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小名木さんの話す内容、スピード、小芝居😂が心地よく『ふふっ』と笑ってしまいホッとして大好きです💕 いつも有難うございます😊💕 💕
今日の小名木先生の名言は、最後のシメの、わが国は人が人を殺す文化を持って居なかった!感動しました。縄文の昔から自然のエアコンがある様な、暮らしの工夫を持っていて、縄文時代の住宅は、トータルバランスが取れていたんですねー!勉強になりました。😊
人を殺すのが文化なのでしょうか?わが国には、そんな文化は、いらないけど、現実はそうはいきませんものね?殺したいほど、憎い相手って、やっぱり我が子を殺したり、親なのでしょうね??本当に、考えないといけない事だと思います。
@@チュンチュン丸-y5z 様本当におっしゃる通りですよね、我々は、小名木先生始め、他の講師の先生の元に、学ぶ機会があり、自分達はどう生きるか?を常に問われ、社会情勢とリンクした、ひとつ、一つの、選択を問われている今があると思えてなりません、
チェーンソーの音マネ上手すぎて笑いました😆話が分かりやすいし聴きやすいし聴き惚れております‼️
縄文の子供の足形を教えて頂き、亡くなった子供とともに過ごして行く縄文人の愛情深さがわかりました。やはり日本人の祖先ですよ。大戦中の玉砕で生き残ってしまった日本人は死んだ仲間に申し訳ないと思ったようです。死者と繋がる日本人の愛情です。平和な社会ですね。この精神、こころ。世界に広まりますよ。
足形付土版をみたら、涙がでてきました縄文から昭和始めまで、世の親たちは悲しんできたんですね土版の素朴さが心に染み入ります懐に入れたり、霊を祀る棚に置いたりしたのかと、思いを巡らせます
発掘に従事していた女性たちもこれが見つかると泣いちゃうらしいですね。
足形土版のとこ泣けました。なんて素晴らしい時代でしょうか。
上尾のTMで土偶の存在意義について質問をしました。様々な説があってよいですね!古代のロマンを秋の夜長に楽しみたいです。
縄文の人たちは、素直に感じたものを作り生活していたのかな?思います。作り手がいて、それを見た人はきっと素晴らしい!と感じたのかな?と。思わず手を合わせたり… 今でも素晴らしい!と感じるのだからきっとそうですよね。
いつも楽しみに聞いております。講演最後に、また「日本をかっこよく」を聞きたいですね。遮光器土偶は、神官(女性)の装束を模したものではないかと考えています。また神官は、祭司や占い、魔除け、守り神の役目も持っていたありがたいものだったと考えています。
生活必需品である食器(土器)を焼いて、余った粘土で子供の玩具(土偶)を作る。奇妙であるほど、手が込んでいるほど子供は喜ぶし、他の子供は羨む。外で持ち出して遊んでいれば間もなく土偶は壊れる。壊れた土偶を適当に放置して子供は家に帰る。私は子供のころ、怪獣のソフトビニールの人形を段ボール箱いっぱいに持って、よくそれで遊んだことを思い出しました。
火炎土器は現物を何度も山梨県、長野県の博物館で沢山拝見しましたが、上下反転するとまるでUFOです。火炎模様は燃焼炎を現しているのではないでしょうか。縄文人は見たものをそのまま作っただけで、想像なんかしないでしょう。これに似たUFO像は反転した形でインドや他の古代遺跡でも発掘されています。
小名木先生✨お話ありがとうございます🤓💪💕ハート♥️型✨😳土偶って本当ですか! とても可愛いいです😌💓✨縄文人って本当に凄いです(⌒‐⌒)
土偶って、子供に与えたおもちゃだと思っていたけど・・・・ちがったのかな??🥺🥺🥺
😊テンハーフーーー❣️フサフサフサフサフサフサ🌺🌸ありがとう😊ありがとう😊
@@テンハーフ 🤣🤣🤣🤣🤣
土偶、身代わり説は、「心優しく」「人を殺す文化を持っていなくて」ワンネスを理解していたであろう縄文人の思考として、当てはまらないのではないでしょうか。個人的には、リカちゃん人形的なものかなと。子供の頃は土偶をかわいがり、割れないように大切にするとこを学べます。そして母になり娘が家から出ていく時に割って、破片を持たせるのかなと思いました。同じ紋様のある破片をそれぞれの家で持つ事で、何か波動的な効果があったのかなぁ。そこは、波動をよく理解できていない現代人の私には想像できませんけどね。割るのが目的なら、なんでわざわじ美しい紋様を付けるのかわからないし。現代芸術家を魅了する程の美しい紋様は、「身代わり」という忌々しいイメージとは相反すると感じます。
当時最先端の文明だったことは確か
翡翠や勾玉についても知りたいです!
縄文時代が1万年以上続いたわけで、そこで日本人のDNAは養われていった。縄文時代が日本のルーツだから重要な時代。学校では全く習わなかった。意図的にならわせなかったのかな
火炎ではなく、水流紋のほうが理解しやすい。
天然のエアコンなんですね
😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
0:20: 📚 縄文時代は1万7000年から3000年前まで続き、14000年間にわたる時代であり、今回は生活編を語る。4:19: 📚 証言は反対尋問を経由しなければ認められないことを示すため、土偶を通じて学生に教えることが重要である。8:11: 🗿 有名な社交式土偶は女性であり、割れた状態で出土していることから祈りの象徴とされている可能性がある。12:17: 📚 縄文時代の土器の模様についての諸説と、模様が文字である可能性についての議論がある。16:17: 🔥 高温で土器を焼くために屋根をつけた登り窯の発展Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられている)。概要遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。完全な状態で発見されることは稀で、足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において、土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。主な作例亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)出土土偶 - 重要文化財、東京国立博物館蔵[1]。手代森遺跡(岩手県盛岡市)出土土偶 - 重要文化財、文化庁蔵(岩手県立博物館保管)。恵比須田遺跡(宮城県田尻町)出土土偶 - 重要文化財、東京国立博物館蔵[2]。泉沢貝塚(宮城県石巻市)出土土偶 - 宮城県指定有形文化財、東北歴史博物館蔵[3]。
火焔型土器(かえんがたどき)は、縄文時代中期を代表する日本列島各地で作られた土器の一種。 燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器を指す。縄文土器の中でも特に装飾性豊かな土器である。形状火焔型土器は殆どが深鉢形土器で、胴部は粘土紐を貼り付けてS字状、渦巻状などの文様を施す。縄文(縄の回転による施文)による装飾はほとんど見られない。上部には原則として4か所に大ぶりの把手(突起)を付す。把手は複雑な形状で、粘土紐によって装飾され、把手以外の口縁部は鋸の歯状に形作る。これらの装飾が何を表したものかは不明だが、全体の形状が燃え上がる炎を思わせることから「火焔型」土器と呼ばれている。集落内の特定の場所で発見される傾向はなく、またオコゲがついているものも出土することから、煮炊きに使われたと考えられる。しかしその形状から見て何らかの祭祀的な目的に使われることがあったとする考えもある。「火焔土器」と「火焔型土器」長岡市馬高遺跡出土「火焔土器(馬高A式1号深鉢土器)」の3Dデータ火焔型土器が初めて出土したのは新潟県長岡市の馬高遺跡で、1936年に近藤篤三郎らの調査によった。この調査による出土第1号の土器のみを「火焔土器(馬高A式1号深鉢土器)」(長岡市所蔵。長岡市馬高縄文館で展示。馬高縄文館完成前は長岡市立科学博物館で展示)と通称し、他のものや他遺跡出土のものを「火焔型土器」と呼ぶ慣習がある。また、以前は「火焔形土器」と記述されていたが、最近では「火焔型土器」とされることがほとんどとなっている。ほかにも「火焔形式」、「火焔類型」、「火焔系」などの名称が存在する。加えて、「火炎」が使用される場合については、用例として「火炎土器」と「火炎土器様式」があり、「火焔」よりも広い概念(例えば火焔(型)土器と王冠型土器とを包括するものとして)を表していることが多い。以上の例は考古学的な概念規定の相違によるものであるため、研究者によって使用法が異なることがある。他方、かつて「火焰」の字が用いられていたものが最近「火焔」とされることが多いことについては、字体の移り変わりによるもので、概念的には同じである。「火焔型土器」と「王冠型土器」火焔型土器には、口縁部と把手(突起)部の形状から区別される類似の土器が存在し、「王冠型土器」と呼ばれる。火焔型土器と王冠型土器は同じ遺跡から出土することもあるが、口縁から把手の形状に関して類似したり互換したりするようなことがない。このことから、この2つの形状はなんらかの対立する概念として象形されたものではないかと推測されることがある。堂平遺跡出土 深鉢形土器(王冠型土器)(重要文化財) 京都大学総合博物館企画展示。堂平遺跡出土 深鉢形土器(王冠型土器)(重要文化財)京都大学総合博物館企画展示。分布東日本全体では200以上の遺跡で出土している。信濃川流域の新潟県、長野県北部、および阿賀野川流域の福島県西部の出土数が多い。北陸地方の富山県や東北地方の南部山形県、群馬県・栃木県から少数出土することがある。出土点数の大半は新潟県域の特に信濃川中流域に集中する傾向があり、長岡市馬高遺跡、十日町市笹山遺跡、野首遺跡などで特に多く出土したことが知られている。福島県では縄文中期から末期にかけての柳津町石生前遺跡(いしうまえ)、耶麻郡西会津町の上小島C遺跡、南会津郡南会津町の寺前遺跡、磐梯町と猪苗代町にまたがる法正尻遺跡などが知られる。火焔型土器に系統的に先行する様式は不明瞭といわれる。つまり、この様式が突然創造されたという奇妙さがある[2]。しかし、この土器の祖型は北陸地方の新保・新崎式土器、あるいは東北地方南部の大木式土器などの影響を受けて出来たとする説もある[3]。国宝指定十日町市の信濃川右岸段丘上に位置する笹山遺跡からは、1980年~1986年にかけて実施された発掘調査により火焔型土器が出土している。「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」57点は1999年、国宝に指定され、火焔型土器が14点含まれている。教科書等に掲載されることの多い代表的な火焔型土器(指定番号1)は「縄文雪炎」(じょうもんゆきほむら)と愛称が付けられ、国宝指定品の中でも中心的存在として扱われている。1982年7月8日出土。高さ約46.5センチメートル、最大幅43.8センチメートル、重さ約7.4キログラム、残存率95パーセント。笹山遺跡の国宝指定土器は、現在十日町市博物館が所蔵している。脚注^ この画像の土器は、「新潟県馬高遺跡出土品」として重要文化財に指定されているものとは別個体で、「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されているものである(列品番号J-39036)。^ 小林達雄「勝坂式土器様式圏と火炎土器様式圏の対立」208頁(佐原真 ウエルナー・シュタインハウス監修 独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所編集『日本の考古学』上巻 学生社 2007年4月)^ 相原精次・三橋浩『東北古墳探訪』彩流社 2009年 7ページ関連項目ウィキメディア・コモンズには、火焔型土器に関連するメディアがあります。水煙土器土偶
火焔型土器は炎をモチーフとしたのではなく「波」をモチーフにしたのではないか?という説もあります。側面の大波と上部のさざ波です。さざ波部分が炎だと考えると、ガスコンロのような安定した弱火になってしまうんですけどね😅
@@yukko8826 そうですね^^私もそのように聞きました。フィジーや、ポリネシアから渡ってきた海洋民族も結構いたんじゃあないかと思います。和人海(天)族というのがいたそうです^^でも、やっぱ🔥にも似てますね^^
人が人を殺す文化って何なのでしょうね?先にそれ聞きたい🥺🥺🥺🥺
日本民族以外は全て支配する文化です。
縄文時代には殺人がなかった。とても印象的なお話でした「14000年間も殺人はなかった」(92歳ポンコツ爺)
土偶は女性かもしれないが、人間ではないけどね
私は普通の一般人ですが、土偶は単に神様を型どったと思います。タイムスリップして縄文人に聞いても答えないと思います。知られそうになったら割って壊せる様にしたのでは?何の確証もない私的な意見です。土器は最初雨乞い等の儀式に使用していたが、宗教心が薄れてというか裏切られたと思うようなことが起きて鍋の様に使われることになってしまった。かつての仲間が帰って来たと思ったら土地を守っていた人間を追い出したと思います。私の意見ですあくまでも。ある差別を受け続ける方々の伝承から私なりに導いた意見です。日本には差別があります。縄文人と弥生人は弥生人が理由で仲が悪く縄文人は蝦夷とされてしまいました。
カメラのアングルワークはプロに頼んだ方がいいかも😂
縄文時代も良いけれど、文字のない文明で高度文明がどれ程出来るものなのか?。その土偶の中にメッセージが何か含まれていないのかな😃。毎朝、毎夕、愛犬と散歩するけど、「もも、無口だね」と語り掛ける。大きな耳を持つのに、なぜ、語り掛けてくれないのかな。人間は声帯があるから話せるけれど、犬はないからなあ。土偶という物はあるのに語り掛けてくれない。県立博物館で、発掘された器を見て、たまたま、教育委員会の人がおられ、この焼き物は5%が発掘されたもので、後の95%は想像して作りました、と説明された。側面には船の絵も書かれていたがこれも想像なのだろう。教科書などで見る土偶などはどのくらい想像で作られたものなのだろうか?。
10:24 そりゃそんな珍説が通る筈ないよな笑、
小名木さんの話す内容、スピード、小芝居😂が心地よく『ふふっ』と笑ってしまいホッとして大好きです💕 いつも有難うございます😊💕 💕
今日の小名木先生の名言は、最後のシメの、わが国は人が人を殺す文化を持って居なかった!感動しました。縄文の昔から自然のエアコンがある様な、暮らしの工夫を持っていて、縄文時代の住宅は、トータルバランスが取れていたんですねー!勉強になりました。😊
人を殺すのが文化なのでしょうか?
わが国には、そんな文化は、いらないけど、現実はそうはいきませんものね?
殺したいほど、憎い相手って、やっぱり我が子を殺したり、親なのでしょうね??
本当に、考えないといけない事だと思います。
@@チュンチュン丸-y5z 様
本当におっしゃる通りですよね、
我々は、小名木先生始め、他の講師の先生の元に、学ぶ機会があり、自分達はどう生きるか?を常に問われ、社会情勢とリンクした、ひとつ、一つの、選択を問われている今があると思えてなりません、
チェーンソーの音マネ上手すぎて笑いました😆話が分かりやすいし聴きやすいし聴き惚れております‼️
縄文の子供の足形を教えて頂き、亡くなった子供とともに過ごして行く縄文人の愛情深さがわかりました。やはり日本人の祖先ですよ。大戦中の玉砕で生き残ってしまった日本人は死んだ仲間に申し訳ないと思ったようです。死者と繋がる日本人の愛情です。平和な社会ですね。この精神、こころ。世界に広まりますよ。
足形付土版
をみたら、涙がでてきました
縄文から昭和始めまで、世の親たちは悲しんできたんですね
土版の素朴さが心に染み入ります
懐に入れたり、霊を祀る棚に置いたりしたのかと、思いを巡らせます
発掘に従事していた女性たちもこれが見つかると泣いちゃうらしいですね。
足形土版のとこ泣けました。なんて素晴らしい時代でしょうか。
上尾のTMで土偶の存在意義について質問をしました。
様々な説があってよいですね!古代のロマンを秋の夜長に楽しみたいです。
縄文の人たちは、素直に感じたものを作り生活していたのかな?思います。
作り手がいて、それを見た人はきっと素晴らしい!と感じたのかな?と。
思わず手を合わせたり…
今でも素晴らしい!と感じるのだからきっとそうですよね。
いつも楽しみに聞いております。講演最後に、また「日本をかっこよく」を聞きたいですね。
遮光器土偶は、神官(女性)の装束を模したものではないかと考えています。
また神官は、祭司や占い、魔除け、守り神の役目も持っていたありがたいものだったと考えています。
生活必需品である食器(土器)を焼いて、余った粘土で子供の玩具(土偶)を作る。奇妙であるほど、手が込んでいるほど子供は喜ぶし、他の子供は羨む。外で持ち出して遊んでいれば間もなく土偶は壊れる。壊れた土偶を適当に放置して子供は家に帰る。私は子供のころ、怪獣のソフトビニールの人形を段ボール箱いっぱいに持って、よくそれで遊んだことを思い出しました。
火炎土器は現物を何度も山梨県、長野県の博物館で沢山拝見しましたが、上下反転するとまるでUFOです。火炎模様は燃焼炎を現しているのではないでしょうか。
縄文人は見たものをそのまま作っただけで、想像なんかしないでしょう。これに似たUFO像は反転した形でインドや他の古代遺跡でも発掘されています。
小名木先生✨お話ありがとうございます🤓💪💕
ハート♥️型✨😳土偶って本当ですか! とても可愛いいです😌💓✨縄文人って本当に凄いです(⌒‐⌒)
土偶って、子供に与えたおもちゃだと思っていたけど・・・・ちがったのかな??🥺🥺🥺
😊テンハーフーーー❣️
フサフサフサフサフサフサ🌺🌸
ありがとう😊ありがとう😊
@@テンハーフ 🤣🤣🤣🤣🤣
土偶、身代わり説は、「心優しく」「人を殺す文化を持っていなくて」ワンネスを理解していたであろう縄文人の思考として、当てはまらないのではないでしょうか。
個人的には、リカちゃん人形的なものかなと。子供の頃は土偶をかわいがり、割れないように大切にするとこを学べます。そして母になり娘が家から出ていく時に割って、破片を持たせるのかなと思いました。同じ紋様のある破片をそれぞれの家で持つ事で、何か波動的な効果があったのかなぁ。そこは、波動をよく理解できていない現代人の私には想像できませんけどね。
割るのが目的なら、なんでわざわじ美しい紋様を付けるのかわからないし。現代芸術家を魅了する程の美しい紋様は、「身代わり」という忌々しいイメージとは相反すると感じます。
当時最先端の文明だったことは確か
翡翠や勾玉についても知りたいです!
縄文時代が1万年以上続いたわけで、そこで日本人のDNAは養われていった。縄文時代が日本のルーツだから重要な時代。学校では全く習わなかった。意図的にならわせなかったのかな
火炎ではなく、水流紋のほうが理解しやすい。
天然のエアコンなんですね
😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
0:20: 📚 縄文時代は1万7000年から3000年前まで続き、14000年間にわたる時代であり、今回は生活編を語る。
4:19: 📚 証言は反対尋問を経由しなければ認められないことを示すため、土偶を通じて学生に教えることが重要である。
8:11: 🗿 有名な社交式土偶は女性であり、割れた状態で出土していることから祈りの象徴とされている可能性がある。
12:17: 📚 縄文時代の土器の模様についての諸説と、模様が文字である可能性についての議論がある。
16:17: 🔥 高温で土器を焼くために屋根をつけた登り窯の発展
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
遮光器土偶
(しゃこうきどぐう)は、縄文時代につくられた土偶の一タイプ。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられている)。
概要
遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。大型のものは中が空洞になっている。これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。
完全な状態で発見されることは稀で、足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。多産や豊穣を祈願するための儀式において、土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。
主な作例
亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)出土土偶 - 重要文化財、東京国立博物館蔵[1]。
手代森遺跡(岩手県盛岡市)出土土偶 - 重要文化財、文化庁蔵(岩手県立博物館保管)。
恵比須田遺跡(宮城県田尻町)出土土偶 - 重要文化財、東京国立博物館蔵[2]。
泉沢貝塚(宮城県石巻市)出土土偶 - 宮城県指定有形文化財、東北歴史博物館蔵[3]。
火焔型土器
(かえんがたどき)は、縄文時代中期を代表する日本列島各地で作られた土器の一種。 燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器を指す。縄文土器の中でも特に装飾性豊かな土器である。
形状
火焔型土器は殆どが深鉢形土器で、胴部は粘土紐を貼り付けてS字状、渦巻状などの文様を施す。縄文(縄の回転による施文)による装飾はほとんど見られない。上部には原則として4か所に大ぶりの把手(突起)を付す。把手は複雑な形状で、粘土紐によって装飾され、把手以外の口縁部は鋸の歯状に形作る。これらの装飾が何を表したものかは不明だが、全体の形状が燃え上がる炎を思わせることから「火焔型」土器と呼ばれている。集落内の特定の場所で発見される傾向はなく、またオコゲがついているものも出土することから、煮炊きに使われたと考えられる。しかしその形状から見て何らかの祭祀的な目的に使われることがあったとする考えもある。
「火焔土器」と「火焔型土器」
長岡市馬高遺跡出土「火焔土器(馬高A式1号深鉢土器)」の3Dデータ
火焔型土器が初めて出土したのは新潟県長岡市の馬高遺跡で、1936年に近藤篤三郎らの調査によった。この調査による出土第1号の土器のみを「火焔土器(馬高A式1号深鉢土器)」(長岡市所蔵。長岡市馬高縄文館で展示。馬高縄文館完成前は長岡市立科学博物館で展示)と通称し、他のものや他遺跡出土のものを「火焔型土器」と呼ぶ慣習がある。また、以前は「火焔形土器」と記述されていたが、最近では「火焔型土器」とされることがほとんどとなっている。ほかにも「火焔形式」、「火焔類型」、「火焔系」などの名称が存在する。加えて、「火炎」が使用される場合については、用例として「火炎土器」と「火炎土器様式」があり、「火焔」よりも広い概念(例えば火焔(型)土器と王冠型土器とを包括するものとして)を表していることが多い。以上の例は考古学的な概念規定の相違によるものであるため、研究者によって使用法が異なることがある。他方、かつて「火焰」の字が用いられていたものが最近「火焔」とされることが多いことについては、字体の移り変わりによるもので、概念的には同じである。
「火焔型土器」と「王冠型土器」
火焔型土器には、口縁部と把手(突起)部の形状から区別される類似の土器が存在し、「王冠型土器」と呼ばれる。火焔型土器と王冠型土器は同じ遺跡から出土することもあるが、口縁から把手の形状に関して類似したり互換したりするようなことがない。このことから、この2つの形状はなんらかの対立する概念として象形されたものではないかと推測されることがある。
堂平遺跡出土 深鉢形土器(王冠型土器)(重要文化財) 京都大学総合博物館企画展示。
堂平遺跡出土 深鉢形土器(王冠型土器)(重要文化財)
京都大学総合博物館企画展示。
分布
東日本全体では200以上の遺跡で出土している。信濃川流域の新潟県、長野県北部、および阿賀野川流域の福島県西部の出土数が多い。北陸地方の富山県や東北地方の南部山形県、群馬県・栃木県から少数出土することがある。出土点数の大半は新潟県域の特に信濃川中流域に集中する傾向があり、長岡市馬高遺跡、十日町市笹山遺跡、野首遺跡などで特に多く出土したことが知られている。福島県では縄文中期から末期にかけての柳津町石生前遺跡(いしうまえ)、耶麻郡西会津町の上小島C遺跡、南会津郡南会津町の寺前遺跡、磐梯町と猪苗代町にまたがる法正尻遺跡などが知られる。
火焔型土器に系統的に先行する様式は不明瞭といわれる。つまり、この様式が突然創造されたという奇妙さがある[2]。しかし、この土器の祖型は北陸地方の新保・新崎式土器、あるいは東北地方南部の大木式土器などの影響を受けて出来たとする説もある[3]。
国宝指定
十日町市の信濃川右岸段丘上に位置する笹山遺跡からは、1980年~1986年にかけて実施された発掘調査により火焔型土器が出土している。「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」57点は1999年、国宝に指定され、火焔型土器が14点含まれている。教科書等に掲載されることの多い代表的な火焔型土器(指定番号1)は「縄文雪炎」(じょうもんゆきほむら)と愛称が付けられ、国宝指定品の中でも中心的存在として扱われている。1982年7月8日出土。高さ約46.5センチメートル、最大幅43.8センチメートル、重さ約7.4キログラム、残存率95パーセント。笹山遺跡の国宝指定土器は、現在十日町市博物館が所蔵している。
脚注
^ この画像の土器は、「新潟県馬高遺跡出土品」として重要文化財に指定されているものとは別個体で、「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されているものである(列品番号J-39036)。
^ 小林達雄「勝坂式土器様式圏と火炎土器様式圏の対立」208頁(佐原真 ウエルナー・シュタインハウス監修 独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所編集『日本の考古学』上巻 学生社 2007年4月)
^ 相原精次・三橋浩『東北古墳探訪』彩流社 2009年 7ページ
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、火焔型土器に関連するメディアがあります。
水煙土器
土偶
火焔型土器は炎をモチーフとしたのではなく「波」をモチーフにしたのではないか?という説もあります。側面の大波と上部のさざ波です。
さざ波部分が炎だと考えると、ガスコンロのような安定した弱火になってしまうんですけどね😅
@@yukko8826 そうですね^^私もそのように聞きました。フィジーや、ポリネシアから渡ってきた海洋民族も結構いたんじゃあないかと思います。和人海(天)族というのがいたそうです^^でも、やっぱ🔥にも似てますね^^
人が人を殺す文化って何なのでしょうね?先にそれ聞きたい🥺🥺🥺🥺
日本民族以外は全て支配する文化です。
縄文時代には殺人がなかった。とても印象的なお話でした「14000年間も殺人はなかった」(92歳ポンコツ爺)
土偶は女性かもしれないが、人間ではないけどね
私は普通の一般人ですが、土偶は単に神様を型どったと思います。タイムスリップして縄文人に聞いても答えないと思います。知られそうになったら割って壊せる様にしたのでは?何の確証もない私的な意見です。土器は最初雨乞い等の儀式に使用していたが、宗教心が薄れてというか裏切られたと思うようなことが起きて鍋の様に使われることになってしまった。かつての仲間が帰って来たと思ったら土地を守っていた人間を追い出したと思います。私の意見ですあくまでも。ある差別を受け続ける方々の伝承から私なりに導いた意見です。日本には差別があります。縄文人と弥生人は弥生人が理由で仲が悪く縄文人は蝦夷とされてしまいました。
カメラのアングルワークはプロに頼んだ方がいいかも😂
縄文時代も良いけれど、文字のない文明で高度文明がどれ程出来るものなのか?。
その土偶の中にメッセージが何か含まれていないのかな😃。
毎朝、毎夕、愛犬と散歩するけど、「もも、無口だね」と語り掛ける。
大きな耳を持つのに、なぜ、語り掛けてくれないのかな。
人間は声帯があるから話せるけれど、犬はないからなあ。
土偶という物はあるのに語り掛けてくれない。
県立博物館で、発掘された器を見て、たまたま、教育委員会の人がおられ、この焼き物は5%が発掘されたもので、後の95%は想像して作りました、と説明された。
側面には船の絵も書かれていたがこれも想像なのだろう。
教科書などで見る土偶などはどのくらい想像で作られたものなのだろうか?。
10:24 そりゃそんな珍説が通る筈ないよな笑、