詳しいではなく、悔しい…大切なところ、失礼致しました
何で政治家の喧嘩に私達が犠牲にならんないかん戦争は、おかしいです。喧嘩したいなら、国のトップどうしで殴り合い殺し会えば!相手国の国民もそう思うと思う!いろんな国があって、いろんな喰違があって、戦争するんでしょう!トップどおししで、殺し会えば、結果は勝った国の勝利、私達の家族は死なんで良し、税金払いよるやろ政治家
まだ子どもなのに、こんな過酷で恐ろしいことをさせられ、どんなに辛かったことだろうか…
大丈夫過去だから。未来の今生きてる人間を大切にしましょう
@@ちゃんぴい-q2tいいこと言ってるのに前文で台無し
ひめゆり学徒隊って、私と一緒くらいの年齢だよね。(高校2年)私は今、勉強して、部活して、恋愛して。つらいこともあるけど、幸せなことなんだよな。こういう人がいて、命をつないでくれたから私たちが生まれてこれたんだよな。こういう人たちのためにも、私たちが、戦争を起こさないよう、戦争の恐ろしさを語りついでいかないといけない。
おこしたの日本じゃないんだけどな
@@プロミス-c5zそういう問題じゃないやろ、、
ほくやんでる
@@Gdrte 貴方が御存知でも、皆が知ってる訳ではありません。廃線国なので、今の子供達の歴史教科書は隠蔽されて、捏造されてる部分が多いからです。
@@Gdrteそうですかね?戦争の原因追求は徹底的にしたほうが良いと思いますけど。この動画はまるで日本だけが悪いかのような連合国側の意見や視点で描かれてますが、連合国側の非も周知し、枢軸国側の立場も論ずるべきだと思いますよ。そうしなければまた戦争は繰り返します。それが本当の反省です。
修学旅行で学徒隊だった方に、お話を伺いましたやはり解散命令後に彷徨っている時が、一番心細かったと話されていました米兵に会えば何をされるかわからず、日本兵に会えば自決を強要されるかも知れず、誰も頼れる人がいなかったあと砲撃に遭って、今でも左膝に散弾が残っているそうで…それが神経に触れ、痛みが出るたびに当時を思い出すそうですただオキナワでもヒロシマでも、当時女学生だった方からの話で一番興味深いのは戦争が始まる前、普通に学校に通っていた頃の話なんですよね時代も環境も便利さも違うけど、ごく普通の中高生だったことが窺えます「なんだ、今の中高生と感覚的に変わらないじゃないか!」と思いましたもし機会があれば、戦争が激化する前の話も聞いてみるといいと思いますいかに平凡な日々が幸せなのかと実感できると思います
アメリカ軍は普通に民間人を殺害してたからなー
「ただオキナワでもヒロシマでも、当時女学生だった方からの話で一番興味深いのは戦争が始まる前、普通に学校に通っていた頃の話なんですよね」何の話をしてるんだ?
今はタブレットやエクセルの授業、電子機器の普及など大きく授業の光景は変化してるらしいけど、ほんの数年10数年前は戦前と変わらず鉛筆消しゴムの世界だったから、戦前の授業風景は今30代以上の人にとっては当時とそう変わらなさそうですよねぇ。違うのは窓の外の光景とシャーペンやテレビの話題の有無とかかな。恋バナは古今東西あるんでしょう。そういう子達が戦争によって大空襲や原爆で死に、沖縄戦では自決を…。どうにも戦前の彼らも私達と変わらない生活をしていたという現実というのはなかなかに受け入れ難いですね…。
記念館に行くと、遺品として当時女学生にめっちゃ流行してたキャラグッズメモ帳がありまちた…
@@katsuo-iwasi 分かって上げなさいって、人間の心理は余りにも苛烈な物を見続けていると特に女性はその記憶に蓋をしてしまうんですよ。これも戦争後遺症(PTSD)の一つです。その為に楽しかった時期だけしか思い出せなくなる事は良く有る話です。
無理やり大人にならざるをえかった子どもたちを思うと胸が痛い。親となった今は送り出した親御さんの気持ちを思うと胸が張り裂けそうです。子どもたちが子どもらしくいられるそんな世の中を守りたいですね。絶対に繰り返してはならないし、忘れてはいけないと思います。どうぞ安らかに眠りください。
大がかりな手術も麻酔なしで行われる…これも戦争の怖さです。現代になった今でも戦争で行われてると思うと恐ろしい…
我が家は父が昭和14年生まれで、空爆や機銃掃射を体験した話は聞きました。。戦争体験は、フンワリした耳障りのいい報道にして子供にも伝わりやすいものに、とされているのを感じますよね。😢麻酔なしでやると多くは痛みでショック死するそうです。祟られても文句いえないような最期を遂げられた方々ばかりだったのでしょうね。合掌
修学旅行の前に事前学習で「ひめゆりの塔」をみんなで観たんだけど、「しんどくなったら無理をせずに退出しなさい」と前もって先生から注意があって、どんな恐ろしいものを見せられるのかと怖かった。いざ観始めると、やはり途中で体調が悪くなって退出する生徒が複数でた。多少マイルドになっているはずの映画でもこれだから、実際に体験した当時の学徒たちがどんな思いだったか、想像を絶する。
沖縄県民です。沖縄戦のひめゆり学徒隊を取り上げていただきありがとうございました。記録がほぼなく、物語になりにくいのが男子の「鉄血勤皇隊の切込み」です。改造した火薬の箱「急造爆雷」を背中に抱え、わが身ごと戦車に踏ませるんです。この火薬量では戦車は破壊できないので、キャタピラだけ切断し一部の機能を失わせるんです。なので、敵に気づかれにくい小柄な生徒が選ばれたようです。切込みはほぼ全滅なので証言・記録にも残りません。上官命令により、これを中高生の子供がやるのです。身の毛がよだつほど怖かったと思います。
そんなことがあったのですか😭ご先祖の皆様本当に有難うございます。そしてこんな日本になってしまいすみません。
史実をありがとうございます。私もそのお話をひめゆりの少女で知り驚きました。特攻隊や回天などの肉弾戦は有名ですが、唯一の地上戦が行われた沖縄だからこそこんなおぞましい作戦が行われたということかと心底恐ろしくなりました。詳しくありがとうございます…。
ひめゆり学徒隊達に感謝と哀悼の誠を捧げます
風呂にも入れない!ウォシュレットもないってなんなんってね!!
?
アメリカ兵が怪我をした日本の子供に消毒薬を一瓶振りかけるのを見て、あー日本が勝てるわけがないと思ったという手記を読んだことがある😢
戦争に勝ってたら、子供にも消毒液をひと瓶使うから勝てたって言われてそう。
@@hm6077余裕で勝てるからそんなことしてるわけで、日本が戦争に勝てるような戦状だったらそんな事しないと思う
日本婦人達は竹槍で訓練 愚かな戦争でした。
そもそも、日本が刀で戦っていた時代、アメリカは銃で戦っていたことを考えると、アメリカとの戦争はあまりにも無謀過ぎた感はある。それ以外にもアメリカという国は、第二次世界大戦当時には既に『SPAMの缶詰』や『ジッポライター』等も開発していたのですよ。軍事力以外でも日本より遥かに進んでいたんです。
ひめゆりの塔は映画で観たが、戦争がどれだけ悲惨か、嫌というほど突きつけられ思いがした。この話しはこれからも語り継がなければならない。比較的最近では、82年、95年頃に映画化されている。もう30年近く経つ。またこの映画をリメークしてつくって欲しい。
修学旅行で沖縄に行った時、元ひめゆり学徒隊の方の話を聞きました。「生きている間は、若い人に戦争の話を語り継がなければならない」と言っていました。
修学旅行の時にひめゆり学徒隊だった方に当時の話を聴かせていただいた、銃声が途切れない中水や食料を命懸けで運んだこと、怪我をした方はもちろん友達が次々に命を落としていったこと、アメリカ兵に捕まったら嬲られた挙句に頃されるとみんな信じていて自決用に手榴弾を渡されていたこと、最後は追い詰められ投降を呼びかけられる中自決しようと友達と抱き合って手榴弾のピンを抜いたことそれが不発で助かったことアメリカ兵はみんな親切で充分な食事やケアをしてくれて、捕虜になるくらいならと自決した友達たちを思ってとても悔しくて辛かったと、そこで初めて声を震わせられていた
想像を絶するほど壮絶な環境を生き抜いてきたんだなって思うと今、当たり前のようにご飯を食べられたり、睡眠を取れたり、勉学ができたり、家族や恋人と遊べたり、できる環境に感謝すべきだと思いました。
是非ひめゆり記念館へ行って欲しい。私も何回も行きました。語り部の生き残られた学徒隊の方も高齢になられそれでも一生懸命伝えて下さります。オシャレも恋愛も経験せず亡くなられた方の写真とどこでどんな亡くなられたかが展示されています。本当に胸が詰まる思いになりますが、決して忘れてはいけない歴史です。ちなみに撤退命令があり残していかなければならない兵士にあたえられたのは牛乳では無く、青酸カリ入の練乳です。
この頃は兵士もこの間まで民間人だった、みたいな感じだったんじゃないのかな。めちゃくちゃな時代だよね
ミュージカル座で、毎年のように、ひめゆり学徒隊の舞台やってますね。実在した先生を役で演じたり、実際に起こった出来事をリアルに再現し、涙なしでは見られませんでした。
集合写真の眩しい笑顔が本当に辛い1日も早く地球上から戦争がなくなりますように
もしひめゆりの塔に行く機会があったら500mほど離れたところにある第一外科壕にも足を伸ばすことをお勧めしますたぶんこっちの壕のほうがより当時のままに近い状態だと思うので
今ご長寿の沖縄の方が若い頃こんな悲惨なことになってたのかと思ったら、辛くて仕方ない。でも明るい方が多い様に見受けられ本当に凄いと思う
子供の頃にNHKで観た白黒のひめゆり隊の映画が今でも脳裏にこびりついてる
20数年前、ひめゆり資料館で実際に学徒隊として従事していた方々から話を聞く事が出来ました。 とても貴重な体験をさせてもらいました。 あまりの内容に若かった自分は泣きながら聞いてました。
栄養がないものと不衛生な環境じゃ、回復しない悪循環だよね…楽しみが音楽だけっていうのも音楽の偉大さが分かりますね自決させるの酷いな…戦争の話を聞くと仕事頑張れます。
私も沖縄戦のひめゆり学徒隊に関する書籍や現地の資料館等でその凄惨な出来事の一部ではありますが知見しましたので、この動画はそれを客観的に簡潔にまとめたとても素晴らしい仕上がりだと思います。ただ一点気になるところがあり、おこがましいこととは承知の上、今後見る人のためにも指摘したく思います。26:52あたりで示された石塔は動画の流れからの「ひめゆりの塔」であるかのように受け止められますが、「ひめゆりの塔」ではありません。。「ひめゆりの塔」とは27:38からの画像、資料館、第三外科壕跡の左端に写り込む腰くらいの高さのものを指します。一帯には石碑が多く、小さく目立たないので私もそれが「ひめゆりの塔」とは思わなかったです。これからも意欲的な作品を期待します。
途中からBGMが気になって内容が入って来なくなってしまいました。内容によってはBGMが無い方がいい場合もあるかもしれません。
崖から飛び降りて自決って話しだけは聞いた事ありましたが、それだけでは無かったんですね。詳しく知れて良かったです。
MONGOL800の曲にひめゆり学徒体隊の事を歌っているであろうものがあります(Himeyuri〜ひめゆりの詩〜)「平和と呼ぶには遠く 歴史にするには早く」「青空の下 友は逝った 鉄の雨に打たれて」 「歴史にするには早過ぎる」等の歌詞はとても苦しくなります
戦争して何もかも無くなること…そんな今平和である日本は幸せだと思います。なくなかった犠牲の方々に心よりお悔やみ申し上げます。
親にツアーで、連れていかれました。かなり添乗員さんから説明されたりしたとき涙が出てきました。僕も、看護助手などで一人でも助けたいと、考えて長らく看護助手しましたが、今では全身の骨が歪み、喘息肺気腫も患い、誰の事も助けれない悔しいです。散っていった、方々も苦しかったでしょうし、悔しかったと思います。想像や聴く内容より、感じたものは晴かに苦しく辛かったと思います。
壕の中の臭いですが、この世のものとは思えない悍ましい臭いだったようですね。確か具体的な臭いの説明と、その臭いを再現した小瓶が観光施設にあったかと。
ぽちっとしましたこういうことはいくらでも、学んでいかなくてはならないですね
志願制という建前で強制という流れは日本特有ですよね高校時代に野球部の応援は自由参加と言いつつ、真に受けて参加しなかった同級生が担任にボコボコにされてました担任は「俺の顔に泥を塗りやがって」と発狂していました
戦争を始める人間は自分は戦場に行かない。狡い人間
日本特有なわけないだろ
主語でかすぎぃ🙄
赤紙もあくまで強制ではないとしつつも、「もし兵士に志願しなければ、あなたの家族が周囲の人形達に何されても知らんよ~」と半ば人質を取っての脅迫みたいたなものだそうですえぐいなぁ日本の上層部
ありがとうございます!ひめゆり学徒隊のことは語り継いでいかないと行けませんね
50年ぐらい前?かな…沖縄に行くのにパスポートが要りましたね…同じ日本なのに不思議に思いました
あと右側通行だった。沖縄自動車道も数年間でしたが、右側通行で供用された国内唯一の高速道路でした。沖縄仕様左ハンドル車は今では貴重な存在。
47年程前に、友人と沖縄旅行をしました ひめゆりの塔にも行き、塹壕に花を手向けて来ました🙏✨観光案内をして下さったタクシーの運転手さんは、沖縄を内地、その他を本土と呼ばれ、運転手さん同士の会話は、英語でも無く、全く聞き取れなかった記憶が有ります平和ボケした現代人には、到底想像もつかない想いをされて来た方々・・・心よりご冥福をお祈りします合掌 🙏✨
@@sango_15沖縄県民だけど本土のことを内地と言うやで
@@machine_loveman さんそうでしたか 曖昧な記憶で失礼しました😅ご指摘どうもありがとう🍀
死にたくないのに死を選ばざるを得ない時ってつらすぎて悲しくなる。😢
それは今の価値観で考えるから。知覧の特攻隊員が書いた遺書を読んでごらん。悲しいのは本人ではなく親や兄弟、妻や子供達だから。
両親が戦争を経験しました。よく当時の話を聞かされてましたが、今の子は恵まれている、贅沢だ、平和ボケしているなどなど、当時の大変さを語っていました。確かにその通りだとは思います。けど、その方がいいよな。平和が一番。戦争なんてあってはならないもの。そう願ってはいても、どこかの国でまた起こってしまう。理由は様々あるのだろうけど、話し合いでなんとかできればいいのに。腹が立つから殴るのと一緒だと感じてしまう。
修学旅行でひめゆりの塔に行きました。辛かった。特にひめゆり学徒隊だった方が話されている動画が印象的です。実際に体験された方の話だから様子が鮮明に想像できて辛かった。まだ行ったことがない人にはぜひ行って欲しい。こんなこと二度と起こしてはならないと心の底から思える場所だった。ひめゆり学徒隊の方たちが笑顔で写ってる写真は心に深く刺さりました。
こんなにも酷い事もあったのですね…。許せないのは戦争より政府!命を道具にするこの国!
😢😢戦争は二度としてほしくない。
それは相手に言うんだな
@@チャモロ-d9pいや、日本が決定するんだよ
したくないならお金を持つこと。戦争が起こるのは貧しいから。金持ち喧嘩せず。
@user-ji9ynj5oj6cハルノートを受け入らなかったから、目の上のたん瘤だた日本を戦争に仕向けたのです。真珠湾攻撃の一報を聞いたルーズベルトとチャーチルは小躍りして喜びました。負けてと言え日本軍の果敢に戦った雄姿を目の当たりした東南アジア諸国の独立組織がやがて奮い立ち独立を勝ち取りました。ハルノートは今で言う経済制裁です、受け入れて戦争を回避したら日本の国力が削がれ日本もやがて植民地になっていました。
@@沙流汰彦第一次大戦中に世界一の金持ち国になったアメリカは後に、自分からシベリア、ベトナム、グレナダ、パナマ、イラクに戦争をしかけてしていきました。
自分のひいおじいちゃんが亡くなる前に「戦争はダメだなぁ」とそれだけ口にして亡くなりました。戦争のことは話さない人だったらしく、それをおばあちゃんから聞いた時「誰も思い出したくない出来事であった」ということを改めて認識しました。本当に残酷な出来事を再び起こさないことが大切だと思いました。
修学旅行で沖縄に行き、ひめゆり学徒隊だった方の戦争の話を聞きました。真水はあるはずもなく、人間の血と油が浮いた泥水を飲んだ、と話していました。もちろん私はその光景を見たわけではありませんが、話を聞くだけでそのイメージが頭に残り、凄まじい印象だったと覚えています。
人間って愚かだよな…考えるための脳は発達しているはずなのに和解より略奪や紛争を選ぶんだから…
賢いよ、過去の過ちを認め、反省できるぐらいはね。だけどその賢さを持っていても、和解が机上の空論に過ぎないことがあるんだよ。
@ponponta927 そうだね、賢いんだよ…そんなことは誰だってわかってるんだだが和解をするために頭を使わず心を持たず権力を振りかざし奪う者がいる、歴史に名を残すそういう人物だっているだろう?そういう人が及ぼす被害は無視できないほど大きい、これもまた事実だ。机上の空論にしてしまうかどうかそれさえ人間の資質が問われるんじゃないかな、机上の空論を言い訳にしてしまうか考えを巡らせ策を講じるかそれさえも選ぶ脳が我々にはある。そのうえでミスマッチをわざわざ選ぶそれが愚かなんだよ
自分も含めてなんだかんだ不平不満は言っても、衣食住に困らず貧しくとも、まずは日々を過ごせている事に感謝するべきだね
生き残った生徒達も心に傷を追い、普通に生きて行けるまで相当な時間が掛かっただろう。その人たちのケアも出来なかっただろう。戦争は悲惨、絶対に起こしてはならない。これからもずっと語り続けてほしい。彼女達の御霊に報いるために😢
ひめゆり資料館で読んだ手記で「排泄の世話や血を触った手でおにぎりを握って、衛生面でも過酷だった」と言う文面を見て、リアルに想像して目の前が真っ白になった記憶がある。
ひめゆり学徒隊の話は色々なところで紹介されるけど、鉄血勤皇隊や通信隊がどんな日常だったかは全然紹介されない不思議。女学生の悲劇にばかりフォーカスするというのは、やはり戦争は男の役割という事が無意識的に刷り込まれているんだろうか。
父が小学生の頃の担任の先生が、ひめゆり学徒隊の生き残りの方でした。
生き抜いたおじいおばあは本当にすごいよひいおばあ達は自分が18歳なるまで4人とも生きていた!当時幼稚園生くらいだったおばーは毎日ひもじくて芋ばっか食べてたと言ってたもう1人のおばあは看護師をしていて逃げてる時に空爆にあい目の前でお姉ちゃん、おばさんたち親戚が巻き込まれたと聞いたあとの2人は話す機会は無かったなあ戦争は絶対あってならない悲しすぎる
昔、NHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」のうちなー噺家の藤木勇人さんの回で、沖縄の小学生たちに昔の沖縄言葉を聞きに行こうとフィールドワークをした際、取材を受けたおじいの1人が「弟は目の前で機関銃で撃たれて死んだ」とさらりと言っていて驚いたな。
彼女たちはどんな気持ちでいたのか…本当に胸が痛いです。
この時代の方々が、これだけツラい現実を経験してたのに、今の自分は少し壁に当たれば挫けてばかり。自分の試練など、この当時の方々の状況と比べたら余りにぬるく、その自分の甘さを思うと情けなく思う。どうか安らかに。そして戦争という余りに下らないイベントを起こすようなリーダーは、早々にこの世から消えて欲しい。歴史にこれだけ恐ろしい事があったのを知ってる現代の人間が、何故それを引き起こせるのか、愚の骨頂の極み。痛みを知らぬ者、想像出来ぬ者は上に立ってはならない。これからの時代皆で力を合わせられる世界になってほしい。
小学生の授業て見た「さとうきび畑の唄」まじ衝撃だったな...何段ものベッド?の上段の人が末期?でおしっこ垂れ流して下の人にかかるやつ その人も動けないし
数年前沖縄行ったとき首里城の近くの男子学徒隊の展示室と糸満の平和祈念資料館に行きましたが特に後者の展示物が衝撃的でした。しかしひめゆり資料館は時間がなくスルーしてしまい後悔しています。次沖縄行くときは必ず行きます。
これだけ悲惨な出来事があってもまだ戦争をしようとする世の中に絶望感しかありません一番安全な所から指示だけする上層部に操られて両国の何も知らされていない若い人たちだけが死んでゆくどうせ死ぬなら死ぬ気で逃げて欲しいと思います実際に戦う人が居なくなれば戦争はできない
内容とBGMが合ってない。。。
アイコンきっしょ
ひめゆり学徒隊の中に、お母さんが居る!と、娘に教えてもらってから自分がその方の生まれ変わりなのかも?と思うようになってしまった。今度娘が沖縄へ修学旅行へ行きひめゆりの塔へ行くようなので、しっかり学んでくれたらと思ってます。
現代の日本があるのは、日本民族は尊厳を護るためならば、命乞いすらせずジシもいとわないと世界に、知らしめてくれたお陰です。特攻や沖縄の方々が示されてくれた事でドレイにはならないと戦勝国は、無理強いできませんでした。有り難うございました。感謝しかありません。
いやどう考えても冷戦と日本の立地のおかげだろ?
@@無-u7s 私の亡き父は、ヨか練の時に週線を迎えました。当時の遊食人種の70%はど〇イにされていたので、志願したと言ってました。昭和4年生まれで、15歳の時だったそうです。
パパ活女子がキラキラで女の子の憧れ〜とか、大久保の立ちんぼ、トー横キッズとか見てると戦争で若人が命を賭して守った未来がこれか...ってあの1コマが刺さる刺さる
キャバクラ通ってるおっさん見る度にに同じことを思うよ
@@きりそんへっかー出たよ男ガー女ガー
うーむ比べると無理だ
なぜ下しか見ないのかな?
今の女の子たちを悪く言いたいのだろうが、そのダシに戦争を使うのはどうかと思うよ。
もうすぐ慰霊の日が来ますね。私のおじー、おばぁも戦争経験者ですが、聞いても絶対に話してくれません。私も何度かひめゆりの塔に行きました、たくさんの人の犠牲の上に今の平和が成り立っている事を忘れず、一生懸命生きていきます。そして、自分の子供達にも忘れないように受け継いでいきます。戦争で亡くなった方達が生まれ変わったら、当たり前の幸せを感じられる人生を送れますように。
本当に 勿体無い 命達です
そして今は増え続ける後期高齢者の病院通いの為に、現役世代から税が徴収されて産まれた筈の子供がどんどん減ってるという真実
平和が一番、貴女たちの犠牲の上に今の平和があります。安らかに、お休みください。
沖縄の政治家達が日本からの米軍事基地の事で、妥協しなく、反対の姿勢をとる事の訳原因が解った、理解する事ができる。沖縄県民だけが、戦争終結まで、戦争のツケを支払わせられた。
戦争、いつも苦しめられるのは庶民。
うちのおばーは3歳でした。姉の背中に背負われて、飛来して来る爆弾を見たのを覚えています。4人に1人亡くなったって…良く生き残れたなぁ。
安全な環境でこうして動画を観られる環境に感謝
難しい問題について、行き届いた解説をしていただき、ありがとうございます。死者が軍の解散命令後に集中しているという指摘に驚きました。軍司令官の立場としては、抗戦を放棄する決定をしたとき、敵に対し民間人の保護を依頼することは可能だったはずです。今まで気づきませんでした。(なかに、聖火リレーの画像があるようです。これは差し替えては)
あの…お話は本当に興味深く、とても悲しい史実として学ばせて頂きました。本当に良い動画でした。ただ、それだけにどうしてもBGMがお話の内容と合わずにとても残念に感じました…これだけ素晴らしい動画なので、本当にそれだけが気になってしまって…一視聴者の一意見ですが、もう少し静かなBGMならもっと雰囲気にも合ってもっといい動画になるのでないかと思います…!
嫌なことに集団でNOを突きつけ多数派をつくり、「法」で対抗するのではなく、みんなで辛くなり、反対者を「空気」で強要する国民性は全く変わらんな。先人の犠牲から学び、選挙で意思表明をしようと改めて思います。
ひめゆり学徒隊、名前等耳にしたことがありました。自分が当時の女学生ならきっと確実に学徒隊に入れられ奉仕してた立場…、でも私はとても臆病なので負傷した兵隊さんの手術や治療に立ち合うなんてしたら気がおかしくなってしまっていただろうと思います、当時の女学生もきっと私みたいな臆病な生徒も歯を食い縛りながら耐えたんだろうな…、もう2度と戦争が起きないと良いなと改めて思いました、とても悲しいですが勉強になりました。ありがとうございました(^.^)(-.-)(__)
日本人なら忘れてはならない事です いつまでも後世に語り続けていく事ですね 事実は事実です
看護助手、なんて言ってるけど環境や勤務体制の過酷さを考えたら看護師の自分でもゾッとする。防空壕の中は比較的安全は確保されていた部分もあったかもしれないけど、排泄物や体液まみれ、垢やフケまみれというのは想像以上に臭い精神的にもきつい。動員された学生はどこであっても心休まらなかったろうし、誰にも頼れず大変だったと思う。もう2度とこんな事が起こってはならないと思う
修学旅行で自決した穴を見ました。なんで国の一握りの人間が決めた事が国民をこんなに苦しめるのか。国ってなんなんだろう。
私の高校の保健の先生はまだ見習い期間の看護婦さんだったそうで「私は戦地に行かされてね。O型だから進んで『私の血を使って下さい‼️O型です』と言って血液奉仕をしたのよ。戦争が終わって引き上げる時に血が無いから抱えられて帰って来た」というお話しを聞きましたそしてO型の生徒(私もですが)に『良かったわねぇ〜戦時中ではなくって』と言い、体調不良の生徒が保健室に行くと『なんですかこれくらい💢戦時中は.....』と怒られてました
ひめゆり学徒隊の集合写真を見ると、みなさん同じヘアスタイルなんですよね学年によって、ヘアスタイルが決められていたパッと見で学年がわかるようになっていたそうです学年ごとの集合写真を撮ると、みなさんお揃いになるみたいですね
確か女學生2年生まで前髪ぱっつんおかっぱで女學生3年生から前分けおさげでしたっけ?
20:50荒崎海岸の、ひめゆり学徒隊と教師が自決した場所ですね(手榴弾による自決で、海に身を投げたのではありません)。その2日後、遠くに見える摩文仁の丘の壕で牛島中将が自決し、沖縄戦が終結したことになってます。今月の大潮の干潮時に、魂魄の塔下の海岸から荒崎まで歩きました。学徒隊以外にも多くの人が、この海岸で死んだのですね。
2007年12月に、ひめゆりの塔、平和祈念資料館へ参りました。沖縄在住の精神科医、越智恵子先生が書いておりますが、ひめゆり学徒隊で亡くなった女学生が昭和40年代に転生されていて、福祉の仕事に付いていたそうです。平和祈念資料館に展示されている写真の中に、その方のものもあり、ご本人は確認をされたそうです。このことを知り、私も実際に訪れてみました。
内容は良かったのですが、テロップの文字が小さすぎて読みづらかったです😢
字幕をつけよう😂
何年か前にひめゆり平和記念館にいきました。当時を経験した人に当時の悲惨さの開設を聞きましたが聞いただけで悲しくなりました。すごく悲惨だった話は今でも覚えてます。終戦の日が近くなれば世代が変わったせいか、戦争の番組が少なくなってきたと思います。今の若い人達にも唯一の被爆国、戦争の悲惨さわかって伝えてもらいたいです。艦これやアズールレーンみたいな当時の戦艦を擬人化してますが、これから過去にあった戦争の悲惨さを知っていただけるといいと思います。
急に解散命令って酷いな😢みんな心細かっただろうに…想像を絶する体験だったんだろうな…
アメリカ人の方が優しかった
国民をバカにしないでといいたい国に対して
ひめゆり学徒隊の生存者であった宮城喜久子さんの講演で、「戦後しばらくは沖縄戦の話をすることができなかった」「夫や子供にも学徒隊の生き残りであることは言わなかった」と聞きました。「多くの友人が戦地で亡くなったのに、なぜ自分は生き残ったのか? 『私たちは生きられなかったのに、なんでお前は生きているんだ?』・・・そう言われている気がして学生時代の写真も見れなかった」そうです。その後、ひめゆり平和祈念館の建設で沖縄戦の実態を訴えていくわけですが、「私たちが生きている間に真実を語り継いでいかなければ、亡くなった学友たちが存在していたという事実も葬られてしまう」と生存者たちで声を掛け合って過去と向きあい始めたそうです。あれほど恨んでいるかのように思えた写真の中の学友たちの表情が「真実を伝えてくれてありがとう」というほほ笑んだ表情に初めて見えたとありました。戦争は兵士だけの惨状ではないということを肝に銘じなければと思いました。ちなみに沖縄戦は当時の大日本帝国幹部にしてみると本土決戦までの時間稼ぎ的な要素が強く、その間に長野の松代に大本営を建設していた事実もあります。牛島司令官が「最後の一兵まで戦え」と命令をして自決したことにも、沖縄は捨て石であったことを感じます。
子供会の劇で見たけど凄く怖かった思い出がある
21:50 おーい、1964年東京五輪の具志頭での聖火リレーではないのかい?
日本政府はお国のために戦った彼等にちゃんと報いたのかね?
報いてないですね。今も昔もこの国は、使い捨ての駒にしか思ってないでしょう。
私が幼い頃には白い軍服を着た傷痍軍人(五体に欠損があり働けない復員兵)が道端で楽器を弾いて、物乞いをしておりましたよ。結局、国は何もできなかったのです。日本は終戦後「国の形」を守るだけで精一杯だったのでしょう。
@@ヒストレイン今はともかく昔は違くないか?
報いるのは今生きてる我々だろうが。
当時、日本政府は先の大戦で家族を失ったり家財を失ったりした国民への補償は何もしなかった。大陸からの引揚者には補償がなされたが、それとて彼らが大陸で失った物に比べれば細やかな物でしかない。
宮城喜久子さんのお話を私は一生忘れないと思ってます。
腕がなくなろうと、脚がなくなろうと、死ぬまで戦う……
幼少期、沖縄陸軍野戦病院の目の前に住んでいました。戦争はいけません
いつも「このコスメ買わなきゃ損❣️」みたいなショートで聞く声だから中身入ってこない 学びたいのに
沖縄に行くなら、ひめゆりの塔に必ずいけ!これが担任の口癖でした。月桃の花 ふとした時に歌ってます
学校で見ましたすごい切なかったです
修学旅行が思い起こされる行く前もさとうきび畑の歌をみんなで見ていつも騒がしいクラスがその日はしんとしてたのが印象に残ってる
この資料館に行き従姉は看護師になりました。
子供たちの笑顔を守るために沖縄県民は今も戦っている
このチャンネル大好きだけど、こんなにBGMが邪魔だと思ったことはないかも知れません。本当に本当に戦争は悲しい。
命の危険があるから飯上げに行く前には服を整えて挨拶してから行ってたってもう言葉もない…毎日が死と隣り合わせ…
なんか想像してたのと全然違ったな……女性で結成された学徒特攻兵みたいなものだと思ってた。そうであってもそうでなくても悲しい最期だけど。
実際に女学生からの志願兵が数名いて突撃して戦死した女学生居ましたよ。米海兵隊が撮影した死体写真が残っていて小学校の時にみました。
これ見てなるべくケンタッキーの骨をギリギリまで食べたいと思います😢
ひめゆり学徒隊の資料館には行ったことがある。小学生の頃沖縄に行くってなった時にどうしてもそこに連れて行ってくれってお願いしたんだ。ゴウには予約できてなくて入れなかったけど記念館を見た。知識も何も無い子供だったけど鳥肌が立ったのは覚えてる。ゴウから出てきた人がないていて入れなかった事をすごくくいた。
修学旅行でガマに入りましたが途中で気分が悪くなる生徒続出でした。ひめゆり学徒隊の方のご冥福をお祈りします
一ヶ月前に修学旅行で沖縄いってここのひめゆりの塔も行ったけど本当に悲惨だった
平時から国民が地政学や軍事の事を考えて備えておかないと結果としてこうなるって恐ろしい例だね、今のままだと近未来待ったなしの隣国との戦争では大東亜戦争など比べようも無い大惨事になると思う。ABCD列強と日本との戦力差や、列強国とどう戦えばよいかについて国民よりも小学生の方が真面目に考えていたし詳しかったって言うんだからもう恐怖でしかない。
末期戦はどこだって悲惨だなぁ
修学旅行で沖縄行った時めちゃくちゃヤンキーの奴でさえ心を痛めて泣いていた。
哀悼の意を捧げます。
ヤンキーなんて平和だからできる事なんですよね。
遠縁がひめゆり学徒隊でした。最後動けなくなり一緒に避難できず、青酸カリを飲んだ亡くなった、と聞いた記憶があります。
取り上げてくださりありがとうございます。
ぜひ1人でも多くの方に、ひめゆり資料館でひとりひとりの少女たちの顔写真を見て、ご自分のお子さんや周りの子どもさんを思い出してほしいと思います。今は平和でよかったね、という話ではなく、一歩間違えばまたこういう時代になるかもしれないよ、という警鐘です。
ウクライナの様な事にならない為に
改憲しましょう
親族に……想像しか出来ませんがご本人もご家族もさぞ辛かったでしょう。痛ましいです。なのにまた戦争の地にしようとしている岸田が自民党が許せません!!
ひめゆりの塔 伺いました。
私にも小さな娘が居るので苦しくて彼女達の辛さを思い 吐きそうになりました。 娘は当日で4歳だったのでわからなかったかも知れませんが、尊い純粋な命を亡くした事を必ず忘れずに 2度と同じ事のないように伝えます。
今の日本があるのは彼女達のおかげ様でもあります。
心から 詳しい。 そして、ありがたい仏様です
詳しいではなく、悔しい…
大切なところ、失礼致しました
何で政治家の喧嘩に私達が犠牲にならんないかん戦争は、おかしいです。喧嘩したいなら、国のトップどうしで
殴り合い殺し会えば!相手国の国民もそう思うと思う!いろんな国があって、いろんな喰違があって、戦争するんでしょう!トップどおししで、殺し会えば、結果は勝った国の勝利、私達の家族は死なんで良し、税金払いよるやろ政治家
まだ子どもなのに、こんな過酷で恐ろしいことをさせられ、どんなに辛かったことだろうか…
大丈夫過去だから。未来の今生きてる人間を大切にしましょう
@@ちゃんぴい-q2tいいこと言ってるのに前文で台無し
ひめゆり学徒隊って、私と一緒くらいの年齢だよね。(高校2年)私は今、勉強して、部活して、恋愛して。つらいこともあるけど、幸せなことなんだよな。こういう人がいて、命をつないでくれたから私たちが生まれてこれたんだよな。こういう人たちのためにも、私たちが、戦争を起こさないよう、戦争の恐ろしさを語りついでいかないといけない。
おこしたの日本じゃないんだけどな
@@プロミス-c5zそういう問題じゃないやろ、、
ほくやんでる
@@Gdrte 貴方が御存知でも、皆が知ってる訳ではありません。廃線国なので、今の子供達の歴史教科書は隠蔽されて、捏造されてる部分が多いからです。
@@Gdrteそうですかね?戦争の原因追求は徹底的にしたほうが良いと思いますけど。この動画はまるで日本だけが悪いかのような連合国側の意見や視点で描かれてますが、連合国側の非も周知し、枢軸国側の立場も論ずるべきだと思いますよ。そうしなければまた戦争は繰り返します。それが本当の反省です。
修学旅行で学徒隊だった方に、お話を伺いました
やはり解散命令後に彷徨っている時が、一番心細かったと話されていました
米兵に会えば何をされるかわからず、日本兵に会えば自決を強要されるかも知れず、誰も頼れる人がいなかった
あと砲撃に遭って、今でも左膝に散弾が残っているそうで…
それが神経に触れ、痛みが出るたびに当時を思い出すそうです
ただオキナワでもヒロシマでも、当時女学生だった方からの話で一番興味深いのは戦争が始まる前、普通に学校に通っていた頃の話なんですよね
時代も環境も便利さも違うけど、ごく普通の中高生だったことが窺えます
「なんだ、今の中高生と感覚的に変わらないじゃないか!」
と思いました
もし機会があれば、戦争が激化する前の話も聞いてみるといいと思います
いかに平凡な日々が幸せなのかと実感できると思います
アメリカ軍は普通に民間人を殺害してたからなー
「ただオキナワでもヒロシマでも、当時女学生だった方からの話で一番興味深いのは戦争が始まる前、普通に学校に通っていた頃の話なんですよね」
何の話をしてるんだ?
今はタブレットやエクセルの授業、電子機器の普及など大きく授業の光景は変化してるらしいけど、ほんの数年10数年前は戦前と変わらず鉛筆消しゴムの世界だったから、戦前の授業風景は今30代以上の人にとっては当時とそう変わらなさそうですよねぇ。違うのは窓の外の光景とシャーペンやテレビの話題の有無とかかな。恋バナは古今東西あるんでしょう。そういう子達が戦争によって大空襲や原爆で死に、沖縄戦では自決を…。
どうにも戦前の彼らも私達と変わらない生活をしていたという現実というのはなかなかに受け入れ難いですね…。
記念館に行くと、遺品として当時女学生にめっちゃ流行してたキャラグッズメモ帳がありまちた…
@@katsuo-iwasi 分かって上げなさいって、人間の心理は余りにも苛烈な
物を見続けていると特に女性はその記憶に蓋をしてしまうんですよ。
これも戦争後遺症(PTSD)の一つです。
その為に楽しかった時期だけしか思い出せなくなる事は良く有る話です。
無理やり大人にならざるをえかった子どもたちを思うと胸が痛い。親となった今は送り出した親御さんの気持ちを思うと胸が張り裂けそうです。子どもたちが子どもらしくいられるそんな世の中を守りたいですね。
絶対に繰り返してはならないし、忘れてはいけないと思います。どうぞ安らかに眠りください。
大がかりな手術も麻酔なしで行われる…これも戦争の怖さです。
現代になった今でも戦争で行われてると思うと恐ろしい…
我が家は父が昭和14年生まれで、空爆や機銃掃射を体験した話は聞きました。。
戦争体験は、フンワリした耳障りのいい報道にして子供にも伝わりやすいものに、とされているのを感じますよね。😢
麻酔なしでやると
多くは痛みでショック死するそうです。
祟られても文句いえないような
最期を遂げられた方々ばかりだったのでしょうね。合掌
修学旅行の前に事前学習で「ひめゆりの塔」をみんなで観たんだけど、「しんどくなったら無理をせずに退出しなさい」と前もって先生から注意があって、どんな恐ろしいものを見せられるのかと怖かった。
いざ観始めると、やはり途中で体調が悪くなって退出する生徒が複数でた。
多少マイルドになっているはずの映画でもこれだから、実際に体験した当時の学徒たちがどんな思いだったか、想像を絶する。
沖縄県民です。
沖縄戦のひめゆり学徒隊を取り上げていただきありがとうございました。
記録がほぼなく、物語になりにくいのが男子の「鉄血勤皇隊の切込み」です。改造した火薬の箱「急造爆雷」を背中に抱え、わが身ごと戦車に踏ませるんです。この火薬量では戦車は破壊できないので、キャタピラだけ切断し一部の機能を失わせるんです。なので、敵に気づかれにくい小柄な生徒が選ばれたようです。切込みはほぼ全滅なので証言・記録にも残りません。
上官命令により、これを中高生の子供がやるのです。身の毛がよだつほど怖かったと思います。
そんなことがあったのですか😭
ご先祖の皆様本当に有難うございます。
そしてこんな日本になってしまいすみません。
史実をありがとうございます。私もそのお話をひめゆりの少女で知り驚きました。特攻隊や回天などの肉弾戦は有名ですが、唯一の地上戦が行われた沖縄だからこそこんなおぞましい作戦が行われたということかと心底恐ろしくなりました。詳しくありがとうございます…。
ひめゆり学徒隊達に感謝と哀悼の誠を捧げます
風呂にも入れない!ウォシュレットもないってなんなんってね!!
?
アメリカ兵が怪我をした日本の子供に消毒薬を一瓶振りかけるのを見て、あー日本が勝てるわけがないと思ったという手記を読んだことがある😢
戦争に勝ってたら、子供にも消毒液をひと瓶使うから勝てたって言われてそう。
@@hm6077
余裕で勝てるからそんなことしてるわけで、
日本が戦争に勝てるような戦状だったらそんな事しないと思う
日本婦人達は竹槍で訓練 愚かな戦争でした。
そもそも、日本が刀で戦っていた時代、アメリカは銃で戦っていたことを考えると、アメリカとの戦争はあまりにも無謀過ぎた感はある。それ以外にもアメリカという国は、第二次世界大戦当時には既に『SPAMの缶詰』や『ジッポライター』等も開発していたのですよ。軍事力以外でも日本より遥かに進んでいたんです。
ひめゆりの塔は映画で観たが、戦争がどれだけ悲惨か、嫌というほど突きつけられ思いがした。この話しはこれからも語り継がなければならない。比較的最近では、82年、95年頃に映画化されている。もう30年近く経つ。またこの映画をリメークしてつくって欲しい。
修学旅行で沖縄に行った時、元ひめゆり学徒隊の方の話を聞きました。
「生きている間は、若い人に戦争の話を語り継がなければならない」と言っていました。
修学旅行の時にひめゆり学徒隊だった方に当時の話を聴かせていただいた、銃声が途切れない中水や食料を命懸けで運んだこと、怪我をした方はもちろん友達が次々に命を落としていったこと、アメリカ兵に捕まったら嬲られた挙句に頃されるとみんな信じていて自決用に手榴弾を渡されていたこと、最後は追い詰められ投降を呼びかけられる中自決しようと友達と抱き合って手榴弾のピンを抜いたこと
それが不発で助かったこと
アメリカ兵はみんな親切で充分な食事やケアをしてくれて、捕虜になるくらいならと自決した友達たちを思ってとても悔しくて辛かったと、そこで初めて声を震わせられていた
想像を絶するほど壮絶な環境を生き抜いてきたんだなって思うと今、当たり前のようにご飯を食べられたり、睡眠を取れたり、勉学ができたり、家族や恋人と遊べたり、できる環境に感謝すべきだと思いました。
是非ひめゆり記念館へ行って欲しい。私も何回も行きました。語り部の生き残られた学徒隊の方も高齢になられそれでも一生懸命伝えて下さります。オシャレも恋愛も経験せず亡くなられた方の写真とどこでどんな亡くなられたかが展示されています。本当に胸が詰まる思いになりますが、決して忘れてはいけない歴史です。ちなみに撤退命令があり残していかなければならない兵士にあたえられたのは牛乳では無く、青酸カリ入の練乳です。
この頃は兵士もこの間まで民間人だった、みたいな感じだったんじゃないのかな。めちゃくちゃな時代だよね
ミュージカル座で、毎年のように、ひめゆり学徒隊の舞台やってますね。
実在した先生を役で演じたり、実際に起こった出来事をリアルに再現し、涙なしでは見られませんでした。
集合写真の眩しい笑顔が本当に辛い
1日も早く地球上から戦争がなくなりますように
もしひめゆりの塔に行く機会があったら500mほど離れたところにある第一外科壕にも足を伸ばすことをお勧めします
たぶんこっちの壕のほうがより当時のままに近い状態だと思うので
今ご長寿の沖縄の方が若い頃こんな悲惨なことになってたのかと思ったら、辛くて仕方ない。
でも明るい方が多い様に見受けられ本当に凄いと思う
子供の頃にNHKで観た白黒のひめゆり隊の映画が今でも脳裏にこびりついてる
20数年前、ひめゆり資料館で実際に学徒隊として従事していた方々から話を聞く事が出来ました。
とても貴重な体験をさせてもらいました。
あまりの内容に若かった自分は泣きながら聞いてました。
栄養がないものと不衛生な環境じゃ、回復しない悪循環だよね…
楽しみが音楽だけっていうのも音楽の偉大さが分かりますね
自決させるの酷いな…
戦争の話を聞くと仕事頑張れます。
私も沖縄戦のひめゆり学徒隊に関する書籍や現地の資料館等でその凄惨な出来事の一部ではありますが知見しましたので、この動画はそれを客観的に簡潔にまとめたとても素晴らしい仕上がりだと思います。
ただ一点気になるところがあり、おこがましいこととは承知の上、今後見る人のためにも指摘したく思います。
26:52あたりで示された石塔は動画の流れからの「ひめゆりの塔」であるかのように受け止められますが、「ひめゆりの塔」ではありません。。「ひめゆりの塔」とは27:38からの画像、資料館、第三外科壕跡の左端に写り込む腰くらいの高さのものを指します。一帯には石碑が多く、小さく目立たないので私もそれが「ひめゆりの塔」とは思わなかったです。
これからも意欲的な作品を期待します。
途中からBGMが気になって
内容が入って来なくなってしまいました。
内容によってはBGMが無い方がいい場合もあるかもしれません。
崖から飛び降りて自決って話しだけは聞いた事ありましたが、それだけでは無かったんですね。詳しく知れて良かったです。
MONGOL800の曲にひめゆり学徒体隊の事を歌っているであろうもの
があります(Himeyuri〜ひめゆりの詩〜)
「平和と呼ぶには遠く
歴史にするには早く」
「青空の下 友は逝った
鉄の雨に打たれて」
「歴史にするには早過ぎる」
等の歌詞はとても苦しくなります
戦争して何もかも無くなること…そんな今平和である日本は幸せだと思います。なくなかった犠牲の方々に心よりお悔やみ申し上げます。
親にツアーで、連れていかれました。かなり添乗員さんから説明されたりしたとき涙が出てきました。
僕も、看護助手などで一人でも助けたいと、考えて長らく看護助手しましたが、今では全身の骨が歪み、喘息肺気腫も患い、誰の事も助けれない悔しいです。
散っていった、方々も苦しかったでしょうし、悔しかったと思います。
想像や聴く内容より、感じたものは晴かに苦しく辛かったと思います。
壕の中の臭いですが、この世のものとは思えない悍ましい臭いだったようですね。確か具体的な臭いの説明と、その臭いを再現した小瓶が観光施設にあったかと。
ぽちっとしました
こういうことはいくらでも、学んでいかなくてはならないですね
志願制という建前で強制という流れは
日本特有ですよね
高校時代に野球部の応援は自由参加と言いつつ、
真に受けて参加しなかった同級生が
担任にボコボコにされてました
担任は「俺の顔に泥を塗りやがって」と発狂していました
戦争を始める人間は自分は戦場に行かない。狡い人間
日本特有なわけないだろ
主語でかすぎぃ🙄
赤紙もあくまで強制ではないとしつつも、
「もし兵士に志願しなければ、あなたの家族が
周囲の人形達に何されても知らんよ~」と
半ば人質を取っての脅迫みたいたなものだそうです
えぐいなぁ日本の上層部
赤紙もあくまで強制ではないとしつつも、
「もし兵士に志願しなければ、あなたの家族が
周囲の人形達に何されても知らんよ~」と
半ば人質を取っての脅迫みたいたなものだそうです
えぐいなぁ日本の上層部
ありがとうございます!
ひめゆり学徒隊のことは語り継いでいかないと行けませんね
50年ぐらい前?かな…
沖縄に行くのにパスポートが
要りましたね…
同じ日本なのに不思議に思いました
あと右側通行だった。沖縄自動車道も数年間でしたが、右側通行で供用された国内唯一の高速道路でした。沖縄仕様左ハンドル車は今では貴重な存在。
47年程前に、友人と沖縄旅行をしました ひめゆりの塔にも行き、塹壕に花を手向けて来ました🙏✨
観光案内をして下さったタクシーの運転手さんは、沖縄を内地、その他を本土と呼ばれ、運転手さん同士の会話は、英語でも無く、全く聞き取れなかった記憶が有ります
平和ボケした現代人には、到底想像もつかない想いをされて来た方々・・・心よりご冥福をお祈りします
合掌 🙏✨
@@sango_15沖縄県民だけど本土のことを内地と言うやで
@@machine_loveman さん
そうでしたか 曖昧な記憶で失礼しました😅
ご指摘どうもありがとう🍀
死にたくないのに死を選ばざるを得ない時ってつらすぎて悲しくなる。😢
それは今の価値観で考えるから。
知覧の特攻隊員が書いた遺書を読んでごらん。
悲しいのは本人ではなく親や兄弟、妻や子供達だから。
両親が戦争を経験しました。
よく当時の話を聞かされてましたが、今の子は恵まれている、贅沢だ、平和ボケしているなどなど、当時の大変さを語っていました。
確かにその通りだとは思います。
けど、その方がいいよな。
平和が一番。
戦争なんてあってはならないもの。
そう願ってはいても、どこかの国でまた起こってしまう。
理由は様々あるのだろうけど、話し合いでなんとかできればいいのに。
腹が立つから殴るのと一緒だと感じてしまう。
修学旅行でひめゆりの塔に行きました。
辛かった。特にひめゆり学徒隊だった方が話されている動画が印象的です。実際に体験された方の話だから様子が鮮明に想像できて辛かった。
まだ行ったことがない人にはぜひ行って欲しい。こんなこと二度と起こしてはならないと心の底から思える場所だった。ひめゆり学徒隊の方たちが笑顔で写ってる写真は心に深く刺さりました。
こんなにも酷い事もあったのですね…。許せないのは戦争より政府!命を道具にするこの国!
😢😢戦争は二度としてほしくない。
それは相手に言うんだな
@@チャモロ-d9pいや、日本が決定するんだよ
したくないならお金を持つこと。戦争が起こるのは貧しいから。金持ち喧嘩せず。
@user-ji9ynj5oj6c
ハルノートを受け入らなかったから、目の上のたん瘤だた日本を戦争に仕向けたのです。真珠湾攻撃の一報を聞いたルーズベルトとチャーチルは小躍りして喜びました。負けてと言え日本軍の果敢に戦った雄姿を目の当たりした東南アジア諸国の独立組織がやがて奮い立ち独立を勝ち取りました。ハルノートは今で言う経済制裁です、受け入れて戦争を回避したら日本の国力が削がれ日本もやがて植民地になっていました。
@@沙流汰彦第一次大戦中に世界一の金持ち国になったアメリカは後に、自分からシベリア、ベトナム、グレナダ、パナマ、イラクに戦争をしかけてしていきました。
自分のひいおじいちゃんが亡くなる前に「戦争はダメだなぁ」とそれだけ口にして亡くなりました。戦争のことは話さない人だったらしく、それをおばあちゃんから聞いた時「誰も思い出したくない出来事であった」ということを改めて認識しました。本当に残酷な出来事を再び起こさないことが大切だと思いました。
修学旅行で沖縄に行き、ひめゆり学徒隊だった方の戦争の話を聞きました。
真水はあるはずもなく、人間の血と油が浮いた泥水を飲んだ、と話していました。
もちろん私はその光景を見たわけではありませんが、話を聞くだけでそのイメージが頭に残り、凄まじい印象だったと覚えています。
人間って愚かだよな…考えるための脳は発達しているはずなのに和解より略奪や紛争を選ぶんだから…
賢いよ、過去の過ちを認め、反省できるぐらいはね。だけどその賢さを持っていても、和解が机上の空論に過ぎないことがあるんだよ。
@ponponta927 そうだね、賢いんだよ…そんなことは誰だってわかってるんだ
だが和解をするために頭を使わず心を持たず権力を振りかざし奪う者がいる、歴史に名を残すそういう人物だっているだろう?
そういう人が及ぼす被害は無視できないほど大きい、これもまた事実だ。
机上の空論にしてしまうかどうかそれさえ人間の資質が問われるんじゃないかな、机上の空論を言い訳にしてしまうか考えを巡らせ策を講じるかそれさえも選ぶ脳が我々にはある。そのうえでミスマッチをわざわざ選ぶそれが愚かなんだよ
自分も含めて
なんだかんだ不平不満は言っても、衣食住に困らず
貧しくとも、まずは日々を過ごせている事に感謝するべきだね
生き残った生徒達も心に傷を追い、普通に生きて行けるまで相当な時間が掛かっただろう。その人たちのケアも出来なかっただろう。戦争は悲惨、絶対に起こしてはならない。これからもずっと語り続けてほしい。彼女達の御霊に報いるために😢
ひめゆり資料館で読んだ手記で「排泄の世話や血を触った手でおにぎりを握って、衛生面でも過酷だった」と言う文面を見て、リアルに想像して目の前が真っ白になった記憶がある。
ひめゆり学徒隊の話は色々なところで紹介されるけど、
鉄血勤皇隊や通信隊がどんな日常だったかは全然紹介されない不思議。
女学生の悲劇にばかりフォーカスするというのは、
やはり戦争は男の役割という事が無意識的に刷り込まれているんだろうか。
父が小学生の頃の担任の先生が、ひめゆり学徒隊の生き残りの方でした。
生き抜いたおじいおばあは本当にすごいよ
ひいおばあ達は自分が18歳なるまで4人とも生きていた!
当時幼稚園生くらいだったおばーは毎日ひもじくて芋ばっか食べてたと言ってた
もう1人のおばあは看護師をしていて逃げてる時に空爆にあい目の前でお姉ちゃん、おばさんたち親戚が巻き込まれたと聞いた
あとの2人は話す機会は無かったなあ
戦争は絶対あってならない悲しすぎる
昔、NHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」のうちなー噺家の藤木勇人さんの回で、沖縄の小学生たちに昔の沖縄言葉を聞きに行こうとフィールドワークをした際、取材を受けたおじいの1人が「弟は目の前で機関銃で撃たれて死んだ」とさらりと言っていて驚いたな。
彼女たちはどんな気持ちで
いたのか…
本当に胸が痛いです。
この時代の方々が、これだけツラい現実を経験してたのに、今の自分は少し壁に当たれば挫けてばかり。
自分の試練など、この当時の方々の状況と比べたら余りにぬるく、その自分の甘さを思うと情けなく思う。
どうか安らかに。
そして戦争という余りに下らないイベントを起こすようなリーダーは、早々にこの世から消えて欲しい。
歴史にこれだけ恐ろしい事があったのを知ってる現代の人間が、何故それを引き起こせるのか、愚の骨頂の極み。
痛みを知らぬ者、想像出来ぬ者は上に立ってはならない。
これからの時代皆で力を合わせられる世界になってほしい。
小学生の授業て見た「さとうきび畑の唄」まじ衝撃だったな...
何段ものベッド?の上段の人が末期?でおしっこ垂れ流して下の人にかかるやつ その人も動けないし
数年前沖縄行ったとき首里城の近くの男子学徒隊の展示室と糸満の平和祈念資料館に行きましたが特に後者の展示物が衝撃的でした。しかしひめゆり資料館は時間がなくスルーしてしまい後悔しています。次沖縄行くときは必ず行きます。
これだけ悲惨な出来事があっても
まだ戦争をしようとする世の中に絶望感しかありません
一番安全な所から指示だけする上層部に操られて両国の何も知らされていない若い人たちだけが死んでゆく
どうせ死ぬなら死ぬ気で逃げて欲しいと思います
実際に戦う人が居なくなれば戦争はできない
内容とBGMが合ってない。。。
アイコンきっしょ
ひめゆり学徒隊の中に、お母さんが居る!と、娘に教えてもらってから自分がその方の生まれ変わりなのかも?と思うようになってしまった。今度娘が沖縄へ修学旅行へ行きひめゆりの塔へ行くようなので、しっかり学んでくれたらと思ってます。
現代の日本があるのは、日本民族は尊厳を護るためならば、命乞いすらせずジシもいとわないと世界に、知らしめてくれたお陰です。特攻や沖縄の方々が示されてくれた事でドレイにはならないと戦勝国は、無理強いできませんでした。有り難うございました。感謝しかありません。
いやどう考えても冷戦と日本の立地のおかげだろ?
@@無-u7s 私の亡き父は、ヨか練の時に週線を迎えました。当時の遊食人種の70%はど〇イにされていたので、志願したと言ってました。昭和4年生まれで、15歳の時だったそうです。
パパ活女子がキラキラで女の子の憧れ〜とか、大久保の立ちんぼ、トー横キッズとか見てると
戦争で若人が命を賭して守った未来がこれか...ってあの1コマが刺さる刺さる
キャバクラ通ってるおっさん見る度にに同じことを思うよ
@@きりそんへっかー出たよ男ガー女ガー
うーむ比べると無理だ
なぜ下しか見ないのかな?
今の女の子たちを悪く言いたいのだろうが、そのダシに戦争を使うのはどうかと思うよ。
もうすぐ慰霊の日が来ますね。
私のおじー、おばぁも戦争経験者ですが、聞いても絶対に話してくれません。
私も何度かひめゆりの塔に行きました、
たくさんの人の犠牲の上に今の平和が成り立っている事を忘れず、一生懸命生きていきます。
そして、自分の子供達にも忘れないように受け継いでいきます。
戦争で亡くなった方達が生まれ変わったら、当たり前の幸せを感じられる人生を送れますように。
本当に 勿体無い 命達です
そして今は増え続ける後期高齢者の病院通いの為に、現役世代から税が徴収されて産まれた筈の子供がどんどん減ってるという真実
平和が一番、貴女たちの犠牲の上に今の平和があります。安らかに、お休みください。
沖縄の政治家達が日本からの米軍事基地の事で、妥協しなく、反対の姿勢をとる事の訳原因が解った、理解する事ができる。沖縄県民だけが、戦争終結まで、戦争のツケを支払わせられた。
戦争、いつも苦しめられるのは庶民。
うちのおばーは3歳でした。姉の背中に背負われて、飛来して来る爆弾を見たのを覚えています。
4人に1人亡くなったって…良く生き残れたなぁ。
安全な環境でこうして動画を観られる環境に感謝
難しい問題について、行き届いた解説をしていただき、ありがとうございます。死者が軍の解散命令後に集中しているという指摘に驚きました。軍司令官の立場としては、抗戦を放棄する決定をしたとき、敵に対し民間人の保護を依頼することは可能だったはずです。今まで気づきませんでした。(なかに、聖火リレーの画像があるようです。これは差し替えては)
あの…お話は本当に興味深く、とても悲しい史実として学ばせて頂きました。本当に良い動画でした。
ただ、それだけにどうしてもBGMがお話の内容と合わずにとても残念に感じました…これだけ素晴らしい動画なので、本当にそれだけが気になってしまって…一視聴者の一意見ですが、もう少し静かなBGMならもっと雰囲気にも合ってもっといい動画になるのでないかと思います…!
嫌なことに集団でNOを突きつけ多数派をつくり、「法」で対抗するのではなく、みんなで辛くなり、反対者を「空気」で強要する国民性は全く変わらんな。
先人の犠牲から学び、選挙で意思表明をしようと改めて思います。
ひめゆり学徒隊、名前等耳にしたことがありました。
自分が当時の女学生ならきっと確実に学徒隊に入れられ奉仕してた立場…、でも私はとても臆病なので負傷した兵隊さんの手術や治療に立ち合うなんてしたら気がおかしくなってしまっていただろうと思います、当時の女学生もきっと私みたいな臆病な生徒も歯を食い縛りながら耐えたんだろうな…、もう2度と戦争が起きないと良いなと改めて思いました、とても悲しいですが勉強になりました。
ありがとうございました(^.^)(-.-)(__)
日本人なら忘れてはならない事です いつまでも後世に語り続けていく事ですね 事実は事実です
看護助手、なんて言ってるけど環境や勤務体制の過酷さを考えたら看護師の自分でもゾッとする。
防空壕の中は比較的安全は確保されていた部分もあったかもしれないけど、排泄物や体液まみれ、垢やフケまみれというのは想像以上に臭い精神的にもきつい。
動員された学生はどこであっても心休まらなかったろうし、誰にも頼れず大変だったと思う。
もう2度とこんな事が起こってはならないと思う
修学旅行で自決した穴を見ました。
なんで国の一握りの人間が決めた事が国民をこんなに苦しめるのか。
国ってなんなんだろう。
私の高校の保健の先生はまだ見習い期間の看護婦さんだったそうで「私は戦地に行かされてね。O型だから進んで『私の血を使って下さい‼️O型です』と言って血液奉仕をしたのよ。戦争が終わって引き上げる時に血が無いから抱えられて帰って来た」というお話しを聞きました
そしてO型の生徒(私もですが)に『良かったわねぇ〜戦時中ではなくって』と言い、体調不良の生徒が保健室に行くと『なんですかこれくらい💢戦時中は.....』と怒られてました
ひめゆり学徒隊の集合写真を見ると、みなさん同じヘアスタイルなんですよね
学年によって、ヘアスタイルが決められていた
パッと見で学年がわかるようになっていたそうです
学年ごとの集合写真を撮ると、みなさんお揃いになるみたいですね
確か女學生2年生まで
前髪ぱっつんおかっぱ
で
女學生3年生から前分けおさげでしたっけ?
20:50荒崎海岸の、ひめゆり学徒隊と教師が自決した場所ですね(手榴弾による自決で、海に身を投げたのではありません)。その2日後、遠くに見える摩文仁の丘の壕で牛島中将が自決し、沖縄戦が終結したことになってます。今月の大潮の干潮時に、魂魄の塔下の海岸から荒崎まで歩きました。学徒隊以外にも多くの人が、この海岸で死んだのですね。
2007年12月に、ひめゆりの塔、平和祈念資料館へ参りました。沖縄在住の精神科医、越智恵子先生が書いておりますが、ひめゆり学徒隊で亡くなった女学生が昭和40年代に転生されていて、福祉の仕事に付いていたそうです。平和祈念資料館に展示されている写真の中に、その方のものもあり、ご本人は確認をされたそうです。このことを知り、私も実際に訪れてみました。
内容は良かったのですが、テロップの文字が小さすぎて読みづらかったです😢
字幕をつけよう😂
何年か前にひめゆり平和記念館にいきました。
当時を経験した人に当時の悲惨さの開設を聞きましたが聞いただけで悲しくなりました。すごく悲惨だった話は今でも覚えてます。
終戦の日が近くなれば世代が変わったせいか、戦争の番組が少なくなってきたと思います。
今の若い人達にも唯一の被爆国、戦争の悲惨さわかって伝えてもらいたいです。
艦これやアズールレーンみたいな当時の戦艦を擬人化してますが、これから過去にあった戦争の悲惨さを知っていただけるといいと思います。
急に解散命令って酷いな😢みんな心細かっただろうに…想像を絶する体験だったんだろうな…
アメリカ人の方が優しかった
国民をバカにしないでといいたい国に対して
ひめゆり学徒隊の生存者であった宮城喜久子さんの講演で、「戦後しばらくは沖縄戦の話をすることができなかった」「夫や子供にも学徒隊の生き残りであることは言わなかった」と聞きました。「多くの友人が戦地で亡くなったのに、なぜ自分は生き残ったのか? 『私たちは生きられなかったのに、なんでお前は生きているんだ?』・・・そう言われている気がして学生時代の写真も見れなかった」そうです。その後、ひめゆり平和祈念館の建設で沖縄戦の実態を訴えていくわけですが、「私たちが生きている間に真実を語り継いでいかなければ、亡くなった学友たちが存在していたという事実も葬られてしまう」と生存者たちで声を掛け合って過去と向きあい始めたそうです。あれほど恨んでいるかのように思えた写真の中の学友たちの表情が「真実を伝えてくれてありがとう」というほほ笑んだ表情に初めて見えたとありました。戦争は兵士だけの惨状ではないということを肝に銘じなければと思いました。ちなみに沖縄戦は当時の大日本帝国幹部にしてみると本土決戦までの時間稼ぎ的な要素が強く、その間に長野の松代に大本営を建設していた事実もあります。牛島司令官が「最後の一兵まで戦え」と命令をして自決したことにも、沖縄は捨て石であったことを感じます。
子供会の劇で見たけど凄く怖かった思い出がある
21:50 おーい、1964年東京五輪の具志頭での聖火リレーではないのかい?
日本政府はお国のために戦った彼等にちゃんと報いたのかね?
報いてないですね。今も昔もこの国は、使い捨ての駒にしか思ってないでしょう。
私が幼い頃には白い軍服を着た傷痍軍人(五体に欠損があり働けない復員兵)が道端で楽器を弾いて、物乞いをしておりましたよ。
結局、国は何もできなかったのです。
日本は終戦後「国の形」を守るだけで精一杯だったのでしょう。
@@ヒストレイン今はともかく昔は違くないか?
報いるのは今生きてる我々だろうが。
当時、日本政府は先の大戦で家族を失ったり家財を失ったりした国民への補償は何もしなかった。大陸からの引揚者には補償がなされたが、それとて彼らが大陸で失った物に比べれば細やかな物でしかない。
宮城喜久子さんのお話を私は一生忘れないと思ってます。
腕がなくなろうと、脚がなくなろうと、死ぬまで戦う……
幼少期、沖縄陸軍野戦病院の目の前に住んでいました。戦争はいけません
いつも「このコスメ買わなきゃ損❣️」みたいなショートで聞く声だから中身入ってこない 学びたいのに
沖縄に行くなら、ひめゆりの塔に必ずいけ!
これが担任の口癖でした。
月桃の花 ふとした時に歌ってます
学校で見ましたすごい切なかったです
修学旅行が思い起こされる
行く前もさとうきび畑の歌をみんなで見ていつも騒がしいクラスがその日はしんとしてたのが印象に残ってる
この資料館に行き従姉は看護師になりました。
子供たちの笑顔を守るために沖縄県民は今も戦っている
このチャンネル大好きだけど、こんなにBGMが邪魔だと思ったことはないかも知れません。
本当に本当に戦争は悲しい。
命の危険があるから飯上げに行く前には服を整えて挨拶してから行ってたってもう言葉もない…毎日が死と隣り合わせ…
なんか想像してたのと全然違ったな……女性で結成された学徒特攻兵みたいなものだと思ってた。そうであってもそうでなくても悲しい最期だけど。
実際に女学生からの志願兵が数名いて突撃して戦死した女学生居ましたよ。米海兵隊が撮影した死体写真が残っていて小学校の時にみました。
これ見てなるべくケンタッキーの骨をギリギリまで食べたいと思います😢
ひめゆり学徒隊の資料館には行ったことがある。小学生の頃沖縄に行くってなった時にどうしてもそこに連れて行ってくれってお願いしたんだ。ゴウには予約できてなくて入れなかったけど記念館を見た。知識も何も無い子供だったけど鳥肌が立ったのは覚えてる。ゴウから出てきた人がないていて入れなかった事をすごくくいた。
修学旅行でガマに入りましたが途中で気分が悪くなる生徒続出でした。ひめゆり学徒隊の方のご冥福をお祈りします
一ヶ月前に修学旅行で沖縄いってここのひめゆりの塔も行ったけど本当に悲惨だった
平時から国民が地政学や軍事の事を考えて備えておかないと結果としてこうなるって恐ろしい例だね、
今のままだと近未来待ったなしの隣国との戦争では大東亜戦争など比べようも無い大惨事になると思う。
ABCD列強と日本との戦力差や、列強国とどう戦えばよいかについて国民よりも小学生の方が真面目に考えていたし詳しかったって言うんだからもう恐怖でしかない。
末期戦はどこだって悲惨だなぁ