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1972年に急行「みやざき」となった後も、寝台車は連結されていたと記憶しています。
JTBパブリッシングから発売中の「時刻表完全復刻版 1964年9月号(または10月号)」に、その511レ・512レの詳細なダイヤが掲載されてます。
動画内では、12系のみと紹介されていますが、この日南(みやざきから改称後)と共通運用だった鹿児島本線経由のかいもんは、S53.3月から特急運用を外れた20系の寝台車2両が、12系との併結改造工事を受けて連結されていたんですよそのあと、S61.11改正から20系から24系25型に寝台車が変わりましたけど、ドリームにちりん、ドリームつばめに昇格するまで連結が続きました
最近こっぺぱん様の記事が所々間違っていたり足りない部分が目立ちますので、もう少しお調べになってからアップされることを提言させて頂きます当方復刻ではないオリジナルの昭和39年5月号の時刻表を持っております【時刻・下り・主要駅】■門司港21:25→小倉22:00→大分01:29着・01:36発→佐伯03:10→延岡04:27→宮崎06:17→都城07:38→西鹿児島09:40●柳ヶ浦(23:55)→宮崎間は主要駅のみ停車。宗太郎越え(佐伯→延岡)はノンストップ。門司港→柳ヶ浦(通過は小波瀬・三毛門・天津のみ)。宮崎→西鹿児島は各駅に停車。【時刻・上り・主要駅】■西鹿児島19:15→都城21:37→宮崎22:55→延岡00:54→佐伯02:16→大分03:58着・04:10発→小倉08:28→門司港08:54●延岡→大分のみ主要駅停車も、宗太郎越えでは日向長井と重岡に停車。西鹿児島→延岡(通過は東都農のみ)。鶴崎(03:46)→門司港は各駅に停車■当時二等寝台は1両全区間連結■昭和39年5月号で寝台車の連結した普通列車は…●門司港22:34→長崎6:35 大村線経由411レ 2等寝台●大阪21:58→大社09:50・浜田12:32 福知山線経由717レ 1等寝台B(出雲市まで)・1等車(浜田まで)●小樽20:59→釧路09:38 421レ 2等寝台・1等車上記三列車のみ。このうち二番目の大社行は後の「山陰」ではなく、この後の39年10月改正で「急行しまね(昭和40年10月改正で「おき」に改称・更に「だいせん」に改称)」に格上げ後の「南紀→はやたま」の紀勢本線普通列車はこの時気動車で運行。寝台車は未連結「山陰」はこの時に817レ・818レで運行していた1等車連結列車がルーツになっている
ドリームにちりんは乗り通し客は少なかったですが、早朝延岡→宮崎空港はそこそこ利用がありました。
急行日南になっても普通列車時代に停まっていた日代と浅海井に停車してたんだよね
行商の方が乗られていた名残らしいです。
子どもの頃浅海井駅近くに住んでおり、1度だけこっそり深夜の浅海井駅に行くとバイクや軽トラが待機。荷物車から新聞・雑誌が降ろされると積み替えて町(というか村)に消えていきました。朝配達される新聞は夜行日南で運ばれているのか、と驚きました。浅海井駅は当時上浦町唯一の駅であり、道路事情も良くなかった当時、鉄道は町にとって人流、物流の要だったのですね。
ドリームにちりんは全車座席車で寝台車は有りませんでした。急行日南時代は12系+20系のちに24系寝台が連結されていました。
5:48 急行みやざき時代は旧客。12系客車が投入されたのは「日南」改称後の1978年改正で、その時も20系寝台客車併結。今回の動画はアラが目立つね。
寝台車付きの夜行鈍行と言えば以前にもからまつやはやたまなんてのもこのチャンネルで紹介されたけど結構国内でそう言うの走ってたんだなあ🤔しかしホント国鉄時代の列車って味があって好きなんだよなあ✨
寝台券を発売するために、普通列車にも名称がつけられたんですよね。
@tsuka5116 何かそんな話動画で解説されてましたね🙄
荷物や新聞輸送も兼ねてましたからね。全国紙は都会で印刷され、地方には列車で駅に下ろし、新聞配達店で仕訳の後各家庭に配達されていました。プロ野球の結果が途中までしか書いていないのはごく普通でした。
@TSUYOS185 そう言えば当時の夜行列車は貨物や郵便なんかの輸送も担っていたんでしたよね🤔しかしプロ野球の結果が途中までって地方のファンの人達はもどかしい思いしたかもですねf(^_^;)
@@寿野郎さま確かに野球の結果が途中までというのは寂しいですね。夕刊か次の日の朝刊に書いてあったようです。活字を使って夜9時の列車にのせるとなると輪転機で印刷する時間を考えれば途中までしか記載されないのも分かるような気がします。逆に上り列車は新聞を置くスペースは空っぽだったことから輸送も非効率的なものになっていました。
この普通列車が夜行急行日南そして特急ドリームにちりんへと出世するとは想像つかなかったかと思います。以前周遊券があった頃ドリームにちりんのグリーン個室に博多~宮崎空港全区間乗車したことがあります。
1978年当時でも旧型客車+荷物・郵便車でしたよ。
それ別の列車やろ😉
@@psychedelicraspberry517 多分『かいもん号』と、セットだったと思いますよ!1978年のダイヤ改正で『かいもん号』と共に、12系+20系に置き換えられていたと思います。しかし、この動画の通りなら『かいもん号』より先に、座席車のみ12系に替わったという事になりますね!
日南時代から何度も乗ったけど、ドリームにちりん時代に大分駅前のポプラに買い出しに行って、ほぼ貸切状態の車内で酒盛りしてたのが一番の思い出。
「からまつ」「山陰」とか乗ってみたかったな。
↑「はやたま」「ながさき」「山陰」なら乗ったオッサン。ま、18きっぱ~だったので座席💺だが😵
我輩は「山陰」「はやたま」に乗りたかった!因みに「ながさき」は、廃止当日、門司港から門司までの一駅だけ乗りました!(^_^;)
ドリームにちりんになると流石に早く着き過ぎるので大分で時間調整の長時間停車でした この時改札開放されてたのでコンビニ行ってましたよ
かつての宮崎県といえば、日向港〜京阪神や川崎方面の長距離フェリーが人気でしたな。日向港から宮崎港に変わっても、京阪神への航路は今でも盛況です。
私は1950年代の時刻表を持っていますが、511、512列車は1950年には既に運転されています。当時は門司港〜鹿児島間は、所要時間が14時間半かかっています。当時の鉄道旅行は大変だったと思います。😅
その時代だと車はもっと過酷
こんにちは。私は当時北九州地方に住んでいました。午後10時台から11時台にかけてまで門司港から出発する急行かいもん、日南、普通列車ながさきは戦前関門トンネルが無かった頃本州側から来た旅客を各方面へ運ぶ列車の名残かと思っていましたが、コッペパンさんの動画でいろいろな事が分かって良かったと思っています。1993年のダイヤ改正で急行かいもん、日南が特急列車化され寝台車両が無くなることが分かったので貯金を下ろして乗りに行きました。当時九州豪遊券という切符がありまして確か3日間有効でグリーン車乗り放題で22000円だったと記憶しています。かいもん、日南のB寝台も利用できました。日南で西鹿児島まで乗りとおす時はやはり嬉しくて目が冴えて大分着まで眠る事が出来ませんでした。宮崎を出発した後は普通列車になるのですが、確かに学生さんが多数乗っていました。B寝台の車窓からホームに居並ぶ学生さんたちを眺めていると変な優越感がありました。B寝台車両の次に連結している座席車両に車掌さんが乗っていて、ホームをじっと見ているからこっそりB寝台車両に乗り込もうとする鉄道ファン高校生をブロックしているのかなと思った記憶があります。今でも無理して乗って良かったと思う楽しい思い出です。
1970年代初頭,大阪駅で九州方面の夜行急行を眺めては多いに旅情を感じた.[雲仙]は🍴が連結されていた.
ワシが初めて「雲仙」の客だったのは'67年の事で、席はB3段(中)。東京発着にて食堂車連結。食堂クルーとして宇都宮照信氏も勤務したかも…「ドリームにちりん」は豪遊券を携えグリーンを奢り、3日間、「ドリームつばめ」と同様に車中泊。ビュッフェは営業せず、オーディオは休止。それでも夜行列車ならではのワクワク感は爆発的醍醐味だった。現在は思い出したように「復刻」しているらしい。諸々の事情で行く事は叶わなかったが、次の機会を待ちたいと思う。
九州旅行の際、急行「日南」の時代に一度乗車した。12系の座席車で、ボックスシートが来るのかと思いきや、急行のグリーン車並みのシートだったので、割と快適に過ごせた。西鹿児島から乗車したが、同じ車両に制服姿の女子高生2人組もいて、「あー、こんな夜遅い時間に下校するのか、ご苦労なこったな……」なんて思っていた。翌朝自分は小倉で降りたが、なんと彼女らはまだ乗っていて、ちょっとびっくりしてしまった。彼女らはどこへ、何をしに行くのか?あまり深い詮索はしたくないが、そのことは今でも記憶に残っている。
普通列車時代に寝台あったのは夜行急行仕立てるには需要が少なかったからでしょう時刻表復刻版1964年10月号見てますけど鹿児島本線には鹿児島↔名古屋の急行さつまがあってこれが鹿児島本線夜行で走ってますのでこっちに寝台があり、並行して走ってた鹿児島↔門司の夜行鈍行(111レ/112レ)は寝台ありません長崎本線は日豊本線と同じで夜行急行設定がないので夜行鈍行(411レ/412レ)に寝台あります
1970年だと…521ㇾ門司港21時35分発西鹿児島9時50分着の列車があります。522ㇾは西鹿児島19時1分発で門司港7時52分着が寝台付き普通夜行になってます。
宮崎県にある新田原基地の航空祭に行くために何回か乗りました。最初に乗ったのは「にちりん」時代で、20系3段寝台、次に乗ったときは24系2段になっていました。寝台車のシルエットが“浮いて”いたのを憶えています。その後は電車化され、やはり寝台車はいいなぁと思いました。
日豊本線は高千穂と富士でしか通った事が無かったです。下り富士で行くと朝は広島で明け、宮崎は夕方。大分までは快調に飛ばしますが、大分から先は自転車みたいなスピードだったような気がしました。途中で富士同士のすれ違いもありましたね。夜行では、頬予大橋氏のコメントにある、日豊本線、吉都線、肥薩線、鹿児島本線経由門司港行に、当時吉松駅の助役をやってた叔父と一緒に飯野から乗りました。直方機関庫に行きたくて、途中の原田で筑豊本線に乗り換えて行った事があります。結局、機関庫には行けず、入線してきたD60の写真を撮って、陸橋の上から眺めただけでした。その後7時半頃の天草で熊本まで行き、熊本からえびのに乗って帰ってきました。
JRになり、1988年からは日南号は門司港ではなく博多発着になりました。福岡が九州で圧倒的な都会となり、夜行需要が福岡志向に変化したこと、小倉から山陽新幹線乗り継ぎで博多に向かうとなるとJR西日本が絡むことから自社だけで輸送しようとしたもの。この改正でにちりん号のほとんどが博多発着になりました。
やけなんなんかちゃ?
逆に、北九州市が不便になりました!鹿児島へ行くのに、わざわざ博多で乗り換えないといけなくなりました!
門司港から乗れば楽々座れたのに、博多駅の列に並ぶ必要ができちゃいました
急行日南の下地になった列車ですね。急行では車両の運用上鹿児島線の列車と共用していたようです。西鹿児島まで走っても宮崎以南は普通列車だったのは需要の低さを物語ります。55年改正は急行にとっては悪夢でした。余った475系が大量に普通列車になりました。ドリームつばめ、にちりん化は車両老朽化より昼行車両との共通化と利益上げる事が一番でしょう。安価にゆっくり寝たい人の場を奪う形になりました。少ない需要ですが・・・
宮崎~鹿児島経由指宿は昭和40~50年代は朝に急行の錦江号がありましたね。新婚旅行をされる方のためにキロを2両連結したものまで。本来ならこの列車を急行のままとしても良かったような気はしますが、ビジネス、新婚旅行の需要を考えて別立てにし、かつ急行を2本出すほどの需要もない上に通勤通学時間帯にかかることから普通列車にしていたのでしょう。
新婚旅行の需要以外見込めないのがなんとも・・・そこにウチの親も入っていたようですがwww
私が時刻表を読み始めた頃は急行「日南」といえば大阪〜都城の夜行だった。夜行特急は、長崎・佐世保行の「あかつき」、熊本・鹿児島行は「明星」、「きりしま」、「月光」、宮崎・都城行は「彗星」でした。時刻表を眺めると目移りするくらい夜行列車が走ってました。久し振りに復刻版を引っ張り出してみます。
急行みやざきに格上げされてからも旧型客車の主に10系客車が使用されていた。12系座席車になったのは昭和53年3月からでこの時にはB寝台車が20系1000番台になっている。1000番台はスハフ12型から電源を供給されドアも自動ドアに変更になっていて他の20系とは連結できなくなった。この時には同時にかいもん上下の4号(当時は発車順に番号が与えられていた)も置き換わっている。
鈍行時代は18キッパーにとって【貴重な宗太郎越】の列車だったと予想🤔ちな、私は途中で同行する事になった、お歳を召した女性から譲ってもらった特急券と短距離の通常乗車券を購入して対応という大変な幸運を拾えた区間😋>宇佐神社のご利益⁉️w
鈍行時代の1970年代初期はまだ18きっぷは発売されてなかったと思います💦急行時代の宮崎西鹿児島間は普通列車でしたのでその区間は18きっぷで乗れましたね。
18きっぷが販売開始されたのが80年代、当時はすでに急行ですね。2000年代前半くらいまでは、宗太郎越えをする鈍行列車は5往復くらいあったと思います。
寝台付き普通列車は他に、長崎、山陰、南紀も有りましたね。
臼杵大分間約50分って今でもあんまり変わらないくらい速くない?
何かとおもったら急行「日南」やん特急化は格上げというより車両統一の合理化によるものだからミスリード感は否めないですね
ドリームにちりん廃止後の現在も、福岡ドームで大規模コンサートがある時は、かつてのドリームにちりんのダイヤに近い、博多発臨時ソニックが大分まで運転されます。
787系を使ってやって欲しいな。もっともあの車は特急型だからドリームにちりん的な感じになっちゃうけど
交通公社の全国時刻表 昭和41(1966)年11月号より当時の列車番号は521レ・522レですね。参考までに。下り521レ 2等寝台車連結門司港21:21門司21:28着 21:38発小倉21:46着 21:58発行橋22:42宇島23:15中津23:26善光寺23:45柳ヶ浦23:54宇佐0:03杵築0:35亀川0:57別府1:06東別府通過西大分1:19大分1:24着 1:30発鶴崎1:42幸崎1:57白杵2:21津久見2:35佐伯3:08重岡通過延岡4:23南延岡4:35日向市4:54高鍋5:30佐土原5:45宮崎5:59着 6:10発南宮崎6:15都城7:30西都城7:35霧島神宮8:26国分8:42隼人8:52加治木9:01鹿児島9:36西鹿児島9:49着上り522レ 2等寝台車連結西鹿児島19:00発鹿児島19:08加治木19:41隼人19:51国分19:56霧島神宮20:26西都城21:13都城21:31南宮崎22:40宮崎22:44着 22:51発佐土原23:11高鍋23:27日向市0:14南延岡0:42延岡0:49重岡1:39佐伯2:12津久見2:34白杵2:48幸崎通過鶴崎3:29大分3:43着 3:58発西大分4:03東別府4:14別府4:23亀川4:32杵築4:59宇佐5:40柳ヶ浦6:03善光寺6:09中津6:40宇島6:55行橋7:41小倉8:28着 8:32発門司8:41着 8:50発門司港8:58着
寝台付き普通列車は他に、長崎、山陰、南紀も有りました。
・1923年(大正12年)に重岡~市棚が開通したことで、日豊本線が吉松まで繋がりました。この時に門司640→小倉701・703→大分1104・1111→宮崎1803・1812→吉松2150・2205→鹿児島017と鹿児島505→吉松715・728→宮崎1048・1054→大分1749・1757→小倉2201・2205→門司2227を結んだ241・242列車が設定されました。(寝台車・食堂車の連結はありませんでした。)また、門司~鹿児島を結ぶ夜行普通列車が登場したのは1934年(昭和9年)頃で、当時の時刻表では、門司2155→鹿児島1134・鹿児島1810→門司833でした。(寝台車・食堂車の連結はありませんでした。)しかし1938年(昭和13年)頃からは2等寝台車の連結が開始されました。しかし戦争が激化した影響で、1943年(昭和18年)頃には2等寝台車の連結が廃止されました。その後長らくの間寝台車の連結はありませんでしたが、1963年(昭和38年)10月改正で、再び寝台車が連結されるようになりました。・1929年(昭和4年)頃と1934年(昭和9年)~1939年(昭和14年)頃には、日豊本線→吉都線→肥薩線→鹿児島本線経由で門司駅→門司駅を結んだ普通列車が存在しました。1940年(昭和15年)頃以降は、運行区間が都城→八代、都城→大阪、都城→門司港に変更されながらも1972年(昭和47年)3月改正まで設定され続けました。
九州でも北から南となると、結構時間かかるな!食事を補給するなら時間的に宮崎くらいしかなかったか?あるいは駅弁の立ち売り?
12系+20系ってこれには入ってなかったっけ?
入ってた。多分、「急行日南」で検索すると出てくる😉
博多・小倉~宮崎なら今でも需要はありそうだけどなJR九州が定期運転やりたくないだけじゃないの。
そりゃ、儲かる可能性ほぼほぼないからやりたがらないやろな😉
そのうちトラック運転士不足で新聞輸送の夜行列車が復活するかも。と言っても新聞自体が…
あと、新聞は、今は、例え全国紙でも、印刷は各地方だから、長距離を鉄道で運ぶ必要がない。印刷所から100km位ならトラック🚚有利😉
1:37博多熊本間って鹿児島本線じゃないでしょうか?
ん?JRで唯一毎日運転される夜行列車は、サンライズエクスプレスですよ!それにこの列車は『かいもん号』とセットで語らないと!対の列車ですから!もう一点加えると『急行日南』時代に、コースが門司港⇔西鹿児島から博多(小倉経由)⇔西鹿児島に変更されていますよ!
夜行列車の臨時運転の計画があれば早めに発表願います。少なくとも一ヶ月前売りに間に合うように願いたい。乗りたい人は多いと思います。
リバイバル列車は当時の編成で運行される事が殆ど無いので乗ることは無いですが、思い出の中のひとつとして残しておきたいと思います。
ドリームにちりんは783系での運行だったので合ってる。
はやたま!
夜行普通列車名で特急までなったのって南紀も
1コメです。いつも楽しく拝見しております。
もうヒトコメ!ゴウマルサンダイヤ改正では急行日南には気動車急行はなくて気動車急行は、しいばという愛称だった。本当に調べているのか?甚だ疑問だ。あまり適当な動画をあげないように!ちなみに気動車急行が仲間入りしたのはゴウサントウダイヤ改正で愛称統一してからです。
787系が使われたのはドリームつばめ。ドリームにちりんは783系ですよ。じゃないと、リバイバル運転で783系を使いませんって。
若い人はムーンライトなんか知らないと思うが
1972年に急行「みやざき」となった後も、寝台車は連結されていたと記憶しています。
JTBパブリッシングから発売中の
「時刻表完全復刻版 1964年9月号(または10月号)」に、
その511レ・512レの詳細なダイヤが掲載されてます。
動画内では、12系のみと紹介されていますが、
この日南(みやざきから改称後)と共通運用だった鹿児島本線経由のかいもんは、
S53.3月から特急運用を外れた20系の寝台車2両が、12系との併結改造工事を受けて連結されていたんですよ
そのあと、S61.11改正から20系から24系25型に寝台車が変わりましたけど、ドリームにちりん、ドリームつばめに昇格するまで連結が続きました
最近こっぺぱん様の記事が所々間違っていたり足りない部分が目立ちますので、もう少しお調べになってからアップされることを提言させて頂きます
当方復刻ではないオリジナルの昭和39年5月号の時刻表を持っております
【時刻・下り・主要駅】
■門司港21:25→小倉22:00→大分01:29着・01:36発→佐伯03:10→延岡04:27→宮崎06:17→都城07:38→西鹿児島09:40
●柳ヶ浦(23:55)→宮崎間は主要駅のみ停車。宗太郎越え(佐伯→延岡)はノンストップ。門司港→柳ヶ浦(通過は小波瀬・三毛門・天津のみ)。宮崎→西鹿児島は各駅に停車。
【時刻・上り・主要駅】
■西鹿児島19:15→都城21:37→宮崎22:55→延岡00:54→佐伯02:16→大分03:58着・04:10発→小倉08:28→門司港08:54
●延岡→大分のみ主要駅停車も、宗太郎越えでは日向長井と重岡に停車。西鹿児島→延岡(通過は東都農のみ)。鶴崎(03:46)→門司港は各駅に停車
■当時二等寝台は1両全区間連結
■昭和39年5月号で寝台車の連結した普通列車は…
●門司港22:34→長崎6:35 大村線経由411レ 2等寝台
●大阪21:58→大社09:50・浜田12:32 福知山線経由717レ 1等寝台B(出雲市まで)・1等車(浜田まで)
●小樽20:59→釧路09:38 421レ 2等寝台・1等車
上記三列車のみ。このうち二番目の大社行は後の「山陰」ではなく、この後の39年10月改正で「急行しまね(昭和40年10月改正で「おき」に改称・更に「だいせん」に改称)」に格上げ
後の「南紀→はやたま」の紀勢本線普通列車はこの時気動車で運行。寝台車は未連結
「山陰」はこの時に817レ・818レで運行していた1等車連結列車がルーツになっている
ドリームにちりんは乗り通し客は少なかったですが、早朝延岡→宮崎空港はそこそこ利用がありました。
急行日南になっても普通列車時代に停まっていた
日代と浅海井に停車してたんだよね
行商の方が乗られていた名残らしいです。
子どもの頃浅海井駅近くに住んでおり、1度だけこっそり深夜の浅海井駅に行くとバイクや軽トラが待機。荷物車から新聞・雑誌が降ろされると積み替えて町(というか村)に消えていきました。
朝配達される新聞は夜行日南で運ばれているのか、と驚きました。
浅海井駅は当時上浦町唯一の駅であり、道路事情も良くなかった当時、鉄道は町にとって人流、物流の要だったのですね。
ドリームにちりんは全車座席車で寝台車は有りませんでした。
急行日南時代は12系+20系のちに24系寝台が連結されていました。
5:48 急行みやざき時代は旧客。12系客車が投入されたのは「日南」改称後の1978年改正で、その時も20系寝台客車併結。
今回の動画はアラが目立つね。
寝台車付きの夜行鈍行と言えば以前にもからまつやはやたまなんてのもこのチャンネルで紹介されたけど結構国内でそう言うの走ってたんだなあ🤔
しかしホント国鉄時代の列車って味があって好きなんだよなあ✨
寝台券を発売するために、普通列車にも名称がつけられたんですよね。
@tsuka5116 何かそんな話動画で解説されてましたね🙄
荷物や新聞輸送も兼ねてましたからね。
全国紙は都会で印刷され、地方には列車で駅に下ろし、新聞配達店で仕訳の後各家庭に配達されていました。
プロ野球の結果が途中までしか書いていないのはごく普通でした。
@TSUYOS185 そう言えば当時の夜行列車は貨物や郵便なんかの輸送も担っていたんでしたよね🤔
しかしプロ野球の結果が途中までって地方のファンの人達はもどかしい思いしたかもですねf(^_^;)
@@寿野郎さま
確かに野球の結果が途中までというのは寂しいですね。夕刊か次の日の朝刊に書いてあったようです。
活字を使って夜9時の列車にのせるとなると輪転機で印刷する時間を考えれば途中までしか記載されないのも分かるような気がします。
逆に上り列車は新聞を置くスペースは空っぽだったことから輸送も非効率的なものになっていました。
この普通列車が夜行急行日南そして特急ドリームにちりんへと出世するとは想像つかなかったかと思います。以前周遊券があった頃ドリームにちりんのグリーン個室に博多~宮崎空港全区間乗車したことがあります。
1978年当時でも旧型客車+荷物・郵便車でしたよ。
それ別の列車やろ😉
@@psychedelicraspberry517 多分『かいもん号』と、セットだったと思いますよ!1978年のダイヤ改正で『かいもん号』と共に、12系+20系に置き換えられていたと思います。
しかし、この動画の通りなら『かいもん号』より先に、座席車のみ12系に替わったという事になりますね!
日南時代から何度も乗ったけど、ドリームにちりん時代に大分駅前のポプラに買い出しに行って、ほぼ貸切状態の車内で酒盛りしてたのが一番の思い出。
「からまつ」「山陰」とか乗ってみたかったな。
↑「はやたま」「ながさき」「山陰」なら乗ったオッサン。ま、18きっぱ~だったので座席💺だが😵
我輩は「山陰」「はやたま」に乗りたかった!
因みに「ながさき」は、廃止当日、門司港から門司までの一駅だけ乗りました!(^_^;)
ドリームにちりんになると流石に早く着き過ぎるので大分で時間調整の長時間停車でした この時改札開放されてたのでコンビニ行ってましたよ
かつての宮崎県といえば、日向港〜京阪神や川崎方面の長距離フェリーが人気でしたな。日向港から宮崎港に変わっても、京阪神への航路は今でも盛況です。
私は1950年代の時刻表を持っていますが、511、512列車は1950年には既に運転されています。当時は門司港〜鹿児島間は、所要時間が14時間半かかっています。当時の鉄道旅行は大変だったと思います。😅
その時代だと車はもっと過酷
こんにちは。私は当時北九州地方に住んでいました。午後10時台から11時台にかけてまで門司港から出発する急行かいもん、日南、普通列車ながさきは戦前関門トンネルが無かった頃本州側から来た旅客を各方面へ運ぶ列車の名残かと思っていましたが、コッペパンさんの動画でいろいろな事が分かって良かったと思っています。
1993年のダイヤ改正で急行かいもん、日南が特急列車化され寝台車両が無くなることが分かったので貯金を下ろして乗りに行きました。当時九州豪遊券という切符がありまして確か3日間有効でグリーン車乗り放題で22000円だったと記憶しています。かいもん、日南のB寝台も利用できました。
日南で西鹿児島まで乗りとおす時はやはり嬉しくて目が冴えて大分着まで眠る事が出来ませんでした。宮崎を出発した後は普通列車になるのですが、確かに学生さんが多数乗っていました。
B寝台の車窓からホームに居並ぶ学生さんたちを眺めていると変な優越感がありました。B寝台車両の次に連結している座席車両に車掌さんが乗っていて、ホームをじっと見ているからこっそりB寝台車両に乗り込もうとする鉄道ファン高校生をブロックしているのかなと思った記憶があります。
今でも無理して乗って良かったと思う楽しい思い出です。
1970年代初頭,大阪駅で九州方面の夜行急行を眺めては多いに旅情を感じた.[雲仙]は🍴が連結されていた.
ワシが初めて「雲仙」の客だったのは'67年の事で、席はB3段(中)。
東京発着にて食堂車連結。食堂クルーとして宇都宮照信氏も勤務したかも…
「ドリームにちりん」は豪遊券を携えグリーンを奢り、3日間、「ドリームつばめ」と同様に車中泊。
ビュッフェは営業せず、オーディオは休止。
それでも夜行列車ならではのワクワク感は爆発的醍醐味だった。
現在は思い出したように「復刻」しているらしい。諸々の事情で行く事は叶わなかったが、次の機会を待ちたいと思う。
九州旅行の際、急行「日南」の時代に一度乗車した。
12系の座席車で、ボックスシートが来るのかと思いきや、急行のグリーン車並みのシートだったので、割と快適に過ごせた。
西鹿児島から乗車したが、同じ車両に制服姿の女子高生2人組もいて、「あー、こんな夜遅い時間に下校するのか、ご苦労なこったな……」なんて思っていた。
翌朝自分は小倉で降りたが、なんと彼女らはまだ乗っていて、ちょっとびっくりしてしまった。
彼女らはどこへ、何をしに行くのか?
あまり深い詮索はしたくないが、そのことは今でも記憶に残っている。
普通列車時代に寝台あったのは夜行急行仕立てるには需要が少なかったからでしょう
時刻表復刻版1964年10月号見てますけど鹿児島本線には鹿児島↔名古屋の急行さつまがあって
これが鹿児島本線夜行で走ってますのでこっちに寝台があり、並行して走ってた鹿児島↔門司の
夜行鈍行(111レ/112レ)は寝台ありません
長崎本線は日豊本線と同じで夜行急行設定がないので夜行鈍行(411レ/412レ)に寝台あります
1970年だと…521ㇾ門司港21時35分発西鹿児島9時50分着の列車があります。522ㇾは西鹿児島19時1分発で門司港7時52分着が寝台付き普通夜行になってます。
宮崎県にある新田原基地の航空祭に行くために何回か乗りました。最初に乗ったのは「にちりん」時代で、20系3段寝台、次に乗ったときは24系2段になっていました。寝台車のシルエットが“浮いて”いたのを憶えています。その後は電車化され、やはり寝台車はいいなぁと思いました。
日豊本線は高千穂と富士でしか通った事が無かったです。下り富士で行くと朝は広島で明け、宮崎は夕方。大分までは快調に飛ばしますが、大分から先は自転車みたいなスピードだったような気がしました。途中で富士同士のすれ違いもありましたね。
夜行では、頬予大橋氏のコメントにある、日豊本線、吉都線、肥薩線、鹿児島本線経由門司港行に、当時吉松駅の助役をやってた叔父と一緒に飯野から乗りました。直方機関庫に行きたくて、途中の原田で筑豊本線に乗り換えて行った事があります。結局、機関庫には行けず、入線してきたD60の写真を撮って、陸橋の上から眺めただけでした。その後7時半頃の天草で熊本まで行き、熊本からえびのに乗って帰ってきました。
JRになり、1988年からは日南号は門司港ではなく博多発着になりました。
福岡が九州で圧倒的な都会となり、夜行需要が福岡志向に変化したこと、小倉から山陽新幹線乗り継ぎで博多に向かうとなるとJR西日本が絡むことから自社だけで輸送しようとしたもの。この改正でにちりん号のほとんどが博多発着になりました。
やけなんなんかちゃ?
逆に、北九州市が不便になりました!鹿児島へ行くのに、わざわざ博多で乗り換えないといけなくなりました!
門司港から乗れば楽々座れたのに、博多駅の列に並ぶ必要ができちゃいました
急行日南の下地になった列車ですね。
急行では車両の運用上鹿児島線の列車と共用していたようです。
西鹿児島まで走っても宮崎以南は普通列車だったのは需要の低さを物語ります。
55年改正は急行にとっては悪夢でした。余った475系が大量に普通列車になりました。
ドリームつばめ、にちりん化は車両老朽化より昼行車両との共通化と利益上げる事が一番でしょう。
安価にゆっくり寝たい人の場を奪う形になりました。少ない需要ですが・・・
宮崎~鹿児島経由指宿は昭和40~50年代は朝に急行の錦江号がありましたね。新婚旅行をされる方のためにキロを2両連結したものまで。
本来ならこの列車を急行のままとしても良かったような気はしますが、ビジネス、新婚旅行の需要を考えて別立てにし、かつ急行を2本出すほどの需要もない上に通勤通学時間帯にかかることから普通列車にしていたのでしょう。
新婚旅行の需要以外見込めないのがなんとも・・・
そこにウチの親も入っていたようですがwww
私が時刻表を読み始めた頃は急行「日南」といえば大阪〜都城の夜行だった。夜行特急は、長崎・佐世保行の「あかつき」、熊本・鹿児島行は「明星」、「きりしま」、「月光」、宮崎・都城行は「彗星」でした。時刻表を眺めると目移りするくらい夜行列車が走ってました。久し振りに復刻版を引っ張り出してみます。
急行みやざきに格上げされてからも旧型客車の主に10系客車が使用されていた。12系座席車になったのは昭和53年3月からでこの時にはB寝台車が20系1000番台になっている。1000番台はスハフ12型から電源を供給されドアも自動ドアに変更になっていて他の20系とは連結できなくなった。この時には同時にかいもん上下の4号(当時は発車順に番号が与えられていた)も置き換わっている。
鈍行時代は18キッパーにとって【貴重な宗太郎越】の列車だったと予想🤔
ちな、私は途中で同行する事になった、お歳を召した女性から譲ってもらった特急券と短距離の通常乗車券を購入して対応という大変な幸運を拾えた区間😋>宇佐神社のご利益⁉️w
鈍行時代の1970年代初期はまだ18きっぷは発売されてなかったと思います💦
急行時代の宮崎西鹿児島間は普通列車でしたのでその区間は18きっぷで乗れましたね。
18きっぷが販売開始されたのが80年代、当時はすでに急行ですね。
2000年代前半くらいまでは、宗太郎越えをする鈍行列車は5往復くらいあったと思います。
寝台付き普通列車は他に、長崎、山陰、南紀も有りましたね。
臼杵大分間約50分って今でもあんまり変わらないくらい速くない?
何かとおもったら急行「日南」やん
特急化は格上げというより車両統一の合理化によるものだからミスリード感は否めないですね
ドリームにちりん廃止後の現在も、福岡ドームで大規模コンサートがある時は、かつてのドリームにちりんのダイヤに近い、博多発臨時ソニックが大分まで運転されます。
787系を使ってやって欲しいな。
もっともあの車は特急型だからドリームにちりん的な感じになっちゃうけど
交通公社の全国時刻表 昭和41(1966)年11月号より
当時の列車番号は521レ・522レですね。参考までに。
下り521レ 2等寝台車連結
門司港21:21
門司21:28着 21:38発
小倉21:46着 21:58発
行橋22:42
宇島23:15
中津23:26
善光寺23:45
柳ヶ浦23:54
宇佐0:03
杵築0:35
亀川0:57
別府1:06
東別府通過
西大分1:19
大分1:24着 1:30発
鶴崎1:42
幸崎1:57
白杵2:21
津久見2:35
佐伯3:08
重岡通過
延岡4:23
南延岡4:35
日向市4:54
高鍋5:30
佐土原5:45
宮崎5:59着 6:10発
南宮崎6:15
都城7:30
西都城7:35
霧島神宮8:26
国分8:42
隼人8:52
加治木9:01
鹿児島9:36
西鹿児島9:49着
上り522レ 2等寝台車連結
西鹿児島19:00発
鹿児島19:08
加治木19:41
隼人19:51
国分19:56
霧島神宮20:26
西都城21:13
都城21:31
南宮崎22:40
宮崎22:44着 22:51発
佐土原23:11
高鍋23:27
日向市0:14
南延岡0:42
延岡0:49
重岡1:39
佐伯2:12
津久見2:34
白杵2:48
幸崎通過
鶴崎3:29
大分3:43着 3:58発
西大分4:03
東別府4:14
別府4:23
亀川4:32
杵築4:59
宇佐5:40
柳ヶ浦6:03
善光寺6:09
中津6:40
宇島6:55
行橋7:41
小倉8:28着 8:32発
門司8:41着 8:50発
門司港8:58着
寝台付き普通列車は他に、長崎、山陰、
南紀も有りました。
・1923年(大正12年)に重岡~市棚が開通したことで、日豊本線が吉松まで繋がりました。この時に門司640→小倉701・703→大分1104・1111→宮崎1803・1812→吉松2150・2205→鹿児島017と鹿児島505→吉松715・728→宮崎1048・1054→大分1749・1757→小倉2201・2205→門司2227を結んだ241・242列車が設定されました。(寝台車・食堂車の連結はありませんでした。)また、門司~鹿児島を結ぶ夜行普通列車が登場したのは1934年(昭和9年)頃で、当時の時刻表では、門司2155→鹿児島1134・鹿児島1810→門司833でした。(寝台車・食堂車の連結はありませんでした。)しかし1938年(昭和13年)頃からは2等寝台車の連結が開始されました。しかし戦争が激化した影響で、1943年(昭和18年)頃には2等寝台車の連結が廃止されました。その後長らくの間寝台車の連結はありませんでしたが、1963年(昭和38年)10月改正で、再び寝台車が連結されるようになりました。
・1929年(昭和4年)頃と1934年(昭和9年)~1939年(昭和14年)頃には、日豊本線→吉都線→肥薩線→鹿児島本線経由で門司駅→門司駅を結んだ普通列車が存在しました。1940年(昭和15年)頃以降は、運行区間が都城→八代、都城→大阪、都城→門司港に変更されながらも1972年(昭和47年)3月改正まで設定され続けました。
九州でも北から南となると、結構時間かかるな!
食事を補給するなら時間的に宮崎くらいしかなかったか?
あるいは駅弁の立ち売り?
12系+20系ってこれには入ってなかったっけ?
入ってた。多分、「急行日南」で検索すると出てくる😉
博多・小倉~宮崎なら今でも需要はありそうだけどな
JR九州が定期運転やりたくないだけじゃないの。
そりゃ、儲かる可能性ほぼほぼないからやりたがらないやろな😉
そのうちトラック運転士不足で新聞輸送の夜行列車が復活するかも。と言っても新聞自体が…
あと、新聞は、今は、例え全国紙でも、印刷は各地方だから、長距離を鉄道で運ぶ必要がない。印刷所から100km位ならトラック🚚有利😉
1:37博多熊本間って鹿児島本線じゃないでしょうか?
ん?JRで唯一毎日運転される夜行列車は、サンライズエクスプレスですよ!
それにこの列車は『かいもん号』とセットで語らないと!対の列車ですから!
もう一点加えると『急行日南』時代に、コースが門司港⇔西鹿児島から博多(小倉経由)⇔西鹿児島に変更されていますよ!
夜行列車の臨時運転の計画があれば早めに発表願います。少なくとも一ヶ月前売りに間に合うように願いたい。乗りたい人は多いと思います。
リバイバル列車は当時の編成で運行される事が殆ど無いので乗ることは無いですが、思い出の中のひとつとして残しておきたいと思います。
ドリームにちりんは783系での運行だったので合ってる。
はやたま!
夜行普通列車名で特急までなったのって南紀も
1コメです。いつも楽しく拝見しております。
もうヒトコメ!ゴウマルサンダイヤ改正では急行日南には気動車急行はなくて気動車急行は、しいばという愛称だった。本当に調べているのか?甚だ疑問だ。あまり適当な動画をあげないように!ちなみに気動車急行が仲間入りしたのはゴウサントウダイヤ改正で愛称統一してからです。
787系が使われたのはドリームつばめ。
ドリームにちりんは783系ですよ。
じゃないと、リバイバル運転で783系を使いませんって。
若い人はムーンライトなんか知らないと思うが