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「すてきな旅」の典型。DD51も旧客も、模型で偲ぶしかない。寂しくなりました。揺れと匂いは「磐越西線」の旧客時代、乗りました。懐かしいです。
磐越西線は末期まで60系も走っており、魅力的でしたね。残念ながら僕は間に合いませんでした。
改めて見ると、意外なことにナハ10の2000番台が昭和59年でも山陰にいたんですね。軽量客車は車体が薄いので、劣化が速かったのですが、東北地方でも多分昭和57年までは秋田地区で走っていました。急行鳥海にも使われていたそうですが、実際に乗ったのは普通列車のみです。それでも冬の最中、いたるところから隙間風が入り、みんな新聞紙でふさいでいました。趣味的には感動したものですが。急行津軽では昭和40年代後半には、尾久の車両が老朽化で43系に交代し、自重の軽いオハ46とオハ47中心の編成になりました。A寝台オロネ10が廃止されたのは老朽化で運用に耐えられなくなったからでした。東北本線には郡山客車区にスハフ32がいて、狭窓の車両が残っていました。その車両に乗ることができたのは幸運でした。
そうなんです。配置表では59.2まで3両残っており、8月時点ではないはずだったんですが、運用されていました。これは乗っておかないとらと思い途中から移りましたが、気の滅入る車内でした
こんな長距離鈍行またはしって欲しい
本当にそう思います。また丸一日何も考えず乗る旅をしたいです。
あまりにも貴重で涙が出ます!私の亡き父はこの浜田行きで福知山から隣町まで通勤しており、当時小学生だった私は福知山駅すぐ隣の踏切から、旧客の窓全開にして手を振る父に手を振り返してました。浜田出雲市米子行きなど当たり前だった当時、終着駅まで乗りきる事はできませんでしたが、貴殿の動画にて今夜終点まで行く事ができました!感動しています。
ありがとうございます。京都始発のこの列車がずっと気になっており、思い切って乗りました。いい経験だったと思います。
涙ものの動画、有難うございます!高校通学での福知山線の朝の旧型客車通勤列車で、淀川鉄橋通過時にデッキにつかまってたことや、同キハ58の通勤列車の開放グリーン車での乗車を思い出しました。有難うございます!
ありがとうございます。昔のを振り返るヒントになれる役に立てて嬉しく思います
小学生の時に福知山線で宝塚から道場方面にこんな感じの客車に乗って行った記憶が有ります。と言うか、福知山線の脱線事故で親父がちょっと前までは客車が走ってたんやけどなあとつぶやくまで勘違いと思ってました。この動画でその時の事が鮮明に思い出せました。貴重な動画をありがとうございます。
記憶を戻すきっかけになってよかったです。福知山線は電化以来急激に変わりましたね。
@@user-tabiichiro 特に武田尾。電化に先立つこと1986年8月1日始発からは現在使用中の新駅に移転、武田尾温泉としての使命を持つ旅館こそ何軒か現在でも残っているものの、旧駅周辺における旧線時代の面影はすっかりなくなってしまいました。
@@rhscm989 まだ客レが残っているのに、新線切り替えで違和感ありましたね。
@@user-tabiichiro その3か月後には全線電化と西宮名塩・新三田2駅の開業がセットで実施され(その後1997年3月8日からは篠山口までが複線化され、さらに2010年3月には宝塚も橋上駅舎化されて現在の姿と化する)、特に営業開始直後の西宮名塩駅では開業当日、朝日放送テレビで現在放送中の「おはよう朝日・土曜日です」にてマスコットキャラクターの「おき太」が上りホームに朝早くから出向いていました。
京都を朝一番に出る浜田行きの存在は小1の時から知っていましたが、現在は京都~園部間が221M、園部~福知山間が1121Mとして後をしっかりと継いでいます。しかしながら福知山より先はそのスジにほぼ近い状態が維持されているかは不明です。また、逆に京都着のパターンというか、敦賀発京都行き922列車のスジを紐解いてみますと、現在は敦賀~東舞鶴間が940M、東舞鶴~綾部間が350M、綾部~園部間が1150M、園部~京都間が278Mとして後をしっかりと継いでいますが、敦賀発が当時よりおよそ15分遅くなった反面、電化の後押し等も功を奏して京都着は逆におよそ1時間10分早くなって現在に至ります。
rhscm989 福知山から先は京都一本後の列車でも追いつきますが、とても当時のダイヤを踏襲しているものではないですね。1時間くらい遅いので。以前のダイヤなら和田山の始業時間に間に合いましたが、今の乗り継ぎでは9時を回ってしまい、始業に間に合わず、前日に行くしか方法がなくなりました。
ナハ10だと確かまだ白熱灯でしたよね。世代じゃありませんがこの時代に窓開け放った鈍行旅をしてみたかった。
こうぶん 末期は蛍光灯化されてましたが煤けて暗く感じました。
自分もほぼ同年代デスネ。小学校6年の昭和57年から18きっぷで実家の帰省手始めに本当にアチコチ行った。今やいいオッサンなっても海外まで鉄道乗りに行く乗り鉄ジャンキー。でも国鉄末期からJR初期は目まぐるしく変わって、いい時代を過ごせたと思います。
ゆいまーる書記長 小学6年は昭和56年でした。僕が1年上ですね。でも18切符を使い出したのは59年からなので、この2年の差が大きい。
京都発浜田行き普通列車、懐かしいですね。私も一度だけ乗りました。一筆書の切符で信越、北陸を経由して夜行の「立山」で京都に行き乗りました。私の記憶では綾部~福知山が混雑のピークで和田山を過ぎるとガラガラでした。その列車で鳥取まで行き砂丘他を観光、米子に移動して境港に寄り道して夜行の「さんべ」で下関へ…今となってはいい思い出です(^^)貴重な映像をありがとうございました(^^)v
庄司政美 立山から乗り継ぎで833列車とは通ですね。僕が乗っ時は夏休みで綾部からの混雑も覚えていないですが、昔はいい列車が走っていて、時刻表を見る他だけでたのしかったですね
これは懐かしい‼️関東在住ですが浜田に親戚がいて、中学2年の夏に京都~浜田を乗り通しました。昔言葉で言うバカチョンカメラ1つ持って色々写真を撮りまくりました。大垣夜行で東京を発ち、京都から山陰号で行った事もありましたが、この鈍行の方が私的には楽しかった。今となっては宝物です‼️
ありがとうございます。この列車は本文でも書いてますが、山崎からは間に合わない幻の列車でしたので憧れていました。なくなる前に乗れてよかったです
伝説の始発
時刻表で見ていて、気になり、いつか乗ってみたいと思っていましあ
旧客のドアの窓開いたのは、知らなかったです。やはりこの時代に、タイムスリップしたいです
僕もできることならタイムスリップしたい。イベントの旧客ではドアも開けられないし、後部デッキにも立てない。海外で気持ちをごまかしていますが、本当に乗りたいのは日本の旧客
今に至るまで日本の旧客を超える旅情はないと思います。
この頃は今と違ってのんびりしていたと思います。スマホやネットがやはり生活を変えたのかな?バブルが弾けて日本人全体に余裕が無くなったのかなと思います。
青春18きっぷ 民営化で、輸送の確保より、利益の確保に重点を置くようになったからだと思います
なんて素敵な時間の使い方なんでしょう。小駅を一つずつ拾いながら、目的地までのんびりと進む鈍行列車の旅。今思えば、決して豪華でも快適でもないけれど、たまらなく優雅で贅沢なひとときなんじゃないかなァ~・・って感じます。今は何でも効率と合理化優先で、こういう泥臭い昔の旅路は味わえなくなってしまいましたね。昭和40~50年代にタイムスリップしたい衝動にかられます。
鉄むすめAKINA 評価いただき、ありがとうございます😊この時から長距離鈍行旅に目覚めましたが、民営化を前に、あれよあれよという間に旧客引退、ぶつ切りダイヤ化となってしまい、完全燃焼する前に旅ができなくなってしまいました。その時の思いをまだ引きずっていて、代わりの物を見つけられず、今も彷徨い続けてます。
絶望どころか旅行するお金あって超幸せじゃん。
TYDEEN TETUOTA そうですね。実際は絶望はしていなくて、絶望感を楽しんでいるのでしょう
同じことを思いましたw私は旅一郎さんの3つ下(S47生まれ)になりますが当時で18きっぷ使ってふらっと泊まりの旅行ができたりビデオカメラをまわせる中学生というのはかなり少数だったと思います。>旅一郎氏それにしてもよく駅泊すること、ご両親がOKしてくださいましたね。多分うちだと無理です(;゚∀゚)。山陰とか乗ってみたかったなぁ。鉄道ファンや鉄道ジャーナル、時刻表の上でしかみたことのない世界でしたが。確かに10系は当時から古いし汚いし(治安も悪い?)と言われてたのを覚えていますが、実際そうだったんですね。そう考えると40年で随分と日本の鉄道マナーも良くなったなぁと思います。
確かに私の親学生の頃の鉄道昭和31年から35年頃にかけての鉄道は激混みだったようですねもちろん東海道新幹線未開業などころか、東海道本線の電化それすらも昭和31年にようやく実現したわけで、今とは時代が違いますが兎に角、湊町駅で急行大和に座るために、待つのは当たり前だった様です。後の大垣夜行イメージな様なのがどの列車でも当たり前だった様でNHKブラタモリ東京駅の回で昭和31年のまさにその頃の動画流れていましたが東京駅から西の方行く列車はどれも超満員だった様です初めて福知山線に乗ったのは昭和44年幼稚園の頃もちろん中国道は未開業でしたが箕面当時いたので途中の宝塚駅から、急行だいせん1号に乗りましたが勿論座れず、福知山駅まで立ちっぱなしでした帰りは福知山から浜田発大阪行き726列車に宝塚まで乗りましたがこちらは余裕で座ることができ、テーブルのセンヌキと書かれた、栓抜きでファンタを飲みました。44年当時は幼稚園の年中組なのであくまで小さい子供の直感ですが44年当時は既に福知山線の主役は中国自動車道は未開通とは言え、特急まつかぜ急行だいせんが主役旧型客車列車普通列車は当時既にSLではありませんでしたが(但し福知山線の話で山陰本線では現役)既に時代遅れだった気がします。それはさておき、京都発浜田行き浜田発大阪行きが当たり前の様に走っていた時代は懐かしいですし祖父母同様にまた時代とは言え、失われたもの大きいと痛感します福知山線の場合あんな事故がありそして福知山線との競争の関係で阪急宝塚線から箕面線直通電車がほぼ全滅なので尚更と思いますが失われたもののなかに取り返しがつかないこともありうることを、改めて忘れてならないでしょうね
Candy Candy ぼくの旅行のテーマは空いている事が重要なので、合理化が進む前の国鉄末期くらいが一番空いていて楽だったのかもしれません。そしてその一番楽な時代を旅していたので、その後の短編成で混む列車に慣れないのだと思います。
写真と別のイメージ映像をまじえて思い出を語る、こういう動画もいいですね〜😊京都駅で始発待つために駅寝とか、そんなことができたんですね!長距離普通列車は長時間停車がほんとに多くて、停車時間を利用して駅の近くの銭湯でお風呂に入ることもできたときいています(笑)今普通列車で旅をしようとしたら乗り継ぎばかりになり、幹線だったら乗り継ぎがよくなりすぎて、駅で30分とか40分ゆっくり待つみたいな、あの時間が本当に減ったなぁと思います。
動画が無いので苦し紛れで作りました。この833列車は、動画でも書いてある通り、青春18きっぷで山崎始発で東に向かっていくとき、京都駅到着直前に発車するので絶対乗れない列車ということもあり、ずっと乗りたいと思っていました。意を決して前日から泊まり込んで乗ることにしましたが、乗ってよかったと思います。この頃はビデオもなかったし、写真もまともなものが残っていなくて、イメージ画像での作品になりましたが、ほかにも思い出深い列車があるので、またやっていこうと思います。ERENAさんも長い歴史がありそうなので、また見せてくださいね
懐かしいですね。40代前半なんで末期の末期保津峡から京都まで家族と乗った記憶があります(もしかしたら浜田からの京都行きだったのかな?)。特に扉が開きっぱなしにはビックリしました。京都駅ですが、当時深夜3時代に山陰方面の出雲号があったんで24時間改札をしていたと思います。
高島尚行 保津峡からの帰りに乗られたということから推測できるダイヤは、15時頃なら米子発京都行き820列車、そのあとなら福知山や園部発になります。夜(保津峡から夜乗ることは無いと思いますが)21:30くらいが東舞鶴発、22:50頃の最終が園部発です。
旅一郎さんお返事ありがとうございます。米子からの普通列車だったんですね。
浜田からの戻りは東舞鶴行きになっていました。
夜のローカル列車での絶望感、確かにありました 今日も駅寝、平らなベンチがあるかどうか、家出人と間違えられて職質などされないか、夜行キックターンで帰りの列車に座れるか、金も無い、今日もカロリーメイトと水だけで過ごした、明日はせめてうどんでも食おう等と、真っ暗な車窓をぼんやり眺めて考えていました それでも当時の列車の旅は楽しく、疲れを知りませんでした
結局この絶望感が癖になり(ドラマの主人公にでもなった気分で)場末を求めて旅をするようになったと思います。日本ではこれ以上の絶望感は無かったですが、別にアップしている、哈尔滨から佳木斯に向かう途中、绥化で乗り替え予定の神樹行き最終の鈍行に乗る予定でしたが室内灯がことごとく壊れていてほとんど真っ暗、でもたばこの火がみえるので人は乗っている。真冬の寒さと、暗さ、そして行ったことのない行先で夜明かしする必要があったことなどから、嫌になり反対向けの列車に飛び乗ってそのまま天津へ向かい、船で帰国したことがあります。th-cam.com/video/V7fG9O37AWo/w-d-xo.htmlその時のほうが絶望だったかもしれません
わたしも同じころ浜田で駅ネして726レに乗りました絶望感は無かったですけど
いい時代でしたね。本当は前途洋々の若者だったので人生に絶望はありませんでしたが、その雰囲気と初めての駅ネに不安が増殖されました。726レは大都会、大阪に向かうので絶望感は無かったです。
726レは大阪が近づくと客が増えて急に現実に戻ってしまい日曜の夜のような寂しさを感じました
わかりますそれとは少し違いますが、成田空港から乗った列車が成田駅について一般客がどっと乗ってきたとき、あー旅は終わったと寂しさを感じます。
昔824レとか山陰に乗ったことがありますが懐かしいですね。今は地方でも通勤電車みたいな車両ばかりでこれはこれで別の意味で楽しいんですが。今時は扉も当然ですが窓すら開かない車両が増えているので行った先の空気が直接吸えないんだよね。
Nameko Jiru そうですね。窓を開けてその土地の空気や匂いを感じられないなら、ユーチューブで見ているのとなんら変わりありませんもんね
30年以上前、宝塚に住んでたので何回か福知山線の客車鈍行乗りました。遠足で宝塚から黒井まで乗ったのが最長です。子供の頃にもっと客車の鈍行や急行丹波、特急まつかぜとか乗っときゃ良かった… と今更ながら思います(小さい頃から電車好きでしたがお金も度胸もなく一人で乗るとかはできなかったです)。
shiro pon 宝塚なら日常は阪急だったのでしょうか。この時代の福知山線、山陰本線は格別の「旅してる」感がありましたね。旧客にのるとどこか遠くいける、どこまででも行ける。そんな感じでした
うわーなつかしいですね。大阪なのですが高校の臨海学校で東浜駅近くの民宿の窓から見える旧型客車の姿にやみつきになって臨海学校は貸し切りバスでしたがそれから何度も山陰線乗りました721列車大阪発出雲市行きですと5時37分大阪駅発車するんですが5時丁度最寄り駅では間に合わずわざわざ阪和線鳳まで行きました高校の友人はむしろ阪和線沿線の鳳とか在住の友人が多かったのでその方が都合いい事もありますが5時37分大阪発の721列車が東浜に着くのはなんとそれから9時間後14時少し前だったと記憶してます民宿着くやいなや民宿のテレビでBSS山陰放送NKT日本海テレビで2局で同時に遅れ放送されていたアフタヌーンショー見てました(笑当時既に中国自動車道あったので貸し切りバスや車を使えば恐らく半分の所要時間で行けた筈ですが18きっぷ周遊券であえて行く贅沢今では絶対にありえませんね(泣)
721列車も京都始発の国電では2分タッチで間に合わないので、乗れませんでした。無くなる直前、福知山線武田尾複線化の時のダイヤ修正で発車時間が5:49から6:07に変更となって、やっと乗ることができましたが、12系化されており、満足度は低かったです。
嗚呼 昭和 もう帰らぬセピアの思い出
ありがとうございます。若かったことも合わせて切ないです
山陽寸断の時、半分の距離でもいいから何かしら運行してほしかったな。
同意です。山陰本線はどこも2両ばかりなので、運用調整するだけで直通できると思うのですが
@@user-tabiichiro 京都~園部間は原則4両を基本としますが、時間帯によっては6または8両もあるなど多種多彩です。打って変わって園部~城崎温泉間はほとんどが2両ばかり、城崎温泉~鳥取間は時間帯によっては1両の列車も実際に走っています。鳥取以西はほとんどが2両です。一方で京都~福知山間が全線非電化時代は、京都側の通勤輸送に持ち応えるため、気動車・客車問わず最大10両は連結して混雑緩和を図っていました(特にその時代でも京都~亀岡間・しかも保津峡付近旧線時代での混雑は顕著だった)。
@@rhscm989 単線の限界を超えた、朝の上り列車は二列車退避などしながらラッシュのダイヤ確保をしていたのがすごかったですね。あの設備で最大4本/時程の列車を運行していたのはすごかったと思います。まだバブル前で亀岡の住宅開発前てはありましたが、それでも混んでいましたね。
@@user-tabiichiro 特に亀岡の1つ手前「馬堀」は現在の奈良線木幡以南にも引けを取らないほどの規模を持つ住宅密集地の中に駅があるので、乗降客数は比較的多く、別のサイトの写真にもあるように旧駅時代でさえ駅前広場に放置自転車の姿が多く見受けられるほどのすさまじい混雑ぶりを見せつけていました(電化後はマンションも駅周辺に建つようになる)。
山陰客レ懐かしい限りです。中1だった1984年の夏に初めて18きっぷを使った時に東萩始発の列車の長門市→下関間を乗りました。確か少し前までは旧客だったはずなのですが、既に50系に置き換わってました。それでも、長門市発車後と下関到着前には凄くきれいなアナログハイケンスが流れ、旅情はまだまだありました。
kuha421 惜しいですね。山陰本線西側は59年2月に50系化されました。同じ年、京都から山陰号の寝台に乗って、出雲市から列車を乗り継ぎ、門司まで行きましたが、やはり50系でした
+旅一郎 1984年当時、日豊本線には門司港~大分間に僅か1往復だけ旧客が残ってました。それ以外の客車は全て50系でした。旧客は確か翌年のダイヤ改正(日中の大幅増便改正)で消滅したのを記憶してます。
kuha421 調度その門司で駅ねをしていた時、大分行きを目撃しました。小倉まででも乗っていてら良かったです。鹿児島本線でもすれ違った中に旧客がありましたが、結局乗らずでした。
+旅一郎 小学生の頃までは日豊本線にも沢山の旧客が走っていて、小倉の行き来でよく利用してました。客レは午後3時以降がメインだったので、帰りは高確率で旧客でしたね。小倉を出るとハイケンスが流れ、大分までの長~い主要駅の到着時刻案内があってたのを覚えています。デッキはスリル満点でした♪
kuha421 日豊本線の旧客は乗らずじまいでした。まだ小学生の頃、DF50牽引
駅駅発車の汽笛のあとシートに奥まで座りガタンとい衝撃があったな
汽笛が聞こえてからの間がよかったですね。そして引っ張られる感じ
夏場は他の人がタバコを吸うて
その灰が飛んできた?
意外と窓全開と扇風機で灰も煙も気にならない
@@くらげりくじょう 但し輸送密度が極端に高い(特に馬堀以北は京都市内へのベッドタウンらしく宅地化も進んでいた)京都~園部間は終日禁煙だったはずです。
確か京都発浜田行きは学生時代通学で毎日乗っていた……。確かDD51、前二両は下りは郵便車・貨物車だった。あと4両が客車。綾部駅は7:30発に乗ってました。未だに記憶に残ってます。本当懐かしい。タイムスリップしてもう一度乗りたい……‼️😄
西大寺よしみ おー素晴らしい。毎日乗られてたのですね。僕の住む山崎からは、いつもタッチの差で乗れない列車だったので、なんとしても乗ろうとして頑張った結果です。ありがとうこざいます😊
山陰本線の当時のDD51牽引普通列車大好きです。感謝です。ありがとうございます。😊
私にとっては、超絶涙ものの動画を見つけました(*^^*)昔は、山陰線や福知山線の旧客車に乗車すれば当たり前のように窓を空けて顔を 出していましたし、当時はほとんどDD51が牽引していたのでトンネル突入時はSLに乗車した気分に浸ってました。あまりの懐かしさで鳥肌もんばかりですね。次は何を見ようか迷うくらいです。
マサモリ ありがとうこざいます。なんとか撮った旧客の動画をアップし、共感を得てもらいますとやりがいがありますね
当時、鉄道ジャーナルで浜田~京都だったか大阪だったかで写真家の南正時氏と編集者が乗車リポートで、それと逆向きの列車の内容を載せていた記憶が有りましたね
isa 0309 そうです。まさにそれに乗る為に、前日浜田に行きました。
旅一郎さんと私は同年代…ですかね(苦笑)
isa 0309 昭和44年生まれグループですよ
@@user-tabiichiro さん私は、ちょい上の42生まれです(苦笑)にしても…5:11の写真寝台つき、へんてこ普通の「山陰」でしょう?(驚)この動画の列車も含めて…乗り鉄過ぎる(笑)この頃の思い出が…旅一郎さんの「鉄好きの根幹!」なんでしょうね(笑)
isa 0309 この「山陰」のサボは自作のものです。列車はテーマの833列車、倉吉で撮りました。本物の山陰に乗った時、オハネフ12に入れて写真を撮ったあと、抜き取ろうとしたら、公安に怒られました。裏に「自作」と書いてあるので疑いは晴れました
これ乗りたかったな。浜田発大阪行きもあったと記憶している。
この時点では浜田発大阪行き726列車が日本最長距離鈍行でしたこの日、浜田で駅寝して、早朝の726列車で大阪に戻りました。
旅一郎 他にも門司発豊岡行きなど、長距離を運転する鈍行は何本かありました。当時も今も浜田駅周辺には何もなくて、時間を潰したりするのは大変だったでしょう。
hide2996 コンビニなどない時代でしたので、ひたすら時間が過ぎるのを待つだけでした。警察に家出疑いを持たれましたが、生徒手帳に親の「旅行許可」を書いてもらっていたので、特に問題なく「スリに気をつけるように」、というような事を言われ他のを覚えています。蚊との戦いでした。
旅一郎 実はつい最近まで、浜田の一駅隣の下府駅のホームに、「松江米子京都方面」と書かれた古い案内板が残ってました。残念ながら撤去されてしまいましたが(涙)
hide2996 遠くの駅名や地名が書いてあった方面案内は旅順を掻き立てましたね。大鰐温泉の跨線橋にも「東京、大阪方面」という案内がありました。「あけぼの」「日本海」が残ってた頃なので当然ですが。
浜田駅と言えば、マグロ刺身おいてけぼり事件。益田行きの快速列車に乗車中、浜田で5分停まるとのこと。駅の改札を抜けてマグロの刺身を買いに行ったら、列車は無情にも発車してしまった。自分以外にも4人の方が同じ運命。車掌の放送ミスであったと今でも思っています。荷物は益田駅にあって、無事に対面したのは2時間後でした。今から20年以上前のお話でした。今では浜田も新しい駅になり当時の面影はないですね。
他にも4人も改札を抜けて、刺身を買いに行くほど有名だったのですか?それともおっしゃるよう、車掌のミス?単なる停車時間間違いだとしたら困りますね
タイムマシンがあったら乗りに行きたいです、旧型客車昭和57年まで急行運用もありグリーン車も連結してました、私は福島の原ノ町発青森行乗りましたけど、途中駅で30分~1時間位の停車ざらでしたね、地元では函館発(函館線に経由)旭川行あり函館本線を全線走る列車でした。
茂幸山本 原ノ町青森の221列車ですね。あれも乗りたい列車でした。知り合いは原ノ町で駅寝して乗りましたが、僕は10日のタッチの差で廃止されていました。もっと気合い入れて行けば乗れたのに、と後悔しきりです。
@@user-tabiichiro 旧型客車は一般お客さんには評判が悪くて新しい50系は歓迎されてましたね、夜行では亀山発天王寺行はなかなか面白い列車でB寝台車が新宮から連結して旧電気機関車が牽引で所属は竜華区でしたね、10系客車は車体が軽すぎて老朽化が酷かったです、旧型客車の方がしっかりした作りでした。
はやたまですね。はやたまも5か月差で乗れずです、まだまだ大丈夫と思っているうちに、ながさき、はやたまがなくなってしまいました「山陰」号は地元なので昭和50年代ぜんはんから何度か乗っており、最後はオハネフ12も乗りました。10系の痛みはひどかったですね
@@user-tabiichiro そうです(はやたま)です当時は台風の影響で奈良県内の留置線が水没して関西線の快速の環状線乗り入れ中止や首都圏から応援や転属で101・103系や113系は色がバラバラの編成ありましたね、まだこの頃は大阪や京都では旧型客車がDD51牽引で残ってました、草津線も2往復位残っていて50系客車なっていたと思います。
草津線は割と早く50系になりましたね。末期の50系を撮った動画が出てきたので、近いうちにアップします
私は宍道→浜田で乗りました。浜田でビジネスホテルに泊まって726列車は大阪まで完乗しました(単なる自慢)‼️
浜田駅寝の僕とは天と地ですね
1969昭和44年生まれなんですね。ということはもしも女の子ならばまさにこのアニメの世代ですね。th-cam.com/video/AHkOSc5fSQ4/w-d-xo.htmlキャンディキャンディも旧客も、どちらも大人の事情で封印の今、TH-camで改めて見るとあれだ、何とも複雑としか言えませんが、こういうシーンというのは多分、旧客現役だった時代だったから、TVアニメとしても普通にあった、ということになるんでしょうね。80話キャンディキャンディのこのキャンディとテリィのつかの間の再会も旧客現役時代でなければ、(作画者いがらしゆみこの父親は、国鉄マンだった事もあるようだが)80話のこの話そのものがなかったと思うとこの作品のファンかつ、今の言葉で言う鉄子の私的には、封印アニメのキャンディだけに、改めて複雑なものを感じますね。東浜駅の近くの民宿で偶然言え、キャンディキャンディと旧客を、723列車セットで見ただけに(>_
Candy Candy キャンディは普通に見てましたよ。昔は深く考えず見てたけど、漫画版を読んだら歴史も書いてある、深い漫画ですね
candy candyさんからいっぱいコメントをいただいているのですが、見ることはできますが、なぜか返事ができません、それで過去いただいたコメントから返信させてもらいました475系のどうがにもいくつかコメントありがとうございます。肖像権など面倒になりましたね。おっしゃるよう僕が動画を撮り始めたのは61年なので、475系の急行運用は上野口から無くなって1年余りの時代でした。57.11にまにあっていれば立山・ゆのくにも残せたのですが。
うわーまだあるんだ 私がよく利用してた頃は京都9:08でしたが 古谷一行の金田一のロケに出くわしたのも懐かしい思い出です
これに乗ったのは昭和59年です。9:08発米子行きは遠足や梅小路に行くときに使ってました。
「すてきな旅」の典型。DD51も旧客も、模型で偲ぶしかない。寂しくなりました。
揺れと匂いは「磐越西線」の旧客時代、乗りました。懐かしいです。
磐越西線は末期まで60系も走っており、魅力的でしたね。
残念ながら僕は間に合いませんでした。
改めて見ると、意外なことにナハ10の2000番台が昭和59年でも山陰にいたんですね。
軽量客車は車体が薄いので、劣化が速かったのですが、東北地方でも多分昭和57年までは秋田地区で走っていました。急行鳥海にも使われていたそうですが、実際に乗ったのは普通列車のみです。
それでも冬の最中、いたるところから隙間風が入り、みんな新聞紙でふさいでいました。趣味的には感動したものですが。
急行津軽では昭和40年代後半には、尾久の車両が老朽化で43系に交代し、自重の軽いオハ46とオハ47中心の編成になりました。A寝台オロネ10が廃止されたのは老朽化で運用に耐えられなくなったからでした。
東北本線には郡山客車区にスハフ32がいて、狭窓の車両が残っていました。その車両に乗ることができたのは幸運でした。
そうなんです。配置表では59.2まで3両残っており、8月時点ではないはずだったんですが、運用されていました。
これは乗っておかないとらと思い途中から移りましたが、気の滅入る車内でした
こんな長距離鈍行またはしって欲しい
本当にそう思います。
また丸一日何も考えず乗る旅をしたいです。
あまりにも貴重で涙が出ます!私の亡き父はこの浜田行きで福知山から隣町まで通勤しており、当時小学生だった私は福知山駅すぐ隣の踏切から、旧客の窓全開にして手を振る父に手を振り返してました。浜田出雲市米子行きなど当たり前だった当時、終着駅まで乗りきる事はできませんでしたが、貴殿の動画にて今夜終点まで行く事ができました!感動しています。
ありがとうございます。
京都始発のこの列車がずっと気になっており、思い切って乗りました。
いい経験だったと思います。
涙ものの動画、有難うございます!高校通学での福知山線の朝の旧型客車通勤列車で、淀川鉄橋通過時にデッキにつかまってたことや、同キハ58の通勤列車の開放グリーン車での乗車を思い出しました。有難うございます!
ありがとうございます。
昔のを振り返るヒントになれる役に立てて嬉しく思います
小学生の時に福知山線で宝塚から道場方面にこんな感じの客車に乗って行った記憶が有ります。
と言うか、福知山線の脱線事故で親父がちょっと前までは客車が走ってたんやけどなあとつぶやくまで勘違いと思ってました。
この動画でその時の事が鮮明に思い出せました。
貴重な動画をありがとうございます。
記憶を戻すきっかけになってよかったです。
福知山線は電化以来急激に変わりましたね。
@@user-tabiichiro
特に武田尾。電化に先立つこと1986年8月1日始発からは現在使用中の新駅に移転、武田尾温泉としての使命を持つ旅館こそ何軒か現在でも残っているものの、旧駅周辺における旧線時代の面影はすっかりなくなってしまいました。
@@rhscm989 まだ客レが残っているのに、新線切り替えで違和感ありましたね。
@@user-tabiichiro
その3か月後には全線電化と西宮名塩・新三田2駅の開業がセットで実施され(その後1997年3月8日からは篠山口までが複線化され、さらに2010年3月には宝塚も橋上駅舎化されて現在の姿と化する)、特に営業開始直後の西宮名塩駅では開業当日、朝日放送テレビで現在放送中の「おはよう朝日・土曜日です」にてマスコットキャラクターの「おき太」が上りホームに朝早くから出向いていました。
京都を朝一番に出る浜田行きの存在は小1の時から知っていましたが、現在は京都~園部間が221M、園部~福知山間が1121Mとして後をしっかりと継いでいます。しかしながら福知山より先はそのスジにほぼ近い状態が維持されているかは不明です。
また、逆に京都着のパターンというか、敦賀発京都行き922列車のスジを紐解いてみますと、現在は敦賀~東舞鶴間が940M、東舞鶴~綾部間が350M、綾部~園部間が1150M、園部~京都間が278Mとして後をしっかりと継いでいますが、敦賀発が当時よりおよそ15分遅くなった反面、電化の後押し等も功を奏して京都着は逆におよそ1時間10分早くなって現在に至ります。
rhscm989 福知山から先は京都一本後の列車でも追いつきますが、とても当時のダイヤを踏襲しているものではないですね。
1時間くらい遅いので。
以前のダイヤなら和田山の始業時間に間に合いましたが、今の乗り継ぎでは9時を回ってしまい、始業に間に合わず、前日に行くしか方法がなくなりました。
ナハ10だと確かまだ白熱灯でしたよね。
世代じゃありませんがこの時代に窓開け放った鈍行旅をしてみたかった。
こうぶん 末期は蛍光灯化されてましたが煤けて暗く感じました。
自分もほぼ同年代デスネ。小学校6年の昭和57年から18きっぷで実家の帰省手始めに本当にアチコチ行った。今やいいオッサンなっても海外まで鉄道乗りに行く乗り鉄ジャンキー。でも国鉄末期からJR初期は目まぐるしく変わって、いい時代を過ごせたと思います。
ゆいまーる書記長 小学6年は昭和56年でした。
僕が1年上ですね。
でも18切符を使い出したのは59年からなので、この2年の差が大きい。
京都発浜田行き普通列車、懐かしいですね。私も一度だけ乗りました。
一筆書の切符で信越、北陸を経由して夜行の「立山」で京都に行き乗りました。
私の記憶では綾部~福知山が混雑のピークで和田山を過ぎるとガラガラでした。
その列車で鳥取まで行き砂丘他を観光、米子に移動して境港に寄り道して夜行の「さんべ」で下関へ…
今となってはいい思い出です(^^)
貴重な映像をありがとうございました(^^)v
庄司政美 立山から乗り継ぎで833列車とは通ですね。
僕が乗っ時は夏休みで綾部からの混雑も覚えていないですが、昔はいい列車が走っていて、時刻表を見る他だけでたのしかったですね
これは懐かしい‼️関東在住ですが浜田に親戚がいて、中学2年の夏に京都~浜田を乗り通しました。昔言葉で言うバカチョンカメラ1つ持って色々写真を撮りまくりました。大垣夜行で東京を発ち、京都から山陰号で行った事もありましたが、この鈍行の方が私的には楽しかった。今となっては宝物です‼️
ありがとうございます。この列車は本文でも書いてますが、山崎からは間に合わない幻の列車でしたので憧れていました。
なくなる前に乗れてよかったです
伝説の始発
時刻表で見ていて、気になり、いつか乗ってみたいと思っていましあ
旧客のドアの窓開いたのは、知らなかったです。やはりこの時代に、タイムスリップしたいです
僕もできることならタイムスリップしたい。
イベントの旧客ではドアも開けられないし、後部デッキにも立てない。
海外で気持ちをごまかしていますが、本当に乗りたいのは日本の旧客
今に至るまで日本の旧客を超える旅情はないと思います。
この頃は今と違ってのんびりしていたと思います。
スマホやネットがやはり生活を変えたのかな?
バブルが弾けて日本人全体に余裕が無くなったのかなと思います。
青春18きっぷ
民営化で、輸送の確保より、利益の確保に重点を置くようになったからだと思います
なんて素敵な時間の使い方なんでしょう。
小駅を一つずつ拾いながら、目的地までのんびりと進む鈍行列車の旅。
今思えば、決して豪華でも快適でもないけれど、たまらなく優雅で贅沢なひとときなんじゃないかなァ~・・って感じます。
今は何でも効率と合理化優先で、こういう泥臭い昔の旅路は味わえなくなってしまいましたね。
昭和40~50年代にタイムスリップしたい衝動にかられます。
鉄むすめAKINA 評価いただき、ありがとうございます😊
この時から長距離鈍行旅に目覚めましたが、民営化を前に、あれよあれよという間に旧客引退、ぶつ切りダイヤ化となってしまい、完全燃焼する前に旅ができなくなってしまいました。
その時の思いをまだ引きずっていて、代わりの物を見つけられず、今も彷徨い続けてます。
絶望どころか旅行するお金あって超幸せじゃん。
TYDEEN TETUOTA
そうですね。
実際は絶望はしていなくて、絶望感を楽しんでいるのでしょう
同じことを思いましたw
私は旅一郎さんの3つ下(S47生まれ)になりますが
当時で18きっぷ使ってふらっと泊まりの旅行ができたりビデオカメラをまわせる中学生というのは
かなり少数だったと思います。
>旅一郎氏
それにしてもよく駅泊すること、ご両親がOKしてくださいましたね。
多分うちだと無理です(;゚∀゚)。
山陰とか乗ってみたかったなぁ。
鉄道ファンや鉄道ジャーナル、時刻表の上でしかみたことのない世界でしたが。
確かに10系は当時から古いし汚いし(治安も悪い?)と言われてたのを覚えていますが、
実際そうだったんですね。
そう考えると40年で随分と日本の鉄道マナーも良くなったなぁと思います。
確かに私の親学生の頃の鉄道昭和31年から35年頃にかけての鉄道は激混みだったようですねもちろん東海道新幹線未開業などころか、東海道本線の電化それすらも昭和31年にようやく実現したわけで、今とは時代が違いますが兎に角、湊町駅で急行大和に座るために、待つのは当たり前だった様です。後の大垣夜行イメージな様なのがどの列車でも当たり前だった様でNHKブラタモリ東京駅の回で昭和31年のまさにその頃の動画流れていましたが東京駅から西の方行く列車はどれも超満員だった様です
初めて福知山線に乗ったのは昭和44年幼稚園の頃もちろん中国道は未開業でしたが箕面当時いたので途中の宝塚駅から、急行だいせん1号に乗りましたが勿論座れず、福知山駅まで立ちっぱなしでした
帰りは福知山から浜田発大阪行き726列車に宝塚まで乗りましたがこちらは余裕で座ることができ、テーブルのセンヌキと書かれた、栓抜きでファンタを飲みました。
44年当時は幼稚園の年中組なのであくまで小さい子供の直感ですが44年当時は既に福知山線の主役は中国自動車道は未開通とは言え、特急まつかぜ急行だいせんが主役旧型客車列車普通列車は当時既にSLではありませんでしたが(但し福知山線の話で山陰本線では現役)既に時代遅れだった気がします。
それはさておき、京都発浜田行き浜田発大阪行きが当たり前の様に走っていた時代は懐かしいですし祖父母同様にまた時代とは言え、失われたもの大きいと痛感します
福知山線の場合あんな事故がありそして福知山線との競争の関係で阪急宝塚線から箕面線直通電車がほぼ全滅なので尚更と思いますが失われたもののなかに取り返しがつかないこともありうることを、改めて忘れてならないでしょうね
Candy Candy
ぼくの旅行のテーマは空いている事が重要なので、合理化が進む前の国鉄末期くらいが一番空いていて楽だったのかもしれません。
そしてその一番楽な時代を旅していたので、その後の短編成で混む列車に慣れないのだと思います。
写真と別のイメージ映像をまじえて思い出を語る、こういう動画もいいですね〜😊
京都駅で始発待つために駅寝とか、そんなことができたんですね!
長距離普通列車は長時間停車がほんとに多くて、停車時間を利用して駅の近くの銭湯でお風呂に入ることもできたときいています(笑)
今普通列車で旅をしようとしたら乗り継ぎばかりになり、幹線だったら乗り継ぎがよくなりすぎて、駅で30分とか40分ゆっくり待つみたいな、あの時間が本当に減ったなぁと思います。
動画が無いので苦し紛れで作りました。
この833列車は、動画でも書いてある通り、青春18きっぷで山崎始発で東に向かっていくとき、京都駅到着直前に発車するので絶対乗れない列車ということもあり、ずっと乗りたいと思っていました。
意を決して前日から泊まり込んで乗ることにしましたが、乗ってよかったと思います。
この頃はビデオもなかったし、写真もまともなものが残っていなくて、イメージ画像での作品になりましたが、ほかにも思い出深い列車があるので、またやっていこうと思います。
ERENAさんも長い歴史がありそうなので、また見せてくださいね
懐かしいですね。40代前半なんで末期の末期保津峡から京都まで家族と乗った記憶があります(もしかしたら浜田からの京都行きだったのかな?)。特に扉が開きっぱなしにはビックリしました。京都駅ですが、当時深夜3時代に山陰方面の出雲号があったんで24時間改札をしていたと思います。
高島尚行 保津峡からの帰りに乗られたということから推測できるダイヤは、15時頃なら米子発京都行き820列車、そのあとなら福知山や園部発になります。夜(保津峡から夜乗ることは無いと思いますが)21:30くらいが東舞鶴発、22:50頃の最終が園部発です。
旅一郎さんお返事ありがとうございます。米子からの普通列車だったんですね。
浜田からの戻りは東舞鶴行きになっていました。
夜のローカル列車での絶望感、確かにありました 今日も駅寝、平らなベンチがあるかどうか、家出人と間違えられて職質などされないか、夜行キックターンで帰りの列車に座れるか、金も無い、今日もカロリーメイトと水だけで過ごした、明日はせめてうどんでも食おう等と、真っ暗な車窓をぼんやり眺めて考えていました それでも当時の列車の旅は楽しく、疲れを知りませんでした
結局この絶望感が癖になり(ドラマの主人公にでもなった気分で)
場末を求めて旅をするようになったと思います。
日本ではこれ以上の絶望感は無かったですが、別にアップしている、哈尔滨
から佳木斯に向かう途中、绥化で乗り替え予定の神樹行き最終の鈍行に乗る予定でしたが室内灯がことごとく壊れていてほとんど真っ暗、でもたばこの火がみえるので人は乗っている。真冬の寒さと、暗さ、そして行ったことのない行先で夜明かしする必要があったことなどから、嫌になり反対向けの列車に飛び乗ってそのまま天津へ向かい、船で帰国したことがあります。
th-cam.com/video/V7fG9O37AWo/w-d-xo.html
その時のほうが絶望だったかもしれません
わたしも同じころ浜田で駅ネして726レに乗りました
絶望感は無かったですけど
いい時代でしたね。本当は前途洋々の若者だったので
人生に絶望はありませんでしたが、その雰囲気と初めての駅ネに不安が増殖されました。
726レは大都会、大阪に向かうので絶望感は無かったです。
726レは大阪が近づくと客が増えて急に現実に戻ってしまい
日曜の夜のような寂しさを感じました
わかります
それとは少し違いますが、成田空港から乗った列車が成田駅について一般客がどっと乗ってきたとき、あー旅は終わったと寂しさを感じます。
昔824レとか山陰に乗ったことがありますが懐かしいですね。
今は地方でも通勤電車みたいな車両ばかりでこれはこれで別の意味で楽しいんですが。
今時は扉も当然ですが窓すら開かない車両が増えているので行った先の空気が直接吸えないんだよね。
Nameko Jiru そうですね。
窓を開けてその土地の空気や匂いを感じられないなら、ユーチューブで見ているのとなんら変わりありませんもんね
30年以上前、宝塚に住んでたので何回か福知山線の客車鈍行乗りました。遠足で宝塚から黒井まで乗ったのが最長です。
子供の頃にもっと客車の鈍行や急行丹波、特急まつかぜとか乗っときゃ良かった… と今更ながら思います(小さい頃から電車好きでしたがお金も度胸もなく一人で乗るとかはできなかったです)。
shiro pon
宝塚なら日常は阪急だったのでしょうか。
この時代の福知山線、山陰本線は格別の「旅してる」感がありましたね。旧客にのるとどこか遠くいける、どこまででも行ける。そんな感じでした
うわーなつかしいですね。
大阪なのですが高校の臨海学校で東浜駅近くの民宿の窓から見える旧型客車の姿にやみつきになって臨海学校は貸し切りバスでしたがそれから何度も山陰線乗りました721列車大阪発出雲市行きですと
5時37分大阪駅発車するんですが
5時丁度最寄り駅では間に合わずわざわざ阪和線鳳まで行きました高校の友人はむしろ阪和線沿線の鳳とか在住の友人が多かったのでその方が都合いい事もありますが
5時37分大阪発の721列車が東浜に着くのはなんとそれから9時間後14時少し前だったと記憶してます民宿着くやいなや民宿のテレビでBSS山陰放送NKT日本海テレビで
2局で同時に遅れ放送されていたアフタヌーンショー見てました(笑
当時既に中国自動車道あったので貸し切りバスや車を使えば恐らく半分の所要時間で行けた筈ですが18きっぷ周遊券であえて行く贅沢
今では絶対にありえませんね(泣)
721列車も京都始発の国電では2分タッチで間に合わないので、乗れませんでした。
無くなる直前、福知山線武田尾複線化の時のダイヤ修正で発車時間が5:49から6:07に変更となって、やっと乗ることができましたが、12系化されており、満足度は低かったです。
嗚呼 昭和 もう帰らぬセピアの思い出
ありがとうございます。
若かったことも合わせて切ないです
山陽寸断の時、半分の距離でもいいから何かしら運行してほしかったな。
同意です。
山陰本線はどこも2両ばかりなので、運用調整するだけで直通できると思うのですが
@@user-tabiichiro
京都~園部間は原則4両を基本としますが、時間帯によっては6または8両もあるなど多種多彩です。
打って変わって園部~城崎温泉間はほとんどが2両ばかり、城崎温泉~鳥取間は時間帯によっては1両の列車も実際に走っています。
鳥取以西はほとんどが2両です。
一方で京都~福知山間が全線非電化時代は、京都側の通勤輸送に持ち応えるため、気動車・客車問わず最大10両は連結して混雑緩和を図っていました(特にその時代でも京都~亀岡間・しかも保津峡付近旧線時代での混雑は顕著だった)。
@@rhscm989 単線の限界を超えた、朝の上り列車は二列車退避などしながらラッシュのダイヤ確保をしていたのがすごかったですね。
あの設備で最大4本/時程の列車を運行していたのはすごかったと思います。
まだバブル前で亀岡の住宅開発前てはありましたが、それでも混んでいましたね。
@@user-tabiichiro
特に亀岡の1つ手前「馬堀」は現在の奈良線木幡以南にも引けを取らないほどの規模を持つ住宅密集地の中に駅があるので、乗降客数は比較的多く、別のサイトの写真にもあるように旧駅時代でさえ駅前広場に放置自転車の姿が多く見受けられるほどのすさまじい混雑ぶりを見せつけていました(電化後はマンションも駅周辺に建つようになる)。
山陰客レ懐かしい限りです。中1だった1984年の夏に初めて18きっぷを使った時に東萩始発の列車の長門市→下関間を乗りました。確か少し前までは旧客だったはずなのですが、既に50系に置き換わってました。それでも、長門市発車後と下関到着前には凄くきれいなアナログハイケンスが流れ、旅情はまだまだありました。
kuha421
惜しいですね。山陰本線西側は59年2月に50系化されました。
同じ年、京都から山陰号の寝台に乗って、出雲市から列車を乗り継ぎ、門司まで行きましたが、やはり50系でした
+旅一郎
1984年当時、日豊本線には門司港~大分間に僅か1往復だけ旧客が残ってました。それ以外の客車は全て50系でした。旧客は確か翌年のダイヤ改正(日中の大幅増便改正)で消滅したのを記憶してます。
kuha421 調度その門司で駅ねをしていた時、大分行きを目撃しました。
小倉まででも乗っていてら良かったです。
鹿児島本線でもすれ違った中に旧客がありましたが、結局乗らずでした。
+旅一郎
小学生の頃までは日豊本線にも沢山の旧客が走っていて、小倉の行き来でよく利用してました。客レは午後3時以降がメインだったので、帰りは高確率で旧客でしたね。小倉を出るとハイケンスが流れ、大分までの長~い主要駅の到着時刻案内があってたのを覚えています。デッキはスリル満点でした♪
kuha421 日豊本線の旧客は乗らずじまいでした。
まだ小学生の頃、DF50牽引
駅駅発車の汽笛のあとシートに奥まで座りガタンとい衝撃があったな
汽笛が聞こえてからの間がよかったですね。そして引っ張られる感じ
夏場は他の人がタバコを吸うて
その灰が飛んできた?
意外と窓全開と扇風機で灰も煙も気にならない
@@くらげりくじょう
但し輸送密度が極端に高い(特に馬堀以北は京都市内へのベッドタウンらしく宅地化も進んでいた)京都~園部間は終日禁煙だったはずです。
確か京都発浜田行きは学生時代通学で毎日乗っていた……。
確かDD51、前二両は下りは郵便車・貨物車だった。
あと4両が客車。綾部駅は7:30発に乗ってました。未だに記憶に残ってます。
本当懐かしい。タイムスリップしてもう一度乗りたい……‼️😄
西大寺よしみ おー素晴らしい。
毎日乗られてたのですね。
僕の住む山崎からは、いつもタッチの差で乗れない列車だったので、なんとしても乗ろうとして頑張った結果です。
ありがとうこざいます😊
山陰本線の当時のDD51牽引普通列車大好きです。感謝です。ありがとうございます。😊
私にとっては、超絶涙ものの動画を見つけました(*^^*)
昔は、山陰線や福知山線の旧客車に乗車すれば当たり前のように窓を空けて顔を 出していましたし、当時はほとんどDD51が牽引していたのでトンネル突入時はSLに乗車した気分に浸ってました。
あまりの懐かしさで鳥肌もんばかりですね。
次は何を見ようか迷うくらいです。
マサモリ ありがとうこざいます。
なんとか撮った旧客の動画をアップし、共感を得てもらいますとやりがいがありますね
当時、鉄道ジャーナルで
浜田~京都だったか大阪だったかで
写真家の南正時氏と編集者が乗車リポートで、それと逆向きの列車の内容を載せていた記憶が有りましたね
isa 0309 そうです。
まさにそれに乗る為に、前日浜田に行きました。
旅一郎さんと私は同年代…ですかね(苦笑)
isa 0309 昭和44年生まれグループですよ
@@user-tabiichiro さん
私は、ちょい上の42生まれです(苦笑)
にしても…5:11の写真
寝台つき、へんてこ普通の「山陰」でしょう?(驚)
この動画の列車も含めて…乗り鉄過ぎる(笑)
この頃の思い出が…旅一郎さんの「鉄好きの根幹!」なんでしょうね(笑)
isa 0309 この「山陰」のサボは自作のものです。列車はテーマの833列車、倉吉で撮りました。
本物の山陰に乗った時、オハネフ12に入れて写真を撮ったあと、抜き取ろうとしたら、公安に怒られました。
裏に「自作」と書いてあるので疑いは晴れました
これ乗りたかったな。浜田発大阪行きもあったと記憶している。
この時点では浜田発大阪行き726列車が日本最長距離鈍行でした
この日、浜田で駅寝して、早朝の726列車で大阪に戻りました。
旅一郎 他にも門司発豊岡行きなど、長距離を運転する鈍行は何本かありました。当時も今も浜田駅周辺には何もなくて、時間を潰したりするのは大変だったでしょう。
hide2996 コンビニなどない時代でしたので、ひたすら時間が過ぎるのを待つだけでした。
警察に家出疑いを持たれましたが、生徒手帳に親の「旅行許可」を書いてもらっていたので、特に問題なく「スリに気をつけるように」、というような事を言われ他のを覚えています。
蚊との戦いでした。
旅一郎 実はつい最近まで、浜田の一駅隣の下府駅のホームに、「松江米子京都方面」と書かれた古い案内板が残ってました。残念ながら撤去されてしまいましたが(涙)
hide2996 遠くの駅名や地名が書いてあった方面案内は旅順を掻き立てましたね。
大鰐温泉の跨線橋にも「東京、大阪方面」という案内がありました。
「あけぼの」「日本海」が残ってた頃なので当然ですが。
浜田駅と言えば、マグロ刺身おいてけぼり事件。
益田行きの快速列車に乗車中、浜田で5分停まるとのこと。駅の改札を抜けてマグロの刺身を買いに行ったら、列車は無情にも発車してしまった。自分以外にも4人の方が同じ運命。車掌の放送ミスであったと今でも思っています。
荷物は益田駅にあって、無事に対面したのは2時間後でした。
今から20年以上前のお話でした。
今では浜田も新しい駅になり当時の面影はないですね。
他にも4人も改札を抜けて、刺身を買いに行くほど有名だったのですか?
それともおっしゃるよう、車掌のミス?単なる停車時間間違いだとしたら困りますね
タイムマシンがあったら乗りに行きたいです、旧型客車昭和57年まで急行運用もありグリーン車も連結してました、私は福島の原ノ町発青森行乗りましたけど、途中駅で30分~1時間位の停車ざらでしたね、地元では函館発(函館線に経由)旭川行
あり函館本線を全線走る列車でした。
茂幸山本 原ノ町青森の221列車ですね。あれも乗りたい列車でした。
知り合いは原ノ町で駅寝して乗りましたが、僕は10日のタッチの差で廃止されていました。
もっと気合い入れて行けば乗れたのに、と後悔しきりです。
@@user-tabiichiro
旧型客車は一般お客さんには評判が悪くて新しい50系は歓迎されてましたね、夜行では亀山発天王寺行はなかなか面白い列車でB寝台車が新宮から連結して旧電気機関車が牽引で所属は竜華区でしたね、10系客車は車体が軽すぎて老朽化が酷かったです、旧型客車の方がしっかりした作りでした。
はやたまですね。
はやたまも5か月差で乗れずです、
まだまだ大丈夫と思っているうちに、ながさき、はやたまがなくなってしまいました
「山陰」号は地元なので昭和50年代ぜんはんから何度か乗っており、最後はオハネフ12も乗りました。
10系の痛みはひどかったですね
@@user-tabiichiro
そうです(はやたま)です当時は台風の影響で奈良県内の留置線が水没して関西線の快速の環状線乗り入れ中止や首都圏から応援や転属で101・103系や113系は色がバラバラの編成ありましたね、まだこの頃は大阪や京都では旧型客車がDD51牽引で残ってました、草津線も2往復位残っていて50系客車なっていたと思います。
草津線は割と早く50系になりましたね。
末期の50系を撮った動画が出てきたので、近いうちにアップします
私は宍道→浜田で乗りました。浜田でビジネスホテルに泊まって726列車は大阪まで完乗しました(単なる自慢)‼️
浜田駅寝の僕とは天と地ですね
1969昭和44年生まれなんですね。ということはもしも女の子ならばまさにこのアニメの世代ですね。
th-cam.com/video/AHkOSc5fSQ4/w-d-xo.html
キャンディキャンディも旧客も、どちらも大人の事情で封印の今、TH-camで改めて見るとあれだ、何とも複雑としか言えませんが、こういうシーンというのは多分、旧客現役だった時代だったから、TVアニメとしても普通にあった、ということになるんでしょうね。
80話キャンディキャンディのこのキャンディとテリィのつかの間の再会も旧客現役時代でなければ、
(作画者いがらしゆみこの父親は、国鉄マンだった事もあるようだが)
80話のこの話そのものがなかったと思うとこの作品のファンかつ、今の言葉で言う鉄子の私的には、封印アニメのキャンディだけに、改めて複雑なものを感じますね。
東浜駅の近くの民宿で偶然言え、キャンディキャンディと旧客を、723列車セットで見ただけに(>_
Candy Candy キャンディは普通に見てましたよ。
昔は深く考えず見てたけど、漫画版を読んだら歴史も書いてある、深い漫画ですね
candy candyさんからいっぱいコメントをいただいているのですが、見ることはできますが、なぜか返事ができません、
それで過去いただいたコメントから返信させてもらいました
475系のどうがにもいくつかコメントありがとうございます。
肖像権など面倒になりましたね。
おっしゃるよう僕が動画を撮り始めたのは61年なので、
475系の急行運用は上野口から無くなって1年余りの時代でした。
57.11にまにあっていれば立山・ゆのくにも残せたのですが。
うわーまだあるんだ 私がよく利用してた頃は京都9:08でしたが 古谷一行の金田一のロケに出くわしたのも懐かしい思い出です
これに乗ったのは昭和59年です。
9:08発米子行きは遠足や梅小路に行くときに使ってました。