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会津に若松が付いたのは蒲生氏が治めてからで葦名時代の地名は会津黒川。会津100万石と呼ばれたのは蒲生氏と上杉氏の頃で葦名氏の石高は最大でも40万石程度。
直接的な滅亡が幼い当主の転落死というのがまたどこか切ない
信長の野望(1番新しいの)で毎回蘆名家でやってます!もう大変💦
祖母が元蘆名だけど普段は芦を使ってたみたいお墓の方は蘆になってた。
盛氏は「揺(戦争)ほど面白きものはない」と豪語するほどのタカ派で、盛隆も御館の乱、新発田重家の乱に介入したりと割とイケイケなタカ派なのよね家臣の金上盛備は蘆名の派生&盛氏の母親は金上氏の出。領地は津川城を抑えて越後-会津の交易を掌握&石高で見ても蘆名四天王(平田・佐瀬・松本・富田)全員より上という圧倒的な経済力で、陪臣なのに遠江守を正式に任官&遠江守は芦名家当主で名乗ってる人物結構いる主家の伝統的な官位と物凄い好待遇という。蘆名残ってたら龍造寺ー鍋島みたいになってたかも?
個人的には会津は蒲生氏郷とか上杉景勝とか会津松平家の印象が強いな。一度会津若松城に行ったがとにかく水堀の幅が大きかった気がする。
蘆名氏の話から若干離れるけど、戦国~江戸時代の会津って、伊達政宗が本拠地を移したり、蒲生や上杉が本拠地置いたり、江戸時代には譜代大名が置かれていたけど、そんなに大名に重要視された理由がいまいちわからない現代でもそうだけど、東北を南北に縦断する交通路である中通りに対して、会津盆地は主要な交通路から外れているのが気になる強いていうと、越後との東西の交通路が有るくらいだし地形的には堅固(進入路が限定)なのと、猪苗代湖によって膨大な石高を誇ったのが要因なのかと思うけど、じゃあ、会津盆地の石高がどんなものなのかよく分からない蒲生氏郷の92万石を考えると、米沢および伊達郡が30万石(減封後の上杉を見るに)だから、中通りが20万石で会津盆地が40万石ぐらいになるのかな
現代から見ると東北新幹線の道がそのまま幹線道路になるけど、当時から見たら新潟↔山形、白河関↔宮城を通過しようとすると会津がかなり邪魔やで東北を南下するにも北上するにも、ここに一定の軍勢居るだけで動けなくなるし、無視して動く軍勢なら一気に背後を絶てる当時の道路事情と軍勢の移動時間と地図で見るとマジで嫌な位置にあるのがわかる
8:24 この従属国ってのが一部でカルトな人気を誇る二階堂盛義なんよなぁ。そういやかつてカルトな人気のあった松本図書助も蘆名家臣だったっけか。
蘆名の北越後領国化って現阿賀町の事か?あの辺が新潟県になったのは明治時代だと思ったが
そこら辺は実は結構曖昧阿賀町まで出兵しては押し返されたりってのを繰り返してるから、両者にとっては上杉寄りの緩衝地帯みたいなもんだったんじゃなかろうか
稙宗の南奥羽支配がコケた隙に上手く独立し、その後も勢力を拡大した盛氏は一廉の人物かなと…盛氏晩年期は少しずつ勢威が衰えてきてるようだが
むしろ晩年にも出兵して朝倉を守ろうとした宗滴のような爺さまが異常なだけで、普通は寝たきりのヨボヨボ爺さまだし勢威が翳るのはシカタナイネ
蘆名言われたらセキロウ思い出す
盛隆は織田権力に臣従した時、三浦介補任の話があることからも、知謀や思慮云々の話ではなく、外交面では成功をしている。そこが盛隆の長所であり評価すべきところである。
残念ながら伊達家には勝てないと思います 家臣の質が悪く裏切り易いです猪苗代盛国は摺上原で裏切ります 金上盛備が一番有能です。
盛隆は二階堂の息子ww母は、伊達晴宗の長女だね。
東日本ではそれなりの勢力だと思うけど、中央との関わり無さすぎたり自分が西日本民ってこともあって盛氏が有能ってぐらいしか印象無いな
歴女で腐女子からすると美形&男色の蘆名盛隆は…(想像にお任せ)
三浦の系統で一番頑張ったの蘆名ちゃうか?ちな裏切った猪苗代家は系図辿ると猪苗代も三浦で蘆名より格上になるはずだった
あしとよしは一緒だぞ何言ってんだか・・もともとあしだったが悪しにつうじるから強引によしとよませたのが正しい出鱈目な説を信じすぎ
ナムコの独眼竜政宗で蘆名氏強かったはずそこまで行かなかった
白河結城氏の白河直朝(結城直朝)の存在を飛ばしたなw白河直朝の時期は当時南奥最大の勢力をもってて蘆名盛高の父である蘆名盛詮を援助したって言うのに。あれ、室町後期にあたるのか?あたらねえなw飛躍の基礎をかためた蘆名盛高の時期は松本とか猪苗代の反乱が酷かったもんなあ南奥最大勢力は白河結城から伊達にバトンタッチした感じかな?
前立が毛虫の人の家?
それは伊達成実だと思われます
本題とはややズレるが正直な所、蘆名氏の伊達政宗の対応を見るに伊達政宗は外交も戦も上手ではなかったのだろうな……蘆名氏の後継者問題では佐竹義重に出し抜かれ二本松城を攻めて佐竹連合軍に人取橋の戦いで大敗し大崎氏に攻めいるも敗北し最上に領土を奪われ蘆名氏と相馬氏に城を落とされ摺上原の戦いで蘆名氏を破るもボロボロ状態の相手の勝ち戦で結局秀吉に領土を取られ……土壇場を切り抜ける力はあったが結局は最後は自身が荒らした領土へと転封され苦労する羽目になった結果論だけ見れば伊達政宗は伊達氏の厄災だったのかもしれない……
葦名家の話しなのに、その歴史柄最低でも半分は伊達家の話し😅
会津に若松が付いたのは蒲生氏が治めてからで葦名時代の地名は会津黒川。会津100万石と呼ばれたのは蒲生氏と上杉氏の頃で葦名氏の石高は最大でも40万石程度。
直接的な滅亡が幼い当主の転落死というのがまたどこか切ない
信長の野望(1番新しいの)で毎回蘆名家でやってます!もう大変💦
祖母が元蘆名だけど
普段は芦を使ってたみたい
お墓の方は蘆になってた。
盛氏は「揺(戦争)ほど面白きものはない」と豪語するほどのタカ派で、盛隆も御館の乱、新発田重家の乱に介入したりと割とイケイケなタカ派なのよね
家臣の金上盛備は蘆名の派生&盛氏の母親は金上氏の出。領地は津川城を抑えて越後-会津の交易を掌握&石高で見ても蘆名四天王(平田・佐瀬・松本・富田)全員より上という圧倒的な経済力で、陪臣なのに遠江守を正式に任官&遠江守は芦名家当主で名乗ってる人物結構いる主家の伝統的な官位と物凄い好待遇という。蘆名残ってたら龍造寺ー鍋島みたいになってたかも?
個人的には会津は蒲生氏郷とか上杉景勝とか会津松平家の印象が強いな。
一度会津若松城に行ったがとにかく水堀の幅が大きかった気がする。
蘆名氏の話から若干離れるけど、戦国~江戸時代の会津って、伊達政宗が本拠地を移したり、蒲生や上杉が本拠地置いたり、江戸時代には譜代大名が置かれていたけど、そんなに大名に重要視された理由がいまいちわからない
現代でもそうだけど、東北を南北に縦断する交通路である中通りに対して、会津盆地は主要な交通路から外れているのが気になる
強いていうと、越後との東西の交通路が有るくらいだし
地形的には堅固(進入路が限定)なのと、猪苗代湖によって膨大な石高を誇ったのが要因なのかと思うけど、じゃあ、会津盆地の石高がどんなものなのかよく分からない
蒲生氏郷の92万石を考えると、米沢および伊達郡が30万石(減封後の上杉を見るに)だから、中通りが20万石で会津盆地が40万石ぐらいになるのかな
現代から見ると東北新幹線の道がそのまま幹線道路になるけど、当時から見たら新潟↔山形、白河関↔宮城を通過しようとすると会津がかなり邪魔やで
東北を南下するにも北上するにも、ここに一定の軍勢居るだけで動けなくなるし、無視して動く軍勢なら一気に背後を絶てる
当時の道路事情と軍勢の移動時間と地図で見るとマジで嫌な位置にあるのがわかる
8:24 この従属国ってのが一部でカルトな人気を誇る二階堂盛義なんよなぁ。
そういやかつてカルトな人気のあった松本図書助も蘆名家臣だったっけか。
蘆名の北越後領国化って現阿賀町の事か?
あの辺が新潟県になったのは明治時代だと思ったが
そこら辺は実は結構曖昧
阿賀町まで出兵しては押し返されたりってのを繰り返してるから、両者にとっては上杉寄りの緩衝地帯みたいなもんだったんじゃなかろうか
稙宗の南奥羽支配がコケた隙に上手く独立し、その後も勢力を拡大した盛氏は一廉の人物かなと…盛氏晩年期は少しずつ勢威が衰えてきてるようだが
むしろ晩年にも出兵して朝倉を守ろうとした宗滴のような爺さまが異常なだけで、普通は寝たきりのヨボヨボ爺さまだし勢威が翳るのはシカタナイネ
蘆名言われたらセキロウ思い出す
盛隆は織田権力に臣従した時、三浦介補任の話があることからも、知謀や思慮云々の話ではなく、外交面では成功をしている。そこが盛隆の長所であり評価すべきところである。
残念ながら伊達家には勝てないと思います
家臣の質が悪く裏切り易いです
猪苗代盛国は摺上原で裏切ります
金上盛備が一番有能です。
盛隆は二階堂の息子ww母は、伊達晴宗の長女だね。
東日本ではそれなりの勢力だと思うけど、中央との関わり無さすぎたり自分が西日本民ってこともあって盛氏が有能ってぐらいしか印象無いな
歴女で腐女子からすると美形&男色の蘆名盛隆は…(想像にお任せ)
三浦の系統で一番頑張ったの蘆名ちゃうか?ちな裏切った猪苗代家は系図辿ると猪苗代も三浦で蘆名より格上になるはずだった
あしとよしは一緒だぞ
何言ってんだか・・
もともとあしだったが悪しにつうじるから強引によしとよませたのが正しい
出鱈目な説を信じすぎ
ナムコの独眼竜政宗で蘆名氏強かったはずそこまで行かなかった
白河結城氏の白河直朝(結城直朝)の存在を飛ばしたなw
白河直朝の時期は当時南奥最大の勢力をもってて蘆名盛高の父である蘆名盛詮を援助したって言うのに。
あれ、室町後期にあたるのか?あたらねえなw
飛躍の基礎をかためた蘆名盛高の時期は松本とか猪苗代の反乱が酷かったもんなあ
南奥最大勢力は白河結城から伊達にバトンタッチした感じかな?
前立が毛虫の人の家?
それは伊達成実だと思われます
本題とはややズレるが
正直な所、蘆名氏の伊達政宗の対応を見るに
伊達政宗は外交も戦も上手ではなかったのだろうな……
蘆名氏の後継者問題では佐竹義重に出し抜かれ
二本松城を攻めて佐竹連合軍に人取橋の戦いで大敗し
大崎氏に攻めいるも敗北し最上に領土を奪われ蘆名氏と相馬氏に城を落とされ
摺上原の戦いで蘆名氏を破るもボロボロ状態の相手の勝ち戦で結局秀吉に領土を取られ……
土壇場を切り抜ける力はあったが結局は最後は自身が荒らした領土へと転封され苦労する羽目になった
結果論だけ見れば伊達政宗は伊達氏の厄災だったのかもしれない……
葦名家の話しなのに、その歴史柄最低でも半分は伊達家の話し😅