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大河ドラマは黒田官兵衛が今までで1番面白かった
秀吉が天下を収められたのは秀長 半兵衛 官兵衛のおかげでこの3人がいなければ秀吉はただの織田家臣として終わってた
官兵衛は秀吉在世の時に既に秀吉を見限っていた節がかなりあります。また信長には仕えたといっても、あまり人間的に信を置いていないようです。取引的に見ていたのではないででょうか。そして家康とはそもそもの縁が希薄です。この人の本質は晩年にあるように思えます。
大河ドラマ 黒田官兵衛、リターン。2でも よい。見たいです。宜しくお願いします。
提案ありがとうございます😊
官兵衛が与えられたのは福岡ではなく、中津『大分』ですよ😆
超美人👧の妻一人を愛し続けた‼️😃💕そこに惹かれます‼️直江兼続も、山内一豊もそうでしたが‼️時代の空気😉を読んで行動した所は、真似をしたいですね‼️😃✨今日もありがとう💮ございます🍀😌🍀
官兵衛が側室を持たなかったのは最初はキリシタンだったからですね。
@@shoteocha6557 様そうでしたか、、よくご存知です😌💓素晴らしい〰️😃😃🎶
竹中半兵衛は若くして死んじゃったから黒田官兵衛より人気と成果は無いけど、黒田官兵衛と同等とも言える奇才やったよね。
小勢での稲葉山城乗っ取りが凄いよね
孝高自身が重治と戦って勝てるか?と聞かれた時、戦場に立てたら勝てる。でも戦場に立つことが出来ないと。戦場に着くまで配下が裏切り重治陣営に走ってしまうだろうと言っていますよ。
@@mahoroba6332 さん なかなか面白いお話し初めて知りましたが、なるほどと思いました。
夢悪夢吉さん竹中半兵衛、江戸時代から、人気ありますよ。あなたが、知らなかっただけですよ。
@@正典高井 え、黒田官兵衛よりって書いてるけど…歴史に名を刻んでかつ軍師とかなら尚更人気無いとおかしいわw
時流を読む!激動の今、大切だなー!
島左近、大谷刑部、本多忠勝が好きだから是非動画にしてほしい
目薬売りは備前福岡市で成功した備前福岡は刀剣や陶器で有名だったと言うことは窯や鍛冶で眼病が多かったのでそこでの目薬売りは大成功した長政が関ヶ原の功労で豊後から筑前に移封されると博多の隣に城下町を造り福岡と命名した福岡の名は岡山の備前福岡からとった地名
如水は秀吉の許可を得て、小寺家を手厚く保護したはずです。あと改易後の竹中家も。
黒田如水(官兵衛)について、ちょうど知りたかったところでした!分かりやすいご説明で助かりました^^時流を読むことができるのは今も昔も一つの才能ですね。
戦国の三英傑全てに仕えていたとは。。今でいうと、孫正義、柳井正、三木谷浩史の側近をやってたみたいな感じですかね。
プロだ!官兵衛
黒牢城読んだひとは
「不労所得」はほんと自分もほしいです^ ^
黒田官兵衛といえば関ヶ原の戦いの後のエピソード…長政 「家康様が私の手柄を認めてくれて手を取って感謝してくれたのです」 官兵衛 「その取った手とは右か左か?」長政 「え?左ですが??」官兵衛 「ではその時、おまえの右腕は何をしておったのじゃ!」長政 「はぁ?……………………えっ!?」やはり天下🗾を狙っていた?
その話を家康の耳に入れば、長政を警戒することは、無いだろうという親心。
ようじょ、聞いた時びっくりした
ちがいますね。光一筋では、ありません。公式には、側室として認められてない黒田官兵衛の子孫で2家残っていますよ。
こんな参謀欲しい! しかし誰も使いこなせないと思う。
秀吉にもらった12万石は大分中津です、福岡は家康から長政がもらった52万石です。
関東の人間にとって、大分と福岡の違いが分からない。。。
一応説明しますが「軍師」などと言う地位は戦国時代にはありません。黒田官兵衛は武将です。
ただ軍配者という役職はありました。しかし軍師ではなく合戦前の出陣の儀式や勝敗を占ったりしてましたが多少の合戦のアドバイスもしてたようです。
確か小寺の嫡男を家来に迎えてるはずです!一応執着はあったのかな?
まぁーさんが、最も時流を読んでいる。
現代のディマリアみたいなもんか
かなり間違っています。
例えば?
一夫一妻で有名なのは細川ガラシャの話ですよね……。黒田官兵衛もそうだったんだ…
孫子の兵法ですね
九戸政実お願いします
関ヶ原は豊臣家臣間の争いだから豊臣vs徳川というわけではないので、単純に石田のことが嫌いだったんじゃないかと思う
我が師匠であり、我が教科書は、黒田孝高様のみ。
徳川にも仕えてたんですか?
昔ダウンタウンの松ちゃんが黒田官兵衛の話してるの思い出した。
くにはしではなくくしはしでは?
一夫多妻では無いですよ。参考文献調べてください。事実上は一夫多妻ではありますが厳密には一夫多妻制ではありません。
官兵衛にみんなが官兵衛してくれ!ですね(勘弁)すいませんつまんないですねw官兵衛最強です
半兵衛そ、かいてますね。(半べそ)😅半兵衛は、更にその上です
上善は水の如し
正式に言うと徳川は仕えたわけではありません
一発当てて不労所得で、、、っていう人。一発当てれる?
黒田勘兵衛の話しはNHKどうり。長政のその後はいかに。
他の動画のコメント欄に書いたけど官兵衛は頭が良く才能が話術が凄かったらしい。そのため秀吉から寝首をかかれるのではないかと危険視されていた。それを知った官兵衛は落胆し隠居した。そこから数年経って、関ヶ原の戦いの頃に「秀吉さんもおらんし興味なかったけど天下取ったろ。天下取るなら今や」って事で天下を取る事を決めた。官兵衛は初めから家康が勝つと分かっていたが長期戦になると予測していた。そこでこんな作戦を立てた。九州から美濃国不破軍 関ヶ原の方へ上ってくる間に少しずつ軍を集め弱りきった家康軍を討つ。さらに九州の方で兵を集めている事がバレて怪しまれないように息子を家康の元へ手伝いに行かせた。そして関ヶ原の戦いは家康が勝利し終戦したが官兵衛の予想とは違い僅か半日で決着が着いてしまった。というのも家康の元へ手伝いに行かせた官兵衛の息子はあまり頭が良くなくて才能もあまり無かった。そんな息子が何を思ったのか小早川秀秋を説得し家康側へ寝返らせてしまったからだった。このため官兵衛の作戦は失敗し再び隠居いたんだとか。ちなみにこれはダウンタウンの松本さんが話していて面白いなって思ったのでここに書きました。その松本さんの動画もあるのでどうぞ↓↓↓th-cam.com/video/gf100RB6CYc/w-d-xo.html
戦国1番の軍師かどうかはよくわからんけど、魅力的な人物だよね
今張子房
全然有名じゃないが官兵衛の父親が凄い人だったんじゃないかと思う。父親は職高というが、これは明らかに主君の小寺政職からの偏諱だ。そこまでして手放したくなかった人物ということだ。鳴かず飛ばずで終わったが優秀だったに違いないと思う。
NHKで、柴田恭兵が演じてましたね。長浜のおねさまから、松の絵の扇が贈られてきて、処刑されたと聞いた孫の松寿丸が、生きていると悟ったシーンは、感動的でした。
岡田准一
竹中半兵衛は毒を飲まさたかもね!生きていたら!どうだったかな?
戦国一の軍師(参謀役)は太原雪斎だと思う(* 'ω')ノ
如水様の、子孫ですが、頭のキレる人だったそうです
こんにちは。黒田官兵衛 が要らん事せんかったら、竹中半兵衛 はあんな死に方せんかったかも...あの絵図を書いたのは 秀吉 だと思います。あの状態で 播磨が織田側に付く筈ないやん! 秀吉からしたら、アッコで播磨が織田側に付いてもらったら困る揉めてもらわんと、後の 備中高松城攻め が出来ないソレを、のこのこ交渉に出向いて、とっ捕まって 馬鹿じゃないの?高松城攻め は、最初っから えいけい に交渉させる事は決まっていた。その 陰謀を知っていた 官兵衛君 は、後に 豊臣、徳川に仕えれたわけですなぁーなので...黒田官兵衛 は 有能な軍師 でないと困る(有能なので仕えれた と思わせる必要があった)そしてもう一人...秀吉の死後、高齢でありながら、コソッと徳川に仕えし者 南海坊天海アレってよく 明智光秀 なんじゃないの?説ありますが...アレこそ、実は 信長自身だっのではないかとつまり、私の考えでは...黒田官兵衛 は大した軍師ではないが、秀吉によって、すんごい軍師のよぉーに仕立て上げられた?みたいな?
たしかに、高松水攻めは官兵衛の策ではなく秀吉の策とも言われています。(中国の水攻め策は既にあった)しかし、高松城攻めは鳥取城攻めや三木城攻めの後、中国攻略のラストですから、最初から高松城攻めを画策したとは到底考えられません。それに秀吉からしたら早く中国・毛利を攻略しないと自身の領地が召し上げられる可能性すらある(織田家家老だった佐久間盛信は本願寺攻略に時間をかけすぎといわれ改易)また竹中半兵衛は既に労咳がもう手のつけようがなく、それがわかっていたから官兵衛の息子松寿丸を匿ったんですね(バレたら信長に一族ごと根絶やし)また、官兵衛が捕らえられたのは主家の小寺氏が毛利方につくさいに、有岡城を開城させるなら織田方に留まると言われた為で交渉役に自分からわざわざ名乗りをあげたわけではないんですね。
大河ドラマは黒田官兵衛が今までで1番面白かった
秀吉が天下を収められたのは
秀長 半兵衛 官兵衛
のおかげでこの3人がいなければ秀吉は
ただの織田家臣として終わってた
官兵衛は秀吉在世の時に既に秀吉を見限っていた節がかなりあります。
また信長には仕えたといっても、あまり人間的に信を置いていないようです。
取引的に見ていたのではないででょうか。
そして家康とはそもそもの縁が希薄です。
この人の本質は晩年にあるように思えます。
大河ドラマ 黒田官兵衛、リターン。2でも よい。見たいです。宜しくお願いします。
提案ありがとうございます😊
官兵衛が与えられたのは福岡ではなく、中津『大分』ですよ😆
超美人👧の妻一人を愛し続けた‼️😃💕
そこに惹かれます‼️
直江兼続も、山内一豊もそうでしたが‼️
時代の空気😉を読んで行動した所は、真似をしたいですね‼️😃✨
今日もありがとう💮ございます🍀😌🍀
官兵衛が側室を持たなかったのは最初はキリシタンだったからですね。
@@shoteocha6557 様
そうでしたか、、よくご存知です😌💓
素晴らしい〰️😃😃🎶
竹中半兵衛は若くして死んじゃったから黒田官兵衛より人気と成果は無いけど、黒田官兵衛と同等とも言える奇才やったよね。
小勢での稲葉山城乗っ取りが凄いよね
孝高自身が重治と戦って勝てるか?と聞かれた時、戦場に立てたら勝てる。でも戦場に立つことが出来ないと。戦場に着くまで配下が裏切り重治陣営に走ってしまうだろうと言っていますよ。
@@mahoroba6332 さん なかなか面白いお話し初めて知りましたが、なるほどと思いました。
夢悪夢吉さん
竹中半兵衛、江戸時代から、人気ありますよ。あなたが、知らなかっただけですよ。
@@正典高井 え、黒田官兵衛よりって書いてるけど…
歴史に名を刻んでかつ軍師とかなら尚更人気無いとおかしいわw
時流を読む!
激動の今、大切だなー!
島左近、大谷刑部、本多忠勝が好きだから是非動画にしてほしい
目薬売りは備前福岡市で
成功した
備前福岡は刀剣や陶器で有名だった
と言うことは窯や鍛冶で眼病が
多かったのでそこでの
目薬売りは大成功した
長政が関ヶ原の功労で豊後から
筑前に移封されると博多の隣に
城下町を造り福岡と命名した
福岡の名は岡山の備前福岡から
とった地名
如水は秀吉の許可を得て、小寺家を手厚く保護したはずです。あと改易後の竹中家も。
黒田如水(官兵衛)について、ちょうど知りたかったところでした!分かりやすいご説明で助かりました^^時流を読むことができるのは今も昔も一つの才能ですね。
戦国の三英傑全てに仕えていたとは。。
今でいうと、孫正義、柳井正、三木谷浩史の側近をやってたみたいな感じですかね。
プロだ!官兵衛
黒牢城読んだひとは
「不労所得」はほんと自分もほしいです^ ^
黒田官兵衛といえば関ヶ原の戦いの後のエピソード…
長政 「家康様が私の手柄を認めてくれて手を取って感謝してくれたのです」
官兵衛 「その取った手とは右か左か?」
長政 「え?左ですが??」
官兵衛 「ではその時、おまえの右腕は何をしておったのじゃ!」
長政 「はぁ?……………………えっ!?」
やはり天下🗾を狙っていた?
その話を家康の耳に入れば、長政を警戒することは、無いだろうという親心。
ようじょ、聞いた時びっくりした
ちがいますね。光一筋では、ありません。公式には、側室として認められてない黒田官兵衛の子孫で2家残っていますよ。
こんな参謀欲しい! しかし誰も使いこなせないと思う。
秀吉にもらった12万石は大分中津です、福岡は家康から長政がもらった52万石です。
関東の人間にとって、大分と福岡の違いが分からない。。。
一応説明しますが「軍師」などと言う地位は戦国時代にはありません。黒田官兵衛は武将です。
ただ軍配者という役職はありました。しかし軍師ではなく合戦前の出陣の儀式や勝敗を占ったりしてましたが多少の合戦のアドバイスもしてたようです。
確か小寺の嫡男を家来に迎えてるはずです!一応執着はあったのかな?
まぁーさんが、最も時流を読んでいる。
現代のディマリアみたいなもんか
かなり間違っています。
例えば?
一夫一妻で有名なのは細川ガラシャの話ですよね……。黒田官兵衛もそうだったんだ…
孫子の兵法ですね
九戸政実お願いします
関ヶ原は豊臣家臣間の争いだから豊臣vs徳川というわけではないので、単純に石田のことが嫌いだったんじゃないかと思う
我が師匠であり、
我が教科書は、
黒田孝高様のみ。
徳川にも仕えてたんですか?
昔ダウンタウンの松ちゃんが黒田官兵衛の話してるの思い出した。
くにはしではなくくしはしでは?
一夫多妻では無いですよ。参考文献調べてください。事実上は一夫多妻ではありますが厳密には一夫多妻制ではありません。
官兵衛にみんなが官兵衛してくれ!ですね(勘弁)
すいませんつまんないですねw
官兵衛最強です
半兵衛そ、かいてますね。(半べそ)😅
半兵衛は、更にその上です
上善は水の如し
正式に言うと徳川は仕えたわけではありません
一発当てて不労所得で、、、っていう人。一発当てれる?
黒田勘兵衛の話しはNHKどうり。長政のその後はいかに。
他の動画のコメント欄に書いたけど官兵衛は頭が良く才能が話術が凄かったらしい。そのため秀吉から寝首をかかれるのではないかと危険視されていた。それを知った官兵衛は落胆し隠居した。そこから数年経って、関ヶ原の戦いの頃に「秀吉さんもおらんし興味なかったけど天下取ったろ。天下取るなら今や」って事で天下を取る事を決めた。官兵衛は初めから家康が勝つと分かっていたが長期戦になると予測していた。そこでこんな作戦を立てた。九州から美濃国不破軍 関ヶ原の方へ上ってくる間に少しずつ軍を集め弱りきった家康軍を討つ。さらに九州の方で兵を集めている事がバレて怪しまれないように息子を家康の元へ手伝いに行かせた。そして関ヶ原の戦いは家康が勝利し終戦したが官兵衛の予想とは違い僅か半日で決着が着いてしまった。というのも家康の元へ手伝いに行かせた官兵衛の息子はあまり頭が良くなくて才能もあまり無かった。そんな息子が何を思ったのか小早川秀秋を説得し家康側へ寝返らせてしまったからだった。このため官兵衛の作戦は失敗し再び隠居いたんだとか。
ちなみにこれはダウンタウンの松本さんが話していて面白いなって思ったのでここに書きました。その松本さんの動画もあるのでどうぞ↓↓↓
th-cam.com/video/gf100RB6CYc/w-d-xo.html
戦国1番の軍師かどうかはよくわからんけど、
魅力的な人物だよね
今張子房
全然有名じゃないが官兵衛の父親が凄い人だったんじゃないかと思う。
父親は職高というが、これは明らかに主君の小寺政職からの偏諱だ。
そこまでして手放したくなかった人物ということだ。
鳴かず飛ばずで終わったが優秀だったに違いないと思う。
NHKで、柴田恭兵が演じてましたね。長浜のおねさまから、松の絵の扇が贈られてきて、処刑されたと聞いた孫の松寿丸が、生きていると悟ったシーンは、感動的でした。
岡田准一
竹中半兵衛は毒を飲まさたかもね!
生きていたら!
どうだったかな?
戦国一の軍師(参謀役)は
太原雪斎だと思う(* 'ω')ノ
如水様の、子孫ですが、頭のキレる
人だったそうです
こんにちは。
黒田官兵衛 が要らん事せんかったら、竹中半兵衛 はあんな死に方せんかったかも...
あの絵図を書いたのは 秀吉 だと思います。
あの状態で 播磨が織田側に付く筈ないやん!
秀吉からしたら、アッコで播磨が織田側に付いてもらったら困る
揉めてもらわんと、後の 備中高松城攻め が出来ない
ソレを、のこのこ交渉に出向いて、とっ捕まって 馬鹿じゃないの?
高松城攻め は、最初っから えいけい に交渉させる事は決まっていた。
その 陰謀を知っていた 官兵衛君 は、後に 豊臣、徳川に仕えれたわけですなぁー
なので...黒田官兵衛 は 有能な軍師 でないと困る(有能なので仕えれた と思わせる必要があった)
そしてもう一人...秀吉の死後、高齢でありながら、コソッと徳川に仕えし者 南海坊天海
アレってよく 明智光秀 なんじゃないの?説ありますが...
アレこそ、実は 信長自身だっのではないかと
つまり、私の考えでは...黒田官兵衛 は大した軍師ではないが、
秀吉によって、すんごい軍師のよぉーに仕立て上げられた?みたいな?
たしかに、高松水攻めは官兵衛の策ではなく秀吉の策とも言われています。(中国の水攻め策は既にあった)
しかし、高松城攻めは鳥取城攻めや三木城攻めの後、中国攻略のラストですから、最初から高松城攻めを画策したとは到底考えられません。
それに秀吉からしたら早く中国・毛利を攻略しないと自身の領地が召し上げられる可能性すらある(織田家家老だった佐久間盛信は本願寺攻略に時間をかけすぎといわれ改易)
また竹中半兵衛は既に労咳がもう手のつけようがなく、それがわかっていたから官兵衛の息子松寿丸を匿ったんですね(バレたら信長に一族ごと根絶やし)
また、官兵衛が捕らえられたのは主家の小寺氏が毛利方につくさいに、有岡城を開城させるなら織田方に留まると言われた為で交渉役に自分からわざわざ名乗りをあげたわけではないんですね。