壇ノ浦の戦い後の平家 源氏の世の中で平家はどう生きたのか?【鎌倉殿の13人】
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- เผยแพร่เมื่อ 7 พ.ค. 2022
- 壇ノ浦の戦いで源義経ら源氏に敗れ、安徳天皇とともに海に沈んだ平家一門。
しかし、棟梁の平宗盛をはじめ、生き残った者も多くおり、それぞれ別の道を歩んでいくことになりました。
一部は、鎌倉時代を生き抜き、中には現代まで繋がっている系譜もあります。
今回は、平宗盛、平時忠、平頼盛、そして安徳天皇の母 平徳子のその後について紹介します。
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私の大学時代の友人に平家の末裔がいました。端正な顔立ちは、いかにも平家の末裔でした。うらやましい!
平家の落人部落の研究をしていた時、ある落人伝説の部落に行きました。ここの棟梁は歴史上死亡したことになってますが、再興意欲が抜群に強く生への執着が強い一団が広範囲に山中を彷徨いこの辺鄙な山中に隠れすむことになりました。落人伝説は過半数以上作り物ですがここは本物です。追討は10年程厳しいものでした。以後解かれましたが杣びとも寄らないような山奥に情報がもたらされることはなく、鎌倉時代は恐怖に駆られてひっそりと暮らしていたことでしょう。明治になって棟梁家は嘗ての官職を苗字にして50キロ下った木材の集積地域に移りましたが、600年身を寄せ合って暮らした同族を含めるであろう郎党の末裔は現在も辺鄙な環境で暮らしています。そこに初めて昇った時、そこで暮らす人達の険しい顔つきの人が多いことに大変ショックを受けました。柔和な表情の住民は少なくて、にも拘らず好戦的なところは見受けられませんでした。
ひとつの見方をすれば、此処より随分と離れた下に暮らす住民にとって、集団が住み着いていることが分かって不気味であったはずです。上に暮らす一団は武器を持っていることは考えられることであり、一定期間互いに不気味な存在感を抱いて暮らしてきたであろうことは想像出来るます。交流しようにも離れています。また、物々交換しようにも下の集落でも炭焼きはしていますから、旧来の住民から交流する必要はありません。新入りの山ノ上の住人には物不足でも交流を積極的に出来ません。
都と違い役所は遠すぎます。特に悪さをしない限り近すぎない距離を保ってきたでしょう。
米も出来ない所でひっそりと750年暮らしてきた歴史に向き合って、沢山ある観光化した落人伝説の集落も今後全て落人部落として認識されるのか?と考えると此処を見ると悲しくなります。
為政者が歴史を作るだけでなく一般大衆が改ざんした歴史は多く存在します。大衆が逞しく生きることは望ましいですが、歓迎できないこともあります。
有難うございます!
安徳天皇は壇之浦で入水したとされていますが、現地の熊本県の幣立神宮の奥宮にかくまれた(今は奥宮はないとされています)。という伝説があります。その為に、もともと熊本の一宮だったのを事前に辞めて阿蘇神社に一宮を譲って安徳天皇を守ったとされています。
一説には鹿児島県の硫黄島(鬼界ヶ島)に逃れ、18歳まで生きたと伝えられますし、「第二次世界大戦」後、硫黄島の旧家長濱家の当主が「長濱(ちょうひん)天皇」を称しました。
清盛の弟の系譜が、頼朝より長く繫栄したんですね。
私の父の家系がまさに壇ノ浦の生き残りです。
元々は現在の京都の綴喜郡井手町の武士でしたが、
平家に仕え、最後は壇ノ浦の戦いの後に落ち武者として熊本に逃れました。
一部は山間部(五家荘周辺)、その他は海沿いの僻地に定住し、
海沿い定住組はその後、隠れキリシタンとなりました。
家系図が残っています。
私の父系の名字は井手です。
綴喜郡井手町の由来です。
井手姓は隠れキリシタン最大のファミリーでした。
家系図あるのは凄いですね。
綺麗に書かれてますか、それともごちゃごちゃ?
@@pontarou01 コメントどうもありがとうございます。
家系図は本家で以前、父が確認したものですが、写本のようです。
多分、オリジナルは保存していても厳しいと思います。
私の実家の本家にも、元は平家一門の傍系だとする家系図があり、さらに室町時代はここの領地を治め、戦国時代に落ち延び云々みたいな書物みたいなのもあるようです。それを元に本家連中は一族の血統と歴史をまとめた本まで刊行する始末。苗字は明かしませんが、平家を祖先とする一族が使う苗字で一見信憑性は高い。
ただ、昔に趣味で室町時代や戦国時代に治めてるとされた地域の文献やら書物を調べてみたら、自分の家名ではない別の家名が記載されてる。参加した合戦の名簿にも同じ苗字はいても素性の違う将しかおらず、落ちぶれたきっかけとなった攻城戦の防衛側の将の名簿一覧にも載っていない。どうやら、書物は偽物で、家系図も本当かどうか分からない。江戸時代には、有力農民が落ちぶれた武士から家系図を買ったり、捏造して作るケースも多かったらしい。正直なところ、残念ながら家系図だけだと胡散臭い。落武者伝説は浪漫はあっても確認のしようがない。
@@user-hk2rh2oq6n
興味深いお話ありがとうございます。
山陰地方にも落人話は多々ありますが、同じような顛末が多いようです。
時国家に子供の頃行きました
半分を文化財として公開されていて、半分は子孫の方々が実際に住んでました
凄く面白かったです。有難うございます。
相変わらずの深掘り、素晴らしいです。
母が曽祖父(母の祖父)に「祖先が豪族だった」と聞いたそうで その家の名前を聞いて調べたら平時忠を祖とした時国家でした。曽祖父の言葉が真実なら私は平家の末裔にあたるのでしょうか...曽祖父も祖父も亡くなっているので話を聞く事も私が平家であるという確証が得られないのがもどかしいです...祖母は今も能登にある祖父の実家で暮らしています。本当に私が平家の末裔なら嬉しいなぁ。
平時国の話しは時国家の子から聞いた事があります。確かに能登が実家だったわ。すごい話しだったんだなぁ。
ちゃんと聞いてとけばよかった。
やっぱり、壱岐国で日本を守るために奮戦した平景隆が胸熱やな。
対馬の宗氏は、平知盛の三男知宗の末裔。
平徳子がいた寂光院観たことある。
火事になる前だったから、良かった。
建礼門院は寂光院を抜け出して身代わりを置き阿波の安徳帝の下へ
この歴史からかの有名な怪談話の「耳なし芳一」になるのですね
佐賀県唐津市相知の山中に「平山」という地区があり「小松殿ゆかりの墓が祀ってあります」。また平山地区の殆どが「小松姓」のため平家の落人部落ではないかと思っています。【壇ノ浦後の平家一門と関係がありそうで歴史ロマンを感じますね】
四国西部(市町村合併で八幡浜市に)には平家谷の地名もあります。
小松は平維盛だったか敦盛だったかどっちかの子孫ですね。
@pontarou01維盛です。
因みに維盛は「一の谷の合戦」後、妻子会いたさに密かに屋島を脱出し、京へ向かいましたが、途中で「一の谷の合戦」で捕虜となった叔父の重衡が都大路を引き回された事を知って、京へ戻る事を断念し、高野山に登って、滝口入道を頼って出家し、熊野詣をした後、那智の海に身投げしました。
平家とは伊勢平氏の中の清盛一門のこと。北条家も平氏なので、しばらくは平氏の天下が続くことになった。
そうですね。
平将門直系である、相馬氏は
江戸時代中村藩を維持してますしね。
羽前本庄藩戸沢氏も平氏です。
平氏は、滅んではいないのに
おかしな教育のせいで…。
平氏は北条氏だけではありません。
@@user-pu8sq5ei7s そんなことは誰でも知ってますよ。
本来、源氏は坂東武者の集まりと呼ぶのが正しい
坂東八平氏は❔
清盛の娘らは摂関家や大臣家の当主や子弟にたくさん嫁いでいて、清盛の孫や曾孫らは後世も公家として残ってますね。よって清盛の血筋は公家社会に相当数が残ってます。 彼らは大原に出家した徳子(安徳帝の母)を見舞ったり、生活援助をしてます。尚、五家荘などの地方の平家伝説は殆んどが、憧れの高貴な血筋と結びつけた、いわゆる貴種伝説です。
栃木県の湯西川、岐阜県の白川郷や徳島県の祖谷郷、宮崎県の椎葉村、熊本県の五木村もそうです。
私の苗字は池で、家紋も蝶々(平氏の家紋?)なので、この動画で先祖は平氏かなと改めて感じて聞いていました
間違いなくそうですね
羨ましい
頼盛の5男の子孫が池を名乗り始めたようですね!
「平氏」といっても、「堂上平氏」ですから。
まあ家紋も苗字も勝手に名乗れるからな
私は平貞能の直系の末孫です。貞能と言っても知らないかもですが、平家物語や吾妻鏡等に登場していて、平重盛の遺骨を持って下野の塩原の地に来ました。そして現在に至っています。
栃木県日光市湯西川では大昔から鯉幟を揚げてはいけないそうです。
俳優の六平直政さんも平家落人の子孫と仰ってたなぁ。
六平の姓も父方出身地秋田県由利本荘市の「平家の落人が六つの赤旗を立てた」の言い伝えから「むつあか」から「むさか」と読むようになったそうで、親族の方が今も由利本荘市で代々お寺をなさっているのだそう。ちなみに六平を名乗る方は全国で7、8軒あって皆ご親戚らしい。
由利十二頭ですかね?
由利本荘は、六郷氏が大名として無事明治維新を迎えてる。
優雅にかつ力強く、そして儚く終わってゆく。家紋の蝶の様な名家であったと思う。
生き残った方のその後は余り知らなかったので勉強になりました!
神々しくあり人間臭さもある。個人的に最も好きな時代です!
自分「村岡」なんですけど平氏平家とは何か関係はないものでしょうか、、。笑
実際には平家は滅んでいない、平氏本家が滅んだだけであって、この時代の武士の6割以上は平家の一門だ、この後源家も三代で滅ぶが源氏一門が滅ぶ訳ではない。
平将門直系相馬氏は大名として明治維新を迎えてる。
羽前本庄藩戸沢氏も平氏ですが、此方も無事明治維新を迎えてます。
平家:伊勢平氏である平清盛の家系、政権を支えた精力を指す。「6割以上は平家の一門」←これは平氏の間違いでは
本家というか、桓武平氏の宗家かな
六条源氏の一族(特に源義朝の一族)もそうだ。
私の地元にも、平家城という山があり平(ひら)という地区が麓にあります。(ド田舎ですが)
沖縄県には「平良(たいら)」という地名と姓があります。
昔に石川県の能登に住んでる友達の家に遊びに行った時に何でこんな田舎に住み続けてるの?って聞いたら先祖が源氏に喧嘩を売ったからって言われたけど本当だったのかもな。
父の実家が石川の山奥にあったのですが家紋が平家の女紋でそういう話もありました。
北九州市門司区太刀浦の町名がついた由来を小学生の頃に近所に住んでいた高齢者の方から、壇ノ浦の戦で負けた平家の武将が逃げる時に、井戸の中に刀を隠したことから、太刀浦という地名がついたと聞いたことがあります。
大納言平時忠様の従者として能登に流れて来た者の子孫です。
たちなかしょうけん(漢字忘れてしまいました😅)と名乗り、平の名前は追っ手を恐れて皆捨てたと伝え聞いています。
能登の時国家を訪ねて、時忠さんのご子孫と話してみたかったのですが、新年の災害以来閉館しているようで、復旧を願っています。
こんばんは。
いつも詳しい動画、ありがとうございます。
ほんとにほんとに細かいことですが、読み方として「見下される」→「みくだされる」 ではなく、状況から「みおろされる」ではないでしょうか?
山形県の置賜地方にも「平」さん居るんだよね。どこから流れ着いたんだろうか。
平教盛の息子と、平知盛の息子も出家の身分ゆえに生き延びています。
維盛の子孫です。長野県下伊那郡清内路村には今でも子孫が暮らしています。名字が二つしか存在しない村です。今は町か市になってるかもしれません。
2009年3月31日付で,長野県下伊那郡阿智村に編入されていますね.
降○さんかな?
私は内管領長崎氏→毛利氏→福原氏→和智氏と女系に女系を重ねた小松殿の子孫です。つまり遠い親戚ですね。
平忠正の子孫はいるのかな?
自称〜の子孫なんて全国そこら中にいるからな名乗るのはみんな自由だから
平将門の直系相馬氏
天皇の御子から臣籍降下し平の姓を受けて羽前に下った戸沢氏。海道平氏の直系岩城氏、皆様幕末迄生き延びる。
平時忠が云ったとされる「平家にあらずんば人にあらず」ですが、平家の傲慢さを示すものとしてよく挙げられますが、それとは違う説もあるようで、或るポストが空いたので後継者の候補を考えているとき、誰かが「XXはどうか?」と云ったのに対し「彼は平家ではないから後継者候補たる人ではない」といったのであって、別に「(平家でなければ)人間ではない」と云った訳ではない、という説です。
大河ドラマの「平清盛」では、森田剛扮する時忠が自嘲気味に呟く演出でしたね。
「平家以外は信用出来ない。」と言う意味に解釈出来る演出で印象に残っています。
そうらしいですね。
あと、藤原道長の「この世をば〜」の歌も傲慢な意味ではなかったそうで。
てか鎌倉幕府得宗家の長崎氏は平家一門である平重盛(清盛の嫡男)からの血筋だからね。
それに元々、源頼朝は大庭氏や千葉氏等、関東平氏が担いだ武将なので、その後は平氏が本姓の北条氏に政権を盗られた事で結局のところ平氏に政権が戻った事になる。
長崎氏は実際は、確かに伊勢平氏だけど、清盛より前に分かれた系統とも、ちなみそこから北条に養子入りした人がいて、その人が時政の祖父らしい
「源平交迭」。
大河ドラマ北条時宗では、タイラノさんが大勢出てきましたよね。
北条家だって、平氏の傍流の傍流。
大河ドラマの進行とマッチしてこの頃の人間模様が分りました。
うちもそうと聞いています。ただ日本国民皆遡ってみると平氏や源氏や藤原氏や天皇家などに繋がるのは間違いないと思いました。徳川や足利や北条などもね。
奄美大島にも、平家伝説が、有りますよ。平の地名と名字もありますよ。
沖縄にもいる。
平家と平氏は別物ですけどね。
聞いた話ですが屋島から別働隊で陸路に逃れた平家一門がいて名前はわからないのですがとても高貴な方を守って四国の山中に分かれて身を潜めたそうです。いずれ源氏を打ち破った平家一門が迎えに来る約束をしていたと聞いています。
明治維新で源氏の流れを汲む徳川幕府が倒された時に実は私たち平家一門ですと名乗りを上げたがあまりに長い月日が経過していてまったく相手にされなかったと聞いています。平家の隠れ里の屋号は一子相伝で姫が外から婿を取りその他の子は何も知らされず子供の頃に奉公に出されたそうです。
本当か嘘かわかりませんが近くの横倉山というところに天皇御陵と同じ作りの墓所があり安徳天皇陵の参考地になっているそうです。
徳島出身です。
ご先祖と考えられる御方は平教経と言われておりますね。
一の谷で通盛とともに戦死し、晒し者にされたのが真実との意見もありますが、ひょっとしたら安徳天皇を護衛しながら戦う難しさから逃されていたのでは?とも思えます。
@@user-ol5cy5tb2v うちの祖父は安徳帝とは聞かされずどなたか位の高いお方を護衛してきたと聞かされていました。地形に京都の地名を付けた街道沿いに分散して住み敵が攻めて来ないか見張りをしていたような話しだと言ってました。ただしあくまで言い伝えとしての伝聞に過ぎず祖父の本籍地の近くに源範頼がここまで来て引き返したという場所があり何故だか平家終焉の地という石碑が建てられています。
@@user-nv3wc2sk2e
私の認識では、祖谷渓と椎葉の場所が潜伏に適していたと感じます。
貴重なお話ありがとうございます。
徳島県の祖谷郷だ。
「かずら橋」で有名だ。
@@user-ol5cy5tb2v 祖谷は通過したみたいですよ、四国の山中に分かれて潜んで合流する手筈だったみたいです。
それ以上は聞いてませんし安徳帝というのも聞かされてません。ただお墓が明治時代になるまで石に名前を書いて河原に積むだけだったのですが、それが戦の時の平家の風習と同じだそうです。
俺の田舎には平家村があるよ
平家の落人たちが隠れ潜んだと言われる村だ。
いまは道も開けて自動車でも簡単に行けるけど
昔は交通が不便な谷あいの集落だったようだね
平家を亡ぼした後は「坂東武者は最悪だった平家の方が良かった」と伝わってます🥵
平将門は好きですがその後の子孫達は😓
坂東武者は凶暴だったそうで。
平家は人間味あるのが魅力。源氏より学問教養や雅さでは遥かに上。貴族文化にも通じていたし。ただ全盛期にいい気になりすぎたのが悪かった。
@@pontarou01 坂東武者はみんな他人だったからね。
将門の末裔は確か関東周辺の山奥ですよ。そういう集落があります。苗字に平という感じは使っていません。直系ほどバレることを怖れるので平家由来の地名をもじった苗字だそうです。
平という漢字を入れてるのは血筋の中でも遠縁だそう。
今は少なくなりましたが、昔、関門海峡では平家蟹が取れました。
本当平家蟹見なくなったね、忘れてました。
でも食用には適さないらしい。
栄枯盛衰、世の常とは言え人生にはいろいろあります。世の中を上手に泳いだ人、朴訥に生きた人。
今時大戦でも多くの若者を美辞麗句で死地に赴かせた最高責任者で有る作戦部長などは、自分は悠々自適の世を送り、終戦後「最後の一人になっても戦争に反対せよ!」と何とかおっしゃって上手に長寿を全うして居ます。
、ら
、み
政府の降伏に反対して「あと二千万人戦死させれば勝てます」と言ってた奴も天寿全うしたそうで。
@@pontarou01 先立たれた若者たちは本当に無念だったと思います。
その分皆で頑張って生きましょう!
板東武者の多くは、桓武平氏。
坂東平氏ですね
岡山県の県北なんですが、この集落は平家の落人が住みついた所だと言う言い伝えが残っていて、私の同級生もこの集落の出身でその
同級生が言うのに、昔この集落の葬式は変わった葬式をしていたそうです、今は普通なのらしいですがね、
同級生に詳しく聞けば良かったのですがね
もう40数年前の話なので聞く事が出来ませんけどね。
平家一門は皆仲がよくまとまりが、あるように見受けられる、片方の源一門は、兄弟関係は、余り仲が好くないに、見受けられる
平時忠の位は大納言で、時国家の邸宅の奥に床が一段高くなった大納言の間が有った。ある時、加賀の前田の殿様が能登巡検の折に立ち寄って、その客間に案内されたのだが、前田の殿様は自分は中納言だから、この客間に入る資格が無いとして入らなかったという話が伝わっている。
根っからの公家だから。
@@user-pu8sq5ei7s
その時国家、上時国家と下時国家が存在しますが、どっちかの方が1月1日の地震で潰れたらしい。栄枯盛衰 盛者必滅、全て胡蝶の夢 🙏🙏
ご先祖様もこの中にいて長崎県の針尾島に落ち延びたんだなぁww
関東で頼朝に使えた有力武家の中には平氏がいた。
伊勢平氏の本家はほろんだが朝廷には別流な
堂上平家が残った。
北関東の平家は残った
@@noribogy6720 平家はほろんだよ。北関東にいるのは平氏ね。
伊勢平氏が滅んだのは、源頼朝が死んだ後だ。
今は、少なくなってしまいましたが。
北九州市門司区田の浦から、白野江付近には、誰のものとも知れず、自然石の、石碑のようなものがあります。
また、白野江の、八木田村の、八木田家は、平家の末裔と言われています。
友人に平姓の方がいました。
足利さんもいましたよ。
あと上杉さんも、わたしはごく普通ですがね。
のりこ?とくこ だった気がする
とくこですよね
こういった名前の読み間違えが内容を薄くします
建礼門院徳子(けんれいもんいん とくこ)と習った記憶があります。
それが気になって動画の内容が半分しか入ってこない🌁
漢字で記された名前は、読み方まで記録がない場合がほとんどで、現代においては、多分こうだろうという予測で読んでいるのが通常のようです。
式子内親王を便宜上「しきし」と読んだり「しょくし 」と読んだりしてますが、「のりこ」であっただろうという説、しかし本当のところはわかりません。
徳子さんも、とくこ だったかもしれないし、のりこだったかもしれない。また別の読み方かも。
紫式部と清少納言の主も名前が音読みだ。
宗盛、泳ぎが上手かったというと古式泳法を習得していたのかと思ったら、太っていたからだったのか…。
頼朝は冷酷で疑い深い人というイメージがある。平治の乱で捕らえられ、清盛に処刑されそうになったとき、池の禅尼が助命嘆願をしてくれて、頼朝は減刑され、伊豆に流された。この恩を忘れていなかったので、息子の池頼盛親子が捕虜になって鎌倉に護送されてきたとき、頼朝は命を助けた。宗盛親子が処刑されたのとは対照的。重衡の処分を興福寺に任せたのは、頼朝らしい残忍なやり方だと思う。
徳川家康も今川に居たときに虐められてたので執念深くなったそうで。
@@pontarou01
孕石さん、、、それはそうと、重衡の子孫は現在の小笠原流宗家がいますね。小笠原一族の赤沢氏の初代の母が重衡の娘です。
頼盛の家司が、時政の後妻牧の方の兄だから、命の恩人(実際は、たぶん上西門院に頼まれてだろうけど)+舅の関係者と言うことで、宗盛と扱いが違っても当たり前。
女優の久我美子さんは、平頼盛の係累だったのですね。久我家は明治時代には、候爵(こうしゃく)に叙せられたんですよね
久我(こが)家は父系は村上源氏なので、池の大納言家(頼盛)の係累の方が後世に嫁いでこられたんですかね。
源通親の末裔だ。
宗盛は平清盛と平時子の長男で文武平家の嫡男
だから 平家物語で酷い描かれ方をしています 清盛と同じように
平盛子は、どうなったんだろう?
頼朝が義経を殺すきっかけは時忠の娘を娶った事。
「のりこ」ではなく「建礼門院とくこ」ですよね。
「のりこ」が正しくないのはそうなのですが、「とくこ」、「とくし」も同じく正しいとはいえないようです。
そもそも、「徳子」自体が諱で、読み方も伝わっておらず、実名も不明なので、正解がない状況です。
建礼門院とするのもしっくりこなかったので、勝手な判断でのりこと読ませていただきました。
「のりこ」と呼ばれていた可能性はあるが「とくし」と呼ばれていた可能性は無い。
だから「のりこ」でも良いと考える。
明確に読みがわからない場合は音読みにする、と聞きました。「定子」→「ていし」のように。ですから「とくこ」はそのルールに従っていないのですが、この場合に限って「とくこ」が聞きなれているような気がしますね。なぜでしょう?
だからと言ってねぇ……
「とくこ」の方が一般的な気はする🤔
解釈は勝手なんだけどね
でもやっぱりしっくり来ないわ
「のりこ」は現代テイストですね。平安時代とは思えない読み方😅😅😅🌁🌁🌁
平家とは清盛の一族の呼び名で、時忠は堂上平氏ではないのかな?平氏は沢山居るし
平家と平氏の定義って違うそうですね。
平家は清盛を出した桓武平氏の中の伊勢平氏の一流ですね、平氏は同じく桓武平氏の他の流れ(坂東平氏で三浦、北條、鎌倉、梶原、千葉、長尾など多数、平将門もそうです)や他の天皇からの流れ(例えば仁明平氏など)がありますので、平家と平氏は区別されます。
時忠は平家と同じ桓武平氏で葛原親王の兄弟王子、すなわち兄高見王の子高望王(平高望)から武家平氏、高見王の弟高棟王(平高棟)から公家平氏という流れですが、公家平氏の流れが平大納言時忠です。清盛とは極めて遠い血族で、殆んど他人の関係だったが、姉が清盛に嫁いで義兄弟(准一族)となったものです。
安徳天皇入水の際に天皇家の三種の神器全てが壇ノ浦に沈んで神武天皇以来の三種の神器のうち八咫の鏡と八尺瓊勾玉は網にかかり引き揚げられましたが天叢雲剣は見つからなかったという説がありますが三種の神器全てが今は皇居にあると言われて居ますがどの説が本当かわかる方教えていただきのでよろしくお願いします。
あれは「レプリカ」だ。
本物の天叢雲剣は熱田神宮に納められている。
平家が京を捨てたのは倶利伽羅峠で主力を失ったからやで
徳子はのりこではなく、とくこではないかな?
後白河上皇からしたら
源氏・平家なんぞ駒としか思って無いからな
まぁ仕方無いです。彼等が力を持ったらしょうがないので…まだ後醍醐天皇の方が人情味あったと思いますね…
同級生に大平落って名前の人がおったけど子孫かもしれん
平徳子
のりこ?とくこやないんかい⁉️
清盛の娘が公家の四条家に嫁いで子をもうけたので、清盛の女系がその後も続きましたね。
平頼網は 平資盛の末裔だったそうな
このあと平景清が地獄から甦って義経と頼朝を倒すんですね
解ります
歌舞伎の観過ぎ。
鶴岡八幡宮の社僧にも平家出身者が何人かいたそうですよ
平家の鎮魂のために入れたとか北条氏が引き込んだとか言われていますね。意外な繋がりです。
@@rekishock
北条も元々平氏の流れで、時政の祖父が伊勢平氏傍流出身との説があるようです
ちなみに長崎家もその流れとの説もあるようです
同族ゆえの情けかもしれないですね
とくこだ!何故チェックしないのか?
音読みの「とくし」か訓読みの「のりこ」等はあっても、両方交じる「とくこ」はないかなと思います。
そもそも本名じゃないのであまり関係ないですけどね笑
平家が滅んでも、荘園は全部、没収されていません、まだ京都には朝廷が存在し、地方の豪族と血縁関係を結び、武士として鎌倉時代、室町時代を通じ、荘園(土地)の拡大を目論みます、今度は武士社会、幕府に奉公人として荘園を認めていただきます🍴🙏まあ昔の話はするなとのこと、この辺で。
落人からの報告『 平家 秘史』 伊藤加津子・著をお読み下さい。
私も歴史に興味を持ち、源平の戦いを研究したころがあります。全国に平家のお落人部落と語り伝えられるところがありますよね。
今、参政党で頭角を現した「神谷さん」もその末裔とか…?日本を救うために命をかけている彼の生き様は、それを物語っているような気が来ます。魂は受け継がれる・・・それを信じて日本の平和を祈りたいです。
阿波の祖谷地方は平家の落人伝説地帯ですよね。
長らく蜂須賀氏に逆らって
何度も討伐されたが、その都度生き延び結局明治維新迄
蜂須賀氏を苦しめた。
私は愛媛県人です。祖谷渓は一度だけ行った事がありますが,阿波の蜂須賀家と戦い抜いたことは知りませんでした。人間の愚かさからくる戦いは認められませんが、子孫を守るための止むに止まれぬ戦いは避けられないでしょうね。現在の日本も中国の属国にならない為の戦いをしている勇士がいます。命がけの戦いです。
系譜は引き継がれ、現代では平愛梨へと至る、知らんけど
落人(おちうど)伝説と言えば平家。なぜ北条(鎌倉幕府)や足利(室町幕府)一族には落人伝説がないのか。
木曾義仲なら落ちた伝説ありますよ。北信濃に。
母方の曾祖母の曾祖母は平家の末裔❤🎉
田舎の福岡の西部の山の中の町に平家の落ち武者が住んでいた地区があったな。そこは福岡であっても山の奥で人里と大きく離れていた地区。方言も福岡とは違っていた。風習も博多とは違い、変わっていた用だ。高校までその地区の人たちとは同じだったが、今では田舎を離れていてわからない。
相当長い期間隔絶されていたのでしょうね。真相が気になります。
@@rekishock そこは江戸時代には天領になっていて言葉も習慣も違っていましたね。黒田藩、天領、鍋島藩とか入り組んでいたところでした。私の家が源氏の一族だったから高校時代まで地元とは仲良くできませんでした。高校卒業後は専門学校をでて東京で就職したので田舎には帰ってません。日本に去年帰国した後は九州でも一番古い源氏一門の土地に引っ越しました。
長い間外界と隔絶していたから、古くからの言葉と風習を残す事が出来た。
角田文衛著「平家後抄」によると、壇ノ浦で御座船から次々にざんぶりとダイブした女どもはことごとく源氏の武者に引き揚げられ、何と実際に溺死したのは安徳を道連れにした二位の尼の婆さんだけだったというのだが。蛇足ながら個人的に最初の宗盛の印象は東千代之介、頼盛は文学青年風な山本学、薩摩守忠度は坂東吉弥で、鉄漿をしてオホホホホとオカマのように笑うので薄気味悪かった。
頼朝が処刑されなかったのは池禅尼の嘆願による という通説は、今では否定的な説明がなされています。(上西門院(:後白河帝の同母姉)や 頼朝の母の実家の熱田大宮司家の働きかけ)
池禅尼の子 頼盛が鎌倉幕府で厚遇されたので、後付けでそういう話が作られたのではないでしょうか?
池禅尼が頼朝の命を助けたのではない、という説があるんですね。知らなかったな。池頼盛父子が厚遇されたので、後付けでそういう説が生まれたんですか、説得力ありますね。
上西門院が頼朝の命を助けたとすると、後白河帝の陰謀説が浮上してきますね。これはこれで面白い。
鎌倉幕府としては、幕府と朝廷のパイプ役が出来る人が欲しいが 東国武士団には適当な人材が見当たらなくて困っていた処に、平宗盛側を抜けて鎌倉に頼ってきた平頼盛は、平清盛の異母弟であっても宗盛を恨んでいるし幕府が求める役割を果たせそうなので、幕府としては彼を利用するのは、当然の成り行きだった。しかし、一般人には《頼朝の異母弟 義経 は、合戦で良い働きをしたのに頼朝に殺され、平清盛の異母弟 平頼盛は、幕府で重用されるのは納得がいかない》と感じるので、《 頼盛の母 池禅尼が 頼朝の命を助けた》という、その違和感を埋め合わせる説明になる逸話を 小瀬甫庵みたいな人が創作し披露すると、大衆はそれを受け入れさっと広まり定着した、ということではないでしょうか?
(実際には小瀬甫庵ではないと思います。小瀬甫庵を挙げたのは ただの喩えです。)
むしろ、池禅尼の懇願で頼朝の命が助かったというよりは、池禅尼の主人でもあり頼朝の母の父であった熱田神宮の大宮司であった藤原季範{すえのり}と縁が深い
城西門院を通した後白河法皇の圧力?によるものと考えたほうが良いと思います。頼朝自身も、元服して間もない頃に城西門院に仕えていたこともあり、三者三様
城西門院との関係は深かったと思いますね。
@@user-vx5hg2xv6c平家びいきの自分としては 後白河のバカ姉弟が余計な事をしやがってと言う気持ち。
生きのこった、のこった😁👨👦
平行盛、有盛、資盛です。
棟梁、はこれで良いのかな?
「武家の棟梁」wikiによるとちょうどこの時代から当てはまる使い方。
@@user-qz3lt7xc7d なるほどです😃ありがとうございます😊
傘屋の息子
戦国の覇王・織田信長は、平重盛の次男・資盛の子孫を称していた。
織田家のルーツは、越前の神官と判明してるから、箔付けの嘘だな。
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天下人になるに至って名乗ったって言われてますね
実際は忌部か藤原だったらしい
本当は藤原鎌足の子孫。
戦国大名に結構平家の子孫がいないか?そのころになったら源氏の子孫と結婚で混ざりまくってるだろうけど
平氏と平家は別だ定期。
いくら後妻の子とはいえ平頼盛の扱いが酷すぎるというか宗盛以下の平家一門が外道すぎる。
まあ、そのおかげで後白河法皇が頼朝との交渉に最適だとして駒として扱われたし、頼朝以降
の鎌倉政権からも丁重に扱われたんだから結果オーライではある。
しかし、あの木曽義仲との決戦に頼盛を赴かせて捨て駒にして都落ちする平家一門の外道ぶりは
その後のグダグダな戦いぶりからの壇ノ浦での滅亡を予見させるものだな。
勘違いしてるが、頼盛は清盛の弟で、母は清盛父の正妻だぞ。
まぁ仕方無いですね…だって頼盛は保元の乱から敵か味方かはっきりしない中途半端な立場だったから…
関東軍みたいだ
平家な顔して生きてきた。
今日一番笑いました(^▽^)
ちゃんと甲冑つけたまま飛び込めば絶対浮かぶことないのに・・・
古式泳法は甲冑を身に着けたまま泳ぎますよ。
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ほっときゃ浮かばない。
てか、死ぬ気だったんでしょ?
平知盛は重い鎧を2領着込んでいた。
毛利氏も平清盛の子孫だよ。内管領長崎氏の娘が嫁いできてる。
ふぉいも五島に逃れた平家の末裔らしい
織田信長が平の血筋であったと言われていますね。
実際は忌部か藤原氏だと言われてる。どうやら天下人になるにつれて箔付の意味合いで平氏を名乗ったらしい
それは自称ですね。徳川も自称源氏です。
平愛梨は芸名?
確か宗盛は三男だった気がする。
のり子ではなくとくこでは?
音読み訓読みが交じることはないので「のりこ」か「とくし」ですね
なんでみんな仲良くできないのですか
宗盛は次男ではなく三・・・まー、それは置いといて、
時忠の子孫が時国家として残っているのには驚いた。ただし、この説はかなり怪しいらしい。
ついでに書いとくと、織田信長は資盛の末裔を自称しているほか、小松帯刀は維盛の末裔を自称しているな。
信長はホントは藤原氏。
戦後期は源平交代説があったので、勝手に平氏を捏造。
平安後期から鎌倉期における甲冑は大鎧と呼ばれる甲冑で
弓矢からの防御を目的に作られた非常に重い甲冑(約30kgとも言われている)
それらを身に着けて海中に飛び込めばその甲冑自体が重しとなり
泳いだりすることは不可能であるし、ましてや浮き上がる事など決して出来ません
したがって、平宗盛は入水はせずに船上で捕えられたと言うのが真相でしょう
元寇でも甲冑をきて泳いでいる武士を見て驚いている記録が残っているから泳げるよ。現代にも伝承されていて鎧を着て泳ぐ鍛錬がある。バイキングの若者はチェインメイルをきてフィヨルドを泳ぎ渡ったと言われてますし。
まったくの嘘の記述に怒り心頭です。 宗盛はそんな情けない人物ではない。鎌倉で、義経と後白河の卑劣を何回も述べているそのおかげで我々は平家の正義がわかるのである。
。鎌倉幕府の日記、『東鑑』にも記述がある。 作り話を放映しないでほしい。
検証が甘い。
300石で150人の使用人を抱えられる?。