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20年前、木次線から芸備線に乗り換えで、備後落合駅で1時間半ほど過ごした。木次線が折り返しででていくと、駅にいたのは、自分1人、構内に停まっている車両もない。駅前は何も無く、本当に手持ち無沙汰だった。後になって、昭和の中頃の同駅の写真を何枚か見て、驚いた。駅には乗り換え客で溢れかえり、駅員も何人もいて、駅弁売りが行き交う一方で立ち食いの蕎麦屋まである。構内には、2.3台の蒸気機関車が出番を待っているのか、煙を吐いて待機している…まさに、地方の鉄道の拠点たる賑わいが伝わってくるようだった。これが、あの静寂に包まれたあの駅と同じ駅…?と不思議な思いがすると共に、鉄道の栄枯盛衰を思い知らされた。
1940年頃の芸備線では、大阪→備後十日市や広島→姫路や広島→大阪などの長距離普通列車が設定されていました。又長距離普通列車の多くで車内販売が行われていました。(車内販売が行われていたのは、新見~東城のあたりだったようです。※列車によっては、手前の矢神や野馳でサービスが終わる列車もありました。)又戦後にも大阪~三次の普通列車が1960年頃まで、広島~姫路の普通列車が1965年頃まで設定されていました。1960年頃の臨時準急ちどり号は、大社駅まで乗り入れていた時があったようです。1961年の夏に岡山~道後山で臨時準急帝釈号が設定されました。これが好評だったため、翌年に広島駅まで延長の上で準急たいしゃく号として定期化されました。1972年~1973年頃には、帰省ラッシュのために臨時急行みよし号・快速みよし号が広島~三次で設定されました。1983年頃には三次~大野浦で急行・快速潮干狩観光号・1986年には三次~宮島口で急行宮島観光号がそれぞれ設定されました。1985年~1988年頃には広島や三次~波子で快速波子ビーチ号が設定されました。1988年~1995年には広島~浜田で急行江の川号が設定されました。1990年頃~2001年頃には、急行・快速(ナイスホリデー)あやめ祭ハイキング号が広島~備後矢野で設定されました。1940年頃には道後山駅に国鉄の家が開業したことで、広島~道後山で夜行スキー列車の白雪號号が運行されたようです。しかし戦争の影響で長くは運転されませんでした。戦後しばらくの間はスキー列車の設定はありませんでしたが、昭和30年代の後半頃から広島~三井野原を結ぶスキー快速列車(銀嶺号)が登場し、1965年頃には福山駅発着・福塩線経由の三井野原駅行の夜行スキー列車も設定されるようになりました。1967年には広島~米子で急行ちどり銀嶺号が運行されました。1968年には銀嶺号から三井野原銀嶺号という愛称に代わりました。1969年には従来の三井野原銀嶺号に加えて、三原・徳山・呉~米子で大山銀嶺号が運行されました。又この年から福山駅発着の列車にも三井野原銀嶺号の愛称が付きました。しかし1970年には徳山駅発着を除いて大山銀嶺号は廃止されました。1971年には大山銀嶺号が廃止され、代わりに徳山駅発着の三井野原銀嶺号が新たに設定されました。又日によっては福山駅発着の編成と併結する時もありました。1972年には従来の広島・福山に加えて忠海・小郡(徳山駅から延長)が追加され、又広島~道後山で急行道後山銀嶺号(定期の急行列車と併結していました。)が新たに設定されました。この時が芸備線のスキー列車の最盛期だったようです。1973年には道後山銀嶺号が廃止され、代わりに急行三井野原銀嶺号(一部区間で定期の急行列車と併結していました。)が設定されました。又この年の福山駅発着は設定されませんでした。(府中発・三次着のみでした。)1974年には福山駅発着が復活した一方で、忠海駅発着が廃止されました。1975年には下関~米子で急行ヤング大山号が設定されました。又この頃になると福山駅発着の編成と広島方面の編成の併結がなくなりました。そしてこの年から道後山山麓に向かうバスの発着地が道後山駅から備後落合駅に変更になったことで道後山駅に停車する急行列車はなくなり、代わりに地元から要望のあった小奴可駅に停車するようになりました。1976年には広島→三井野原に向かう急行三井野原銀嶺号が廃止されました。1980年頃には三井野原銀嶺号から三井野原スキー号に変更されました。その後しばらく大きな変化ありませんでしたが(1986年には急行三井野原スキー号の急行区間が広島~三次になったことがありました。←併結相手が急行みよし号だったためです。)、1988年には広島駅発着の愛称が三井野原スキー号から三井野原・道後山銀嶺号に変わりました。又広島駅発の急行三井野原・道後山銀嶺号も復活しました。1989年には三井野原・道後山銀嶺号から三井野原銀嶺号に再び変わり、又広島~備後落合で急行ネコヤマスノーエキスプレス号が運行するようになりました。そして小郡駅発着が廃止になりました。1992年頃には福山駅着の三井野原スキー号が府中駅着に短縮され、1993年には福山発着の三井野原スキー号自体が廃止されました。1995年頃には広島駅発着の三井野原銀嶺号も廃止され、急行ネコヤマスノーエキスプレス号のみになりました。そして1998年頃には急行ネコヤマスノーエキスプレス号も廃止になり、芸備線で運行されるスキー列車は完全に廃止されました。
「おでんうどん」て語呂と音律がいいなw
広島市内で芸備線を利用していた50前半のおじさんです。小学校の頃(40年少し前)、三次以北は本数は少ないけれど、乗り継ぎにはそんなに不便ではありませんでした。朝早ければ新見まで行けましたし、その日に帰ることもできました。しかし20年位前にたまたま時刻表を見てびっくりしました。三次以北で本数が少し減っていたのは仕方なかったのですが、乗り継ぎが非常に難しくなっていました(2時間待ちとかありました)。広島から三次、三次から備後落合、備後落合から新見、完全に独立しているようで三次以北から広島に行くには片道しか利用できないダイヤだったと思いました(往復だとその日に帰れない)。まるで人を乗せたくないようなダイヤでした。だから、言い方悪いかもしれませんが、昔からJRは廃止の予定(しようとしていた)だったのではないかと思っています。
10月24日に、倉敷駅から伯備線経由で芸備線を乗り通しましたが、東城から備後落合間は8人位でした。
昔の時刻表を見ると、多くの優等列車が走っていますね。備後落合駅がホームに蕎麦屋さんがあったなど、大きな駅舎だったのがうなずけます。ずっと残って欲しいです。
それを言うと、だったら金を出すか運営を引き継げという話になるよ。明らかに沿線の過疎化が深刻だし、運営が成り立ってない。せっかく台風で流されたのに、JR西日本がわざわざ復旧なんてするから・・・
初めて芸備線に乗ったのは昭和50年代、三次と広島の間往復。往路は急行「たいしゃく」、復路は50系客車の普通列車だった。三次と塩町の間は、府中発三次ゆき福塩線普通列車に乗って踏破。備後落合と塩町・三次間は、木次線急行「ちどり」に乗車したとき踏破。現在話題の備後落合−備中神代間は、結局未乗区間のままである。
当時の東広島駅と現在の東広島は別物ですね。JR東海の身延線、飯田線は、本数が少なくても、全線直通や乗り継ぎして全線を乗り通す事が出来ます。姫新線、芸備線を使って姫路から広島まで乗り継ぎするのは、困難です。
本数が少なくても利用しやすい時間のダイヤにすれば乗る人が増えると思います。他線への乗り継ぎも良くすれば、三江線の廃止もなかったでしょう。
広島↔東城は芸備線よりも備北交通が便利かもしれない。
8:26の光景は凄まじい😣
伯備線のやくもは大阪とかから新幹線で来た人も利用するからそれなりの乗客を見込めるけど、木次線経由で広島と結んでも大阪方面から来た人は絶対使わないし、それだけ乗客が見込めないからなあ。投資意欲が最初からないのも仕方がない。
そもそも、この路線が超赤字の理由は朝5時に新見始発備後落合行きの快速だろ朝5時に列車を運転するから誰も乗らないから超赤字なんだろ朝5時の列車の運行をやめて7時代に出る東城行きを備後落合行きに設定した方が利用者が増えると思うのだが朝5時の次は13時の時点で誰も利用しないわ
広島~三次間を電化に広島~志和口間を複線化してほしいです、そろそろ
下深川〜三次は輸送密度、営業係数共に1000弱だからなぁ※広島近郊でピーク時1000人超えてなければ可部線と共に国鉄時代でも切り離し対象だったかと
子供いない持たない希望しない人は暇でやることないからみんな東京千葉埼玉神奈川に移住します。地方(大阪城エリア名古屋エリア含む)から移住してきた人達に性病ばらまかれて非常に迷惑しております。身勝手すぎます。仕事止めて地元帰ってください。
地方で受け入れる仕事があればいいが
20年前、木次線から芸備線に乗り換えで、備後落合駅で1時間半ほど過ごした。木次線が折り返しででていくと、駅にいたのは、自分1人、構内に停まっている車両もない。駅前は何も無く、本当に手持ち無沙汰だった。後になって、昭和の中頃の同駅の写真を何枚か見て、驚いた。駅には乗り換え客で溢れかえり、駅員も何人もいて、駅弁売りが行き交う一方で立ち食いの蕎麦屋まである。構内には、2.3台の蒸気機関車が出番を待っているのか、煙を吐いて待機している…まさに、地方の鉄道の拠点たる賑わいが伝わってくるようだった。これが、あの静寂に包まれたあの駅と同じ駅…?と不思議な思いがすると共に、鉄道の栄枯盛衰を思い知らされた。
1940年頃の芸備線では、大阪→備後十日市や広島→姫路や広島→大阪などの長距離普通列車が設定されていました。又長距離普通列車の多くで車内販売が行われていました。(車内販売が行われていたのは、新見~東城のあたりだったようです。※列車によっては、手前の矢神や野馳でサービスが終わる列車もありました。)又戦後にも大阪~三次の普通列車が1960年頃まで、広島~姫路の普通列車が1965年頃まで設定されていました。
1960年頃の臨時準急ちどり号は、大社駅まで乗り入れていた時があったようです。1961年の夏に岡山~道後山で臨時準急帝釈号が設定されました。これが好評だったため、翌年に広島駅まで延長の上で準急たいしゃく号として定期化されました。1972年~1973年頃には、帰省ラッシュのために臨時急行みよし号・快速みよし号が広島~三次で設定されました。1983年頃には三次~大野浦で急行・快速潮干狩観光号・1986年には三次~宮島口で急行宮島観光号がそれぞれ設定されました。1985年~1988年頃には広島や三次~波子で快速波子ビーチ号が設定されました。1988年~1995年には広島~浜田で急行江の川号が設定されました。1990年頃~2001年頃には、急行・快速(ナイスホリデー)あやめ祭ハイキング号が広島~備後矢野で設定されました。
1940年頃には道後山駅に国鉄の家が開業したことで、広島~道後山で夜行スキー列車の白雪號号が運行されたようです。しかし戦争の影響で長くは運転されませんでした。戦後しばらくの間はスキー列車の設定はありませんでしたが、昭和30年代の後半頃から広島~三井野原を結ぶスキー快速列車(銀嶺号)が登場し、1965年頃には福山駅発着・福塩線経由の三井野原駅行の夜行スキー列車も設定されるようになりました。1967年には広島~米子で急行ちどり銀嶺号が運行されました。1968年には銀嶺号から三井野原銀嶺号という愛称に代わりました。1969年には従来の三井野原銀嶺号に加えて、三原・徳山・呉~米子で大山銀嶺号が運行されました。又この年から福山駅発着の列車にも三井野原銀嶺号の愛称が付きました。しかし1970年には徳山駅発着を除いて大山銀嶺号は廃止されました。1971年には大山銀嶺号が廃止され、代わりに徳山駅発着の三井野原銀嶺号が新たに設定されました。又日によっては福山駅発着の編成と併結する時もありました。1972年には従来の広島・福山に加えて忠海・小郡(徳山駅から延長)が追加され、又広島~道後山で急行道後山銀嶺号(定期の急行列車と併結していました。)が新たに設定されました。この時が芸備線のスキー列車の最盛期だったようです。1973年には道後山銀嶺号が廃止され、代わりに急行三井野原銀嶺号(一部区間で定期の急行列車と併結していました。)が設定されました。又この年の福山駅発着は設定されませんでした。(府中発・三次着のみでした。)1974年には福山駅発着が復活した一方で、忠海駅発着が廃止されました。1975年には下関~米子で急行ヤング大山号が設定されました。又この頃になると福山駅発着の編成と広島方面の編成の併結がなくなりました。そしてこの年から道後山山麓に向かうバスの発着地が道後山駅から備後落合駅に変更になったことで道後山駅に停車する急行列車はなくなり、代わりに地元から要望のあった小奴可駅に停車するようになりました。1976年には広島→三井野原に向かう急行三井野原銀嶺号が廃止されました。1980年頃には三井野原銀嶺号から三井野原スキー号に変更されました。その後しばらく大きな変化ありませんでしたが(1986年には急行三井野原スキー号の急行区間が広島~三次になったことがありました。←併結相手が急行みよし号だったためです。)、1988年には広島駅発着の愛称が三井野原スキー号から三井野原・道後山銀嶺号に変わりました。又広島駅発の急行三井野原・道後山銀嶺号も復活しました。1989年には三井野原・道後山銀嶺号から三井野原銀嶺号に再び変わり、又広島~備後落合で急行ネコヤマスノーエキスプレス号が運行するようになりました。そして小郡駅発着が廃止になりました。1992年頃には福山駅着の三井野原スキー号が府中駅着に短縮され、1993年には福山発着の三井野原スキー号自体が廃止されました。1995年頃には広島駅発着の三井野原銀嶺号も廃止され、急行ネコヤマスノーエキスプレス号のみになりました。そして1998年頃には急行ネコヤマスノーエキスプレス号も廃止になり、芸備線で運行されるスキー列車は完全に廃止されました。
「おでんうどん」て語呂と音律がいいなw
広島市内で芸備線を利用していた50前半のおじさんです。小学校の頃(40年少し前)、三次以北は本数は少ないけれど、乗り継ぎにはそんなに不便ではありませんでした。朝早ければ新見まで行けましたし、その日に帰ることもできました。しかし20年位前にたまたま時刻表を見てびっくりしました。三次以北で本数が少し減っていたのは仕方なかったのですが、乗り継ぎが非常に難しくなっていました(2時間待ちとかありました)。広島から三次、三次から備後落合、備後落合から新見、完全に独立しているようで三次以北から広島に行くには片道しか利用できないダイヤだったと思いました(往復だとその日に帰れない)。まるで人を乗せたくないようなダイヤでした。だから、言い方悪いかもしれませんが、昔からJRは廃止の予定(しようとしていた)だったのではないかと思っています。
10月24日に、倉敷駅から伯備線経由で芸備線を乗り通しましたが、東城から備後落合間は8人位でした。
昔の時刻表を見ると、多くの優等列車が走っていますね。備後落合駅がホームに蕎麦屋さんがあったなど、大きな駅舎だったのがうなずけます。ずっと残って欲しいです。
それを言うと、だったら金を出すか運営を引き継げという話になるよ。
明らかに沿線の過疎化が深刻だし、運営が成り立ってない。せっかく台風で流されたのに、JR西日本がわざわざ復旧なんてするから・・・
初めて芸備線に乗ったのは昭和50年代、三次と広島の間往復。
往路は急行「たいしゃく」、復路は50系客車の普通列車だった。
三次と塩町の間は、府中発三次ゆき福塩線普通列車に乗って踏破。
備後落合と塩町・三次間は、木次線急行「ちどり」に乗車したとき踏破。
現在話題の備後落合−備中神代間は、結局未乗区間のままである。
当時の東広島駅と現在の東広島は別物ですね。
JR東海の身延線、飯田線は、本数が少なくて
も、全線直通や乗り継ぎして全線を乗り通す
事が出来ます。
姫新線、芸備線を使って姫路から広島まで乗
り継ぎするのは、困難です。
本数が少なくても利用しやすい時間のダ
イヤにすれば乗る人が増えると思います。
他線への乗り継ぎも良くすれば、三江線
の廃止もなかったでしょう。
広島↔東城は芸備線よりも備北交通が便利かもしれない。
8:26の光景は凄まじい😣
伯備線のやくもは大阪とかから新幹線で来た人も利用するからそれなりの乗客を見込めるけど、木次線経由で広島と結んでも大阪方面から来た人は絶対使わないし、それだけ乗客が見込めないからなあ。投資意欲が最初からないのも仕方がない。
そもそも、この路線が超赤字の理由は朝5時に新見始発備後落合行きの快速だろ
朝5時に列車を運転するから誰も乗らないから超赤字なんだろ
朝5時の列車の運行をやめて
7時代に出る東城行きを備後落合行きに設定した方が利用者が増えると思うのだが
朝5時の次は13時の時点で誰も利用しないわ
広島~三次間を電化に広島~志和口間を複線化してほしいです、そろそろ
下深川〜三次は輸送密度、営業係数共に1000弱だからなぁ
※広島近郊でピーク時1000人超えてなければ可部線と共に国鉄時代でも切り離し対象だったかと
子供いない持たない希望しない人は暇でやることないからみんな東京千葉埼玉神奈川に移住します。地方(大阪城エリア名古屋エリア含む)から移住してきた人達に性病ばらまかれて非常に迷惑しております。身勝手すぎます。仕事止めて地元帰ってください。
地方で受け入れる仕事があればいいが