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奥中山しか三重連を知らなかった私はこのチャンネルでいろいろ教えて頂き感謝、感謝です。雪の中の蒸機、撮影されるのは大変と思いますが素敵なものばかりです。大きな氷柱は子供の頃を思い出し懐かしくてたまりません。。。
Kei Itoさん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。旧線の廃墟はそのままですし、訪れる人もまばらで、東北の秘境となっていて、寂しいところになっていますね。温泉はあちこちにあるのですが、東京からわざわざ行かなくてもと言う感じです。鉄道が栄えていないとこうなるんですね。
お初。 矢立峠は地元です。D51のトップナンバーが走ったり、電化前後でDF50、DD51のトップナンバーまでが矢立峠を越えた事があるようです。 最近、大館機関区のレンガ製の車庫が解体されて、大館駅の風景が寂しくなってしまいました・・・。
伊藤さん、ご視聴頂きありがとうございます。来ていただきうれしいです。D51-1は元々盛岡の機関車でその後青森でした。耐震性能云々を口実に古い鉄道の建物をぶっ壊しますね。私の近くではレンガの御料車庫を壊しました。
東北各地で鉄道の難所とされてきたポイントを地図で探してみると、ほとんどが県境の峠なのが分かります。旅客の流れが途切れがちなスポットに限って機関車と人員の投入が必要、という状況を当時の国鉄はなんとかしたかったのでしょうが、無煙化で活気も消えたと思うと寂しさも感じます。ところで、蒸気機関車による背向重連の写真は初めて見ました。D51も機関車本体はすっきりした標準型そのまま・・・と見せかけてテンダーに3000リッターの重油タンクを積んでいたなど、毎回楽しい写真をありがとうございます。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。ふと思ったのですが、反向重連や逆行補機のD51は砂パイプの位置を変えていたってことは無いでしょうかね?逆行だと砂が上手く撒けないように思ったので。
今回も貴重な映像ありがとうございました😊矢立峠で950t牽引ですか?重いですね。定数的にはD51 DD51で3両要りますね。電化不可欠でした😂C61でも10両客レなら後部補強必要ですね。矢立トンネルはボトルネック解消に役立ちましたね。
プさん、ご視聴頂きありがとうございます。奥羽本線~羽越本線~北陸本線の日本海縦貫線は旅客は全然ダメですが、貨物はまぁ盛況ですね。でも機関車がみんな同じですからとても残念です。
あの方が『矢立峠』の動画上げられてますよ。動いてる『反向重連』のシーンもありました。やはり迫力がありますね
チャンネル登録者9600人突破おめでとうございます
フリット爺さん、ご視聴頂きありがとうございます。現時点9775人です。登録者様1万人がを超えると違う世界が見えるのでしょうか?
いつも貴重な画像をありがとうございます。おぉ、ついに矢立反向重連の姿を出してくださいましたね!蒸機時代は今より機関区があちこちあったとはいえ、この地のダイヤ組成上はカマの回転を早くするための工夫だったろうと想像します。冬場はキャブとテンダをケンバスで覆ったとはいえ、バック側はやはり吹き込みで寒かったろうな…とか。寝台特急日本海はDD51重連の記録を見ましたが、他は旅客も貨物も1971電化までほとんど置き換えは無かったのですかね。緩勾配新線になったとはいえ、3000m超のトンネルを走るのもそれはそれで決死の覚悟だったと想像します。廃道探検家HN“よっきれん”さんのブログにもこの地が出ますが、新線の陣場側で谷を詰めた場所に斜坑が口を開けています。ファンがあったか定かではありませんが、排煙のために必要だったのでしょう。
三丁目分隊員さん、ご視聴頂きありがとうございます。DD51も出そうかと思いましたが、以前きたぐにを出したので止めました。DF50はなかなか好きなので、一杯出しました。950トンの貨物を10‰とはいえ新線切換え後も難所ではあったでしょうけど、碇ヶ関・陣馬の運用は終わっていたと思います。(大館や弘前から通しできたのでしょう)
今週もありがとうございます。五能線の貨客混合列車もいいですね期待しています。
サマーはおしまいさん、ご視聴頂きありがとうございます。五能線は観光路線としてかなり頑張っていますね。是非近々とりあげたいです。
三重連は究極にて至高だと思うんだよね〜、たまらんよ
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。NHKが1号機を先頭にここの三重連をドキュメンタリー作品にしましたが、あれはやらせで有名です。矢立には三重連は走らないよって。
ある意味凄いねw、NHKは解体して欲しい程嫌いだがこれには感謝の意を述べたくなるよ
矢立トンネル開業と旧線廃止記念として、最後の蒸気三重連運行が行われたが、NHKの新日本紀行で紹介された。
新日本紀行では1号機が先頭でしたよね。私は昭和47年の奥中山の復活三重連のほうが凄い列車だったなぁと思っています。もう一度なんとかやってもらいたいものです。D51は2輌いますしC61もいるんだから。
@@Yukkuri-Lab さん、新日本紀行で紹介されたD511号機は、京都鉄道博物館に保存されています。ナメクジ形のドームが特徴な蒸気機関車でした。
毎週ありがとうございます。1970年8月に行きました。上野から乗った急行津軽は大館でD51を後部に連結しました。碇ケ関で降りてバスで峠へ向かいました。その時の写真を見るとD51三重連単機の写真がありました。全部前向きでした。その後大館でC6120に会っていますがその後宮崎へ転属してからも会うことができました。そのC6120が復活し上越線信越線で走るようになって驚きましたが、東北線、磐越西線、水郡線でも走ってくれたので行かないわけにはいかなくなりました。
鉄人55号さん、ご視聴頂きありがとうございます。矢岳峠を越える客レの補機ですが、昭和45年の新線切換えで不要(長い貨物はあり)となったはずなので、直前に行かれたのですね。新線切換えの三重連記念列車は8月に何本か走っていますので、その分の回送かおくりこみではないでしょうか。C61もD51も遠征がめっきりなくなって群馬県内だけになったのは残念です。
実際に写真で見るとすごいですね。迫力が伝わってきます。その中でも3重連は見ものでしょうね。この動画で、当時の東北の鉄道、奥羽線の状況がよくわかりました。
平衛さん、ご指摘ありがとうございます。動画タイトルで三重連!とやりましたが、これは本当は正しくないことがご理解いただけたと思います。
やはりD51三重連は迫力有りカッコいい今では考えられない光景🦾高崎のD51も最近は磐越西線を走らないのは残念ですね😓
塚越さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。東北本線と奥羽本線、同じ北東北なのに使い方が違うのが面白いです。写真撮る側からすると、東北本線奥中山辺りは、広々として自由に撮影ができますが、矢立峠は動画の題目の狭溢なんですね。
青森機関区所属のC60やC61が牽引していた奥羽本線の矢立峠越え&大釈迦峠越え(秋田-大館-青森間)の客車普通列車のうち、大館駅始発の下りの朝一番の列車である青森行きの623レ(大館発は午前5時台)のみは、1967年10月1日のダイヤ改正で青森機関区のC61の奥羽本線での運用が拡大した際に、C61に牽引機が変更され、同時に、矢立峠越えの区間である陣場-碇ヶ関間をはさんだ大館-弘前間では客車5両前後の編成で運転していたことから、翌年(1968年)の"ヨン・サン・トオ"のダイヤ改正の前日までの1年間は、C61の単機牽引・補機なしで(旧線時代の)矢立峠を越えていました。
黄昏特急さん、ご視聴頂きありがとうございます。補機無し客レがあったことは、以前視聴者様に教えて頂きました。乗客が少ないのを見越していたのでしょうかね。
国道沿いだからストビューで色々遺構が見れますね第六平川橋梁上の廃墟が倒壊して往時の姿に戻っていてびっくり😅
ビューンさん、ご視聴頂きありがとうございます。一度は車で通ってみたいのですが、遠すぎるんですよね。
持っていた鉄道ニュースのVHSの『青森発上野行き普通列車』(昭和45年 牽引機は山形までDD51)のニュースにも 確かここだったと思いますが 後部補機にD51が付いて押しているシーンがありました。当時 蒸機は『熱効率の悪さはともかく 信頼性は安心安定』 という立ち位置だったから 補機にはうってつけだったのかも。DF90は 狭軌電気式機関車で一番ハイパワーだったとか。総出力600kwのDF50の補機運用があるなら 同880kwのGV-E197の補機運用もアリかも知れませんね。(相変わらず 内容の薄い書き込みですみません🙇)
@toriri-serviceさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。DF90は軸重が重すぎる試作機なのですね。パワーは頼もしいんですけど。
逆向き運用は弘前や大館がしておりやはり逆向きだと問題があって例えば上り坂で空転したとき先端の動輪に滑り止めの砂が上手く掛かりずらいなど問題があったやうですもし陣場や碇ヶ関に転車台があれば背合い重連はやらなかったし普通に重連で貨物列車を牽引していた
高橋さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。矢立峠の逆向き補機って、原則はそうなのかと思いますが、運用上おっしゃるようなネガがあって、反向重連補機にしていたのかもしれないな?と思います。
やらせ三重連のNHK動画をyoutubeでよく見ます。画質も良く思い出がある大舘の機関庫内も見られるので好きな動画です。凸型DLと違いDF50と蒸気の重連は良いですね。DF90は東能代時代に撮影しましたがボロボロでした。国鉄DL標準色でした。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。ヤラセは言い過ぎで、仕込みでしょう。前一台、後ろ二台では様にならないし、奥中山は電化しているしと言うところでしょう。何も知らずにあの動画を見るのは楽しいです。
@@Yukkuri-Lab さんもヤラセと言われてましたよね。でもヤラセは言い過ぎですね。国鉄がNHKに忖度した感じでしょうか。
魔理沙が言ったヤラセは言い過ぎだと言ったんです。三重連だけでなく機関士さんの家庭の中も同様に見えました。
このカット「上野駅進入」ではなく、下り日暮里進入では? 改良前の京成線映ってるし今もある陸橋から撮られたと思われる
ご視聴頂きありがとうございます。これは上野への推進運転だったはずですね。お墓なところの陸橋ですね。
トンネルのできる前の廃線跡は残っているのですか?
@lexusis4486さん、ご視聴頂きありがとうございます。矢立峠廃線跡で検索すると色々でてきますし、国道7号沿いなので色々見て回れるようです。
日本の機関車はスモールエンジンポリシーが主流だったせいか、重量のある貨物の牽引では重連、三重連がよく見られましたな最近ではラージエンジンが主流になったせいか、こうした区間ではH級機関車が活躍してますが
EHが主流になったのはEF200やEF500の失敗から日本の環境じゃラージエンジンに耐えられない民営化で車体は2つで事実上の重連だが機関車1両分の線路使用料で済む経営上の理由本当の重連と比べて空転した時の冗長性が劣る問題も機械が補えるような時代になったからですね
電光刑事さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。奥羽本線って、いまでも鉄は訪れるのでしょうか?貨物は多いですねぇ。縦貫線だけあります。でもEF510ばかりで出かける気力は無いのが残念です。
@@Yukkuri-Lab 最近では縦貫線の方にもEH500が進出しているようですなまじめな話、EH500であれば、青森から九州まで機関車交換なしで行けますから
その昔NHKの[新日本紀行]で[三重連の峠]として紹介されたことがありました。D511も配属されていた頃。然し定期での三重連はなかったのならあれもまた[やらせ]だったのでしょうか?映像では何日もかけて様々な列車を撮影したのでカマも貨車もその都度変っていて、[大人になった今]ではそれは[大人の事情]なのは理解出来ますが、当時の小学生には[何でさっきと機関車が違うの?おかしいよ?]と混乱したものでした。別動画でもCommentしましたがEF64-1000は正に上越線用に投入されたカマなので上越線を走るのに何の不思議もありません。DF90は当時各メーカーが競って開発した内燃機関車の一つで電気式でした。その中では優秀な方だったらしく国鉄に買い上げられ長く使われました。ただ、SGを持っていなかったので冬場客レ牽引時には暖房車が必要でした。東北本線とほぼ同格の基軸動脈幹線の常磐線はそれ故に早くに電化されそうなると大型DLの出番は無くなります。DF90も[リストラ]され[人事異動]。重量があって恐らく空転しにくくそれでいて牽引力もあるので入換用にと目されたのでしょうが、DE10・DE11と言った入換作業に適した(それでいて支線区の本線運用もこなせる)カマが台頭してきたとあっては最早出る幕を無くしたのでしょうね。個人的にはあのエクステリアデザインは好印象であのまま量産機が出来ていたら…と時々妄想しています(^^);
SleeperExpressJNRさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。やらせは言葉がきついのですが、仕込みでしょうか。C11の特急さくらのトレーンマークのようなものだと思っています。どちらも当時からオカシイと言われていました。DF90は秋田に来て塗りなおされたんでしたよね。蒸気が無くなって、現在機関車の趣味もさらに対象が狭まっていますが、どういうものを対象にすべきなのかなぁ?と思います。まわりは桃太郎ばかりなのです。
魔理沙さん霊夢さんこんにちは!急行きたぐにの補機はいつまで蒸気機関車だったのですか?寝台特急日本海はヨンヨントウダイヤ改正で9両から13両編成になりDD51型重連になったのは知っていますが!青森機関区のC61型6両は全機宮崎機関区へ転属になりました。前年に同じ量数のC61型が鹿児島機関区で廃車になっています。なんかもったいないような気がします。
もりわききくおさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。きたぐにですが、昭和44年ごろ10系に代わっていますが、まだD51の補機が付いていたはずで、おそらく矢立トンネルでの新線切換えまで補機が付いていたものと思います。青森の6輌が異動したのですが、あれは全般検査の残りがあったためC57と鋼体サタンですね。鹿児島のはぎりぎりしかなかったと思います。
7:05 鹿児島で潮風を浴びてグズグズになっている19号にもこんな時代があったんですね〜😢
あっ、そういわれれば19号は静態保存機でした。
@@Yukkuri-Lab現役時代は車体をこまめに油で拭いて貰えるから雪でも潮でも平気でしょうが、今はもう…😭
南九州は係員さんたちが機関車を取り囲んで磨いていました。それがルーティンになっているのですね。
矢立峠旧線の遺構は国道7号を走ると見る事が出来ますね蒸機現役の頃、麓の駅は補機の付け替えで人員も多く賑やかで列車本数も多かった事でしょう今じゃ新線化で駅は無人、長距離列車も無くたまに来る普電もガラガラです…。
デカミツさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。JRも片付けることも無く、ほとんど放置状態ですね。歴史的な遺構でもないようですし。人口も減っていくのでそのままだと思いますが、迷い込んで事故に巻き込まれないようにはしていると思います。貨物列車は活況のようですね。
グーグルマップで見ると、まだ線路が撤去されずに放置されている部分があるんだね。
もっちくん、ご視聴頂きありがとうございます。私は廃墟は好きなほうで、縁があれば行ってみたいです。でもあまりにも遠いですよね。
奥羽本線の難所といえば板谷峠と矢立峠の影に隠れた感がありますが、山形・秋田県境の雄勝峠(院内峠)もありますね。開通当時は機関車が非力で補機を繋いでいたと聞きますが、無煙化の直前はどうだったのでしょうか。今では普通列車が一日八往復するだけの超ローカル線になってしまいましたが・・・
さばた295さん、ご視聴頂きありがとうございます。確か普通列車で院内行が多かったか?あったか?記憶があります。峠までと言うことだったんでしょうかね。ヨンサントウで早々にDL化された区間のはずで、まったく念頭にないです。C57とD51がいたわけですが、米沢以南、秋田以北と違い貨物量も少なかったのかな?と思います。
確かに普通列車は院内終着・始発がいくつかありましたね。人の流れも雄勝峠が境になっていたし、院内には駐泊所がありましたから、妥当な設定だったと思います。昭和45年頃の話、真室川の本家の裏に奥羽線が通っていて、DC特急の「つばさ」やDD51の牽引する旧客をよく眺めたものですが、貨物列車はDD51単機牽引だった記憶がありますから、雄勝越えをして秋田方面を行き来する貨物の量は少なかったのでしょうね。東京から秋田方面に向かうなら板谷越えをするよりも上越線回りにした方が楽だったでしょうから。
矢立峠越えと同じような奥羽本線の秋田-青森間(いわゆる"奥羽北線")の難所といえば、青森の手前にある大釈迦-鶴ヶ坂間の大釈迦峠越えがありましたよね。こちらでも、初代大釈迦トンネルが現役であった時代には、重量級の貨物列車や長編成の旅客列車(急行列車など)は、D51を補機として連結して、25‰の急勾配区間を越えていました(旧線時代の大釈迦峠越えでも、補機は後部補機が主流でした)が、1970年11月の矢立峠越えの区間の新線(全長3180mの現在線の矢立トンネル)への切り替えの7年前の1963年7月(8月?)に、勾配を10‰前後に緩和した2代目大釈迦トンネルを経由する新線に切り替えられました。
奥羽本線の秋田以南新庄までは電化遅れましたね。
大釈迦もありましたね。奥羽本線は板谷峠と矢立峠が目立ちますが、丘陵地を抜けているから小さな峠がいくつかありましたね。山形県の村山地方と最上地方を隔てる猿羽根峠もありましたが、補機で後押しをしたという話は聞いたことがないので、勾配は大したことなかったのでしょう。ただ、最上地方は全国有数の豪雪地帯で、袖崎を過ぎると急に積雪が多くなりますから、厳冬期の猿羽根越えそれなりに大変だったことでしょう。山形・秋田電化とともに複線の新線に切り替えられ更に後には改軌されて、今では山形新幹線「つばさ」が事もなげに行き来するトンネルになってしまいましたから、地元の人でもなければそこが峠だと気付く人はいないかも知れません。
終盤の昭和46年8月に人気の若番機C612に会えるかなと淡い期待を抱き大館へ行きましたが出会えませんでした。2号機は電化を前に先行して九州へ旅立ったようでした。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。そういえば、C57-1の修理が終わったらC61-2の修理をやってくれるのでしょうか?
@@Yukkuri-Lab9月17日現在C571はボイラーとキャブくらいしか梅小路第2検修庫に見当りませんでした。台枠などは外注先だと思います。扇形庫ではC56160とC622が修理中、C612は給水ポンプとコンプレッサーが部品取りされたまま屋外にありました。年末はD51200 も検査に戻るでしょうからC612の修理はまだまだ先のようです。やはり工場のバックアップがないと厳しいです。
C57-1重症なんですねぇ。
8:37 ワム70000 、ワム80000,トラ45000,ワラ1,チキ5500? とても長い貨物列車ですね!
KESEIさん、ご視聴頂きありがとうございます。KESEIさんが興味持たれるように長いいろんな貨車を出しました。
とても@@Yukkuri-Lab 嬉しいです!
陣場じゃないでしょうか?馬ではないような。
ご視聴頂きありがとうございます。ご指摘ありまして、コメント欄でお詫びと訂正を行いました。
@@Yukkuri-Lab 早急なご対応、ありがとうございます。
動画の写真は自分で撮ったものですjか?
ジムミナスさん、ご視聴頂きありがとうございます。自らの撮影もありますし、お借りしてきたものもあります。
@@Yukkuri-Lab さん、教えていただきありがとうございます。戦後の写真が一番すごいと思いました!
今回の写真はすべて戦後のものなんです。
板谷峠は、4100、4110の牽引力が予想以上だったので、電化計画が一旦立消えになったとか😅
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。電化計画が遅れそうでE10を持ってきたところ、GHQが承認して意外と早く電化が進んだという話だったです。
陣場駅ですね。馬ではなく場所の場。
tetsu242さん、ご視聴、ご指摘ありがとうございます。またやってしまいました。動画アップした直後サムネを矢立峠を矢岳峠にしてあり、大慌てで直してこれで大丈夫と思っていました。ていせいこめんといれておきます。
矢立峠のD51の三重連は、伯備線の布原信号所に匹敵する鉄オタの聖地だった。冬は、吹雪で荒れた天気が多く撮影は困難を極めた。DD51形やDF50形も運用に入っていたが補機が主だった。C6120号機が越えた夜行列車は、夜行急行津軽があった。
大坂さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。DD51は日本海、きたぐにが有名ですが、今回DD51は出しませんでした。東北でDF50って奥羽本線だけでしたよね?
@@Yukkuri-Labさん、東北では、奥羽本線だけで、後は紀勢本線と四国と九州日豊本線にありました。DF50形は、四国の多度津に保存機があります。
あの保存機ちゃんと動くのでしょうか?
@@Yukkuri-Lab さん、分かりません。
奥中山しか三重連を知らなかった私はこのチャンネルでいろいろ教えて頂き感謝、感謝です。
雪の中の蒸機、撮影されるのは大変と思いますが素敵なものばかりです。
大きな氷柱は子供の頃を思い出し懐かしくてたまりません。。。
Kei Itoさん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
旧線の廃墟はそのままですし、訪れる人もまばらで、東北の秘境となっていて、寂しいところになっていますね。温泉はあちこちにあるのですが、東京からわざわざ行かなくてもと言う感じです。鉄道が栄えていないとこうなるんですね。
お初。
矢立峠は地元です。D51のトップナンバーが走ったり、電化前後でDF50、DD51のトップナンバーまでが矢立峠を越えた事があるようです。
最近、大館機関区のレンガ製の車庫が解体されて、大館駅の風景が寂しくなってしまいました・・・。
伊藤さん、ご視聴頂きありがとうございます。来ていただきうれしいです。
D51-1は元々盛岡の機関車でその後青森でした。
耐震性能云々を口実に古い鉄道の建物をぶっ壊しますね。私の近くではレンガの御料車庫を壊しました。
東北各地で鉄道の難所とされてきたポイントを地図で探してみると、ほとんどが県境の峠なのが分かります。
旅客の流れが途切れがちなスポットに限って機関車と人員の投入が必要、という状況を当時の国鉄はなんとかしたかったのでしょうが、無煙化で活気も消えたと思うと寂しさも感じます。
ところで、蒸気機関車による背向重連の写真は初めて見ました。D51も機関車本体はすっきりした標準型そのまま・・・と見せかけてテンダーに3000リッターの重油タンクを積んでいたなど、毎回楽しい写真をありがとうございます。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
ふと思ったのですが、反向重連や逆行補機のD51は砂パイプの位置を変えていたって
ことは無いでしょうかね?逆行だと砂が上手く撒けないように思ったので。
今回も貴重な映像ありがとうございました😊矢立峠で950t牽引ですか?重いですね。定数的にはD51 DD51で3両要りますね。電化不可欠でした😂C61でも10両客レなら後部補強必要ですね。矢立トンネルはボトルネック解消に役立ちましたね。
プさん、ご視聴頂きありがとうございます。
奥羽本線~羽越本線~北陸本線の日本海縦貫線は旅客は全然ダメですが、貨物はまぁ盛況ですね。でも機関車がみんな同じですからとても残念です。
あの方が『矢立峠』の動画上げられてますよ。動いてる『反向重連』のシーンもありました。
やはり迫力がありますね
チャンネル登録者9600人突破おめでとうございます
フリット爺さん、ご視聴頂きありがとうございます。現時点9775人です。登録者様1万人がを超えると違う世界が見えるのでしょうか?
いつも貴重な画像をありがとうございます。
おぉ、ついに矢立反向重連の姿を出してくださいましたね!
蒸機時代は今より機関区があちこちあったとはいえ、この地のダイヤ組成上はカマの回転を早くするための工夫だったろうと想像します。
冬場はキャブとテンダをケンバスで覆ったとはいえ、バック側はやはり吹き込みで寒かったろうな…とか。
寝台特急日本海はDD51重連の記録を見ましたが、他は旅客も貨物も1971電化までほとんど置き換えは無かったのですかね。
緩勾配新線になったとはいえ、3000m超のトンネルを走るのもそれはそれで決死の覚悟だったと想像します。
廃道探検家HN“よっきれん”さんのブログにもこの地が出ますが、新線の陣場側で谷を詰めた場所に斜坑が口を開けています。
ファンがあったか定かではありませんが、排煙のために必要だったのでしょう。
三丁目分隊員さん、ご視聴頂きありがとうございます。DD51も出そうかと思いましたが、以前きたぐにを出したので止めました。DF50はなかなか好きなので、一杯出しました。950トンの貨物を10‰とはいえ新線切換え後も難所ではあったでしょうけど、碇ヶ関・陣馬の運用は終わっていたと思います。(大館や弘前から通しできたのでしょう)
今週もありがとうございます。
五能線の貨客混合列車もいいですね期待しています。
サマーはおしまいさん、ご視聴頂きありがとうございます。
五能線は観光路線としてかなり頑張っていますね。是非近々とりあげたいです。
三重連は究極にて至高だと思うんだよね〜、たまらんよ
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
NHKが1号機を先頭にここの三重連をドキュメンタリー作品にしましたが、あれはやらせで有名です。矢立には三重連は走らないよって。
ある意味凄いねw、NHKは解体して欲しい程嫌いだがこれには感謝の意を述べたくなるよ
矢立トンネル開業と旧線廃止記念として、最後の蒸気三重連運行が行われたが、NHKの新日本紀行で紹介された。
新日本紀行では1号機が先頭でしたよね。
私は昭和47年の奥中山の復活三重連のほうが凄い列車だったなぁと思っています。もう一度なんとかやってもらいたいものです。D51は2輌いますしC61もいるんだから。
@@Yukkuri-Lab さん、新日本紀行で紹介されたD511号機は、京都鉄道博物館に保存されています。
ナメクジ形のドームが特徴な蒸気機関車でした。
毎週ありがとうございます。
1970年8月に行きました。上野から乗った急行津軽は大館でD51を後部に連結しました。
碇ケ関で降りてバスで峠へ向かいました。その時の写真を見るとD51三重連単機の写真がありました。全部前向きでした。
その後大館でC6120に会っていますがその後宮崎へ転属してからも会うことができました。
そのC6120が復活し上越線信越線で走るようになって驚きましたが、東北線、磐越西線、水郡線でも走ってくれたので行かないわけにはいかなくなりました。
鉄人55号さん、ご視聴頂きありがとうございます。
矢岳峠を越える客レの補機ですが、昭和45年の新線切換えで不要(長い貨物はあり)となったはずなので、直前に行かれたのですね。新線切換えの三重連記念列車は8月に何本か走っていますので、その分の回送かおくりこみではないでしょうか。
C61もD51も遠征がめっきりなくなって群馬県内だけになったのは残念です。
実際に写真で見るとすごいですね。迫力が伝わってきます。その中でも3重連は見ものでしょうね。この動画で、当時の東北の鉄道、奥羽線の状況がよくわかりました。
平衛さん、ご指摘ありがとうございます。
動画タイトルで三重連!とやりましたが、これは本当は正しくないことがご理解いただけたと思います。
やはりD51三重連は迫力有りカッコいい今では考えられない光景🦾
高崎のD51も最近は磐越西線を走らないのは残念ですね😓
塚越さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
東北本線と奥羽本線、同じ北東北なのに使い方が違うのが面白いです。
写真撮る側からすると、東北本線奥中山辺りは、広々として自由に撮影ができますが、矢立峠は動画の題目の狭溢なんですね。
青森機関区所属のC60やC61が牽引していた奥羽本線の矢立峠越え&大釈迦峠越え(秋田-大館-青森間)の客車普通列車のうち、大館駅始発の下りの朝一番の列車である青森行きの623レ(大館発は午前5時台)のみは、1967年10月1日のダイヤ改正で青森機関区のC61の奥羽本線での運用が拡大した際に、C61に牽引機が変更され、同時に、矢立峠越えの区間である陣場-碇ヶ関間をはさんだ大館-弘前間では客車5両前後の編成で運転していたことから、翌年(1968年)の"ヨン・サン・トオ"のダイヤ改正の前日までの1年間は、C61の単機牽引・補機なしで(旧線時代の)矢立峠を越えていました。
黄昏特急さん、ご視聴頂きありがとうございます。
補機無し客レがあったことは、以前視聴者様に教えて頂きました。
乗客が少ないのを見越していたのでしょうかね。
国道沿いだからストビューで色々遺構が見れますね
第六平川橋梁上の廃墟が倒壊して往時の姿に戻っていてびっくり😅
ビューンさん、ご視聴頂きありがとうございます。
一度は車で通ってみたいのですが、遠すぎるんですよね。
持っていた鉄道ニュースのVHSの『青森発上野行き普通列車』(昭和45年 牽引機は山形までDD51)のニュースにも 確かここだったと思いますが 後部補機にD51が付いて押しているシーンがありました。当時 蒸機は『熱効率の悪さはともかく 信頼性は安心安定』 という立ち位置だったから 補機にはうってつけだったのかも。
DF90は 狭軌電気式機関車で一番ハイパワーだったとか。
総出力600kwのDF50の補機運用があるなら 同880kwのGV-E197の補機運用もアリかも知れませんね。
(相変わらず 内容の薄い書き込みですみません🙇)
@toriri-serviceさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
DF90は軸重が重すぎる試作機なのですね。パワーは頼もしいんですけど。
逆向き運用は弘前や大館がしており
やはり逆向きだと問題があって例えば上り坂で空転したとき
先端の動輪に滑り止めの砂が
上手く掛かりずらいなど
問題があったやうです
もし陣場や碇ヶ関に転車台があれば
背合い重連はやらなかったし
普通に重連で貨物列車を牽引していた
高橋さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
矢立峠の逆向き補機って、原則はそうなのかと思いますが、運用上おっしゃるようなネガがあって、反向重連補機にしていたのかもしれないな?と思います。
やらせ三重連のNHK動画をyoutubeでよく見ます。画質も良く思い出がある大舘の機関庫内も見られるので好きな動画です。凸型DLと違いDF50と蒸気の重連は良いですね。DF90は東能代時代に撮影しましたがボロボロでした。国鉄DL標準色でした。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。
ヤラセは言い過ぎで、仕込みでしょう。前一台、後ろ二台では様にならないし、奥中山は電化しているしと言うところでしょう。何も知らずにあの動画を見るのは楽しいです。
@@Yukkuri-Lab さんもヤラセと言われてましたよね。でもヤラセは言い過ぎですね。国鉄がNHKに忖度した感じでしょうか。
魔理沙が言ったヤラセは言い過ぎだと言ったんです。三重連だけでなく機関士さんの家庭の中も同様に見えました。
このカット「上野駅進入」ではなく、下り日暮里進入では? 改良前の京成線映ってるし今もある陸橋から撮られたと思われる
ご視聴頂きありがとうございます。
これは上野への推進運転だったはずですね。お墓なところの陸橋ですね。
トンネルのできる前の廃線跡は残っているのですか?
@lexusis4486さん、ご視聴頂きありがとうございます。
矢立峠廃線跡で検索すると色々でてきますし、国道7号沿いなので色々見て回れるようです。
日本の機関車はスモールエンジンポリシーが主流だったせいか、重量のある貨物の牽引では重連、三重連がよく見られましたな
最近ではラージエンジンが主流になったせいか、こうした区間ではH級機関車が活躍してますが
EHが主流になったのはEF200やEF500の失敗から日本の環境じゃラージエンジンに耐えられない
民営化で車体は2つで事実上の重連だが機関車1両分の線路使用料で済む経営上の理由
本当の重連と比べて空転した時の冗長性が劣る問題も機械が補えるような時代になったからですね
電光刑事さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
奥羽本線って、いまでも鉄は訪れるのでしょうか?貨物は多いですねぇ。縦貫線だけあります。でもEF510ばかりで出かける気力は無いのが残念です。
@@Yukkuri-Lab 最近では縦貫線の方にもEH500が進出しているようですな
まじめな話、EH500であれば、青森から九州まで機関車交換なしで行けますから
その昔NHKの[新日本紀行]で[三重連の峠]として紹介されたことがありました。D511も配属されていた頃。然し定期での三重連はなかったのならあれもまた[やらせ]だったのでしょうか?映像では何日もかけて様々な列車を撮影したのでカマも貨車もその都度変っていて、[大人になった今]ではそれは[大人の事情]なのは理解出来ますが、当時の小学生には[何でさっきと機関車が違うの?おかしいよ?]と混乱したものでした。
別動画でもCommentしましたがEF64-1000は正に上越線用に投入されたカマなので上越線を走るのに何の不思議もありません。
DF90は当時各メーカーが競って開発した内燃機関車の一つで電気式でした。その中では優秀な方だったらしく国鉄に買い上げられ長く使われました。ただ、SGを持っていなかったので冬場客レ牽引時には暖房車が必要でした。
東北本線とほぼ同格の基軸動脈幹線の常磐線はそれ故に早くに電化されそうなると大型DLの出番は無くなります。DF90も[リストラ]され[人事異動]。重量があって恐らく空転しにくくそれでいて牽引力もあるので入換用にと目されたのでしょうが、DE10・DE11と言った入換作業に適した(それでいて支線区の本線運用もこなせる)カマが台頭してきたとあっては最早出る幕を無くしたのでしょうね。
個人的にはあのエクステリアデザインは好印象であのまま量産機が出来ていたら…と時々妄想しています(^^);
SleeperExpressJNRさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
やらせは言葉がきついのですが、仕込みでしょうか。C11の特急さくらのトレーンマークのようなものだと思っています。どちらも当時からオカシイと言われていました。
DF90は秋田に来て塗りなおされたんでしたよね。
蒸気が無くなって、現在機関車の趣味もさらに対象が狭まっていますが、どういうものを対象にすべきなのかなぁ?と思います。まわりは桃太郎ばかりなのです。
魔理沙さん霊夢さんこんにちは!急行きたぐにの補機はいつまで蒸気機関車だったのですか?寝台特急日本海はヨンヨントウダイヤ改正で9両から13両編成になりDD51型重連になったのは知っていますが!青森機関区のC61型6両は全機宮崎機関区へ転属になりました。前年に同じ量数のC61型が鹿児島機関区で廃車になっています。なんかもったいないような気がします。
もりわききくおさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
きたぐにですが、昭和44年ごろ10系に代わっていますが、まだD51の補機が付いていたはずで、おそらく矢立トンネルでの新線切換えまで補機が付いていたものと思います。
青森の6輌が異動したのですが、あれは全般検査の残りがあったためC57と鋼体サタンですね。鹿児島のはぎりぎりしかなかったと思います。
7:05 鹿児島で潮風を浴びてグズグズになっている19号にもこんな時代があったんですね〜😢
あっ、そういわれれば19号は静態保存機でした。
@@Yukkuri-Lab現役時代は車体をこまめに油で拭いて貰えるから雪でも潮でも平気でしょうが、今はもう…😭
南九州は係員さんたちが機関車を取り囲んで磨いていました。それがルーティンになっているのですね。
矢立峠旧線の遺構は国道7号を走ると見る事が出来ますね
蒸機現役の頃、麓の駅は補機の付け替えで人員も多く賑やかで列車本数も多かった事でしょう
今じゃ新線化で駅は無人、長距離列車も無くたまに来る普電もガラガラです…。
デカミツさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
JRも片付けることも無く、ほとんど放置状態ですね。歴史的な遺構でもないようですし。人口も減っていくのでそのままだと思いますが、迷い込んで事故に巻き込まれないようにはしていると思います。
貨物列車は活況のようですね。
グーグルマップで見ると、まだ線路が撤去されずに放置されている部分があるんだね。
もっちくん、ご視聴頂きありがとうございます。
私は廃墟は好きなほうで、縁があれば行ってみたいです。でもあまりにも遠いですよね。
奥羽本線の難所といえば板谷峠と矢立峠の影に隠れた感がありますが、山形・秋田県境の雄勝峠(院内峠)もありますね。開通当時は機関車が非力で補機を繋いでいたと聞きますが、無煙化の直前はどうだったのでしょうか。
今では普通列車が一日八往復するだけの超ローカル線になってしまいましたが・・・
さばた295さん、ご視聴頂きありがとうございます。
確か普通列車で院内行が多かったか?あったか?記憶があります。
峠までと言うことだったんでしょうかね。
ヨンサントウで早々にDL化された区間のはずで、まったく念頭にないです。
C57とD51がいたわけですが、米沢以南、秋田以北と違い貨物量も少なかったのかな?と思います。
確かに普通列車は院内終着・始発がいくつかありましたね。人の流れも雄勝峠が境になっていたし、院内には駐泊所がありましたから、妥当な設定だったと思います。
昭和45年頃の話、真室川の本家の裏に奥羽線が通っていて、DC特急の「つばさ」やDD51の牽引する旧客をよく眺めたものですが、貨物列車はDD51単機牽引だった記憶がありますから、雄勝越えをして秋田方面を行き来する貨物の量は少なかったのでしょうね。
東京から秋田方面に向かうなら板谷越えをするよりも上越線回りにした方が楽だったでしょうから。
矢立峠越えと同じような奥羽本線の秋田-青森間(いわゆる"奥羽北線")の難所といえば、青森の手前にある大釈迦-鶴ヶ坂間の大釈迦峠越えがありましたよね。
こちらでも、初代大釈迦トンネルが現役であった時代には、重量級の貨物列車や長編成の旅客列車(急行列車など)は、D51を補機として連結して、25‰の急勾配区間を越えていました(旧線時代の大釈迦峠越えでも、補機は後部補機が主流でした)が、1970年11月の矢立峠越えの区間の新線(全長3180mの現在線の矢立トンネル)への切り替えの7年前の1963年7月(8月?)に、勾配を10‰前後に緩和した2代目大釈迦トンネルを経由する新線に切り替えられました。
奥羽本線の秋田以南新庄までは電化遅れましたね。
大釈迦もありましたね。奥羽本線は板谷峠と矢立峠が目立ちますが、丘陵地を抜けているから小さな峠がいくつかありましたね。山形県の村山地方と最上地方を隔てる猿羽根峠もありましたが、補機で後押しをしたという話は聞いたことがないので、勾配は大したことなかったのでしょう。
ただ、最上地方は全国有数の豪雪地帯で、袖崎を過ぎると急に積雪が多くなりますから、厳冬期の猿羽根越えそれなりに大変だったことでしょう。
山形・秋田電化とともに複線の新線に切り替えられ更に後には改軌されて、今では山形新幹線「つばさ」が事もなげに行き来するトンネルになってしまいましたから、地元の人でもなければそこが峠だと気付く人はいないかも知れません。
終盤の昭和46年8月に人気の若番機C612に会えるかなと淡い期待を抱き大館へ行きましたが出会えませんでした。2号機は電化を前に先行して九州へ旅立ったようでした。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そういえば、C57-1の修理が終わったらC61-2の修理をやってくれるのでしょうか?
@@Yukkuri-Lab
9月17日現在C571はボイラーとキャブくらいしか梅小路第2検修庫に見当りませんでした。台枠などは外注先だと思います。扇形庫ではC56160とC622が修理中、C612は給水ポンプとコンプレッサーが部品取りされたまま屋外にありました。年末はD51200 も検査に戻るでしょうからC612の修理はまだまだ先のようです。やはり工場のバックアップがないと厳しいです。
C57-1重症なんですねぇ。
8:37 ワム70000 、ワム80000,トラ45000,ワラ1,チキ5500? とても長い貨物列車ですね!
KESEIさん、ご視聴頂きありがとうございます。KESEIさんが興味持たれるように長いいろんな貨車を出しました。
とても@@Yukkuri-Lab 嬉しいです!
陣場じゃないでしょうか?馬ではないような。
ご視聴頂きありがとうございます。
ご指摘ありまして、コメント欄でお詫びと訂正を行いました。
@@Yukkuri-Lab 早急なご対応、ありがとうございます。
動画の写真は自分で撮ったものですjか?
ジムミナスさん、ご視聴頂きありがとうございます。
自らの撮影もありますし、お借りしてきたものもあります。
@@Yukkuri-Lab さん、教えていただきありがとうございます。戦後の写真が一番すごいと思いました!
今回の写真はすべて戦後のものなんです。
板谷峠は、4100、4110の牽引力が予想以上だったので、電化計画が一旦立消えになったとか😅
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
電化計画が遅れそうでE10を持ってきたところ、GHQが承認して意外と早く電化が進んだという話だったです。
陣場駅ですね。馬ではなく場所の場。
tetsu242さん、ご視聴、ご指摘ありがとうございます。
またやってしまいました。動画アップした直後サムネを矢立峠を矢岳峠にしてあり、
大慌てで直してこれで大丈夫と思っていました。ていせいこめんといれておきます。
矢立峠のD51の三重連は、伯備線の布原信号所に匹敵する鉄オタの聖地だった。
冬は、吹雪で荒れた天気が多く撮影は困難を極めた。
DD51形やDF50形も運用に入っていたが補機が主だった。
C6120号機が越えた夜行列車は、夜行急行津軽があった。
大坂さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
DD51は日本海、きたぐにが有名ですが、今回DD51は出しませんでした。
東北でDF50って奥羽本線だけでしたよね?
@@Yukkuri-Labさん、東北では、奥羽本線だけで、後は紀勢本線と四国と九州日豊本線にありました。
DF50形は、四国の多度津に保存機があります。
あの保存機ちゃんと動くのでしょうか?
@@Yukkuri-Lab さん、分かりません。