【吉原知子の永い旅路】女子バレー 1976~2016:戦う姿勢の継承④

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  • เผยแพร่เมื่อ 20 ส.ค. 2024
  • 【吉原知子の永い旅路:レジェンド列伝】
    2003年W杯で7年振りに全日本に復帰し、闘将と呼ばれた吉原知子が残したものとは!?歴代の名場面から紐解く『伝統の女子バレー:戦う姿勢の継承④ (1984~2004:名場面集)』
    1987年日米対抗で全日本デビューした吉原知子。長く全日本を支えたが、その道のりは波乱万丈。1996年のアトランタ五輪後、世代交代の流れもあり、一旦、全日本を離れるが、シドニー五輪(2000)出場を逃すなど、長く低迷する全日本女子の立て直しに白羽の矢が立ち、33歳で主将として全日本復帰。後に日本のエースとしてロンドン五輪(2012)で銅メダルを獲得する木村沙織、次世代エースとして期待された大山加奈、栗原恵ら若手に戦う姿勢を示した。
    2021年現在、東京五輪を目指す全日本主将・荒木絵里香の理想のキャプテン像は吉原知子だという。
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    『キーパーソンとなる3人で全日本女子バレーの40年がつながる』
    ●江上由美 (1977~1988)
    ●吉原知子 (1987~2004)
    ●木村沙織 (2003~2016)
    ソウル五輪(1988)で初めてメダルを失った全日本女子。その主力選手5人を抱えた女王・日立は国内で負ける訳にはいかない立場だった。新人の【吉原知子】を加えた日立は小島監督率いる古豪ユニチカ、次世代エース斎藤真由美が台頭してきたイトーヨーカドー、前年、ロス五輪銀メダリストの助っ人アメリカ人2名を擁し、日立の7連覇を阻止した日本電気を振り切り、国内リーグを制した。
    1960年代後半から80年代の山田小島時代は、国内リーグの覇者が全日本でも主導権を握る傾向が続いたが、ソウル五輪後はニュートラルな選抜全日本を目指し、1990年に米田一典が全日本監督就任。アジア選手権でバルセロナ五輪の出場権を獲得すると、国内リーグ2連覇中の日立から主力選手4人、ダイエーのエース山内美加、ユニチカの中村和美を加え、バルセロナ五輪でメダル奪回を目指した。
    0:00 吉原知子の永い旅路
    2:45 国内の覇権を懸けた闘い
    7:55 激闘!五輪を懸けた闘い
    12:25 バルセロナへ
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    デビュー当時、吉原は「江上由美のような選手になるのではないか」と山田重雄に期待されていた。周りからの進言もあり、本人も憧れの先輩を目指す気持ちがあったようで、江上とコンビを組んでいた中田久美の部屋に泊まり込み、江上のビデオを見ながらレクチャーを受けた事もあるという。
    吉原が高校生で初めて全日本に選ばれた時のキャプテンが江上(結婚して、丸山姓)であり、日米対抗に出場後、香港遠征にも次世代ホープとして参加。当時、既にレジェンド的存在だった江上と邂逅を果たしている。ソウル五輪は日立の同僚と共に江上の雄姿を会場で応援する立場だったが、その16年後、アテネ五輪最終予選(2004)ではテレビ中継のゲストとして呼ばれていた江上由美が後輩の吉原を会場で見守った。
    奇しくも山田重雄の予言通りだったのか、江上が若手のお手本としてソウル五輪前に復帰を要請されたように、吉原は低迷していた全日本女子の精神的支柱として若手を率い、アテネ五輪を目指す事になった。吉原のキャプテンシー、闘志あふれる戦う姿勢は、2003年W杯で話題を呼び、次世代の大砲として期待されたメグカナ人気もあいまって、大会は大成功。翌年の五輪最終予選の韓国戦の平均視聴率は31.9%、五輪出場を決めた瞬間最高視聴率は40%を超え、久々のバレーブームを巻き起こした。
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    ・バルセロナ五輪(1992)スタメン表
    中田久美:176㎝(305㎝)  26歳
    大林素子:182㎝(324㎝※1)25歳
    吉原知子:180㎝(313㎝※2)22歳
    多治見麻子:180㎝(310㎝※1)20歳
    山内美加:182㎝(317㎝)  22歳
    中村和美:170㎝(300㎝)  21歳
    サブレギュラー
    福田記代子:178㎝(315㎝※1)21歳
    佐藤伊知子:169㎝(303㎝) 27歳
    ※氏名:身長(最高到達点) 年齢
    ※1:1994年のプロフィールより
    ※2:1998年のプロフィールより
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    バルセロナ前後のトレーニング技術の発達で、選手の身体能力は飛躍的に伸び、1994年の横田全日本では(バルセロナ五輪のスタメン)中村の所に福田記代子が入る攻撃的布陣で、アタッカーの最高到達点は平均315㎝を超えた。また、大林、山内、福田の三枚看板でバックアタック攻勢を仕掛け、常に4枚攻撃を備えた攻撃スタイルは「世界と空中戦で戦える」と期待されたが、国内リーグ4連覇中だった日立のお家騒動やプロ化問題の余波で、翌年以降、体制が変わり、1996年のアトランタ五輪は9位と惨敗。4年後にはシドニー五輪出場を逃し、2002年世界選手権では史上最低の13位と迷走。
    2003年に全日本監督に就任した柳本晶一は、暫く全日本から遠ざかっていたものの、国内リーグでは依然として強烈な存在感を放っていた大ベテランの吉原知子を主将として復帰させ、精神的支柱とする事で、若手とベテランが融合した戦う集団をまとめ上げ、アテネ五輪出場に導いた。本大会は5位に終わったものの、アテネの主力選手達は、6年後の世界選手権、8年後のロンドン五輪(2012)で銅メダルを獲得。吉原の蒔いた種は、時を経て実を結んだ。
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    ☆ World Cup Volleyball 2019 Tokyo Olympic games 2020 ☆ 2021 ☆ 中田久美 ☆ 中垣内祐一
    ☆ 中田ジャパン・火の鳥NIPPON ワールドカップ & 東京五輪 ☆ 木村沙織 ☆ 黒鷲旗
    ☆ 中垣内ジャパン・龍神NIPPON ☆ 石川祐希 ☆ 柳田将洋 ☆ 男子バレー 女子バレー ☆ 高橋藍

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