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直政が義弘を救った逸話がおもしろい。関ヶ原から約260年後、両者の子孫である直弼と斉彬が対立することを考えると更におもしろいね。
その薩摩藩が倒幕し江戸の無血開城するところもね。
忠誠心といえば聞こえはイイけど、実際は特攻隊みたいなもんじゃないでしょうか?実行した特攻隊員が敬われるのは当然ですが、義弘はそれを命令する立場の人間ですからね。一歩間違えれば、部下を人柱にして自分だけ逃げ帰ってきた男として歴史ファンからメチャクチャ嫌われる可能性もあるのにそういったイメージが全くないのもすごいです。
4兄弟の話も聞きたいので、いずれ お願いいたします。
後からだと何とでも言えます。やはり即断即決は簡単なことではないですね…
同じく結果だけ見て言ってるようにしか聞こえないです。関ヶ原のような決戦が、まさか午前中だけで終わってしまうなんて、現場の人が想像できるかなと。
後からだけでなく、戦場を視線のみで見ている義弘の状況を考えれば、これは戯言。この状況で生きて帰る最善策として「最も険しい道が一番活路」と判断した義弘は流石と思う。
ほお、ビシッと指摘しますね。面白いです。
井伊と島津が幕末に対立するのは偶然だと二人ともおっしゃっていましたが、井伊は譜代で島津は外様、それを決定づけたのが関ヶ原の戦いなのですから、むしろ必然ではないでしょうか。
まぁ中央突破を選んだ理由も義弘が高齢で伊吹山などの山越えは体が持たないからと、義弘に付随した家臣の記録にあるよね
薩摩出身ですので無条件に義弘推しですが、四兄弟がすごかったのは秀吉の九州征伐まででしたね。その後はこの番組でもやってたように義弘へ伊集院へ調略が入って内部から崩されそうになりました。なんとかこらえて幕藩体制に滑り込みましたが、江戸時代は江戸時代で幕府にねちねちいじめられました。運よく幕末期に金持ちになれたのでうっ憤を晴らせましたが。調所広郷もやってもらいたいです。
まあネット上での義弘の評価は明らかに過剰なので、三英傑や謙信・信玄のように落ち着いた批評ができるようになるといいですね
息子の忠恒(家久)がクズ過ぎるんだけど、そのお陰で幕末の有力な藩になれたのがまた凄いな。
沖縄を薩摩領にしたりあやつのクズぶりがあったから今の沖縄が中国領にならなかったまでもあるがな😂
島津義弘は、勇猛果敢な武将だと思っていましたが、関ヶ原の戦い迄の経緯などから、知っていなかった島津義弘の一面がわかりとっても参考になりました。また、伊東さんの新作も読んでみたいです。
確かに、あの突撃は一発逆転で西軍を勝たせる為でなく島津の為・義弘を逃がす為にやった事なので、三成らからしたら「それをもっと早くやれよ!!」と言いますよね。幕末に島津と毛利は関ヶ原の仇を討った、みたいな事を言う・論評する人がいますが、明らかにそれはないなと。三成らが、怒り狂って化けて出てくるレベルかと。
そもそもの義弘、義久のコミニュケーション不足はいまに始まったことでなく、九州統一戦から意思疎通が上手く行ってない、その後の朝鮮出兵では義久は義弘に全く物質補給や援軍を送らなかった。義久、義弘の二頭体制は良くも悪くも島津家の根本的な問題点なんだと思います。
島津提案を三成が却下したから、関ヶ原で動かなかったのは違うのか…
烏頭坂で討ち取られた豊久の墓に時々お参りにいきます
たしか闇討ち、奇襲戦を否定されて、三成に違和感や遺憾を感じていたって話もありますよね。ちなみに桜田門外ノ変で井伊直弼の首を挙げたのは薩摩藩の藩士٩( ᐛ )و
幕末の挙動もそうなんですが、薩摩人は血の気は多いのだけど優柔不断或いは狡猾なところがあるというイメージがあります。フランスに似ているかな
どの戦いでも自軍にかなりの犠牲を出し勝つ武将のイメージ。大将にはむかない😂
島津義弘も神様では無いからね。それでも、忠義を通すのが薩摩武士。
豊久って「首置いてけ、なぁ」の人?
3:38
島津の両殿体制はシビリアンコントロールのメリットに通ずるところがありますね。島津本陣から見ると朝鮮出兵で兵を出すのはメリットなし。現に朝鮮出兵も失敗しますしね。関ヶ原の戦いでは島津本国では西軍の圧倒的不利なのは明白。軍事と政治は分けるべきである
職場の人が話していたのですが「島津義弘は過大評価されてる」と
義弘が薩摩まで生きて帰れてよかったですね。もし討ち死になら捨てがまりなんて言ってられませんから。
写楽は謎
最初は外資コンサル出身の作家で境遇が同じだなと思って興味持っていましたが、番組でのコメントには興ざめしてしまいました。私はまさに登場する鹿児島の伊集院・妙円寺で育ちました。鹿児島の歴史を学ぶ者たちはみな義弘公が好きですが、朝鮮の役での功績が大きすぎるばかりに大河にも取り上げられず、不遇だといつも感じています。。。これだけドラマチックに戦国を長寿・大往生して畳の上で死んだ武将は稀です。過大評価と仰る方々は歴史を知らないか、朝鮮での活躍に恨みを持つ方たちでは?と思ってしまいます。そもそも人類の有史以来、これだけの大会戦で前進退却した例はないです。天下分け目の戦いで大勢を動かせる能力のある指揮官であるにも関わらず、何もできず、如何にして武名を挙げて死ぬ・もしくは生き残って家の存続をするか、という一点で敢行した苦渋の決断です。少数の島津が全力で戦ったところで小早川が裏切るのでその点についても大勢を動かすパワーが残念ながらありません、黒田、細川、その他に攻められている石田勢を援護できたぐらいが関の山です。伊東先生の著書は幾らか拝読して面白いなと思いますが、徳重神社やその隣りにある妙円寺という寺やその住職から話を聞いたことがありますか?私にはその点は明らかに場所と地名だけの紹介で終わっていて、なにも大事なことが取材されていないように感じます。それは番組の構成的に、優柔不断な義弘という少し今までの見方と違う新しい義弘公の姿を指摘したいというだけなのでは?そこにある資料や口伝されてる話や神仏を尊んだ義弘公の姿と共に色んな話や歌が遺っています。それを知らないからこのような嫌な顔をしながらコメントされたのかな・・と思ってしまいました。とてもじゃないですが、優柔不断の人で関が原を戦わなかったことを批判されるような薩摩武士として恥ずべきことは何もしていないと思いますよ。もししてるなら木崎原での勝利や彼を慕って人の和を重んじる義弘公は尊敬もされず、1000人以上の本国からの自費負担で戦場に駆けつける家臣などいなかったかと。これだけの少数で本国からの補給もなく、1日で終わるはずがないと思われた天下分け目の戦が半日で四面楚歌になる状況を当時誰が予想したんでしょう。補給もなく1日全力で戦えばその後のことを誰が面倒みるのか、というそういう心配が常に頭の中にあったはずで、いざその場で福島・井伊・徳川本陣をかすめる突撃をする判断ができた武将と兵は彼らだけかと。伊東先生はもうちょっと郷土史や現地での取材力がある方かと思いましたが少し残念に思った次第でした。もし紹介していないだけだったり、全てを知ったうえでそういう発言だったのでしたら申し訳ありません。
薩摩の人の気質が感じられるコメントで感心しました。この番組が。偉人・敗北からの教訓というタイトルなので堪忍してあげてください。
島津愛はとても感じました。でも私は義弘に関しては過大評価なのかなと感じますね。もともと島津は家康派だったので主力は動員しておらず、義弘が三成側で参陣したのはアクシデントであり義弘個人のミス。三成も大大名にしては少数過ぎて島津に不信感があったのかと...(朝鮮帰りだったため三成は承知していた可能性もあり)結果、ろくに西軍の戦力にならず、貴重な家臣を多く亡くしているため、関ヶ原の義弘は残念ながら評価はできないというのが私の考えです...
今だけ!金だけ!自分だけ!の男だったのか?
私も「島津の退き口」自体が評価に値しないと思うが。「うだうだして」西軍の勝機を逃す原因にもなっている。前段の城攻めで意見対立から「関が原でも動かない」というのは三成から見れば武将として最低・最悪だったはず。内応しているなら全然オッケーなんだが(笑)家康本陣へ突っ込んだのが「カッコいい」というのは小学生レベルの「感想」である。
でも、関ヶ原の戦いで言ったら「毛利輝元」と言う酷すぎるのがいたから義弘はまだ情状酌量の余地はあるかと・・・
ドリフターズ、豊久
死人に口なし
元々は東軍だったのに伏見城に入城させてくれなかったから仕方なく西軍についただけで兵力もたった1,500人程。義弘にしてみても自分を取り立ててくれた豊臣家の為ならまだしもわざわざ三成の為に命を賭けて戦う理由がないでしょう。他の西軍についた大名はその辺の村人に捕縛されたりと散々な末路迎えてる中、生きて帰っただけ立派だと思いますけどね。戦わずして逃げたと言いますが、無駄に奮戦して討死しても殿を逃がす為に死んだ家臣や豊久の命が無駄になるだけですよね?そもそも義弘は関ヶ原当時60超えた爺さんですよ。
全くの不勉強ですね(笑)島津義弘は「関ヶ原で戦わなかった」のではなく「関ヶ原で戦えなかった」というのが真実です。数々の戦で培われた経験で第2陣に配された事で『合戦当初は体力温存の為に甲冑を付けず』に参戦のタイミングを計っていたこと。八十島や石田三成が島津勢に参戦を依頼してきたタイミングが信じられないくらい早かったというのが真実らしいです(笑)関ヶ原後日談として義弘公は撤退決定前に「島津兵5000なら今日の戦は勝てたものを!」と3度も呟いたとも御座いますのでね!関ヶ原で有名な「家康の問鉄砲」なんて江戸時代の軍記物での創作。実態は合戦開始早々に小早川勢が大谷勢に襲い掛かり西軍は何の見せ場もなく敗走を始めたというのが昨今では共通認識です。『島津退き口』という前進撤退の真実は「石田・宇喜多勢敗走の為に伊吹山方面は渋滞」、「義弘が老齢の為に伊吹山を越山する体力の不安」という面を考慮して「ひとまず大垣城に入城する」という目的で前進撤退という非常識でクレイジーかつロックルロールな撤退方法になった訳です(笑)島津勢が大垣城に向かって前進している最中に大垣城から上がる煙を確認したので伊勢街道方面に撤退したという旨の第1資料も出てきてますから(笑)あと「捨てがまり」は明治以降にしか文献は確認されてませんので創作です。島津の鉄砲で井伊直政に重傷を負わせたのは間違いのない事実ですが、「井伊直政が撤退する島津勢の追撃中」ではなく「井伊直政が敗走する石田・宇喜多勢を追撃中に島津勢の陣地を横切った際に島津勢の放った弾(流れ弾)に当たってしまった」というのが真実です。番組で講釈垂れるなら最新の研究にも目を通してからにしてください。番組製作者及び御自身の評価にも関わる大事で御座います。すいません。律儀で勇猛な名将である義弘公の為に熱くなってしまいました。大目に見てください。
貴殿のような人がいるから面白い。感謝❤
そもそも義弘公は16代義久公の名代であって当主ではありませんでした。(島津家の家系図では17代当主になっていますが)豊臣政権では秀吉公の思惑で義久公よりも政権に協力的な義弘公を優遇しています。関ケ原の前年に18代家久(忠恒)公が筆頭家老の伊集院忠棟を上意討ちした結果嫡忠真が庄内の乱を起こしています。島津方は伊集院を攻めきれずに徳川家康公の斡旋により和睦しています。その影響で島津家は義弘公に援軍を送りませんでした。上方に自腹で行くことは止めなかったので数百の兵が薩摩から駆けつけています。甥の豊久軍を合わせても1500の寡兵では西軍の勢力下で東軍につく選択肢は無かったと推察します。関ヶ原の前哨戦では大垣城に拠る西軍の一員として墨俣で戦っていますが三成は見捨てて危うく島津兵が取り残されて壊滅するところでした。軍議で夜襲を主張する義弘公の策を三成は一蹴しました。兵もなく策も用いられず軽んじられていることをもって優柔不断と断じる歴史作家と公共放送には呆れるばかりです。伊東という名字から察するに日向の伊東家の関係者でしょうか?島津と伊東は鎌倉時代からの因縁がありますからね。ちなみに関ケ原の生き残りで義弘公より褒美百石賜った中に私の父と同姓同名の人物がいます。薩摩藩士の末裔なので当たり前ですが…
大変よく勉強されていて素晴らしいと思います!ありがとう!
光成でなく三成でした誤変換失礼しました
@@ろっそねろ なるほど!確かに「伊東」ですね(笑)何らかの繋がりがあるのでしょうか?だとすれば「木崎原の怨みを番組で!」ですね(笑)新しい気付きを与えて頂きました!有難う御座います!
優柔不断で戦わなかったとは全く思わないな。1500の寡兵で突っ込んでも直ぐに負けて惨めに敗走するだけでわ?寧ろあの負け確の状況で最善に近い形を取ったから、後世にも語られる結果になったのでわないのか
先生めちゃくちゃ義弘嫌いやん😅
残念ながら、すてがまりとしんがりの違いがよく分からなかったです
しんがり は退却の際の1番後ろの部隊です。危険はもちろん1番あるが、帰るのが最終目的ですね。すてがまりも似たような部分がありますが、島津のすてがまりは、死を覚悟ではなく、戦場に坐禅をして座り込んで鉄砲をうって、そのまま敵陣に切り込むような、「仲間のために、死にに行く」イメージをしてもらえれば。覚悟ではなく、本当に死んじゃう。
@@captain_slow22 大坂の人で真田の突撃を日の本一の兵と島津が言ったって逸話があるが島津の人なら言いそう。
@@おかポン太郎ー0kaponTarou しかしその島津は参加してないっていうね
作家は、歴史学者じゃない。私見で云々するな。
単なる個人的な好き嫌いの動画ww
北条氏政は賢くないので親も呆れる。食事のご飯の量を決められないので我が家は滅びると言った。
伊藤!貴様、我がご先祖様を愚弄するか!なんたる無礼
自由な作家では一国のトップの考えを理解するのは無理か政治論も絡めないと難しいので歴史だけの一面だけの論議では厳しいな
直政が義弘を救った逸話がおもしろい。関ヶ原から約260年後、両者の子孫である直弼と斉彬が対立することを考えると更におもしろいね。
その薩摩藩が倒幕し江戸の無血開城するところもね。
忠誠心といえば聞こえはイイけど、実際は特攻隊みたいなもんじゃないでしょうか?
実行した特攻隊員が敬われるのは当然ですが、義弘はそれを命令する立場の人間ですからね。
一歩間違えれば、部下を人柱にして自分だけ逃げ帰ってきた男として歴史ファンからメチャクチャ嫌われる可能性もあるのにそういったイメージが全くないのもすごいです。
4兄弟の話も聞きたいので、いずれ お願いいたします。
後からだと何とでも言えます。やはり即断即決は簡単なことではないですね…
同じく結果だけ見て言ってるようにしか聞こえないです。
関ヶ原のような決戦が、まさか午前中だけで終わってしまうなんて、現場の人が想像できるかなと。
後からだけでなく、戦場を視線のみで見ている義弘の状況を考えれば、これは戯言。
この状況で生きて帰る最善策として「最も険しい道が一番活路」と判断した義弘
は流石と思う。
ほお、ビシッと指摘しますね。面白いです。
井伊と島津が幕末に対立するのは偶然だと二人ともおっしゃっていましたが、井伊は譜代で島津は外様、それを決定づけたのが関ヶ原の戦いなのですから、むしろ必然ではないでしょうか。
まぁ中央突破を選んだ理由も義弘が高齢で伊吹山などの山越えは体が持たないからと、義弘に付随した家臣の記録にあるよね
薩摩出身ですので無条件に義弘推しですが、四兄弟がすごかったのは秀吉の九州征伐まででしたね。その後はこの番組でもやってたように義弘へ伊集院へ調略が入って内部から崩されそうになりました。なんとかこらえて幕藩体制に滑り込みましたが、江戸時代は江戸時代で幕府にねちねちいじめられました。運よく幕末期に金持ちになれたのでうっ憤を晴らせましたが。調所広郷もやってもらいたいです。
まあネット上での義弘の評価は明らかに過剰なので、三英傑や謙信・信玄のように落ち着いた批評ができるようになるといいですね
息子の忠恒(家久)がクズ過ぎるんだけど、そのお陰で幕末の有力な藩になれたのがまた凄いな。
沖縄を薩摩領にしたりあやつのクズぶりがあったから今の沖縄が中国領にならなかったまでもあるがな😂
島津義弘は、勇猛果敢な武将だと思っていましたが、関ヶ原の戦い迄の経緯などから、知っていなかった島津義弘の一面がわかりとっても参考になりました。
また、伊東さんの新作も読んでみたいです。
確かに、あの突撃は一発逆転で西軍を勝たせる為でなく島津の為・義弘を逃がす為にやった事なので、三成らからしたら「それをもっと早くやれよ!!」と言いますよね。
幕末に島津と毛利は関ヶ原の仇を討った、みたいな事を言う・論評する人がいますが、明らかにそれはないなと。三成らが、怒り狂って化けて出てくるレベルかと。
そもそもの義弘、義久のコミニュケーション不足はいまに始まったことでなく、九州統一戦から意思疎通が上手く行ってない、その後の朝鮮出兵では義久は義弘に全く物質補給や援軍を送らなかった。義久、義弘の二頭体制は良くも悪くも島津家の根本的な問題点なんだと思います。
島津提案を三成が却下したから、関ヶ原で動かなかったのは違うのか…
烏頭坂で討ち取られた豊久の墓に時々お参りにいきます
たしか闇討ち、奇襲戦を否定されて、三成に違和感や遺憾を感じていたって話もありますよね。
ちなみに桜田門外ノ変で井伊直弼の首を挙げたのは薩摩藩の藩士٩( ᐛ )و
幕末の挙動もそうなんですが、薩摩人は血の気は多いのだけど優柔不断或いは狡猾なところがあるというイメージがあります。フランスに似ているかな
どの戦いでも自軍にかなりの犠牲を出し勝つ武将のイメージ。
大将にはむかない😂
島津義弘も神様では無いからね。
それでも、忠義を通すのが薩摩武士。
豊久って「首置いてけ、なぁ」の人?
3:38
島津の両殿体制はシビリアンコントロールのメリットに通ずるところがありますね。
島津本陣から見ると朝鮮出兵で兵を出すのはメリットなし。現に朝鮮出兵も失敗しますしね。
関ヶ原の戦いでは島津本国では西軍の圧倒的不利なのは明白。
軍事と政治は分けるべきである
職場の人が話していたのですが「島津義弘は過大評価されてる」と
義弘が薩摩まで生きて帰れてよかったですね。
もし討ち死になら捨てがまりなんて言ってられませんから。
写楽は謎
最初は外資コンサル出身の作家で境遇が同じだなと思って興味持っていましたが、番組でのコメントには興ざめしてしまいました。
私はまさに登場する鹿児島の伊集院・妙円寺で育ちました。鹿児島の歴史を学ぶ者たちはみな義弘公が好きですが、朝鮮の役での功績が大きすぎるばかりに大河にも取り上げられず、不遇だといつも感じています。。。これだけドラマチックに戦国を長寿・大往生して畳の上で死んだ武将は稀です。
過大評価と仰る方々は歴史を知らないか、朝鮮での活躍に恨みを持つ方たちでは?と思ってしまいます。
そもそも人類の有史以来、これだけの大会戦で前進退却した例はないです。天下分け目の戦いで大勢を動かせる能力のある指揮官であるにも関わらず、何もできず、如何にして武名を挙げて死ぬ・もしくは生き残って家の存続をするか、という一点で敢行した苦渋の決断です。
少数の島津が全力で戦ったところで小早川が裏切るのでその点についても大勢を動かすパワーが残念ながらありません、黒田、細川、その他に攻められている石田勢を援護できたぐらいが関の山です。
伊東先生の著書は幾らか拝読して面白いなと思いますが、徳重神社やその隣りにある妙円寺という寺やその住職から話を聞いたことがありますか?私にはその点は明らかに場所と地名だけの紹介で終わっていて、なにも大事なことが取材されていないように感じます。それは番組の構成的に、優柔不断な義弘という少し今までの見方と違う新しい義弘公の姿を指摘したいというだけなのでは?
そこにある資料や口伝されてる話や神仏を尊んだ義弘公の姿と共に色んな話や歌が遺っています。それを知らないからこのような嫌な顔をしながらコメントされたのかな・・と思ってしまいました。
とてもじゃないですが、優柔不断の人で関が原を戦わなかったことを批判されるような薩摩武士として恥ずべきことは何もしていないと思いますよ。もししてるなら木崎原での勝利や彼を慕って人の和を重んじる義弘公は尊敬もされず、1000人以上の本国からの自費負担で戦場に駆けつける家臣などいなかったかと。
これだけの少数で本国からの補給もなく、1日で終わるはずがないと思われた天下分け目の戦が半日で四面楚歌になる状況を当時誰が予想したんでしょう。補給もなく1日全力で戦えばその後のことを誰が面倒みるのか、というそういう心配が常に頭の中にあったはずで、いざその場で福島・井伊・徳川本陣をかすめる突撃をする判断ができた武将と兵は彼らだけかと。
伊東先生はもうちょっと郷土史や現地での取材力がある方かと思いましたが少し残念に思った次第でした。もし紹介していないだけだったり、全てを知ったうえでそういう発言だったのでしたら申し訳ありません。
薩摩の人の気質が感じられるコメントで感心しました。
この番組が。偉人・敗北からの教訓というタイトルなので堪忍してあげてください。
島津愛はとても感じました。でも私は義弘に関しては過大評価なのかなと感じますね。
もともと島津は家康派だったので主力は動員しておらず、義弘が三成側で参陣したのはアクシデントであり義弘個人のミス。
三成も大大名にしては少数過ぎて島津に不信感があったのかと...
(朝鮮帰りだったため三成は承知していた可能性もあり)
結果、ろくに西軍の戦力にならず、貴重な家臣を多く亡くしているため、関ヶ原の義弘は残念ながら評価はできないというのが私の考えです...
今だけ!金だけ!自分だけ!の男だったのか?
私も「島津の退き口」自体が評価に値しないと思うが。「うだうだして」西軍の勝機を逃す原因にもなっている。前段の城攻めで意見対立から「関が原でも動かない」というのは三成から見れば武将として最低・最悪だったはず。内応しているなら全然オッケーなんだが(笑)家康本陣へ突っ込んだのが「カッコいい」というのは小学生レベルの「感想」である。
でも、関ヶ原の戦いで言ったら「毛利輝元」と言う酷すぎるのがいたから義弘はまだ情状酌量の余地はあるかと・・・
ドリフターズ、豊久
死人に口なし
元々は東軍だったのに伏見城に入城させてくれなかったから仕方なく西軍についただけで兵力もたった1,500人程。
義弘にしてみても自分を取り立ててくれた豊臣家の為ならまだしもわざわざ三成の為に命を賭けて戦う理由がないでしょう。
他の西軍についた大名はその辺の村人に捕縛されたりと散々な末路迎えてる中、生きて帰っただけ立派だと思いますけどね。
戦わずして逃げたと言いますが、無駄に奮戦して討死しても殿を逃がす為に死んだ家臣や豊久の命が無駄になるだけですよね?そもそも義弘は関ヶ原当時60超えた爺さんですよ。
全くの不勉強ですね(笑)
島津義弘は「関ヶ原で戦わなかった」のではなく「関ヶ原で戦えなかった」というのが真実です。
数々の戦で培われた経験で第2陣に配された事で『合戦当初は体力温存の為に甲冑を付けず』に参戦のタイミングを計っていたこと。
八十島や石田三成が島津勢に参戦を依頼してきたタイミングが信じられないくらい早かったというのが真実らしいです(笑)
関ヶ原後日談として義弘公は撤退決定前に「島津兵5000なら今日の戦は勝てたものを!」と3度も呟いたとも御座いますのでね!
関ヶ原で有名な「家康の問鉄砲」なんて江戸時代の軍記物での創作。
実態は合戦開始早々に小早川勢が大谷勢に襲い掛かり西軍は何の見せ場もなく敗走を始めたというのが昨今では共通認識です。
『島津退き口』という前進撤退の真実は「石田・宇喜多勢敗走の為に伊吹山方面は渋滞」、「義弘が老齢の為に伊吹山を越山する体力の不安」という面を考慮して「ひとまず大垣城に入城する」という目的で前進撤退という非常識でクレイジーかつロックルロールな撤退方法になった訳です(笑)
島津勢が大垣城に向かって前進している最中に大垣城から上がる煙を確認したので伊勢街道方面に撤退したという旨の第1資料も出てきてますから(笑)
あと「捨てがまり」は明治以降にしか文献は確認されてませんので創作です。
島津の鉄砲で井伊直政に重傷を負わせたのは間違いのない事実ですが、「井伊直政が撤退する島津勢の追撃中」ではなく「井伊直政が敗走する石田・宇喜多勢を追撃中に島津勢の陣地を横切った際に島津勢の放った弾(流れ弾)に当たってしまった」というのが真実です。
番組で講釈垂れるなら最新の研究にも目を通してからにしてください。
番組製作者及び御自身の評価にも関わる大事で御座います。
すいません。
律儀で勇猛な名将である義弘公の為に熱くなってしまいました。
大目に見てください。
貴殿のような人がいるから面白い。感謝❤
そもそも義弘公は16代義久公の名代であって当主ではありませんでした。(島津家の家系図では17代当主に
なっていますが)豊臣政権では秀吉公の思惑で義久公よりも政権に協力的な義弘公を優遇しています。関ケ原の
前年に18代家久(忠恒)公が筆頭家老の伊集院忠棟を上意討ちした結果嫡忠真が庄内の乱を起こしています。
島津方は伊集院を攻めきれずに徳川家康公の斡旋により和睦しています。その影響で島津家は義弘公に援軍を
送りませんでした。上方に自腹で行くことは止めなかったので数百の兵が薩摩から駆けつけています。甥の
豊久軍を合わせても1500の寡兵では西軍の勢力下で東軍につく選択肢は無かったと推察します。関ヶ原の
前哨戦では大垣城に拠る西軍の一員として墨俣で戦っていますが三成は見捨てて危うく島津兵が取り残されて
壊滅するところでした。軍議で夜襲を主張する義弘公の策を三成は一蹴しました。兵もなく策も用いられず
軽んじられていることをもって優柔不断と断じる歴史作家と公共放送には呆れるばかりです。伊東という
名字から察するに日向の伊東家の関係者でしょうか?島津と伊東は鎌倉時代からの因縁がありますからね。
ちなみに関ケ原の生き残りで義弘公より褒美百石賜った中に私の父と同姓同名の人物がいます。薩摩藩士の
末裔なので当たり前ですが…
大変よく勉強されていて素晴らしいと思います!ありがとう!
光成でなく三成でした誤変換失礼しました
@@ろっそねろ
なるほど!
確かに「伊東」ですね(笑)
何らかの繋がりがあるのでしょうか?
だとすれば「木崎原の怨みを番組で!」ですね(笑)
新しい気付きを与えて頂きました!
有難う御座います!
優柔不断で戦わなかったとは全く思わないな。1500の寡兵で突っ込んでも直ぐに負けて惨めに敗走するだけでわ?寧ろあの負け確の状況で最善に近い形を取ったから、後世にも語られる結果になったのでわないのか
先生めちゃくちゃ義弘嫌いやん😅
残念ながら、すてがまりとしんがりの違いがよく分からなかったです
しんがり は退却の際の1番後ろの部隊です。危険はもちろん1番あるが、帰るのが最終目的ですね。
すてがまりも似たような部分がありますが、島津のすてがまりは、死を覚悟ではなく、戦場に坐禅をして座り込んで鉄砲をうって、そのまま敵陣に切り込むような、「仲間のために、死にに行く」イメージをしてもらえれば。覚悟ではなく、本当に死んじゃう。
@@captain_slow22 大坂の人で真田の突撃を日の本一の兵と島津が言ったって逸話があるが島津の人なら言いそう。
@@おかポン太郎ー0kaponTarou しかしその島津は参加してないっていうね
作家は、歴史学者じゃない。私見で云々するな。
単なる個人的な好き嫌いの動画ww
北条氏政は賢くないので親も呆れる。食事のご飯の量を決められないので我が家は滅びると言った。
伊藤!
貴様、我がご先祖様を愚弄するか!
なんたる無礼
自由な作家では一国のトップの考えを理解するのは無理か
政治論も絡めないと難しいので歴史だけの一面だけの論議では厳しいな