【寺社参詣】#45 金剛城寺(兵庫県福崎町/新西国30番/高野山真言宗)~聖徳太子ゆかり 中播磨の名刹~ Kongojoji Temple
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- เผยแพร่เมื่อ 1 ธ.ค. 2024
- 神社仏閣巡り「寺社参詣シリーズ」45回目は、兵庫県の中部、日本民俗学の父と言われる柳田國男の生まれ故郷 神崎郡福崎町にある、高野山真言宗寺院 七種山金剛城寺です。「七種山」は「なぐささん」と読みます。
その昔、七種山に、滋岡川人という人物が住んでおり、干ばつの際に七つの種を民に与えて飢餓から救ってきました。寺伝では、創建は推古天皇の時代、聖徳太子が七種山に登り、川人の遺徳に「これ三宝相応の地なり」と、国家安泰の祈願所として寺を建立したいとの願いを抱き、聖徳太子の師、慧慈法師よりこれを伝え聞きいた高麗の僧慧灌(恵灌とも)により、七山の中腹にある七種の滝の近くに慈岡寺(しげおかでら 滋岡寺とも)という寺号で創建されたと伝わります。慧灌は、後に日本における三論宗の開祖となり、伽藍が完成すると、法道仙人を招き開山式を挙行されたと伝えられています。
聖武天皇の時代に火災で伽藍を焼失し再建された時、勅命で寺号を金剛城寺に改め、さらに弘法大師空海が来山、護摩秘法を伝えられた時に真言宗に改められました。
金剛城寺は、火災により度々伽藍を焼失しており、寺運は盛衰を繰り返してきましたが、文明6(1474)年の火災で焼失後再建された時には、寺僧が精勤仏道を奉じず、遂に廃寺となってしまいました。
慶長6(1601)年、台肪明覚上人によって再興され、寺号を作門寺と改められました。
明治3(1870)年の廃仏毀釈により七種山中腹の寺領は国に没収され、伽藍が破壊されそうになったため、檀信徒達が急遽阿弥陀堂や本尊などを、現在の場所(福崎町田口)に移しました。その後明治30(1897)年、国を相手取り、旧境内地七種山林百十余町歩の下げ渡しを求める訴訟を起し、5年後の明治35(1902)年に寺側の勝訴となりました。
勝訴後、明治40年代から昭和30年代にかけて、本堂、仁王門、客殿、護摩堂、本坊、庫裡などの再建が行われ、現在の伽藍となっています。
境内は、仁王門を入って右に鐘楼があり、新西国三十三箇所の巡礼などで御朱印を頂きたい場合には、この鐘楼の鐘を撞いてから納経所へ行くように案内があります。
仁王門の正面に、秘仏である十一面観世音菩薩を本尊とする本堂があります。この十一面観世音菩薩は、「身代わり観音」と呼ばれていて、平安時代末期、平治の乱で金剛城寺に逃げ込んだ源氏の侍・国弘が、観音像に助けを祈りました。追っ手の平家は、国弘の右手首を切って捕らえ、牢屋に入れたのですが、翌日には国弘の姿は消えており、後には木でできた手首だけが残されていました。このとき観音様の右手首も無くなっており、牢屋に残っていた木の手首とぴたりと合いました。国弘は山中に身を隠し、無事だったといわれ、この言い伝えから「身代わり観音」と呼ばれるようになった とのことです。
最寄り駅は、姫路と和田山を結ぶJR播但線の福崎駅で、駅から約3.5km離れたところにあります。駅からは、福崎町巡回バスが運行されていますが、便が少ないため、利用する際はあらかじめ運行時刻を調べることをおすすめします。徒歩では、およそ50分かかりますが、ほぼ平坦な道のりですので、季節が良いときには歩くのも良いかも知れません。(ただし、夏は内陸性の酷暑となり、冬は積雪がある場所ですので、注意が必要です。) 車やバイクで訪れる場合は、山門の手前、七種川のほとりに無料駐車場がありますので、これを利用します。中国自動車道福崎インターからは、およそ20分の道のりです。
播州平野の北部、山裾の農村に佇む、真言宗の名刹、新西国三十三箇所第30番札所 七種山金剛城寺の動画をご覧下さい。
機 材:GoPro HERO8
【リンク】
金剛城寺 公式Webサイト
kongojyoji.sak...
【使用BGM】
「ソワールへ続く道」(甘茶の音楽工房)
amachamusic.ch...
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