ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
馬場が猪木の名前を出したコメントで記憶に残ったるのが、レスラーは相手と向かい合ってる時ただ突っ立ってたらダメ。新日の藤波を見てみろ猪木が教えたんだろうけど常に指を動かしてるといった内容で驚きと嬉しさがありました。今回の馬場3部作あらためてジャイアント馬場の偉大さを感じました。とても面白かったです。
馬場さんと猪木さんの当時の事がよく解り、納得出来た内容でした。馬場さんは己の巨体でアメリカマットで成功した事が王道と言われる対外国人レスラー主体のプロレス観が植え付けられた感じですね。猪木さんは馬場さんに不足している所を、練習量、アイデア、多大なリスク背負い、プロレスに新たなる可能性、刺激を与えた。2人は合わせ鏡と云う事も共感します。
素晴らしい回でした。数十年に渡り、何回となく語られた馬場さんと猪木さんの違いですが、これほど腑に落ちたことはありませんでした。新日本に抜かれた後、90年代に三沢さん達が、四天王プロレスで全日本に大ムーブメントがおこしました。解説席の馬場さんが「素晴らしい」を連呼されていたのは、自分にはできなかった「猪木新日本とは異質の過激な」プロレスだったからでしょうね。
昭和プロレス 馬場さんと猪木さんを語るのにこれ以上にないすっきりとした解説動画で自分のプロレス感のモヤモヤが解消しそうです。WWEなどのアメリカンプロレスを頻繁に観ることができる時代になり馬場さんが目指していたスタイル・ビジネスモデルがよくわかるようになったことも納得感を高める要素になっています。
素晴らしい検証ですね。猪木、馬場、プロモーター、そしてプロレスファン。それぞれの視点から見たプロレス観を集約したような考察。とても興味深く、楽しく視聴させてもらいました。
相変わらず、秀逸な作品をありがとうございます😊馬場さんが、猪木さんとロジャースを重ねて、心の奥底では、猪木さんに憧憬の念を描いていたという「新説」には、感服しました。私は、1969年生まれで、もちろん、ロジャースをライブで観てませんので、偉そうなことは言えませんが、充分にアリだと思いました。
今回もありがとうございました。馬場さんへのリスペクトが前提の構成で、素直に心地よく拝聴することができました。今の時代、手軽に昔の映像を探し当てることができます。例えば、3回連続でドロップキック(32文ロケット砲)を放つジャイアント馬場。その巨体は若々しくスピーディーに躍動、そして抜群の運動神経。若い筋肉に覆われたジャイアント馬場。その存在のなんという説得力。とんでもなかったんだ、全盛期は、、、猪木さんにとって、馬場さんのその背中は大きく、そしてその背中を生涯をかけて追い求めることとなります。その大きな目標に追いつき追い越すためには、確かに当時、猪木さんは、馬場さんのフィールド外で勝負する他なかったと思います。いわゆる全盛期は、ジャンボ鶴田を二回りほど大きくしたような規格外の動けるプロレスラーですから。しかし後にケンカを売られた形の馬場さんは辛かったと思います。なぜなら、馬場さんはなにも悪くないのだから。しかし猪木さんも、そのとった手法は、ある意味致し方なかったのかもしれません。もしかしたら、誰も悪くないのかもしれない。時代が、神さまが、この構図を作ったのかもしれない。多くの人を楽しませるために。そして、多くの人に考えてもらうために。そう、誰も悪くないのかもしれない。誌上での、馬場さんの鶴田に関する嘆き、そして長州に対する賛辞。何を隠そう、そこが馬場さんが苦手な部分。逆に言えば、それを出さないところが、馬場さんのダンディズム。対極にはいつも猪木さんがいた、馬場さんの心の中に。馬場さんが最高のレスラーと常に語っていたのが、正に、バディー・ロジャース。確かにそこに猪木さんを被せていた可能性は高い気がします。いろんなことに翻弄されたこととは思いますが、馬場さんにとって猪木さんは、ずっと「寛ちゃん」のままだったと思います。今回の動画での最後に出てくる馬場さんと猪木さんが列車に並んで写っている写真。僕は、馬場さんと猪木さんの写真の中で、この写真が1番好きです。付記あと世間に流布している話で、馬場さんが力道山のことを、「人間的に良いところはまるでなかった」と言っていることが、さも本当のように本心のように世間では語られていますが、まぁ、そういうところもあったのでしょうが、まるで違うことを述べていますので少し抜粋させていただいて付記させていただきます。先生は、凄く短気な人でガンガン殴られた。お前は空手チョップが強くなれ、と、指がパンパンに腫れ上がっても机の上でゲタでガンガンにやられる。手を外そうものならぶん殴られるから我慢するしかない。プロレスはへばってからが練習。そんなことの繰り返しだった。しかし馬場さんは、力道山への心情をこのように述べています。「しかしオレは不思議に恐怖感といったものはなかった。じっくりと話せば非常に人間味のある人で、先生の恐ろしさだけが伝説として残っているのを、残念だと思っている」馬場さんの力道山に対する思いが、世間では負の方向に、画一的に伝わっていましたので、ここに述べさせていただきました。力道山先生のこと〜序にかえて「ジャイアント馬場の16文が行く」ダイナミックセラーズ、(昭和58年発刊)より、一部分を抜粋
馬場さんへのリスペクトが感じられる良質な内容でした😊ありがとうございます🥹いつか全日での馬場さんについても取り上げで頂ければ嬉しいです
全盛期の二人なら馬場さんの方が強かったでしょう、しかし猪木さんの反骨心が作り上げた新日本が当時のファンの心を掴んでいたのは事実です当時の写真を見ると仲の良い友人としか見えないのがいいですねー最高のプロレス時代を見せてくれてありがとう、馬場さん猪木さん。
アメリカ時代の馬場さんは肉体も引き締まっていましたが、全日プロの社長になってからは練習する時間がなかったんでしょうね。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木。巨人ゆえに生きる場所を探しにプロ野球、そしてプロレスに辿り着いた馬場。裕福な家庭から貧困に陥り、ブラジル移民からスターレスラーを目指した猪木。まずは両雄をスカウトし、全く違う育て方をした力道山の眼力に敬服すると共に、神のみぞ知る2人の運命の出会いに驚く。米マットで瞬く間にスターになった馬場を猪木は羨望の眼差しで見ていただろうし、ひたむきに強さと演出力を磨いた事も素晴らしい。また5歳年上の馬場は自身が下り坂の時期にメキメキと成長する猪木を相手にしないフリをしつつも認めていた筈。力道山が作り出した2人のスーパースターが人生をかけた昭和のプロレス。2人は本当のライバルだったと思う。それを見れた我々は本当に幸せだった。
3部作の大作、ご苦労様でした。動画でもあった通り、馬場さんが直接日プロを離脱したのは、日本テレビとの約束が破られ、馬場さんをNETに登場させたことです。これも動画にありましたが、NETと2局中継になるにあたり、馬場さん、坂口さん、そしてワールドリーグ戦の公式戦の放送は日テレのみとすることを約束しました。しかし、馬場さん以外の2つはなし崩し的に破ったことから、日プロ幹部は「なんとかなるだろ」との甘い考えで、NETに馬場さんを出したことから、日プロの放映を打ち切りました。話しは変わりますが、その前、猪木さんが追放され、新団体設立に動き出した時、NETは猪木さんの方を放映するのでは、との見方もありましたが、当時のNETスタッフは「それはない。これまで日テレさんとの関係で猪木さん中心に放映してきましたが、日プロからいなくなったのならそれまでです。当面は坂口さん中心の放送になりますが、馬場さんを出してもらえるよう、交渉します」と、言っていました。後年のテレビ朝日と新日プロとの蜜月ぶりからは考えられないことでした。
素晴らしき検証!馬場と猪木は水と油。だからおもしろい!
今晩は。馬場さんは猪木を意識していました。やはり、プロだある以上に、自分にないものを持っている人には、リスペクトが出てきます。馬場からすると猪木のパフォーマンス(少しちがうかな?)は羨ましかったとおもいます。猪木も馬場さんのことは評価していました。また、一緒にやってほしかったなぁ。
めちゃめちゃ面白かったです!
猪木と馬場(新日本と全日本)の対立や確執はプロレスを盛り上げる為にプロレスマスコミが意図的に作り出した構図であって猪木と馬場は個人的には不仲であった訳ではなく、寧ろ顔を合わせれば和気藹々と話をする仲だったみたいですね。ただお互いのプロレス観は大分違っていたので山本小鉄が言っていた様に猪木と馬場はいずれどこかで袂を別つ事にはなったでしょうね。 馬場は力道山が確立した『日本式』のプロレスビジネスに染まる(馴染む)前にアメリカに行き、そこで『アメリカ式』プロレスビジネスの枠組みで横綱クラスにまで駆け上るという大成功を収めた事でプロレスに対する考え方がアメリカ式だったんですよね。 しかも当時はアメリカプロレスは『本場』と言われてましたから馬場には『自分のプロレス観こそ正統』という感覚はあったみたいですね。対して猪木は力道山と同じくアメリカでは一応レスラーとして金を稼ぐ事は出来るし日系人の集客が重要な西海岸地区ではそれなりに重宝されたとはいえアメリカプロレスの中心であった中東部から東部ではぱっとせず全体として見れば十両から平幕のけつっぺた辺り程度でしたからアメリカ式でやっていくのではなく何か独自の味付けをする必要性があったんです。 で、日本でプロレスビジネスを展開するにあたり日本人向けに力道山がした味付けが『大きな外人選手を日本人が打ち倒す』であり日本プロレスではそれが基本路線になっていました。 弟子時代の扱いに関して色々言われてはいますが『主人(力道山)が自宅に呼んだ弟子は猪木だけ』と夫人が言うほど力道山との距離が近かった猪木は自然考え方も影響を受け、アメリカでの自身のレスラーとしての立ち位置が力道山と同じ程度だった事もあって何かしらのアレンジの必要性を痛感していました。そして自分の日本におけるレスラーとしての価値が馬場に準ずる位になった時、当時の日本におけるプロレスファンの興味を察して考え付いたアレンジが力道山以来日本プロレスではタブーとなっていた日本人同士の対決なんです。日プロ時代は会社の思惑なんかもあってあまり強く打ち出せなかったこの方針は新日本プロレスの立ち上げと共に明確になっていきます。 あくまでもアメリカンプロレスを正統としてその方針を堅持していく馬場に対し『日本には日本のプロレスがあるべし』とばかりに日本人向けにプロレスをアレンジしていく猪木という構図ですね。
今回も良い動画。ありがとうございます!本筋とズレてしまいますが今回の動画で1番刺さったのは『猪木イズム言語化担当』でした😉
日プロ時代の馬場さんの試合は何試合か、覚えています。中でも、本動画でも取り上げられていた、ボボ・ブラジルとのインター戦リターンマッチでの32文ロケット砲の3連発。そのシーンだけは目に焼き付いています。BI対決については、やるとしたら昭和40年代だったでしょうね。確かに、昭和50年代になると、馬場さんはうまさを感じるものの、強さは感じなくなりました。話がずれますが、馬場さんはNWA王座を3度手にしましたが、いずれも日本でのリターンマッチで取り返されています。以降、NWAの王座は挑戦者の地元で失い、短期間で取り返すと言うパターンが頻発し、結果的にNWAの権威は失墜したと感じます。
素晴らしい時間ありがとうございます🎉🎉🎉 日本プロレスの晩年、馬場さんも猪木さんにプロレス自体を継いで欲しかったのではと、長嶋さんのように惜しまれながら引退したかったのではと想像しました。 実は馬場さんが誰よりもアスリート業を進み続けた人生だったのではないかと思うときがあります。
まあBI砲から知っている何百人の人々がなんとなくわかっている事をヒジョーにわかりやすくご説明いただきありがとうございました。1番腑に落ちた説明は「両者は合わせ鏡。猪木は馬場がいたからああであって、その逆も真なり。」のところ。特に逆のところの方が頷けるところが大きいと思いました。
当時、プロ野球巨人の王、長嶋のON砲と馬場、猪木のBI砲は同じ目線で見ていたけど、あとになってからは両雄並び立たずと理解できましたね。
強力な猪木イズム言語化担当って表現、もの凄いしっくりきます。猪木は自分は馬場を貶すのに、他人が馬場を貶すと怒ると聞きました。うまく言語化できないですが、そこに全てが含まれてる気がします。
今、この時、この時代になれば、改めて馬場も猪木もプロレス感はわかる。
5歳という年齢の差。日本人社会ならでは生まれ年の差。そして入門の時間差。これが大本だよね。5歳も離れれば馬場から見れば弟のようなもの。この差はいつまで経っても変わらない事実。同じ様に業界入りの時間差、坂口が年上でも先輩は猪木。これもずっと変わらない事実。プロレスに限らず、日本ではどの世界でも同じ様な事だと思う。だからこそ、考察も人それぞれの思いなんだとみた。
クオリティたかいです。
猪木とバディ・ロジャースの対峙ですか。もはや文学ですね。詳しい感想は後ほど述べます。
シリーズ第3弾。今回も非常に面白かったです。やはり、1972年以降のジャイアント馬場とアントニオ猪木についてもぜひ考察してください。
”プロレス”と言う観点で言えば馬場の視点は正しい。只”日本の”となると話が変わってくる。後に猪木が語った通り日本は格闘・勝負と言う物の眼が濃い、スタンダードなプロレスでは何れ飽きが来てしまう。だからこそ”本気”を見せなければ客はついて来ない。早くに”アメリカンスタンダード”を覚えた馬場にはその辺が見えなかったんだろうなあ・・・。
当時は時代感じるプロレス中継だった
馬場さんは亡くなる寸前までプロレスをされていたのにも関わらず、自身の体調に関する不調や衰えをストーリーに組み込まなかったので誤解を受けていた部分はあった、と思います。元々巨人症の人は短命なのは間違いなく、20代で亡くなる方もいらっしゃる中、あれだけやれただけでもハンデキャップがある方に大変励みになったはずです。ある年齢からトレーニングしたくても出来ない体だった事を加味して、もっと高く評価されて良いと感じます。本当は30になったら引退してハワイで悠々自適に過ごしたかったでしょうね。逆になぜそうしなかったのか?に興味があります。
いや~、大変inteligence な考察で恐れ入ります。いいですね。この深い考察。馬場の基本はアメリカで力道山より遥かにトップだった。が馬場の生涯のプライドでしょう。ここでBロジャースに並んで当時アメリカで絶対人気だったゴージャスジョージがあるのですが、馬場はゴージャスをどう評価してたんでしょうか? 力道山がゴージャスを日本に呼ばなかったのはプロレスを真剣勝負で始めたからであって「プロレスは真剣」という考えは佐山のケーフェイまで続きます。一方馬場のアメリカンプロレスはプロレスはショーが前提でやってる。日本のプロレスの特殊性はここにあります。ここに猪木プロレスに、そして格闘技に世界一熱狂したのは日本人、がある気がします。馬場がGジョージに語らなかったのは「あそこまではなりたくない。やはりプロレスもスポーツの1部だ」と元ジャイアンツのプロスポーツ選手のプライドがあったんじゃないでしょうか? 実際GジョージやG東郷は道化役者のように描かれています。この辺りも考察すると面白いかもしれません。いや~、プロレスって本当に楽しいものですね。
王道的なオーソドックスなプロレス、猪木のストロングスタイルなプロレス両極端な感じでしたが、どちらとも大好きで応援してました。でも日本人対決があまりなかった昔のプロレスには違和感を感じていたのも事実。切磋琢磨とかなかったのかなぁって思った。
スキャンダラスな猪木に、憧れのロジャアスのカゲを観た!との考察は凄い。スケール小さいが、前田日明に、猪木はかつての自分の若き日を観た!?
猪木さんが編み出したコブラツイストを馬場さんが自分の技にしちゃった、ってのもあって。温厚なように見えて結構馬場さんも鬼なのである。失くなられたとき結局は猪木さんも寂しがってましたからね、悪口言う相手が居なくなって
カール・ゴッチが教えた説もありますよ。
馬場さんは「王道プロレス」という、ど真ん中を常に進んでいました。その中に入ることができなかった猪木さんは「ストロングスタイル」という自身のプロレスを突き進め、馬場さんに常に刃を向けていました。でも馬場さんは猪木さんのプロレスに理解を示し、「あんな風にできたらいいなぁ」と内心思っていたのかもしれません。そして猪木さんはずっと「馬場さんのようになりたい」と思っていたはずです。「両党並び立たず」とはよく言ったものですが、このお二方はずっとお互いのことを意識し、理解し、尊敬し合っていたと信じてやみません。
お疲れ様です。淡々とこなす鶴田に対しての言葉…長州に対しての評価…馬場はプロレスに自分が得意でないそうゆう要素が必要な事を熟知していた…イイ話だな😅馬場からすると猪木はライバルな訳ないが、鬱陶しい年下。でも自分には無い物必要な物を持っているのを…表で言わない、公に認める訳にいかないのが…ジワる、プライドと言うか…今分かる気がします。鶴田に公で猪木の名前出してまでそう表すのは…やっぱりね、だよね、安心した!って当時思いました😅w猪木を認めてるような…鶴田が歯痒すぎるのか wどっちもやね。3部作の続きも独自の視点で引き続き聴きたいです。
毎回面白いです。編集と声の良さからでしょうか!?
坂口は、第11回、第12回ワールドリーグのときだけ帰国して、その翌年のNWAタッグリーグまで帰ってこなかったので、日本テレビは「東京タワーズ」は売り物にできなかったと思いますが?
やはり世代差がある2人やはり10年差があるんですねプライムの時期で小川対橋本の1.4を考えると 馬場対猪木が実現しなかったのは当然だと思う
両雄が並び立った希有な例ですね。
個人的な意見ですが・・、最初は猪木の発言や新間がラッパを吹く過激なプロレスに惹かれ、「そうだ!そうだぁ!!」と熱狂する。でも時が過ぎて、新日本がやってきたことより、もっとリアルなUWF、さらにプライドやUFCをはじめとする総合格闘技が台頭してきた時に、過去の馬場語録の重みに気づいていく・・感じですかねぇ。
ショーもな。(笑)
馬場さんと猪木さんは、もしもどちらかが存在しなかったら、昭和プロレスは成り立たなかったでしょう。若い時、米国で活躍した馬場さんならあったかもしれませんが。
存命のころは馬場を男の規範として見ていました。猪木のメッキが剥がれてきて、馬場が正しかったのかもとみんなが気づいたころです。正義は時間がかかると実感する人もいたのではないでしょうか。ターザン山本の存在も大きかった。時間がかかった原因は猪木のわかりやすいカッコよさと、面白さ、それと今考えるととんでもない口撃。当時わかりやすいカッコ悪さをさらして、何も言い返せず黙っている馬場。これじゃー誰もが猪木のことを信じてしまいます。やっと真実にみんなが気づき始めた時に亡くなられて、さぞ無念だったでしょうね。やっぱり馬場的生き方が猪木のそれに勝るんだと思い始めたころ馬場が消えてしまって賢い生き方がわからなくなりました。
ちょっと馬場よりすぎる発言してしまいましたが(笑)プロレスラーの魅力のほぼ全てを身につけている猪木の凄さはよくわかっているつもりです。ロジャースに正義と強さを足したのが猪木かもです。ロジャース実はかなり強かった気もしますが。とにかく猪木の魅力は80年代馬場や鶴田を圧倒していました。
@@杉山英範ロジャースのパイルドライバーや4の字は凄いですよ。
「お母さん助けて」と試合中叫んだのは大阪球場のジンキニスキー戦だったような…
大阪でのインター戦は同じだけど70年のドリー戦ですね。
海外の洗礼を受けた武藤が新日ではなく全日の社長に後々就任する事になるのはさもありなんですなあ( ・∀・)
日本のプロレスは馬場と猪木の対比の中で成長してきた。馬場のプロレスはあの巨体から繰り出す大技が魅力だ。一方で猪木はその軽快な動きや理にかなった技が魅力だった。やがて猪木のプロレスは必然的に佐山や前田を作る機会を作った。猪木がいなければ日本のプロレスは1980年過ぎに失速してしまっただろう。1970年初頭に日本プロレス時代の第一回タッグ選手権の猪木組優勝→倍賞美津子リング登壇→花束贈呈→婚約発表後に馬場がシャワーも浴びずに意気消沈して帰宅したのは有名な話だ。馬場が猪木を意識していないと言うのはポーズであって内心は猪木の魅力に馬場にないものを感じでいたのは明白だ。試合直前まで麻雀三昧の馬場と練習の虫だった猪木のプロレス観はそこからも垣間見える。それとアメリカでの政治力の話は別の話だ。また猪木の「燃える闘魂」としての大和魂は日本人の心を揺さぶった。猪木プロレスはアメリカとは異質のジャパニーズ・プロレスと言う新たなジャンルを作ったのだ。馬場プロレスがワルツなら、猪木プロレスは青春の主語、社会への反抗心、正にロックだった!!
猪木28歳、馬場33歳の昭和46年以降なら猪木有利な気がする。キャリアは同じ、東京プロレスなどの修羅場も踏んでいる。
互いに、ちょっと全盛期!ズレてますからね、、、5歳の年齢差~はおおきい。ホントのライバル関係ひかくするなら。せいぜいに3歳かな。藤波長州見たく。
素晴らしい考察
アリ戦はなあ!
馬場さんが大谷翔平にスライドする
まぁ「強さ」で競ったら馬場が猪木に勝てる訳ゃ無いですよね🙂
それ逆でしよ😂😂😂
強さの猪木。旨さの馬場やで。
馬場猪木が同じようなビジネスをしても客は飽きてしまうし、当時のテレビ局は高度経済成長からバブルまでは、それ行けドンドンで収入も発言力も あっただろうから。お互いが水と油にならざるおえなかっただろう。馬場は巨人時代から客を呼ぶという事は金になるという事を身をもって理解していただろうし 猪木はまだ体も完成していない10代でレスラーになり 力道山の付き人で凄みのあるプロレスのビジネスを学んでいたわけだから 金を得るための思想自体が違っていたのかもね 野球的な大衆プロレスが馬場の思想で 格闘技としてのビジネスのプロレスが猪木の思想かもしれない 知らんけど
ドリーとの醜態晒しが馬場の終わりの始まり。また、馬場と手の合うキニスキーなどの豪傑タイプが衰え始め、猪木と手の合うドリーがチャンピオンになったことも、拍車をかけました。この時期放送されたタイガーマスクで、猪木がタイガーマスクに勝ったことで小学校では、猪木派が増えました。
馬場が猪木の名前を出したコメントで記憶に残ったるのが、レスラーは相手と向かい合ってる時ただ突っ立ってたらダメ。新日の藤波を見てみろ猪木が教えたんだろうけど常に指を動かしてるといった内容で驚きと嬉しさがありました。
今回の馬場3部作あらためてジャイアント馬場の偉大さを感じました。とても面白かったです。
馬場さんと猪木さんの当時の事がよく解り、納得出来た内容でした。馬場さんは己の巨体でアメリカマットで成功した事が王道と言われる対外国人レスラー主体のプロレス観が植え付けられた感じですね。猪木さんは馬場さんに不足している所を、練習量、アイデア、多大なリスク背負い、プロレスに新たなる可能性、刺激を与えた。2人は合わせ鏡と云う事も共感します。
素晴らしい回でした。数十年に渡り、何回となく語られた馬場さんと猪木さんの違いですが、これほど腑に落ちたことはありませんでした。新日本に抜かれた後、90年代に三沢さん達が、四天王プロレスで全日本に大ムーブメントがおこしました。解説席の馬場さんが「素晴らしい」を連呼されていたのは、自分にはできなかった「猪木新日本とは異質の過激な」プロレスだったからでしょうね。
昭和プロレス 馬場さんと猪木さんを語るのにこれ以上にないすっきりとした解説動画で自分のプロレス感のモヤモヤが解消しそうです。WWEなどのアメリカンプロレスを頻繁に観ることができる時代になり馬場さんが目指していたスタイル・ビジネスモデルがよくわかるようになったことも納得感を高める要素になっています。
素晴らしい検証ですね。
猪木、馬場、プロモーター、そしてプロレスファン。
それぞれの視点から見たプロレス観を集約したような考察。
とても興味深く、楽しく視聴させてもらいました。
相変わらず、秀逸な作品をありがとうございます😊
馬場さんが、猪木さんとロジャースを重ねて、心の奥底では、猪木さんに憧憬の念を描いていたという「新説」には、感服しました。
私は、1969年生まれで、もちろん、ロジャースをライブで観てませんので、偉そうなことは言えませんが、充分にアリだと思いました。
今回もありがとうございました。
馬場さんへのリスペクトが前提の構成で、素直に心地よく拝聴することができました。
今の時代、手軽に昔の映像を探し当てることができます。
例えば、3回連続でドロップキック(32文ロケット砲)を放つジャイアント馬場。
その巨体は若々しくスピーディーに躍動、そして抜群の運動神経。
若い筋肉に覆われたジャイアント馬場。
その存在のなんという説得力。
とんでもなかったんだ、全盛期は、、、
猪木さんにとって、馬場さんのその背中は大きく、そしてその背中を生涯をかけて追い求めることとなります。
その大きな目標に追いつき追い越すためには、確かに当時、猪木さんは、馬場さんのフィールド外で勝負する他なかったと思います。いわゆる全盛期は、ジャンボ鶴田を二回りほど大きくしたような規格外の動けるプロレスラーですから。
しかし後にケンカを売られた形の馬場さんは辛かったと思います。なぜなら、馬場さんはなにも悪くないのだから。
しかし猪木さんも、そのとった手法は、ある意味致し方なかったのかもしれません。
もしかしたら、誰も悪くないのかもしれない。
時代が、神さまが、この構図を作ったのかもしれない。
多くの人を楽しませるために。そして、多くの人に考えてもらうために。そう、誰も悪くないのかもしれない。
誌上での、馬場さんの鶴田に関する嘆き、そして長州に対する賛辞。
何を隠そう、そこが馬場さんが苦手な部分。逆に言えば、それを出さないところが、馬場さんのダンディズム。
対極にはいつも猪木さんがいた、馬場さんの心の中に。
馬場さんが最高のレスラーと常に語っていたのが、正に、バディー・ロジャース。確かにそこに猪木さんを被せていた可能性は高い気がします。いろんなことに翻弄されたこととは思いますが、馬場さんにとって猪木さんは、ずっと「寛ちゃん」のままだったと思います。今回の動画での最後に出てくる馬場さんと猪木さんが列車に並んで写っている写真。僕は、馬場さんと猪木さんの写真の中で、この写真が1番好きです。
付記
あと世間に流布している話で、馬場さんが力道山のことを、
「人間的に良いところはまるでなかった」
と言っていることが、さも本当のように本心のように世間では語られていますが、まぁ、そういうところもあったのでしょうが、まるで違うことを述べていますので少し抜粋させていただいて付記させていただきます。
先生は、凄く短気な人でガンガン殴られた。お前は空手チョップが強くなれ、と、指がパンパンに腫れ上がっても机の上でゲタでガンガンにやられる。手を外そうものならぶん殴られるから我慢するしかない。プロレスはへばってからが練習。そんなことの繰り返しだった。
しかし馬場さんは、力道山への心情をこのように述べています。
「しかしオレは不思議に恐怖感といったものはなかった。じっくりと話せば非常に人間味のある人で、先生の恐ろしさだけが伝説として残っているのを、残念だと思っている」
馬場さんの力道山に対する思いが、世間では負の方向に、画一的に伝わっていましたので、ここに述べさせていただきました。
力道山先生のこと〜序にかえて
「ジャイアント馬場の16文が行く」ダイナミックセラーズ、
(昭和58年発刊)より、一部分を抜粋
馬場さんへのリスペクトが感じられる良質な内容でした😊ありがとうございます🥹いつか全日での馬場さんについても取り上げで頂ければ嬉しいです
全盛期の二人なら馬場さんの方が強かったでしょう、しかし猪木さんの反骨心が作り上げた新日本が当時のファンの心を掴んでいたのは事実です
当時の写真を見ると仲の良い友人としか見えないのがいいですねー
最高のプロレス時代を見せてくれてありがとう、馬場さん猪木さん。
アメリカ時代の馬場さんは肉体も引き締まっていましたが、全日プロの社長になってからは練習する時間がなかったんでしょうね。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木。
巨人ゆえに生きる場所を探しにプロ野球、そしてプロレスに辿り着いた馬場。裕福な家庭から貧困に陥り、ブラジル移民からスターレスラーを目指した猪木。まずは両雄をスカウトし、全く違う育て方をした力道山の眼力に敬服すると共に、神のみぞ知る2人の運命の出会いに驚く。米マットで瞬く間にスターになった馬場を猪木は羨望の眼差しで見ていただろうし、ひたむきに強さと演出力を磨いた事も素晴らしい。また5歳年上の馬場は自身が下り坂の時期にメキメキと成長する猪木を相手にしないフリをしつつも認めていた筈。力道山が作り出した2人のスーパースターが人生をかけた昭和のプロレス。2人は本当のライバルだったと思う。それを見れた我々は本当に幸せだった。
3部作の大作、ご苦労様でした。
動画でもあった通り、馬場さんが直接日プロを離脱したのは、日本テレビとの約束が破られ、馬場さんをNETに登場させたことです。
これも動画にありましたが、NETと2局中継になるにあたり、
馬場さん、坂口さん、そしてワールドリーグ戦の公式戦の放送は日テレのみとすることを約束しました。
しかし、馬場さん以外の2つはなし崩し的に破ったことから、日プロ幹部は「なんとかなるだろ」との甘い考えで、NETに馬場さんを出したことから、日プロの放映を打ち切りました。
話しは変わりますが、その前、猪木さんが追放され、新団体設立に動き出した時、NETは猪木さんの方を放映するのでは、との見方もありましたが、当時のNETスタッフは「それはない。これまで日テレさんとの関係で猪木さん中心に放映してきましたが、日プロからいなくなったのならそれまでです。当面は坂口さん中心の放送になりますが、馬場さんを出してもらえるよう、交渉します」と、言っていました。
後年のテレビ朝日と新日プロとの蜜月ぶりからは考えられないことでした。
素晴らしき検証!馬場と猪木は水と油。だからおもしろい!
今晩は。
馬場さんは猪木を意識していました。やはり、プロだある以上に、自分にないものを持っている人には、リスペクトが出てきます。馬場からすると猪木のパフォーマンス(少しちがうかな?)は羨ましかったとおもいます。
猪木も馬場さんのことは評価していました。
また、一緒にやってほしかったなぁ。
めちゃめちゃ面白かったです!
猪木と馬場(新日本と全日本)の対立や確執はプロレスを盛り上げる為にプロレスマスコミが意図的に作り出した構図であって猪木と馬場は個人的には不仲であった訳ではなく、寧ろ顔を合わせれば和気藹々と話をする仲だったみたいですね。
ただお互いのプロレス観は大分違っていたので山本小鉄が言っていた様に猪木と馬場はいずれどこかで袂を別つ事にはなったでしょうね。 馬場は力道山が確立した『日本式』のプロレスビジネスに染まる(馴染む)前にアメリカに行き、そこで『アメリカ式』プロレスビジネスの枠組みで横綱クラスにまで駆け上るという大成功を収めた事でプロレスに対する考え方がアメリカ式だったんですよね。 しかも当時はアメリカプロレスは『本場』と言われてましたから馬場には『自分のプロレス観こそ正統』という感覚はあったみたいですね。
対して猪木は力道山と同じくアメリカでは一応レスラーとして金を稼ぐ事は出来るし日系人の集客が重要な西海岸地区ではそれなりに重宝されたとはいえアメリカプロレスの中心であった中東部から東部ではぱっとせず全体として見れば十両から平幕のけつっぺた辺り程度でしたからアメリカ式でやっていくのではなく何か独自の味付けをする必要性があったんです。 で、日本でプロレスビジネスを展開するにあたり日本人向けに力道山がした味付けが『大きな外人選手を日本人が打ち倒す』であり日本プロレスではそれが基本路線になっていました。 弟子時代の扱いに関して色々言われてはいますが『主人(力道山)が自宅に呼んだ弟子は猪木だけ』と夫人が言うほど力道山との距離が近かった猪木は自然考え方も影響を受け、アメリカでの自身のレスラーとしての立ち位置が力道山と同じ程度だった事もあって何かしらのアレンジの必要性を痛感していました。
そして自分の日本におけるレスラーとしての価値が馬場に準ずる位になった時、当時の日本におけるプロレスファンの興味を察して考え付いたアレンジが力道山以来日本プロレスではタブーとなっていた日本人同士の対決なんです。
日プロ時代は会社の思惑なんかもあってあまり強く打ち出せなかったこの方針は新日本プロレスの立ち上げと共に明確になっていきます。 あくまでもアメリカンプロレスを正統としてその方針を堅持していく馬場に対し『日本には日本のプロレスがあるべし』とばかりに日本人向けにプロレスをアレンジしていく猪木という構図ですね。
今回も良い動画。ありがとうございます!本筋とズレてしまいますが今回の動画で1番刺さったのは『猪木イズム言語化担当』でした😉
日プロ時代の馬場さんの試合は何試合か、覚えています。
中でも、本動画でも取り上げられていた、ボボ・ブラジルとのインター戦リターンマッチでの32文ロケット砲の3連発。そのシーンだけは目に焼き付いています。
BI対決については、やるとしたら昭和40年代だったでしょうね。
確かに、昭和50年代になると、馬場さんはうまさを感じるものの、強さは感じなくなりました。
話がずれますが、馬場さんはNWA王座を3度手にしましたが、いずれも日本でのリターンマッチで取り返されています。
以降、NWAの王座は挑戦者の地元で失い、短期間で取り返すと言うパターンが頻発し、結果的にNWAの権威は失墜したと感じます。
素晴らしい時間ありがとうございます🎉🎉🎉
日本プロレスの晩年、馬場さんも猪木さんにプロレス自体を継いで欲しかったのではと、長嶋さんのように惜しまれながら引退したかったのではと想像しました。
実は馬場さんが誰よりもアスリート業を進み続けた人生だったのではないかと思うときがあります。
まあBI砲から知っている何百人の人々がなんとなくわかっている事をヒジョーにわかりやすくご説明いただきありがとうございました。
1番腑に落ちた説明は「両者は合わせ鏡。猪木は馬場がいたからああであって、その逆も真なり。」のところ。
特に逆のところの方が頷けるところが大きいと思いました。
当時、プロ野球巨人の王、長嶋のON砲と馬場、猪木のBI砲は同じ目線で見ていたけど、あとになってからは両雄並び立たずと理解できましたね。
強力な猪木イズム言語化担当って表現、もの凄いしっくりきます。
猪木は自分は馬場を貶すのに、他人が馬場を貶すと怒ると聞きました。うまく言語化できないですが、そこに全てが含まれてる気がします。
今、この時、この時代になれば、改めて馬場も猪木もプロレス感はわかる。
5歳という年齢の差。日本人社会ならでは生まれ年の差。そして入門の時間差。これが大本だよね。
5歳も離れれば馬場から見れば弟のようなもの。この差はいつまで経っても変わらない事実。
同じ様に業界入りの時間差、坂口が年上でも先輩は猪木。これもずっと変わらない事実。
プロレスに限らず、日本ではどの世界でも同じ様な事だと思う。だからこそ、考察も人それぞれの思いなんだとみた。
クオリティたかいです。
猪木とバディ・ロジャースの対峙ですか。もはや文学ですね。詳しい感想は後ほど述べます。
シリーズ第3弾。今回も非常に面白かったです。やはり、1972年以降のジャイアント馬場とアントニオ猪木についてもぜひ考察してください。
”プロレス”と言う観点で言えば馬場の視点は正しい。
只”日本の”となると話が変わってくる。
後に猪木が語った通り日本は格闘・勝負と言う物の眼が濃い、スタンダードなプロレスでは何れ飽きが来てしまう。
だからこそ”本気”を見せなければ客はついて来ない。
早くに”アメリカンスタンダード”を覚えた馬場にはその辺が見えなかったんだろうなあ・・・。
当時は時代感じるプロレス中継だった
馬場さんは亡くなる寸前までプロレスをされていたのにも関わらず、自身の体調に関する不調や衰えをストーリーに組み込まなかったので誤解を受けていた部分はあった、と思います。元々巨人症の人は短命なのは間違いなく、20代で亡くなる方もいらっしゃる中、あれだけやれただけでもハンデキャップがある方に大変励みになったはずです。ある年齢からトレーニングしたくても出来ない体だった事を加味して、もっと高く評価されて良いと感じます。本当は30になったら引退してハワイで悠々自適に過ごしたかったでしょうね。逆になぜそうしなかったのか?に興味があります。
いや~、大変inteligence な考察で恐れ入ります。いいですね。この深い考察。馬場の基本はアメリカで力道山より遥かにトップだった。が馬場の生涯のプライドでしょう。ここでBロジャースに並んで当時アメリカで絶対人気だったゴージャスジョージがあるのですが、馬場はゴージャスをどう評価してたんでしょうか? 力道山がゴージャスを日本に呼ばなかったのはプロレスを真剣勝負で始めたからであって「プロレスは真剣」という考えは佐山のケーフェイまで続きます。一方馬場のアメリカンプロレスはプロレスはショーが前提でやってる。日本のプロレスの特殊性はここにあります。ここに猪木プロレスに、そして格闘技に世界一熱狂したのは日本人、がある気がします。馬場がGジョージに語らなかったのは「あそこまではなりたくない。やはりプロレスもスポーツの1部だ」と元ジャイアンツのプロスポーツ選手のプライドがあったんじゃないでしょうか? 実際GジョージやG東郷は道化役者のように描かれています。この辺りも考察すると面白いかもしれません。いや~、プロレスって本当に楽しいものですね。
王道的なオーソドックスなプロレス、猪木のストロングスタイルな
プロレス両極端な感じでしたが、どちらとも大好きで応援してました。
でも日本人対決があまりなかった昔のプロレスには違和感を
感じていたのも事実。切磋琢磨とかなかったのかなぁって思った。
スキャンダラスな猪木に、
憧れのロジャアスのカゲを観た!との考察は凄い。スケール小さいが、前田日明に、猪木はかつての自分の若き日を観た!?
猪木さんが編み出したコブラツイストを馬場さんが自分の技にしちゃった、ってのもあって。温厚なように見えて結構馬場さんも鬼なのである。失くなられたとき結局は猪木さんも寂しがってましたからね、悪口言う相手が居なくなって
カール・ゴッチが教えた説もありますよ。
馬場さんは「王道プロレス」という、ど真ん中を常に進んでいました。
その中に入ることができなかった猪木さんは「ストロングスタイル」という自身のプロレスを突き進め、馬場さんに常に刃を向けていました。
でも馬場さんは猪木さんのプロレスに理解を示し、「あんな風にできたらいいなぁ」と内心思っていたのかもしれません。
そして猪木さんはずっと「馬場さんのようになりたい」と思っていたはずです。
「両党並び立たず」とはよく言ったものですが、このお二方はずっとお互いのことを意識し、理解し、尊敬し合っていたと信じてやみません。
お疲れ様です。
淡々とこなす鶴田に対しての言葉…長州に対しての評価…
馬場はプロレスに自分が得意でないそうゆう要素が必要な事を熟知していた…イイ話だな😅
馬場からすると猪木はライバルな訳ないが、鬱陶しい年下。でも自分には無い物必要な物を持っているのを
…表で言わない、公に認める訳にいかないのが…ジワる、プライドと言うか…今分かる気がします。
鶴田に公で猪木の名前出してまでそう表すのは…やっぱりね、だよね、安心した!って当時思いました😅w
猪木を認めてるような…鶴田が歯痒すぎるのか wどっちもやね。
3部作の続きも独自の視点で引き続き聴きたいです。
毎回面白いです。
編集と声の良さからでしょうか!?
坂口は、第11回、第12回ワールドリーグのときだけ帰国して、その翌年のNWAタッグリーグまで帰ってこなかったので、日本テレビは「東京タワーズ」は売り物にできなかったと思いますが?
やはり世代差がある2人
やはり10年差があるんですね
プライムの時期で
小川対橋本の1.4を考えると
馬場対猪木が実現しなかったのは
当然だと思う
両雄が並び立った希有な例ですね。
個人的な意見ですが・・、最初は猪木の発言や新間がラッパを吹く過激なプロレスに惹かれ、「そうだ!そうだぁ!!」と熱狂する。でも時が過ぎて、新日本がやってきたことより、もっとリアルなUWF、さらにプライドやUFCをはじめとする総合格闘技が台頭してきた時に、過去の馬場語録の重みに気づいていく・・感じですかねぇ。
ショーもな。(笑)
馬場さんと猪木さんは、もしもどちらかが存在しなかったら、昭和プロレスは成り立たなかったでしょう。
若い時、米国で活躍した馬場さんならあったかもしれませんが。
存命のころは馬場を男の規範として見ていました。猪木のメッキが剥がれてきて、馬場が正しかったのかもとみんなが気づいたころです。
正義は時間がかかると実感する人もいたのではないでしょうか。ターザン山本の存在も大きかった。
時間がかかった原因は猪木のわかりやすいカッコよさと、面白さ、それと今考えるととんでもない口撃。当時わかりやすいカッコ悪さをさらして、何も言い返せず黙っている馬場。これじゃー誰もが猪木のことを信じてしまいます。
やっと真実にみんなが気づき始めた時に亡くなられて、さぞ無念だったでしょうね。
やっぱり馬場的生き方が猪木のそれに勝るんだと思い始めたころ馬場が消えてしまって賢い生き方がわからなくなりました。
ちょっと馬場よりすぎる発言してしまいましたが(笑)プロレスラーの魅力のほぼ全てを身につけている猪木の凄さはよくわかっているつもりです。ロジャースに正義と強さを足したのが猪木かもです。ロジャース実はかなり強かった気もしますが。とにかく猪木の魅力は80年代馬場や鶴田を圧倒していました。
@@杉山英範
ロジャースのパイルドライバーや4の字は凄いですよ。
「お母さん助けて」と試合中叫んだのは大阪球場のジンキニスキー戦だったような…
大阪でのインター戦は同じだけど70年のドリー戦ですね。
海外の洗礼を受けた武藤が新日ではなく全日の社長に後々就任する事になるのはさもありなんですなあ( ・∀・)
日本のプロレスは馬場と猪木の対比の中で成長してきた。馬場のプロレスはあの巨体から繰り出す大技が魅力だ。一方で猪木はその軽快な動きや理にかなった技が魅力だった。やがて猪木のプロレスは必然的に佐山や前田を作る機会を作った。猪木がいなければ日本のプロレスは1980年過ぎに失速してしまっただろう。1970年初頭に日本プロレス時代の第一回タッグ選手権の猪木組優勝→倍賞美津子リング登壇→花束贈呈→婚約発表後に馬場がシャワーも浴びずに意気消沈して帰宅したのは有名な話だ。馬場が猪木を意識していないと言うのはポーズであって内心は猪木の魅力に馬場にないものを感じでいたのは明白だ。試合直前まで麻雀三昧の馬場と練習の虫だった猪木のプロレス観はそこからも垣間見える。それとアメリカでの政治力の話は別の話だ。また猪木の「燃える闘魂」としての大和魂は日本人の心を揺さぶった。猪木プロレスはアメリカとは異質のジャパニーズ・プロレスと言う新たなジャンルを作ったのだ。馬場プロレスがワルツなら、猪木プロレスは青春の主語、社会への反抗心、正にロックだった!!
猪木28歳、馬場33歳の昭和46年以降なら猪木有利な気がする。キャリアは同じ、東京プロレスなどの修羅場も踏んでいる。
互いに、ちょっと全盛期!ズレてますからね、、、5歳の年齢差~はおおきい。ホントのライバル関係ひかくするなら。せいぜいに3歳かな。藤波長州見たく。
素晴らしい考察
アリ戦はなあ!
馬場さんが大谷翔平にスライドする
まぁ「強さ」で競ったら馬場が猪木に
勝てる訳ゃ無いですよね🙂
それ逆でしよ😂😂😂
強さの猪木。旨さの馬場やで。
馬場猪木が同じようなビジネスをしても客は飽きてしまうし、当時のテレビ局は高度経済成長からバブルまでは、それ行けドンドンで収入も発言力も あっただろうから。お互いが水と油にならざるおえなかっただろう。馬場は巨人時代から客を呼ぶという事は金になるという事を身をもって理解していただろうし 猪木はまだ体も完成していない10代でレスラーになり 力道山の付き人で凄みのあるプロレスのビジネスを学んでいたわけだから 金を得るための思想自体が違っていたのかもね 野球的な大衆プロレスが馬場の思想で 格闘技としてのビジネスのプロレスが猪木の思想かもしれない 知らんけど
ドリーとの醜態晒しが馬場の終わりの始まり。
また、馬場と手の合うキニスキーなどの豪傑タイプが衰え始め、猪木と手の合うドリーがチャンピオンになったことも、拍車をかけました。
この時期放送されたタイガーマスクで、猪木がタイガーマスクに勝ったことで小学校では、猪木派が増えました。