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献帝保護は正直諸刃の剣のような献帝からの誅殺命令もそうですが、曹操が張繍征伐に出る直前に献帝との謁見を望んでおり、献帝から直に激励の言葉を授かった上で出陣する事で、官軍曹操vs逆賊張繍という構図をアピールしようという策だったのだと思います。ところが、献帝は曹操の首筋に刃をあてた上で謁見させるという仕打ちで応えた。曹操も荀彧も卒倒しかけたでしょうもはや逆賊の扱い
官渡の戦いはターニングポイントとして大きいけど、袁紹がその後数年で死んだことが決定的だったんだろうと思ってる。袁紹が後20年生きていたら袁家の内紛も起きず、ジリジリ曹操を追い詰めたのではないか?
個人的には、献帝保護自体が曹操雄飛の大きな要因ではなかったと思っています。献帝は、暴君董卓によって擁立され、玉座に座るとすぐに、先帝暗殺、洛陽炎上、大争乱勃発の上、献帝は行方不明になりました。幼く実権の全くない本人には気の毒ですが、所在すら不明の献帝は実質的に皇帝とは誰も認めていませんでした。そこで袁紹は漢王朝の血統である劉虞擁立をはかり、また袁術は自身が新たな皇帝に就くべきであると主張するなど、帝位乱立の気配があったのです。曹操は幸いにも拠点が兗州だったので、洛陽を逃れた献帝を保護出来ましたが、意味を持ったのは曹操がその後の戦の多くに勝ち続けた結果論だと思っています。因みに田豊は袁紹に献帝保護を主張したようですが、大河である黄河北岸を拠点とする袁紹が行方不明の献帝を捜索・保護して連れ帰れるほどの軍団を派遣することは現実的ではありません。電撃的奇襲で許昌を狙えと言うのもそう。ロシアによるキーウ陥落よりも難しいです。
演技の赤壁の戦いは演技が成立した明の太祖朱元璋の鄱陽湖の戦いのオマージュ。鎖でつながった巨艦を強風の日に火船で焼き払うなんてそのまんま
これ袁紹が承認してることで献帝擁立に意味が出てくるから真に重要性が増すのは官渡以降かな
官渡の戦い、烏巣急襲を知って救援を提案する張郃を遮り、郭図が曹操本陣への襲撃を提案したわけだけど、兵を分けてどちらもやる中途半端さも酷いけど、張郃を烏巣救援ではなく曹操本陣襲撃の部隊に加えた無神経さも酷い。何が酷いかというと、張郃が曹操本陣への攻撃を頑張れば頑張るほど、本陣への攻撃が有効だった=烏巣救援は間違いだった=張郃の意見は的外れだったということになってしまう。攻撃を断念した張郃が曹操に投降したのは、こういう面もあったんじゃないかな。
転換点なら関羽の○ですね。もし生存していれば蜀は関羽と張飛を失わなかったので。その場合魏延と黄忠を漢中の守りに。劉備は趙雲、馬超、諸葛亮と北伐を。関羽は張飛と共に北上し、呉は甘寧を合肥へ梁統と孫権が北上すれば魏とはいえ只では済まなかったでしょう。
想像ですが、荊州があれば北伐はしなかったんじゃないですかね?荊州がないから、過酷な蜀道を渡っての遠征を余儀なくされただけであって、荊州が劉備の手元になるなら、孫権と呼応して荊州から攻め上がるルートを選ぶ気がします。
@anic0806 本命は仰る通り荊州からです。ただ魏の兵力は多分蜀呉を上回っていましたから兵力を分散し負けない戦をしなければならないと考えました。そこで劉備陣営を陽動とし五丈原まで出れば漢中から上庸、宛へ進軍し汝南まで取れば、呉軍が動きやすくなると考えました。何故ならこの戦いで最も損害があるのは蜀なのでなるべく呉を動かしたいと考えました。
赤壁って有名だし盛り上がるポイントではあるけど別に転換点ってほどの戦いでは無いよーな
西涼はほぼ臣従状態、巴蜀は誼を結んで臣従に移行しようとする段階まできてて、江南以外は手中に収めた状態から、巴蜀は敵対勢力が支配し、西涼は反乱起きて征伐する羽目になってるから思い切り転換点だよ
自分は呉の荊州制圧が起点かなと思います荊州を巡って蜀と呉の関係が良化しない最大の要因であり魏にとっては蜀呉の争いで両者が疲弊するのは好都合蜀が荊州を失った事で北伐ルートが1つになった事は蜀にとっては痛恨事であり魏にとっては蜀の恨みを呉に向けさせる事により呉からの侵攻のリスク軽減魏の圧倒的優勢を決定付けたのは荊州という餌
曹操は国号や皇帝が変わるのは違うというビジョンを持っていたからな
龐統が消えた事で全てが狂いだす。
献帝保護は正直諸刃の剣のような
献帝からの誅殺命令もそうですが、曹操が張繍征伐に出る直前に献帝との謁見を望んでおり、献帝から直に激励の言葉を授かった上で出陣する事で、官軍曹操vs逆賊張繍という構図をアピールしようという策だったのだと思います。
ところが、献帝は曹操の首筋に刃をあてた上で謁見させるという仕打ちで応えた。曹操も荀彧も卒倒しかけたでしょう
もはや逆賊の扱い
官渡の戦いはターニングポイントとして大きいけど、袁紹がその後数年で死んだことが決定的だったんだろうと思ってる。
袁紹が後20年生きていたら袁家の内紛も起きず、ジリジリ曹操を追い詰めたのではないか?
個人的には、献帝保護自体が曹操雄飛の大きな要因ではなかったと思っています。
献帝は、暴君董卓によって擁立され、玉座に座るとすぐに、先帝暗殺、洛陽炎上、大争乱勃発の上、献帝は行方不明になりました。
幼く実権の全くない本人には気の毒ですが、所在すら不明の献帝は実質的に皇帝とは誰も認めていませんでした。
そこで袁紹は漢王朝の血統である劉虞擁立をはかり、また袁術は自身が新たな皇帝に就くべきであると主張するなど、帝位乱立の気配があったのです。
曹操は幸いにも拠点が兗州だったので、洛陽を逃れた献帝を保護出来ましたが、意味を持ったのは曹操がその後の戦の多くに勝ち続けた結果論だと思っています。
因みに田豊は袁紹に献帝保護を主張したようですが、大河である黄河北岸を拠点とする袁紹が行方不明の献帝を捜索・保護して連れ帰れるほどの軍団を派遣することは現実的ではありません。
電撃的奇襲で許昌を狙えと言うのもそう。ロシアによるキーウ陥落よりも難しいです。
演技の赤壁の戦いは演技が成立した明の太祖朱元璋の鄱陽湖の戦いのオマージュ。鎖でつながった巨艦を強風の日に火船で焼き払うなんてそのまんま
これ袁紹が承認してることで献帝擁立に意味が出てくるから真に重要性が増すのは官渡以降かな
官渡の戦い、烏巣急襲を知って救援を提案する張郃を遮り、郭図が曹操本陣への襲撃を提案したわけだけど、兵を分けてどちらもやる中途半端さも酷いけど、張郃を烏巣救援ではなく曹操本陣襲撃の部隊に加えた無神経さも酷い。
何が酷いかというと、張郃が曹操本陣への攻撃を頑張れば頑張るほど、本陣への攻撃が有効だった=烏巣救援は間違いだった=張郃の意見は的外れだったということになってしまう。
攻撃を断念した張郃が曹操に投降したのは、こういう面もあったんじゃないかな。
転換点なら関羽の○ですね。もし生存していれば蜀は関羽と張飛を失わなかったので。その場合魏延と黄忠を漢中の守りに。劉備は趙雲、馬超、諸葛亮と北伐を。関羽は張飛と共に北上し、呉は甘寧を合肥へ梁統と孫権が北上すれば魏とはいえ只では済まなかったでしょう。
想像ですが、荊州があれば北伐はしなかったんじゃないですかね?
荊州がないから、過酷な蜀道を渡っての遠征を余儀なくされただけであって、荊州が劉備の手元になるなら、孫権と呼応して荊州から攻め上がるルートを選ぶ気がします。
@anic0806 本命は仰る通り荊州からです。ただ魏の兵力は多分蜀呉を上回っていましたから兵力を分散し負けない戦をしなければならないと考えました。そこで劉備陣営を陽動とし五丈原まで出れば漢中から上庸、宛へ進軍し汝南まで取れば、呉軍が動きやすくなると考えました。何故ならこの戦いで最も損害があるのは蜀なのでなるべく呉を動かしたいと考えました。
赤壁って有名だし盛り上がるポイントではあるけど別に転換点ってほどの戦いでは無いよーな
西涼はほぼ臣従状態、巴蜀は誼を結んで臣従に移行しようとする段階まできてて、江南以外は手中に収めた状態から、巴蜀は敵対勢力が支配し、西涼は反乱起きて征伐する羽目になってるから思い切り転換点だよ
自分は呉の荊州制圧が起点かなと思います
荊州を巡って蜀と呉の関係が良化しない最大の要因であり魏にとっては
蜀呉の争いで両者が疲弊するのは好都合
蜀が荊州を失った事で北伐ルートが1つになった事は蜀にとっては痛恨事であり
魏にとっては蜀の恨みを
呉に向けさせる事により
呉からの侵攻のリスク軽減
魏の圧倒的優勢を決定付けたのは荊州という餌
曹操は国号や皇帝が変わるのは違うというビジョンを持っていたからな
龐統が消えた事で全てが狂いだす。