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とうとう笠谷さんまで逝ってしまわれました。代表7人の中でメダリストの3人だけが逝ってしまった…3人とも天国で陵侑選手のチャレンジは見届けられたでしょうか…合掌
1972年札幌冬季五輪スキー70メートル級ジャンプで銀メダルを獲得した金野昭次さん2019年9月5日ご永眠されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
あの日本中が見ているあのとんでもない重圧の中で見事に飛んだ笠谷さんの真の強さに感動しました
このジャンプ70m級は1972(昭和47)年2月6日でした。そして何のご縁かちょうど50年後の2022(令和4)年2月6日に小林陵侑が金メダルを取りました。メダル独占した中で金野昭次さん、青地清二さんは亡くなり、笠谷幸生さんしか生き残っていません。その笠谷さんを肩車したノルウェーのモルクさんも亡くなりました。笠谷さんの金メダルが小林陵侑選手につながっていますね。
1972年札幌五輪70メートル級ジャンプ覇者・笠谷幸生氏のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。当時は生まれていませんが、いろいろな記録映像で熱狂ぶりを感じ取ってきました。NHK北出清五郎アナの「さぁ笠谷、金メダルへのジャンプ。跳んだ決まった」と伝えた実況は語り草です。一方で、北出氏の声を聞いて北の富士や琴櫻、貴ノ花のシルエットがちらついて感情移入しにくかった人もいたかもしれません。話がそれましたが、今ごろ、笠谷氏、銀の金野昭次氏、銅の青地清二氏の御三方は空の上であのころの思い出話とともに、世界で戦えるようになった日本ジャンプ陣を熱く語り合っているでしょうね。
笠谷さんの訃報に接しここに来ました。メダル独占の3人がすべて天まで飛んでいかれました。北出清五郎アナウンサーの飛んだ、決まったは忘れないですね。ご冥福をお祈りいたします。
笠谷や世界一のジャンパー。そして美しい。
もの心つく前の二歳半からカンダハーで滑り始め、アルペンしか興味なかった幼少期だった私丁度オリンピックと時期重なった六歳の頃、笠谷兄弟のジャンプに釘付けになりましたその後もジャンプ転向はせず、アルペン一本でインゲマルステンマルクに憧れていましたが、付けていたグローブは 日の丸飛行隊仕様でした
自国開催、前の二人が1位2位独占で、自分のジャンプに金銀銅独占がかかっているという状況。マスコミも国民も、今よりもずっと選手に重圧をかけていた時代です。当時子供だった私には分かりませんでしたが、笠谷選手は最後のジャンプのスタートを切るとき、どれほどの重圧を感じていたのでしょうか。尊敬いたします。
今見ても美しい飛型ですな
昨日、初めて宮の森ジャンプ競技場に行きました。 大倉山ジャンプ競技場と違い、普段はクローズされて入れませんが、たまたま近くに用事があり行ったところゲートが開いていて入れました。多分、冬が近い為に競技の準備などしていたと思います。 先の札幌オリンピックの時は7歳、地元札幌が熱気に包まれ興奮した事を思い出します。競技場施設は大倉山ジャンプ競技場より小さくて、70m(ノーマルヒル)決勝時に 2万5千名もの観客は入ったとは思えませんでした。 めちゃくちゃ興奮しました。
今野選手の気合が凄いな。最近、あんなふうに声を出すジャンプ選手は居ないね。
地味に青地さんの2本目が凄いんですよね、踏切に失敗してあれだけ乱れたのにあそこまで持っていった。
いつ見ても良いね☺
金野さん お疲れ様でした
金野昭次さん(享年75)・・・日の丸飛行隊・・感動をありがとう
笠谷ー!大ファンでした〜中学生のわたし😂
映画 札幌オリンピック観に行ったなー 当時9歳
手を前に構えて、、踏み切りで後ろへ振り切って、、が空気抵抗大きく、、って誰も気づいてない時代
小学生6年の時でした。刺激を受けて、スケート場で、ホッケーのマネしたり、六甲山の人工スキー場でスキー⛷をしたり。ジャンプはマネしたいとは思わなかった。懐かしい映像ありがとうございます。
さあ笠谷
あの頃懐かしい。
リアルタイムじゃないので日の丸飛行隊の3人のことしか知らなかったんですが、4人目の日本人がいたんですね?メダルを獲ると獲らないとでは雲泥の差、とはよくアスリートから聞きますが、本当に全く知らなかった…
一本目4位につけていた藤沢隆さんは2本目失敗して23位笠谷氏の金メダルは不動だろうが金野氏、青地氏との順位が変わっていた世界もあったのかもしれませんね
「飛んだ決まった」
この笠谷をもってしてもFour Hillsの総合優勝は出来なかった。舟木と小林(弟)をもっと讃えてやって欲しい
今と飛び方が違うのが歴史を感じますね。あと、助走の姿勢がカンガルーに見えてしまう
当時の飛び方は猫が飛び上がるイメージだったそうです。
ヘルメットかぶってない・・・。今ではありえない。
1980年前まで着用義務ではありませんでしたし、今のジャンプスーツでもないんです。しかも、1985年ごろまでは飛び出しも微調整できる座ってではなく、決まった数地点から勢いをつけて飛んでいました。
小学校の授業でテレビ観戦していた!それまで北海道自体を知らなかったんだよなぁ…観戦終わったら男子ほぼ全員が机の上に立ち笠谷さんなりきっていた!さあ笠谷!!って!笑笑!!
ぜんまいさむらい さん、かわいい〜!小学生男子♡
よくコントのネタにされてるけど、今見るとジャンプの時にスーツの裾がハタハタとははためいていなかったね🎿
小5の時に、北海道の叔父さんに誘われて、学校を休んでいきましたよ。”日の丸飛行隊”でしたっけ、覚えています。でも一番記憶に残ってるのは、”寒かった”です。
私は小3だったので越後さんの2年後輩になりますがジャネットリンには興味は無かったが日の丸飛行隊はテレビに噛り付くように観ていたので生で観たなんて羨ましい。だけど待ち時間も長いだろうし小学生には辛い思い出が蘇るでしょうね、まあそれも今となっては良い思い出ですね。
とうとう笠谷さんまで逝ってしまわれました。
代表7人の中でメダリストの3人だけが逝ってしまった…
3人とも天国で陵侑選手のチャレンジは見届けられたでしょうか…合掌
1972年札幌冬季五輪スキー70メートル級ジャンプで銀メダルを獲得した金野昭次さん2019年9月5日ご永眠されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
あの日本中が見ているあのとんでもない重圧の中で見事に飛んだ笠谷さんの真の強さに感動しました
このジャンプ70m級は1972(昭和47)年2月6日でした。そして何のご縁かちょうど50年後の2022(令和4)年2月6日に小林陵侑が金メダルを取りました。
メダル独占した中で金野昭次さん、青地清二さんは亡くなり、笠谷幸生さんしか生き残っていません。その笠谷さんを肩車したノルウェーのモルクさんも亡くなりました。
笠谷さんの金メダルが小林陵侑選手につながっていますね。
1972年札幌五輪70メートル級ジャンプ覇者・笠谷幸生氏のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。当時は生まれていませんが、いろいろな記録映像で熱狂ぶりを感じ取ってきました。NHK北出清五郎アナの「さぁ笠谷、金メダルへのジャンプ。跳んだ決まった」と伝えた実況は語り草です。一方で、北出氏の声を聞いて北の富士や琴櫻、貴ノ花のシルエットがちらついて感情移入しにくかった人もいたかもしれません。話がそれましたが、今ごろ、笠谷氏、銀の金野昭次氏、銅の青地清二氏の御三方は空の上であのころの思い出話とともに、世界で戦えるようになった日本ジャンプ陣を熱く語り合っているでしょうね。
笠谷さんの訃報に接しここに来ました。メダル独占の3人がすべて天まで飛んでいかれました。北出清五郎アナウンサーの飛んだ、決まったは忘れないですね。ご冥福をお祈りいたします。
笠谷や世界一のジャンパー。
そして美しい。
もの心つく前の二歳半からカンダハーで滑り始め、アルペンしか興味なかった幼少期だった私
丁度オリンピックと時期重なった六歳の頃、笠谷兄弟のジャンプに釘付けになりました
その後もジャンプ転向はせず、アルペン一本でインゲマルステンマルクに憧れていましたが、
付けていたグローブは 日の丸飛行隊仕様でした
自国開催、前の二人が1位2位独占で、自分のジャンプに金銀銅独占がかかっているという状況。マスコミも国民も、今よりもずっと選手に重圧をかけていた時代です。当時子供だった私には分かりませんでしたが、笠谷選手は最後のジャンプのスタートを切るとき、どれほどの重圧を感じていたのでしょうか。尊敬いたします。
今見ても美しい飛型ですな
昨日、初めて宮の森ジャンプ競技場に行きました。 大倉山ジャンプ競技場と違い、普段はクローズされて入れませんが、たまたま近くに用事があり行ったところゲートが開いていて入れました。多分、冬が近い為に競技の準備などしていたと思います。 先の札幌オリンピックの時は7歳、地元札幌が熱気に包まれ興奮した事を思い出します。
競技場施設は大倉山ジャンプ競技場より小さくて、70m(ノーマルヒル)決勝時に 2万5千名もの観客は入ったとは思えませんでした。 めちゃくちゃ興奮しました。
今野選手の気合が凄いな。最近、あんなふうに声を出すジャンプ選手は居ないね。
地味に青地さんの2本目が凄いんですよね、踏切に失敗してあれだけ乱れたのにあそこまで持っていった。
いつ見ても良いね☺
金野さん お疲れ様でした
金野昭次さん(享年75)・・・日の丸飛行隊・・感動をありがとう
笠谷ー!大ファンでした〜中学生のわたし😂
映画 札幌オリンピック観に行ったなー 当時9歳
手を前に構えて、、踏み切りで後ろへ振り切って、、が空気抵抗大きく、、って誰も気づいてない時代
小学生6年の時でした。刺激を受けて、スケート場で、ホッケーのマネしたり、六甲山の人工スキー場でスキー⛷をしたり。ジャンプはマネしたいとは思わなかった。懐かしい映像ありがとうございます。
さあ笠谷
あの頃懐かしい。
リアルタイムじゃないので日の丸飛行隊の3人のことしか知らなかったんですが、4人目の日本人がいたんですね?
メダルを獲ると獲らないとでは雲泥の差、とはよくアスリートから聞きますが、本当に全く知らなかった…
一本目4位につけていた藤沢隆さんは2本目失敗して23位
笠谷氏の金メダルは不動だろうが金野氏、青地氏との順位が変わっていた世界もあったのかもしれませんね
「飛んだ決まった」
この笠谷をもってしてもFour Hillsの総合優勝は出来なかった。
舟木と小林(弟)をもっと讃えてやって欲しい
今と飛び方が違うのが歴史を感じますね。
あと、助走の姿勢がカンガルーに見えてしまう
当時の飛び方は猫が飛び上がるイメージだったそうです。
ヘルメットかぶってない・・・。今ではありえない。
1980年前まで着用義務ではありませんでしたし、今のジャンプスーツでもないんです。
しかも、1985年ごろまでは飛び出しも微調整できる座ってではなく、決まった数地点から勢いをつけて飛んでいました。
小学校の授業でテレビ観戦していた!
それまで北海道自体を知らなかったんだよなぁ…
観戦終わったら男子ほぼ全員が机の上に立ち笠谷さんなりきっていた!
さあ笠谷!!って!
笑笑!!
ぜんまいさむらい さん、
かわいい〜!小学生男子♡
よくコントのネタにされてるけど、今見るとジャンプの時にスーツの裾がハタハタとははためいていなかったね🎿
小5の時に、北海道の叔父さんに誘われて、学校を休んでいきましたよ。
”日の丸飛行隊”でしたっけ、覚えています。
でも一番記憶に残ってるのは、”寒かった”です。
私は小3だったので越後さんの2年後輩になりますがジャネットリンには興味は無かったが日の丸飛行隊はテレビに噛り付くように観ていたので生で観たなんて羨ましい。
だけど待ち時間も長いだろうし小学生には辛い思い出が蘇るでしょうね、まあそれも今となっては良い思い出ですね。
いつ見ても良いね☺